第六話 第二次ヴァイスブルクの戦い(下)
第二次ヴァイスブルクの戦い、三日目。
ベルン伯爵は、四門の砲をヴァイスブルクへ向けました。
城壁が破られる前に砲を止めるため、アルベルトたちは最後の反撃に出ます。
夜明け前のヴァイスブルクに、低く重い音が響いた。
城壁の石がわずかに震え、継ぎ目から乾いた砂がこぼれ落ちる。眠りの浅かった兵たちは一斉に顔を上げ、見張り台にいた者が西の平原へ目を凝らした。
少し遅れて、二度目の砲声が届いた。
「敵の砲です!」
城壁の上から声が降ってくる。
「ベルン軍が砲四門を前へ出しています!」
アレクは外套を羽織りながら、兵たちとともに西側の城壁へ上がった。
夜と朝の境目にある平原では、いくつもの松明が動いていた。ベルン軍は暗いうちから砲を移動させ、ヴァイスブルクへ近い位置に据えようとしている。
最初の二発は距離を測るための試射だったらしい。一発は城壁の手前で土を跳ね上げ、もう一発は西門から離れた壁へ当たった。
命中した場所に大きな穴は開いていない。
それでも石壁へ砲弾が当たった音は、城内にいる者たちへ嫌でも今日の戦いを意識させた。
「やっぱり来たな」
隣に立ったトーマスが呟いた。
「ああ」
「昨日までは、あれだけ城を攻めようとしなかったのに」
「その必要がなかったからだと思う」
アレクは城壁から眼下を見下ろした。
西門の内側では、槍を持った兵が持ち場へ走っている。馬を移動させる者、矢束を運ぶ者、負傷者を収容する場所へ水と布を用意する者もいた。
「昨日までに、こっちの兵を減らした。だから今日、砲を前へ出したんだ」
ラーデン街道には七百人を残している。
初日の戦いでは六十三人が死亡し、百四十人が負傷した。二日目の戦死者は四十八人、負傷者は百十八人に達している。
初日に呼び寄せた援軍のうち、到着できたのは三百二十人だった。その兵を加えても、負傷者やラーデン街道の守備兵を除けば、ヴァイスブルク周辺で動かせる兵は約二千五百人しかいない。
ベルン伯爵は、砲で城を攻める前に、二日間を掛けてアルヴェイン軍の手足を縛ったのだ。
「本当に嫌な相手だな」
「前にも言ってなかったか?」
「何度でも言いたくなる」
トーマスはそう答えたが、その顔に笑みはなかった。
「アレク!」
城壁の下からゲオルクの声が飛んできた。
「軍議だ!」
「今行きます!」
アレクは階段へ向かいかけ、途中で振り返った。
「トーマス」
「俺はここに残る。分かってるよ」
「気をつけろ」
「お前もな」
短い言葉を交わし、アレクは城壁を下りた。
◇ ◇ ◇
軍議室へ入ると、アルベルトはすでに地図の前に立っていた。
ゲオルクと城内守備隊の指揮官、そのほか数人の騎士が集まっている。ヴァイス男爵はラーデン街道の守備に残っているため、この場にはいない。
「敵の配置は」
アルベルトが尋ねると、ゲオルクが地図の上へ駒を置いた。
「確認できた本隊は、およそ二千八百です。そのうち騎兵が四百ほど。砲は四門とも中央街道沿いにあります」
「ラーデン街道から退いた千人は?」
「まだ本隊へ合流しておりません。斥候からも、それらしい部隊を見たとの報告はありません」
「近くに伏せている可能性は」
「否定できません」
ゲオルクの答えを聞き、アルベルトは地図へ目を落とした。
「こちらは」
「すぐに戦える者は約二千五百。ラーデン街道を守る七百は、この戦いには動かせません」
戦場だけを見れば、敵との兵力差は三百ほどしかない。
城を守る側には城壁と門があり、弓兵も高い位置から矢を放てる。数字だけなら、籠城を続けることもできそうに思える。
しかし、ベルン軍には四門の砲がある。
城壁がすぐに崩れるほど強力なものではない。砲身は重く、装填には時間が掛かり、狙いも正確ではなかった。
それでも同じ場所へ何度も撃ち込まれれば、古い石壁は少しずつ崩れる。特に西門周辺には、以前の戦いで傷ついた場所が残っていた。応急の補強はしてあるが、砲撃に耐え続けられるものではない。
「西側の壁は、どれほど持ちますか」
アレクが城内守備隊の指揮官に尋ねた。
「分かりません」
指揮官は正直に答えた。
「砲弾がどこへ当たるかにもよります。外れる弾が続けば一日は持つでしょう。しかし同じ箇所へ集中すれば、昼までに人が通れるほど崩れる可能性もあります」
「西門は?」
「横木を増やし、内側へ荷車と土嚢を置いています。ただ、門そのものを砲で砕かれれば、完全には塞げません」
室内が静かになった。
籠城を続けるなら、城壁が破られる前にベルン軍が諦めることを期待するしかない。だが、ベルン伯爵は二日間掛けてこの状況を作った。砲撃を数回行っただけで引き下がるとは思えなかった。
「今日は時間が敵になる」
アルベルトが言った。
「砲を止める。方法を出せ」
