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『知らない世界で、前世の知識が武器になる』 ~剣と銃で乱世を生き抜く転生領主の成り上がり~  作者: 相田 ソウ
第八篇 乱世に結ぶ絆

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第十五話 二つの国が結ぶ約束

祝砲の余韻が残る城で、祝宴が始まります。

 祝宴の広間には、肉の焼ける香ばしい匂いと、温かなパンの香りが満ちていた。

 庭から戻った参列者たちが席へ着き、給仕が杯を満たしていく。先ほどの祝砲について語る声は、扉をくぐってからも途切れなかった。

 アレクはエリーゼの手を取り、並んで席へ向かった。

 椅子を引いて彼女を迎えると、近くにいた給仕が一礼して下がる。エリーゼが腰を下ろしたことを確かめてから、アレクも隣へ座った。

「ありがとうございます」

「いえ」

 返事をしたところで、卓の向こうから視線を感じた。

 カスパルだった。

 目が合うと、彼は杯を少し持ち上げた。隣のヴィクトルも笑っている。

 何か言われる前に、アレクは自分の杯へ手を伸ばした。

 その様子を見たエリーゼが、小さく首を傾げる。

「どうかなさいましたか」

「何でもありません」

 答えると、向こうでカスパルが肩を揺らした。

 広間の前方で、レオンハルトが杯を持って立ち上がった。

 人々が会話を止め、そちらへ顔を向ける。

「よい式であった。二人とも、改めて祝いを言おう」

 アレクとエリーゼは揃って頭を下げた。

 レオンハルトは、広間に並ぶ者たちを見渡した。

「今日は両国から、これほどの者が集まった。遠路を来た者も多い。今は道中の疲れを忘れ、二人の門出を祝ってやってくれ」

 国王が杯を掲げる。

「アレクとエリーゼの末永い幸せに」

 祝福の声が広間を満たした。

 杯を上げたアレクの隣で、エリーゼも微笑んでいる。

 皆が自分たちを見ている。

 式の時には、その視線に緊張していた。今は、こうして集まってくれたことが嬉しかった。

 杯を置くと、給仕が料理を運んできた。

 エリーゼの前へ皿が置かれる。彼女は礼を言い、湯気の上がる料理へ目を向けた。

「よい香りですね」

「城の料理人が、何度も献立を考えていました」

「それは、ぜひお礼を申し上げなければ」

「後ほど、お伝えします」

 アレクが答えると、エリーゼは少し考えてから言った。

「私からも、直接お伝えしてよいでしょうか」

「もちろんです。喜ぶと思います」

 厨房でその言葉を聞いた者たちの顔が、目に浮かぶようだった。

 アレクは料理へ手を伸ばした。

 朝から何かを食べたはずなのに、味を覚えていなかった。今になってようやく、空腹だったことに気づいた。

 ◇ ◇ ◇

 食事が進むにつれ、広間には賑やかさが戻った。

 同じ卓についた者同士が言葉を交わし、離れた席へ挨拶に立つ者もいる。両国の諸侯が互いの領地の話をする傍らで、婚礼の衣装や城を飾る花について語る声も聞こえた。

 アレクとエリーゼのもとへも、参列者たちが訪れた。

 アルヴェインの重臣が一人、二人の前で足を止める。

 入城の際、城内の警備を見ていた男だった。

「改めまして、ご結婚をお祝い申し上げます」

「ありがとうございます」

 アレクが答えると、重臣はエリーゼにも丁寧に礼をした。

 それから、少し間を置いて口を開いた。

「先ほどは、見事なものを拝見いたしました」

「兵たちにも、そうお伝えします」

「ぜひ。あれだけの兵が、迷わず命令に従う。揃えて動かすだけでも、容易ではありますまい」

 アレクは頷いた。

「隊長と教官たちが、繰り返し教えてくれました。私一人では、あの人数を見られません」

「伯爵ご自身が、全員へ教えているのではないのですな」

