第六話 第二次ヴァイスブルクの戦い(下)
第二次ヴァイスブルクの戦い、三日目。
ラーデン街道を守った代償として、アルヴェイン軍の兵力は削られている。
その状況を見計らうように、フリードリヒはついに四門の砲をヴァイスブルクへ向けた。
城壁が破られる前に、砲を止めなければならない。
守るだけでは勝てない戦い。
アルベルトとアレクたちは、最後の反撃に出る。
ドォン――!
まだ夜が明けきらないヴァイスブルクに、低い砲声が響いた。
石造りの城壁がわずかに震え、壁際に積もっていた細かな砂がぱらぱらと落ちる。
続けてもう一発。
ドォン――!
「試射です!」
見張りの兵が西を見ながら叫んだ。
「ベルン軍、砲四門を前進させています!」
俺は城壁の上から薄暗い平原を見た。
昨日まで中央街道上に陣取っていたベルン軍が、夜の間にさらにヴァイスブルクへ近づいている。
まだ距離はある。
だが、昨日までより明らかに近い。
「本当に来たな」
隣に立つトーマスが呟いた。
「ああ」
「昨日までは、あれだけ城を攻めようとしなかったのに」
「昨日までに準備が終わったんだと思う」
「準備?」
「俺たちの兵を減らす準備」
ラーデン街道には七百を残した。
二日間の戦いで死傷者も出ている。
フリードリヒは、ヴァイスブルクへ砲を向ける前に、俺たちが自由に使える兵を少しずつ減らしていた。
「嫌な奴だな」
「昨日も言ってたな、それ」
「何回でも言うよ」
「アレク!」
下からゲオルクの声が飛んできた。
「軍議だ!」
「今行きます!」
俺は城壁の階段へ向かう。
「トーマス」
「分かってる。持ち場だろ」
「死ぬなよ」
「お前もな」
一瞬だけ目を合わせる。
それだけで十分だった。
俺は階段を駆け下りた。
◇ ◇ ◇
軍議室へ入ると、アルベルトは既に地図の前に立っていた。
ゲオルク、オットー、城内守備隊の指揮官たちも揃っている。
「敵兵力は?」
アルベルトが聞く。
「現在確認できている本隊は、およそ二千八百。騎兵四百前後、砲四門です」
ゲオルクが答えた。
「昨日より若干減っております」
「ディートリヒ隊が戻っていないから?」
俺が聞く。
「ああ。ラーデン街道から撤退した別働隊は、まだ本隊へ合流していない」
「こちらは?」
「城内で即座に動かせる兵がおよそ千九百。負傷者を除いた数字だ」
千九百。
ベルン軍は二千八百。
城を守る側として考えれば、一見そこまで悪くない。
だが、問題は四門の砲だった。
「西門は?」
アルベルトがオットーを見る。
「前回の損傷箇所を中心に補強しています。ただし、砲撃を受け続ければ長くは持ちません」
「城壁は?」
「西側は古い部分が多いです。集中して撃たれれば、崩れる場所が出るでしょう」
「つまり」
俺は地図を見る。
「籠もってるだけじゃ駄目」
「ああ」
アルベルトが頷く。
「昨日までとは違う。今日は時間が敵になる」
地図上には、ベルン軍の砲を示す四つの駒が置かれている。
「砲を潰す?」
「それ以外にない」
「でも、普通に近づいたら無理ですよね」
「ああ」
砲の前には歩兵がいる。
左右には騎兵。
弓兵も配置されている。
ただ正面から突撃したところで、砲に近づく前に削られる。
「じゃあ、どうするんです?」
俺が聞く。
アルベルトはこちらを見る。
「考えろ」
「またですか」
「今さら嫌そうな顔をするな」
仕方なく地図へ目を戻す。
ベルン軍は中央街道上。
北側丘陵は昨日の戦いで相手に取られている。
南側には低い農地と細い水路が続いていた。
「……砲って、一度置いたら簡単には動かせませんよね」
「当然だ」
「撃つ時は固定する?」
「ああ」
「撃ちながら動くのは?」
「無理だ」
俺は地図の上で砲の位置を見つめる。
砲は強い。
だが、重い。
移動は遅い。
撃つ時は止まる。
そして、敵に近づかれれば自力で逃げることも難しい。
