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『知らない世界で、前世の知識が武器になる』 ~剣と銃で乱世を生き抜く転生領主の成り上がり~  作者: 相田 ソウ
第二篇 乱世に蒔く種

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第九話 商人上がりの男

市場税の減免によって、ヴァイスブルクには商人と品物が戻り始めました。

その成果を確かめるアレクのもとへ、クレーマー商会を率いるマティアス本人が訪れます。

戦場だけでなく、商いと物流によって道を切り開く男との初対面です。



 マティアス・クレーマーがヴァイスブルクを訪れるかもしれない。

 ハイゼンから来た商人にそう聞かされてから、六日が経った。

 その間も、アレクの仕事が減ることはなかった。

 倉庫の整理は倉庫番たちが中心となって進められるようになったが、今度は市場税の減免と麦の基準箱に関する記録が届くようになった。アレクが毎日市場の入口に立って商人を数える必要はないものの、門番や市場役人が書いた数字を、数日ごとにヨハンと確認しなければならない。

 市場税の減免を始めてから、二十三日。

 ヨハンの執務室では、商人の出身地、荷車の台数、積荷の種類、主要商品の値段、市場税の収入をまとめた紙が机いっぱいに並べられていた。

「戦が終わった直後と比べ、市場へ入った商人は四割ほど増えております」

 ヨハンが集計表を指で押さえた。

「四割も?」

「ただし、戦の前と比べれば、まだ一割ほど少ない」

「それでも、随分戻りましたね」

 アレクは別の紙へ目を移した。

 麦の価格は、袋ではなく基準箱一杯あたりに直して記録されている。袋の大きさが商人ごとに違っても、これなら価格の変化を比べられる。

「麦は、戦の直後より一割ほど安くなっています」

「ええ。塩は六分ほどです」

「布は、ほとんど変わっていませんね」

「布を織る村や、羊毛を集める土地そのものが戦の影響を受けています。市場税を下げても、作られる量までは増えません」

「運ぶ商人だけ増やしても、商品がなければ駄目か」

「ようやく分かりましたか」

「分かっていました」

「今、声が少し弱くなりましたな」

 ヨハンは表情を変えず、次の紙をアレクへ渡した。

「こちらは市場税の収入です」

「やはり減りましたか?」

「最初の十日間は大きく減りました。しかし、現在は戦前の九割ほどまで戻っています」

「税率を三分の二に下げたのに?」

「商人と取引量が増えましたからな」

 アレクは数字を見直した。

 一人の商人から受け取る税は少なくなった。それでも、市場へ入る商人が増え、それぞれが持ち込む商品の量も増えれば、全体の収入は戻ってくる。

 考えていたことが、完全ではないにしても数字として現れていた。

「悪くありませんよね?」

「悪くはありません」

 ヨハンからその答えを聞けただけで、アレクの口元が緩んだ。

「成功ですね」

「まだ一か月経っておりません」

「残り七日でしょう?」

「七日あれば状況は変わります。西の街道で争いが起これば、商人は再び来なくなるでしょう」

「今くらい喜ばせてください」

「結果を確認してからにしなさい」

「厳しいな」

「税と物資を扱っているのです。私がアレク殿と一緒に浮かれて、誰が止めるのですか」

「俺が浮かれている前提なんですね」

「顔に出ています」

 アレクは頬へ触れたが、自分では分からなかった。

「一か月が終わったら、市場税は元へ戻すのですか?」

「それを決めるために記録しています」

「三分の二のまま続けてもよい気がします」

「商人が戻った以上、税を少し上げても、すぐには離れない可能性があります」

「上げすぎれば離れる」

「ええ。今後は、どこまで戻せるかを確かめなければなりません」

「その間を探すのですか」

「そういうことです」

