第二話 ただいまを告げる日
用務を終えたアレクは、トーマスとともに懐かしい道をたどります。
ヴァイスブルクでの用務を終えた翌朝、アレクはトーマスの案内でラーデン村へ向かった。
同行するのは、護衛と従者を合わせた少人数だった。
城門を出る時には騎士として先頭に立っていたトーマスも、街道へ入ってからは、時折アレクの隣へ馬を寄せた。
「この辺りは、覚えているか」
尋ねられ、アレクは道の先を見た。
木々の切れ目から畑が見える。緩やかに曲がる道の脇には、荷車の轍が残っていた。
「見覚えはあります。ただ、あの頃は歩き続けるだけで精いっぱいでした」
「俺もだ。槍があれほど重くなるとは思っていなかった」
「出発した時は、元気でしたよね」
「出発した時はな」
トーマスが笑った。
あの時は、村から持たされた装備と食料を背負い、ヴァイスブルクを目指して歩いていた。
騎士になると語っていたトーマスも、行き先の定まっていなかったアレクも、同じ列にいた。
今は二人とも馬に乗り、帰るためにこの道を進んでいる。
道が曲がった先で、トーマスが手綱を引いた。
「見えてきたぞ」
アレクも馬の歩みを緩めた。
畑の向こうに、家々が並んでいた。
新しい板を使った壁が、日の光を受けている。屋根の色は家ごとに違い、その間から、細い煙が上がっていた。
「グリュン村ですか」
「ああ」
アレクは、しばらく黙って村を見た。
最初にこの村を見た時、空は炎に照らされていた。
今、目の前にあるのは、畑仕事をする人々の姿だった。
男が鍬を振り下ろし、少し離れたところでは、女が籠を地面へ置いて腰を伸ばしている。道を行く荷車へ声をかけると、荷台の脇を歩いていた男が手を上げた。
子どもが二人、家の間から走り出した。
後ろから大人に呼び止められ、一人が慌てて戻っていく。
アレクは手綱を握ったまま、その様子を見ていた。
「少し、下りてもよいですか」
トーマスが頷いた。
「道の脇なら、荷車の邪魔にもならない」
アレクは馬を下りた。
護衛たちも速度を落とし、少し距離を取って待つ。
トーマスも下り、並んで馬の手綱を引いた。
道の端を歩くと、畑から土の匂いがした。
◇ ◇ ◇
「家が、建て直されていますね」
アレクが言うと、トーマスは村へ目を向けた。
「ああ。戻るたびに、少しずつ増えていた」
すべての家が新しいわけではなかった。
古い壁へ板を継ぎ足した家もある。家があったと思われる場所に、石だけが残っているところもあった。
それでも、扉は開き、人が出入りしている。
あの夜、燃え残った家や納屋から、おびえながら姿を現した人々とは違っていた。
アレクは、村の背後にある森へ目を移した。
木々の重なりを見ただけで、喉の奥が狭くなったように感じた。
ハンスの腕を肩へ回した重さ。
足を取られそうになった斜面。
剣を握った手に残った感触。
長く思い返さなくても、そこには、忘れられないものがあった。
「お前がハンスさんを連れて戻った時は、二人とも血だらけだったな」
トーマスが静かに言った。
アレクは頷いた。
「トーマスたちの声が聞こえて、ようやく戻れたと思いました」
「俺は、何があったのか分からなかった。ハンスさんが怪我をしていて、お前にも血がついていたから」
「自分でも、うまく話せませんでした」
「ああ」
トーマスは、それ以上、森でのことを尋ねなかった。
代わりに、グリュン村へ視線を戻した。
「あの後、今度は大声を出せと言われた」
アレクも、少しだけ口元を緩めた。
「トーマスの声は、よく聞こえました」
「お前にも、そう言われるのか」
「昨日のお話を聞いて、思い出しました」
「声だけは、昔から変わらんな」
二人で笑った。
トーマスとともに村の東側へ回り、姿の見えない兵が大勢いると思わせた。
実際には、戦える者は十四人しかいなかった。
敵がこちらの人数に気づいていたら、どうなっていたか。
今でも、うまくいって当然だったとは思えない。
「怖くなかったですか」
アレクが尋ねた。
トーマスは、すぐに答えなかった。
