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『知らない世界で、前世の知識が武器になる』 ~剣と銃で乱世を生き抜く転生領主の成り上がり~  作者: 相田 ソウ
第二篇 乱世に蒔く種

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第五話 第二次ヴァイスブルクの戦い(中)

ベルン伯爵軍の別働隊がラーデン街道を遮断しました。

正面には砲を持つ本隊、北東には守りを固めた千人。アルベルトたちは、二つの戦場を同時に動かす策へ出ます。


 南東の丘陵へ退いたアルヴェイン軍の陣地では、日が沈んだ後も負傷者を運ぶ荷車が絶えなかった。

 車輪が土を踏み固め、担架を持った兵が焚き火の間を行き来する。鎧を脱がせる音、苦痛を堪える声、治療に使う湯を求める声が、夜の陣地に低く重なっていた。

 戦死者は六十三人。

 負傷者は百四十人を超えている。

 まだ行方を確認できていない兵もいるため、どちらの数も増える可能性があった。

 戦場に残された者を迎えに行くことも、すぐにはできない。中央街道と北側丘陵はベルン伯爵軍に奪われている。暗闇の中で近づけば、敵の斥候と出会う危険があった。

 アレクは焚き火の近くに座り、地面へ広げた地図を見つめていた。

 中央街道には、ベルン伯爵軍を示す濃紫の駒が置かれている。

 北側丘陵にも同じ駒がある。

 ベルン伯爵軍は二つの重要な場所を奪い、アルヴェイン軍を南東へ退かせた。

 それにもかかわらず、ヴァイスブルクへ進んでいない。

 四門の砲を持ち、城の西側へ近づける道も確保している。日が暮れるまで前進を続ければ、砲を据える場所を選ぶこともできたはずだ。

 だが、ベルン伯爵は動かなかった。

「まだ見ているのか」

 声をかけられ、アレクが顔を上げる。

 トーマスが二つの木椀と黒パンを持って立っていた。

「うん」

「もう地図の線が消えるくらい見ただろ」

「見ただけで分かるなら苦労しないよ」

「食べずに見続けても、分からないものは分からない」

 トーマスは隣へ腰を下ろし、木椀の一つを差し出した。

 豆と刻んだ野菜を煮た薄いスープだった。冷め始めているが、湯気はまだ残っている。

「ありがとう」

「礼を言うなら食え。昼から何も口にしていないだろ」

 アレクは黒パンを割り、スープへ浸した。

 空腹だったはずなのに、食欲はあまりない。少し離れた場所では、腕に包帯を巻かれた兵が横になっている。その隣では、仲間を失った若い兵が焚き火を見つめていた。

「戦う前に決めたことを守っていても、これだけ死ぬんだな」

 アレクが呟く。

 不利になれば退く。

 撤退の合図も経路も、負傷者を運ぶ方法も決めていた。何も考えずに突撃したわけではない。

 それでも、六十三人が帰らなかった。

「決めていなければ、もっと死んだ」

 トーマスが答える。

「分かってる」

「分かっている顔には見えない」

「どんな顔だよ」

「今すぐ一人で全部片づけに行きそうな顔だ」

「そんなことしないよ」

「本当か?」

 疑うように見られ、アレクは木椀へ視線を落とした。

「たぶん」

「たぶんでは困る」

 トーマスは自分の黒パンをちぎった。

「考えるのはお前の役目かもしれない。でも、食べて休むのも役目だ。明日、お前だけ寝不足で動けなかったら、ゲオルクさんに引きずられるぞ」

「それは嫌だな」

「俺も手伝わされるから嫌だ」

 アレクはようやく少し笑い、スープを口へ運んだ。

 味は薄かったが、温かさが身体へ戻ってくる。

「ベルン伯爵は、どうして城を攻めないと思う?」

「俺に聞くな」

「意見くらいあるだろ」

「砲を動かすのに時間が掛かるからじゃないのか」

「それもあるかもしれない」

「他には」

「分からない。ただ、何もしていないとは思えない」

 アレクは地図へ目を戻した。

 中央街道。

 北側丘陵。

 ヴァイスブルク。

 ベルン伯爵軍が奪った場所ばかり見ていた。

 だが、動かしている兵がすべて目の前にいるとは限らない。

「城を攻めないんじゃなくて、別の場所を攻めているとしたら……」

 アレクの指が地図の上を動く。

「何か言ったか?」

「まだ分からない」

「なら、食べてから考えろ」

 トーマスはそう言って立ち上がった。

「交代まで休む。お前も軍議が終わったら寝ろよ」

「ああ」

「返事が信用できない」

「努力する」

「それは死なない時に使え」

 トーマスが離れていく。

 アレクは残ったスープを飲みながら、街道から外れた地図の余白を見つめた。

 ベルン伯爵が、すでに別の場所で何かを動かしている。

 その可能性が、胸の奥に残った。


 ◇ ◇ ◇


 同じ頃、ヴァイスブルクの北東に広がる森では、千人の兵が闇の中を進んでいた。

 松明は先頭と荷車の周囲に限られている。明かりを増やせば道は歩きやすくなるが、遠くから位置を知られる危険も増す。

 兵たちは前を歩く者の背と足音を頼りに、細い道を進んでいた。

「止まれ」

 先頭を進む別働隊長が手を上げた。

 命令は後方へ順番に伝えられ、長く伸びた隊列が少しずつ止まっていく。

「何があった」

「三台目の荷車が窪みへ車輪を取られました」

 副官が答える。

「引き上げるのに、どれほど掛かる」

「人を集めれば半刻ほどで」

「遅い。荷を降ろせ」

「兵糧と予備の矢が載っています」

「兵に二日分だけ持たせろ。残りはここへ置いていく」

「よろしいのですか」

「我々は村や城を占領するために来たのではない」

 別働隊長は副官が持つ小さな地図を松明の近くへ寄せた。

「夜明けまでにラーデン街道へ出る。三日間、道を止めれば役目は終わる」

「しかし、三日以内に本隊から命令が来なければ」

「その時は、残った食料を集めて判断する。今は到着が先だ」

 千人の兵と数台の荷車を、暗い森の中で動かすのは簡単ではない。

 先頭が進めても、後ろが同じ速さでついてこられるとは限らない。狭い場所では一列になり、倒木があれば迂回しなければならない。

 車輪を取られた荷車を救うために全軍を止めれば、夜が明ける。