 アレクが考えたのは、市場税を下げれば商人が来やすくなるのではないか、というところまでだった。

 しかしヨハンは、その後を見ている。

 どの程度下げれば商人が増えるのか。商人を失わずに、どこまで税率を戻せるのか。集まった税を、街道の警備や市場の維持へどれだけ回すのか。

 一度制度を作れば終わりではない。続けるためには、記録と調整を重ねなければならなかった。

「やはり、ヨハンさんに任せた方がいいですね」

「何をです?」

「税率の調整です。俺だったら、上手くいったからこのままでいいと思っていました」

「それでは財政を預けられません」

「だから、俺には預けないでください」

「安心なさい。今のところ、その予定はありません」

「今のところ?」

 聞き返した時、廊下から速い足音が近づいた。

 扉を叩く音が一度だけ響き、返事を待たずにゲオルクが入ってくる。

「アレク、すぐに来い」

「何かありましたか?」

「客だ」

「誰です?」

「マティアス・クレーマー」

 アレクの手が止まった。

「来たのですか?」

「ああ。今、西門を通った」

 いずれ来るかもしれないとは聞いていた。それでも、実際に名を告げられると胸の奥が落ち着かない。

「何をしている。行くぞ」

「はい」

 アレクが立ち上がると、ヨハンが先ほどの集計表を重ね始めた。

「ヨハンさんは行かないのですか?」

「私も後から参ります。先に確認しておく帳簿がありますので」

「では、これは?」

「戻ったら続きをお願いします」

「残っているのですか?」

「もちろんです」

 マティアスが来たからといって、日々の仕事が消えるわけではない。

 アレクは机の上の紙へ未練を残しながら、ゲオルクとともに部屋を出た。


 ◇ ◇ ◇


 城館へ向かう途中、ゲオルクからマティアスの訪問目的を聞いた。

 一行は本人を含めて十二人。クレーマー商会の者が六人、護衛が四人、残る二人はハイゼンからの書状と記録を運ぶために同行している。

「軍使ではないのですか?」

「違う。レオンハルト殿下から、アルヴェイン領内の通行や商人の保護について話し合うことを認める書状は預かっている。しかし、あくまでクレーマー商会の長として来た」

「ハイゼンとヴァイスブルクの交易ですか」

「それだけではないらしい」

「他にも?」

「アルベルト殿下に聞け。私もすべてを聞いたわけではない」

 ゲオルクは歩く速さを緩めなかった。

「マティアスには会ったことがあるのですか?」

「ない」

「では、どんな人だと思います?」

「お前は会う前から人を気にしすぎだ」

「何度も名前を聞けば、気になりますよ」

「兵站、調略、市場、商人。剣を振るわずに戦を動かした男だからか?」

「それもあります」

「他には?」

 前世で知る豊臣秀吉と重なるところがあるから、とは言えない。

「俺が思いついたことを、もっと大きな規模で使っているからです」

「悔しいのか」

「少し。でも、それ以上に知りたいです」

「何をだ」

「どうして、あそこまで考えられたのか」

 ゲオルクは横目でアレクを見た。

「直接聞けばいい」

「初めて会った相手に、そんなことまで聞けますか?」

「普段の調子なら聞くだろう」

「俺を何だと思っているんです?」

「遠慮を覚えた方がよい小姓だ」

「ひどいな」

 話しているうちに執務室へ着いた。

 扉の前には、見慣れない護衛が二人立っている。軍の統一された鎧ではなく、形の違う革鎧を着ていたが、どちらもよく手入れされていた。胸元にはクレーマー商会の印が付いている。

 ゲオルクが扉を開く。

 室内にはアルベルトとヴァイス男爵がいた。その向かいには、見知らぬ男が二人座っている。

 一人は四十歳ほどで、帳簿と書状を抱えた商会の補佐役らしい。

 もう一人は三十歳前後。

 アレクより少し背が高い程度で、決して大柄ではない。茶色の髪を無造作に後ろへ撫でつけ、上質だが飾りの少ない服を着ている。腰には剣があるものの、柄にも鞘にも宝石や金細工はなかった。

