第一話 夢をかなえた友
アルヴェインを訪れたアレクを迎えるのは、懐かしい顔でした。
アルヴェインへの訪問日が決まると、アレクは、留守中に任せる仕事をそれぞれの担当者へ引き継いだ。
領地と城のことは、オスカーたちへ。
残る鉄砲隊の指揮と訓練は、ギルベルトへ任せる。
今回、三千人の鉄砲隊を連れていくわけではない。同行するのは護衛と、教育状況を確認するために選んだ少人数だった。
ラーデン村へ立ち寄る件も、アルヴェイン側を通じてヴァイス男爵へ伝えられ、了承が届いていた。
出発の朝、エリーゼは玄関の外まで見送りに来た。
「忘れ物はありませんか」
「何度も確かめました」
アレクが答えると、エリーゼは小さく笑った。
「私も、昨日から何度も同じことを伺っていますね」
「そのたびに、もう一度確かめたくなります」
並んで笑った後、アレクは馬の方へ目を向けた。
従者たちが、最後の荷を確かめている。
エリーゼが声をかけた。
「ラーデン村にも、行けるのですね」
「はい。用務を終えた後に、立ち寄らせていただくことになりました」
「最初に、お世話になった神父様でしたね」
アレクは頷いた。
「行くところのなかった私を、教会へ入れてくださいました。食事も、寝る場所も用意してくださって」
話していると、黒いパンを急いで食べ、苦笑された時のことが浮かんだ。
あの頃は、翌日をどう過ごせばよいのかさえ分からなかった。
「戻ると約束したのに、ずっとそのままでした」
エリーゼは、アレクの顔を見た。
「お会いできたら、たくさんお話ししてください」
「何から話せばよいか、迷いそうです」
「では、戻られてから、私にも聞かせてください。その方のお話を」
アレクは彼女へ向き直った。
「はい。必ず」
エリーゼが差し出した手を取る。
少しだけ握ってから、アレクは静かに離した。
「行ってきます」
「行ってらっしゃい、アレク」
その声を背に受け、アレクは馬へ向かった。
◇ ◇ ◇
国境で書状を確かめられた後、一行はアルヴェイン側の案内を受けて進んだ。
見覚えのある国の旗が、街道沿いの関所で揺れている。
今回は、補給線を取り戻すために兵を急がせているのではなかった。
街道の先に何があるかを尋ね、道の状態を確かめながら進む。
荷車とすれ違えば、護衛が道を空けた。
畑で働く者が顔を上げ、こちらの旗を見ている。
アレクは、その向こうに続く土地へ目を向けた。
初めてこの国を歩いた時には、自分がどこにいるのかもよく分かっていなかった。
今は、訪問する理由を記した書状を持ち、迎える者がいる。
それでも、ヴァイスブルクの城壁が見えた時には、胸の奥が少し落ち着かなくなった。
城門へ近づくと、出迎えの一行が待っていた。
アレクは馬を止め、下りた。
先頭に立つ者へ挨拶を返し、正式な書状を渡す。
「お待ちしておりました、ハルトマン伯爵」
「お迎えいただき、ありがとうございます」
挨拶を交わした後、案内役の騎士が前へ進み出た。
赤みがかった髪だった。
肩には厚みが増し、腰の剣も身につけた装備も、騎士にふさわしいものになっていた。
だが、顔を上げた時、アレクは息を止めた。
「……トーマス?」
騎士の口元が動いた。
礼を取る姿勢は崩さなかったが、笑みまでは隠せていなかった。
「お久しぶりです、アレク伯爵様」
アレクは、その顔を見つめた。
ラーデン村の空き地で、木剣を差し出してきた少年。
初めての戦場へ、一緒に向かった相手だった。
「本当に、トーマスなのですね」
「はい。トーマス・ベッカーにございます。本日は、ご案内を務めさせていただきます」
丁寧な返事を聞いても、すぐには言葉が出なかった。
トーマスの方が、少し困ったように笑った。
「私も、お名前を伺った時には、すぐには信じられませんでした」
「私も、驚いています」
アレクはようやく答えた。
もっと聞きたいことがあった。
だが、周囲には出迎えの者たちがいる。こちらを待っている人もいた。
トーマスが、城門の内側を示した。
「どうぞ、こちらへ」
「はい。お願いします」
歩き出した背中を見ながら、アレクはもう一度、その腰の剣へ目を向けた。
村で将来を語っていた男が、騎士として、自分を迎えていた。
