第十五話 二つの国が結ぶ約束
祝砲の余韻が残る城で、祝宴が始まります。
祝宴の広間には、肉の焼ける香ばしい匂いと、温かなパンの香りが満ちていた。
庭から戻った参列者たちが席へ着き、給仕が杯を満たしていく。先ほどの祝砲について語る声は、扉をくぐってからも途切れなかった。
アレクはエリーゼの手を取り、並んで席へ向かった。
椅子を引いて彼女を迎えると、近くにいた給仕が一礼して下がる。エリーゼが腰を下ろしたことを確かめてから、アレクも隣へ座った。
「ありがとうございます」
「いえ」
返事をしたところで、卓の向こうから視線を感じた。
カスパルだった。
目が合うと、彼は杯を少し持ち上げた。隣のヴィクトルも笑っている。
何か言われる前に、アレクは自分の杯へ手を伸ばした。
その様子を見たエリーゼが、小さく首を傾げる。
「どうかなさいましたか」
「何でもありません」
答えると、向こうでカスパルが肩を揺らした。
広間の前方で、レオンハルトが杯を持って立ち上がった。
人々が会話を止め、そちらへ顔を向ける。
「よい式であった。二人とも、改めて祝いを言おう」
アレクとエリーゼは揃って頭を下げた。
レオンハルトは、広間に並ぶ者たちを見渡した。
「今日は両国から、これほどの者が集まった。遠路を来た者も多い。今は道中の疲れを忘れ、二人の門出を祝ってやってくれ」
国王が杯を掲げる。
「アレクとエリーゼの末永い幸せに」
祝福の声が広間を満たした。
杯を上げたアレクの隣で、エリーゼも微笑んでいる。
皆が自分たちを見ている。
式の時には、その視線に緊張していた。今は、こうして集まってくれたことが嬉しかった。
杯を置くと、給仕が料理を運んできた。
エリーゼの前へ皿が置かれる。彼女は礼を言い、湯気の上がる料理へ目を向けた。
「よい香りですね」
「城の料理人が、何度も献立を考えていました」
「それは、ぜひお礼を申し上げなければ」
「後ほど、お伝えします」
アレクが答えると、エリーゼは少し考えてから言った。
「私からも、直接お伝えしてよいでしょうか」
「もちろんです。喜ぶと思います」
厨房でその言葉を聞いた者たちの顔が、目に浮かぶようだった。
アレクは料理へ手を伸ばした。
朝から何かを食べたはずなのに、味を覚えていなかった。今になってようやく、空腹だったことに気づいた。
◇ ◇ ◇
食事が進むにつれ、広間には賑やかさが戻った。
同じ卓についた者同士が言葉を交わし、離れた席へ挨拶に立つ者もいる。両国の諸侯が互いの領地の話をする傍らで、婚礼の衣装や城を飾る花について語る声も聞こえた。
アレクとエリーゼのもとへも、参列者たちが訪れた。
アルヴェインの重臣が一人、二人の前で足を止める。
入城の際、城内の警備を見ていた男だった。
「改めまして、ご結婚をお祝い申し上げます」
「ありがとうございます」
アレクが答えると、重臣はエリーゼにも丁寧に礼をした。
それから、少し間を置いて口を開いた。
「先ほどは、見事なものを拝見いたしました」
「兵たちにも、そうお伝えします」
「ぜひ。あれだけの兵が、迷わず命令に従う。揃えて動かすだけでも、容易ではありますまい」
アレクは頷いた。
「隊長と教官たちが、繰り返し教えてくれました。私一人では、あの人数を見られません」
「伯爵ご自身が、全員へ教えているのではないのですな」
「はい。まず、兵に扱い方を教えられる者を増やしました。各隊の指揮官には、兵の様子を見て、報告するように頼んでいます」
重臣は、アレクの言葉を聞きながらゆっくり頷いた。
「我が国でも、兵を増やすとなれば、その者たちが要りますな」
「銃を渡すだけでは、扱えるようにはなりませんので」
答えてから、アレクは言葉を添えた。
「私も、マティアス様やギルベルトたちに助けられています」
近くで話を聞いていたマティアスが、こちらへ目を向けた。
「今日は、その話ばかりにするな。エリーゼ様を待たせているぞ」
アレクは隣を見た。
エリーゼは困った顔をしていなかった。むしろ、どこか楽しそうに二人の話を聞いていた。