「はい。まず、兵に扱い方を教えられる者を増やしました。各隊の指揮官には、兵の様子を見て、報告するように頼んでいます」

 重臣は、アレクの言葉を聞きながらゆっくり頷いた。

「我が国でも、兵を増やすとなれば、その者たちが要りますな」

「銃を渡すだけでは、扱えるようにはなりませんので」

 答えてから、アレクは言葉を添えた。

「私も、マティアス様やギルベルトたちに助けられています」

 近くで話を聞いていたマティアスが、こちらへ目を向けた。

「今日は、その話ばかりにするな。エリーゼ様を待たせているぞ」

 アレクは隣を見た。

 エリーゼは困った顔をしていなかった。むしろ、どこか楽しそうに二人の話を聞いていた。

「私は、大丈夫です」

「そう仰ってくださるからといって、甘えてはいけません」

 マティアスが言う。

 重臣も気づいたように姿勢を正した。

「これは失礼いたしました。つい、お尋ねしたいことが増えてしまいまして」

「いいえ。アレク様のお仕事のお話ですから」

 エリーゼが微笑む。

 アレクは少し照れながら、彼女へ頭を下げた。

「続きは、また別の機会に」

「ええ。ぜひ、お願いいたします」

 重臣はそう答えてから、もう一度アレクへ礼をした。

 婚礼へ来た客としての挨拶だけではなかった。

 次に話す機会を求める相手として、アレクを見ていた。

 ◇ ◇ ◇

 アルベルトの席の近くでは、補給街道の話が出ていた。

 ベルン伯爵軍に道を押さえられ、前線への荷が届かなくなった時のことだった。

「あの時は、城内にある兵糧を数え直しました」

 アルヴェインの臣下が言った。

「次の荷が来るまで待てばよいとは、誰も申せませんでしたから」

「街道を取り戻したという知らせが来るまでは、荷を出す側も同じでございました」

 別の男が続ける。

 アレクは、その声に顔を向けた。

 自分たちが街道へ向かっていた頃、向こう側でも兵糧を数え、届く日を待っていた者たちがいる。

 アルベルトが杯を置いた。

「あの街道が閉ざされたままであれば、我が軍は兵糧を失っていた」

 周囲の会話が、少し静かになった。

「城を二つ取ろうが、兵を食わせられねば、その先へは進めぬ。退くにしても、道を塞がれたままでは容易ではなかった」

 大公はアレクへ目を向けた。

「それを取り戻したのが、アレクたちだ」

 名を呼ばれ、アレクは姿勢を正した。

「私だけの働きではございません」

「分かっておる」

 アルベルトは頷いた。

「共に向かった者たちの働きも、報告を受けている」

 カスパルたちも、こちらを見ていた。

 大公は四人へ目を向けてから、改めてアレクを見た。

「だが、お前自身の働きまで、控えめに申すことはない」

 アレクは口を閉じた。

 アルベルトの声は、強く叱るものではなかった。

 皆の前で、確かめるような声だった。

「エリーゼの夫となったから認めるのではない。その働きを認めた男に、エリーゼが嫁いだのだ」

 周囲の席にも、その言葉がはっきりと届いた。

 アレクは、すぐには答えられなかった。

 隣で、エリーゼがこちらを見ている。

 マティアスに相談した時も、レオンハルトへ願いを伝えた時も、自分が彼女の隣に立てるのかと考えていた。

 伯爵となったことだけで、すべてが変わるとは思えなかった。

 だが、今、アルベルトは皆の前で言ってくれた。

 エリーゼの夫だからではなく、アレク自身の働きを認めていると。

「……ありがとうございます」

 アレクは深く頭を下げた。

「これからも、そのお言葉に恥じぬよう努めます」

「そう堅くなるな。今日は、働きを命じるために呼んだのではない」

 アルベルトが言うと、周囲から小さな笑いが起こった。

 エリーゼも微笑んでいた。

 その目が少し潤んでいることに、アレクは気づいた。

 卓の下で、彼女の手がそっと触れた。

 アレクは、その手を握り返した。