指揮官の一人が正面から騎兵を突入させる案を出したが、すぐに別の騎士が首を振った。
砲の前には盾兵と槍兵が配置されている。左右には騎兵が控え、後方には弓兵もいる。騎兵だけを向かわせれば、砲へ届く前に槍で止められる。
夜襲も、すでに夜が明け始めた今からでは間に合わない。昨夜のうちに動けなかったのは、ラーデン街道を奪い返した部隊の状況が分からず、ベルン軍別働隊の行方も確認できなかったためだ。
アレクは地図の上に置かれた四つの駒を見つめた。
砲を撃つためには、その場へ固定しなければならない。砲弾と火薬も必要になる。砲だけが前へ出るのではなく、砲兵、護衛、火薬を積んだ荷車が一緒に動く。
強い武器であるほど、それを働かせるために必要なものも増える。
アレクが見ているのは砲そのものではなく、その周囲だった。
「砲を今より前へ出せば、本隊との間が広がります」
「ああ」
アルベルトが答えた。
「だからベルン伯爵も護衛を付ける」
「その護衛を、さらに増やさせることはできませんか」
ゲオルクがアレクを見た。
「砲へ攻撃を仕掛けるのか」
「最終的には、そうします。ただ、最初から砲へ向かったら、すぐに狙いが分かります」
アレクは地図の南側を指した。
ヴァイスブルクの南には低い農地が続いている。麦は収穫前で、人が身を屈めれば遠くから姿を見つけにくい。農地の間には細い水路があり、大勢の騎兵を動かすには向かないが、歩兵なら渡れる場所がいくつもあった。
「南から部隊を回して、最初は荷駄隊へ向かわせます」
「敵の兵糧を狙うように見せるのか」
「はい。兵糧だけじゃなく、予備の矢や火薬も置いてあるはずです。ベルン伯爵は放っておけません」
「だが、砲を狙う可能性も考えるだろう」
アルベルトの言葉に、アレクは頷いた。
「気づかれると思います。それでも、何も動かさないわけにはいきません。荷駄隊を守り、砲も守り、正面の軍も支えなければならなくなります」
「こちらは正面からも出るということか」
「はい。正面が囮だと見抜かれたら、南へ兵を集められます。だから正面からも本気で押します」
ベルン軍に、どこか一つだけを守ればよいと思わせてはならない。
正面も、砲も、荷駄隊も危険にさらす。すべてを守ろうとすれば、二千八百人の軍でも兵を分けざるを得ない。
「成功すると思うか」
アルベルトが尋ねた。
「分かりません」
アレクは地図から顔を上げた。
「ベルン伯爵も途中で気づくはずです。南の部隊が砲へ届くより早く兵を戻されたら、失敗します」
「砲へ届いても、護衛を破れなければ同じだ」
「はい」
「正面が先に崩れても終わる」
「そうです」
失敗する理由なら、いくつもあった。
しかし城内で待ち続ければ、主導権を握っているのはベルン伯爵のままだ。砲弾がどこへ当たるかを見守りながら、壁が崩れないことを願うしかない。
アルベルトは地図を見たまま、しばらく何も言わなかった。
やがて南側の農地へ一つの駒を置く。
「ゲオルク」
「はっ」
「三百五十を率いて南へ回れ。荷駄隊へ向かう姿を見せた後、砲兵陣地へ転進する」
「承知しました」
「敵の迎撃部隊と正面から戦うな。目的は砲だ」
「はい」
アルベルトは続いて中央へ駒を並べた。
「私は千四百を率いて正面から出る。城内には五百五十を残し、弓兵に城壁から援護させる。残る二百は予備とし、伝令と負傷者の搬送にも使う」
「アルベルト様、私は」
「私と来い」
予想していた答えだった。
「剣を振るうためではないぞ」
「違うんですか」
「敵の旗と兵の動きを見ろ。南へ送られた兵が戻り始めたら、すぐに知らせろ。予備を動かす必要があれば、お前にも伝令を任せる」
アレクが先頭で敵兵を何人斬っても、全体の戦況はほとんど変わらない。
敵の変化に気づき、必要な場所へ命令を届ける方が、多くの兵を助けられる可能性がある。
「分かりました」
「城壁が破られる前に砲を止める。今日の目的はそれだけだ。ベルン伯爵の軍を全滅させる必要はない」
アルベルトは全員の顔を見回した。
「目的を見失うな」
集まった者たちが、一斉に返事をした。
◇ ◇ ◇
日が昇り始めると、ベルン軍は四門の砲をさらに前進させた。
馬に引かせてきた砲を街道上へ並べ、砲兵たちが車輪の前後へ木片を打ち込む。砲身の向きを調整し、火薬と砲弾を運ぶ荷車が後ろへ付いた。
その前には盾兵と槍兵が並び、左右へ弓兵が広がっている。
ベルン伯爵は、砲だけを無防備に前へ出してはいなかった。
城壁上の見張りが距離を告げる。
まだ弓の届く距離ではない。
最初の砲兵が砲口から火薬を入れ、棒を使って奥へ押し込む。砲弾を入れ、再び棒で突き固めた。すべてを終えるまでには時間が掛かったが、四門が順番に準備を進めるため、待つ側には休む暇がなかった。
「来ます!」
火縄が点火孔へ近づけられた。
砲口から炎と煙が噴き出し、腹へ響く轟音が城壁を揺らした。