「私は、大丈夫です」
「そう仰ってくださるからといって、甘えてはいけません」
マティアスが言う。
重臣も気づいたように姿勢を正した。
「これは失礼いたしました。つい、お尋ねしたいことが増えてしまいまして」
「いいえ。アレク様のお仕事のお話ですから」
エリーゼが微笑む。
アレクは少し照れながら、彼女へ頭を下げた。
「続きは、また別の機会に」
「ええ。ぜひ、お願いいたします」
重臣はそう答えてから、もう一度アレクへ礼をした。
婚礼へ来た客としての挨拶だけではなかった。
次に話す機会を求める相手として、アレクを見ていた。
◇ ◇ ◇
アルベルトの席の近くでは、補給街道の話が出ていた。
ベルン伯爵軍に道を押さえられ、前線への荷が届かなくなった時のことだった。
「あの時は、城内にある兵糧を数え直しました」
アルヴェインの臣下が言った。
「次の荷が来るまで待てばよいとは、誰も申せませんでしたから」
「街道を取り戻したという知らせが来るまでは、荷を出す側も同じでございました」
別の男が続ける。
アレクは、その声に顔を向けた。
自分たちが街道へ向かっていた頃、向こう側でも兵糧を数え、届く日を待っていた者たちがいる。
アルベルトが杯を置いた。
「あの街道が閉ざされたままであれば、我が軍は兵糧を失っていた」
周囲の会話が、少し静かになった。
「城を二つ取ろうが、兵を食わせられねば、その先へは進めぬ。退くにしても、道を塞がれたままでは容易ではなかった」
大公はアレクへ目を向けた。
「それを取り戻したのが、アレクたちだ」
名を呼ばれ、アレクは姿勢を正した。
「私だけの働きではございません」
「分かっておる」
アルベルトは頷いた。
「共に向かった者たちの働きも、報告を受けている」
カスパルたちも、こちらを見ていた。
大公は四人へ目を向けてから、改めてアレクを見た。
「だが、お前自身の働きまで、控えめに申すことはない」
アレクは口を閉じた。
アルベルトの声は、強く叱るものではなかった。
皆の前で、確かめるような声だった。
「エリーゼの夫となったから認めるのではない。その働きを認めた男に、エリーゼが嫁いだのだ」
周囲の席にも、その言葉がはっきりと届いた。
アレクは、すぐには答えられなかった。
隣で、エリーゼがこちらを見ている。
マティアスに相談した時も、レオンハルトへ願いを伝えた時も、自分が彼女の隣に立てるのかと考えていた。
伯爵となったことだけで、すべてが変わるとは思えなかった。
だが、今、アルベルトは皆の前で言ってくれた。
エリーゼの夫だからではなく、アレク自身の働きを認めていると。
「……ありがとうございます」
アレクは深く頭を下げた。
「これからも、そのお言葉に恥じぬよう努めます」
「そう堅くなるな。今日は、働きを命じるために呼んだのではない」
アルベルトが言うと、周囲から小さな笑いが起こった。
エリーゼも微笑んでいた。
その目が少し潤んでいることに、アレクは気づいた。
卓の下で、彼女の手がそっと触れた。
アレクは、その手を握り返した。
◇ ◇ ◇
しばらくして、給仕たちが卓の間を空けた。
広間の前方へ、書状を載せた盆が運ばれてくる。
祝いの料理を囲んでいた者たちが、静かに顔を上げた。
マティアスが席を立った。
「両国の間で協議を進めていた取り決めについて、ここにお集まりの皆様へお知らせいたします」
アレクは、運ばれてきた文書を見た。
アルヴェインを訪れた時、マティアスはこのための話し合いにも出ていた。
帰国後も書状が行き来していたことは知っている。
今日、祝宴の場で初めて条件を考えるのではない。両国の担当者が詰めてきた内容を、君主たちが正式な約束として結ぶのだった。
レオンハルトとアルベルトが前へ進んだ。
二人のために用意された卓へ、同じ文面の文書が並べられる。
書記官が、取り決めの要点を読み上げた。
一方の領内が外敵に侵された場合には、定められた窓口へ速やかに知らせ、救援について協議する。
兵を送ることが決まれば、受け入れる側が通行する街道と案内の者を用意し、兵糧を受け渡す場所を知らせる。
