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『知らない世界で、前世の知識が武器になる』 ~剣と銃で乱世を生き抜く転生領主の成り上がり~  作者: 相田 ソウ
第九篇 乱世に広がる道

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第二話 ただいまを告げる日

用務を終えたアレクは、トーマスとともに懐かしい道をたどります。

 ヴァイスブルクでの用務を終えた翌朝、アレクはトーマスの案内でラーデン村へ向かった。

 同行するのは、護衛と従者を合わせた少人数だった。

 城門を出る時には騎士として先頭に立っていたトーマスも、街道へ入ってからは、時折アレクの隣へ馬を寄せた。

「この辺りは、覚えているか」

 尋ねられ、アレクは道の先を見た。

 木々の切れ目から畑が見える。緩やかに曲がる道の脇には、荷車の轍が残っていた。

「見覚えはあります。ただ、あの頃は歩き続けるだけで精いっぱいでした」

「俺もだ。槍があれほど重くなるとは思っていなかった」

「出発した時は、元気でしたよね」

「出発した時はな」

 トーマスが笑った。

 あの時は、村から持たされた装備と食料を背負い、ヴァイスブルクを目指して歩いていた。

 騎士になると語っていたトーマスも、行き先の定まっていなかったアレクも、同じ列にいた。

 今は二人とも馬に乗り、帰るためにこの道を進んでいる。

 道が曲がった先で、トーマスが手綱を引いた。

「見えてきたぞ」

 アレクも馬の歩みを緩めた。

 畑の向こうに、家々が並んでいた。

 新しい板を使った壁が、日の光を受けている。屋根の色は家ごとに違い、その間から、細い煙が上がっていた。

「グリュン村ですか」

「ああ」

 アレクは、しばらく黙って村を見た。

 最初にこの村を見た時、空は炎に照らされていた。

 今、目の前にあるのは、畑仕事をする人々の姿だった。

 男が鍬を振り下ろし、少し離れたところでは、女が籠を地面へ置いて腰を伸ばしている。道を行く荷車へ声をかけると、荷台の脇を歩いていた男が手を上げた。

 子どもが二人、家の間から走り出した。

 後ろから大人に呼び止められ、一人が慌てて戻っていく。

 アレクは手綱を握ったまま、その様子を見ていた。

「少し、下りてもよいですか」

 トーマスが頷いた。

「道の脇なら、荷車の邪魔にもならない」

 アレクは馬を下りた。

 護衛たちも速度を落とし、少し距離を取って待つ。

 トーマスも下り、並んで馬の手綱を引いた。

 道の端を歩くと、畑から土の匂いがした。

 ◇ ◇ ◇

「家が、建て直されていますね」

 アレクが言うと、トーマスは村へ目を向けた。

「ああ。戻るたびに、少しずつ増えていた」

 すべての家が新しいわけではなかった。

 古い壁へ板を継ぎ足した家もある。家があったと思われる場所に、石だけが残っているところもあった。

 それでも、扉は開き、人が出入りしている。

 あの夜、燃え残った家や納屋から、おびえながら姿を現した人々とは違っていた。

 アレクは、村の背後にある森へ目を移した。

 木々の重なりを見ただけで、喉の奥が狭くなったように感じた。

 ハンスの腕を肩へ回した重さ。

 足を取られそうになった斜面。

 剣を握った手に残った感触。

 長く思い返さなくても、そこには、忘れられないものがあった。

「お前がハンスさんを連れて戻った時は、二人とも血だらけだったな」

 トーマスが静かに言った。

 アレクは頷いた。

「トーマスたちの声が聞こえて、ようやく戻れたと思いました」

「俺は、何があったのか分からなかった。ハンスさんが怪我をしていて、お前にも血がついていたから」

「自分でも、うまく話せませんでした」

「ああ」

 トーマスは、それ以上、森でのことを尋ねなかった。

 代わりに、グリュン村へ視線を戻した。

「あの後、今度は大声を出せと言われた」

 アレクも、少しだけ口元を緩めた。

「トーマスの声は、よく聞こえました」

「お前にも、そう言われるのか」

「昨日のお話を聞いて、思い出しました」

「声だけは、昔から変わらんな」

 二人で笑った。

 トーマスとともに村の東側へ回り、姿の見えない兵が大勢いると思わせた。