「殿下」
「何だ」
「フリードリヒは、城壁を壊すために砲を前へ出しますよね」
「ああ」
「前へ出せば出すほど、護衛も一緒に前へ出さないといけない」
ゲオルクが地図を覗き込む。
「砲兵と護衛が本隊から離れる」
「そうです」
「そこを狙う?」
「正面からじゃなくて」
俺は南側を指した。
「こっちから小部隊を回せませんか」
オットーが地形を見る。
「農地を抜け、水路沿いに進むのか」
「はい。昨日から雨も降ってないし、水量も少ないですよね」
「ああ。人なら問題なく渡れる。馬は場所を選ぶがな」
「なら三百くらいなら行ける」
アルベルトが聞く。
「砲を狙わせるのか」
「最終的には」
「最終的に?」
「最初から砲へ向かうと、フリードリヒもすぐ気づくと思う」
「ではどこへ向かわせる」
「荷駄隊です」
俺はベルン軍の後方を指した。
兵糧、矢、火薬、予備装備。
軍が戦い続けるために必要なものが集まっている場所だ。
「補給を狙うように見せる?」
ゲオルクが聞く。
「はい。フリードリヒが後方へ兵を回したら、その時に進路を変える」
「砲へ?」
「そうです」
オットーが腕を組む。
「だが、その間に正面が砲撃を受ける」
「だから正面からも出ます」
俺は西門を指した。
「こっちも本気で攻める」
「囮ではなく?」
「はい。本気で」
俺は敵中央を見る。
「正面を押せば、砲の護衛は正面も見ないといけない。そこに南から三百が来れば、どっちかに対応しないといけない」
「兵を分けさせるか」
「それができれば」
アルベルトはしばらく地図を見ていた。
「成功すると思うか?」
「分かりません」
「即答か」
「相手も考えるんで」
「……」
「でも、城壁が壊れるまで待つよりはいいと思います」
アルベルトの口元が少し上がった。
「採用する」
「本当に?」
「お前が言ったんだろう」
「言いましたけど」
アルベルトはすぐに指示を出す。
「ゲオルク。正面は私が千二百を率いる。城内守備五百、予備二百」
「はっ」
「南の三百はオットー」
「私が?」
「また働け」
「昨日も森を走ったばかりですが」
「今日は農地だ」
「そういう問題ではありません」
「働け」
「……御意」
俺は少し笑いそうになった。
「アレク」
「はい」
「お前は私と正面だ」
「やっぱり」
「不満か?」
「もう聞かなくていいですよ」
「成長したな」
「嬉しくない」
アルベルトは剣を取った。
そして、表情から笑いが消える。
「一つだけ覚えておけ。今日は昨日までと違う」
「……はい」
「砲を潰せなければ負ける。城壁が破られれば、こちらの兵力では長く持たん」
「分かりました」
「だから今日は、最初から最後まで本気で行く」
◇ ◇ ◇
朝日が昇り始める頃、ベルン軍が動いた。
ブオォォォ――!
角笛が平原に響く。
ザッ!
ザッ!
ザッ!
二千を超える兵士が一斉に前進し、大人数の足音が低い地鳴りとなって近づいてくる。
ドドドドドド……。
槍が揺れ、旗が風を受け、鎧の擦れる音が途切れることなく続いていた。
その中央を四門の砲が進んでいる。
馬に引かれ、ゆっくりと城へ近づいてくる。
「距離七百!」
見張りが叫ぶ。
「まだ遠い!」
ベルン軍の弓兵が左右へ広がっていく。
フリードリヒは急がない。
砲を守りながら、少しずつ距離を詰めている。
「距離五百!」
俺は西門の上から敵軍を見ていた。
「殿下」
「ああ」
アルベルトも隣にいる。
砲兵が止まった。
馬を外し、兵士たちが車輪を固定していく。
「装填してる!」
「全員伏せろ!」
兵士たちが一斉に身を低くする。
遠くで火が見えた。
ジュッ。
次の瞬間。
ドォン――!!
ドォン!
ドォン!
ドォン!
四つの轟音が続けて響いた。
ヒュゥゥゥン!
砲弾が飛んでくる。
ズドォォン!
城壁全体が揺れた。
「うわっ!」
石片が飛び散る。
ガラガラガラッ!