「弓矢は優先して運べ。食料は二日分。予備の槍と天幕は残せ」

「はっ」

「捨てる荷には見張りを一人も残すな。アルヴェインの者に拾われても構わん」

 副官が部下へ命令を伝える。

 荷車から荷が降ろされ、兵たちへ分けられていく。すべてを持ち出すことはできず、予備の装備と食料の一部が木の根元へ積まれた。

「村へ着いた後は、どうしますか」

「村には入らん」

「食料を求める兵が出るかもしれません」

「略奪と放火は禁止だ。村人へ剣を向けた者も罰する」

「ベルン伯爵からの命令ですね」

「ああ。目的は道を切ることだ。村を焼けば、アルヴェイン兵は街道以上に村を守ろうとする。必要のない敵意まで買うな」

「村人が我々へ向かってきた場合は」

「街道から退かせろ。それでも武器を持って近づくなら取り押さえろ。殺すのは最後だ」

 別働隊長は暗い森の先へ目を向けた。

「出発する。遅れた者を待つな。各隊で人数を確かめながら進め」

 隊列が再び動き出す。

 荷車を減らしたことで、先ほどより歩みは速くなった。

 目指す先には、ヴァイスブルクとアルヴェインブルクを結ぶ最短路がある。

 アルベルトが道の異変を知る頃には、防御陣地の形ができている。

 ベルン伯爵が求めているのは、そのわずかな遅れだった。


 ◇ ◇ ◇


 夜半、アルヴェイン軍の天幕で軍議が開かれた。

 アルベルト、ヴァイス男爵、ゲオルク、各隊の指揮官が地図を囲んでいる。アレクもアルベルトの近くに立っていた。

「敵本隊は」

 アルベルトが尋ねる。

「中央街道上で陣地を整えています」

 斥候隊の指揮官が答える。

「兵数に変化は?」

「遠くからの確認ですが、大きく減ったようには見えません。焚き火の数も、日没前と同じです」

「砲は」

「四門とも中央街道付近にあります」

「北側丘陵は?」

「弓兵と槍兵が交代で警戒しております」

 ベルン伯爵軍は、奪った場所を守る動きを続けている。

 ヴァイスブルクへ進む様子はなく、南東へ退いたアルヴェイン軍へ攻撃を仕掛ける様子もない。

「こちらの兵は」

 アルベルトがゲオルクへ視線を移す。

「昼間に城外へ出た二千人のうち、戦死者が六十三人。負傷者は百四十人余りです。傷の浅い者を除けば、野外で直ちに動かせるのは約千八百人です」

「城内の千三百人は」

「交代で休ませています。今夜の襲撃にも対応できます」

「追加の援軍は?」

「五百人のうち、到着したのは三百二十人です」

 アレクが顔を上げた。

 ベルン伯爵軍の越境が確認された後、アルベルトは北東部の町や村へ追加の動員命令を出していた。前もって集めた八百人とは別の援軍である。

「残る百八十人は、いつ着きますか」

「分からない」

 ゲオルクが答える。

「日没前には到着する予定だった。だが、遅れるという連絡も来ていない」

「どこから来る人たちです?」

「アルテン、リューネ、ラーデンと、その周辺だ」

「ラーデン……」

 アレクの視線が地図の北東へ向く。

 ヴァイスブルクからアルヴェインブルクへ続く街道。その途中に、アレクがこの世界で初めて暮らした村がある。

「北東から来た伝令は、他にいませんか」

 斥候隊の指揮官が記録を確認した。

「最後に到着したのは昼過ぎです」

「それ以降は一人も?」

「はい」

「援軍だけじゃない」

 アレクが地図へ身を寄せる。

「北東からの連絡そのものが止まっています」

 天幕の中にいた者たちが地図を見る。

「何を考えている」

 アルベルトが尋ねた。

「ベルン伯爵軍は、中央街道と北の丘を取りました。でも、ヴァイスブルクへ来ていません」

「ああ」

「本隊は焚き火を減らさず、四千人近くいるように見せている。でも、夜なら遠くから人数までは確かめられない」

「続けろ」

「もし、兵の一部を別の場所へ向かわせていたら」

 アレクの指が北東へ動く。

「ラーデン街道」

 ゲオルクが先に答えた。

「はい。ここを切れば、ヴァイスブルクへ来る援軍も兵糧も止められます」

「敵本隊が城を攻めないのは、別働隊が街道へ着くのを待っているからか」

 ヴァイス男爵が言う。

「まだ決まったわけではない」

 アルベルトは即断を避けた。

「だが、確かめる必要はある」

 アルベルトは斥候隊の指揮官へ命じる。

「北東へ六騎出せ。ラーデン街道へ二騎、北の林道へ二騎、南の農道へ二騎だ。敵を見つけても戦うな。兵数と進行方向だけを確認しろ」

「承知しました」

「一組が戻らなくても、残りが報告を届けられるよう経路を分けろ」

「はっ」

 指揮官が天幕を出ていく。

 アレクはラーデン村を示す小さな印から目を離せなかった。

 マルセルは、今も村にいる。

 もし千人の敵兵が突然現れれば、村人だけで抗うことはできない。

「アレク」

 アルベルトに呼ばれ、アレクが顔を上げる。

「はい」

「今、お前がラーデンへ走っても何も変わらん」

「分かっています」

「なら、顔を上げろ。敵が道を狙っているなら、取り返す方法を考える」

「はい」

 アレクは息を整え、地図全体を見る。

 一つの村だけを見れば、他の兵が見えなくなる。

 ベルン伯爵軍の本隊は、まだ目の前にいる。

 ラーデンを守るためにも、その三千人以上を無視することはできなかった。


 ◇ ◇ ◇


 夜明け前のラーデン村は、まだ深い眠りの中にあった。

 教会では、マルセルが小さな灯火のそばで帳面を読んでいた。

 秋に備えて蓄える穀物と、村の共同倉から貸し出した種の量が記されている。数字を確かめているうちに夜が更け、そのまま机で眠りそうになっていた。

 その時、外で家畜が騒ぎ始めた。

 最初は野犬でも近づいたのだと思った。

 だが、一頭だけではない。複数の家から、牛や馬が落ち着きを失った音が聞こえる。

 マルセルは灯りを持って教会の外へ出た。

 風は弱い。

 遠くの森から、枝が折れる音が断続的に届いていた。

 やがて、規則的な足音も聞こえる。

 数人ではない。

 マルセルはすぐに教会へ戻り、鐘の縄を引いた。

 重い鐘の音が、眠っていた村へ響き渡る。

「起きなさい! 森から大勢の者が来ています!」

 家々に明かりが灯り、戸口から村人たちが顔を出した。

「盗賊ですか?」