 実際には、戦える者は十四人しかいなかった。

 敵がこちらの人数に気づいていたら、どうなっていたか。

 今でも、うまくいって当然だったとは思えない。

「怖くなかったですか」

 アレクが尋ねた。

 トーマスは、すぐに答えなかった。

 馬が道端の草へ鼻を寄せる。手綱を軽く引いてから、ようやく口を開いた。

「怖かった。声を出したら、俺のいる場所まで分かるだろう」

「はい」

「森から敵が出てくるんじゃないかと思っていた。だが、黙ったら、それこそ少ないと知られそうでな」

 アレクは頷いた。

 あの時、トーマスは言われた通りに叫び続けていた。

 その声に、自分も助けられていたのだと思った。

 村の方から、子どもの笑い声が聞こえた。

 先ほど走っていた二人が、今度は小さな籠を一つずつ抱えている。大人の後ろを追いながら、何かを言い合っていた。

 トーマスも、そちらを見た。

「あの時、追い返せてよかったな」

「はい」

 アレクは答えた。

 亡くなった者が戻るわけではない。

 建て直された家を見ても、焼けた家のことを忘れられるわけではなかった。

 だが、村では今日も食事が作られ、畑が耕されている。

 その光景を、自分の目で見ることができた。

 畑の男が、こちらに気づいた。

 服装を見て領主に連なる者だと思ったのか、鍬を立てて頭を下げる。

 アレクは軽く頭を下げ返した。

 男は少し驚いた顔をした後、再び鍬を手に取った。

 自分が誰なのか、知らなくてもよかった。

 アレクは馬へ向き直った。

「行きましょう」

「ああ」

 トーマスが頷いた。

「待っている人がいる」

 ◇ ◇ ◇

 ラーデン村では、朝から村長が落ち着かない様子で歩き回っていた。

 教会へ続く道には、普段置かれている荷車がない。道端の道具も片づけられ、村人たちは仕事の合間に、何度も街道の方を見ていた。

 マルセルは教会の入口で、長椅子を運ぶ若者へ声をかけた。

「それは中へ戻してください。外へ並べても、道が狭くなります」

「ですが、伯爵様がお休みになるかもしれません」

「お休みになるなら、中へお通しすればよいでしょう」

「そうですが……」

 若者は長椅子を見下ろし、結局、もう一人と持ち直した。

 マルセルは、その二人を見送った。

 グランヴァルトから伯爵が来るという。

 ヴァイス男爵から知らせがあり、村長は書状を何度も確かめていた。

 マルセルが聞いているのは、グランヴァルトの伯爵が村を訪れ、教会にも立ち寄るということだけだった。

 なぜ他国の伯爵が、この村へ来るのか。

 不思議に思いながらも、マルセルは頼まれた支度を手伝っていた。

 床を掃き、机を拭き、使うかどうか分からない杯を並べる。

 ふと、入口の方を見た。

 ずっと前にも、そこで立ち止まった少年がいた。

 行くところがないと話し、出された食事を急いで食べていた。

 落ち着いて食べなさい。

 そう声をかけたことを、今も覚えている。

「神父様」

 呼ばれ、マルセルは顔を上げた。

「こちらへ、お願いします」

 村長が教会の外から手招きをしていた。

「もう、お着きになりますか」

「先に来られた方が、間もなくだと」

 マルセルは袖を整え、外へ出た。

 村人たちが道の両側へ集まり始めている。

 大げさに騒がないようにと言われても、子どもたちは大人の隙間から首を伸ばしていた。

 やがて、馬の姿が見えた。

 その後ろで、旗が風を受けて広がる。

 花を描いた旗だった。

 マルセルは詳しく確かめる前に、村長に合わせて頭を下げた。

 ◇ ◇ ◇

 村の入口が見えた時、アレクは無意識に背筋を伸ばした。

 道も、家々も、記憶の中より小さく感じられた。

 あの頃は、村の外へ出るだけでも心細かった。

 今は、道の曲がり方を見て、その先に何があるかを思い出せる。

 教会が見えた。

 アレクは、息をゆっくりと吐いた。

 その手前に、村人たちが並んでいる。

 先頭に立っていた村長が頭を下げた。

「ようこそお越しくださいました、ハルトマン伯爵様」

 アレクは馬を下りた。

 従者へ手綱を渡し、村長へ向き直る。

「お迎えいただき、ありがとうございます。急な訪問で、お手数をおかけしました」

「とんでもないことでございます」

 村長が顔を上げる。

 アレクを見て、目元がわずかに動いた。