一発目は西門の手前へ落ち、土を大きく跳ね上げた。二発目は壁に届かず、石畳を砕いた。
三発目が西側の城壁へ当たった。
石が割れ、細かな破片が城壁上へ降り注ぐ。盾を上げるのが遅れた兵が顔を押さえ、別の兵が肩から血を流した。
四発目は西門の上へ当たり、積まれていた石の一部を崩した。
「負傷者を下へ! 空いた場所を詰めろ!」
守備隊の指揮官が声を張る。
負傷者を運び終える前に、ベルン軍の砲兵は次の装填を始めていた。
一門ごとの発射は遅い。それでも四門が少しずつ時間をずらして撃つことで、砲声は完全には途切れなかった。
命中する弾より、外れる弾の方が多い。
しかし、ベルン伯爵は西門とその周辺に狙いを絞っている。命中するたびに、昨日までの戦いで緩んだ石が少しずつ剥がれ落ちた。
二度目の砲撃で西門を支える柱の近くに亀裂が入り、三度目には門の表面から厚い木片が弾け飛んだ。
城壁が一度に崩れたわけではない。
だが、確実に削られている。
その事実が、守る側の心を追い詰めた。
西門の内側では、アルベルトが千四百人の兵を整列させていた。
先頭に盾兵、その後ろに槍兵を置く。弓兵は城壁に残し、門を出た兵の頭上を越して射られるよう、射角と目標を確認している。
アレクはアルベルトの近くに立ち、城壁から届けられる報告を聞いていた。
「敵歩兵が前進を開始! およそ千人!」
砲撃で壁を削るだけではない。
ベルン軍の盾兵と槍兵が前へ出た。砲撃で守備兵を壁の内側へ押し込み、歩兵を接近させて西門を攻めるつもりなのだ。
アルベルトが剣を抜いた。
「西門を開けろ」
命令を受けた兵たちが、内側に積んでいた土嚢と荷車を動かした。複数の兵が横木を外し、傷ついた西門を慎重に開いていく。
門の隙間から外の光が差し込んだ。
正面にいるベルン兵が、ヴァイスブルク側の動きに気づく。
敵の号令が飛び、槍が一斉に下げられた。
「盾兵、前へ。槍兵は間を空けるな」
アルベルトは大声で叫ばなかった。
それでも、その声は近くにいる指揮官から各隊へ伝わり、千四百人の兵が動き始める。
「正面の敵を押し返す。砲へ向かって陣形を崩すな。私の旗を見失うな」
西門が開き切った。
「前進」
盾を並べたアルヴェイン軍が、城外へ出た。
◇ ◇ ◇
アルヴェイン軍が西門から出たとの報告を聞いても、ベルン伯爵はすぐには命令を変えなかった。
本陣からでも、アルベルトの旗が見える。
城を守る側が、城壁という利点を自ら捨てて出てくる。兵力で勝るベルン軍にとって、好機であるようにも見えた。
だが、アルベルトが何の理由もなく野戦を選ぶはずがない。
「砲を狙っていると思われますか」
傍らにいた副官が尋ねた。
「それ以外に、城から出る理由がない」
「砲の前へ兵を増やしますか」
「三百を送れ。中央は下がらせるな」
「はっ」
ベルン伯爵は南へ目を向けた。
低い農地と水路が続き、その先には自軍の荷駄隊がある。見通しの悪い場所は、別働隊を隠すのに適していた。
「南へ斥候を出せ。敵を見つけても、すぐには攻撃するな。進む先を確かめろ」
「承知しました」
「アルベルトが正面だけで終わる男なら、前の戦で苦労はしていない」
正面の軍へ視線を戻すと、アルヴェイン軍は砲撃を警戒して間隔を広げながら進んでいた。
城壁上の弓兵が矢を放ち、その援護を受けて少しずつ距離を詰めている。
ベルン伯爵は砲の護衛を増やした。
それでも、胸の奥に生まれた違和感は消えなかった。
◇ ◇ ◇
城壁から放たれた矢が、アルヴェイン兵の頭上を越えてベルン軍へ降り注いだ。
ベルン兵は盾を上げ、足を止めずに前進する。
敵味方の距離が縮まるにつれ、城壁の弓兵は狙いを左右へ移した。近づきすぎれば味方を射る危険がある。
「敵の砲、二門がこちらを向きます!」
見張り役の兵が叫んだ。
アレクにも、砲兵たちが慌ただしく動く姿が見えた。
四門のうち二門が、城壁ではなく西門から出たアルヴェイン軍へ向きを変えようとしている。砲身だけを簡単に振ることはできない。車輪を固定していた木片を外し、馬と兵で砲全体の向きを変え、もう一度固定し直さなければならない。
「隊列を左右へ広げろ!」
アルベルトの命令が各隊へ伝わった。
密集していた盾兵と槍兵が、互いに離れすぎない範囲で間隔を広げる。向きを変え終えた砲へ、砲兵が火薬と弾を詰め始めた。
アルヴェイン軍は止まらない。
止まれば、砲兵へ次の一発を用意する時間を与える。
一門目が火を噴いた。
砲弾は隊列の間を抜け、後方の地面を深く削った。土の塊が降り注ぎ、近くにいた兵が倒れる。
二門目の弾は盾兵の列へ入った。
盾が砕け、二人の兵が地面へ投げ出される。後ろにいた槍兵も巻き込まれ、周囲の者たちが一瞬足を止めた。
「負傷者は後ろへ運べ! 残りは前を見ろ!」
アルベルトが命じる。
