第七話 戦のあとに残るもの
第二次ヴァイスブルクの戦いは、アルヴェイン軍の勝利に終わりました。
しかし、傷ついた兵、壊れた城壁、遺族への補償など、戦の後にも多くの仕事が残っています。
剣を置いたアレクは、今度は帳簿と倉庫を前に自分のできることを探します。
第二次ヴァイスブルクの戦いが終わった翌朝も、城内には槌や荷車の音が響いていた。
城壁では、石工と兵たちが砲撃によって崩れた石を取り除いている。亀裂の入った石を残したまま新しい石を積めば、次に衝撃を受けた時、周囲を巻き込んで崩れる危険がある。そのため、使えない部分を見極め、慎重に外さなければならなかった。
西門では大工が破損した板と梁を調べていた。内側から増やした横木のおかげで門そのものは残ったが、砲弾を受けた場所は深く抉れている。鉄具もいくつか曲がり、門を開閉するたびに軋んだ音を立てた。
修理が終わるまで、西門の前には土嚢と荷車が残される。ベルン軍は西へ退いたものの、国境を越えたことが確認されるまでは警戒を解けない。
鍛冶場の前には、戦場から回収された槍、剣、盾、鎧が積まれていた。
血と泥を洗い落とせば再び使えるものもある。柄を替えなければならない槍、革紐が切れた盾、金具が曲がった鎧もあった。修理できないほど壊れたものは、鉄や革を取り外して材料として使う。
治療所には、今も多くの負傷兵がいる。
この戦いで死亡したアルヴェイン兵は百七十五人。
負傷者は四百十六人に達した。
負傷者のすべてが、すぐに兵へ戻れるわけではない。数日で歩けるようになる者もいれば、腕や脚に大きな傷を負い、以前と同じ働きができなくなる者もいる。
戦死者の出身地と家族を確認する作業も始まっていた。
名前、所属していた部隊、出身の村、家族の人数。記録の足りない者については、同じ部隊にいた兵から話を聞く。
戦場で死者の名前を読み上げただけでは、その家族の暮らしは守れない。
アレクは西側の城壁から、城内で続く作業を見ていた。
歴史書には、戦いの名前と勝敗が記される。
どの軍が何人で、どこに布陣し、どのような策で勝ったのか。前世のアレクが好んで読んだのも、そうした部分だった。
戦いが終わった後、誰が崩れた石を運んだのか。
戦死した兵の家族が、その後どうやって暮らしたのか。
失った槍や矢を、誰が作り直したのか。
そこまで詳しく書かれている本は多くなかった。
だが、現実の戦は、勝敗が決まったところでは終わらない。
「何を見てるんだ?」
声を掛けてきたのはトーマスだった。
頬には前日の砲撃で飛んだ石片による細い傷が残っている。血は止まっていたが、本人が触るせいで傷の周囲が赤くなっていた。
「戦の後」
アレクが答えると、トーマスは城内を見回した。
「そのままだな」
「ああ」
「勝ったのに、誰も休んでない」
「休んでいる兵もいるよ」
アレクは治療所の方へ目を向けた。
「休みたくて休んでるわけじゃないけど」
トーマスの表情から、わずかに軽さが消えた。
「昨日まで一緒だった奴が、何人かあそこにいる」
「知り合い?」
「同じ隊にいた。死んだ奴もいる」
「そうか」
それ以上、気の利いた言葉は出なかった。
トーマスも慰めてほしくて口にしたわけではないらしい。城壁の縁へ両腕を置き、修復作業を眺める。
「俺たちは勝ったんだよな」
「ああ」
「だったら、直せるだけマシなんだろうな」
「どういうこと?」
「負けて城を取られてたら、直すのは俺たちじゃないだろ」
トーマスの言う通りだった。
壊れた城壁を直し、傷ついた兵を治療し、失った物を補えるのは、守り抜いたからだ。
「アレク!」
城壁の下から、ゲオルクの声が届いた。
「アルベルト殿下がお呼びだ!」
「今度は何ですか!」
「金だ!」
「……金?」
「来れば分かる!」
ゲオルクは、それだけ言って城館の方へ歩いていった。
アレクは隣のトーマスを見る。
「行ってくる」
「頑張れ」
「何を頑張るのかも分からないんだけど」
「金の話なら、戦より俺には分からん」
「俺だって分からないよ」
それでも呼ばれた以上、行かないわけにはいかない。
アレクは城壁を下り、アルベルトの待つ城館へ向かった。
◇ ◇ ◇
執務室の長机には、何冊もの帳簿と書類が積まれていた。
アルベルトの向かいに座っているのは、髪のほとんどが白くなった細身の老人だった。年齢は六十前後に見える。老人は帳簿の数字を指で追いながら、アルベルトへ厳しい視線を向けていた。
ゲオルクと数人の役人も同席している。