 ◇ ◇ ◇

 しばらくして、給仕たちが卓の間を空けた。

 広間の前方へ、書状を載せた盆が運ばれてくる。

 祝いの料理を囲んでいた者たちが、静かに顔を上げた。

 マティアスが席を立った。

「両国の間で協議を進めていた取り決めについて、ここにお集まりの皆様へお知らせいたします」

 アレクは、運ばれてきた文書を見た。

 アルヴェインを訪れた時、マティアスはこのための話し合いにも出ていた。

 帰国後も書状が行き来していたことは知っている。

 今日、祝宴の場で初めて条件を考えるのではない。両国の担当者が詰めてきた内容を、君主たちが正式な約束として結ぶのだった。

 レオンハルトとアルベルトが前へ進んだ。

 二人のために用意された卓へ、同じ文面の文書が並べられる。

 書記官が、取り決めの要点を読み上げた。

 一方の領内が外敵に侵された場合には、定められた窓口へ速やかに知らせ、救援について協議する。

 兵を送ることが決まれば、受け入れる側が通行する街道と案内の者を用意し、兵糧を受け渡す場所を知らせる。

 両国を結ぶ街道と渡し場は、それぞれの領内を治める者が守り、商人や使者の往来を妨げる事態が起きた時には、相手へも伝える。

 条文のすべてを読み上げることはしなかった。

 だが、領地を持つ諸侯にとっては、自分たちにも関わる話だった。

 国境に近い領主たちは、特に真剣な顔で聞いていた。

 書記官の声が、次の項目へ移る。

 他国への侵攻に参加するかどうかは、その都度、両国の合意によって決める。

 同盟を理由に、許しなく相手の国境を越えて兵を進めることは認めない。

 アレクは、補給街道へ向かった時のことを思い出した。

 救援へ行くことと、その先の侵攻に加わることは同じではなかった。

 兵を連れているからこそ、どこまでを命じられているかを確かめなければならない。

 アルベルトが、文書へ目を落とした。

「助けを求めてから、道と兵糧のことで使者を往復させていては、間に合うものも間に合わなくなる」

 大公は、参列者たちへ顔を向けた。

「兵を出すかは、我々が決める。出すと決めた後、現地で立ち往生させぬための約束だ」

 レオンハルトが頷いた。

「友軍を迎える側にも、果たすべき役目がある。助けに来た兵を、食わせる当てもなく待たせることはせぬ」

 両国の者たちが、その言葉を聞いていた。

 祝いの場に置かれた文書だったが、記されているのは実際に兵や荷を動かすための取り決めだった。

 マティアスが一歩下がる。

 レオンハルトが筆を取り、署名した。

 続いて、アルベルトも名を記す。

 もう一通の文書にも、それぞれの署名が加えられた。

 印璽を押すための支度が整えられる間、広間には衣擦れの音だけが聞こえた。

 二人の君主が、順に印を押した。

 書記官が文書を確かめ、両国の担当者へ示す。

 その確認を受けてから、レオンハルトはアルベルトへ手を差し出した。

「これからも、頼りにしている」

 アルベルトは、その手を握った。

「この前は、こちらが助けられた。次にそちらが援けを求める時は、我々が応える番だ」

「その時は、遠慮なく知らせよう」

 レオンハルトが答えた。

 握られた手を見て、両国の者たちが拍手を送った。

 アレクも、エリーゼと並んで手を打った。

 自分たちの結婚を祝うために集まった人々の前で、国同士の約束も結ばれた。

 だが、両国の関係を支える責任が、自分とエリーゼだけに託されたわけではない。

 君主が決め、諸侯や役人が役目を果たす。

 自分もその一人として働けばよいのだと、アレクは思った。

 署名を終えたアルベルトが、こちらを見た。

 エリーゼが嬉しそうに頷く。

 大公は小さく頷き返し、席へ戻った。

 取り決めの写しは、両国の諸侯へ届けられる。

 婚礼の知らせとともに、両国が結んだ約束も、それぞれの領地へ伝わることになった。