 貴族の前へ出る商人としては、あまりにも飾り気がない。

 だが、服装よりも目が印象に残った。

 アレクが部屋へ入った瞬間から、顔、手、腰の剣、靴についた土まで順番に見られている。

 アレクも男を観察していたが、先に見定められているような感覚があった。

「来たか」

 アルベルトがアレクを呼んだ。

「こちらへ」

「はい」

 机の前まで進むと、茶髪の男が腕を組んだままアレクを見た。

「そいつがアレク・ハルトマンか?」

「そうだ」

「思っていたより普通だな」

 初対面の第一声がそれだった。

「どういう人間を想像していたのですか?」

 アレクが聞き返すと、男は一瞬だけ目を見開いた。

 すぐに声を上げて笑い始める。

「はははっ。すぐに返すのか。悪かった。確かに失礼だったな」

「あっさり謝るのですね」

「悪いと思えば謝る。謝っても金は減らない」

「相手を怒らせて、取引が減ることはあると思います」

 男の笑みが深くなった。

「いいな。聞いていたとおりだ」

「何を聞いているのです?」

「それは後で話す」

 アルベルトが二人の間へ手を出した。

「アレク。この男がマティアス・クレーマーだ。クレーマー商会を率い、レオンハルト殿下の軍へ兵糧や飼料を納めている」

「初めまして。アレク・ハルトマンです」

「マティアスだ」

 マティアスが右手を差し出した。

 アレクが握ると、手のひらには剣だけではできない硬い部分があった。馬の手綱、荷縄、荷車の修理。元行商人として各地を回った年月が残っているのかもしれない。

「お前のことは、ここへ来る途中で随分聞いた」

「誰からです?」

「商人、市場役人、門番。それから、あそこの大公から」

 マティアスがアルベルトを指した。

「何と?」

「十五の小姓が、戦の後に倉庫を引っかき回し、市場税を下げ、麦を木箱で量らせ始めた」

「言い方が悪くありませんか?」

「倉庫を壊したわけではないのだろう?」

「当たり前です」

「なら構わん。結果は出ているらしいな」

「まだ試している途中です」

「それでいい。最初から成功すると言い切る奴よりは信用できる」

 マティアスは向かいの椅子を示した。

「座れ。ヨハン財務官も来るのだろう?」

「後から来ます」

「帳簿を確認してから来ると言われた。大公より待たせるのが難しい相手らしい」

「ヨハンさんなら仕方ありません」

「お前も苦労しているのか」

「かなり」

「何だ、気が合いそうじゃないか」

 まだ会って間もないのに、奇妙なほど話しやすい。

 身分を盾にせず、わざと距離を縮めるような言葉を選んでいる。これも多くの商人や領主と交渉してきた経験なのだろうか。

 アレクが席に着くと、アルベルトがマティアスへ視線を向けた。

「お互いの噂話はその程度でいいだろう。本題を話せ」

「分かりました」

 返事だけは素直だった。


 ◇ ◇ ◇


 机の上へ、ヴァイスブルクからハイゼンまでの街道を描いた地図が広げられた。

 さらに東へ延びる道、途中にある宿場、関所、小さな川、橋も書き込まれている。

「ハイゼンには、今も一万近いグランヴァルト兵がいる」