「来たか、アレク」
「はい。お呼びと聞きました」
老人が顔を上げ、アレクを見た。
視線は鋭いが、敵意があるわけではない。品物の状態を見定める商人のように、顔から服装までを静かに観察している。
「この少年が、アレク・ハルトマンですか」
「そうだ」
アルベルトが答えた。
「アレク。こちらはアルヴェイン大公家の財務官を務めるヨハン・ケストナーだ」
「初めまして。アレク・ハルトマンです」
「ヨハン・ケストナーです。あなたの話は聞いております」
「どんな話ですか?」
「戦場で余計なことへ気づき、殿下の仕事を増やす少年だと」
アレクはアルベルトを見た。
「それ、誰から聞いたんですか」
「私ではないぞ」
「まだ何も言ってません」
「顔に書いてある」
ヨハンは二人のやり取りを見ても表情を変えなかった。
「座ってください。今は一刻も惜しい」
「はい」
アレクが空いている椅子へ座ると、ヨハンは一枚の書類を差し出した。
数字と項目が細かく並んでいる。
「戦後に必要となる支出です」
「こんなに?」
「まだ確定していないものもあります」
一番上にあるのは、負傷兵の治療に必要な薬、布、食料の代金だった。
その下には、戦死者の家族へ支払う補償、西門と城壁の修繕費、破損した武具の修理と補充、死んだ軍馬の代わりを用意する費用が並ぶ。
ほかにも、戦の前後に商人から買い入れた兵糧や矢の代金、徴発した荷車への補償、踏み荒らされた畑への対応が必要になる。
ラーデン街道へ残した七百人の兵にも、食料を運び続けなければならない。
「全部合わせると、いくらになるんですか」
アレクが尋ねると、ヨハンは別の紙を出した。
そこに書かれた数字を見ても、すぐには大きさを実感できなかった。銀貨何枚分と聞けば想像できるが、いくつもの支出が合計された数字は、アレクの生活から遠すぎる。
「これに対して、すぐに使える金はここまでです」
ヨハンが二つ目の数字を指した。
必要額より、明らかに少ない。
「足りませんね」
「ですから、こうして話をしております」
「秋に税が入れば足りるんですか?」
「今年の収穫量が平年並みで、ほかに戦が起きず、徴収に大きな遅れがなければ」
条件が多い。
しかも、ベルン軍との戦いが終わったばかりだ。踏み荒らされた畑もあり、動員された農民はその間、農作業ができなかった。秋の税収を平年と同じように見積もること自体が危うい。
「それで、私は支出の延期を進言しております」
ヨハンが言った。
「西門周辺の最低限の補修を終えた後、城壁の全面的な改修は秋以降に回す。予備武具の補充も減らします」
「兵糧は減らせん」
アルベルトが言う。
「承知しております。負傷兵の治療費も削れません。戦死者の家族への補償も必要です」
「商人への支払いは」
「契約どおりです」
「待たせろ」
「何の条件もなく支払いを遅らせれば、次に戦が起きた時、誰も大公家へ物を売らなくなります」
ヨハンは淡々と答えた。
「今回の戦では、多くの商人が危険を承知で兵糧、矢、薬を運びました。その者たちへの代金を一方的に遅らせれば、大公家は約束を守らないという話が広がります」
「分かっている」
「分かっている方の顔には見えませんでしたので」
「お前は私にもう少し優しく話せないのか」
「金庫へ銀貨を戻していただければ、いくらでも」
アレクは二人の顔を交互に見た。
アルベルトが本気で商人への支払いを踏み倒すつもりではないことは分かる。ヨハンも、ただ金を出したくないから反対しているのではなかった。
限られた金を、どこへ先に使うのか。
その判断を誤れば、今の危機を乗り越えるために、次の危機へ備える力を失う。
「アレク」
アルベルトが呼んだ。
「はい」
「お前なら、どれを先に払う」
「私が決めるんですか?」
「決めろとは言っていない。考えを聞いている」
アレクはもう一度、書類へ目を落とした。
項目も数字も多い。
前世で経理を担当した経験はない。会社員として請求書や経費の締め切りを気にすることはあったが、一国の財政を動かしたことなど当然なかった。
それでも、書かれている日付には違いがある。
「これは、全部今すぐ必要な金ですか?」
ヨハンの目がわずかに細くなった。
「どういう意味でしょう」
「治療所の薬や食料は、今日から必要です。西門も、敵が戻ってくるかもしれないなら急いで直さないといけない。でも、こっちの城壁の全面改修は秋まで待てるんですよね」
「待たせる予定です」
