第八話 知らない男のやり方
戦後のヴァイスブルクでは、品不足によって麦や塩の価格が上がっていました。
倉庫の整理を周囲へ任せたアレクは、今度はヨハンとともに市場の立て直しへ取り組みます。
その一方、西方からは、商人の力を軍の兵站へ組み込むマティアス・クレーマーの新たな働きが伝わってきます。
第二次ヴァイスブルクの戦いが終わってから、五日が過ぎた。
西門の周囲では、朝から槌を振るう音が絶えなかった。砲撃で崩れた石を取り除く石工、その隣で新しい石材を削る者、折れた門扉の梁を運び出す大工、変形した鉄具を打ち直す鍛冶職人。それぞれが声を掛け合い、戦の傷を少しずつ塞いでいる。
城壁の修復だけではない。負傷兵の治療、戦死者の埋葬、遺族へ渡す穀物や薪の手配、軍が使った倉庫の整理。剣を置いた後にも、しなければならない仕事はいくらでも残っていた。
城内の三つの倉庫では、ヨハンと相談して決めた新しい帳簿と木札が使われ始めている。
槍、弓、革鎧、予備の弦、油、布、釘などを種類ごとに記録し、状態を四つに分ける。文字の読めない者でも見分けられるよう、木札には形の違う切り込みを入れた。最初は混乱もあったが、倉庫番たちは三日もすると自分たちで問題点を見つけ、札を置く場所や数え方を直し始めていた。
「この倉庫は、今日から皆さんに任せます」
アレクがそう告げると、倉庫番の男が不安そうに帳簿を見た。
「私たちだけで、ですか」
「昨日の記録を確認しました。問題ありません。分からないことがあれば、ヨハンさんか私に聞いてください。ただ、最初から最後まで私がいなければ続けられない方法では意味がありません」
「間違えた場合は?」
「訂正してください。間違いを隠される方が困ります」
倉庫番はまだ緊張していたが、やがて帳簿を抱えて頷いた。
アレクが最初に示したのは、物資を状態ごとに分ける大まかな方法だけだった。それを日々の仕事に合わせたのは、倉庫番や荷運びを担当する者たちである。
どこへ木札を掛ければ見落としにくいか。雨の日に運び込まれた物をどこへ置くか。帳簿へ書き込む前に、誰が数を確かめるか。
実際に働く者でなければ分からないことが多かった。
「ようやく終わった」
倉庫の外へ出たトーマスが、両腕を大きく伸ばした。
「終わってないよ」
「三つの倉庫を数え終わっただろ」
「新しい物が入れば記録するし、持ち出した時にも書く。これからずっと続く仕事だ」
「聞きたくなかった」
「でも、昨日より早く終わっただろ?」
「慣れたからな」
「それなら大丈夫だ」
アレクが笑うと、トーマスは嫌そうな顔をした。
「何が大丈夫なんだ」
「俺たちが毎日つきっきりにならなくても、倉庫番だけで続けられる」
「お前は逃げる気だな」
「逃げるんじゃない。別の仕事があるんだよ」
「その別の仕事を見つけるから、こっちの仕事も増えるんじゃないのか?」
否定しようとして、アレクは口を閉じた。
倉庫の中身を把握できれば、必要な物を必要な場所へ移しやすくなる。修理できる武具を捨てずに済み、同じ物を二重に買う失敗も減らせる。その効果は分かっているが、記録する者の仕事が増えたことも事実だった。
「何を黙っている」
「少しだけ反省してる」
「少しか」
「全部反省したら、次の仕事ができなくなる」
「やっぱり増やす気じゃないか」
トーマスが顔をしかめたところで、背後から足音が近づいた。
「話は終わりましたか」
ヨハン・ケストナーが、数枚の紙を抱えて立っていた。
「終わりました」
アレクが答えるより先に、トーマスが一歩下がる。
「では、トーマス殿には二番倉庫から届いた訂正を確認していただきましょう」
「まだあるんですか?」
「ございます」
「俺は城壁の修復を手伝った方が役に立つと思います」
「帳簿から逃げたいだけでは?」
「そんなことはありません」
「それなら、お願いいたします」
ヨハンは穏やかに微笑んだ。
トーマスは助けを求めるようにアレクを見たが、アレクは目をそらした。
「裏切ったな」
「頑張って」
「覚えていろよ」
倉庫へ戻っていくトーマスを見送り、アレクはヨハンの持つ紙へ目を向けた。
「それは何ですか?」
「市場で調べた値段です」
ヨハンは一番上の紙を差し出した。
麦、塩、豆、干し肉、布、鉄製品。品目の横には、戦の前と現在の価格が書かれている。
