第七話 港を守る条件
湖の東岸から届いた書状を前に、マティアスは王のもとへ向かいます。
レオンハルトは、机に広げられた地図を見ていた。
グランヴァルトの西に、シガリア王国がある。
その国土に大きく描かれた湖の東岸を、マティアスが指した。
「ここが、ゼーラント伯爵の港です。国境から荷車の通れる街道が続いております」
「船は、どこまで出ている」
「対岸の町にも。伯爵の商会は、湖の各地に取引相手を持っているようです」
レオンハルトは、湖を囲む街道へ目を移した。
陸を進めば、湖の縁に沿って回り込むことになる。
だが、東岸の港から船を使えば、その道をたどらずに向かえる場所が幾つもあった。
「伯爵がこちらにつけば、西へ進む足場になるか」
「はい。ただし、港が使えるだけでは足りません。船と、動かす者の協力も必要です」
「それを持っているのが、その伯爵なのだな」
「そう聞いております」
マティアスは、地図の横へ書状を置いた。
「もっとも、伯爵はまだ帰属を申し出ておりません。まずは私の話を聞きたいと、使者を送ってきただけです」
「お前が商人だったからか」
「そのようです」
レオンハルトは顔を上げた。
「それで、その男をどう見た」
「本人には、まだ会っておりません」
「使者の話からでも、分かることはあるだろう」
マティアスは頷いた。
「港の商人が徴発を受けた際、自分の倉を開けて荷を守っております。続ければ伯爵自身の蓄えが尽きますが、商人に約束を破らせれば、港へ来る船が減ると考えたのでしょう」
「領民を守りながら、商いも守ったか」
「はい。少なくとも、金を納めるのが惜しいだけの者ではないようです」
レオンハルトは書状を手に取った。
目を通す間、マティアスは口を挟まなかった。
やがて王は、書状を地図のそばへ戻した。
「こちらが受け入れれば、シガリア王は黙っておらんな」
「隣国に領主と港を奪われたと考えるでしょう。伯爵領へ兵を向ける可能性はございます」
「迎える以上は、守らねばならん」
「はい。その覚悟がなければ、帰属を勧めるべきではありません」
レオンハルトは椅子へ背を預けた。
湖の東岸に、小さな港の印がある。
今はシガリアの領地だった。
そこへ至る街道の先は、すでに自国へつながっている。
「その伯爵を、こちらへ引き寄せろ」
マティアスが姿勢を正した。
「ただし、港だけを手に入れても、船を動かす者に逃げられては意味がない。伯爵が何を望み、何を差し出せるのか、確かめてこい」
「承知いたしました」
「本領の安堵と伯爵家の存続は、交渉の土台にしてよい。こちらへ従うなら、商人だったことを理由に軽く扱うつもりはない」
レオンハルトは、マティアスへ目を向けた。
「それは、お前が話した方が伝わるだろう」
マティアスはわずかに口元を緩めた。
「説得するには、都合のよい経歴でございます」
「今さら気づいたように言うな」
王が笑った。
マティアスは一礼し、地図と書状をまとめた。
◇ ◇ ◇
ベルントが再び面会の部屋へ通された時、机の上には、すでに紙が用意されていた。
マティアスは男へ席を勧め、向かいに座った。
「待たせたな」
「いいえ。お取り計らいいただき、ありがとうございます」
「陛下へ報告した」
ベルントの背筋が伸びた。
マティアスは、その反応を見てから続けた。
「ゼーラント伯爵に、その意思があるなら、グランヴァルトへの帰属について話し合う用意がある」
男は、すぐには答えなかった。
予想していなかった話ではないはずだった。
それでも、侯爵の口からはっきり告げられると、意味が違った。
「……帰属でございますか」
「そちらの王に、私から取りなしてほしいという話ではなかったな」
「はい」
「ならば、伯爵が今の主君に仕え続けるのか、別の道を選ぶのかを決めねばならん」
マティアスは、用意していた紙をベルントの前へ置いた。
