第二十四話 帰る場所
王都での務めを終え、帰路についたアレク。
林檎の花の旗が、その帰りを迎えます。
街道の先に、林檎の花の旗が見えた。
城壁の上で風を受けて広がり、花の周りに配された五つの蕾も、はっきりと見えた。
アレクは、手綱を握る手を少し緩めた。
城へ続く坂も、その下に広がる町も、出発した時と変わらないように見えた。
だが、今は、あの城でエリーゼが待っている。
それだけで、道の先を見る気持ちが違った。
「お帰りなさいませ!」
声をかけられ、アレクは顔を向けた。
店先へ荷を下ろしていた男が、帽子を取っていた。
「ただいま戻りました」
アレクが答えると、男は嬉しそうに頭を下げた。
その声を聞いた者たちが、戸口から顔を出す。
窓から手を振る子どももいた。
アレクは馬の歩みを緩め、手を上げて応えた。
後ろには、供の者たちが続いている。
先に帰還した兵たちの姿は、この列にはなかった。
今頃は、それぞれの家で家族と話しているだろうか。
そう考えると、自然に顔がほころんだ。
坂へ差しかかると、城門から一人の兵が駆けていくのが見えた。
到着を知らせるためだろう。
門に残った兵が姿勢を正す。
アレクが通ると、声を揃えて迎えた。
「お帰りなさいませ!」
「留守の間、ご苦労さまでした」
馬を進めながら答えた。
兵は礼を返し、すぐに門の外へ視線を戻した。
城内では、荷車が道の脇へ寄せられていた。
使用人が足を止め、こちらへ頭を下げる。
見慣れた玄関へ目を向けると、その前に人が並んでいた。
オスカーとマルタがいる。
その少し前に、エリーゼが立っていた。
◇ ◇ ◇
アレクは馬を止めた。
従者へ手綱を渡し、地面へ降りる。
顔を上げると、エリーゼがこちらを見ていた。
微笑んでいる。
だが、重ねた両手には、少し力が入っているように見えた。
「お帰りなさい、アレク」
聞きたかった声だった。
アレクは彼女の前へ進んだ。
「ただいま戻りました、エリーゼ」
返事をすると、彼女の肩がわずかに下がった。
安心したのだと分かった。
手を取りたいと思ったが、オスカーたちも待っている。
アレクは、一度そちらへ向き直った。
「留守の間、ありがとうございました」
「皆、無事のお帰りをお待ちしておりました」
オスカーが答えた。
マルタも深く礼をする。
「お部屋の用意は整っております。お荷物はこちらでお預かりいたします」
「お願いします」
従者が荷を渡し始めた。
アレクは、改めてエリーゼを見た。
「変わりありませんでしたか」
「はい。オスカーたちが、よく助けてくれました」
エリーゼは隣へ目を向けた。
「私だけでは、分からないことばかりでしたから」
「エリーゼ様にも、多くのことをお確かめいただきました」
オスカーが言った。
「帰還した兵たちも、順に休ませております。負傷した者の手当ても続けておりますので、詳しいことは、落ち着かれてからご報告いたします」
アレクは頷いた。
「お願いします。ギルベルトも戻っていますね」
「はい。隊の報告をまとめております」
エリーゼが、アレクの袖へそっと触れた。
「まずは、お休みください。長い道のりだったのでしょう」
アレクは、その手を見た。
すぐに離れようとした指へ、自分の手を重ねる。
「はい」
エリーゼが顔を上げた。
アレクは手を取ったまま、彼女と並んで城へ入った。
オスカーたちは、少し間を空けてついてきた。
◇ ◇ ◇
部屋へ入ると、アレクは旅の外套を脱いだ。
マルタが受け取り、椅子のそばへ水を用意する。
窓は少し開けられていた。
外の風が入り、見覚えのある帳が揺れている。
机の上には、エリーゼの本が置かれていた。
出発した時にはなかった小さな花瓶もある。
城を空けている間も、ここで彼女の暮らしが続いていたのだと思った。
「何かございましたら、お呼びください」
マルタが礼をした。
扉が閉じられる。
廊下を遠ざかるマルタの足音が聞こえなくなると、部屋は静かになった。
アレクはエリーゼへ向き直った。
彼女は、先ほどよりも近くで顔を見ていた。
「お怪我は、本当にありませんか」
「はい。ありません」
「手紙にも、そう書いてありましたけれど……」
エリーゼは、アレクの肩から腕へ目を移した。
隠している傷がないか、確かめているようだった。
アレクは両手を少し広げた。
「このとおりです。道中で疲れただけですよ」
笑って答えると、エリーゼも笑おうとした。
だが、うまく笑えなかった。
一歩近づき、上着の胸元をそっとつかむ。
「……少しだけ、このままでいてください」
アレクは返事の代わりに、彼女を抱き寄せた。
エリーゼの額が胸に触れる。
背中へ回された腕に、少しずつ力がこもった。
アレクも、抱く腕を緩めなかった。
会えば、話したいことはいくらでもあると思っていた。
今は何も言わずに、こうしていたかった。
「ちゃんと、お帰りを待とうと思っていたのです」
胸元で、エリーゼが言った。
「家のことも、皆様と相談して進めました。お手紙が届けば、無事でいらっしゃると分かりましたし……」