「商人への支払いも、相手ごとに期限が違います」
「はい」
「必要な金の合計と、今日必要な金を分けたらどうでしょう」
ヨハンは答えず、アレクが持っている書類へ目を向けた。
「続けてください」
「例えば、今すぐ必要なのは負傷した人の治療と食事です。それから、戦死した人の家族が当面暮らすためのもの。西門も、完全に作り直すのは後でも、閉められるようにはしないといけない」
「ほかには」
「ラーデン街道にいる兵の食料。商人への支払いは契約を確認して、今月中のものと来月でも間に合うものに分ける。武具も、今すぐ兵に持たせる分と、倉庫へしまう予備を分ける」
「支出そのものが減るわけではありません」
「はい」
アレクも、それは分かっていた。
「でも、金がなくなる日を遅らせられます。その間に、別の方法を探せるかもしれません」
ヨハンは手元にあった紙を一枚取り、短い線を引いた。
今すぐ、今月中、秋まで。
三つの欄を作り、書類にある項目を当てはめていく。
「城壁の全面改修は秋まで。西門の応急修理は今すぐ。治療費も今すぐ。遺族への補償は……」
ヨハンの手が止まった。
「金額のすべてを一度に払う必要はないかもしれません」
アレクが言った。
「どういう意味です?」
「最初に当面の生活に必要な分を渡して、残りは秋に払う。ただし、遅らせることは最初から説明します」
「約束を変えることになります」
「本人たちが納得すれば、です」
ヨハンは何も言わず、遺族補償の欄へ印を付けた。
「商人への支払いも、同じように交渉できませんか」
「誰が応じると思います?」
「次に大公家が物を買う時、交渉に応じた商人を優先する。それだけだと足りないなら、遅れた分に少し上乗せする」
「上乗せすれば、支払額は増えます」
「でも、今必要な金は減ります」
アレクはそこで言葉を切った。
「全員へ頼む必要はないと思います。待っても大丈夫な商会と、今すぐ金が必要な商人がいるはずです」
小さな商人にとっては、一度の支払いの遅れが商売を続けられなくなる原因になるかもしれない。反対に、資金に余裕のある商会なら、将来の取引を条件に待つことを選ぶ可能性がある。
全員を同じように扱う必要はない。
ヨハンは書きかけの紙を置いた。
「支払いの延期を願い出る相手は、こちらで選びます」
「できそうですか?」
「交渉してみなければ分かりません。ただし、何の条件も示さず待たせるよりは可能性があります」
「では任せる」
アルベルトが言った。
ヨハンはすぐに頷かなかった。
「延長分へ上乗せする額と、次回の取引で優先する範囲を先に決めます。殿下が後から別の商人を選ばれないよう、書面も残します」
「私を信用していないのか」
「財務官は、誰も信用せずに帳簿を付けるものです」
「私は大公だぞ」
「ですから、特に必要なのです」
ゲオルクが視線を逸らした。
笑いを堪えているらしい。
「アレク」
不満そうな顔をしたアルベルトが呼んだ。
「はい」
「ほかには」
アレクは机に積まれた帳簿を見た。
すぐに金を増やすことはできない。
それなら、買おうとしている物の中に、すでに持っている物がないかを調べるしかない。
「軍用倉庫には、何が残っていますか」
「武器、防具、鉄材、木材、革、食料、そのほかの備蓄です」
ヨハンが答えた。
「今買おうとしている物と、同じ物は?」
「あるでしょう」
「どれくらい?」
「帳簿を確認しなければ分かりません」
「そこを先に確認できませんか」
ヨハンは、机の端に積まれた三冊の帳簿へ目を向けた。
「倉庫ごとに帳簿があります」
アレクも一冊を手に取った。
品物の名前と数量は書いてある。だが、別の倉庫の帳簿を開くと、数字の並ぶ順番が違った。
一方には入庫した数と現在数があり、もう一方には出庫した数しか記されていない。同じ種類に見える革も、倉庫によって別の名前で書かれている。
「分かりにくいですね」
「担当する書記が違いますから」
「同じ書き方にできませんか」
「できます。しかし、それで今すぐ銀貨が増えるわけではありません」
「でも、何がどこにあるのか早く分かれば、買わなくていい物を見つけられるかもしれません」
「帳簿に記された物が、すべて使えるとは限りません」
「だったら、使えるかどうかも分ける」
ヨハンがアレクを見る。
アレクは帳簿の余白を指した。
「品物の名前、入った数、出した数、残っている数。それから、いつ入ったのかと、今の状態。順番を揃えれば比べやすくなります」