「本領と家の存続は、守る方向で話を進められる。ただし、条件がある」
ベルントは紙へ目を落とした。
マティアスが一つずつ説明する。
グランヴァルト国王への忠誠。
領地に応じた納税と軍役。
港と街道の使用。
戦時の輸送への協力。
読み進めるベルントの指が、港について書かれた箇所で止まった。
「船を、自由に徴発なさるということでしょうか」
「何を、どれだけ求めるかは、あらかじめ定める。代価が必要なものについても同じだ。今の主君と同じように、代金の支払期限も決めずに荷を取られては、伯爵がこちらへ来る意味がないだろう」
ベルントが顔を上げた。
「お分かりいただけますか」
「それでは船が動かなくなる。私にも、それくらいは分かる」
マティアスは言った。
「だが、商人だったことを理由に、負担をすべて免れるとも思わないでくれ。港を守るには兵が要る。その兵を養うものも必要だ」
「承知しております」
「伯爵の領地で何を担えるのかは、本人から聞きたい。私が一方的に決めてよい話ではない」
ベルントは、もう一度紙を読んだ。
助けてやるとだけ告げられたのではなかった。
何を求められるかが、書かれている。
まだ決まっていないことも、決まったようには扱われていなかった。
「領内の商人や船乗りも、そのまま働けるのでしょうか」
「グランヴァルトの法と取り決めには従ってもらう。だが、こちらへ迎えた土地の商いを、理由もなく壊すつもりはない」
マティアスは男を見た。
「私が欲しいのは、誰も来なくなった港ではない」
ベルントは、深く頭を下げた。
「主へ、そのままお伝えいたします」
「返答は、伯爵がよく考えてからでよい。ただし、事態が変わった時は知らせてくれ」
マティアスは書状へ署名し、封を施した。
ベルントは両手で受け取った。
「侯爵閣下」
「何だ」
「主は、ご自身が商人であることを、誇りにしておられます」
マティアスは黙って聞いた。
「ですが、近頃は、その話をすることが少なくなりました。こちらで伺ったことを、早く伝えたく存じます」
マティアスは男の顔を見た。
「では、無事に届けてくれ」
「はい」
ベルントは立ち上がり、深く礼をした。
◇ ◇ ◇
それから数日後、ベルントはゼーラント伯爵領へ戻った。
港では船の荷揚げが続いていた。
出発前と同じように、人の声が飛び交っている。
だが、商会の倉に積まれた穀物は減っていた。
旅の埃を落とす間も惜しみ、ベルントは伯爵のもとへ向かった。
執務室では、エーベルハルトとレナートが待っていた。
「戻りました」
「無事だったか」
「はい」
エーベルハルトは頷き、椅子を示した。
「まずは座れ。話は、それからでよい」
ベルントは腰を下ろすと、マティアスから預かった書状を差し出した。
エーベルハルトが封を開く。
レナートは父が読み終えるまで待ち、それから書状を受け取った。
部屋の中で、紙を動かす音がした。
「国王にまで、話を通してくださったのか」
エーベルハルトが言った。
「はい。帰属を望むのであれば、正式に話し合う用意があると」
「その条件が、これか」
「まだ、すべてが決まったものではございません。何を担えるかは、伯爵様ご自身から聞きたいと仰せでした」
エーベルハルトは、机へ手を置いた。
「何を担えるか、か」
ベルントが頷いた。
「港の船がどこへ向かうのか、街道を荷車が通れるかも、お尋ねになりました」
「港が欲しいのだな」
レナートが顔を上げた。
父は書状へ目を向けた。
「当然だ。助ける理由がなければ、隣国の王と争う危険など負わん」
「はい」
「こちらが何を求められるか、隠していないことは分かる」
エーベルハルトはベルントを見た。
「荷の代金については」
「どれだけ供出するか、支払いをどうするかも、あらかじめ定めると。代金の支払期限も決めずに荷を取られては、こちらへ来る意味がないだろうと仰いました」