一発は西門横の壁へ。
一発は城壁下。
一発は外れた。
そして最後の一発。
ドガァン!
「西門です!」
「損傷を確認!」
前回の戦いが頭をよぎる。
同じ音。
同じ振動。
だが今回は、ただ待つつもりはない。
「敵、再装填!」
「どれくらい?」
「二十数える程度!」
遅い。
現代の砲とは比べものにならない。
それでも、二十数えるたびに城壁が削られていく。
「殿下」
「まだだ」
第二射。
ドォン――!!
また城壁が震える。
「西壁に亀裂!」
「石材落下!」
「負傷者二!」
ガラガラガラッ!
石が落ちる。
「殿下!」
「まだ待て」
第三射。
ドォン!
ズドォン!
今度は西門そのものへ命中した。
ギィィィィ……。
分厚い木材が嫌な音を立てる。
俺は拳を握った。
その時、ベルン軍の歩兵が動いた。
「敵歩兵前進!」
「数、およそ千!」
砲撃だけではない。
盾兵、槍兵、弓兵が城壁へ近づいてくる。
「来たな」
アルベルトが立つ。
「西門を開けろ」
「開門!」
ギィィィィ――!
重い西門が開き始める。
ベルン軍側がざわめいた。
「何だ!?」
「敵が出るぞ!」
「構えろ!」
アルベルトが剣を抜く。
シャッ――!
「第一隊、前へ! 第二隊はその後ろ! 弓兵は城壁から援護! 騎兵は左右へ!」
そして剣を前へ向けた。
「全軍、出るぞ!」
「オオオオオオオッ!」
ザッ!
ザッ!
ザッ!
千二百の兵が西門から一気に飛び出した。
◇ ◇ ◇
ベルン本陣。
「敵が出てきました!」
コンラートが声を上げる。
フリードリヒは驚かなかった。
「数は?」
「千以上。アルベルト本人も確認しております」
「……城から出るか」
「好機です」
「そう思うか?」
コンラートが口を閉じる。
「砲で城壁を削っている。こちらの兵力も上だ。それでも野戦を選ぶなら、理由がある」
「砲を狙っていると?」
「ああ。護衛を三百増やせ」
「中央が薄くなります」
「構わん」
フリードリヒは南側へ目を向けた。
「南にも斥候を出せ」
「別働隊を警戒しますか」
「ああ。アルベルトが正面だけで終わる男なら、前回我々は負けていない」
「見つけた場合は?」
「すぐ攻撃するな。何を狙っているか見ろ」
「御意」
フリードリヒは正面へ視線を戻した。
アルヴェイン軍がこちらへ向かっている。
「来い、アルベルト」
◇ ◇ ◇
「弓兵、放て――!」
ヒュン!
ヒュヒュヒュヒュン!
城壁から矢が飛ぶ。
「盾!」
ベルン兵が盾を上げた。
ガガガガガッ!
俺たちはその援護の下を進む。
「前へ! 止まるな!」
ザッ!
ザッ!
ザッ!
敵との距離が縮む。
三百。
二百五十。
二百。
「砲がこっちを向く!」
俺が叫んだ。
四門のうち二門がこちらへ向きを変え始める。
「散開! 左右へ!」
アルベルトの命令で隊列が二つに割れた。
「撃て!」
ドォン――!!
ヒュゥゥン!
ズドォン!
「ぐああっ!」
一発が味方の中央へ入り、何人もの兵が倒れた。
だが止まれない。
「止まるな! 距離を詰めろ!」
百五十。
百。
ベルン歩兵が槍を下げる。
「構え!」
ガチャァァン!
こちらも槍を構える。
五十。
三十。
二十。
「突撃――!」
「オオオオオオオッ!」
ドドドドドド!
そして。
ガァァァァン!!
真正面から両軍がぶつかった。
槍と槍。
盾と盾。
鎧と鎧。
ガン!
ガキン!
ガチャァァン!
「押せ!」
「前へ!」
前列の兵同士が、まるで一枚の壁のように押し合っている。
目の前から槍が突き出された。
ヒュッ!
身体をずらしてかわし、剣で穂先を払う。
ガキン!
一歩踏み込む。
「はっ!」
ザシュッ!
