第七話 戦のあとに残るもの
第二次ヴァイスブルクの戦いは、アルヴェイン軍の勝利に終わった。
だが、戦に勝ったからといって、すべてが元通りになるわけではない。
傷ついた兵士たち。
壊れた城壁。
失われた武具や食料。
そして、戦死した兵士たちの家族。
それらすべてに向き合わなければ、本当の意味で戦は終わらない。
剣を置いたアレクが、今度は前世で当たり前だと思っていた「知識」を使い始める。
そしてその頃、西方では――。
アレクの知る歴史を思わせる、新たな人物が動き始めていた。
戦が終われば、兵士は剣を置いて家へ帰る。
前世の俺は、どこかでそんなふうに考えていた。
歴史書には「○○の戦い、勝利」と書かれる。
その次のページをめくれば、勝った側は次の戦へ向かい、負けた側は領地を失う。
でも現実は違った。
戦が終わった翌日のヴァイスブルクには、勝利を祝うような空気などほとんどなかった。
「せーの!」
兵士たちが掛け声を合わせる。
ギギギ……。
砲撃で崩れた石材が縄で引き上げられていく。
ガラガラッ。
「そっち押さえろ!」
「縄を緩めるな!」
「次の石を持ってこい!」
城壁では朝から補修作業が続いていた。
城内へ目を向ければ、負傷兵が運ばれ、鍛冶場では壊れた武器や防具の修理が始まっている。
街の一角には戦死者の家族が集まり、役人が一人ずつ名前を確認していた。
戦死百七十五。
負傷四百十六。
壊れた城壁。
破損した西門。
消費した矢。
失った槍。
死んだ軍馬。
徴発した食料。
踏み荒らされた畑。
そして、ラーデン街道を守るために動員した兵たちにも食わせなければならない。
勝った。
確かに俺たちは勝った。
でも。
「戦って……終わってからも金がかかるんだな」
「当たり前だろ」
隣にいたトーマスが呆れた顔をした。
「お前、本当に時々変なこと言うよな」
「いや、分かってたつもりだったんだけど」
「何を?」
「戦って、もっとこう……勝ったら終わりみたいな」
「終わるわけないだろ。壊したものは誰かが直すんだから」
「ですよね」
正論だった。
歴史書には、戦後の城壁を誰が直したかなんてほとんど書かれていない。
でも実際には、誰かが石を運び、誰かが木材を切り、誰かが金を払っている。
「アレク!」
城壁の下から声が飛んできた。
ゲオルクだ。
「殿下がお呼びだ!」
「また軍議?」
「今日は軍議じゃない!」
「じゃあ何です?」
「金の話だ!」
「……嫌な予感しかしない」
「奇遇だな。俺もだ!」
俺はトーマスを見る。
「行ってくる」
「頑張れ」
「他人事だな」
「俺は金の計算なんてしたくない」
「俺もだよ」
「じゃあな」
「逃げるな!」
トーマスは本当に逃げていった。
「……あいつ」
俺はため息をつき、城館へ向かった。
◇ ◇ ◇
部屋へ入った瞬間、俺は帰りたくなった。
「無理です」
老人が言った。
「出せ」
アルベルトが答えた。
「無理です」
「出せ」
「無いものは出せません」
「そこを何とかするのがお前の仕事だろう」
「無い金を作り出せるなら、私は財務官ではなく錬金術師になっております」
「魔法はないぞ」
「存じております」
何だこれ。
長机の向こうで、アルベルトと一人の老人が睨み合っていた。
老人は六十歳くらいだろうか。細身で、髪はほとんど白い。
机の上には何冊もの帳簿が積まれている。
ゲオルクとオットーもいる。
二人とも止める気はなさそうだった。
「来たか、アレク」
アルベルトが俺を見る。
「……帰っていいですか?」
「駄目だ」
「ですよね」
老人がこちらを見る。
「この少年は?」
「アレク・ハルトマン」
「ああ」
老人の目が少し細くなる。
「例の」
「例の?」
「最近、殿下の周りをうろうろしている小僧ですな」
「言い方」
「十五でしょう」
「はい」
「小僧です」
「否定できない」
「こいつがアレクだ」
アルベルトが紹介する。
「こちらはアルヴェイン大公家財務官、ヨハン・クラウゼ」
「よろしくお願いします」
「こちらこそ」
ヨハンはそう言ったが、顔はまったくよろしくなさそうだった。
「それで」
俺は空いている椅子へ座る。
「何で俺が呼ばれたんです?」
「金がない」
アルベルトが言った。
「それは聞きました」
「どうにかしろ」
「何で俺が!?」
「お前、変なことをよく思いつくだろ」
「扱いが雑すぎません?」
ヨハンが鼻で笑う。