「随分上がっていますね」
「ええ。特に麦と塩が目立ちます」
「倉には穀物が残っていたはずです」
「あれは軍と負傷兵、遺族への支給に必要な分です。すべて市場へ放出すれば、今度は大公家の備蓄がなくなります」
「では、商人に運んでもらうしかない」
「その商人が減っているのです」
ヨハンは市場の方角へ顔を向けた。
「ご自分の目で確かめますか?」
「そのために来たんですよね」
「話が早くなりましたな」
「断っても連れていくつもりだったでしょう」
「もちろんです」
二人は西門近くの倉庫を離れ、市場へ向かった。
◇ ◇ ◇
ヴァイスブルクの市場は再開していたが、戦の前の賑わいにはほど遠かった。
店先には野菜や豆、干し肉、塩、酒、布などが並んでいる。しかし、一軒ごとの品数は少なく、空いたままの場所も目立つ。
買い物に来た住民は、商品を手に取る前に値札を見ている。値段を聞き、財布の中身を確かめ、そのまま店を離れる者もいた。
「麦はいくらですか」
ヨハンが穀物商へ尋ねた。
「一袋九十六デナーです」
「戦の前は?」
「七十八でした」
「随分上がりましたね」
「こちらも好きで上げているわけではありませんよ」
商人は疲れた顔で答えた。
「西から来る荷車が減りました。南の街道から運ぶにしても、遠回りになる。護衛へ払う金も増えています」
「塩は?」
「戦の前より三割ほど高くなっています。布は、金を出しても以前と同じ量を集められません」
戦が終わったという知らせが届いても、それだけで街道が元へ戻るわけではない。
焼かれた橋を直さなければならない場所があり、徴用された馬も戻っていない。シュヴァルツ伯が西へ退いただけで、争いそのものが終わったわけでもなかった。
商人にとって、戦場の近くを通る危険はまだ残っている。
アレクは別の店でも値段を尋ねた。麦は九十四から九十九デナー。袋の大きさや品質に違いはあるものの、どこも戦前より二割ほど高い。
売る物が減った一方で、住民が必要とする量は大きく変わらない。負傷兵や避難してきた者を含めれば、むしろヴァイスブルクで食べる者は増えている。
品物が足りなければ、値段が上がる。
そこまではアレクにも分かった。
「大公家が値段を決めることはできますか?」
市場を一回りした後、アレクはヨハンへ尋ねた。
「上限を定めるという意味ですか」
「はい。例えば、麦を九十デナーより高く売ってはいけないと決める」
「命令を出すことはできます」
「それなら――」
「ですが、私は勧めません」
ヨハンは即座に続けた。
「危険な街道を通り、護衛を雇い、荷車や馬を用意しても、他の町より安くしか売れない。そうなれば、商人はヴァイスブルクを避けます」
「品物がもっと減る」
「ええ。命令に従わず、隠れて高値で売る者も出るでしょう。表向きの値段だけを下げても、実際に買える物がなくなれば住民はさらに困ります」
「やはり難しいですね」
「物を持ってくる者を増やさなければ、根本的な解決にはなりません」
アレクは市場の入口を見た。
荷車が一台、門を通って入ってくる。積まれているのは薪だった。役人が商人を止め、行き先と積荷を確かめている。
遠くからヴァイスブルクへ来る商人は、街道の通行税を払い、市場へ商品を持ち込めば市場税を払う。滞在すれば宿代と馬の餌代が必要になり、護衛を雇えばさらに出費が増える。
危険が増えた分だけ、商人は高く売らなければ割に合わない。
「商人が、この町へ来るために払う金を減らしたらどうでしょう」
「どの金です?」
「市場税です。ずっとではなく、一か月だけ」
ヨハンが目を細めた。
「通行税ではなく?」
「通行税まで下げたら、どこを通ってどこへ向かう荷車まで対象になります。市場へ品物を持ち込んだ商人だけに絞った方が、目的に合うと思います」
「税をどれほど下げます?」
「半分では下げすぎでしょうか」
「下げすぎです」
「では、三分の二」
「なぜ三分の二なのです?」
「半分よりは税収が残ります」
「立派な根拠ですな」
「今、少し馬鹿にしました?」
「いいえ。正確な効果が分からない以上、最初から完璧な数字など決められないという意味です」
ヨハンは市場を見渡した。
「一人の商人から得る税は減ります。商人が増えなければ、ヴァイスブルクの収入を減らすだけです」