敵兵の腕を斬る。
「ぐあっ!」
倒れる間もなく、次の敵が来る。
「アレク! 左!」
ゲオルクの声。
振り向くと敵兵が二人。
俺は一歩下がり、味方の槍兵に場所を譲る。
「突け!」
ドスッ!
一人が倒れた。
前より見える。
敵の動きも。
味方の位置も。
戦線の穴も。
でも、それで怖くなくなるわけじゃない。
むしろ、何が起きているか分かる分だけ怖い。
「殿下! 砲の護衛が増えてる!」
「見えている!」
砲の前には、さっきより明らかに多くの兵がいる。
「読まれた?」
「ああ!」
「じゃあ!」
「予定通りだ!」
「予定通り!?」
「護衛が増えれば、他が薄くなる!」
そうか。
砲を守るために兵を使えば、別の場所からその兵が消える。
「敵中央右側が薄い!」
ゲオルクが叫ぶ。
「第三隊、右へ寄れ!」
ザッ!
三百ほどが動く。
「押せ――!」
ベルン軍の中央が少しずつ下がる。
「いける!」
トーマスが叫ぶ。
「まだだ!」
俺は敵本陣を見る。
フリードリヒはまだ動かない。
あいつは何かを待っている。
◇ ◇ ◇
南側では、オットー率いる三百が農地と水路の間を進んでいた。
「姿勢を低くしろ。旗は上げるな。走るな」
兵士たちは麦畑の陰を使いながら移動する。
遠くでは砲声と戦声が絶え間なく響いている。
ドォン――!
ガァン!
オオオオオッ!
「斥候!」
先頭の兵が小声で知らせる。
前方にベルン騎兵が二騎。
「見つかったか」
「追いますか?」
「不要だ」
「ですが」
「見せろ。我々がどこへ向かうかをな」
オットーは西を指した。
「荷駄隊へ進む」
「はっ」
三百の兵がわずかに進路を変えた。
それを見たベルン斥候が馬首を返す。
「敵別働隊、数三百前後! 進路は我が軍後方、荷駄隊方向!」
「戻れ!」
パカラッ!
二騎が本陣へ走っていく。
オットーはその背中を見送った。
「今は、見つかるのが仕事だ」
◇ ◇ ◇
「南に敵別働隊!」
報告を受けたコンラートがフリードリヒへ駆け寄る。
「数三百! 我が荷駄隊へ向かっています!」
フリードリヒは地図を見る。
「兵糧を狙うか」
「後方警戒の騎兵二百がおります」
「百五十を向かわせろ。歩兵二百も追加」
「合わせて三百五十」
「ああ。荷駄隊を守れ」
「はっ!」
コンラートが離れる。
フリードリヒは一瞬だけ南を見た。
三百。
荷駄隊。
何かが引っかかる。
だが、その時。
「殿! 敵中央、さらに前進! 右側が押されています!」
「予備二百を右へ!」
「はっ!」
今は正面を止めなければならない。
◇ ◇ ◇
オットー隊の後方から敵兵が迫ってくる。
「敵接近! 騎兵と歩兵、合わせて三百以上!」
「よし」
オットーが立ち上がった。
「進路変更! 東へ! 砲へ向かう!」
「はっ!」
三百が一斉に向きを変える。
ザザザザッ!
麦畑を抜け、水路を越える。
「急げ!」
ベルン側の兵が気づいた。
「進路が違う!」
「砲だ! 敵の狙いは砲!」
「戻れ!」
騎兵が反転する。
だが、既に遅い。
オットー隊は砲の南側、三百メートルほどまで迫っていた。
「走れ!」
ザッ!
ザッ!
ザッ!
◇ ◇ ◇
「殿!」
コンラートの表情が変わる。
「南の敵が進路を変えました!」
「どこへ!」
「砲です!」
フリードリヒの顔から初めて余裕が消えた。
「……やられた」
「護衛を戻します!」
「砲二門を南へ向けろ! 残り二門は正面! 歩兵は砲を守れ!」
命令が次々と飛ぶ。
だが、大軍は一声ですぐ動くわけではない。
兵士たちが方向を変え、盾と槍の位置が乱れる。
その瞬間。
「今だ!」
アルベルトの声が響いた。
「全軍、押せ――!」
「オオオオオオオッ!」
ドドドドドド!