「すべての倉庫で、それを行うのですか」
「最初は一つか二つで試す方がいいと思います」
ヨハンの表情が、わずかに変わった。
先ほどまではアルベルトと話す時にも険しかった目が、今は帳簿へ向いている。
「三つです」
「何がですか?」
「ヴァイスブルクの軍用倉庫は三つあります。規模も保管している物も違う。試すのであれば、三つとも確認した方が問題を見つけやすいでしょう」
「全部やるんですか」
「言い出したのはあなたです」
「私も?」
「当然です」
アレクは思わずアルベルトを見た。
「何とか言ってください」
「よかったな。仕事が見つかったぞ」
「そういうことを言ってほしかったんじゃありません」
◇ ◇ ◇
戦死者の家族への支援については、その日のうちに別の問題が見つかった。
役人が集めた記録を確認すると、同じ金額を支給するだけでは暮らしを守れない家が多かった。
農地を持つ家でも、成人した男手を失えば、これまでと同じ広さを耕すことが難しくなる。幼い子供と高齢者しか残らない家もある。
兵士として雇われる前から農民だった者もいれば、職人、荷運び、商家の奉公人だった者もいた。
「土地を貸せばいいと思ったんです」
アレクは役人の持ってきた記録を見ながら言った。
「大公家が持っている土地で、人が足りない場所を使ってもらえば、毎年収入が得られるかと」
「農作業をしたことのない者へ土地を貸して、何を作らせるのです?」
ヨハンが尋ねる。
「教えるとか」
「誰が?」
「近くの農民に」
「自分の畑がある時期に、見知らぬ者へ農業を教える余裕があるでしょうか」
「……ないかもしれません」
「土地を貸したことで、以前からその土地を使っている者と争いになる可能性もあります」
アレクは記録へ目を落とした。
考え方が間違っているわけではないと思う。
だが、土地を渡せば暮らせるというほど単純ではなかった。
「なら、家ごとに分けませんか」
「分ける?」
「農業の経験があって、働ける人が残っている家なら、土地や農具を貸す。家族だけでは今の畑を耕せないなら、種籾や人手を貸す」
「人手をどこから出します?」
「戦で怪我をして、兵には戻れなくても軽い農作業ならできる人はいませんか」
「負傷兵にも家族と仕事があります」
ヨハンはすぐに問題点を指摘する。
「では、城壁の修理に来ている人へ賃金を払うように、畑を手伝った人にも賃金を払う」
「その金は?」
「……必要ですね」
考えるたびに、金へ戻ってくる。
アレクが黙ると、ヨハンは記録の一つを指した。
「考えを一つに絞る必要はありません」
「どういうことです?」
「幼い子供しか残らない家と、成人した家族が三人残る家を同じように扱うから無理が出るのです」
ヨハンは新しい紙を取り出した。
「当面の麦と薪が必要な家。税を猶予すれば暮らせる家。仕事を紹介すべき家。土地や農具を貸すことで自立できる家。金銭を優先すべき家。最初に分けます」
「そんなに分けたら、調べるのが大変です」
役人が不安そうに言った。
「大変だからといって、同じ物を配って終わらせれば、結局あとで困窮した家への対応が必要になります」
「人手を増やしますか」
「教会と各村の村長へ協力を求めましょう。家族の状況は、その土地に住んでいる者の方が知っています」
アレクはヨハンの書き始めた紙を見た。
自分が出したのは、金だけでなく土地や仕事を使えないかという大まかな考えだった。
それを実際に使える形へ変えているのはヨハンだ。
「財務官って、金を数えるだけじゃないんですね」
「今さら何を言っているのです」
「もっと、出すとか出さないとかを決める人かと」
「誰へ、いつ、何のために出すのかを決める仕事です」
「難しいですね」
「ですから私がいるのです」
ヨハンは当然のことのように答えた。
アレクは少しだけ笑った。
「それなら、この仕事はヨハン殿に任せます」
「あなたにも手伝っていただきます」
「どうして?」
「最初に言い出した者が、どのような結果になるのか見ないまま逃げてはいけません」
「逃げるつもりはありませんけど」
「では問題ありませんな」
ヨハンも、ほんの少しだけ笑った。
◇ ◇ ◇
午後から、アレクはヨハンと役人、二人の倉庫番とともに軍用倉庫を回った。
三つの倉庫にある物を、その日のうちにすべて数えるつもりはない。
まず帳簿から十種類ほどを選び、実物の数と状態を確認する。帳簿と現物がどの程度一致しているのかを調べるためだった。