「だから一か月だけ試します」
「一か月後に税を戻せば、商人が去る可能性もあります」
「その時は、どこまで戻せるか考える」
「誰が考えるのです?」
「ヨハンさんが」
「提案したのはアレク殿です」
「二人で考えましょう」
「今、巻き込みましたな」
「倉庫では、詳しい人に任せろと言われましたから」
前話でアルベルトから言われたことを、アレクはもう忘れていなかった。
自分一人で何もかも行うのではなく、自分より詳しい者を頼る。市場と税についてなら、アレクよりヨハンの方がはるかに多くを知っている。
ヨハンは呆れたように息を吐いたが、反対はしなかった。
「市場税だけを一か月、通常の三分の二へ下げる。その間に商人の数と物価を調べるのであれば、検討する価値はあります」
「アルベルト様に相談しましょう」
「その前に、何を記録するか決めます」
「商人の人数と、麦や塩の値段」
「それだけでは足りません。商人がどこから来たか。荷車を何台連れてきたか。何をどれだけ運んできたか。市場税の収入がどれだけ変わったか」
「随分増えましたね」
「結果を判断するために必要です」
「俺が毎日全部数えるんですか?」
「市場役人と門番に記録してもらいます。アレク殿には、数日ごとに私と集計していただきます」
アレクは胸を撫で下ろした。
「よかった」
「何がです?」
「倉庫の次は、一日中市場の入口に立つことになるかと思いました」
「立ちたいのであれば止めません」
「遠慮します」
ヨハンは市場で働く役人を呼び、すぐに必要な記録について話し始めた。
思いついたことを口にするだけなら簡単だ。
だが、その結果を確かめるためには、人を動かし、数字を残し、失敗した時に原因を探さなければならない。
前世の会社で、上司から成果を数字で示せと言われた時は面倒にしか思わなかった。それでも、記録がなければ、上手くいったように見えるだけなのか、本当に効果があったのかを判断できない。
アレクは市場の人々を眺めながら、ヨハンの話を紙へ書き留めた。
◇ ◇ ◇
翌日、アルベルトの執務室に、ヨハン、ゲオルク、市場を管理する役人、そしてアレクが集まった。
「一か月だけ市場税を下げたい、か」
説明を聞き終えたアルベルトが、机の上の紙へ目を落とした。
「はい。ヴァイスブルクへ商品を運ぶ商人を増やすためです」
「値段を下げさせるのでは駄目なのか?」
「商人が来なくなる恐れがあります。今必要なのは、売値だけを下げることではなく、市場へ入る品物を増やすことです」
「市場税を三分の二にすれば、商人が増えるのか」
「分かりません」
アレクが正直に答えると、アルベルトは顔を上げた。
「随分とはっきり言うな」
「試さなければ分かりません。ただ、何も変えなければ、街道への不安が消えるまで品不足が続く可能性があります」
「失敗すれば?」
「一か月で元へ戻します。商人の数だけでなく、来た方角、荷車の台数、商品、主要な品物の価格、市場税の収入を記録します。それを見て、なぜ増えなかったのかも調べます」
アルベルトはヨハンを見た。
「お前はどう考える」
「恒久的な減税には反対です」
「一か月なら?」
「戦後の市場を立て直すための試験としては、実施する価値があります。税収が減る危険はありますが、市場へ入る物資が増えれば、軍や遺族へ回している備蓄を不用意に放出せずに済みます」
「ゲオルクは?」
「商人が来る道も記録するのであれば賛成です。西からだけ戻らないのか、南や東からも来ないのかで、警備を増やす場所が変わります」
市場役人も頷いた。
「門番と協力すれば、商人の出発地と荷車の数は記録できます。ただ、積荷を一つ残らず調べるのは時間が掛かります」
「細かな品名までは必要ありません」
アレクは答えた。
「穀物、塩、布、鉄製品、酒、家畜というように、大きく分けてください。門で荷車を長く止めたら、それ自体が商人の負担になります」
「承知しました」
意見を聞き終えたアルベルトは、もう一度紙へ目を落とした。
「よし。やれ」
「よろしいのですか?」
「そのために話を持ってきたのではないのか」
「もう少し迷われるかと思いました」
「一か月試して失敗すれば、アルヴェインが滅びるのか?」
「そこまでは」