 マティアスが地図上のハイゼンを指した。

「守備、後続、それから負傷兵だ。レオンハルト殿下は主力を率いて、さらに西へ進んでいる」

「一万人分の食料が必要になる」

 アレクが言うと、マティアスは頷いた。

「食料だけじゃない。馬の飼料、衣服、履物、酒、塩、鍋、荷車の車輪、馬具を直す鉄具。軍は毎日何かを壊し、使い、食う」

「すべてグランヴァルトから運ぶには遠い」

「だから、アルヴェインからも買いたい。ヴァイスブルクからハイゼンへ向かう商人は増え始めた。だが、まだ問題がある」

「街道の安全ですか?」

「それもある。だが、一番は帰りだ」

 マティアスの指が、ハイゼンからヴァイスブルクへ戻る。

「食料や塩をハイゼンで売った商人の多くが、空の荷車で東へ帰っている」

「空荷で?」

「ああ。人も馬も帰り道の分まで働く。護衛へ払う金も、宿代も、壊れた車輪を直す金も必要だ。それなのに、利益が出るのは西へ向かう時だけだ」

「だから、ハイゼンへ運ぶ物を高く売らなければならない」

「そういうことだ」

 往路で得る利益だけで、帰路の費用まで負担する。商人に損をさせないためには、その分を軍が払うことになる。

 帰りの荷車にも売れる物を積めれば、往復の両方で利益を得られる。ハイゼンへ物資を運ぶ時の価格も、少しは下げられるかもしれない。

「ハイゼンから何を運ぶのですか?」

「羊毛、皮革、西方の酒。量は少ないが鉄材もある」

「食料は?」

「軍が食う。今は東へ回す余裕がない」

「木材は?」

「あるが、遠くまで運ぶには重すぎる。近くで建物や防柵に使った方がいい」

 マティアスの補佐役が帳簿を開いた。

 ハイゼン周辺では、戦によって東へ向かう商人が減り、羊毛や皮革が余り始めている。買い手が少なければ、値段は下がる。

 一方、ヴァイスブルクより東では、西方から羊毛が入らなくなり、布を作る者が材料を集められずにいる。

「ハイゼンで安く買い、東で高く売れる」

 アレクが言った。

「商人に利益が出ますね」

「その利益を見せるために、両方の相場を知らせたい」

「ヴァイスブルクで羊毛がいくらで売れるか、ハイゼンの商人にも伝える?」

「そうだ。反対に、ハイゼンでいくらで買えるかを、こちらの商人へ知らせる」

 そこへ扉が開き、ヨハンが数冊の帳簿を持って入ってきた。

「お待たせしました」

「ようやく来たか」

 マティアスが言う。

「数字を確かめずに話へ加わるよりはよいでしょう」

「違いない」

 ヨハンは空いている席へ座り、持参した帳簿を開いた。

「ヴァイスブルクより東では、羊毛の価格が戦の前より二割から三割ほど上がっています。ただし、質によって差が大きい」

「ハイゼンでは逆に下がっている」

 マティアスが答える。

「値段の差だけなら、十分に利益が出る」

「それでも商人は動いていない?」

 アレクが尋ねると、マティアスは地図から手を離した。

「値段を知らない者もいる。知っていても、危険を恐れて動かない者もいる。何より、商人がハイゼンで羊毛を買い、十日掛けてヴァイスブルクへ来た時、同じ値段で売れるとは限らない」