「殿下。子供の思いつきで金庫が満たされるなら、私は三十年前に退職しております」
「……」
ちょっと腹が立った。
「どれくらい足りないんです?」
「アレク」
ゲオルクが止めようとした。
だが俺は帳簿を見る。
「見るだけならいいでしょう?」
ヨハンが俺を見る。
「読めるのですか?」
「数字なら」
「ならご覧なさい」
ドン。
分厚い帳簿が目の前へ置かれた。
「……」
多い。
すごく多い。
前世で経理をやっていたわけじゃない。
俺は普通の会社員だった。
こんなものを全部理解できるわけがない。
それでも、項目を追うことくらいはできる。
軍費。
食料。
武具。
城壁補修。
道路。
役人への俸給。
大公家の支出。
商人への支払い。
戦死者遺族への補償。
「これ、全部今払うんです?」
ヨハンの眉が動いた。
「どういう意味です?」
「いや、だから。この金額全部を、今すぐ払わないといけないんですか?」
「支払いは支払いです」
「それは分かるんですけど」
俺は帳簿を指で追う。
「この商人への支払い、期限は?」
「今月末です」
「今日は?」
「十二日」
「じゃあ、まだ十八日ある」
「……」
「こっちは?」
「来月です」
「じゃあ今じゃない」
ヨハンの顔が少し変わった。
「何を言いたいのです?」
「金がないっていうから、全部払えないのかと思ったんです。でも、今すぐ必要な金と、後で払えばいい金が混ざってません?」
部屋が静かになる。
俺は少し不安になった。
変なことを言ったか?
「……続けなさい」
ヨハンが言った。
「例えば、戦死した人の家族への補償は早く払った方がいいと思うんです」
「当然です」
「負傷兵の治療も」
「当然です」
「城壁も直さないといけない」
「当然」
「でも、商人への支払いは交渉できるかもしれない」
「……」
「半分を今払って、残りを秋の税収が入ってから払うとか」
ヨハンがすぐに返す。
「商人が了承すれば、です」
「ですよね」
「拒否されたら?」
「……困る」
「ほら見なさい」
「でも」
俺は考える。
「何か条件を付けたら?」
「条件?」
「支払いを待ってもらう代わりに、次に大公家が物資を買う時、その商人を優先するとか」
「……」
「駄目です?」
ヨハンが黙った。
アルベルトが面白そうな顔をしている。
「ヨハン」
「黙ってください」
「私は何も言っていない」
「顔がうるさいです」
「酷いな」
俺は帳簿へ戻る。
「あと、これ」
「何です?」
「軍用倉庫の維持費」
「それが?」
「中に何があるんです?」
「武具、鉄材、木材、革、その他の備蓄です」
「どれくらい?」
「帳簿に記載されています」
別の帳簿が出てくる。
俺は開いた。
倉庫一。
倉庫二。
倉庫三。
書き方が全部違う。
「……見にくい」
「何ですと?」
「いや、これ。倉庫ごとに書き方が違うんですけど」
「担当者が違いますからな」
「同じにしたら?」
「何を?」
「帳簿の書き方」
ヨハンが俺を見る。
「例えば、一番左に品物、その次に入った数、その次に出した数、最後に残っている数を書く。全部の倉庫で同じにする」
「……」
「そうしたら、どこに何が余ってるかすぐ分かりません?」
ヨハンは答えなかった。
代わりに帳簿を取り上げる。
一冊。
二冊。
三冊。
見比べる。
「……」
長い。
「財務官殿?」
「黙ってください」
「はい」
怖い。
しばらくしてヨハンが顔を上げた。
「それで?」
「え?」
「他には?」
態度が少し変わった。
「えっと……」
俺は帳簿を見る。
「倉庫に余ってる物が分かれば、今買おうとしてる物の中で買わなくていい物が出てくるかもしれない」
「なるほど」
「それと、使えない物があるなら」
「使えない?」
「例えば、古すぎて軍では使わない鉄材とか。壊れた武具とか」
「ありますな」
「売れません?」
「……」
「鉄として鍛冶屋に売るとか」
ヨハンが目を細める。
「軍の備蓄を売却しろと?」
「全部じゃないですよ。どうせ使わない物だけ」
「いざという時に必要になる可能性があります」
「使えない物なのに?」
「……」
ヨハンが止まった。
「それに」
俺は少し笑う。
「財務官殿が『不要』と判断した物だけなら、殿下も文句言えないんじゃないです?」
アルベルトが俺を見る。
「お前、私を何だと思っている」
「金を使う人」
「間違ってはいない」
ヨハンの口元が少しだけ動いた。
笑った?