◇ ◇ ◇
荷を置き、身なりを整えた後、アレクは教育を担当する者たちと会った。
机には、増設を予定している隊の人数や、今ある銃の数を記した書付が並べられていた。
アルヴェインでも、火縄銃を扱う兵は育っている。
だが、新たな兵を増やすとなれば、教える者も増やさなければならない。
すでにある隊から、どこまで人を出せるか。
指揮を任せる者に、何を学ばせるか。
アレクは説明を聞き、持参した記録と照らし合わせながら質問した。
トーマスは案内役として、その場に控えていた。
必要な書付を求められると、担当する者へすぐに伝える。
次に訪れる訓練場の準備を確かめ、戻ってくる。
人に何かを頼む時も、相手が返事をしただけで済ませず、何をするのかを短く確かめていた。
アレクは、話の合間にその姿を見た。
昔のトーマスなら、前へ出ることに気を取られていたかもしれない。
今は、周囲の者がどう動いているかも見ている。
会議を終え、訓練場へ向かう途中で、アレクは声をかけた。
「案内を頼まれたのは、今日だけですか」
「今回のご訪問に合わせて、申しつかりました」
「普段は、こちらに?」
「はい。ヴァイスブルクで務めております」
トーマスは答え、前を歩く兵へ声をかけた。
訓練場へ入る前に、担当者へ到着を知らせるよう命じる。
兵は礼をして、小走りに向かった。
アレクは、その後ろ姿を見送った。
「立派になりましたね」
思わず言うと、トーマスが顔を向けた。
一瞬、昔のように何かを言い返しそうになった。
だが、すぐに口を閉じ、姿勢を正す。
「恐れ入ります」
アレクは、少し笑ってしまった。
トーマスも、それに気づいて目を細めたが、案内役としての態度は崩さなかった。
◇ ◇ ◇
その日の用務が一段落した頃、アレクはトーマスと話す時間を取ることができた。
案内された小部屋の窓からは、城内の庭が見えた。
机の上には、水の入った杯が二つ置かれている。
トーマスは、扉のそばで立ち止まった。
「お掛けください」
アレクが言うと、少しためらってから向かいへ座った。
「お疲れではございませんか」
「大丈夫です」
「明日の予定については、担当の者から改めて」
「トーマス」
アレクが呼ぶと、相手は口を閉じた。
「二人の時くらい、以前のように話してください」
トーマスは、アレクの顔を見た。
それから、扉の方へ一度目を向ける。
「……本当に、よいのですか」
「そのために、時間を作っていただいたのです」
少しの沈黙があった。
やがて、トーマスが長く息を吐いた。
「お前が伯爵になるなんて、誰が思うんだ」
その言葉に、アレクは笑った。
「私も、思っていませんでした」
「しかも、グランヴァルトの伯爵だぞ。初めて聞いた時は、別人だと思った」
「名前が同じでも、ですか」
「名前が同じだから、余計に信じられなかったんだ」
トーマスも笑った。
肩の力が抜けると、村で話した時の面影がはっきりと戻ってきた。
「だが、顔を見れば分かった」
「私もです。髪の色を見て、もしやと思いました」
「そこか」
「顔もです」
アレクが答えると、トーマスは杯を手に取った。
一口飲んでから、改めてアレクを見る。
「生きていて、よかった」
声の調子が変わっていた。
アレクも笑みを収めた。
「トーマスも」
「ああ」
それだけで、少しの間、言葉が途切れた。
同じ村を出た時には、その後どこで暮らすことになるかも分からなかった。
今、別の国に仕える者同士として、同じ机に向かっている。
アレクは、トーマスの剣へ目を向けた。
「本当に騎士になったんですね」
トーマスは、その視線に気づいた。
腰へ触れかけ、すぐに手を戻す。
「ああ。言っただろう。いつかなるって」
「覚えています」
村で徴集兵を選んでいた朝。
父がなれなかったから、自分がなる。
そう答えた声も、覚えていた。
「いつ、取り立てられたのですか」
「ベルン伯爵領へ攻め込んだ時だ。それまでは、従士として働いていた」
トーマスは、少し姿勢を直した。
「大きな手柄を、一人で立てたわけじゃない」
戦の途中で、指揮を執る者が負傷したのだという。
命令が途切れ、前へ出る者と、下がろうとする者が入り交じった。