「それは、どういう意味です?」

「商人が一斉に羊毛を運べば、こちらの値段は下がる。高く売れると思って来たのに、到着した頃には買い手がいなくなっているかもしれん」

 現在の価格差が、そのまま十日後まで残るとは限らない。

 戦況が変われば街道が閉じる。別の商人が先に大量の羊毛を運び込めば、ヴァイスブルクで余る。布を作る工房が必要な量を買い終えれば、それ以上は売れない。

「先に売る相手を決めておけば?」

 アレクは口にした後、頭の中で考えを追った。

「ハイゼンへ行く前に、ヴァイスブルクの商会と約束するのです。羊毛を百箱分、十日後までに運ぶ。届いたら、この値段で買うと」

「到着する前に売値を決めるのか」

「はい。そうすれば、運んだ後で買い手が見つからない危険は減ります」

「値段が下がれば、買い手が損をする」

 ヨハンが指摘した。

「反対に値段が上がれば、運んだ商人はもっと高く売れたはずだと言い出すでしょう」

「それでも、約束した値段なら確実に売れることを優先する商人もいると思います」

 マティアスは腕を組み、アレクを見た。

「使えるかもしれんな」

「本当ですか?」

「ただし、そのままでは駄目だ」

「何が足りません?」

「まず品質だ。羊毛百箱と言っても、良い毛と汚れた毛では価値が違う。濡れた羊毛を箱へ詰めれば重さも変わる」

「見本を決める?」

「一つでは足りん」

 ヨハンが帳簿へ目を落とした。

「少なくとも品質を三段階ほどに分け、それぞれの見本をハイゼンとヴァイスブルクへ置く必要があります」

「約束した量より少なかった場合は?」

 アルベルトが尋ねた。

「不足分に応じて買値を下げるか、罰金だな」

 マティアスが答える。

「道が塞がれて、遅れた場合は?」

「事情を確かめる者が必要です」

 ヨハンが続けた。

「荷車が壊れたのか、敵に襲われたのか、別の町で高く売れるから意図的に契約を破ったのか。同じ遅れでも扱いは変わります」

「買う側が金を用意できなければ?」

「それも契約違反だ」

 マティアスの答えは速かった。

「売る側だけを縛れば、次から誰も応じない」

 アレクが出したのは、先に売値を決めるという入口だけだった。

 だが、実際に使うとなれば、品質、量、期限、事故、支払い、罰金、争いを調べる者まで必要になる。

 前世の仕組みを言葉だけで持ち込めば、契約の弱い部分を利用する者が必ず現れる。

「罰金は、契約額の一割でどうでしょう」

 アレクが言うと、ヨハンが首を横へ振った。

「高すぎます。小さな遅れで一割を失えば、一度で店が傾く商人もいるでしょう」

「では、二十分の一」

「故意に大きな契約を破った者には軽すぎる」

「間を取れば?」

「すべてを同じ金額にする必要があるか?」

 マティアスが口を挟んだ。

「故意か、避けられない事情か。不足した量はどれほどか。それによって変えればいい」

「それを誰が決めるのです?」

「こちらならヨハン財務官と市場役人。ハイゼンなら、俺が任せる市場の管理役だ」

「両方の判断が違った場合は?」

「だから、最初から書状で記録を残す」

 次々と課題と答えが出てくる。

 アレクも何か考えなければと口を開きかけたが、ヨハンが手で制した。

「アレク殿」

「はい」

「ここからは、その仕事を知る者へ任せるべきです」

「俺はもう必要ありませんか?」

「必要ないとは言っておりません。ですが、すべてを自分で決めようとしないことです」

 ヨハンはマティアスの補佐役が持つ帳簿を指した。

「どの商会なら代金を支払えるか。誰が過去に契約を破ったか。どの工房が、どの品質の羊毛を欲しがっているか。アレク殿は知っていますか?」

「知りません」

「ならば、知る者へ聞きなさい」

 アレクは素直に口を閉じた。

 何も考えなくてよいわけではない。ただ、自分の知らない部分まで思いつきだけで決めれば、実際に働く商人を困らせる。

 マティアスが楽しそうに笑った。

「いい財務官だな」

「差し上げませんよ」

 アルベルトが言った。

「まだ何も言ってないでしょう」

「顔に出ている」

「この国の人間は、何でも顔で分かるのか?」

「マティアス殿も、先ほどからアレク殿の顔を読んでいるでしょう」

 ヨハンに返され、マティアスは声を上げて笑った。

 そこからの話し合いは速かった。

 最初に扱う品は羊毛だけ。

 契約へ加われるのは、ヴァイスブルクとハイゼンで過去の取引を確認できる三つの商会に限る。

 試す期間は三か月。

 一つの商会が一度に契約できる量には上限を設ける。

 羊毛の品質は三段階に分け、両方の市場へ同じ見本を置く。量は、ヴァイスブルクで使い始めた基準箱の考え方を参考にしつつ、羊毛を強く押し込んで量を増やさない方法を商人たちに決めさせる。