「なら、失敗した時に戻せるようにして試せ。ただし、戦後で苦しいからと、軍需品を納める商人まで安く扱うな。大公家が直接買い上げる物は今回の対象から外せ」
「はい」
「それと、アレク」
アルベルトの目がアレクへ向いた。
「商人が増えたというだけで成功だと思うな。荷車が増えても、酒ばかり運ばれてきて麦が増えなければ、住民の暮らしは楽にならん」
「商品の種類と価格も確認します」
「税収もだ。ヨハンの顔色が今より悪くなったら、真っ先にお前を呼ぶ」
「なぜ俺だけなんです?」
「言い出した者の顔を見せた方が、ヨハンも怒りやすいだろう」
「私が怒ることを前提にしないでいただきたい」
ヨハンは平静に答えたが、アレクには否定し切れていないように聞こえた。
その日のうちに布告の文面が作られた。
期間は一か月。ヴァイスブルク市場へ商品を持ち込み、販売する商人の市場税を通常の三分の二とする。ただし、大公家が軍や復旧のために直接買い上げる物資は対象外とした。
布告は市場だけでなく、東、南、西へ向かう街道沿いの宿場にも伝えられる。
制度を作っても、商人が知らなければ意味がない。行商人、宿の主人、荷車を貸す者にも内容を伝え、ヴァイスブルクへ向かう商人がいれば知らせてもらうことになった。
最初の三日間、目立った変化はなかった。
商人は布告を聞いた瞬間に現れるわけではない。荷物を集め、馬と荷車を用意し、道の安全を確かめてから出発する。近隣の町からでも数日は必要になる。
五日目、南から二組の商人が来た。荷車は合わせて三台。積荷は豆、干し肉、革製品だった。
七日目には、東から麦を積んだ荷車が四台、南から塩商人が一人、布を扱う商人が三人入った。
十日ほど経つ頃には、市場の空いていた場所にも店が並び始めた。
「麦は九十二デナーです」
集計表を見ながら、アレクは言った。
「最初に調べた時は九十六でした」
「戦前は七十八です」
向かいに座るヨハンは、喜ぶ様子を見せなかった。
「それでも下がりました」
「ええ。入荷量も増えています」
「塩は?」
「こちらもわずかに下がりました。ただし、布はほとんど変わっておりません」
「商人は増えたのに?」
「布を作る村のいくつかが戦の影響を受けています。運ぶ商人を増やしても、売る布そのものが作られていなければ増えません」
アレクは表の数字を見比べた。
市場税を下げるだけで、何もかも安くなるわけではない。
道が安全であること。商品を作る者がいること。運ぶ馬と荷車があること。商人が利益を得られること。買う側に金があること。
どこか一つが欠ければ、品物は思うように動かない。
「市場税の収入は、やはり減っていますね」
「最初の十日間は仕方ありません。一人あたりから取る額を減らしたのですから」
「商人の数が増えれば戻るでしょうか」
「可能性はあります。しかし、一か月の記録を見なければ判断できません」
「まだ成功ではない?」
「まだです」
予想していた答えに、アレクは苦笑した。
「ですが」
ヨハンが一枚の紙を持ち上げる。
「少なくとも、品不足が悪化する流れは止まりつつあります。何もしなかった場合よりは良い結果でしょう」
ヨハンから聞ける最大限の評価かもしれない。
「少しくらい喜んでも?」
「仕事を止めなければ」
「そこは止めてくれないんですね」
「財務官ですから」
アレクは笑い、次の集計表へ手を伸ばした。
◇ ◇ ◇
市場税の減免を始めて十二日目、市場で二人の商人が言い争った。
「同じ値段なら、こちらの方が得だと言っているんだ!」
「袋の大きさだけで決めるな。うちの麦の方が質はいい!」
声を聞きつけた市場役人とアレクが向かうと、二人の穀物商の前に人だかりができていた。
どちらも麦一袋を九十二デナーで売っている。
しかし、並べられた袋の大きさが明らかに違った。一方は縦に長く、もう一方は幅が広い。見た目だけでは、どちらに多く入っているのかも判断しにくい。
「同じ一袋ではないんですか?」
アレクが尋ねると、一人の商人が自分の袋を叩いた。
「うちの地方ではこれが一袋です」
「ヴァイスブルクでは、もっと大きな袋を使う」
もう一人が言い返す。
「だから何だ。袋の大きさを揃えろなどという決まりはないだろう」
「客を騙している!」
「騙してなどいない!」
市場役人に聞くと、二人の言い分はどちらも間違いではなかった。