馬が道端の草へ鼻を寄せる。手綱を軽く引いてから、ようやく口を開いた。
「怖かった。声を出したら、俺のいる場所まで分かるだろう」
「はい」
「森から敵が出てくるんじゃないかと思っていた。だが、黙ったら、それこそ少ないと知られそうでな」
アレクは頷いた。
あの時、トーマスは言われた通りに叫び続けていた。
その声に、自分も助けられていたのだと思った。
村の方から、子どもの笑い声が聞こえた。
先ほど走っていた二人が、今度は小さな籠を一つずつ抱えている。大人の後ろを追いながら、何かを言い合っていた。
トーマスも、そちらを見た。
「あの時、追い返せてよかったな」
「はい」
アレクは答えた。
亡くなった者が戻るわけではない。
建て直された家を見ても、焼けた家のことを忘れられるわけではなかった。
だが、村では今日も食事が作られ、畑が耕されている。
その光景を、自分の目で見ることができた。
畑の男が、こちらに気づいた。
服装を見て領主に連なる者だと思ったのか、鍬を立てて頭を下げる。
アレクは軽く頭を下げ返した。
男は少し驚いた顔をした後、再び鍬を手に取った。
自分が誰なのか、知らなくてもよかった。
アレクは馬へ向き直った。
「行きましょう」
「ああ」
トーマスが頷いた。
「待っている人がいる」
◇ ◇ ◇
ラーデン村では、朝から村長が落ち着かない様子で歩き回っていた。
教会へ続く道には、普段置かれている荷車がない。道端の道具も片づけられ、村人たちは仕事の合間に、何度も街道の方を見ていた。
マルセルは教会の入口で、長椅子を運ぶ若者へ声をかけた。
「それは中へ戻してください。外へ並べても、道が狭くなります」
「ですが、伯爵様がお休みになるかもしれません」
「お休みになるなら、中へお通しすればよいでしょう」
「そうですが……」
若者は長椅子を見下ろし、結局、もう一人と持ち直した。
マルセルは、その二人を見送った。
グランヴァルトから伯爵が来るという。
ヴァイス男爵から知らせがあり、村長は書状を何度も確かめていた。
マルセルが聞いているのは、グランヴァルトの伯爵が村を訪れ、教会にも立ち寄るということだけだった。
なぜ他国の伯爵が、この村へ来るのか。
不思議に思いながらも、マルセルは頼まれた支度を手伝っていた。
床を掃き、机を拭き、使うかどうか分からない杯を並べる。
ふと、入口の方を見た。
ずっと前にも、そこで立ち止まった少年がいた。
行くところがないと話し、出された食事を急いで食べていた。
落ち着いて食べなさい。
そう声をかけたことを、今も覚えている。
「神父様」
呼ばれ、マルセルは顔を上げた。
「こちらへ、お願いします」
村長が教会の外から手招きをしていた。
「もう、お着きになりますか」
「先に来られた方が、間もなくだと」
マルセルは袖を整え、外へ出た。
村人たちが道の両側へ集まり始めている。
大げさに騒がないようにと言われても、子どもたちは大人の隙間から首を伸ばしていた。
やがて、馬の姿が見えた。
その後ろで、旗が風を受けて広がる。
花を描いた旗だった。
マルセルは詳しく確かめる前に、村長に合わせて頭を下げた。
◇ ◇ ◇
村の入口が見えた時、アレクは無意識に背筋を伸ばした。
道も、家々も、記憶の中より小さく感じられた。
あの頃は、村の外へ出るだけでも心細かった。
今は、道の曲がり方を見て、その先に何があるかを思い出せる。
教会が見えた。
アレクは、息をゆっくりと吐いた。
その手前に、村人たちが並んでいる。
先頭に立っていた村長が頭を下げた。
「ようこそお越しくださいました、ハルトマン伯爵様」
アレクは馬を下りた。
従者へ手綱を渡し、村長へ向き直る。
「お迎えいただき、ありがとうございます。急な訪問で、お手数をおかけしました」
「とんでもないことでございます」
村長が顔を上げる。
アレクを見て、目元がわずかに動いた。
「本当に……立派になられましたな」
「村長も、お変わりありませんね」
「私は、年を取るばかりでございます」
そう答えた声は、少し震えていた。
