第二十話 国境を越える王命
国境の戦場で、両軍の旗が動きます。
アレクたちは、それぞれの持ち場で戦いを続けます。
カルディア軍の旗が、後ろへ動いていた。
だが、まだ逃げているのではない。
隊長たちが兵を呼び集め、盾を並べ直そうとしている。後方に控えていた歩兵も前へ出て、崩れた隊を支え始めていた。
マティアスは、その動きを見ていた。
「立て直す時間を与えるな。全軍、前進」
伝令が走った。
左右の歩兵へ命令が伝わり、騎兵の旗も動く。
アレクのもとへ来た伝令は、馬を止めて告げた。
「前進せよとの命です。左右の歩兵も、ともに動きます」
「承知しました」
アレクはギルベルトへ顔を向けた。
「各隊へ伝えてください。列を揃えて進みます」
「はい」
隊長たちの声が響いた。
三千人の鉄砲兵が、銃を携えて歩き出す。
アレクも、その列とともに進んだ。
足元には、刈り取られた茎が残っている。浅い窪みを越える隊が少し遅れると、隣の隊長が歩調を落とした。
敵が退いているからといって、走り出す者はいなかった。
左では歩兵が盾を持って進み、その外側を騎兵が動いている。
右の味方も、鉄砲隊を追い越してはいなかった。
林檎の花の旗が、前へ進む。
その向こうで、敵の指揮官がこちらを指さした。
盾が並び始める。
アレクは手を上げた。
「止まれ!」
号令が伝わり、列が止まった。
ギルベルトが各隊を確かめる。
アレクは、再び前を向き始めた敵兵を見据えた。
「構え!」
一列目が銃を上げる。
こちらへ向けて槍を揃えようとしていた敵の列に、まだ隙間があった。
「撃て!」
銃声が重なった。
白煙の向こうで、盾が倒れる。
兵を集めていた旗の周りが崩れ、後ろから来た者たちが立ち止まった。
アレクは目を細めた。
止まれば撃たれる。
退けば、こちらが前へ出る。
敵は隊を立て直せないまま、川へ押され始めていた。
◇ ◇ ◇
カルディア軍の本隊を率いる将は、近づいてくる白煙を睨んだ。
先ほどまで、敵は城の下にいた。
今は、そこから前へ出ている。
火槍を持つ兵が、長い列を保ったまま迫っていた。
「歩兵を下げすぎるな!」
叫ぶと、そばの伝令が走り出した。
だが、前へ向かわせた伝令が戻るより先に、また銃声がした。
旗が揺れ、兵が後ろへ流れる。
止まれと命じる隊長の声が、ここまで聞こえてきた。
「騎兵を出す」
将は、右手に控える部隊へ顔を向けた。
「六百を東へ回せ。敵の左側を押せ。歩兵を立て直す時間を作る」
「承知しました」
「火槍隊だけを狙って奥へ入るな。味方の歩兵が退けるようにしろ」
騎兵の指揮官が頷いた。
馬が動き始める。
六百騎が歩兵の列から離れ、戦場の東へ進んだ。
残る騎兵四百は、本隊の旗の周りに残される。
将は南を振り返った。
石橋から、まだ兵が渡ってきていた。
「後続の渡河を止めろ。橋の上に兵を留めるな」
言ってから、前へ目を戻す。
退却を決めたわけではなかった。
それでも、戻る道まで塞がせることはできなかった。
◇ ◇ ◇
「敵の騎兵が、東へ動いております」
報告を受けたアーノルドは、左へ目を向けた。
カルディアの騎兵が、歩兵の脇を抜けてくる。
正面へ出した兵が動けなくなれば、騎兵で横から揺さぶる。
この地方で、何度も見てきた動きだった。
「こちらへ来るぞ」
アーノルドは、左翼を守る歩兵の隊長へ告げた。
「鉄砲隊の横を空けるな。槍を揃えて待て」
「はい」
左翼に置かれた歩兵千二百人が、近づく騎兵へ向き直る。
アーノルドは自分の騎兵三百を、その後ろへ寄せた。
ここまで城と橋を守ってきた兵たちだった。
疲れはある。
だが、今は背後に援軍がいる。
正面では、アレクの鉄砲隊が敵を押していた。
「正面が崩れれば、こちらへ回ってくる」
アーノルドは、敵の旗を見た。
「昔から変わらんな」
カルディアの騎兵が速度を上げた。
蹄の音が近づく。
歩兵の前列が盾を寄せ、槍を構えた。
敵の先頭は、その正面を避けて外側へ回ろうとした。
歩兵の端を崩し、鉄砲隊の横へ出るつもりだった。
アーノルドは馬を進めた。
「こちらも出る。歩兵から離れすぎるな」
三百騎が続いた。
歩兵の外側へ回り、向かってくる敵騎兵とぶつかる。