 ◇ ◇ ◇

 公の儀礼が終わると、祝宴には再び料理と酒が運ばれた。

 先ほどまで文書へ目を向けていた者たちも、今は杯を取り、隣の者と言葉を交わしている。

 アレクの席へ戻ってきたカスパルが、少し声を落とした。

「これで、ようやく食べられるな」

「先ほども、食べていましたよ」

「皿の上を見てから言え」

 アレクは自分の前を見た。

 話しかけられるたびに手を止めていたため、料理は思ったほど減っていなかった。

 隣のエリーゼが笑った。

「少しずつ、お取り分けしましょうか」

「そこまでしていただかなくても大丈夫です」

「では、冷めないうちに」

 言われて、アレクは料理へ手を伸ばした。

 カスパルが満足そうに頷く。

 ロベルトは、給仕の動きを見ながら言った。

「これだけの客を迎えて、よく回しているな」

「オスカーとマルタたちのおかげです」

「後で、きちんと休ませてやれよ」

「はい」

 ヴィクトルがエリーゼへ向き直った。

「アレクは、何かを考え始めると、食事のことを忘れる時があります」

「そうなのですか」

「忘れるほどではありません」

 アレクが言うと、エイドリアンが静かに口を挟んだ。

「呼ばれても、返事だけして来ないことはある」

 エリーゼがアレクを見た。

 アレクは否定しかけて、思い当たることがあったので口を閉じた。

「これからは、気をつけます」

「では、私がお呼びした時は、来てくださいね」

「はい」

 すぐに返事をすると、四人が笑った。

 アレクも、今度は一緒に笑えた。

 広間のあちこちで、同じように笑い声が起こっている。

 城へ来たばかりの頃には、この場所でこれほどの人々に囲まれる日を想像していなかった。

 まして、隣にエリーゼがいるとは思わなかった。

 彼女が杯へ手を伸ばす。

 袖が軽く触れた。

 それだけのことを、アレクは何度も嬉しく感じていた。

 ◇ ◇ ◇

 窓の外が暗くなる頃、祝宴は少しずつ終わりへ近づいた。

 城内に用意された客室へ案内される者もいれば、城下の宿へ戻る者もいる。

 アレクとエリーゼは、席を立つ客へ挨拶を返した。

 アルベルトが二人の前へ来ると、エリーゼは姿勢を正した。

「叔父様、本日はありがとうございました」

「何度も礼を言わずともよい」

 そう答えながら、大公の顔は穏やかだった。

「疲れたであろう」

「少しだけ。でも、とても嬉しい一日でした」

「それならば、よい」

 アルベルトはアレクへ目を向けた。

「お前も、今夜くらいは仕事を忘れよ」

「はい」

 アレクが答えると、少し離れた場所からマティアスの声がした。

「明日まで待てる書状は、持ち込ませないようにしてあります」

 アレクはそちらを見た。

 マティアスの隣で、オスカーが一礼する。

 いつの間に話がついていたのか、分からなかった。

「ありがとうございます」

「礼はよい。客のことも、残りは任せろ」

 マティアスはそう言ってから、エリーゼへ丁寧に礼をした。

「どうぞ、ごゆっくりお休みください」

「ありがとうございます」

 エリーゼも礼を返した。

 レオンハルトが近づいてきた。

「アレク」

「はい」

「よい城になったな」

 アレクは一度、広間を見た。

 給仕が卓を片づけ、オスカーが残る客の案内を確かめている。マルタは侍女たちへ声をかけ、そのうちの一人がこちらへ向かってきていた。

 石の壁も、窓の位置も、初めて来た時と同じだった。

 だが、その中にいる人々の顔を、今は知っている。

 自分の隣には、エリーゼがいる。

「はい」

 アレクは答えた。

「皆が、そうしてくれました」

 レオンハルトは満足そうに頷いた。

「ならば、大切にしろ」

「はい」

 国王はそれ以上何も命じず、二人を見送った。

 ◇ ◇ ◇

 廊下へ出ると、広間の賑わいが遠くなった。