アルヴェイン軍が一気に前へ出る。
ベルン中央が下がる。
「右が崩れます!」
「支えろ!」
「南にも敵!」
「砲を守れ!」
複数の命令が重なり始める。
フリードリヒが舌打ちした。
「アルベルト……!」
◇ ◇ ◇
「敵まで百歩!」
オットーが剣を抜く。
「止まるな! 砲まで行け! 護衛と戦うなとは言わん! だが目的を忘れるな! 狙うのは砲だ!」
「オオオオオッ!」
三百が走る。
砲二門が南へ向きを変える。
「装填!」
ベルン砲兵が慌てて火薬を入れ、砲弾を押し込んでいく。
「急げ!」
「間に合わない!」
「撃て!」
ドォン――!!
一門が火を噴いた。
ズドォン!
オットー隊の中央で土と人が吹き飛ぶ。
「うわああっ!」
「止まるな!」
残った兵がさらに走る。
五十。
三十。
「槍兵、前へ!」
ベルンの護衛二百が槍を構える。
ガチャァァン!
「突撃――!」
ガァァァァン!
両軍が衝突する。
だがオットーは砲の位置を見失わない。
「第一隊は私について来い! 第二隊はここで敵を止めろ!」
「はっ!」
百ほどが戦列の隙間を抜ける。
「行かせるな!」
ベルン兵が追おうとするが、残ったアルヴェイン兵が食い止める。
ガン!
ガキン!
オットーが砲へ到達した。
「斧を出せ! 砲身ではない、車輪を壊せ!」
「はっ!」
ガン!
ガン!
斧が木製車輪へ振り下ろされる。
バキッ!
「もう一度!」
ガン!
バキィッ!
一門の車輪が割れる。
「火薬袋を裂け! 水をかけろ!」
兵士が火薬袋へ剣を入れる。
黒い粉が土へ散る。
「二門目だ! 急げ!」
◇ ◇ ◇
「南の砲兵陣地へ敵が侵入! 一門損傷!」
報告を聞き、フリードリヒは歯を食いしばった。
「騎兵を戻せ!」
「戻しています!」
「正面は!」
「押されています!」
前ではアルベルト率いる千二百がまだ押し続けている。
「殿! これ以上は危険です!」
フリードリヒは戦場全体を見る。
砲一門が損傷。
二門目にも敵が近づいている。
正面は兵を減らしたことで薄くなっている。
北側丘陵にはまだ兵が残っている。
完全な敗北ではない。
だが、ここで砲まで失えば、この戦いを続ける意味がなくなる。
「……撤退準備」
「殿?」
「砲を守れないなら今日は終わりだ」
「しかし」
「ここで兵まで失えば次がない」
フリードリヒは決断した。
「北側丘陵の兵を下げろ! 中央は順次後退! 騎兵は南の敵を押し返せ!」
「砲は?」
「動く三門を下げる!」
「壊れた一門は?」
フリードリヒは一瞬だけ砲の方を見た。
「捨てろ」
「……御意!」
ブオォォォ――!