「面白い」
「え?」
「少なくとも、ただ金を出せと言うどこかの大公殿下よりは」
「ヨハン」
「事実です」
「……」
俺はちょっと楽しくなってきた。
「じゃあ、もう一つ」
「聞きましょう」
「戦死者の家族への補償なんですけど」
「そこは削りません」
「削るんじゃなくて」
俺は地図を見る。
「お金だけじゃなくてもいいんじゃないです?」
「どういう意味です」
「土地とか」
全員が俺を見る。
「いや、例えばですよ。大公家が直接持ってる土地で、人手が足りなくなってる場所ってありません?」
ヨハンが少し考える。
「あります」
「そこを戦死者の家族に貸すとか」
「農民でなければ?」
「仕事を用意する」
「簡単に言いますな」
「簡単じゃないと思います。でも、家族を亡くして収入もなくなった人に一回だけ金を渡して終わりより、毎年収入が入る方がいいんじゃないかなって」
ヨハンの表情から、さっきまでの苛立ちが消えていく。
代わりに、財務官の顔になった。
「土地を与えれば、そこから取れる税が減ります」
「じゃあ全部免除じゃなくて、最初の一年だけとか」
「一年後に生活が安定する保証は?」
「……ないです」
「二年なら?」
「それは財務官殿が計算してくださいよ」
「逃げましたな」
「そこは専門家の仕事でしょう」
ヨハンが初めてはっきり笑った。
「その通りです」
俺も笑った。
勝った。
何に勝ったのか分からないけど。
たぶん少し勝った。
「殿下」
ヨハンがアルベルトを見る。
「すぐに出せる金額を再計算します」
「出るのか?」
「まだ分かりません」
「さっき無理だと言っただろ」
「状況が変わりました」
「アレクのおかげで?」
「調子に乗らせないでください」
「俺、何も言ってないですよ」
「顔がうるさいです」
「それ殿下にも言ってましたよね?」
「似てきましたな」
「誰と!?」
ゲオルクが笑いを堪えている。
オットーは完全に横を向いていた。
俺はその時、少しだけ思った。
剣を振らなくても。
人を殺さなくても。
俺にできることはあるのかもしれない。
◇ ◇ ◇
話はそこで終わらなかった。
「これを全部確認するんですか?」
「言い出したのはあなたでしょう」
俺の前には、軍用倉庫の帳簿が積まれていた。
「俺、提案しただけですよね?」
「なら最後まで責任を持ちなさい」
「財務官殿」
「何です?」
「俺のこと嫌いでしょう」
「今のところ、五分五分です」
「微妙!」
午後から、俺はヨハンと一緒に倉庫を回ることになった。
実際に見てみると、帳簿より酷かった。
「これ何です?」
「槍です」
「それは分かります」
倉庫の奥に古い槍が積まれている。
穂先は錆び、柄の一部は腐っていた。
「使えるんです?」
「修理すれば」
「いくらで?」
「……」
「新しい槍を買うのと、どっちが安い?」
「……」
ヨハンが倉庫番を見る。
倉庫番が視線を逸らした。
「調べましょう」
「ですよね」
別の場所には革。
さらに奥には鉄材。
何年置いてあるのか分からない木材まである。
「財務官殿」
「何です?」
「これ、会社だったら怒られるやつです」
「カイシャ?」
「あ」
しまった。
「えっと……商会です。商会だったら」
「そうですか」
危ない。
ヨハンは気にせず帳簿へ書き込んでいる。
「今後、倉庫帳簿の形式を統一します」
「本当に?」
「あなたが言ったのでしょう」
「そうですけど」
「入庫、出庫、残数」
「あと日付」
「日付?」
「いつ入って、いつ出たか分かった方がいい」
「理由は?」
「古い物から使えるから」
「……」
ヨハンが止まる。
「なるほど」
「食料なら特に」
「確かに」
「古い麦が奥に残って、新しい麦から使ったら腐るでしょう?」
「……」
また止まった。
「何です?」
「いえ」
「怖いんですけど」
「あなたは時々、妙に当たり前のことを言いますな」
「悪口?」
「褒めています」
「分かりにくい」
でも。
俺にとっては本当に当たり前だった。
前世の会社でも、先に入った物から使うなんて珍しい考えじゃない。
でも、この世界では倉庫ごと、担当者ごとに管理方法が違う。