槍が折れた。
横から受けた衝撃に、アーノルドの馬が身を揺らす。
手綱を引いて立て直すと、目の前へ敵の剣が迫った。
アーノルドは剣で受け、相手の腕を押し返した。
そばでは味方の騎兵が一人、鞍から落ちていた。
「下がる者を通せ!」
隊長が叫ぶ。
傷ついた馬が後ろへ引かれ、その隙間を別の騎兵が埋めた。
カルディア兵は数で押そうとした。
だが、アーノルドの騎兵を追えば、近くに並ぶ歩兵の槍に横を向けることになる。
敵の騎兵隊長が、兵をまとめ直そうとしていた。
その時、中央で銃声が重なった。
カルディアの歩兵が、さらに後ろへ下がる。
騎兵だけが、前へ取り残され始めていた。
◇ ◇ ◇
アレクは、左から聞こえる喊声へ一度目を向けた。
敵味方の騎兵が入り交じっている。
その近くでは、味方の歩兵が槍を構えていた。
アーノルドの旗は、下がっていない。
「正面を見てください」
アレクは隊長たちへ伝えた。
「左は、アーノルド様が守ってくださっています」
ここで鉄砲隊を分ければ、正面への圧力が弱まる。
敵の歩兵が立ち直れば、左で戦う味方の負担も増える。
アレクは、目の前の敵へ向き直った。
旗の下へ集まり直した部隊がある。
後ろには、退いてきた兵が重なっていた。
次の射撃が始まった。
銃声とともに、その部隊の先頭が崩れる。
後ろから押された兵がつまずき、隣の男の盾を掴んだ。
隊長が剣を振って命じている。
それでも、列は戻らなかった。
敵の旗が、今度ははっきりと南へ動いた。
ギルベルトが声を上げる。
「敵が退きます!」
アレクは、旗だけでなく、その周りを見た。
隊を組み直すための後退ではない。
槍を持ったまま背を向ける兵がいる。
その脇を、盾を捨てた者が走り抜けた。
「前へ出すぎないように。味方の位置を確かめてください」
アレクが命じた。
ギルベルトが頷き、伝令を走らせる。
鉄砲隊の左右では、歩兵も前進を続けていた。
◇ ◇ ◇
「退け! 南岸へ戻る!」
カルディア軍の本隊の将が命じた。
これ以上、北岸に留まることはできない。
歩兵は隊を保てず、側面へ出した騎兵も戻り始めていた。
「橋だけへ集まるな! 上流から来た隊は、同じ道で戻せ!」
伝令が走る。
太鼓と角笛が、退却を告げた。
だが、命令が届く前に走り出した兵もいた。
城へ向かってきた街道を、今度は逆に駆けていく。
橋の北詰で、兵の流れが詰まった。
後続へ渡河を止める命令は出していた。
それでも、すでに橋へ入っていた兵が残っている。
南へ戻ろうとする兵と、北へ進んできた兵が、橋の上で向かい合った。
「戻れ!」
「後ろが詰まっている!」
怒鳴り声が重なる。
前へ出られない兵が橋の脇へ押され、欄干へ手をついた。
北岸では、負傷兵を運んでいた者たちが足を止める。
その横を、騎兵が抜けようとしていた。
「馬を橋へ入れるな! 歩兵を先に通せ!」
橋を守っていた指揮官が叫んだ。
だが、押し寄せる兵を止めきれなかった。
上流の道にも、退く兵が続いていた。
浅瀬を渡ってきた時は、対岸の味方が見えていた。
今は、背後から敵が迫っている。
同じ川でも、兵たちの目には違って見えていた。
◇ ◇ ◇
マティアスは、橋へ向かう敵の流れを見ていた。
その手前に、まだまとまりを保つ敵の部隊がある。
盾を並べ、逃げる味方を守ろうとしていた。
アレクから届いた伝令が、鉄砲隊の位置を告げる。
マティアスは頷いた。
「アレクへ伝えろ。敵を追って橋へ殺到するな。北岸に残った敵を退かせ、降伏する者を受け入れる」
「承知しました」
伝令が去ると、マティアスは歩兵の隊長を呼んだ。
「武器を捨てた者は捕らえろ。抵抗を続ける隊は討て。ただし、こちらの列を崩すな」
隊長が走り出す。
前へ進んだ歩兵が、敵の一隊へ降伏を呼びかけた。
「武器を置け! 従えば命は取らぬ!」
敵の兵たちは、後ろを見た。
橋には人が詰まっている。
自分たちを残し、本隊の旗は南へ遠ざかり始めていた。
槍が一本、地面へ落ちた。
その隣の兵も盾を下ろす。
隊長らしい男が何かを叫んだが、兵はもう前へ出なかった。
やがて、その男も剣を地面へ置いた。
グランヴァルト兵が進み、武器から離れるように命じる。