「分かりません。武器を持てる者は集まりなさい。ただし、勝手に森へ行ってはいけません」

「女と子供は東へ逃がしますか」

「街道へ出してはいけません」

 マルセルは村の東側を見た。

 森から来る者が街道を狙っているなら、村人をそこへ集める方が危険だった。

「畑を抜け、東の林へ向かいなさい。老人と子供を先に。荷物を取りに戻ってはいけません」

 村人たちが動き始める。

 寝巻きの上へ外套を羽織った者が子供の手を引き、歩けない老人を荷車へ乗せた。武器になるものを探す者もいたが、持ち出せたのは斧や農具ばかりだった。

 森から最初の兵が姿を現した。

 畳まれていた旗が一度だけ開かれ、マルセルは濃紫の布と紋章を確認した。

「ベルン伯爵軍……」

 千人近い兵が、村の西を通って街道へ向かっている。

 先頭の騎兵が村の鐘に気づき、数騎をこちらへ向かわせた。

「神父か」

 馬上の別働隊長が尋ねる。

「この村の教会を預かるマルセルです」

「村人を街道から遠ざけろ。我々は家を焼かん。食料も奪わない」

「それを信じろと?」

「信じる必要はない。兵へ近づかなければ、こちらも村へ入らない」

「何のために来たのです」

「答えられん」

 マルセルは兵が向かう先を見た。

 すでに斧を持った者たちが、街道脇の木へ取りついている。

「道を塞ぐのですね」

 別働隊長は否定しなかった。

「村人に武器を置かせろ」

「この村を守るための農具です」

「我々へ向けなければ構わん。だが、街道へ近づけば兵は止める」

 別働隊長は部下へ顔を向けた。

「村の周囲へ見張りを置け。家へ入るな。井戸も使わせるな」

「水も奪わないのですか」

「村の井戸を使えば、兵が村へ入る。持ってきた水で足りる」

 そこまで言うと、別働隊長は馬を街道へ向けた。

 マルセルはその背中へ声をかける。

「あなたも若者を率いているのでしょう」

 男が振り返る。

「何だ」

「村に手を出さないという言葉だけは、守ってください」

「そのつもりだ」

「なら、あなた自身も生きて帰りなさい。命令を守った者が、最後に死んでは意味がありません」

 別働隊長はわずかに目を細めた。

「敵の指揮官に言う言葉ではないな」

「死なないで済むなら、敵も味方もありません」

「変わった神父だ」

「時々言われます」

 男はそれ以上何も言わず、街道へ戻っていった。

 マルセルは避難する村人たちの後を追う。

 ベルン兵は村へ入らず、街道の両側で陣地を作り始めていた。

 今は約束を守っている。

 だが、アルヴェイン軍が街道を取り返しに来れば、ここは戦場になる。

 マルセルは東の空が明るくなり始めるのを見ながら、アレクもどこかでこの戦いに関わっているのではないかと思った。


 ◇ ◇ ◇


 夜が明ける頃には、ラーデン街道の形が変わっていた。

 太い木が街道を横切るように倒され、その後ろへ荷車が並べられている。荷車の隙間には杭が打たれ、掘り出した土が盛られていた。

 完成した砦ではない。

 それでも、正面から攻める者は倒木と荷車に進路を塞がれ、高所の弓兵から矢を浴びる。

「西側へ槍兵三百。東側へ二百。正面の防壁に三百。残りは北と南の警戒へ回せ」

 別働隊長が命じる。

「弓兵は」

「街道北側の丘へ百五十。残りは防壁の後ろだ」

「敵が本隊から来た場合は」

「西側の兵で止める。東から援軍が来れば、東側の二百が時間を稼げ」

「長くは持ちません」

「長く持たせる必要はない。三日だ」

 兵たちは休む間もなく土を運び、杭を打つ。

 夜通し歩いてきた者たちの動きは鈍くなっていた。それでも、アルヴェイン軍の斥候が来る前に形を整えなければならない。

 街道南側の木陰から、二騎の騎兵が陣地を見ていた。

「千はいるな」

「ああ。村は焼かれていない」

「街道は完全に塞がれた。西へは戻れない」

「南の農道へ回る。急ごう」

 二騎は木々の間で馬首を返した。

 ベルン兵の見張りも、その動きに気づく。

「南に騎兵二!」

「追いますか」

「追うな」

 別働隊長が止めた。

「敵を追って陣地を空けるな。見られることは分かっていた」

「本隊へ報告されます」

「その頃には、こちらの陣地もできている」

 別働隊長は完成しつつある防壁を見た。

 敵が来ることまで含めて、この場所を選んでいる。

 問題は、アルベルトがどれほどの兵を向けてくるかだった。


 ◇ ◇ ◇


 朝、南側の農道を迂回した斥候がアルベルトの陣地へ戻った。

 馬は汗に濡れ、騎手も泥にまみれている。

「ラーデン街道で、ベルン伯爵軍の別働隊を確認しました!」

「兵数は」

「約千人。すでに街道へ倒木と荷車を並べ、陣地を築いております」

「村は?」

 アレクが思わず尋ねた。

「煙は上がっていません。村の西を通りましたが、家屋が燃えた様子はありませんでした」

「村人は見ましたか」

「遠くから数人だけ。東側へ移動しているように見えました」

 村が無事だと決まったわけではない。

 それでも、焼かれていないと知り、アレクはわずかに息をついた。

「敵の配置は」

 ゲオルクが尋ねる。

「街道の東西へ兵を置き、北の丘に弓兵がいます。正面から攻めれば、倒木の前で止められます」

「千人か」

 ヴァイス男爵が地図へ駒を置いた。

「同数を向かわせますか」

「向かわせれば、目の前のベルン伯爵軍が動く」

 アルベルトは中央街道を指した。

 夜の間に千人を抜いていたなら、ベルン伯爵軍の本隊は約三千人。それでも、四門の砲を持ち、中央街道と北側丘陵を押さえている。

 対するアルヴェイン側は、負傷者を除けば全体で約三千四百人。

 その全軍をラーデンへ向けることはできない。

「二つに分けるしかありません」

 アレクが言った。

「どう分ける」

「ベルン伯爵軍の正面に、こちらの主力を見せます」

「街道へ向かう兵を見せないためか」

「はい。少ない兵をラーデンへ送ったと分かれば、ベルン伯爵は本隊から援軍を出します。だから、正面でも本当に戦えるだけの兵を並べます」

 アレクは二つの駒を動かした。

「正面に二千三百。ラーデンへ五百。城に六百を残す」

「城内六百では少ない」

 ヴァイス男爵が言う。