最初の倉庫には、槍と盾が多く保管されていた。
「帳簿では槍が百二十三本」
ヨハンが読み上げる。
倉庫番と兵が槍を並べ、一本ずつ確認した。
数は百二十三本で合っている。
しかし、そのまま戦場へ持っていける槍は八十本にも満たなかった。穂先に錆が浮いているもの、柄が曲がっているもの、革の巻き方が緩んでいるものが混ざっている。
中には柄の根元が腐り、力を掛ければ折れそうな槍もあった。
「これも、帳簿では一本として数えるのですか」
アレクが尋ねた。
「槍であることに違いはありません」
倉庫番が答える。
「でも、兵に渡したら危ない」
「修理すれば使えます」
「穂先を磨くだけで使える物と、柄から替えないといけない物があります」
同じ「修理が必要」でも、手間と費用が違う。
ヨハンは三本の槍を並べた。
一本目はすぐに使える。
二本目は手入れと簡単な補修で使える。
三本目は槍として使うより、穂先だけを外して再利用した方がよい。
「四つに分けましょう」
ヨハンが言った。
「使用可能、修理可能、材料として再利用、廃棄」
「文字の読めない倉庫番はどうします?」
役人が尋ねた。
「木札へ印を付けます」
アレクは答えた。
「丸一つなら使える。丸二つなら修理。三角なら材料。大きく斜線を入れたら廃棄。正式な数は書記が帳簿へ書く」
「印を間違えれば?」
「色も変えたいところですけど、塗料が必要になりますね」
「札の形を変える方法もあります」
倉庫番の一人が口を挟んだ。
「使用可能は四角。修理は端を一つ削る。材料にする物は端を二つ削る。廃棄は札の中央へ穴を開ければ、暗い場所でも触れば分かります」
アレクは感心して倉庫番を見た。
「その方がいいですね」
アレクの前世知識だけでは、薄暗い倉庫で働く者にとって使いやすい方法までは分からない。
実際に木札を扱う倉庫番だからこそ、思いつくやり方だった。
ヨハンが役人へ命じる。
「試験用の札を用意してください。今ある木片で構いません」
「はい」
次の倉庫では、革と木材を確認した。
帳簿では同じ名前で記されている革でも、厚さと状態が違う。乾燥しすぎて割れ始めている物もあれば、手入れをすれば鎧や盾の補修へ使える物もあった。
木材には、倉庫へ入れた年が書かれていない。
古い木材が奥へ積まれ、その前へ新しい木材が置かれているため、使う時は手前の新しい物から持ち出されていた。
「古い方が、ずっと残りますね」
アレクが言った。
「奥から出すのは手間が掛かります」
倉庫番が答えた。
「食料の倉庫でも同じですか?」
「似たようなものです。ただ、麦は腐れば分かります」
「腐る前に使わないと駄目でしょう」
ヨハンが帳簿へ何かを書き込む。
「入庫した日付を付け、古い物を手前へ置くようにします」
「毎回、全部を積み直すのですか」
「それは無理ですね」
アレクは倉庫の出入口と荷車の位置を見た。
「新しく入れる場所と、出す場所を分けられませんか」
「この倉庫には裏口がありません」
「では、左右で分ける?」
倉庫番が首を振った。
「荷車を入れられるのは中央だけです。左右に分けると、奥へ運ぶ距離が増えます」
「難しいな」
「棚を低くし、列ごとに入庫した時期を分ける方法ならできるかもしれません」
再び倉庫番が案を出した。
「一番古い列から使い、空になった列へ新しい物を入れる。それなら全部を積み直さずに済みます」
「それを試しましょう」
ヨハンが決めた。
帳簿の形式だけを統一しても、倉庫の使い方が変わらなければ古い物から使うことはできない。
逆に、倉庫の構造を無視して前世と同じ方法を押しつけても、作業する者の負担が増えるだけだ。
三つ目の倉庫を確認し終えた頃には、外が暗くなり始めていた。
「今日は十種類だけですか」
アレクが尋ねた。
「十分です」
ヨハンは三冊の帳簿を閉じた。
「帳簿と実物の数は、大きく外れていませんでした。しかし状態の記録がなく、すぐに使える数が分からない。入庫した時期も一部しか残っていません」
「全部調べ直しますか?」
「少しずつ進めます。一度に行えば、城壁修理や兵への支給まで止まります」
「どれくらい掛かります?」
「数か月でしょう」
「そんなに?」
「倉庫の仕事は、あなたの思いつきを試すためだけにあるのではありません」
ヨハンは厳しい口調で言ったが、アレクの案を否定したわけではなかった。
「まず三つの倉庫で帳簿の形式を揃えます。木札による状態区分も試す。一定期間後、帳簿の残数と実物が一致しているかを確認します」