アレクは微笑み、それから村長の後ろへ目を向けた。
見覚えのある服があった。
その人も、ほかの村人たちと同じように頭を下げている。
アレクは歩き出した。
マルセルは、近づいてくる足音に気づいた。
自分の前で止まったことが分かり、さらに深く頭を下げようとした。
「マルセルさん」
アレクが呼んだ。
「遅くなりましたが、戻りました」
マルセルの肩が動いた。
ゆっくりと、顔が上がる。
アレクは、その目を見た。
「アレク・フォン・ハルトマンです。身寄りのなかった私を、この教会に迎えてくださったでしょう」
最後まで聞く前に、マルセルが一歩近づいた。
口が開く。
だが、すぐには声が出なかった。
アレクも、それ以上は話せなかった。
目の前の顔は、覚えていた顔だった。
少し皺が増えたようにも見える。
それでも、食事を出してくれた時も、戦へ出ると言って怒られた時も、この人は同じ目で自分を見ていた。
「アレク……」
「はい」
「生きていたのか」
マルセルの手が伸びた。
アレクの肩へ触れ、それから顔の近くで止まる。
確かめるように見つめていた目から、涙が落ちた。
「はい。戻るのが遅くなって、申し訳ありませんでした」
アレクは頭を下げた。
「色々なことがありまして、今はグランヴァルトに仕えております」
「グランヴァルトに……」
マルセルは何度も頷いた。
アレクの上着へ目を向け、後ろに控える護衛たちを見る。
「では、今日お越しになるという伯爵様に、仕えているのですね」
アレクは顔を上げた。
隣で、トーマスが口を閉じたまま目を伏せた。
マルセルは気づいていなかった。
「それはよかった。働く場所が見つかったのですね。本当に……」
アレクの肩を握る手に、少し力がこもった。
「生きていてくれただけでも、私は嬉しい」
その言葉を聞いて、アレクはすぐに訂正できなかった。
爵位のことも、領地のことも、後でよいと思った。
まず、肩に置かれた手へ、自分の手を重ねた。
「ご心配をおかけしました」
「ええ。心配しました」
マルセルは、今度ははっきりと答えた。
「必ず帰ると言ったでしょう」
「はい」
「あなたの消息を知らないかと、何度も尋ねました」
「申し訳ありません」
謝ると、マルセルは首を振った。
目元を拭い、少しだけ笑う。
「謝らせたいわけではありません。こうして会えたのですから」
アレクも笑みを返した。
マルセルは、その顔を見て頷いた。
「ですが、伯爵様をお待たせしてはいけませんね。お話は、後ほど」
「あの、マルセルさん」
「はい」
「伯爵は、私です」
マルセルの手が止まった。
アレクは、少し照れくさくなりながら続けた。
「グランヴァルトで伯爵位を頂きました。今は、マティアス侯爵様に仕えております」
マルセルは、アレクを見た。
それから、トーマスを見た。
トーマスが姿勢を正し、頷く。
「本当です。今回、こちらへお迎えする伯爵は、アレクです」
「あなたが……」
マルセルは、もう一度アレクへ目を戻した。
村人たちの間でも、声が漏れ始めていた。
名を聞き覚えていた者が、隣の者へ何かを伝えている。
アレクは少し困ったように笑った。
「自分でも、ここを出る時には考えていませんでした」
「それは、そうでしょう」
マルセルが答えた。
あまりにはっきりした返事に、トーマスが笑いをこぼした。
マルセルも、口元を緩める。
だが、その目にはまだ涙が残っていた。
「……ずいぶん、待たせましたね」
「はい」
アレクは頷いた。
マルセルは、肩へ置いていた手をゆっくりと下ろした。
「ですが、よく帰ってきました」
その声を聞いた途端、アレクの目元も熱くなった。
何と答えるか、道中で考えていたはずだった。
それでも、今は頷くことしかできなかった。
◇ ◇ ◇
村長は、休む場所と食事の用意があると申し出た。
アレクは礼を伝えてから、教会へ目を向けた。
「先に、こちらへ入らせていただいてもよろしいでしょうか」
「教会へ、ですか」
「はい。少し、お話をしたいのです」
村長はマルセルを見た。
マルセルが頷くと、村長もすぐに道を空けた。