「長く城を守る人数ではありません」

「短い間だけか」

「はい。正面の二千三百人が、ベルン伯爵軍と城の間にいます。俺たちが退く前に、ラーデン街道を開けます」

「五百人で、陣地を作った千人を破れるのか」

 ゲオルクが尋ねる。

「正面からは無理です」

「なら、どうする」

「村の北側に、昔使われていた炭焼き道があります。荷車は通れませんが、人なら森を抜けられるはずです」

「お前は通ったことがあるのか」

 アルベルトが尋ねた。

「途中までです。全部はありません」

「それでは軍を任せられん」

「でも、今日到着した三百二十人の中に、あの辺りを知る人がいるかもしれません」

 ゲオルクが部下を見る。

「北東から来た兵を調べろ。猟師か木こりだった者を優先しろ」

「はっ」

 間もなく、ラーデン北方の山で狩りをしていた男が見つかった。

 男は地図にない道をいくつか知っていた。古い炭焼き道は今も残っており、倒木を越えれば五百人を一列で通せるという。

「指揮はヴァイス男爵」

 アルベルトが決めた。

「私がですか」

「この地域の兵と地形を最も知っているのはお前だ」

「城の守りは」

「守備隊長へ任せる。六百人を動かすつもりはない」

「承知しました」

「山歩きに慣れた者を五百人選べ。鎧と荷を軽くし、弓兵と斧を扱える兵を含めろ」

「街道へ着いた後は、別働隊を倒しますか」

「道を開ければよい。追撃して村から離れるな」

「はっ」

 ヴァイス男爵が準備のため天幕を出ていく。

「アレク」

「はい」

「お前は私と正面だ」

「ラーデンへ行かなくていいんですか」

「行きたいのか」

「行きたいです」

「なら、なおさら残れ」

 アレクは言葉を失った。

「お前がラーデンへ向かえば、村のことばかり考える。五百人を率いる者が一つの村しか見られなくなれば、全員が死ぬ」

「……はい」

「こちらで敵本隊を見ろ。ヴァイス男爵が動ける時間を作る」

「どうやって作りますか」

「ベルン伯爵に、ラーデンへ兵を送る余裕がないと思わせる」

 アルベルトは正面の駒を前へ出した。

「攻めるのですか」

「ああ」

「昨日負けた相手に?」

「昨日負けたからだ。ベルン伯爵は、こちらが街道を切られて焦っていると考える」

「焦っているように見せる?」

「本当に焦っている。演じる必要はない」

「それでも、無理に攻めれば被害が出ます」

「分かっている」

「道を開くために、正面の兵を死なせるのですか」

「死なせないために、どこまで押すかを決める」

 アルベルトは地図の上に撤退線を示した。

「敵陣を破る必要はない。砲の射線へ長く留まる必要もない。ただし、向こうが我々を無視できない場所までは進む」

「ベルン伯爵が策だと気づいたら」

「気づくまで戦う」

「気づいた後は」

「北東へ兵を出そうとする。その兵を止める」

 アルベルトは騎兵を示す駒へ手を置いた。

「敵が何をするか分かっているなら、その次も考えられる」

 危険な策であることは変わらない。

 正面の二千三百人は、約三千人と砲四門を相手にしなければならない。

 五百人のヴァイス男爵隊が山道で遅れれば、その時間だけ正面の被害が増える。

 それでも、千人をラーデン街道へ正面から向かわせれば、ベルン伯爵はヴァイスブルクを攻める。

 二つを同時に守るには、二つの戦場を同時に動かすしかなかった。

「準備を始めろ」

 アルベルトが命じた。

「昼までに、ベルン伯爵の前へ出る」


 ◇ ◇ ◇


 中央街道の陣地で、ベルン伯爵は接近する深紅の旗を見ていた。

「アルヴェイン軍、正面へ進んでいます」

 副官が報告する。

「兵数は」

「二千を超えています。城からも兵が出たようです」

「街道を見つけたな」

「おそらく」

「そのために焦って出てきたか」

「街道へ兵を送れば、こちらがヴァイスブルクを攻めると考えたのでしょう」

 ベルン伯爵は遠くの軍勢を見つめる。

 深紅の旗は中央に集まり、騎兵も左右へ展開している。後方にはヴァイスブルクの城壁が見えた。

「アルベルトが、あれほど分かりやすく焦ると思うか」

 副官が答えを止めた。

「策でしょうか」

「策でない可能性もある。ラーデン街道を失えば、あいつも困る」

「では」

「どちらでも、攻めてくる兵を止めることに変わりはない」

 ベルン伯爵は命令を出した。

「正面に槍兵を集めろ。砲は中央から動かすな。騎兵は左右に置く」

「北東へ斥候を出しますか」

「五十騎を出せ。林と丘を調べろ。小さな部隊を見つけても、すぐに戦うな。進路を確かめろ」

「承知しました」

「残る騎兵は待機だ。アルベルトが正面だけで終わるなら、以前の戦で我々は負けていない」

 濃紫の旗が動き、ベルン兵が防御配置へつく。

 街道上へ槍と盾が並び、その後ろで四門の砲が発射準備を始めた。

 アルヴェイン軍は止まらない。

「来るぞ」

 ベルン伯爵は馬上で二千三百人の動きを見た。

「今度は、何を守るために攻めてくる。アルベルト」


 ◇ ◇ ◇


 アルヴェイン軍は、中央の歩兵と槍兵千六百人、弓兵三百人、左右の騎兵三百人、そのほか伝令と指揮を担う兵に分かれて進んだ。

 正面には約三千人のベルン伯爵軍がいる。

 昨日と異なり、ベルン伯爵軍は中央街道に築いた陣地で待ち構えていた。

「敵砲、発射準備に入っています!」

 見張り役の声が伝令を介して届く。

「部隊の間隔を広げろ」

 アルベルトが命じた。

 旗が振られ、前進する兵たちの間に隙間が作られる。砲弾一発に多くの者が巻き込まれないためだが、散らしすぎれば敵の槍兵に押し込まれる。

 アレクはアルベルトとゲオルクの近くで、敵の旗と砲の位置を見ていた。

「南側、今のところ敵の動きはありません」

「ヴァイス男爵隊は」

「林へ入った後は確認できていません」

「それでいい」

 アルベルトは正面から目を離さない。

 ベルン伯爵の陣地で白い煙が上がった。

「砲撃!」

 轟音が続けて響き、四発の弾が地面を跳ねながら飛んでくる。

 一発はアルヴェイン軍の手前へ落ち、湿った土を大きくえぐった。

 二発目は部隊の間を抜ける。

 三発目は槍兵の列へ入り、盾を砕いて数人を倒した。