倒れた者へ駆け寄る兵と、その間を埋める兵が動く。
アレクの足も止まりかけた。
助けに行きたいと思ったが、負傷者の搬送を担当する兵はすでに動いている。今のアレクには別の役目があった。
南と敵本陣を見る。
ベルン伯爵の旗の近くから、複数の伝令が離れていった。砲の前へ新しい兵が集まり、中央の右側から兵が減っている。
「アルベルト様、砲の護衛が増えています。敵中央の右側から移しました」
「見えている」
「南にも騎兵が動きました」
「数は」
「遠くて分かりません。百よりは多いと思います」
アルベルトは近くの指揮官を呼んだ。
「右を厚くしろ。敵が兵を抜いた場所を押す。ただし突出するな」
「はっ!」
命令を受けた伝令が走る。
アルヴェイン軍の右側が少し前へ出た。ベルン軍も空いた場所を埋めようと兵を動かし、槍と盾の列が乱れる。
やがて両軍の先頭がぶつかった。
盾が鳴り、槍が交差する。
前列の兵は相手を倒すより先に、味方の列を崩さないよう足を踏ん張った。一人が下がれば、その隙間へ敵の槍が入る。後ろの兵が前の者の背を支え、倒れた兵を引きずり出しながら列を保つ。
アルベルトは先頭へ出すぎず、自分の旗が全軍から見える位置で指揮を執った。
敵が厚くなった場所では無理に押さず、薄くなった場所へ兵を寄せる。
ベルン軍も簡単には崩れない。
押された場所へ予備を送り、弓兵にアルヴェイン軍の後列を狙わせる。中央で戦っている兵だけを見れば、ベルン軍の方がまだ多かった。
一進一退が続く。
その間にも、砲兵は装填を進めていた。
「また撃ちます!」
アレクの声と同時に、アルベルトが盾を上げるよう命じた。
砲声が響いた。
一発は大きく外れたが、もう一発が隊列の手前へ落ちた。跳ねた土と石が兵たちを打ち、悲鳴が上がる。
正面から砲へ近づくのは難しい。
砲の前には増援を加えた護衛が並び、その後ろでは次の装填が始まっている。
アレクは南を見た。
農地の向こうにゲオルクの隊は見えない。
見えないことが、作戦通りに進んでいる証拠なのか。それとも、すでに敵に止められたためなのかは分からなかった。
待つしかない。
その時間が、ひどく長く感じられた。
◇ ◇ ◇
ゲオルクが率いる三百五十人は、旗を畳み、麦畑の間を西へ進んでいた。
走れば穂が大きく揺れ、遠くからでも居場所を知られる。兵たちは姿勢を低くし、畑の縁と水路に沿って歩いた。
砲声が響くたび、空気がわずかに震える。
正面でアルベルトたちが戦っている。
急ぎたい気持ちは全員にあったが、早く姿を見せすぎれば、敵に進路を変える時間を与えてしまう。
先頭の兵が片手を上げた。
「敵の斥候です」
麦畑の向こうに、馬上の兵が二人見えた。
こちらを発見した斥候は、すぐには本陣へ戻らなかった。距離を保ちながら、ゲオルク隊の進路を確認しようとしている。
ベルン伯爵から、見つけた敵の目的を確かめるよう命じられているのだろう。
「追いますか」
「追うな」
ゲオルクは即答した。
ここで斥候を追えば、見せたいものを見せられない。
ゲオルクは西を指した。
その先には、ベルン軍の荷駄隊がある。
「予定通り荷駄隊へ向かう。敵によく見せてやれ」
兵たちが少しだけ姿勢を上げ、進路を西へ変えた。
斥候の一人が馬首を返し、本陣へ走り始める。もう一人は監視を続けた。
しばらくすると、北西から騎兵が現れた。その後ろには歩兵もいる。
「敵、三百以上」
報告を受けたゲオルクは足を止めずに尋ねた。
「砲までの距離は」
「ここから東へ向きを変えれば、およそ三百歩です」
「水路を渡れる場所は」
「前方に板橋があります。幅は狭く、二人ずつしか通れません」
狭い橋へ三百五十人を集中させれば、渡り終えるまでに追いつかれる。
案内役の兵が、少し南にも浅瀬があると報告した。水は膝より下だが、底は泥になっているという。
「橋に百五十。浅瀬に二百。渡った先で合流する」
「敵に追いつかれます」
「全員で一か所を渡るより早い。後ろには弓兵を残せ。騎兵が近づいたら馬を狙わせろ」
ゲオルクは敵との距離を測った。
ベルン軍の騎兵は、こちらがまだ荷駄隊へ向かっていると思っている。進路を塞ぐため、大きく西側へ回ろうとしていた。
今なら間に合う。
「転進! 砲兵陣地へ向かう!」
号令とともに、三百五十人の向きが変わった。
半数近くが細い板橋へ走り、残りは浅瀬へ入る。泥に足を取られて転ぶ者もいたが、後ろの兵が腕をつかんで起こした。
監視していた斥候が、ようやく意図に気づいた。
馬首を返し、本陣へ向かって走り出す。
「今さら気づいても遅い」
ゲオルクは剣を抜いた。
「砲まで走れ!」
◇ ◇ ◇
南の敵が突然東へ向きを変えたとの報告を受け、ベルン伯爵は地図上の駒を見た。
荷駄隊ではない。
その東側にあるのは、砲兵陣地だった。
「迎撃に出した兵を戻せ」
「すでに戻しております!」