「もちろんでございます」
トーマスが護衛たちへ声をかける。
村人の通行を妨げないよう持ち場を決め、馬を休ませる場所を村長に確かめていた。
アレクは、その声を聞きながら教会へ入った。
扉の先で、足が止まった。
机がある。
長椅子が並び、窓から光が入っている。
床には掃いた跡があり、壁際には、見覚えのある道具が置かれていた。
「屋根を直したと、トーマスから聞きました」
「ええ。雨が漏るようになりましてね」
マルセルが天井へ目を向けた。
「村の者たちに手伝ってもらいました」
アレクも見上げた。
新しい木材が、古い梁の間に入っている。
変わっているところはあった。
それでも、ここが自分を迎えてくれた教会だと、すぐに分かった。
「どうぞ、座ってください」
マルセルに促され、アレクは椅子へ腰を下ろした。
机の高さを見て、少し笑った。
「どうしました」
「ここで、文字を教えていただきましたね」
「覚えていましたか」
「もちろんです。読めないものばかりで、何度も伺いました」
「覚えるのは、早かったですよ」
マルセルは杯を置いた。
それから、アレクの向かいへ座る。
落ち着いて顔を合わせると、再び、しばらく言葉が途切れた。
マルセルが先に口を開いた。
「怪我は、していませんか」
「今は、大丈夫です」
「今は、ですか」
アレクは返事に詰まった。
マルセルは小さく息を吐いた。
「戦へ出ているなら、何もなかったとは思いません。食事は、きちんと取っていますか」
「はい」
「眠れていますか」
「はい。城の者たちにも、気にかけてもらっています」
答えると、マルセルはようやく頷いた。
「では、よい人たちに恵まれたのですね」
「はい」
その返事は、迷わずできた。
◇ ◇ ◇
アレクは、村を出てからのことを話した。
アルベルトのもとで働いていたこと。
マティアスと出会い、その配下になったこと。
土地を任され、分からないことを人に尋ねながら、少しずつ仕事を覚えてきたこと。
すべてを順番に話すには、時間が足りなかった。
何を話しても、その前に説明しなければならないことがある。
アレクが言葉に迷うたび、マルセルは急がせずに待った。
「城まで、あるのですか」
「はい。初めて着いた時には、私も驚きました」
「自分の城なのに、驚いたのですか」
「玄関に、仕えてくれる人たちが並んでいたのです。どう挨拶をすればよいのか、分からなくなりまして」
マルセルが笑った。
「それで、どうしたのです」
「何とか挨拶はしました。ただ、閣下と呼ばれるのは落ち着かなくて、名前で呼んでもらうように頼みました」
「今も、ですか」
「はい。アレク様と呼ばれています」
マルセルは、目の前の青年を見た。
上質な服を着ている。
外には、その身を守る兵もいる。
だが、困った時に少し眉を寄せ、正直に話すところには、覚えがあった。
「そういうところは、昔のままですね」
「そうでしょうか」
「ええ」
マルセルは頷いた。
「安心しました」
アレクは、その言葉に少し照れた。
やがて、外の支度を終えたトーマスも教会へ入ってきた。
マルセルが椅子を勧めると、二人の顔を見てから腰を下ろした。
「何の話をしていたんだ」
「城へ初めて行った時のことです」
「それなら、俺も聞いておけばよかった」
「今からでも、お話しします」
「その前に、まだ伝えていないことがあるだろう」
トーマスが言った。
アレクは顔を向けた。
マルセルも、二人を交互に見る。
「何ですか」
アレクは、姿勢を少し正した。
「結婚しました」
マルセルが目を見開いた。
それから、ゆっくりと笑顔になった。
「そうですか。おめでとうございます」
「ありがとうございます。エリーゼという方です。アルベルト大公の姪に当たります」
マルセルの笑みが止まった。
「……アルベルト大公の?」
「はい」
「この国の大公様ですね?」
「はい。そのアルベルト様です」
マルセルは、隣のトーマスへ顔を向けた。
トーマスも頷く。
「間違いありません」
マルセルはアレクへ視線を戻し、長く息を吐いた。