 最後の一発は大きく外れ、南側の畑で止まった。

 前進する兵の足が一瞬鈍る。

「止まるな!」

 各隊の指揮官が声を上げた。

「負傷者は後列へ! 間隔を保て!」

 砲撃を受けた場所へ救護の兵が向かい、動ける者は再び前進する。

「ベルン伯爵は、俺たちが本当に攻めると思いますか」

 アレクが尋ねる。

「思わせるのは、これからだ」

 アルベルトは弓兵へ合図を送った。

 三百人が前へ出て、敵陣へ向けて一斉に矢を放つ。

 ベルン兵も盾を上げ、後列の弓兵が射返した。

 互いの矢が空を横切り、盾や鎧、地面へ突き刺さる。

 アルヴェイン軍は矢を受けながら距離を詰めた。

 敵の砲は二度目の装填へ入っている。

「槍兵、前へ!」

 アルベルトの命令で、中央の槍兵が歩調を速める。

「敵も来ます!」

 ベルン伯爵軍の前列が防御陣地から出た。

 砲だけに頼れば、装填中に距離を詰められる。槍兵同士をぶつけ、アルヴェイン軍を砲の前で止めるつもりだった。

 両軍の距離が縮まる。

「アレク、ここから先は伝令と一緒に動け」

 ゲオルクが言った。

「はい」

「自分から前列へ行くな」

「分かっています」

「アルベルト様もです」

 アレクが言うと、アルベルトが横目で見る。

「私に命令するようになったか」

「昨日、負けたばかりです」

「言うようになったな」

「お二人とも、今は敵を見てください」

 ゲオルクが低い声で遮った。

 敵味方の前列が槍を構える。

 互いの足音が重なり、次の瞬間には盾と槍が正面からぶつかった。

 長い列の各所で押し合いが始まる。

 アルヴェイン側は敵陣を破るためではなく、ベルン伯爵軍を正面へ縛るために戦っている。

 だが、前列の兵にとっては目的が何であっても同じだった。

 目の前の槍を受け止めなければ死ぬ。

 盾の隙間を狙い、味方と並んで一歩ずつ押す。

 後列から交代の兵を入れ、疲れた者と負傷者を下げる。

「敵左翼、兵を中央へ移しています!」

 伝令が報告する。

「数は」

「約二百!」

「こちらの中央を押し返すつもりだ」

 アルベルトが答えた。

「騎兵は?」

「左右に残っています。北東へ向かった斥候五十騎以外、大きな動きはありません」

「まだ疑っているな」

 ベルン伯爵は、正面の戦いへすべての兵を入れていない。

 アルベルトが別の兵を動かしていると考え、騎兵を残している。

「中央へ百人追加。押し込まれるな」

 アルベルトが命じる。

 予備から百人が前へ出る。

 勝つための増援ではない。

 ベルン伯爵へ、正面を軽く扱えば陣地を破られると思わせるための百人だった。


 ◇ ◇ ◇


 ヴァイス男爵が率いる五百人は、深紅の旗を畳んだまま森を進んでいた。

 先頭には、ラーデン北方の山を知る猟師がいる。

 古い炭焼き道は、道というより木々の間に残った細長い空間だった。長く使われていない場所には草が伸び、倒木が行く手を塞いでいる。

「ここから先は一列です」

 猟師が崖沿いの細い道を示した。

「距離は」

「遅くても一刻あれば、ラーデン街道の北へ出られます」

「敵の見張りは」

「この道を知らなければ、奥まで入ってこないと思います」

「知っていれば?」

「会います」

「正直でよい」

 ヴァイス男爵は後ろの兵へ命じた。

「弓兵を前へ。斧を持つ者は中央。槍は枝へ引っ掛けるな。一本ずつ進め」

 五百人が一列になれば、先頭が森を抜けても最後尾は遠く後ろに残る。

 ヴァイス男爵は先頭だけで戦いを始めず、途中で何度か立ち止まって隊列を詰めさせた。

 西からは、砲声が響いている。

 一度。

 しばらく間が空き、さらに四度。

 アルベルトたちがベルン伯爵軍を引きつけている。

「急げとは言わん。前の者を見失うな」

 ヴァイス男爵が兵たちへ声を抑えて伝える。

 山道で走らせれば、転落や負傷で隊列が切れる。

 早く到着することだけでなく、五百人を戦える状態で連れていく必要があった。

 先頭の猟師が立ち止まる。

「この先で道が二つに分かれます」

「どちらだ」

「右です。左へ行けば谷へ下ります」

「目印は」

「あの二股の樫です」

 ヴァイス男爵は後続へ同じ内容を伝えさせた。

 地図にない道では、先頭だけが正しい道を知っていても意味がない。途中で隊列が切れれば、後ろの兵が谷へ迷い込む。

「最後尾まで伝わったら進む」

 焦りを抑えながら、ヴァイス男爵は砲声の数を聞いていた。

 一発鳴るたび、正面で誰かが倒れている可能性がある。

 その時間を無駄にはできなかった。


 ◇ ◇ ◇


 正面の戦いは、ベルン伯爵軍がわずかにアルヴェイン側を押す形で続いていた。

 兵力ではベルン伯爵軍が上回っている。

 アルヴェイン軍は敵陣を崩しきるほど深く攻めず、かといって簡単に退きもしない。

「砲、三度目の装填が終わります!」

 報告が届く。

「前列を左右へ分けろ。中央を空ける」

 アルベルトの命令が、旗と伝令で各隊へ運ばれる。

 だが、敵と槍を交えている前列を一度に動かすことはできない。

 後列が先に左右へ寄り、前列が交代しながら下がる。

 ベルン伯爵軍は、その動きを撤退と見て前進した。

「追わせすぎるな!」

 アルベルトが命じる。

 アルヴェイン側の槍兵が途中で踏み止まり、進んできた敵兵を受け止める。

 その間に砲が発射された。

 白煙の中から飛んだ弾の一発が、開ききらなかった隊列の端へ入る。二人が倒れ、後ろの兵が巻き込まれた。

「負傷者を下げろ! 列を詰めすぎるな!」

 アレクは伝令が持ち帰る報告を聞き、敵の騎兵へ目を向けた。

 左翼の騎兵は動いていない。

 右翼も同じだ。

 ベルン伯爵は、まだ待っている。

 それは、ヴァイス男爵隊が発見されていないという意味でもあった。

「こちらの損害が増えています」

 アレクが言う。

「分かっている」

「あと、どれくらい続けますか」

「敵の騎兵が動くまでだ」

「動かなければ」

「ヴァイス男爵から報告が来るまで続ける」

 アルベルトの声に迷いはなかったが、無限に続けられる戦いではない。

 兵は疲れ、矢も減る。

 砲弾を避け続けることもできない。