角笛が響く。
ベルン軍が後退を始めた。
◇ ◇ ◇
「敵が下がる!」
トーマスが叫ぶ。
「追う!?」
「待て!」
アルベルトが手を上げた。
「追撃するな!」
「え?」
俺は振り返る。
「でも、今なら」
「敵はまだ二千以上いる。騎兵も残っている」
「……」
「ここで追えば、今度はこっちの陣形が崩れる」
俺は後退していくベルン軍を見る。
確かに敗走ではない。
槍隊が後方を守り、騎兵が左右へ広がっている。
規律を保ったまま下がっている。
「追ったら罠かもしれない?」
「可能性はある」
アルベルトは剣を下げた。
「勝った時ほど、止まることを覚えろ」
「……はい」
前の俺なら、敵が逃げたなら追えばいいと思っただろう。
だが今は分かる。
フリードリヒの軍は、まだ壊れていない。
「砲は?」
「確認します!」
伝令が南へ走る。
しばらくして戻ってきた。
「敵砲一門、完全に行動不能! 一門にも損傷! 残る二門は撤退中!」
「オットー隊の損害は?」
「戦死三十七、負傷八十余!」
「……」
勝った。
そのはずだ。
でも数字を聞いた瞬間、素直に喜ぶ気持ちは消えた。
正面でも多くの兵が倒れている。
平原には味方と敵が入り混じって倒れ、砲煙と土埃がまだ薄く漂っていた。
「こちらの損害も集計しろ」
アルベルトが命じる。
「急げ」
「はっ!」
◇ ◇ ◇
午後。
ベルン軍は中央街道を西へ下がっていた。
北側丘陵からも撤退し、ヴァイスブルクへ向けていた圧力は完全に消えている。
だが、アルベルトは最後まで追撃を命じなかった。
俺は城壁の上から、遠ざかっていくベルン軍を見ていた。
「帰った?」
隣でエリーゼが聞く。
「まだ分からない」
「でも離れていってる」
「ああ」
「勝ったんでしょう?」
「たぶん」
「たぶん?」
「殿下が言ってた。戦が終わるまでは勝ったと思うなって」
「叔父様らしい」
エリーゼが小さく笑う。
俺が横を見ると、すぐにこちらへ顔を向けた。
「何?」
「いや」
「怪我は?」
「ないよ」
「本当に?」
「少し擦りむいたくらい」
「見せて」
「いいって」
「駄目」
「何で?」
「あなた、大丈夫って言いながら血まみれで帰ってくるもの」
「あれはほとんど他人の血だよ」
「それも嫌」
エリーゼは少し眉を寄せた。
普段は大公家の娘らしく落ち着いているのに、こういう時だけ感情がそのまま顔へ出る。
「……ごめん」
「謝ってほしいわけじゃない」
「じゃあ何?」
少し迷ったあと、エリーゼが小さな声で言った。
「帰ってきて」
「……」
「毎回、ちゃんと」
言葉が止まった。
何と返せばいいのか分からない。
「努力する」
「またそれ」
「絶対なんて言えないよ」
「分かってる」
エリーゼは視線を落とした。
「分かってるけど……言ってほしい時もあるの」
「……」
俺は少し考えた。
「帰ってくるよ」
エリーゼが顔を上げる。
「本当?」
「ああ」
「……そう」
ほんの少しだけ嬉しそうな顔をした。
でも、すぐにいつもの表情へ戻る。
「ならいいわ」
「それだけ?」
「それだけ」
分かりやすい。
そう思ったが、言えば怒られそうなので黙っておいた。
◇ ◇ ◇
同じ頃。
西へ下がるベルン軍では、フリードリヒが馬上で損害報告を聞いていた。
「戦死二百四十余。負傷者は四百を超えています」
「砲は?」
「一門放棄。一門損傷。二門は使用可能です」
「……」
コンラートが隣から尋ねる。
「ヴァイスブルク攻略は?」
「中止だ」
「完全にですか?」
「今回はな」
「しかし、シュヴァルツとの和平は成立しております。兵を増やせば再度」
「すぐには無理だ」
「なぜでしょう」
「レオンハルトがいる」
「……」
さらに西。
黒獅子の軍一万五千。
そしてシュヴァルツ伯軍七千余。
そちらでも戦が始まろうとしている。
「西がどうなるか見なければならん」
「はい」
「それに」
フリードリヒが少し笑った。
「アルベルトはまた強くなった」
「殿?」
「前回はこちらが押した。今回も最初は押した。だが最後に返された」
「……」
「次は同じようにはいかん」
「また戦うおつもりですか」
「乱世だ。戦わずに済むなら、それでもいい」
フリードリヒは遠くのヴァイスブルクを振り返った。
「だが、次に会う時は今日より面倒になっているだろうな」
少し間を置く。
「十五の小僧も」
「アレク・ハルトマンですか」
「ああ」