「うまくいったら?」
「ほかの倉庫へ広げます」
「うまくいかなかったら?」
「原因を調べ、直せるなら直します。手間に見合わないなら戻します」
「それがいいと思います」
「当然です」
ヨハンはそう答え、役人へ新しい帳簿の試案を作るよう命じた。
アレクは、もう一度倉庫を見回した。
知識があれば、何でも変えられるわけではない。
紙が必要になる。
文字と数字を扱える者も必要になる。
記録する作業が増えれば、倉庫番の負担も増す。
この世界には、この世界の事情がある。
それでも、現場にいる者と一緒に使える形へ変えれば、前世では当たり前だった方法が役立つこともある。
アレク一人の知識ではなく、ヨハンの計算や倉庫番の経験と結びついた時、初めて実際に動かせる仕組みになるのだ。
◇ ◇ ◇
三日後、西門の補修は次の段階へ入っていた。
砲弾を受けて傷んだ板と梁が外され、新しい木材へ交換される。鉄具の一部は鍛冶場で打ち直され、門を閉じた時に生じていた隙間も小さくなった。
城壁の全面的な修繕には、さらに長い時間と多くの金が掛かる。
それでも、敵が戻ってきた場合に西門を閉じられるところまでは直っていた。
商人との支払い交渉も始まっている。
大きな商会のうち二つは、代金の一部を予定どおり受け取り、残りを秋まで待つことに同意した。延期した分には少額を上乗せし、次に大公家が軍需物資を買う際には、その商会と先に交渉する。
別の商人は延期を断った。
その商人には、契約どおり代金を支払う。
すべてを同じ条件にしなかったことで、予定どおり払わなければならない金は減った。だが、借金が消えたわけではない。秋には、上乗せした分まで支払う必要がある。
倉庫では、使用不能な槍や盾の選別が進められていた。
そのまま使える物は兵へ回す。
修理できる物は鍛冶場と職人へ送る。
修理するより新しく作った方が安い物は、鉄、革、木材へ分けて再利用する。
それによって、新しく購入する予定だった鉄材と革の一部を減らすことができた。
戦死者の家族には、当面の麦と薪が支給された。
城壁修理や衣服の補修、食事の準備など、働ける者へ賃金を払える仕事も用意する。税の猶予や農具の貸し出しについては、村長や教会から届く報告を確認して、家ごとに決めることになった。
土地の貸与は、すぐには行わない。
使われていない土地の位置、以前から利用している者がいないか、農業経験のある家族かを調べてから判断する。
どの問題も、完全には解決していない。
それでも、最初にヨハンが示した数字より、今すぐ必要な銀貨は少なくなっていた。
「まだ足りないんですよね」
アレクが尋ねると、ヨハンは書類から顔を上げた。
「足りません」
「少しくらい安心させてくれてもいいでしょう」
「安心して使える金がないので」
「厳しいな」
「ですが」
ヨハンは別の紙を差し出した。
「何もしなかった場合より、資金が尽きる時期は延びました」
「どれくらい?」
「収穫と今後の支出によります」
「教えてくれないんですか」
「確定していない数字を聞いて安心したいのですか?」
「やめておきます」
ヨハンは紙を引っ込めた。
「賢明です」
すべてを救う案ではなかった。
それでも、考えた分だけ時間を作ることができた。
その時間を使って、次の手を考えればいい。
戦場で敵を倒すこととは違う。目に見える勝敗もない。
だが、こうした仕事も確かに人の暮らしを守っている。
◇ ◇ ◇
その日の夕方、アレクは補修中の西側城壁へ上がった。
西門の下では、職人たちが日が暮れる直前まで作業を続けている。荷車が石材を運び、兵が縄を使って城壁の上へ引き上げていた。
「ここにいたか」
振り返ると、アルベルトが歩いてきた。
「アルベルト様」
「ヨハンから報告を受けた。随分と仕事を増やしたそうだな」
「増やしたかったわけじゃありません」
「倉庫の帳簿を変え、遺族への支援を家ごとに分け、商人との契約まで変えた」
「実際にやったのはヨハン殿たちです。私は考えを言っただけです」
「それでも、最初に口を出したのはお前だろう」
「そうですけど」
アルベルトは城壁から城内を見下ろした。
「楽しいか?」
「何がですか」
「金と帳簿の仕事だ」
アレクは少し考えた。
一日中数字を追い、埃の多い倉庫を回り、誰へ何を渡すのか話し合う。楽しいかと聞かれれば、素直に楽しいとは言えない。
「戦よりは好きです」
「そうか」
「剣を振らなくても、誰かを守れるので」