 ベルン伯爵軍の本陣では、騎兵の伝令が戻っていた。

「北東の林に、大人数が通った跡があります」

「数は」

「分かりません。ただ、折れた枝と足跡が続いています」

「進路は」

「ラーデン街道の北側です」

 報告を聞いたベルン伯爵が、正面のアルヴェイン軍を見る。

「やはり時間稼ぎか」

「騎兵を向かわせますか」

「二百騎を出せ」

「本陣の護衛が薄くなります」

「構わん。別働隊へ知らせろ。間に合えば、北側から来る兵を挟める」

 濃紫の旗が振られ、待機していた騎兵が北東へ向かって動き始めた。

「敵騎兵二百、北へ移動!」

 アルヴェイン側にも報告が届く。

「こちらの騎兵三百を出せ」

 アルベルトは即座に命じた。

「追いつかせろ。ただし、ラーデンまで追う必要はない。北東への進路を塞げ」

 深紅の旗が上がり、アルヴェイン騎兵三百が動く。

 敵より百騎多い。

 しかし、ベルン側は先に走り始めている。追いつくまでに時間が掛かる。

「敵本隊の左側が薄くなりました」

 ゲオルクが言う。

「そこを押す」

「騎兵を出した直後です。こちらも正面が薄くなっています」

「向こうにそれを考える時間を与えるな」

 アルベルトは歩兵二百を左へ寄せた。

 アルヴェイン軍が攻勢を強める。

 ベルン伯爵は北東へ向かわせた騎兵を戻さなかった。代わりに本陣近くの歩兵を正面へ入れる。

 両軍とも、別の場所へ兵を動かしたことで正面の余裕を失っていく。

 北東へ向かった二百騎は、やがて後方から迫る馬蹄の音に気づいた。

「敵騎兵、後方!」

 ベルン側の指揮官が振り返る。

 アルヴェイン騎兵三百が距離を縮めている。

 このまま走り続ければ、背後から槍を受ける。

「反転! 丘の手前で迎え撃つ!」

 二百騎が向きを変える。

 アルヴェイン騎兵も速度を落とし、横へ広がった。

 互いの目的は、相手を全滅させることではない。

 ベルン側は北東へ進みたい。

 アルヴェイン側は、それを止めたい。

 双方の槍が下がり、二つの騎馬隊が丘の手前で激突した。

 馬の列が乱れ、前列から落馬した者が出る。

 後ろの騎兵は倒れた馬を避けなければならず、北東へ続く道は人と馬で塞がれた。

「敵騎兵を止めました!」

 伝令の報告を聞き、アルベルトが頷く。

「追うな。そこに留めろ」

 ベルン伯爵軍の騎兵は、ラーデンへ向かえなくなった。

 だが、アルヴェイン側の三百騎も正面へ戻れない。

 どちらも相手を縛り、別の戦場へ兵を送らせないために戦っていた。


 ◇ ◇ ◇


 正午を過ぎた頃、ヴァイス男爵隊の先頭が森を抜けた。

 木々の向こうにラーデン街道が見える。

 倒木と荷車を組み合わせた防壁が街道を塞ぎ、その周囲を濃紫の旗を掲げた兵が守っていた。

 さらに東にはラーデン村の屋根が見える。

 家屋から煙は上がっていない。

「あれが敵陣です」

 猟師が低い声で言った。

「村に被害は」

「ここからでは分かりません。ただ、家は残っています」

 ヴァイス男爵は兵を伏せさせ、敵の配置を観察した。

 防壁正面には約三百人。

 街道の西側に三百人、東側に二百人ほどがいる。北と南にも見張りが置かれ、丘には弓兵がいる。

 千人は一か所に集まっていない。

「五百を三つに分ける」

 ヴァイス男爵が命じた。

「百五十人は東寄りへ回れ。百五十人はここに残り、北側から姿を見せろ。残る二百人は私と西へ動く」

「三方向から攻めるのですか」

「すぐには攻めん。敵に、どこを守るべきか選ばせる」

「西へ回れば、本隊との退路を脅かせます」

「それを見せる」

 各隊が森の中で分かれる。

 旗はまだ広げない。

 枝を折る音を抑え、敵の見張りから見えない場所を進んだ。

 ヴァイス男爵が西側へ回り始めた時、村の近くにいたアルヴェイン兵が二人の男を連れてきた。

 一人はマルセルだった。

「神父?」

「あなた方はアルヴェインの兵ですね」

「そうだ。なぜここへ来た」

「村人は東の林へ避難させています。敵は今のところ、家へ入っていません」

「敵陣へ近づくな。ここから離れろ」

「その前に、お伝えしたいことがあります」

 マルセルの隣にいた村人が、街道脇を指した。

「防壁の東側に、畑へ水を引くための水路があります」

「水路?」

「今は堰を閉じています。あの辺りは地面が柔らかく、深い杭が利きません」

 ヴァイス男爵が敵陣を見る。

 東寄りの防壁は、倒木ではなく二台の荷車と杭で塞がれている。

「水を流せば崩れるか」

「それだけでは崩れません。ただ、足元はぬかるみます。杭と荷車を壊すなら、他の場所より早いはずです」

「分かった」

「村の男たちにも手伝わせます」

「必要ない」

 ヴァイス男爵は即答した。

「戦うのは兵の仕事だ。村人は避難させた者たちのところへ戻れ」

「しかし」

「道を知る者を一人だけ残せ。堰の場所まで兵を案内してもらう。それ以上は近づけるな」

 マルセルは少し迷った後、頷いた。

「承知しました」

「アレクも、こちらへ来ているのですか」

「正面でアルベルト様と戦っている」

「そうですか」

 マルセルは西から聞こえる砲声へ顔を向けた。

「なら、そちらも急いだ方がよさそうですね」

「ああ」

 ヴァイス男爵は斧を持つ兵二十人を呼んだ。

「案内役について堰へ向かえ。合図があるまで開くな」

「はっ」

「神父は村人のところへ戻れ。街道が開いても、こちらが呼ぶまで出てくるな」

 マルセルは頭を下げ、東の林へ戻っていった。

 敵へ勝つための情報は、城の地図に載っていないこともある。

 その土地で暮らす者だけが、道の脇を流れる細い水の使い方を知っていた。


 ◇ ◇ ◇


「北側に敵影!」

 ベルン軍の見張りが叫んだ。

 別働隊長が丘を見る。

 森の縁に深紅の旗が現れ、百人を超える兵が姿を見せている。

「数は」

「百五十ほどです!」

「東側にも敵!」

 別の声が上がる。

 街道の東寄りにも、同じ数の兵が見えた。

「西側の森にも兵がいます!」

 副官が別働隊長を見る。

「囲まれました」

「違う。敵は五百程度だ」

「では、防壁で待ちますか」

 別働隊長は西側へ現れた兵を見た。