別の場所では、まだ抵抗が続いていた。
盾を構えた敵兵が槍を突き出し、味方の歩兵が受け止める。
倒れる者がいた。
後ろの兵が前へ出て、仲間を引き戻す。
マティアスは、その戦いを見ながら命令を送った。
勝ったからこそ、兵をばらばらに走らせるわけにはいかなかった。
◇ ◇ ◇
アーノルドが橋の北詰へ戻った時、カルディア軍の主力は南岸へ退いていた。
橋の上に残った敵兵も、盾を向けながら後ろへ下がっていく。
アーノルドは、その先を追わせなかった。
「北岸を固めろ。川を渡るな」
兵たちが橋の手前へ並ぶ。
朝まで守っていた柵は、一部が取り払われていた。
倒れた木材のそばには、敵の盾や槍が散らばっている。
アーノルドは馬を止めた。
そばへ来た隊長の頬には、血が流れていた。
「橋を、取り返しました」
「ああ」
アーノルドは答えた。
「上流の兵へも知らせろ。深追いはさせるな」
「承知しました」
隊長が去った後、アーノルドは南を見た。
カルディアの旗が遠ざかっている。
川の南に残っていた兵も、退いてきた部隊を収容しながら、街道を下り始めていた。
城へ向かうために渡ってきた軍が、今は城から離れようとしている。
背後から、別の蹄の音が近づいた。
マティアスだった。
その少し後ろに、アレクの姿もある。
「北岸は押さえたか」
「はい。橋と上流の道を、兵に守らせています」
アーノルドが答える。
マティアスは南岸を見渡した。
「斥候を出せ。退いたふりをして近くへ残っている可能性もある」
「すでに向かわせております」
「よし」
アレクは、橋の手前に落ちた盾を見た。
中央に穴が開いている。
そのそばでは、負傷したカルディア兵が座り込んでいた。
味方の兵が水を差し出し、別の者が傷を確かめている。
アレクはギルベルトを呼んだ。
「鉄砲隊の確認が済んだら、手の空いた者を負傷者の収容へ回してください」
「敵兵も、でございますね」
「はい。武器を持っていないことを確かめてから、手当てを受けさせてください」
ギルベルトが一礼した。
アレクは城を振り返った。
遠くの丘の上に、グランヴァルトの旗が見えた。
あの城を守るために来た。
その役目は、果たせたのだ。
◇ ◇ ◇
翌朝まで、報告は続いた。
カルディア軍は南へ退き、国境近くの陣も引き払っていた。
北岸に残された負傷兵や、武器を捨てた兵が集められる。
橋と浅瀬の周辺でも、倒れた者の確認が進められた。
城の一室で、マティアスは書記の報告を聞いていた。
「捕虜は、負傷者を含めて千二百六十三人です」
書記が紙へ目を落とす。
「敵の死者は、確認できた者が四百八十七人。川沿いでは、まだ収容を続けております」
アレクは黙って聞いていた。
捕虜と死者だけで、千七百人を超えている。
カルディア軍は、それだけの兵を北岸に残していった。
ほかにも、負傷して退いた者がいる。
捕虜の証言と斥候の報告を合わせれば、今回の戦いで敵が失った戦力は、二千人前後に及ぶと見られていた。
「こちらは」
マティアスが尋ねた。
書記の声が、少し低くなった。
「昨日の反撃で、死者四十二人。負傷して戦えぬ者が百八人です」
主な損害は、左翼の騎兵戦と、北岸に残った敵部隊との戦いで出ていた。
合流前にアーノルドの部隊が出した死者十七人、戦闘不能の負傷者三十九人は、この数に含まれていない。
マティアスは頷いた。
「各家へ送る名簿を整えろ。負傷者を急いで持ち場へ戻すな」
「はい」
書記が退出する。
部屋に残ったアレクは、自分の隊の報告を卓へ置いた。
鉄砲隊は、大きく数を減らすことなく戦列を保っていた。
だが、その左右では、味方の歩兵と騎兵が敵を受け止めていた。
アレクはアーノルドへ向き直った。
「左を守っていただき、ありがとうございました」
アーノルドは首を振った。
「正面の敵が退いたから、こちらも持ちこたえられました」
それから、アレクの置いた書付を見る。
「三千挺とは、あれほどのものなのですな」
「隊長たちと兵が、よく動いてくれました」
「ああ。撃ち始めてからも、前へ出てからも、列が崩れなかった」
アーノルドは、昨日の戦場を思い出すように言った。
「敵に回したくはありません」