エーベルハルトは、しばらく黙った。
窓の外から、船の到着を知らせる声が聞こえた。
いつもなら、どの船かと顔を向けるところだった。
今は、マティアスの書状から目を離さなかった。
「そこまで、話したのか」
「はい」
ベルントは続けた。
「ただし、商人だから負担を免れるわけではないとも。港を守る兵を養うものが必要だと」
「そのとおりだ」
エーベルハルトは、初めて少し笑った。
「何も出さずに守ってもらえると言われた方が、信用できん」
◇ ◇ ◇
ベルントを休ませた後、執務室には父子だけが残った。
レナートは、机に置かれた書状を見ていた。
「帰属すれば、シガリア王が兵を向けてくるかもしれません」
「ああ」
「こちらの兵も、戦うことになります」
「そうなるだろう」
エーベルハルトは椅子へ腰を下ろした。
レナートにも座るよう促したが、息子は立ったままだった。
「父上は、どうなさるおつもりですか」
「直接、マティアス侯爵に会いたい」
「帰属を決めるために」
「その前に、確かめるためだ」
エーベルハルトは答えた。
「書状にある条件を、どこまで約束してもらえるのか。王が何を考えているのか。領民を預ける相手を、私の目で見たい」
レナートが頷いた。
父は、少し間を置いて続けた。
「そして、帰属するなら、家督はお前に譲りたい」
レナートの顔が動いた。
「私に、ですか」
「ああ。爵位と領地を継いでもらいたい」
「父上は」
「商いに戻る」
エーベルハルトは、静かに答えた。
レナートは父を見つめた。
疲れた顔はしている。
だが、何もかも投げ出そうとしているようには見えなかった。
「私が兵を率いると言ったからですか」
「それだけではない」
「戦場へ出ないことを理由に、父上が退かなければならないのなら、私は継ぎたくありません」
「そういう話ではない」
エーベルハルトが遮った。
息子を見て、はっきりと言う。
「私は、これまでの働きを恥じていない。船を揃え、兵糧を届けた。それで国を支えてきた」
「では、なぜ」
「私が領主になった時、お前はまだ幼かった。今は違う」
エーベルハルトは、窓の向こうの港を示した。
「倉を見て、村を回り、兵と働いてきただろう。私の代わりに、領民の話を聞くことも増えた」
「父上に教わりながらです」
「これからも、教えられることは教える」
父の声が、少し和らいだ。
「だが、領主として決めるのは、お前に任せたい」
レナートは口を閉じた。
窓の外で、荷車が石畳を通る音がした。
エーベルハルトは、その音へ耳を傾けた。
「私は、船と荷を動かす。必要なものを集め、売れるものを売る。その仕事なら、まだお前に負けるつもりはない」
レナートが、わずかに笑った。
「私も、勝てるとは思っておりません」
「ならば、役割を分けよう」
エーベルハルトは言った。
「領地の政は、お前に任せる。私は商会の経営に戻る。商会に何か頼む時は、領主として話を持ってこい」
「父上にも、条件を出されるのですか」
「当然だ。代金も払わず、荷を出せと命じる領主になってもらっては困る」
レナートは、今度ははっきり笑った。
父も口元を緩めた。
しばらくして、レナートが姿勢を正した。
「私が継ぎます」
エーベルハルトは黙って聞いた。
「ただ、父上が兵糧を届けてきた働きまで、間違いだったことにはしたくありません」
「する必要などない」
「はい。私も、この家が何をしてきたかを忘れずに、仕えたいと思います」
エーベルハルトは頷いた。
「では、侯爵には二人で会おう」
「私もですか」
「お前が継ぐというなら、お前の考えを聞いてもらわねばならん」
机の上には、まだシガリア王の命令書も残っていた。
家督を譲ることも、グランヴァルトへ帰属することも、二人で決めただけでは成立しない。
それでも、誰がどの役目を引き受けるのかは、定まった。
エーベルハルトは、マティアスの書状を手元へ引き寄せた。