 壁に灯された明かりが、床を照らしている。

 エリーゼはマルタたちと先に部屋へ向かい、アレクも身支度を整えるため、自分の部屋へ戻った。

 上着を脱いだところで、ようやく肩が軽くなった。

 オスカーが受け取り、皺にならないよう整える。

「お疲れさまでございました」

「オスカーも、お疲れさまでした」

「皆、よい一日になったと申しております」

 アレクは頷いた。

 鏡の前へ立つと、朝よりも少し疲れた顔が映った。

 それなのに、目は冴えていた。

 この後、エリーゼの待つ部屋へ行く。

 そう考えた途端、整えてもらった袖口へ、また手が伸びかけた。

 途中で止める。

 オスカーは気づいていたはずだが、何も言わなかった。

「エリーゼ様のご用意が整いましたら、お知らせいたします」

「はい」

 アレクは答え、椅子へ座った。

 何もせず待つ時間は、久しぶりだった。

 卓の上に書状はない。

 兵の報告も、領地の確認も、今は求められていなかった。

 膝へ置いた手を見ていると、昼間、エリーゼと重ねた感触が思い出された。

 誓いの言葉を口にした時、彼女もこちらをまっすぐ見ていた。

 その目を思い出し、アレクは小さく息を吐いた。

 ほどなく、扉の外で声がした。

 オスカーが応じ、戻ってくる。

「ご案内いたします」

 アレクは立ち上がった。

 今度は襟へ手を伸ばさなかった。

 ◇ ◇ ◇

 部屋の扉が開かれると、柔らかな灯りが見えた。

 昼間とは違い、窓には厚い布が下ろされている。卓には水差しと杯が置かれ、そのそばにエリーゼが座っていた。

 婚礼の衣装から、淡い色のゆったりとした衣へ着替えている。

 髪もほどかれていた。

 いつもより長く見える髪が肩へかかり、顔を上げた拍子に静かに揺れた。

 アレクは入口で足を止めた。

「アレク様」

 呼ばれて、ようやく部屋へ入る。

「お待たせしました」

「いいえ」

 エリーゼは立ち上がりかけた。

 アレクが慌てて手を差し出す。

「そのままで。お疲れでしょう」

 彼女は少し笑い、もう一度腰を下ろした。

 マルタが二人へ礼をした。

「何かございましたら、お呼びくださいませ」

「ありがとうございます」

 アレクが答え、エリーゼも礼を言った。

 侍女たちが部屋を出ていく。

 最後に扉が閉まると、廊下の音も遠くなった。

 二人きりになった。

 アレクは、扉から卓までのわずかな距離を歩いた。

 椅子はエリーゼの隣にあった。

 そこへ座ればよいことは分かっていたが、すぐには腰を下ろせなかった。

 エリーゼがこちらを見上げる。

「こちらへいらしてください」

「はい」

「そんなに離れていては、お話ししにくいです」

 少し笑いを含んだ声だった。

 アレクも口元を緩め、彼女の隣へ座った。

 袖が触れる。

 祝宴の席でも触れていたはずなのに、今は、その小さな感触が気になった。

「……静かですね」

 アレクが言った。

「はい」

 エリーゼも部屋を見渡した。

「先ほどまで、あんなに大勢の方がいらしたのに」

「城の者たちも、ようやく落ち着けると思います」

「皆様に、お世話になりました」

「明日、お礼を伝えましょう」

 そこまで話して、二人とも黙った。

 言いたいことは、もっとあったはずだった。

 手紙では、何枚も書けた。

 目の前にいる彼女へ何から伝えようかと考えるうちに、アレクは自分の手を見ていた。

 その手へ、エリーゼの指がそっと触れた。

 顔を上げる。

 彼女も、少し恥ずかしそうだった。

「叔父様のお言葉、嬉しかったです」

 エリーゼが言った。

「私もです」

「アレク様のお働きを、あのように皆様の前でお話しくださって」

 アレクは頷いた。

「認めていただけたのだと、改めて思いました」

「叔父様は、以前から認めておいででした」

「はい。でも、今日は……」