アルベルトは何も言わず、作業を続ける職人たちを見た。
アレクも同じ方角へ目を向ける。
戦場では、自分の剣で目の前の敵を止められる。
しかし、剣だけでは城壁を直せない。負傷した兵を治すことも、残された家族の暮らしを支えることもできない。
「アルベルト様」
「何だ」
「私は、何になるんでしょう」
「随分と急な話だな」
「剣を持って戦うこともある。戦い方を考えることもある。今度は帳簿や倉庫のことまで考えてる」
アレクは自分の手を見た。
「兵士なのか、騎士なのか、それとも別の何かなのか、自分でもよく分かりません」
「十五歳で決める必要があるのか?」
「この世界では、十五歳なら大人でしょう」
「大人になれば、自分が何者か分かると思っているのか」
「違うんですか」
「私にも分からん」
アレクは思わずアルベルトを見た。
「嘘でしょう」
「本当だ」
「アルベルト様は大公じゃないですか」
「大公は地位だ。私という人間のすべてではない」
アルベルトは小さく笑った。
「できることを増やせ、アレク」
「できること?」
「剣を振れる。戦場を見られる。人と話せる。帳簿の違いにも気づける」
「帳簿はヨハン殿の方が詳しいです」
「当然だ。お前が財務官より詳しければ、ヨハンの立場がない」
「では、私は何をすればいいんですか」
「自分より詳しい者を使え。あるいは力を借りろ」
アルベルトは城内へ視線を戻した。
「一人で何もかもできる者などいない。必要なことに気づき、それができる者へ渡すのも力の一つだ」
ヨハンはアレクの考えを数字と制度へ直した。
倉庫番は、文字の読めない者でも使える木札の形を考えた。
役人と村長、教会が、戦死者の家族の事情を調べる。
アレク一人では、どれも実現できなかった。
「何者になるかは、その後で決めればいい」
「その後って、いつです?」
「私にも分からん」
「そこまで教えてくださいよ」
「自分で考えろ」
いつもの答えだった。
それでも以前とは、少し違って聞こえた。
◇ ◇ ◇
さらに二日後、西方へ出していた斥候がヴァイスブルクへ戻った。
前回届いた報告では、ハイゼン北方でレオンハルト軍約一万四千と、シュヴァルツ伯軍約七千五百が布陣していた。
兵数だけを見れば、レオンハルト側が圧倒的に有利だ。
しかし、シュヴァルツ伯軍は正面から決戦を受けなかった。丘陵と森を利用した陣地へ入り、街道を塞いでいる。無理に攻めれば、兵力に勝るレオンハルト軍にも大きな損害が出る。
戦いの結果を聞くため、アルベルトの執務室にはアレク、ゲオルク、ヨハンが集められた。
斥候から報告を受けた役人が、書状を読み上げる。
「ハイゼン北方における戦いは、レオンハルト殿下の勝利です」
「シュヴァルツ伯は」
アルベルトが尋ねた。
「軍を率いて西へ退きました。捕らえられてはおりません」
「決戦になったのか」
「いいえ。シュヴァルツ伯軍は夜間に陣地を捨て、撤退しております。翌朝、レオンハルト軍の騎兵が追撃し、後衛へ大きな損害を与えたとのことです」
「一万四千を相手にするのを諦めた?」
アレクが尋ねると、役人は首を振った。
「兵数だけが理由ではないようです」
書状の次の部分が読み上げられる。
シュヴァルツ伯軍は守りに適した場所へ陣を置き、周辺の村と商人から食料を集めて長期戦へ備えていた。
レオンハルトは、すぐに正面攻撃を行わなかった。
その間に、レオンハルト軍へ物資を納めていたクレーマー商会が周囲の村へ人を送り、麦、干し肉、豆、飼葉を代価を払って買い集めた。
シュヴァルツ伯軍へ物資を売る予定だった商人にも先に接触し、より良い条件で契約を結んだという。
村人から無理に奪ったのではない。
金を払い、荷車を用意し、商人と契約を交わした。
その結果、レオンハルト軍には物資が集まり続けた一方で、シュヴァルツ伯軍へ入る食料と飼葉が減った。
「敵の食料を奪ったんじゃなくて、先に買ったのか」
アレクが呟いた。
「それだけではありません」
役人が続ける。
シュヴァルツ伯に従っていた小領主の一人が、戦いへ加わらず中立を保つと宣言した。
その領主が守っていた道をレオンハルト側が使えるようになり、シュヴァルツ伯軍は南側にも兵を置かなければならなくなった。
さらに、ハイゼン南方の街道が分かれる場所には、木柵と堀を備えた簡易陣地が短期間で築かれた。
石造りの城ではない。
木を伐り、土を掘り、荷車を並べただけのものだ。それでも兵と弓兵を置けば、街道を通る部隊を足止めできる。