地域によって、穀物を入れる袋の大きさは違う。重さを量る石や金属の分銅にも多少の違いがあり、同じ一袋、同じ一樽という言葉でも中身の量が一致しないことがある。
これでは、市場で記録している麦一袋の価格も正確に比べられない。
九十二デナーへ下がったように見えても、袋が小さくなっただけなら、実際には安くなっていない。
「ヨハンさんに相談しないと」
アレクは二人の商人へ、その日の販売量と袋の大きさを市場役人に記録させた。その場でどちらかを違反者にすることはしなかった。
午後、ヨハンの執務室へ二種類の袋を持ち込む。
「これは随分違いますな」
「地域ごとに違うのは普通なんですか?」
「珍しくはありません。同じ領内でも、昔からの慣習が残っている場所があります」
「アルヴェイン全体で揃えられませんか」
「何を正しい基準にするのです?」
ヨハンから返され、アレクは口を閉じた。
ヴァイスブルクで昔から使っている袋が、他の土地より正しいという理由はない。
領内すべての袋や秤を作り直すなら、職人にも商人にも大きな負担を掛ける。命令だけで翌日から統一できるものではなかった。
「では、まずヴァイスブルク市場の麦だけにします」
「袋を作り直させるのですか?」
「袋は今までの物を使って構いません。その代わり、売る時に中身の量を同じ容器で示します」
アレクは紙へ四角い箱を描いた。
「決まった大きさの木箱を作ります。麦一箱分がいくらなのかを表示する。袋で売る場合も、この袋には基準の箱で何杯入っているかを示してもらいます」
「秤ではいけませんか?」
「正確な秤をすべての店へ用意できますか?」
「難しいでしょうな。分銅も揃えなければなりません」
「木箱なら、この町の木工職人に頼めます」
「職人によって大きさが変わります」
「基準になる箱を一つだけ作り、役所で保管します。市場で使う箱は、それと比べて同じ大きさか確かめてから、大公家の焼印を押す」
ヨハンは紙に描かれた箱を眺めた。
「容器の内側を削れば、見た目を変えずに量を減らせます」
「焼印を押す前に調べる。使い始めた後も市場役人が時々確認する」
「麦を箱へ強く押し込む者と、軽く入れる者で量が変わります」
「上から平らな棒を滑らせて、盛り上がった分を落とします。押し込むのは禁止です」
前世で使われていた升や計量カップを、そのまま再現することはできない。
それでも、同じ市場で同じ商品を比べるための基準なら作れる。
「湿った麦は、同じ量でも状態が違います」
「乾燥や品質は別に確認するしかありません。今は量を比べられるようにするところから始めます」
「最初から全商品へ広げない方がよいでしょう」
「はい。まずは麦だけです」
「期間は?」
「市場税の試験が終わるまで。問題が多ければやめます」
ヨハンはしばらく考え、やがて紙の余白へ必要な費用を書き始めた。
「基準箱を一つ。市場で使う箱を六つ。木工職人と市場役人を呼びましょう」
「賛成してくれるんですか?」
「問題はありますが、袋の違いを放置したまま価格を記録するよりはましです」
「ありがとうございます」
「礼は、役に立ってからにしてください」
数日後、ヴァイスブルク市場の管理所に、四角い木箱が置かれた。
内側の寸法を揃え、上から棒を滑らせて余分な麦を落とせるようにする。基準となる一箱は役所の保管庫へ置き、市場で使う六箱にはアルヴェイン大公家の焼印を押した。
商人は従来の袋を使い続けてよい。ただし、麦を売る際には、その袋に基準箱で何杯分が入っているのかを示す。
最初は不満が相次いだ。
「いちいち箱へ移して量るのか」
「荷車一台分を調べていたら日が暮れる」
「今までの袋で困っていなかった」
すべての袋を販売のたびに量り直すのではなく、同じ大きさの袋から何袋かを抜き出して確認し、その商人が使う袋の基準とすることで手間を減らした。
それでも、以前にはなかった作業が増えたことに変わりはない。
一方、買い手からの反応は良かった。
「こちらの袋は三箱半、あちらは四箱か」
「同じ値段でも量が違うのが分かる」
「少し高くても、麦の状態が良い方を選べる」
量を明らかにし、湿り気や異物についても正直に説明する店へ客が集まり始めた。それを見た商人たちも、自分の店の袋が基準箱何杯分なのかを進んで表示するようになった。