「本当に……立派になられましたな」

「村長も、お変わりありませんね」

「私は、年を取るばかりでございます」

 そう答えた声は、少し震えていた。

 アレクは微笑み、それから村長の後ろへ目を向けた。

 見覚えのある服があった。

 その人も、ほかの村人たちと同じように頭を下げている。

 アレクは歩き出した。

 マルセルは、近づいてくる足音に気づいた。

 自分の前で止まったことが分かり、さらに深く頭を下げようとした。

「マルセルさん」

 アレクが呼んだ。

「遅くなりましたが、戻りました」

 マルセルの肩が動いた。

 ゆっくりと、顔が上がる。

 アレクは、その目を見た。

「アレク・フォン・ハルトマンです。身寄りのなかった私を、この教会に迎えてくださったでしょう」

 最後まで聞く前に、マルセルが一歩近づいた。

 口が開く。

 だが、すぐには声が出なかった。

 アレクも、それ以上は話せなかった。

 目の前の顔は、覚えていた顔だった。

 少し皺が増えたようにも見える。

 それでも、食事を出してくれた時も、戦へ出ると言って怒られた時も、この人は同じ目で自分を見ていた。

「アレク……」

「はい」

「生きていたのか」

 マルセルの手が伸びた。

 アレクの肩へ触れ、それから顔の近くで止まる。

 確かめるように見つめていた目から、涙が落ちた。

「はい。戻るのが遅くなって、申し訳ありませんでした」

 アレクは頭を下げた。

「色々なことがありまして、今はグランヴァルトに仕えております」

「グランヴァルトに……」

 マルセルは何度も頷いた。

 アレクの上着へ目を向け、後ろに控える護衛たちを見る。

「では、今日お越しになるという伯爵様に、仕えているのですね」

 アレクは顔を上げた。

 隣で、トーマスが口を閉じたまま目を伏せた。

 マルセルは気づいていなかった。

「それはよかった。働く場所が見つかったのですね。本当に……」

 アレクの肩を握る手に、少し力がこもった。

「生きていてくれただけでも、私は嬉しい」

 その言葉を聞いて、アレクはすぐに訂正できなかった。

 爵位のことも、領地のことも、後でよいと思った。

 まず、肩に置かれた手へ、自分の手を重ねた。

「ご心配をおかけしました」

「ええ。心配しました」

 マルセルは、今度ははっきりと答えた。

「必ず帰ると言ったでしょう」

「はい」

「あなたの消息を知らないかと、何度も尋ねました」

「申し訳ありません」

 謝ると、マルセルは首を振った。

 目元を拭い、少しだけ笑う。

「謝らせたいわけではありません。こうして会えたのですから」

 アレクも笑みを返した。

 マルセルは、その顔を見て頷いた。

「ですが、伯爵様をお待たせしてはいけませんね。お話は、後ほど」

「あの、マルセルさん」

「はい」

「伯爵は、私です」

 マルセルの手が止まった。

 アレクは、少し照れくさくなりながら続けた。

「グランヴァルトで伯爵位を頂きました。今は、マティアス侯爵様に仕えております」

 マルセルは、アレクを見た。

 それから、トーマスを見た。

 トーマスが姿勢を正し、頷く。

「本当です。今回、こちらへお迎えする伯爵は、アレクです」

「あなたが……」

 マルセルは、もう一度アレクへ目を戻した。

 村人たちの間でも、声が漏れ始めていた。

 名を聞き覚えていた者が、隣の者へ何かを伝えている。

 アレクは少し困ったように笑った。

「自分でも、ここを出る時には考えていませんでした」

「それは、そうでしょう」

 マルセルが答えた。

 あまりにはっきりした返事に、トーマスが笑いをこぼした。

 マルセルも、口元を緩める。

 だが、その目にはまだ涙が残っていた。

「……ずいぶん、待たせましたね」

「はい」

 アレクは頷いた。

 マルセルは、肩へ置いていた手をゆっくりと下ろした。

「ですが、よく帰ってきました」

 その声を聞いた途端、アレクの目元も熱くなった。

 何と答えるか、道中で考えていたはずだった。

 それでも、今は頷くことしかできなかった。

 ◇ ◇ ◇

 村長は、休む場所と食事の用意があると申し出た。

 アレクは礼を伝えてから、教会へ目を向けた。

「先に、こちらへ入らせていただいてもよろしいでしょうか」