知識というより。
やり方。
それだけで変わることもある。
「アレク殿」
「はい」
「一つ忠告しておきます」
ヨハンが帳簿を閉じた。
「あなたの方法が必ず正しいとは思わないことです」
「……」
「帳簿を統一するにも紙が要る。書ける人間も要る。教育する時間も必要です」
「あ」
「倉庫番の全員が文字を読めるわけでもない」
「……そうか」
そこまで考えてなかった。
「ですから」
ヨハンが言う。
「まずヴァイスブルクの三つの倉庫だけで試します」
「試す?」
「上手くいけば広げる。失敗すれば戻す」
「……」
俺は少し笑った。
「それがいいと思います」
「あなたの世界では違いましたか?」
「え?」
心臓が一瞬跳ねる。
ヨハンが怪訝そうな顔をする。
「あなたの育った土地では、と言ったのですが」
「あ、ああ。そうですね」
危ない。
俺は笑って誤魔化した。
知識がある。
だから正しい。
そんな簡単な話じゃない。
この世界には、この世界の事情がある。
それを知らずに押しつければ、きっと失敗する。
神が言っていた言葉を思い出す。
知識は道具。
ようやく、その意味が少し分かってきた気がした。
◇ ◇ ◇
三日後。
西門の補修が本格的に始まった。
商人との支払い交渉も進み、一部は秋まで延期されることになった。
代わりに大公家は、次回の軍需物資購入で交渉に応じた商人を優先する。
倉庫からは、修理するより買い直した方が安い古い武具や鉄材が見つかり、一部は鍛冶屋へ売却された。
それだけで全ての金が用意できたわけではない。
ヨハンの計算では、まだ不足している。
戦死者遺族への土地貸与も、すぐには実施できなかった。
誰にどの土地を貸すのか。
農業経験のない家族をどうするのか。
土地を貸したことで既存の農民との争いが起きないか。
考えることは山ほどある。
それでも。
「最初よりはマシですな」
ヨハンが言った。
「どれくらい?」
「聞きたいですか?」
「聞きたい」
「では帳簿を」
「やっぱりいいです」
「逃げるな」
「殿下みたいになってる!」
財務官との戦いは、ベルン軍より長引きそうだった。
◇ ◇ ◇
その日の夕方。
俺は城壁の上にいた。
西門の下では職人たちが作業を続けている。
カン。
カン。
カン。
石を削る音が規則正しく響いていた。
「ここにいたか」
振り返ると、アルベルトが歩いてくる。
「殿下」
「ヨハンに聞いたぞ」
「何を?」
「倉庫の帳簿を全部変えるそうだな」
「全部じゃないです。三つだけ試すって」
「なるほど」
アルベルトが隣に立つ。
「楽しいか?」
「何が?」
「金勘定」
「全然」
「ではなぜやる」
俺は少し考える。
城壁の下。
補修する職人。
荷車を押す兵士。
家へ帰る負傷兵。
「戦よりいいから」
「……」
「剣を振らなくても誰かを助けられるなら、その方がいい」
アルベルトは何も言わなかった。
少しして。
「そうか」
それだけ答えた。
「殿下」
「何だ」
「俺って何になるんでしょうね」
「急だな」
「いや」
俺は西の空を見る。
「兵士なのか、騎士なのか、軍師なのか。最近、自分でも分からなくなってきて」
「十五で決める必要があるか?」
「この世界だと十五は大人でしょう」
「大人だからといって、自分が何者か分かっているとは限らん」
「殿下も?」
「私など未だに分からん」
「嘘だ」
「本当だ」
アルベルトが笑う。
「できることを増やせ、アレク」
「できること?」
「ああ。剣を振れる。考えられる。人と話せる。帳簿にも口を出せる」
「最後はヨハン殿に怒られます」
「それでもいい」
アルベルトが俺を見る。
「何者になるか決めるのは、その後でいい」
「……はい」
俺はもう一度、西を見る。
この世界に来た時。
俺にあったのは、前世の記憶だけだった。
戦国時代の知識。
学校で習った知識。
仕事で覚えたこと。
生きている時には、特別だと思ったことなんてない。
でも。
ここでは。
使えるものがある。
剣だけじゃない。
それが少し嬉しかった。
◇ ◇ ◇
「急報――!」
パカラッ、パカラッ、パカラッ!