声が途切れる。
アレクは彼女の背へ手を添えた。
「でも、次の便りが届くまでは、また心配になってしまって」
「はい」
「戦が終わったと聞いても、ここへ帰っていらっしゃるまでは、落ち着きませんでした」
アレクは少し身を離し、彼女の顔を見た。
目元が潤んでいた。
出陣する時、エリーゼは自分を送り出してくれた。
あの言葉があったから、留守を気にかけながらも、戦場で務めを果たせた。
その間、彼女が何も恐れていなかったわけではない。
「留守を守ってくれて、ありがとうございました」
アレクは言った。
「私も、早くエリーゼに会いたいと思っていました」
エリーゼが目を上げた。
しばらく見つめ合ってから、彼女の口元が少し緩む。
「帰ると知らせてくださったお手紙にも、そう書いてありましたね」
「……はい」
「最後の一文、嬉しかったです」
アレクは、返事に困った。
書いた時にも恥ずかしかった。
目の前で言われると、なおさらだった。
エリーゼは、つかんでいた服から手を離した。
皺になったところを指で伸ばし、今度はアレクの手を握る。
「私も、お会いしたかったです」
その言葉に、アレクはようやく笑った。
彼女の頬へ手を添える。
エリーゼが目を閉じ、二人は短く唇を重ねた。
離れると、彼女はもう一度アレクへ身を寄せた。
「もう少しだけ」
「はい」
アレクは答えた。
急いで離れる理由は、なかった。
◇ ◇ ◇
その晩、アレクはエリーゼと向かい合って夕食を取った。
皿へ料理が置かれると、湯気が上がった。
行軍の途中に食べた物とは違う。
温かい料理を、急いで飲み込まずに食べられることが嬉しかった。
エリーゼは、留守中の出来事を話した。
庭の手入れをする者から花の名を教わったこと。
オスカーに城の帳簿を見せてもらい、知らない土地の名前を何度も聞き返したこと。
アレクは食事をしながら聞いていた。
「村の名前が、まだ全部は覚えられません」
「私も、領地を頂いたばかりの頃は、地図を見直してばかりでした」
「では、覚えたら、一緒に訪ねてくださいますか」
「もちろんです。地図だけでは分からないこともありますから」
エリーゼが嬉しそうに頷いた。
アレクも、王都でのことを話した。
褒賞として土地が加えられたことを伝えると、彼女は少し驚いた。
「また、覚える場所が増えましたね」
「そうですね」
二人は笑い合った。
諸侯の鉄砲隊について、新しい役目を命じられたことにも触れた。
エリーゼは最後まで聞き、アレクを見た。
「これから、こちらへお越しになる方も増えるのでしょうか」
「その可能性はあります。まだ配備する家も決まっていませんが、王都では、すでに何人かから質問を受けました」
「では、お迎えできるようにしておきます」
「無理はしないでください」
「はい。分からないことは、オスカーたちに相談します」
アレクは頷いた。
すべてを自分だけで抱えようとしているわけではなかった。
それでも、彼女は自分の暮らす家のこととして、考えてくれている。
食事が終わる頃には、明日確かめることがいくつか決まっていた。
その中に、一緒に庭を歩く約束も加わった。
◇ ◇ ◇
翌朝、アレクはギルベルトとともに、負傷して戻った兵を訪ねた。
手当てを受けながら休んでいた男が、アレクを見るなり起き上がろうとする。
「そのままで結構です」
アレクは手を上げた。
男は動きを止め、頭だけを下げた。
「申し訳ございません」
「謝ることではありません。具合はどうですか」
「傷は、少しずつよくなっております」
男は答えた後、自分の足へ目を落とした。
「ただ、長く歩くのは、まだ難しいと」
「今は、治すことを考えてください。戻ってからの務めは、その後に相談しましょう」
男の表情が、わずかに緩んだ。
ギルベルトが、家族への連絡と当面の支援について説明する。
アレクはそれを聞き、困っていることがあれば知らせるよう伝えた。
部屋を出てからも、ほかの負傷兵を訪ねた。
帰れなかった兵の遺族にも会った。
用意していた言葉が、顔を見た途端に出てこなくなることがあった。
それでも、兵が果たした務めを伝え、深く頭を下げた。
報奨が届けば、それで終わる話ではない。
支援を続けることを告げ、家の事情を聞いた。
城へ戻った時、アレクはしばらく馬から降りた場所に立っていた。
ギルベルトも、急かさずに待っている。
「これからも、様子を知らせてください」
「承知いたしました」
アレクは頷き、城へ入った。
◇ ◇ ◇
午後、執務室へオスカーが書付を持ってきた。
エリーゼも席に着き、報告を聞いた。
まず、兵への褒賞と遺族への支援について、午前中に確かめたことと帳簿の記録を照らし合わせた。
すでに渡した分と、これから届ける分を分け、足りないものがないか確かめる。
それが終わると、オスカーは別の書付を広げた。
「鉱山の村についても、ご報告がございます」
アレクは顔を上げた。
「石炭の取引ですか」