「砲の護衛へ伝えろ。南へ槍を向けろ。砲二門も向きを変えさせろ」
副官が伝令を走らせる。
命令は出た。
しかし、命令を受けたすべての兵が同時に動けるわけではない。
荷駄隊へ向かっていた騎兵は大きく回り込まなければ東へ戻れない。歩兵は走っているが、騎兵と速度が違うため隊列が伸びている。
砲の護衛は正面のアルヴェイン軍を警戒している。突然南へ向きを変えれば、正面側が薄くなる。
二門の砲も、すぐには南へ向けられなかった。固定具を外し、人と馬を使って重い砲を動かす必要がある。
「敵中央が前へ出ます!」
別の伝令が駆け込んだ。
「右側が押されています!」
「予備を送れ」
「残る予備は二百です」
「百五十を中央へ。五十は本陣に残せ」
「砲の護衛には」
「すでに増やした兵がいる。それで止めろ」
正面からアルベルト。
南から別働隊。
砲兵陣地と荷駄隊。
どこか一つを捨てれば、そこから全体が崩れる。
ベルン伯爵は、アルベルトの狙いを理解していた。それでも限られた兵力で、同時にすべてへ対応することはできなかった。
「正面の砲は撃てるか」
「二門は装填中です」
「敵中央へ撃て。南へ向ける二門は急がせろ」
砲撃でアルベルトの前進を止め、その間に南の部隊を退ける。
それができれば、まだ勝てる。
ベルン伯爵は正面から目を逸らさなかった。
◇ ◇ ◇
敵本陣の周囲から、何人もの伝令が走り出した。
アレクは、そのうち二人が砲兵陣地へ、一人が南へ向かったのを見た。
砲の近くにいた兵の一部が南へ向きを変える。二門の砲も、兵たちが車輪へ取りつき始めた。
「気づきました!」
「ああ」
アルベルトも南を見た。
農地の間から、ゲオルク隊の先頭が現れた。ベルン軍の砲兵陣地へ向かって走っている。
「今だ。中央を押す」
アルベルトの命令が角笛と旗で伝えられた。
後方に控えていた兵が前列の隙間を埋め、アルヴェイン軍全体が一歩ずつ前へ出る。
ベルン軍も踏みとどまろうとするが、砲の護衛と荷駄隊の守備へ兵を抜いた中央には、最初ほどの厚みがない。
「右側へ予備百人を送れ!」
アルベルトが命じた。
アレクは近くにいた伝令へ同じ言葉を繰り返し、行き先を指した。
伝令が馬を走らせる。
残る予備は百人。
すべてを使い切れば、どこかが崩れても新しい兵を送れなくなる。だが、今押し切れなければゲオルク隊が孤立する。
ベルン軍の砲が火を噴いた。
一発がアルヴェイン軍の左側へ落ち、数人が倒れる。もう一発は低く飛び、盾兵の列をかすめて後方へ抜けた。
兵たちの足が止まりかける。
アルベルトの旗が前へ動いた。
「止まるな! 砲へ向かう必要はない! 目の前の敵を押し返せ!」
目的は砲へ突入することではない。
正面の敵をここへ縛りつけることだ。
アルベルトの姿を見た兵たちは、再び盾を押し出した。
敵の槍を盾で受け、味方の槍がその隙間から突き出される。倒れた者の場所には後列の兵が入り、少しずつベルン軍を押し返していく。
アレクは剣を抜いていたが、前列には出なかった。
敵の弓兵が狙いを変える。左から騎兵が回り込もうとする。南から戻ろうとしていたベルン軍の一部が、ゲオルク隊へ追いつくため進路を変えた。
見えたことをアルベルトへ伝え、必要な命令を伝令へ渡す。
剣を振るうより、息をつく暇がなかった。
「南の敵騎兵、ゲオルク隊の後方へ回ります!」
「こちらの騎兵百を出せ。倒す必要はない。近づけさせるな」
「はい!」
命令を受けた騎兵が左側から離れ、南へ向かった。
味方の兵を送り出すたび、正面の陣形は薄くなる。
それでもベルン軍も同じだった。
双方が、先に相手のどこかが崩れることを待っている。
南から新しい角笛が聞こえた。
ゲオルク隊が、砲兵陣地へ突入する合図だった。
◇ ◇ ◇
ゲオルク隊の前には、二百人を超える槍兵が並んでいた。
その後ろで砲兵たちが二門の砲を南へ向けようとしている。残る二門は正面へ向けられたままだ。
「弓兵、砲兵を狙え!」
ゲオルクの命令で、走るのをやめた弓兵が矢をつがえた。
放たれた矢の多くは盾に阻まれたが、砲を動かしていた兵の何人かが手を止めた。
ベルン軍の槍兵が列を整える。
正面からぶつかれば、ゲオルク隊にも大きな損害が出る。それでも迂回する時間はなかった。後ろからは、荷駄隊を守るために送られた敵兵が戻ってきている。
「一隊は私と砲へ向かう! 二隊は左から槍兵を押さえろ! 三隊は後ろの敵を止めろ!」
三百五十人が三つに分かれた。
その瞬間、南へ向きを変えた砲の一門が火を噴いた。
狙いを十分に定める時間がなかった砲弾は、ゲオルク隊の右側へ外れた。それでも地面へ当たって跳ねた弾が兵の脚を砕き、周囲へ土を浴びせた。
列が揺れる。
「止まるな! 次を撃たせるな!」
ゲオルクが先頭に立った。
両軍の槍がぶつかる。