 遅れや不足が見込まれる時には、できるだけ早く使者を出す。

 故意に契約を破った場合は罰金を科すが、事故や敵襲など避けられない事情があった時は、双方の市場を管理する者が記録を調べて判断する。

 買う側が代金を用意できなかった場合も、同じように責任を負う。

 アレクが思いついた時の形とは、随分違っていた。

 それでよいのだと思えた。

 知識をそのまま押しつけるのではなく、この世界で使う者が、実際に続けられる形へ変える。そのために自分より詳しい者を頼る。

 マティアスは、その判断をアレクよりはるかに速く行っていた。


 ◇ ◇ ◇


 話し合いが終わったのは、日が傾き始めた頃だった。

 ヨハンと商会の補佐役は、三つの商会へ渡す文面について話し続けている。ヴァイス男爵とゲオルクは、ハイゼンまでの街道警備をどこまで分担するか確認するため、別室へ移った。

 アレクは執務室を出て、中庭の井戸へ向かった。

 長い会談で喉が渇いていた。

 水を一杯飲み終えたところで、背後から呼ばれる。

「アレク」

 振り返ると、マティアスが一人で立っていた。

「マティアスさん」

「少し歩くぞ」

「また仕事ですか?」

「違う」

「それなら構いません」

「お前は随分仕事を嫌がるな」

「嫌がっても、やる時はやっています」

「なら問題ない」

 マティアスは中庭を横切り、城壁の内側へ続く道へ入った。

 夕方になっても、西門周辺からは修復作業の音が聞こえる。荷車が石材を運び、職人たちが翌日の作業について話していた。

「この城は、随分傷んだな」

「ベルン伯軍の砲撃を受けましたから」

「それでも守った」

「多くの兵が死にました」

「聞いた」

 マティアスの声から、昼間までの軽さが少し消えた。

「勝てば全部が元へ戻るわけじゃない。だから、戦の後にも金と物が要る」

「はい」

「倉庫と市場を調べたのも、そのためか?」

「最初から全部考えていたわけではありません。必要な物を数えようとして、倉庫ごとに帳簿が違うことに気づきました。市場へ行ったら品物が減り、値段が上がっていた。それで、一つずつ考えただけです」

「十分だ」

「マティアスさんの方が、もっと先まで考えていました」

「俺は長く商人をしている。十五のお前に同じことをされたら、こっちの立場がない」

「年齢で納得したくないのですが」

「なら、早く追いつけ」

 簡単に言われ、アレクは苦笑した。

 しばらく歩いた後、マティアスが足を止めた。

「アレク」

「はい」

「俺のところへ来ないか?」

 アレクは、すぐに言葉を返せなかった。

「どこへ?」

「クレーマー商会だ。俺の仕事を手伝え」

 冗談を言っている顔ではない。

「なぜ俺なのです?」

「面白いからだ」

「レオンハルト殿下も似たようなことを言っていました」

「あの人も、お前を随分気に入っているらしいな」

「聞いたのですか?」

「ああ。だが、俺が欲しいと思ったのは今日だ」

 マティアスは指を折りながら続けた。

「剣が使える。戦場を知っている。倉庫と市場にも目を向ける。知らないことを知らないと言える。自分の案を直されても、意地になって守ろうとしない」

「褒められている気がしません」

「褒めている。それに、お前は時々、俺がまだ考えていないことを言う」

「今日の先約のことですか」

「それだけじゃない。商人が到着する前に値段を決めるという考えは、別の品にも使える。食料を集める時も、馬を買う時も、職人を雇う時もな」

「失敗するかもしれません」

「その時は直す」

「損が出たら?」

「誰が何を間違えたのか調べる」

「俺が原因なら?」

「叱る」

「厳しいですね」

「成功したら、もっと大きな仕事を任せる」

「そちらの方が厳しくありませんか?」

 思わず笑うと、マティアスも笑った。

 だが、その誘いは軽くない。

 クレーマー商会へ行けば、ヴァイスブルクだけでは見られない多くの土地と商いに関われる。レオンハルトの軍へ物を運び、貴族と交渉し、街道や倉庫を使って戦そのものを動かす仕事も近くで学べる。