マティアスが口元を緩めた。
「今は、同じ側だ」
「ええ」
アーノルドも、わずかに笑った。
その時、扉の外で声がした。
王都からの使者が到着したという。
マティアスは笑みを収めた。
「通せ」
◇ ◇ ◇
使者の外套には、道の埃がついていた。
部屋へ入ると、マティアスの前で礼をする。
「陛下より、書状をお預かりしております」
差し出された書状には、王家の封があった。
マティアスが受け取る。
「出立したのは、いつだ」
使者が日を答えた。
カルディア軍が国境を越えたとの報告が、王都へ届いた後だった。
昨日の勝利を知って送られた使者ではない。
レオンハルトは、侵入の知らせを受けた時点で、次の命令を出していた。
マティアスが封を開く。
文面を読み進めるうちに、その目が細くなった。
アレクは、主君の言葉を待った。
やがて、マティアスは書状を卓へ置いた。
「陛下は、押し返すだけで終わらせるおつもりではない」
アーノルドが顔を上げた。
マティアスは、二人へ王命を読み聞かせた。
「取り決めを破った報いを受けさせろ。奴らがロスヴァールとの戦で得た城を奪い、再びこちらへ兵を向ける足場を潰せ。押し返すだけで終わると思わせるな」
部屋が静まった。
アレクには、レオンハルトが目の前で言っているように聞こえた。
終戦の取り決めを受け入れながら、兵を進めて城を奪おうとした。
失敗したから元の場所へ戻る。
それで済ませるつもりはないのだ。
マティアスは地図を広げた。
指が、今いる国境の城から南へ動く。
川を越えた街道の先に、一つの城が記されていた。
「まず、ここだ」
アーノルドは、その城を見た。
「かつて、我々が守っていた城です」
ロスヴァールとカルディアが、長く奪い合ってきた土地だった。
先の戦でカルディアが確保し、終戦の取り決めによって、その領有が認められた。
今度は、その境界を変える王命が届いた。
「城と周囲の街道を押さえれば、国境まで兵を運ぶ拠点を一つ奪えます」
アーノルドが言った。
「道は」
「分かります。城へ通じる街道も、周辺の村も」
マティアスは頷いた。
「案内を頼む。奪った土地は、グランヴァルトの領地として治める」
「承知しました」
アーノルドは、もう一度地図へ目を落とした。
かつて守ろうとして、手放した城だった。
今は別の王の命を受け、そこへ向かうことになる。
◇ ◇ ◇
アレクは、地図に記された城を見ていた。
野戦で敗れた兵の一部も、そこへ逃げ込むだろう。
城壁と門がある。
昨日のように、広い土地へ兵を並べて戦えるとは限らなかった。
「大砲は、どこまで来ていますか」
アレクが尋ねた。
マティアスは別の書付を取った。
「途中で立ち寄った城を出たと知らせが来ている。こちらへの道は確保されているから、そのまま進ませる」
「三門とも、ですか」
「ああ。護衛の二百人もついている」
王家から貸与された三門だった。
指導役とともに進んでいる砲兵たちは、まだ新しい隊だ。
アレクは、城へ届けられた時の大砲を思い出した。
あの砲身へ触れれば、自分には弾道が見える。
門へ届くか。
どこへ当たるか。
実際の城を前にして、確かめなければならない。
「着いたら、砲兵たちの様子を確認します」
「頼む」
マティアスは書付を戻した。
「兵糧と負傷者の収容を整えてから進む。城と橋の守りも残す。勝った勢いで、後ろを空けるつもりはない」
「はい」
アレクは頷いた。
窓の外から、荷車の音が聞こえた。
城内へ運び込まれる物があり、南へ送るために積み直される物もある。
兵たちは、まだ昨日の戦いの後始末を続けていた。
その先に、新たな役目が待っている。
「次は、城ですね」
アレクが言った。
マティアスは頷いた。
「そうだ。三門が着けば、お前の働きが要る」
アレクは、地図に記された城を見た。
守っていた国境の、その先だった。
第二十話を読んでいただき、ありがとうございました。
鉄砲隊だけでなく、その左右を支える兵たちや、全軍を率いる将たちの働きも感じていただけたなら嬉しいです。
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