ゲオルク隊の二隊が敵の護衛を押さえている間に、一隊が戦列の端を回り込んだ。三隊は後方から戻ってきた敵兵へ弓を放ち、水路の手前で足を止めさせる。
砲兵は装填を始めていた。
火薬を入れ、弾を運び、長い棒を砲口へ差し込む。
一隊の兵たちが砲へ迫った。
「砲を守れ!」
ベルン兵が横から飛び出す。
ゲオルクはその剣を受け、肩で押し返した。後ろの兵が槍を突き出し、敵兵を退かせる。
「砲身に構うな! 車輪と砲架を壊せ!」
斧を持った兵が、一門目の車輪へ駆け寄った。
砲身そのものは厚い金属でできている。剣や斧で叩いたところで、短時間では壊せない。
しかし、その重量を支えている砲架と車輪は木製だった。
斧が振り下ろされる。
一度では割れない。
二人、三人と集まり、同じ場所へ何度も斧を打ち込む。別の兵が車輪を固定する軸へ槍を差し込み、力を合わせて捻った。
木材に亀裂が入り、車輪が傾いた。
「火薬を使わせるな!」
兵たちが砲の後ろへ回った。
火薬袋を運んでいた砲兵が逃げようとしたが、袋を地面へ落とした。アルヴェイン兵は袋を切り、中の黒い粉を泥の上へ散らす。水筒の水を掛け、靴で踏みつけた。
一門目は動かせなくなった。
だが、二門目の周囲にはまだ護衛が残っている。
後方では、戻ってきたベルン軍の騎兵が水路を越えようとしていた。アルヴェイン側の騎兵がその進路へ入り、互いに槍を構えて牽制し合っている。
時間は残されていない。
「二門目の固定具を壊せ! 持ち帰らせるな!」
ゲオルク隊が二門目へ向かった。
敵兵も、砲を守るため必死に踏みとどまる。
剣と槍が近い距離でぶつかり、砲の周囲に倒れる兵が増えていった。
アルヴェイン兵の一人が砲架へ斧を打ち込む。二度目を振り下ろす前に敵の槍を受け、地面へ倒れた。
別の兵が斧を拾い、同じ場所を叩く。
木材の表面が裂けた。
完全には壊れない。
「敵の騎兵が来ます!」
背後を守る兵が叫んだ。
ゲオルクは周囲を見た。
一門は動かせない。もう一門にも損傷を与えた。これ以上留まれば、三百五十人の部隊そのものが包囲される。
「火薬と点火道具を奪え! 持てないものは泥へ捨てろ!」
砲兵が残した道具を兵たちが集める。
「二隊から順に下がれ! 一隊は負傷者を運べ! 三隊は最後まで敵を止めろ!」
目的は果たした。
今度は、生きて戻らなければならない。
◇ ◇ ◇
「南の砲兵陣地へ敵が侵入しました! 一門は車輪を破壊され、移動できません!」
伝令の報告を受け、ベルン伯爵は奥歯を噛んだ。
「もう一門は」
「砲架に損傷があります。動かせますが、次の発射は危険です」
「正面は」
「中央右側が押されています。予備を加えても止まりません」
正面では、アルベルトの旗が少しずつ近づいている。
南から戻した騎兵と歩兵は、砲兵陣地へ到着しつつあった。あと少しあればゲオルク隊を包囲できる。
だが、その間に正面が崩れる。
砲を守るためにさらに兵を抜けば、アルベルトが中央を破るだろう。正面を支えれば、南の部隊に二門目まで奪われる可能性がある。
北側の丘陵には、退路を守るための兵が残っていた。
ベルン軍はまだ戦える。
しかし、一門を失い、一門が損傷した砲で城壁を破ることは難しい。ここで歩兵まで失えば、勝つための戦いではなく、退くことのできない戦いへ変わる。
ベルン伯爵は決断した。
「北の部隊を下げろ」
「撤退なさるのですか」
「そうだ。中央は交互に後退させる。騎兵は南の敵を押し返した後、両翼を守れ」
「動かせない砲は」
ベルン伯爵は砲兵陣地を見た。
「放棄する」
「しかし」
「あの一門を守るために、何人失うつもりだ」
副官が口を閉じた。
「損傷した一門と、残り二門は持ち帰れ。火薬を積んだ荷車を先に下げろ。別働隊の所在を確認し、国境側で合流させる」
「はっ」
撤退を告げる角笛が鳴った。
正面で戦っていたベルン兵が、すぐに背を向けたわけではない。
後列の兵が槍を構えて敵を止め、その間に前列が数歩下がる。下がった兵が新しい列を作ると、今度は残った兵が後退する。
騎兵も左右へ広がり、追撃を防ぐ姿勢を見せた。
敗走ではない。
ベルン軍は隊列を保ったまま、戦場から離れ始めた。
◇ ◇ ◇
「敵が下がります!」
伝令の声に、アルヴェイン兵の間から歓声が上がりかけた。
アルベルトは剣を上げ、それを止めた。
「追うな! 隊列を維持しろ!」
前列の兵たちは荒い息をしながら踏みとどまった。
敵は退いている。
だが、槍兵が後方を守り、騎兵もこちらへ向いたままだ。背中を見せて逃げる兵はほとんどいない。
「アルベルト様、追撃しないんですか」
アレクが尋ねた。
「敵はまだ二千人以上いる。騎兵も残っている」
「でも、今なら損害を増やせるかもしれません」
「こちらも陣形が崩れている」
アルベルトは前方を指した。