正面には一万四千のレオンハルト軍。
後方では食料が減る。
南では小領主が中立へ回り、街道には新しい陣地が作られた。
シュヴァルツ伯は包囲される前に退くことを選んだ。
「誰が動かした」
アルベルトが尋ねた。
「クレーマー商会のマティアス・クレーマーという商人です」
聞いたことのない名前だった。
「レオンハルト殿下の家臣か」
「いいえ。クレーマー商会は、レオンハルト軍への物資調達を請け負っております。マティアス・クレーマーは、その商会を率いる人物とのことです」
「商人が、調略や陣地の建設まで?」
ゲオルクが眉を寄せる。
「小領主との交渉は、レオンハルト殿下の許可を受けて行われたようです。簡易陣地についても、場所と必要な人員を提案したのがマティアスで、実際に築いたのはレオンハルト軍の兵と周辺から雇われた職人です」
アレクは地図を見た。
食料を先に買う。
敵へ物資を売る商人へ、より良い条件を出す。
小領主へ接触する。
街道へ簡易陣地を築き、敵に包囲されると思わせる。
剣を振るう前に、人と金と物を動かして勝てる状況を作った。
「そのマティアスという男は、貴族なのか」
アルベルトが尋ねる。
「違うようです。もとは各地を回る行商人だったとあります」
「元行商人?」
アレクは思わず聞き返した。
「はい。小さな取引を重ねて商会を大きくし、現在は複数の街に倉と取引相手を持っているそうです」
身分の低い出自から力を伸ばし、人を使い、兵站と交渉、短期間の築城で戦を動かす。
アレクの頭に、一人の歴史上の人物が浮かんだ。
豊臣秀吉。
もちろん、同じではない。
秀吉は元行商人だったと断定される人物ではないし、この世界のマティアスがどのように育ち、何を望んでいるのかも分からない。
名前も違う。
国も違う。
レオンハルトが織田信長に似ているからといって、その周囲にいる者まで、前世の歴史と同じ人生を歩む理由はない。
歴史の似た部分だけを見て、未来まで同じだと決めつけるのは危険だ。
それでも、偶然として片づけるには気になる点が多かった。
「どうした、アレク」
アルベルトに呼ばれ、アレクは顔を上げた。
「いえ。その人は、戦場に出ていないのに戦を動かしたんだと思って」
「商人だからこそ、できたこともあるだろう」
ヨハンが言った。
「兵を率いる騎士は、村で麦がいくらで売られ、どの商人がどの街道を使っているのかまで知りません。商人は知っている」
「それに、契約と荷車を使った」
「はい。もっとも、金だけで何もかもできるわけではありません。レオンハルト殿下の名と軍が背後になければ、小領主も交渉には応じなかったでしょう」
「一人でやったんじゃない」
アレクの言葉に、ヨハンが頷いた。
「当然です」
マティアスが案を出した。
クレーマー商会が金と人を用意した。
商人が食料を運び、職人と兵士が陣地を築き、レオンハルトが軍を動かした。
違う力を持つ者たちを、一つの目的へ向けて動かしたのだ。
アレクは、先ほどアルベルトから言われたことを思い出した。
自分より詳しい者を使う。
あるいは、力を借りる。
必要なことに気づき、それができる者へ渡すことも力になる。
「マティアス・クレーマー」
アレクは、その名前を小さく口にした。
知らない名前だった。
会ったこともない。
どのような声で話し、どのような顔で笑うのかも分からない。
それでも、その男のやり方には、アレクが知っている歴史と重なるものがあった。
同じ未来になるとは限らない。
むしろ、同じだと思い込んではいけない。
だが、この名だけは覚えておこうと思った。
剣を振るうより先に、金と商いと人の動きで戦を決めた男。
マティアス・クレーマー。
その時のアレクはまだ、その男との出会いが、自分の進む道を大きく変えることになるとは知らなかった。
第七話を読んでいただき、ありがとうございました。
戦後に必要な金を用意するため、アレクはヨハンたちと支払いの順番や倉庫の管理方法を見直しました。一つの知識だけで問題を解決するのではなく、専門家や現場の者と組み合わせることで、実行できる形へ変わっていきます。
そして西方では、剣を振るわずに戦を動かしたマティアス・クレーマーの名が、初めてアレクのもとへ届きました。
少しでも面白い、続きが気になると思ってくださったら、ページ下部にある【ブックマークに追加】や【★★★★★】での評価で応援していただけると、執筆の励みになります!