 あの部隊がさらに回り込めば、本隊へ戻る道を脅かされる。

 街道西側には三百人を置いているが、正面と東側へ敵が姿を見せたままでは簡単に動かせない。

「北の見張りへ百人追加。西側へも百人回せ」

「正面が薄くなります」

「敵は正面にいない」

「森の中に隠れている可能性があります」

「だから見つける。西への道を奪われれば、本隊へ戻れん」

 命令を受けた兵が移動する。

 防壁の正面と東寄りにいた兵が減り、北と西へ向かった。

 ヴァイス男爵は木々の間から、その動きを見ている。

 敵の指揮官は、兵数が五百程度だと見抜いている。

 それでも、三方向すべてを無視することはできない。

「東側の隊へ合図。姿を隠せ」

 旗が一度振られる。

 東寄りに見えていた百五十人が森へ下がった。

「敵東側、消えました!」

「進路を探れ!」

 ベルン兵が東へ注意を向ける。

「北側の隊は、そのまま矢を射ろ。狙いは防壁ではなく丘の弓兵だ」

 北側でアルヴェイン兵が弓を構えた。

 放たれた矢が丘へ届き、ベルン側の弓兵が盾の陰へ身を隠す。

「西側の二百は前へ出る」

 ヴァイス男爵自身が深紅の旗を広げさせた。

 西側のベルン兵が槍を向ける。

「西へ来ます!」

「正面から百人回せ!」

 防壁を守る兵がさらに減る。

 ヴァイス男爵が待っていたのは、その瞬間だった。

「東側の隊、攻撃開始!」

 森へ隠れていた百五十人が、再び姿を現した。

 今度は防壁東側へ向かって走る。

「敵、東です!」

「さっきの兵が戻りました!」

「東側へ兵を戻せ!」

 命令が重なり、ベルン兵の動きが乱れる。

 一度北と西へ移った兵は、すぐには東へ戻れない。

「斧隊、前へ!」

 アルヴェイン兵が矢を受けながら防壁へ近づく。

 荷車の陰からベルン兵が槍を突き出す。先頭の数人が倒れ、後ろの兵が盾を並べた。

「堰を開けろ!」

 合図を受け、村人に案内された兵が水路の板を外した。

 せき止められていた水が畑の脇を流れ、防壁東側へ向かう。

 水だけで荷車や杭が倒れるわけではない。

 だが、踏み固められていない土へ水が染み込み、兵が動くたび足元が崩れた。

「荷車をつないでいる縄を切れ!」

 斧を持った兵が盾の陰から前へ出る。

 荷車と杭をつなぐ太い縄へ斧を振り下ろした。

 ベルン兵も荷車の反対側から槍を突き出す。

 一人が肩を刺され、斧を落とした。

 後ろの兵がすぐに代わり、同じ場所へ刃を入れる。

「北側、敵が増えます!」

「西からも前進!」

 別働隊長は三方向の報告を受けながら、東側へ兵を戻そうとした。

 しかし、西側の二百人が近づき、退路を脅かしている。

 北側からも矢が飛んでくる。

「正面の兵を東へ! 西側は持ちこたえろ!」

 ベルン兵が移動した瞬間、切れかけていた縄が外れた。

 ぬかるんだ地面で荷車の片輪が沈み、隣の杭との間に人一人が通れる隙間ができる。

「押せ!」

 アルヴェイン兵が盾を重ね、荷車へ体当たりした。

 車輪がさらに泥へ沈み、隙間が広がる。

「槍兵、入れ!」

 最初の十人が防壁の内側へ踏み込んだ。

 ベルン兵が迎え撃ち、狭い場所で槍と盾がぶつかる。

 続いて二十人、三十人とアルヴェイン兵が入った。

 北側にいた部隊も丘を下り、西側の二百人も退路へ近づく。

「隊長、このままでは西を塞がれます!」

 副官が叫ぶ。

 別働隊長は防壁の内側へ増えていく深紅の旗を見た。

 こちらの兵数はまだ上回っている。

 だが、四方へ分かれ、命令が届くまで時間が掛かっている。正面の防壁へ全軍を集めれば、今度は西への退路を失う。

「東へ退く」

「本隊とは反対です」

「西は敵がいる。無理に戻れば挟まれる」

「街道を捨てるのですか」

「三日守れという命令だった。ここで全滅しろとは言われていない」

 別働隊長は撤退の角笛を鳴らさせた。

「東側の兵から順に下げろ! 北と西の部隊は交代で退け! 負傷者を置いていくな!」

 ベルン兵は一斉に逃げなかった。

 防壁の内側でアルヴェイン兵を止めている間に、東側の兵が街道を下がる。次に北側の兵が丘を離れ、西側の部隊が最後まで敵との距離を保った。

「追撃しますか」

 部下がヴァイス男爵へ尋ねる。

「追うな。街道を開ける」

「敵はまだ八百人以上残っています」

「森へ追えば、こちらの隊列が崩れる。敵を倒すことが目的ではない」

 ヴァイス男爵は東へ退く濃紫の旗を見送った。

「倒木を切れ。荷車を動かせる場所まで退けろ。負傷者の手当ても急げ」

「本隊への報告は」

「街道奪還。村に大きな被害なし。敵別働隊は東へ撤退、と伝えろ」

「はっ」

 騎兵一騎が南の農道へ向かう。

 ラーデン街道では、アルヴェイン兵が倒木へ斧を入れ始めた。

 村人たちはまだ林にいる。

 家屋も畑も残っていたが、村のすぐそばには血を流した兵たちが倒れている。

 道を取り返したからといって、戦場になった事実まで消えるわけではなかった。


 ◇ ◇ ◇


 正面では、アルヴェイン軍の前列が少しずつ下がっていた。

 騎兵三百人を北東へ出したことで、左右を守る力が減っている。

 ベルン伯爵軍はそこへ歩兵を回し、アルヴェイン軍の側面を押し始めた。

「左側、あと百人必要です!」

 伝令の報告に、ゲオルクが首を振る。

「予備は残り少ない。中央を下げ、左と線を揃えろ」

「はい!」

 アレクは南東から来る伝令を探しながら、敵の砲を見ていた。

 四門は再び装填を終えようとしている。

 ここで砲撃を受ければ、撤退にも影響が出る。

「砲の煙が上がります!」

「前列を下げろ」

 アルベルトが命じた。

「砲撃を受けた後、敵が進んだところで止める」

 命令が各隊へ運ばれる。

 アルヴェイン兵が数列ずつ下がり、敵との間にわずかな距離ができた。

 ベルン兵は逃がすまいと前へ出る。

 その瞬間、四門の砲が轟音を響かせた。

 二発は後退中の部隊を外れた。

 一発が盾を並べた兵の近くへ落ち、土と石を巻き上げる。最後の一発は後方へ伸びていた隊列へ入り、数人を倒した。

 砲煙の中からベルン兵が進んでくる。

「槍兵、止まれ!」

 下がっていたアルヴェイン兵が足を止め、再び槍を構えた。