アルヴェイン軍も戦いながら前へ出たことで、部隊同士の間隔が乱れている。負傷者を運ぶ兵が行き交い、矢を補充するため後ろへ下がっている者もいた。
南のゲオルク隊がどれほどの損害を受けたかも、まだ分からない。
所在不明のベルン軍別働隊が、撤退路の近くに潜んでいる可能性も残っている。
「ここで追えば、今度はこちらが罠へ入るかもしれない」
「……はい」
「勝った時ほど、止まることを覚えろ」
アルベルトは剣を下ろした。
「今日の目的は、ベルン軍を全滅させることではない。砲を止め、ヴァイスブルクを守ることだ」
敵を追いたい気持ちは、アレクにもあった。
退く敵を見逃せば、いつか再び戦うことになるかもしれない。今のうちに少しでも多く倒した方が、次の危険を減らせるようにも思える。
しかし、追撃で味方を失えば、ラーデン街道やヴァイスブルクを守る兵が足りなくなる。
何を得られるかだけではなく、そのために何を失うのかを考えなければならない。
「南へ伝令を出せ」
アルベルトが命じた。
「ゲオルクに、無理に敵を追うなと伝えろ。砲を確保し、負傷者を連れて戻れ」
「はい」
アレクは伝令を呼び、命令を繰り返した。
その後もアルヴェイン軍は追撃せず、ベルン軍が十分に離れるまで戦場で隊列を保ち続けた。
正午を過ぎる頃には、ベルン軍の本隊は中央街道を西へ下がっていた。北の丘陵にいた兵も撤退し、ヴァイスブルクを包んでいた圧力が消えていく。
南から戻ったゲオルク隊は、動かせなくなった砲一門を確保していた。
もう一門にも損傷を与えたが、ベルン軍が牽引用の馬を集めて持ち去った。残り二門も撤退している。
砲を奪った兵たちの顔に、勝利を喜ぶ余裕はなかった。
仲間の肩を借りて歩く者がいる。担架へ横たわる者もいる。斧を握ったまま戻ってきた兵の鎧には、乾き始めた血が付いていた。
アレクは彼らを迎えながら、ゲオルクを探した。
「ゲオルク!」
「ここだ」
声のした方を見ると、ゲオルクが二人の兵とともに歩いてきた。左腕に布を巻いている。
「怪我をしたんですか」
「浅い。腕は動く」
「本当に?」
「お前までエリーゼ様のようなことを言うな」
そう答えるだけの余裕は残っているらしい。
だが、ゲオルクの後ろから運び込まれる負傷者を見れば、南の戦いが容易なものではなかったことは分かった。
「砲は」
「一門は確保した。もう一門も砲架を傷つけたが、持っていかれた」
「十分です」
「そうかもしれん」
ゲオルクは立ち止まり、担架の列を見た。
「だが、高くついた」
アレクには返す言葉がなかった。
奪った砲は一門。
それを得るまでに、何人もの兵が倒れた。
砲の価値だけを見れば、成功と言える。ヴァイスブルクも守った。
しかし、人の命と砲を同じ秤へ載せることはできなかった。
◇ ◇ ◇
夕方、ヴァイスブルクの軍議室に各部隊の報告が集められた。
負傷者の中には、手当てをしても助からなかった者がいる。行方が分からなかった兵の一部は、戦場で遺体が見つかった。
書記が何度も数字を書き直し、ゲオルクが最後に確定した報告を読み上げる。
「本日の戦死六十四人、負傷百五十八人。初日と二日目を合わせた我が軍の損害は、戦死百七十五人、負傷四百十六人です」
誰もすぐには口を開かなかった。
死傷者は五百九十一人に達した。
兵数として考えれば、今後どこへ何人を置けるのか、どの部隊を休ませるのか、どれだけの補充が必要になるのかという問題になる。
だが、五百九十一という数字の中には、一人ずつ違う名前がある。
家族がいる者もいれば、村に帰る約束をしていた者もいる。負傷者の中には、以前と同じようには働けなくなる者もいるだろう。
「ベルン軍の損害は、確認できただけで戦死二百人以上。負傷者は三百人を超えると思われます」
ゲオルクが続けた。
「撤退時に運び出された者が多く、正確な数は分かりません。敵は砲一門を放棄。一門が損傷。残る二門とともに西へ後退しております」
「別働隊は」
アルベルトが尋ねた。
「西へ向かっているとの報告がありました。本隊との合流を目指していると思われます」
「再攻撃の可能性は」
「今のところ、低いかと。ただし国境を越えたことまでは確認できておりません」
「斥候を残せ。勝ったと思って見張りを減らすな」
「はっ」
アルベルトは地図へ目を落とした。
ヴァイスブルクは守った。
ラーデン街道も奪い返した。
ラーデン村では家も畑も焼かれず、避難した村人たちが戻ることができる。
ベルン軍を国境の外へ押し返す見通しも立った。
「第二次ヴァイスブルクの戦いは、我々の勝利です」
ゲオルクが静かに告げた。
勝利という言葉を聞いても、アレクの胸に大きな喜びは湧かなかった。
戦いの間は、勝たなければならないと思っていた。
ベルン軍を止め、砲を奪い、城を守った。望んでいた結果を得たはずなのに、思い浮かぶのは城門から運び込まれた兵たちの姿だった。