トーマスは近くにいた兵へ声をかけ、負傷者を運ばせた。その間、自分は残った者たちと持ち場を守った。
「隣の隊から、自分たちのいる場所まで下がれと知らせが来ていた。だが、それを聞いていない者もいたんだ」
「兵をまとめたのですね」
「怒鳴って、名前を呼んで、聞こえた者から伝えさせた。格好のよいものじゃなかった」
トーマスは苦笑した。
「あとで聞いたら、俺の声だけは、よく聞こえたらしい」
アレクも、わずかに笑った。
村を出た頃から、トーマスの声はよく通っていた。
「全員を連れて戻れたわけじゃない」
トーマスが続けた。
アレクは黙って聞いた。
「だが、助けた方が、俺の働きを上官へ報告してくださった。それまでの働きも認めていただき、取り立てられたんだ」
「それで、騎士に」
「ああ」
トーマスは頷いた。
自慢するような声ではなかった。
それでも、嬉しさは伝わってきた。
「母上には、知らせたのですか」
「知らせた。何度も読み返したらしい」
トーマスの顔が和らいだ。
「兄貴からの返事には、母が近所へ見せて回って困ると書いてあった」
「嬉しかったのでしょうね」
「ああ。だから、帰れた時には、剣も見せた」
アレクは、その光景を思い浮かべた。
出発の日、息子を抱き締めていた母親。
今度は、騎士となって帰った息子を迎えたのだ。
「よかったですね」
アレクが言うと、トーマスは少し照れたように目を伏せた。
「お前に言われると、妙な気分だ」
「どうしてですか」
「俺が騎士になったと思ったら、お前は伯爵になっていたからな」
アレクは首を振った。
「私のこととは、別です。トーマスが望んでいたことが、かなったのですから」
トーマスは顔を上げた。
しばらくアレクを見た後、静かに頷いた。
「ああ。ありがとう」
◇ ◇ ◇
話は、今日見てきた訓練場のことへ移った。
トーマスは、机へ少し身を寄せた。
「俺も、あちらへ行きたいと思っている」
「鉄砲隊ですか」
「ああ。新しく増やす隊があると聞いた。希望は伝えてある」
「配属は、これからなのですね」
「そうだ。騎士になったからといって、好きな持ち場を選べるわけじゃない」
トーマスは、窓の外へ目を向けた。
「だが、学ぶ機会があるなら、逃したくない」
「ベルン伯爵領での戦を見て、そう思ったのですか」
「ああ。火槍を使う隊の話も聞いたし、こちらの火縄銃の働きも知った。知らぬままでいてよい武器じゃない」
その言葉に、アレクは頷いた。
トーマスは続けた。
「今日の話を聞いて、なおさら思った。持って撃てば済むのではないんだな」
「はい。銃を扱うことと、隊として動くことは、同じではありません」
「教える側になるには、何から覚える」
問いかけは、真剣だった。
アレクは、少し考えてから答えた。
「まずは、自分も教わることだと思います。何が分からず、どこで迷うのかを、覚えておいてください」
「自分が迷ったところを?」
「はい。後から来た兵も、同じところで困るかもしれません」
トーマスは、黙って頷いた。
「それなら、俺にも覚えがある。従士になった頃、聞き直すのが嫌で、分かったふりをした」
「後で困りませんでしたか」
「困った。ひどく叱られた」
アレクが笑うと、トーマスも笑った。
「兵には、同じことをさせないようにしたい」
「それも、大切なことだと思います」
トーマスは杯を置いた。
「騎士になれば、もっと何でもできると思っていた」
「違いましたか」
「覚えることが増えた」
その答えに、アレクは何度も頷きたくなった。
「私もです」
「伯爵になったお前でもか」
「伯爵になったからこそ、分からないことが増えました」
トーマスが笑った。
アレクも、笑みを返す。
「騎士になれたから、もう十分だとは思わないのですか」
「なったばかりで、終わりにしてどうする」
迷いのない返事だった。
村で木剣を差し出してきた時も、同じように前を見ていた。
だが、今のトーマスは、戦場の怖さを知らずに言っているのではなかった。
失った者のことも、うまくできなかったことも覚えている。
それでも、次を目指していた。
「配属が決まったら、知らせてください」
アレクは言った。