 うまく言葉にできず、アレクは口を閉じた。

 エリーゼは急かさなかった。

 触れた指を、そのままにして待ってくれている。

「あなたの隣に立っていてよいのだと、そう言っていただけた気がしました」

 ようやく言うと、エリーゼがこちらへ向き直った。

「私は、アレク様に隣にいていただきたくて、お返事をしたのです」

 静かな声だった。

 アレクは彼女を見た。

「はい」

「叔父様が認めてくださったことも、皆様が祝ってくださったことも、とても嬉しいです。でも、それより先に、私がそう望みました」

 エリーゼの頬が赤くなった。

 それでも、目を逸らさずに続けた。

「ですから、あまり心配なさらないでください」

 アレクは、触れていた手を握った。

 彼女の指が、そっと握り返してくる。

「ありがとうございます」

 それだけでは足りないと思った。

 アレクは少し息を整えた。

「あなたと夫婦になれて、嬉しいです」

 エリーゼの目元が和らいだ。

「私もです」

 二人は、しばらく手を握ったままでいた。

 ◇ ◇ ◇

 卓の上には、小さな箱が置かれていた。

 蓋は開いていて、中に林檎の花の髪飾りがある。

 アレクはそれへ目を向けた。

「今日も、着けてくださったのですね」

 エリーゼは髪飾りを見てから、こちらへ顔を戻した。

「大切な日ですから」

「ほかにも、もっと立派なものがあったでしょう」

「私は、これがよかったのです」

 返事に迷いがなかった。

 アレクは箱の中の花を見た。

 贈った時には、婚礼の日にも着けてもらえるとは考えていなかった。

 エリーゼは、アレクの視線を追った。

「お似合いだと仰ってくださって、嬉しかったです」

「あれは、本当にそう思いましたので」

「はい」

「今日は、ずっとお綺麗だと思っていました」

 言ってから、アレクは急に恥ずかしくなった。

 エリーゼも、少し目を伏せた。

 だが、すぐに顔を上げる。

「……今日は、だけですか」

「いえ、そういう意味ではなくて」

 アレクは慌てた。

「以前から、そう思っていました。今日は、その……」

 言葉が続かない。

 エリーゼの口元に笑みが浮かんだ。

 アレクは、それを見てようやく気づいた。

「困らせましたね」

「少しだけ」

 彼女は答えた後、照れたように俯いた。

「でも、続きは聞きたいです」

 アレクは、握っていた手へ目を落とした。

 逃げるように別の話をすることはできた。

 だが、今日はそうしたくなかった。

「綺麗で、嬉しくて、何を言えばよいか分からなくなりました」

 エリーゼが顔を上げる。

「広間へ入ってこられた時から、あなたばかり見ていました」

 言い終えると、今度は彼女が言葉に詰まった。

 アレクは、小さく笑った。

「お返事がありませんね」

「……今、考えております」

「では、待ちます」

 エリーゼがこちらを見る。

 二人は目を合わせ、同時に笑った。

 笑いが収まっても、距離は戻らなかった。

 エリーゼの肩が、先ほどより近くにある。

 アレクは、彼女の顔へかかった髪に気づいた。

 手を上げかけ、途中で止める。

 エリーゼはその手を見てから、静かにこちらを向いた。

 アレクは指先で髪をそっと払った。

 彼女は目を伏せたが、離れなかった。

 短い沈黙の後、アレクが名を呼んだ。

「エリーゼ様」

「はい」

 返事は、すぐ近くで聞こえた。

 アレクは少しだけ顔を寄せた。

 そこでためらうと、エリーゼの手が、握った指へわずかに力を込めた。

 彼女も、こちらへ顔を近づけた。

 唇が、そっと触れた。

 ほんの短い口づけだった。

 離れた後、二人とも何も言わなかった。

 アレクは、どのような顔をすればよいのか分からなくなった。

 エリーゼも赤くなっている。

 それでも、握った手は離さなかった。

「……また、緊張してしまいました」