「アルベルト様」
「何だ」
「勝ったんですよね」
「ああ」
「それなのに、嬉しいと思えません」
アルベルトは、すぐには答えなかった。
「人が死んだからだ」
「……はい」
「勝っても、死んだ者は戻らない。負傷した者の傷が消えるわけでもない」
アルベルトは地図の上に置かれていたベルン軍の駒を取り除いた。
「だが、負ければもっと多くを失った。城が落ちれば兵だけでは済まない。ラーデン街道を押さえられれば、その先の村々も危険にさらされた」
「だから、勝たなきゃいけない」
「そうだ。喜ぶためではない」
アルベルトはアレクを見た。
「戦で勝つことそのものを目的にするな。勝った後、何を守れたのか。何を残せたのかを考えろ」
「はい」
勝ったから、すべてが良くなるわけではない。
それでも勝ったからこそ、守れたものがある。
アレクは、その両方を忘れてはいけないのだと思った。
◇ ◇ ◇
翌朝、西門前の広場には多くの兵が集められた。
戦死者百七十五人の名が、一人ずつ読み上げられる。
知っている名もあった。
顔を思い出せる者もいた。
ほとんど話したことのない者や、名前を聞くのが初めての者もいる。
それでも全員が、三日間のどこかで同じ敵と戦い、ヴァイスブルクとラーデン街道を守るために命を落とした。
名前が読み上げられるたび、遺体を覆う布の前で兵たちが頭を下げる。
アレクも黙って立っていた。
隣にはトーマスがいる。
城壁を守っていた時に石片で頬を切ったらしく、細い傷が残っていた。それ以外に大きな怪我はない。
「生き残ったな」
トーマスが小さな声で言った。
「ああ」
「次も生き残ろう」
「そうだな」
次がないとは、誰も言えなかった。
ベルン軍は退いたが、この世界から戦がなくなったわけではない。
最後の名前が読み上げられ、全員が頭を下げた。
風が吹き、城壁の上に掲げられた深紅の旗が揺れる。
その静けさを破るように、東門の方角から馬の蹄の音が聞こえてきた。
「急報!」
一騎の伝令が広場へ駆け込んでくる。
馬から下りた伝令は、息を切らしながらアルベルトの前へ進んだ。
「西方より急報です!」
アレクが顔を上げる。
ベルン軍は西へ退いた。
だが、伝令が告げようとしているのは、ベルン軍のことではなかった。
「グランヴァルト軍とシュヴァルツ伯軍が、ハイゼン北方で接触しました。両軍はすでに布陣を始めております」
「兵力は」
アルベルトが尋ねた。
「レオンハルト殿下の軍が約一万四千。シュヴァルツ伯軍が約七千五百です」
広場に小さなどよめきが広がった。
ヴァイスブルクで戦った兵より、はるかに多い。
レオンハルトはアルヴェインを通過した後、西へ進み続けていた。シュヴァルツ伯も周辺の兵を集め、その進路を塞いだのだ。
「戦闘は始まったのか」
「斥候が離れた時点では、まだ両軍とも動いておりません。ただし、いつ戦いが始まってもおかしくない状況とのことです」
アルベルトは西を見た。
城壁の向こうにあるのは、ベルン軍が退いた道だ。そのさらに先で、黒獅子の旗を掲げた軍とシュヴァルツ伯軍が向かい合っている。
「斥候を出せ」
アルベルトが命じた。
「ベルン軍の動きを監視する者とは別に、西方の戦況を調べさせろ。ただし両軍へ近づきすぎるな」
「はっ!」
新しい命令を受け、兵が走り出した。
アレクはアルベルトを見た。
「アルベルト様は、西へ行くんですか」
「行かない」
答えに迷いはなかった。
「レオンハルトの戦は、我々の戦ではない。今の我々には、傷ついた兵を休ませ、ヴァイスブルクとラーデン街道を立て直す責任がある」
「はい」
「だが、結果は知らなければならない。あの戦いがどう終わるかで、我々を取り巻く状況も変わる」
アレクも西へ顔を向けた。
アルヴェインを離れる前、レオンハルトはアレクに言った。
次に会う時まで生きていろ、と。
「死なないでくださいよ」
声に出しても、遠く離れたレオンハルトへ届くはずはない。
それでも、言わずにはいられなかった。
第二次ヴァイスブルクの戦いは終わった。
ヴァイスブルクも、ラーデン街道も、ラーデン村も守られた。
だが、乱世そのものが終わったわけではない。
西の空の下では、さらに大きな戦いが始まろうとしていた。
第六話を読んでいただき、ありがとうございました。
アルベルトたちはベルン伯爵の軍を退け、ヴァイスブルクとラーデン街道を守り抜きました。しかし、勝利の裏では多くの兵が命を落としています。
戦で勝つことではなく、勝った後に何を守り、何を残せたのか。アレクは戦の重さを改めて知ることになりました。
そして西方では、レオンハルトとシュヴァルツ伯による、さらに大きな戦いが始まろうとしています。
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