新しい決まりへ善意だけで従ったわけではない。
表示した方が商品を売りやすくなったからだ。
アレクは市場の端から、その変化を眺めていた。
「少し嬉しそうね」
聞き覚えのある声に振り返る。
「エリーゼ」
護衛を二人連れたエリーゼが立っていた。
戦の危険が迫った時、エリーゼはアイデルンの砦へ移されていた。ベルン伯軍が退き、周辺の街道に斥候を出して安全を確かめた後、三日前にヴァイスブルクへ戻ってきた。
帰還してからは、負傷兵や戦死者の遺族を訪ねていたため、アレクもゆっくり話す時間を取れていなかった。
「もう遺族のところは回り終えたの?」
「今日の分はね。まだ訪ねられていない家もあるけれど、続けて伺うとかえって気を遣わせてしまうわ」
エリーゼは市場の基準箱を見た。
「あれを見ていたのでしょう?」
「うん」
「アレクが考えたと聞いたわ」
「最初の案を出しただけだよ。実際の大きさを決めたのはヨハンさんと市場役人だし、箱を作ったのは木工職人だ。使い方も商人たちと話して直した」
「それでも、最初に必要だと気づいたのはアレクでしょう?」
「昔読んだ本に、似たようなことが書いてあったんだ」
知識の出所を詳しく話すことはできない。
規格を揃える。共通の単位で量る。
前世では当たり前だった考えを思い出したにすぎなかった。
「俺が一から考えたわけじゃない」
「知っていても、使わなければ何も変わらないでしょう」
エリーゼは自然な口調で言った。
「それに、アレク一人ではできないと分かったから、皆に頼んだのでしょう? 皆が使える形にすることも、立派な仕事だと思うわ」
アレクは思わずエリーゼの顔を見た。
「何?」
「いや、時々すごく大人びたことを言うなと思って」
「時々?」
「あ」
エリーゼの目が細くなる。
「今のは褒めたつもり?」
「もちろん」
「聞こえ方は違ったけれど」
「言い直そうか?」
「もう遅いわ」
怒ったように顔を背けたものの、その口元には笑みが浮かんでいる。
戦の間、アレクはエリーゼが安全な砦にいると聞いていた。それでも、実際に元気な姿を見るまでは心のどこかに不安が残っていた。
エリーゼも同じだったのかもしれない。
「アレク」
「何?」
「おかえりなさい」
一瞬、何と返せばよいのか分からなかった。
戦が終わってから何日も働き続けていた。戻った時には城中が負傷兵と報告であふれ、無事を喜ぶ余裕もなかった。
「ただいま」
ようやく返すと、エリーゼは安心したように微笑んだ。
「エリーゼも、おかえり」
「ええ。ただいま」
それだけの言葉なのに、アレクの胸に残っていた戦場の冷たさが、少し薄れたように感じられた。
「アレク!」
市場の入口からゲオルクが呼んでいる。
「アルベルト殿下がお呼びだ。すぐ城館へ来い」
「今度は何だろう」
「行ってきなさい」
エリーゼが笑った。
「戻ったばかりなのに」
「必要とされているのでしょう?」
「仕事を増やされているだけかもしれない」
「それも必要とされているうちに入るわ」
アレクは返す言葉を探したが、ゲオルクがもう一度手招きしたため、諦めて市場を離れた。
◇ ◇ ◇
城館の執務室では、アルベルトが西方から届いた書状を読んでいた。
机の脇にはゲオルクが立ち、別の報告書を広げている。
「お呼びでしょうか、アルベルト様」
「ああ。西の報告が届いた」
アレクが机の前まで進むと、アルベルトは書状を置いた。
「レオンハルト殿下の戦ですか?」
「シュヴァルツ伯軍はハイゼン北方の陣を捨て、西へ退いた。レオンハルトはハイゼンを押さえた後、一部を追撃へ出している」
「シュヴァルツ伯は?」
「捕らえられていない。兵もまだ残っている。今回はハイゼンを奪っただけだ」
レオンハルトが勝ったとしても、シュヴァルツ伯との争いが終わったわけではない。
ハイゼンを押さえられれば、シュヴァルツ伯は東へ圧力を掛けにくくなる。しかし、西へ退いた先で兵を集め直す可能性は残っている。
「それで、お前に聞かせたいのはこちらだ」
アルベルトが、もう一通の書状をゲオルクへ渡した。
ゲオルクが内容を読み上げる。
「ハイゼンに民間商人を集め、市を開く許可を求めています。アルヴェインの商人が西へ商品を運ぶ場合、通行を妨げないようにしてほしいとのことです」
「戦場の近くに市場を?」
「既に始めているらしい」