 追ってきたベルン兵とぶつかり、戦線が動かなくなる。

「まだ報告はないのか」

 アルベルトが尋ねる。

「ありません」

 アレクが答えた時、南東の丘を越えて一騎の馬が現れた。

 騎手は深紅の布を槍先へ結び、大きく振っている。

「伝令です!」

 アレクは馬が近づくのを待ちきれず、数歩前へ出た。

「ラーデン街道は!」

「奪還しました!」

 伝令が馬上から叫ぶ。

「ヴァイス男爵隊が防壁を突破! ベルン伯爵軍の別働隊は東へ撤退しました!」

「村は?」

「焼失した家屋はありません! 略奪も確認されておらず、村人にも大きな被害はありません!」

 アレクの肩から力が抜けた。

 マルセルも生きている。

 そう信じられるだけの報告だった。

「アルベルト様」

「ああ。ここでの役目は終わりだ」

 アルベルトは撤退を命じた。

「中央から二百人ずつ下げろ。弓兵は交代で援護。北東の騎兵にも戻るよう伝えろ」

「はっ!」

 長い角笛が二度鳴り、深紅の旗が左右へ振られる。

 アルヴェイン軍は一斉に背を向けず、部隊ごとに順番を決めて退き始めた。

 ベルン伯爵軍も追撃へ出たが、ヴァイスブルクの弓が届く範囲まで追うことはなかった。

 北東で敵騎兵を止めていた三百騎も、歩兵の撤退を確認しながら戻る。

 ベルン伯爵は遠ざかる深紅の旗を見送った。

「ラーデン街道は」

「別働隊が東へ撤退したとの報告です」

 副官が答える。

「西への道を脅かされ、防壁の一部を破られました」

「損害は」

「まだ集計できておりません。ただ、隊列は保っているようです」

「追撃させますか」

「そのまま東へ下がらせろ。本隊へ戻るために無理に西へ進めば、ヴァイス男爵隊と挟まれる」

「街道を奪い返されました」

「ああ」

「失敗でしょうか」

 ベルン伯爵はヴァイスブルクへ戻るアルヴェイン軍を見た。

「アルベルトは、取り返した道を空けておけると思うか」

「再び我々が兵を出すことを警戒するはずです」

「何人置く」

「五百……いえ、千人の別働隊を止めるなら、七百は必要かと」

「そうだ」

 ベルン伯爵は地図の上で、ラーデン街道へ深紅の駒を置いた。

「こちらは千人を一時的に動かした。アルベルトはこれから、七百人をあの道へ置き続ける」

「本隊へ戻れない別働隊は、どう使いますか」

「東にいるなら、東から道を脅かせる。完全に役目を失ったわけではない」

「では、次は」

 ベルン伯爵の視線がヴァイスブルクへ向く。

 城を守る兵。

 今日の正面戦闘で負傷した兵。

 ラーデン街道へ置かれる七百人。

 アルベルトが自由に使える兵は、昨日より減っている。

「砲を城へ向ける」

 ベルン伯爵が答えた。

「今日は道を選ばせた。明日は城を選ばせる」


 ◇ ◇ ◇


 日が沈む前に、アルヴェイン軍はヴァイスブルク周辺へ戻った。

 ラーデン街道へは七百人が送られることになった。

 ヴァイス男爵隊の五百人に、ヴァイスブルクから新たに二百人を加える。壊された防壁を利用して見張りを置き、倒木を撤去しながら東西の道を守らせる。

 敵が撤退したからといって、街道を無防備にはできない。

 ベルン伯爵軍の別働隊は東側に残っており、再び戻ってくる可能性がある。

 軍議室では、二日目の損害報告が集められていた。

「正面とラーデン街道を合わせた正確な数は、明朝まで掛かります」

 ゲオルクが言う。

「現時点では」

「正面で戦死を確認できた者が三十人余り。負傷者は八十人を超えています。ヴァイス男爵隊と騎兵隊の損害はまだ届いておりません」

 アルベルトは地図を見た。

 ラーデン街道には、七百人を示す深紅の駒がある。

 ヴァイスブルクとその周辺に残る兵は、さらに少なくなった。

「街道は取り返した」

 アレクが言う。

「ああ」

「村も無事でした」

「ああ」

「それでも、状況は良くなっていない」

「悪くなった部分もある」

 アルベルトがラーデン街道の駒を指した。

「ベルン伯爵が再び千人を向かわせる可能性がある限り、七百人はここから動かせん」

「勝ったのに、こちらの兵が拘束された」

「道を守るということは、そういうことだ」

「ベルン伯爵は最初から、それも狙っていたのでしょうか」

「街道を奪えれば、そのまま補給を止める。奪い返されても、我々に守備兵を置かせる。どちらになっても利益が残るようにしたのだろう」

「嫌な相手ですね」

「同感だ」

 アルベルトの口元にわずかな笑みが浮かんだ。

「褒めています?」

「敵を軽く見ないことと、好きになることは別だ」

 アレクは地図へ目を落とした。

 敵を退かせれば問題が消えるわけではない。

 守る場所が増えれば、その数だけ兵と食料が必要になる。

 ラーデン街道を取り返した代わりに、ヴァイスブルクを守る兵は減った。

「明日、ベルン伯爵は来ますか」

「来る」

 アルベルトは迷わず答えた。

「どうして分かるのですか」

「今日、奴は我々に七百人を使わせた。二日間の戦いで負傷者も増えた。城を攻めるなら、明日が最もよい」

「砲を前へ出す?」

「ああ」

「城壁を撃たせ続けるわけにはいきません」

「だから、こちらも待つだけでは済まん」

 軍議室の外から、低い砲声が一度だけ届いた。

 壁の燭台がわずかに震える。

 全員が西側へ顔を向けた。

「城壁への命中は確認できません!」

 廊下から兵の声が響く。

「敵陣からの試射と思われます!」

 アルベルトは窓の向こうに広がる暗闇を見た。

「四門の砲を移し始めたな」

 アレクも西を見た。

 敵の姿は見えない。

 だが、ベルン伯爵軍が夜のうちに砲を前へ動かし、ヴァイスブルクへ向けていることは分かる。

 ラーデン街道は守った。

 次に狙われるのは、ヴァイスブルクそのものだった。


第五話を読んでいただき、ありがとうございました。

アルベルトたちはラーデン街道を奪還し、村を守ることに成功しました。しかし、街道を守り続けるため、七百人の兵を残さなければなりません。

兵力を削られたヴァイスブルクへ、次はベルン伯爵軍の四門の砲が向けられます。


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