 興味がないと言えば嘘になる。

 それでも、アレクの答えは決まっていた。

「申し訳ありません」

「そうか」

「俺を拾い、ここに置いてくれたのはアルベルト様です」

 何者かも分からなかった十五歳の少年を受け入れ、小姓として扱い、剣と仕事を与えてくれた。

 失敗すれば問いかけ、考え直す機会もくれた。

 ヴァイスブルクにはゲオルク、トーマス、ヨハンがいる。アイデルンの砦から戻ってきたエリーゼもいる。ラーデン村にはマルセルや、戦から守ろうとした人々がいる。

「今、それをすべて置いて、クレーマー商会へ行くことはできません」

「俺の方が大きな仕事をさせられると言っても?」

「それでもです」

「出世できるかもしれんぞ」

「興味はあります。でも、受けた恩を返さずに次へ行くのは違うと思います」

 マティアスは笑わず、アレクを見ていた。

 怒らせただろうか。

 そう思った直後、マティアスの口元がわずかに上がった。

「それでいい」

「え?」

「今日会ったばかりの俺に誘われて、すぐについてくると言われた方が困る」

「試したのですか?」

「半分はな」

「もう半分は?」

「本気だ」

 どちらなのか、ますます分からない。

「拾ってくれた相手を簡単に捨てる者が、次は俺を捨てないという保証がどこにある」

「……最初から、断ると思っていたのですか?」

「断る可能性は高いと思っていた。アルベルト殿下にも先に話した」

「アルベルト様に?」

「ああ。欲しいなら本人に聞けと言われた」

 アルベルトが止めなかったことに、アレクは驚いた。

 同時に、アレク自身の答えを信じていたのか、それとも本当に選ばせようとしたのか分からず、胸の奥が少し揺れた。

「誘いは取り消さない」

 マティアスが続けた。

「ですが、今断りました」

「今日はな」

「今日は?」

「いつか考えが変わったら、自分で決めて来い。誰かに命じられたからではなく、お前が俺のもとで働きたいと思った時にな」

 勝手な話だった。

 それなのに、嫌ではなかった。

「随分、自信があるのですね」

「ある。俺の仕事を見れば、お前はもっと興味を持つ」

「持たないかもしれません」

「それなら、俺の見る目がなかっただけだ」

 マティアスはあっさり答えた。

 アレクには、その強さが眩しく見えた。

「一つ聞いてもよいですか?」

「何だ?」

「どうして、そこまで力を得たいのです?」

「力?」

「金を集め、商会を大きくし、軍の仕事まで引き受けている。もっと上へ行きたいのでしょう?」

「当たり前だ」

「なぜです?」

 マティアスはすぐには答えなかった。

 西門の向こうへ目を向ける。夕日が、修復中の城壁と行き交う荷車を赤く照らしている。

「できることを増やすためだ」

「できること?」

「金があれば商人を動かせる。荷車と倉があれば、必要な場所へ物を運べる。兵がいれば道を守れる。信用があれば大きな契約を結べる。地位があれば、貴族にも話を聞かせられる」