 アレクが言うと、エリーゼが小さく笑った。

「私もです」

 その返事で、少しだけ気が楽になった。

 自分だけが戸惑っているのではない。

 彼女も、同じ気持ちで隣にいる。

 アレクは腕を伸ばした。

 エリーゼがそっと身を寄せる。

 抱き寄せると、彼女の手が背へ回った。

 アレクは、腕へ力を込めすぎないようにしながら、その温かさを確かめた。

 遠くにいて、手紙を待つしかなかった人だった。

 会いに行く日を約束できず、返事の言葉を選んだこともある。

 今は、手を伸ばせば触れられる場所にいる。

「ようやく、二人でいられますね」

 アレクが言った。

 腕の中で、エリーゼが頷いた。

「はい」

 彼女は少し顔を上げた。

「今日は、まだお話ししていてもよいですか」

「もちろんです」

「明日の朝、急いでお帰りになることもありませんね」

 アレクは彼女を見つめた。

 以前なら、帰る日を数えながら会っていた。

 滞在を終えれば、また国境を越えなければならなかった。

「ありません」

 アレクは答えた。

「ここにいます」

 エリーゼは目元を和らげた。

 そのまま、もう一度、肩へ額を寄せた。

 アレクは彼女の背に腕を回し、しばらく黙って抱き締めていた。

 話したいことは、明日にも話せる。

 そのことが、何より嬉しかった。

 ◇ ◇ ◇

 灯りが静かに揺れていた。

 水を飲み、少し話しているうちに、エリーゼの肩からも力が抜けてきた。

 アレクも、朝から続いていた緊張がようやくほどけていくのを感じた。

 彼女が笑うたびに、つられて笑った。

 城へ来る途中に見た景色のこと。

 持ってきた本のこと。

 マルタが丁寧に部屋を案内してくれたこと。

 どれも、今日の彼女が覚えていて、伝えたいと思った話だった。

 アレクはそれを聞いていた。

 やがて、エリーゼが小さく息をついた。

 疲れた顔を隠そうとしていることに、今度は気づけた。

「そろそろ、休みましょうか」

 アレクが尋ねた。

 エリーゼは、少し間を置いて頷いた。

「はい」

 その返事を聞くと、アレクまで急に照れてしまった。

 椅子から立ち上がり、彼女へ手を差し出す。

 エリーゼは、その手を取った。

 寝台までは、わずかな距離だった。

 二人で歩き、並んで腰を下ろす。

 部屋に入った時よりも、互いの距離は近かった。

 アレクは、彼女の手を握ったまま言った。

「今日は、何度もお礼を言いましたが」

 エリーゼが顔を向ける。

「ここへ来てくださって、ありがとうございます」

 彼女はゆっくりと首を振った。

「私が、来たかったのです」

 そう答えて、アレクの肩へそっと身を寄せた。

 アレクは彼女を見た。

 エリーゼも顔を上げる。

 今度は、二人とも目を逸らさなかった。

 アレクがそっと口づけると、彼女は握っていた手を離し、その袖へ指を添えた。

 離れた後も、すぐには顔を背けなかった。

「これからも、よろしくお願いいたします」

 エリーゼが囁いた。

「こちらこそ」

 アレクは微笑み、彼女の手を取り直した。

 昼間、皆の前で重ねた手だった。

 今は、誰に見せるためでもなく握っていた。

 アレクは灯りを落とし、エリーゼとともに寝台へ身を横たえた。

 暗さに目が慣れる前に、彼女の手がそっと探るように触れた。

 アレクはその手を握り返し、空いた腕で彼女をそっと抱き寄せた。

 城の賑わいは、もうここまでは届かなかった。

 静かな部屋で、二人は初めての夜を迎えた。

第十五話を読んでいただき、ありがとうございました。

大勢に祝福された一日を終え、ようやく二人きりになったアレクとエリーゼ。その穏やかな時間を楽しんでいただけたら嬉しいです。


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