「教会へ、ですか」

「はい。少し、お話をしたいのです」

 村長はマルセルを見た。

 マルセルが頷くと、村長もすぐに道を空けた。

「もちろんでございます」

 トーマスが護衛たちへ声をかける。

 村人の通行を妨げないよう持ち場を決め、馬を休ませる場所を村長に確かめていた。

 アレクは、その声を聞きながら教会へ入った。

 扉の先で、足が止まった。

 机がある。

 長椅子が並び、窓から光が入っている。

 床には掃いた跡があり、壁際には、見覚えのある道具が置かれていた。

「屋根を直したと、トーマスから聞きました」

「ええ。雨が漏るようになりましてね」

 マルセルが天井へ目を向けた。

「村の者たちに手伝ってもらいました」

 アレクも見上げた。

 新しい木材が、古い梁の間に入っている。

 変わっているところはあった。

 それでも、ここが自分を迎えてくれた教会だと、すぐに分かった。

「どうぞ、座ってください」

 マルセルに促され、アレクは椅子へ腰を下ろした。

 机の高さを見て、少し笑った。

「どうしました」

「ここで、文字を教えていただきましたね」

「覚えていましたか」

「もちろんです。読めないものばかりで、何度も伺いました」

「覚えるのは、早かったですよ」

 マルセルは杯を置いた。

 それから、アレクの向かいへ座る。

 落ち着いて顔を合わせると、再び、しばらく言葉が途切れた。

 マルセルが先に口を開いた。

「怪我は、していませんか」

「今は、大丈夫です」

「今は、ですか」

 アレクは返事に詰まった。

 マルセルは小さく息を吐いた。

「戦へ出ているなら、何もなかったとは思いません。食事は、きちんと取っていますか」

「はい」

「眠れていますか」

「はい。城の者たちにも、気にかけてもらっています」

 答えると、マルセルはようやく頷いた。

「では、よい人たちに恵まれたのですね」

「はい」

 その返事は、迷わずできた。

 ◇ ◇ ◇

 アレクは、村を出てからのことを話した。

 アルベルトのもとで働いていたこと。

 マティアスと出会い、その配下になったこと。

 土地を任され、分からないことを人に尋ねながら、少しずつ仕事を覚えてきたこと。

 すべてを順番に話すには、時間が足りなかった。

 何を話しても、その前に説明しなければならないことがある。

 アレクが言葉に迷うたび、マルセルは急がせずに待った。

「城まで、あるのですか」

「はい。初めて着いた時には、私も驚きました」

「自分の城なのに、驚いたのですか」

「玄関に、仕えてくれる人たちが並んでいたのです。どう挨拶をすればよいのか、分からなくなりまして」

 マルセルが笑った。

「それで、どうしたのです」

「何とか挨拶はしました。ただ、閣下と呼ばれるのは落ち着かなくて、名前で呼んでもらうように頼みました」

「今も、ですか」

「はい。アレク様と呼ばれています」

 マルセルは、目の前の青年を見た。

 上質な服を着ている。

 外には、その身を守る兵もいる。

 だが、困った時に少し眉を寄せ、正直に話すところには、覚えがあった。

「そういうところは、昔のままですね」

「そうでしょうか」

「ええ」

 マルセルは頷いた。

「安心しました」

 アレクは、その言葉に少し照れた。

 やがて、外の支度を終えたトーマスも教会へ入ってきた。

 マルセルが椅子を勧めると、二人の顔を見てから腰を下ろした。

「何の話をしていたんだ」

「城へ初めて行った時のことです」

「それなら、俺も聞いておけばよかった」

「今からでも、お話しします」

「その前に、まだ伝えていないことがあるだろう」

 トーマスが言った。

 アレクは顔を向けた。

 マルセルも、二人を交互に見る。

「何ですか」

 アレクは、姿勢を少し正した。

「結婚しました」

 マルセルが目を見開いた。

 それから、ゆっくりと笑顔になった。

「そうですか。おめでとうございます」

「ありがとうございます。エリーゼという方です。アルベルト大公の姪に当たります」

 マルセルの笑みが止まった。

「……アルベルト大公の?」

「はい」

「この国の大公様ですね?」

「はい。そのアルベルト様です」

 マルセルは、隣のトーマスへ顔を向けた。

 トーマスも頷く。