 声には、昼間の軽さがなかった。

「俺はな、アレク。できる方法が見えているのに、身分がないというだけで何もできないのが一番嫌いだ」

「だから、上へ行く?」

「ああ」

「どこまでです?」

 マティアスはアレクへ視線を戻した。

「行けるところまでだ」

 冗談とも本気とも取れる笑顔だった。

 しかし、その目は笑っていない。

 行けるところまで。

 その言葉に、アレクは前世で知る人物を思い出した。

 低い身分から身を起こし、人と金と兵を動かし、ついには天下へ手を伸ばした男。

 豊臣秀吉。

 似ている。

 だが、同じではない。

 マティアスは農民から武士になった人物ではなく、各地を歩いた行商人だ。レオンハルトの臣下でもなく、クレーマー商会を率いて軍と契約する商人として力を伸ばしている。

 生まれも、立場も、時代も違う。

 アレクが知る歴史を、この男へそのまま当てはめてはならない。

 それでも、胸に生まれた違和感は消えなかった。

「何を考えている?」

 マティアスに聞かれ、アレクは首を横へ振った。

「あなたが、どこまで行くのかと思っただけです」

「近くで見たければ、いつでも来い」

「また誘っていますね」

「使える言葉は何度でも使う」

 マティアスは笑い、アレクの肩を一度叩いた。

「明日の朝、ハイゼンへ戻る」

「もうですか?」

「話は決まった。ここへ長くいても荷は動かん」

「本当に早いですね」

「遅ければ商機も戦機も逃げる」

 マティアスは中庭の方へ戻っていった。

 アレクはその背中を見ながら、言われた言葉を何度も思い返していた。

 自分で決めて来い。

 今は断った。

 その判断を後悔してはいない。

 それでも、誘いが心の片隅へ残ったことまでは否定できなかった。


 ◇ ◇ ◇


 翌朝、マティアスの一行は西門からヴァイスブルクを出た。

 六台の荷車には、ハイゼンで必要になる塩、鉄具、乾燥させた豆が積まれている。帰りには羊毛と皮革を積み、先約取引の試験に加わる三つの商会へ詳細を伝える予定だった。

 城壁の上から一行を見送るアレクの隣には、エリーゼがいた。

「随分早く帰るのね」

「決めることは決めたから、ここにいても荷物は動かないと言っていた」

「昨日から、その方の話ばかりね」

「そうかな」

「そうよ」

 エリーゼは西へ進む荷車を見たまま答えた。

「市場の話も、契約の話も、最後にはマティアスという方の話になるわ」

「面白い人だったんだ」

「そう」

 返事は短かった。

 どこか不満そうに聞こえ、アレクはエリーゼの横顔を見た。

「何か怒ってる?」

「怒っていないわ」

「でも」

「怒っていません」

 同じ言葉を繰り返した時は、たいてい少し怒っている。

 理由が分からずにいると、エリーゼがようやくアレクを見た。

「誘われたのでしょう?」

「知っていたの?」

「叔父上から聞いたわ」

「アルベルト様は、エリーゼにまで話したのか」

「それで、行くの?」

「断ったよ」

 エリーゼの目がわずかに大きくなった。

「すぐに?」

「うん」

「どうして?」

「今はアルヴェインでしなければならないことがある。戦の後始末も終わっていないし、市場の試験も途中だ。それに、俺をここへ置いてくれたアルベルト様へ、まだ何も返せていない」

「……そう」

 エリーゼの表情が少し柔らかくなった。

「安心した?」

「別に」

「今、少し笑っただろ」

「笑っていないわ」

「笑ってた」

「気のせいです」

 急に丁寧な口調へ戻り、エリーゼは顔を背けた。

 アレクはもう一度、西へ向かう一行を見た。

 マティアスの荷車は、朝の街道を進み、少しずつ小さくなっていく。

 誘いを断ったことに後悔はない。

 アレクには今いる場所があり、果たすべき役目がある。

 それでも、マティアスの最後の言葉は残っていた。

 誰かに命じられたからではなく、自分で決めて来い。

 その言葉に答える日が本当に来るのか、今のアレクには分からない。

 ただ、知らない男だったマティアス・クレーマーは、もう無視できない存在になっていた。



第九話を読んでいただき、ありがとうございました。

アレクとマティアスは、空荷で戻る荷車を活用する交易と、羊毛の先約取引について話し合いました。アレクの知識を入口にしながら、商人や役人の経験を組み合わせ、この世界で実行できる形へ整えていきます。

そしてマティアスからの誘いを、アレクは一度断りました。それでも「自分で決めて来い」という言葉は、アレクの中へ残ります。この出会いが、後に自らの主を選ぶ決断へつながっていきます。


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― 新着の感想 ―
敗残や迷子に脱走した兵士の盗賊化とかないんですかね?
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