ゲオルクは報告の続きを示した。
市場税は三十日間免除。市場周辺はグランヴァルト兵が警備し、兵による略奪や商人からの無断徴発は禁止する。違反者は軍法で処罰する。
街道の一部では、複数の商人をまとめて兵に護衛させる。
さらに食料、塩、馬の飼料、布、鉄具など、軍が必要とする品物については、事前に定めた量まで買い取ることを保証するという。
「売れ残っても、必要な分は軍が買うのですか?」
「そういうことだ」
「随分思い切りましたね」
アレクがヴァイスブルクで行ったのは、市場税を三分の二へ下げる試験だった。
ハイゼンでは税そのものを一時的になくし、治安を保証し、街道の一部に護衛を置き、軍による買い取りまで約束している。
商人が戦場近くへ行く時に恐れるものを、一つずつ減らしていた。
「誰が考えたのです?」
問いながら、アレクには答えが分かりかけていた。
ゲオルクが書状の末尾を確かめる。
「クレーマー商会のマティアス・クレーマーだ」
前話で初めて知った名が、再びアレクの耳へ届いた。
「この人は、レオンハルト殿下の命令で動いているのですか?」
「レオンハルトと契約を結び、軍へ物資を納めている」
アルベルトが答えた。
「臣下として領地や兵を預かっているわけではない。クレーマー商会の人脈、荷車、倉、金を使い、必要な物を集めている商人だ」
「商人が、軍の近くに市場まで作るのですか」
「その方が商売になると考えたのだろう」
アルベルトは別の報告をアレクへ見せた。
マティアスは、ただ商人を集めているわけではない。
取引する商人へ、何を安定して運べるかを尋ねていた。
塩を扱う者には、一度に運べる量と次に来られる日を確認する。穀物商には、どこの村から何日で麦を集められるかを聞く。鍛冶職人には、馬具や荷車の鉄具を月にいくつ直せるかを答えさせる。
その上で、無理なく続けられる量を契約する。
「必要な物を何でも持ってこい、と命じているわけではないのですね」
「ああ。運べる者に、運べる物を任せている」
「商人が来れば、軍自身が運ぶ荷物も減らせます」
アレクは地図へ目を落とした。
「もちろん兵糧を民間の市場だけに頼ることはできません。敵に道を塞がれたり、商人が来なくなったりすれば軍が飢えます。ただ、酒、衣服、馬の餌、修理用の道具まで、最初から全部グランヴァルトから運ばなくてもよくなる」
「荷駄隊へ余裕ができる」
ゲオルクが言った。
「その分、絶対に切らせない穀物や武器を運べます」
アレクが答えると、アルベルトが小さく頷いた。
「マティアスも同じことを考えているのだろう。軍の後ろに商人を集め、その商人まで兵站の一部として使うつもりだ」
アレクは、もう一度報告書を読んだ。
市場税を下げれば商人が増えるかもしれない。
自分が考えたのは、そこからだった。
マティアスは、商人が恐れる危険と売れ残りを減らし、何をどれだけ運べるか聞いた上で契約し、その力を一万を超える軍の補給へ組み込もうとしている。
同じ市場を見ていても、考えている範囲が違った。
「悔しそうだな」
アルベルトの言葉に、アレクは顔を上げた。
「顔に出ていましたか」
「ああ」
「少しだけ悔しいです」
「なぜだ?」
「俺が今試していることを、もっと大きな規模で使っているからです。それに、商人へ命令するのではなく、何を運べるか聞いてから決めている。俺には、そこまで考えられませんでした」
「お前はまだ十五だ」
「年齢で納得したくありません」
「なら、見習えばいい」
アルベルトは当然のように言った。
「知らない者が、自分より良いやり方をしていた。それが分かったのなら、次はその理由を考えろ。悔しがるだけなら何も増えん」
「……はい」
「会ってみたいか?」
唐突に尋ねられ、アレクは少し迷った。
「会ってみたいです」
「素直だな」
「どんな人なのか知りたいので」
「それなら、そのうち会えるかもしれん」
「ヴァイスブルクへ来るのですか?」
「クレーマー商会は、ハイゼンとアルヴェインの間で商いを広げたがっている。本人が道と市場を確かめに来ても不思議ではない」
まだ決まった話ではなかった。
それでも、マティアス・クレーマーという名前は、アレクの中で急に輪郭を持ち始めていた。
◇ ◇ ◇
数日後、西から六台の荷車がヴァイスブルクへ到着した。