「伯爵になったと聞いたばかりなのに、今度は大公様の姪御様と結婚したと言う。少し、驚く暇をください」
「申し訳ありません」
「謝ることではありませんよ」
マルセルは苦笑した。
それから、改めてアレクの顔を見た。
「その方と、幸せに暮らしているのですね」
「はい」
アレクが答えると、マルセルの表情が和らいだ。
「それなら、何よりです。エリーゼ様は、どのような方なのです」
「本を読むことがお好きで、庭を歩くことも……」
話し始めてから、アレクは少し困った。
何を伝えれば、彼女のことが分かってもらえるだろう。
マルセルは黙って待っている。
「私が迷っている時にも、話を聞いてくださいます。今回、ここへ戻ることも、喜んでくれました」
「私のことも、ご存じなのですか」
「はい。最初に助けてくださった方だと、お話ししました」
マルセルの笑みが、少し深くなった。
「戻ったら、こちらでのお話を聞かせる約束もしています」
「それでは、私も失礼なことは言えませんね」
「そのようなことは」
「何度叱ったかまで話すと、驚かせてしまうかもしれません」
トーマスが笑った。
アレクも笑いながら、首を振った。
「それも、お話ししてよいと思います」
「ご自分で話すのですよ」
「はい」
答えると、マルセルは机の上で手を重ねた。
「次は、その方も連れてきなさい」
アレクは顔を上げた。
「一緒に来ても、よろしいのですか」
「あなたの大切な方でしょう。私も、お会いしたい」
「ありがとうございます。エリーゼに伝えます」
そう言ってから、アレクは付け加えた。
「今度は、これほどお待たせしません」
マルセルは一度頷き、それからトーマスにも目を向けた。
「あなたもですよ」
「俺もですか」
「二人とも、便りくらいは出しなさい。毎日でなくても、無事だと分かればよいのです」
「はい」
二人の返事が重なった。
マルセルは、その声を聞いて笑った。
◇ ◇ ◇
話が一段落すると、マルセルは席を立った。
水を足し、用意していたパンを皿へ載せる。
アレクも立とうとしたが、手で止められた。
「今日は、座っていなさい」
「ですが」
「久しぶりに帰ってきたのですから」
アレクは椅子へ座り直した。
皿が置かれる。
黒いパンを見て、自然に口元が緩んだ。
「懐かしいです」
「城で食べるものとは、違うでしょう」
「ここで頂いた時は、とてもおいしかったです」
「お腹が空いていましたからね」
「はい」
アレクはパンへ手を伸ばした。
今度は、急いで食べる必要がなかった。
マルセルもそれを見て、何も言わずに杯を手に取った。
窓の外から、村人たちの声が聞こえる。
伯爵の馬を見ようとする子どもを、大人が呼び戻していた。
トーマスが窓へ目を向ける。
「あとで、村も少し歩くか」
「はい。見て回りたいです」
「顔を見れば、思い出す者もいるだろう」
アレクは頷いた。
そうして、目の前の机へ視線を戻す。
あの時、自分には残していく家族も畑もないと言った。
マルセルは怒った。
家族がいなければ、命を軽く扱ってよいわけではないと。
出発する朝には、必ず帰るという約束を、顔を見て言い直させられた。
ここを離れてから、帰る場所は増えた。
任された領地がある。
ともに働く人たちがいる。
今は、エリーゼも待っている。
それでも、最初に自分を迎えてくれた場所は、ここだった。
「マルセルさん」
アレクが呼ぶと、マルセルは杯を置いた。
「はい」
アレクは、今度こそ、まっすぐにその顔を見た。
「ただいま戻りました」
マルセルの目元が和らいだ。
「おかえりなさい、アレク」
その声を聞いて、アレクは笑った。
目の前には、パンを分けてくれた人がいる。隣には、ともに村を出た友がいる。
アレクはもう一度パンを手に取り、二人との話に耳を傾けた。
伯爵になったことよりも、まず無事を喜んでくれる人がいる。
アレクがようやく帰れたラーデン村で、大切な約束を果たす一話となりました。
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