「間違いありません」

 マルセルはアレクへ視線を戻し、長く息を吐いた。

「伯爵になったと聞いたばかりなのに、今度は大公様の姪御様と結婚したと言う。少し、驚く暇をください」

「申し訳ありません」

「謝ることではありませんよ」

 マルセルは苦笑した。

 それから、改めてアレクの顔を見た。

「その方と、幸せに暮らしているのですね」

「はい」

 アレクが答えると、マルセルの表情が和らいだ。

「それなら、何よりです。エリーゼ様は、どのような方なのです」

「本を読むことがお好きで、庭を歩くことも……」

 話し始めてから、アレクは少し困った。

 何を伝えれば、彼女のことが分かってもらえるだろう。

 マルセルは黙って待っている。

「私が迷っている時にも、話を聞いてくださいます。今回、ここへ戻ることも、喜んでくれました」

「私のことも、ご存じなのですか」

「はい。最初に助けてくださった方だと、お話ししました」

 マルセルの笑みが、少し深くなった。

「戻ったら、こちらでのお話を聞かせる約束もしています」

「それでは、私も失礼なことは言えませんね」

「そのようなことは」

「何度叱ったかまで話すと、驚かせてしまうかもしれません」

 トーマスが笑った。

 アレクも笑いながら、首を振った。

「それも、お話ししてよいと思います」

「ご自分で話すのですよ」

「はい」

 答えると、マルセルは机の上で手を重ねた。

「次は、その方も連れてきなさい」

 アレクは顔を上げた。

「一緒に来ても、よろしいのですか」

「あなたの大切な方でしょう。私も、お会いしたい」

「ありがとうございます。エリーゼに伝えます」

 そう言ってから、アレクは付け加えた。

「今度は、これほどお待たせしません」

 マルセルは一度頷き、それからトーマスにも目を向けた。

「あなたもですよ」

「俺もですか」

「二人とも、便りくらいは出しなさい。毎日でなくても、無事だと分かればよいのです」

「はい」

 二人の返事が重なった。

 マルセルは、その声を聞いて笑った。

 ◇ ◇ ◇

 話が一段落すると、マルセルは席を立った。

 水を足し、用意していたパンを皿へ載せる。

 アレクも立とうとしたが、手で止められた。

「今日は、座っていなさい」

「ですが」

「久しぶりに帰ってきたのですから」

 アレクは椅子へ座り直した。

 皿が置かれる。

 黒いパンを見て、自然に口元が緩んだ。

「懐かしいです」

「城で食べるものとは、違うでしょう」

「ここで頂いた時は、とてもおいしかったです」

「お腹が空いていましたからね」

「はい」

 アレクはパンへ手を伸ばした。

 今度は、急いで食べる必要がなかった。

 マルセルもそれを見て、何も言わずに杯を手に取った。

 窓の外から、村人たちの声が聞こえる。

 伯爵の馬を見ようとする子どもを、大人が呼び戻していた。

 トーマスが窓へ目を向ける。

「あとで、村も少し歩くか」

「はい。見て回りたいです」

「顔を見れば、思い出す者もいるだろう」

 アレクは頷いた。

 そうして、目の前の机へ視線を戻す。

 あの時、自分には残していく家族も畑もないと言った。

 マルセルは怒った。

 家族がいなければ、命を軽く扱ってよいわけではないと。

 出発する朝には、必ず帰るという約束を、顔を見て言い直させられた。

 ここを離れてから、帰る場所は増えた。

 任された領地がある。

 ともに働く人たちがいる。

 今は、エリーゼも待っている。

 それでも、最初に自分を迎えてくれた場所は、ここだった。

「マルセルさん」

 アレクが呼ぶと、マルセルは杯を置いた。

「はい」

 アレクは、今度こそ、まっすぐにその顔を見た。

「ただいま戻りました」

 マルセルの目元が和らいだ。

「おかえりなさい、アレク」

 その声を聞いて、アレクは笑った。

 目の前には、パンを分けてくれた人がいる。隣には、ともに村を出た友がいる。

 アレクはもう一度パンを手に取り、二人との話に耳を傾けた。

伯爵になったことよりも、まず無事を喜んでくれる人がいる。

アレクがようやく帰れたラーデン村で、大切な約束を果たす一話となりました。


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