◇ ◇ ◇
翌日の昼前、王の使者が到着した。
港の警備を預かる者から知らせを受けたエーベルハルトは、レナートとともに広間へ向かった。
使者は数人の護衛を伴っていた。
挨拶を済ませると、封のある書状を差し出す。
「国境警備の強化について、陛下より御命令にございます」
エーベルハルトは受け取り、開いた。
初めは、また穀物か金を求められるのだと思っていた。
読み進めるうちに、その目が止まった。
王が任命する将と兵を、港へ受け入れること。
船の出入りと軍用物資の管理を、その将に委ねること。
駐留する兵の宿舎と食糧を、伯爵領で用意すること。
エーベルハルトは、最後まで読んでから顔を上げた。
「港の管理を、私から移すということか」
「軍事に関わる部分を、陛下の任じられた将がお預かりします」
「船の出入りまで含まれている」
「国境に近い港でございます。兵糧や人の動きを確かめる必要があるとのお考えです」
使者の声は変わらなかった。
自分が決めたことではないと言わんばかりだった。
レナートは、父の隣で黙っていた。
ここで声を荒らげても、命令書の内容は変わらない。
エーベルハルトは紙へ視線を戻した。
「兵は、いつ来る」
「受け入れの支度が整い次第、ご連絡いただくようにと。将と兵の選定は、すでに進められております」
「人数も知らされずに、宿舎と食糧を揃えよというのか」
「詳しくは、追って知らせが参ります」
エーベルハルトは、書状を畳んだ。
「承った。宿と食事を用意させる。旅の疲れを取られよ」
使者は礼をした。
役人に案内され、護衛とともに広間を出ていく。
足音が遠ざかるまで、父子は口を開かなかった。
◇ ◇ ◇
執務室へ戻ると、レナートが先に言った。
「港を押さえるつもりです」
「ああ」
エーベルハルトは命令書を机へ置いた。
「船の出入りを決められれば、荷も人も止められる」
「商会の船も、自由には出せなくなります」
「倉に何があるかも、調べられるだろう」
港の管理を軍事の名目で握られれば、伯爵という地位だけが残っても、できることは限られてくる。
レナートは扉へ目を向けた。
「ベルントを呼びます」
エーベルハルトは頷いた。
ほどなく、ベルントが部屋へ入ってきた。
父から命令書を渡され、目を通す。
読み終えた男は、顔を上げた。
「私が持ち帰った書状のことを、知られたのでしょうか」
「分からん。だが、知られていなくても、兵が入れば今までのようには動けなくなる」
エーベルハルトは言った。
「帰ったばかりのところ、すまない」
ベルントは首を振った。
「何をいたしましょう」
「侯爵への返事を急ごう。私と息子が、直接お会いしたいと伝えてくれ」
「承知いたしました」
「会う場所は、ご相談したい。国境を越えるにしても、領地を長く空けるわけにはいかん」
ベルントが頷く。
レナートは、王の命令書を手に取った。
「港の兵には、まだ何も知らせない方がよいでしょうか」
「普段どおりの警備を続けさせなさい。今、兵を集めれば、王の使者が何を疑うか分からん」
「分かりました」
レナートは命令書を置いた。
エーベルハルトは、新しい紙へペンを走らせた。
前の書状では、話を聞きたいとだけ書いた。
今度は、会って決める必要がある。
領地のことも。
家を継ぐ息子のことも。
窓の外では、船が一隻、岸を離れようとしていた。
船乗りが綱を解き、岸に残る者へ声をかけている。
エーベルハルトは、その声を聞きながら書き続けた。
まだ、この港から船を出せる。
その間に、次の道を選ばなければならなかった。
お読みいただきありがとうございます。
領地を治めることと、商いで支えること。父子がそれぞれに担おうとする役目を描きました。
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