「はい。買い付けに来る商人が増えております。ただ、運べる量にも限りがございますので、引き渡す日を調整しております」
アレクは数字へ目を通した。
掘り出した石炭が、そのまま売れるわけではない。
村から運び、荷をまとめ、約束した場所へ届ける必要がある。
「村の者たちは、どうしていますか」
「採掘だけでなく、荷を運ぶ仕事や、積み下ろしにも人が要るようになりました。荷車の修理を引き受ける者も出ております」
オスカーは、村から届いた報告を示した。
「以前、仕事を求めて村を離れていた者が、戻ってきたそうです」
アレクは書付から目を上げた。
「戻ってきたのですか」
「はい。まだ人数は多くありませんが」
エリーゼが、そばで微笑んだ。
「家族と暮らせるようになった方も、いらっしゃるのでしょうね」
「そうですね」
アレクは答えた。
鉱山が使われなくなり、仕事を失っていた村だった。
自分たちで使う分だけを掘っていた石炭が、少しずつ別の土地へ運ばれ始めている。
その仕事を頼りに帰る者がいると聞くと、数字だけを見た時より嬉しかった。
「道が傷んでいないかも、確かめてください。運ぶ量を増やして、途中で荷車が動けなくなっては困ります」
「その点も、報告を求めております」
オスカーが答えた。
アレクは頷き、書付を戻した。
◇ ◇ ◇
「それと、鉱山の周辺を調べた者から、石の見本が届いております」
オスカーが言った。
机の脇へ置かれていた箱を開く。
中には、別々の布に包まれた石が入っていた。採れた場所を記した紙が、それぞれに添えられている。
「すべて鉱石とは限りません。何か使い道があるか、確かめていただきたいとのことです」
アレクは、一つずつ目を向けた。
鉄を探して掘った坑道から石炭が見つかったように、別の使い道を持つ物があるかもしれない。
ただ、自分が見れば何でも分かるわけではなかった。
名前も用途も判断できない石が並んでいる。
その中の一つで、手が止まった。
「これは?」
「火打石だそうです。あの辺りでは、火を起こす時に使っていると聞いております」
アレクは布を開いた。
特別に珍しい物として送られてきたわけではないらしい。
オスカーの説明も、ほかの石と変わらなかった。
だが、アレクは、その石から目を離せなくなった。
火打石。
名前を頭の中で繰り返した時、前世の記憶から、一つの銃の仕組みを思い出した。
火縄ではなく、火打石を使う銃。
フリントロック式だった。
「アレク?」
エリーゼの声で、顔を上げた。
「何か、分かったのですか」
「……はい」
アレクは、もう一度石を見た。
金属製の実包を使う銃を作りたいと考えていた。
そのために必要な道具や、職人に頼む仕事ばかりが頭にあった。
だが、そこへ行く前にも、できることがあった。
今ある銃を、もう一段使いやすくする方法だった。
騎馬鉄砲隊の兵たちを思い出す。
馬を扱い、銃を持ち、火縄にも気を配る。
徒歩の隊とは違う苦労があることは、報告でも聞いていたし、自分でも経験していた。
その火縄が、要らなくなるかもしれない。
「銃のことでしょうか」
オスカーが尋ねた。
アレクは頷いた。
「今の銃に、火縄を使わずに撃つ仕組みを付けられるかもしれません」
エリーゼが石へ目を向けた。
「その火打石で、ですか」
「はい。ただ、私が思いついたからといって、すぐに作れるとは限りません。ロルフたちに相談して、確かめてもらう必要があります」
アレクは石を布へ戻した。
頭の中にある形を、そのまま職人へ渡すことはできない。
どこまで伝えられるかを整理し、作る者の話を聞かなければならなかった。
それでも、進める方向が一つ見えた。
「この石がどの辺りで採れるのか、詳しい報告もお願いできますか。大量に集める前に、まず使える物か確かめたいので」
「承知いたしました」
オスカーが答えた。
アレクは紙を引き寄せた。
そこで、ふと手を止める。
エリーゼが、こちらを見ていた。
「どうなさいましたか」
「庭を歩く約束をしていましたね」
窓の外は、まだ明るかった。
彼女は少し笑った。
「覚えていてくださったのですね」
「もちろんです」
アレクは、机の上の火打石へ目を落とした。
忘れないよう、ロルフへ相談することだけを書き留める。
それから筆を置き、椅子を引いた。
「先に、庭へ行きましょう」
差し出した手へ、エリーゼが手を重ねた。
「はい」
オスカーが一礼し、石の箱へ布をかけた。
アレクはエリーゼと並んで部屋を出た。
火縄を使わない銃のことは、頭の中に残っていた。
だが、今は、隣にいる彼女と話したかった。
庭へ続く廊下の窓から、林檎の花の旗が見えた。
アレクはエリーゼの手を取り、日の差す庭へ歩いていった。
第二十四話をお読みいただき、ありがとうございました。
アレクとエリーゼが再び一緒に過ごす時間を、楽しんでいただけたなら嬉しいです。
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