門番の記録では、出発地はハイゼン。積荷は塩、鉄製品、布。護衛は十人ほどだった。
報告を受けたアレクは市場へ向かい、荷車の持ち主へ話を聞いた。
「ハイゼンでも品物を売ったのですか?」
「ええ。積荷の半分ほどを」
四十歳ほどの商人は、荷車から塩の袋を下ろさせながら答えた。
「あちらは兵が多いでしょう。食料も塩もよく売れます。軍の買い取り価格も、今のところ悪くありません」
「それなら、全部ハイゼンで売った方が儲かったのでは?」
「私もそう思ったのですがね。あの市場を仕切っている方から、全部を一か所で売るなと言われました」
「どうしてです?」
「商人なら、帰り道でも稼げ。一つの市場だけに頼れば、そこが閉じた時に困るぞ、と」
「その方は、マティアス・クレーマーですか?」
商人は少し驚いた後、笑った。
「ご存じでしたか」
「名前だけです」
「変わった方ですよ。貴族でもないのに、軍の中で誰より忙しそうに歩き回っています」
「商人へ、何を運べるか聞くとも聞きました」
「ええ。最初に聞かれました。『お前は何なら切らさず運べる』とね」
「何と答えたのです?」
「塩です。南西に塩を扱う親類がいるので、月に二度なら荷車三台分を集められると答えました。すると、その場で次に運ぶ日と値段を決められました」
「量を増やせとは?」
「言われませんでした。無理に増やして次に来られなくなるくらいなら、三台を確実に運べ、と」
兵站には大量の物資が必要になる。
だからといって、一度に限界まで運ばせれば、馬も人も疲れ、次の輸送が続かなくなる。
マティアスは一度の量だけではなく、その後も運び続けられるかを見ている。
「本人も市場へ出るのですか?」
「毎日ではありませんが、よく見かけます。品物の値段を聞き、何が売れ残っているか調べ、商人同士が揉めれば話を聞く。兵が代金を払わず品物を持っていこうとした時には、本人が捕まえていました」
「軍人ではないのに?」
「だからこそでしょう。商人が逃げれば、困るのは軍だと言っていましたよ」
商人は塩の袋を数え、受け取りに来た市場役人へ数量を伝えた。
「マティアスは、ヴァイスブルクへ来る予定がありますか?」
「近いうちに自分で市場と街道を見ると言っていました」
「いつです?」
「そこまでは聞いていません。明日かもしれませんし、十日後かもしれません」
「随分曖昧ですね」
「戦の近くで商いをしていますからね。荷車が一台遅れただけでも、予定が変わります」
商人は笑い、仲間のもとへ戻っていった。
アレクは市場を行き交う人々の向こうに、西へ続く街道を見た。
元行商人。
クレーマー商会を率い、金、荷車、倉庫、商人との契約を使って軍を支える男。
相手が何を安定して運べるのか聞き、その力を組み合わせる。敵の食料が集まりにくくなるよう先に契約を結び、戦わずに小領主を中立へ動かし、必要な場所へ短期間で防御施設を築かせる。
その話を聞くほど、前世で知る一人の人物を思い出した。
豊臣秀吉。
低い身分から力を伸ばし、人と物と交渉を使って大きな働きをした人物。
だが、マティアスは秀吉ではない。
生まれも、立場も、暮らしてきた時代も違う。レオンハルトも織田信長そのものではなく、グランヴァルトも日本ではない。
似ている部分だけを見て、同じ未来へ進むと決めつけるべきではなかった。
それでも、気になる。
知らない男のやり方が、自分の知っている歴史とわずかに重なって見える。
「会ってみたいな」
アレクは誰にも聞こえない声で呟いた。
その男がヴァイスブルクを訪れる日は、アレクが思っていたより近くまで来ていた。
第八話を読んでいただき、ありがとうございました。
アレクは市場税の減免と基準となる容器を試し、商人や現場の者と協力しながら、戦後のヴァイスブルクに品物を呼び戻そうとしました。一つの制度だけですべてを解決するのではなく、記録を取り、結果を確かめながら改善していく経験は、今後の領地経営にもつながっていきます。
そして西方では、クレーマー商会と商人たちを動かし、軍の補給を支えるマティアスの存在が、アレクの中でさらに大きくなりました。次回、二人の距離がいよいよ縮まり始めます。
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