「こちらから勝手に決めることはできませんが、学ぶお手伝いができることはあると思います」
「ああ。まずは、選んでもらわねばな」
トーマスが頷いた。
アレクは、村の空き地を思い出した。
あの時は、トーマスが自分へ木剣を渡した。
今日は、トーマスの問いに自分が答えている。
どちらか一方だけが変わったのではない。
二人とも、あの場所から歩いてきたのだった。
◇ ◇ ◇
やがて、話題はラーデン村へ移った。
「村にも寄るのだろう」
トーマスが尋ねた。
「はい。許可をいただきました」
「聞いている。俺が案内することになった」
アレクは顔を上げた。
「トーマスが?」
「ああ。道を知っている者がよいだろうとな。こちらの用務が済んでから、村まで同行する」
アレクは、思わず笑みを浮かべた。
「それは、心強いです」
「今なら、昔よりは役に立つぞ」
「昔も、助けてもらいました」
トーマスは少し笑い、杯に残った水を飲んだ。
アレクは、聞きたかったことを口にした。
「マルセルさんは、お元気ですか」
「ああ。今も教会にいる。俺が戻った時には、姿勢が悪いと背中を叩かれた」
「騎士になっても、ですか」
「なったから、余計にだそうだ」
アレクは笑った。
笑いながら、胸の奥が緩んでいくのを感じた。
あの人は、今も村にいる。
教会で暮らし、帰ってきたトーマスの背筋を正している。
「よかった」
小さく言うと、トーマスがこちらを見た。
「ずっと、気になっていたのか」
「はい」
アレクは頷いた。
「戻ると約束したままでしたから」
トーマスは、しばらく黙っていた。
それから、ゆっくりと口を開く。
「お前のことも、気にしていた」
アレクは顔を上げた。
「私のことを?」
「ああ。便りで村の話を聞くと、時々、お前の消息を知らないかと書いてあった」
アレクは、膝の上で手を握った。
待っているだろうとは、思っていた。
それでも、実際に聞くと、言葉が出なかった。
「グランヴァルトに若い伯爵がいるという話は、俺も耳にした」
トーマスが続けた。
「だが、俺の知るアレクだと確かめるまでは、家族への便りにも書けなかった。別人の話で、マルセル神父を喜ばせるわけにもいかんだろう」
「そうですね」
「今回は、顔を見た。もう、間違えようがない」
トーマスは、少し笑った。
「会ったら、驚くだろうな」
「怒られるかもしれません」
「それは、あるかもしれん」
否定されず、アレクは苦笑した。
トーマスも笑ったが、すぐに穏やかな顔へ戻った。
「だが、会えば分かる。生きて帰ってきたんだからな」
アレクは頷いた。
言い訳を先に考えるのは、やめようと思った。
長く戻らなかったことを謝る。
世話になった礼を伝える。
そして、今どう暮らしているかを、自分の言葉で話す。
そのために、村へ行くのだった。
◇ ◇ ◇
翌日の予定を確かめた後、二人は窓のそばへ立った。
庭を横切る兵が、トーマスに気づいて礼をする。
トーマスは頷き、またアレクへ顔を向けた。
「村へ行く道は、少し直された。昔ほど荷車が揺れなくなったぞ」
「教会は、変わっていませんか」
「屋根を直した。ほかは、見れば分かる」
「では、楽しみにしておきます」
アレクが答えると、トーマスは笑った。
廊下の方から、人が近づく気配がした。
トーマスが姿勢を整える。
「それでは、明朝、訓練場へのご案内に伺います」
急に戻った丁寧な口調に、アレクは少しだけ目を細めた。
「よろしくお願いします」
トーマスも、それに気づいて笑みをこらえていた。
扉の前で礼をし、部屋を出ていく。
アレクは、その背中を見送った。
騎士になると言った友は、本当に騎士になっていた。
その友が、今度は帰り道を案内してくれる。
アレクは窓へ向き直った。
村を出た時には、戻る日がこれほど先になるとは思っていなかった。
騎士と伯爵になった二人が、もうすぐ、あの村へ帰る。
かつて村で将来を語り合った二人が、伯爵と騎士として再会しました。
立場が変わっても、二人きりになれば昔のように話せる。そんな友との時間を描きました。
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