フリードリヒが静かに笑った。
「面白い」
◇ ◇ ◇
夕方。
ヴァイスブルクでは最後の軍議が開かれていた。
ゲオルクが報告書を読み上げる。
「本日の戦死百十二。負傷二百七十六。昨日までの損害を合わせると、戦死百七十五、負傷四百十六です」
部屋が静かになった。
死傷者五百九十一。
数字として聞くだけなら短い。
でも、その一人一人に名前がある。
「敵の損害は、確認できただけで戦死二百前後、負傷三百以上。ただし撤退時に連れていった者も多く、正確ではありません」
ゲオルクが続ける。
「砲一門を放棄。一門損傷。こちらで鹵獲可能なのは放棄された一門です」
アルベルトが頷く。
「敵の位置は?」
「国境方向へ後退中です。再攻撃の可能性は低いと思われます」
「思われる、か」
「はい」
アルベルトが椅子へ座る。
少しだけ肩の力が抜けたように見えた。
「第二次ヴァイスブルクの戦い。我々の勝利と見てよろしいかと」
ゲオルクの言葉を聞いても、俺の胸には思っていたほどの喜びがなかった。
「殿下」
「何だ」
「勝ったんですよね」
「ああ」
「何で嬉しくないんだろ」
アルベルトがこちらを見る。
「人が死んだからだ」
「……」
「勝っても死んだ者は戻らん」
「はい」
「だが負ければ、もっと死ぬ」
「……」
「だから勝つ。喜ぶためじゃない」
俺は何も言えなかった。
アルベルトは地図へ目を落とす。
「覚えておけ。戦で勝つことそのものは目的じゃない」
「……はい」
「勝った後に何を守れたか。何を残せたか。それが大事だ」
俺も地図を見る。
ヴァイスブルクは守った。
ラーデン街道も守った。
ラーデン村も守った。
でも、百七十五人が死んだ。
簡単な話じゃない。
本当に。
◇ ◇ ◇
翌朝。
ヴァイスブルク西門前には兵士たちが並んでいた。
戦死者百七十五名。
一人ずつ名前が読み上げられていく。
知っている名前もあった。
知らない名前の方が多かった。
でも、その全員が誰かにとって大切な人だった。
俺は黙って聞いていた。
「アレク」
隣のトーマスが小さく声をかける。
「うん」
「生き残ったな」
「ああ」
「次も生き残ろう」
「そうだな」
風が吹き、城壁の上でアルヴェインの旗が揺れる。
その時だった。
パカラッ!
一騎の馬が東側から城門へ駆け込んでくる。
「急報――!」
俺は思わず顔を上げた。
「また?」
伝令が馬から飛び降りる。
「アルベルト殿下へ! 西方より急報!」
「西?」
ベルンではない。
もっと西。
「グランヴァルト軍、黒獅子公レオンハルト! シュヴァルツ伯軍と接触!」
俺の表情が変わった。
アルベルトが伝令を見る。
「場所は?」
「ハイゼン北方! 両軍、既に布陣を開始しております!」
「兵力は?」
「グランヴァルト軍約一万四千! シュヴァルツ伯軍約七千五百!」
「……」
俺たちの戦が終わった、その直後。
別の場所では、それよりはるかに大きな戦が始まろうとしていた。
「殿下」
「何だ」
「行くんですか?」
「どこへ」
「西へ」
「行かん」
「……」
アルベルトは俺を見る。
「言っただろう。レオンハルトの戦は、我々の戦ではない」
「はい」
「だが、結果は知る必要がある」
「……」
「斥候を出す」
「はい」
俺は西を見た。
レオンハルトが別れ際に言った言葉を思い出す。
『次に会う時まで生きていろ』
「……死ぬなよ」
小さく呟いた。
当然、届くはずはない。
その頃、西方。
ハイゼン北方の平原では、一万を超える軍勢が向かい合っていた。
風を受け、黒獅子の旗が大きくはためく。
バサバサバサッ!
そして。
ドン――!
戦太鼓が一つ鳴る。
ドン――!
もう一つ。
第二次ヴァイスブルクの戦いは終わった。
だが、この乱世の戦は終わらない。
次の戦いの幕が、遠く西の空の下で上がろうとしていた。
第二次ヴァイスブルクの戦い、決着。
アルベルトたちはベルン軍を退け、ヴァイスブルクとラーデン街道を守り抜く。
しかし、その勝利のために多くの兵が命を落としていた。
勝つことそのものが目的なのではない。
勝ったあとに、何を守り、何を残せたのか。
アレクはまた一つ、戦というものの重さを知ることになった。
そして、戦いが終わった直後に届いた西方からの急報。
黒獅子レオンハルトとシュヴァルツ伯。
今度は、これまでとは比べものにならない規模の戦いが始まろうとしている。