夕暮れの街道を一騎の馬が駆けてきた。
「西方からです!」
俺とアルベルトは同時に顔を上げた。
「レオンハルトか」
「たぶん」
伝令が城内へ入る。
しばらくして、俺たちも軍議室へ呼ばれた。
ゲオルクが届いた報告書を読む。
「ハイゼン北方にて、グランヴァルト軍とシュヴァルツ伯軍が交戦」
俺は地図を見る。
グランヴァルト軍、およそ一万四千。
シュヴァルツ伯軍、およそ七千五百。
兵力だけなら倍近い。
「結果は?」
アルベルトが聞く。
「グランヴァルト軍の勝利です」
「やっぱり」
俺は小さく呟いた。
「ただし」
ゲオルクが続ける。
「正面からの決戦ではありません」
「どういうことだ?」
「詳細はまだ不明ですが、シュヴァルツ伯軍は夜間に陣地を放棄。翌朝、グランヴァルト軍が追撃し、大きく崩したとのことです」
「夜逃げ?」
俺が聞く。
「違う」
アルベルトが地図を見る。
「逃げざるを得なくなったんだろう」
「何で?」
「それが書いてある」
ゲオルクが報告書へ目を戻した。
「シュヴァルツ軍後方の村々において、グランヴァルト側が大量の食料を買い付けた模様」
「……買った?」
「はい」
「奪ったんじゃなくて?」
「買ったそうだ」
俺は眉を寄せる。
「敵の近くで?」
「さらに、シュヴァルツ伯へ物資を売る予定だった商人にも先に接触し、相場より高値で買い取ったとあります」
「……」
兵糧攻め。
でも。
軍で奪ったんじゃない。
金で買った。
「誰が考えたんです?」
ゲオルクが紙を見る。
「名前があります」
俺は何となく顔を上げた。
「グランヴァルト軍兵站補佐」
聞いたことのない役職。
「マティアス・クレーマー」
「……誰?」
「知らん」
アルベルトも首を振った。
「貴族?」
「報告によれば違います」
「じゃあ騎士?」
「それも違うようです」
ゲオルクが続きを読む。
「元行商人」
「……は?」
「数年前にレオンハルト公へ召し抱えられた人物とのことです」
元行商人。
兵站。
敵地で食料を買い占める。
俺の頭の中で、何かが引っかかった。
「……」
「どうした?」
アルベルトが聞く。
「いや」
偶然だ。
こんなの。
戦国時代にだって似たようなことをした人間はいる。
秀吉だけじゃない。
そもそも元行商人だ。
農民出身ですらない。
「その人、他に何かしたんです?」
「まだある」
ゲオルクが紙をめくる。
「シュヴァルツ軍配下の小領主三名へ密かに接触。そのうち一名が戦闘前夜に中立を宣言」
「……」
「さらに」
ゲオルクが少し変な顔をした。
「何?」
「ハイゼン南方に簡易砦を築いたそうだ」
「何日で?」
「二日」
「……」
俺は黙った。
兵站。
調略。
築城。
身分が低い。
レオンハルトに取り立てられた。
俺の知っている歴史の中に、嫌でも一人の男が浮かんでくる。
でも。
違う。
名前が違う。
出自も違う。
時代も違う。
世界そのものが違う。
「アレク?」
「……何でもない」
俺は地図へ視線を落とした。
偶然。
そう思う。
でも。
胸の奥に生まれた小さな違和感は消えなかった。
「マティアス・クレーマー……」
もう一度、その名前を呟く。
知らない名前。
知らない男。
なのに。
その男のやっていることを、俺はどこかで知っている気がした。
第二次ヴァイスブルクの戦いを終え、今回は戦後処理と復興のお話でした。
戦場で敵を倒すことだけが、アレクの持つ力ではありません。
佐藤恒一として三十年間生きてきた中で身につけた、現代では当たり前だった考え方。
帳簿の整理や在庫の管理、支払いの優先順位、交渉の仕方。
それらもまた、この世界ではアレクの武器になっていきます。
もちろん、知っているから何でもできるわけではありません。
紙も、人材も、技術も、金も限られている世界です。
アレクの考えが通用しないこともあれば、この世界を知る人々の力を借りなければ実現できないこともあります。
そして西方から届いた、一人の男の名前。
マティアス・クレーマー。
兵站、調略、築城。
貴族でも騎士でもなく、元行商人から黒獅子レオンハルトに取り立てられた男。
知らない名前なのに、なぜか知っている気がする。
『知らない世界の、知っている物語』。
アレクが感じた小さな違和感は、やがて彼自身の運命を大きく動かしていくことになります。