両国を結ぶ街道と渡し場は、それぞれの領内を治める者が守り、商人や使者の往来を妨げる事態が起きた時には、相手へも伝える。
条文のすべてを読み上げることはしなかった。
だが、領地を持つ諸侯にとっては、自分たちにも関わる話だった。
国境に近い領主たちは、特に真剣な顔で聞いていた。
書記官の声が、次の項目へ移る。
他国への侵攻に参加するかどうかは、その都度、両国の合意によって決める。
同盟を理由に、許しなく相手の国境を越えて兵を進めることは認めない。
アレクは、補給街道へ向かった時のことを思い出した。
救援へ行くことと、その先の侵攻に加わることは同じではなかった。
兵を連れているからこそ、どこまでを命じられているかを確かめなければならない。
アルベルトが、文書へ目を落とした。
「助けを求めてから、道と兵糧のことで使者を往復させていては、間に合うものも間に合わなくなる」
大公は、参列者たちへ顔を向けた。
「兵を出すかは、我々が決める。出すと決めた後、現地で立ち往生させぬための約束だ」
レオンハルトが頷いた。
「友軍を迎える側にも、果たすべき役目がある。助けに来た兵を、食わせる当てもなく待たせることはせぬ」
両国の者たちが、その言葉を聞いていた。
祝いの場に置かれた文書だったが、記されているのは実際に兵や荷を動かすための取り決めだった。
マティアスが一歩下がる。
レオンハルトが筆を取り、署名した。
続いて、アルベルトも名を記す。
もう一通の文書にも、それぞれの署名が加えられた。
印璽を押すための支度が整えられる間、広間には衣擦れの音だけが聞こえた。
二人の君主が、順に印を押した。
書記官が文書を確かめ、両国の担当者へ示す。
その確認を受けてから、レオンハルトはアルベルトへ手を差し出した。
「これからも、頼りにしている」
アルベルトは、その手を握った。
「この前は、こちらが助けられた。次にそちらが援けを求める時は、我々が応える番だ」
「その時は、遠慮なく知らせよう」
レオンハルトが答えた。
握られた手を見て、両国の者たちが拍手を送った。
アレクも、エリーゼと並んで手を打った。
自分たちの結婚を祝うために集まった人々の前で、国同士の約束も結ばれた。
だが、両国の関係を支える責任が、自分とエリーゼだけに託されたわけではない。
君主が決め、諸侯や役人が役目を果たす。
自分もその一人として働けばよいのだと、アレクは思った。
署名を終えたアルベルトが、こちらを見た。
エリーゼが嬉しそうに頷く。
大公は小さく頷き返し、席へ戻った。
取り決めの写しは、両国の諸侯へ届けられる。
婚礼の知らせとともに、両国が結んだ約束も、それぞれの領地へ伝わることになった。
◇ ◇ ◇
公の儀礼が終わると、祝宴には再び料理と酒が運ばれた。
先ほどまで文書へ目を向けていた者たちも、今は杯を取り、隣の者と言葉を交わしている。
アレクの席へ戻ってきたカスパルが、少し声を落とした。
「これで、ようやく食べられるな」
「先ほども、食べていましたよ」
「皿の上を見てから言え」
アレクは自分の前を見た。
話しかけられるたびに手を止めていたため、料理は思ったほど減っていなかった。
隣のエリーゼが笑った。
「少しずつ、お取り分けしましょうか」
「そこまでしていただかなくても大丈夫です」
「では、冷めないうちに」
言われて、アレクは料理へ手を伸ばした。
カスパルが満足そうに頷く。
ロベルトは、給仕の動きを見ながら言った。
「これだけの客を迎えて、よく回しているな」
「オスカーとマルタたちのおかげです」
「後で、きちんと休ませてやれよ」
「はい」
ヴィクトルがエリーゼへ向き直った。
「アレクは、何かを考え始めると、食事のことを忘れる時があります」
「そうなのですか」
「忘れるほどではありません」
アレクが言うと、エイドリアンが静かに口を挟んだ。
「呼ばれても、返事だけして来ないことはある」
エリーゼがアレクを見た。
アレクは否定しかけて、思い当たることがあったので口を閉じた。
「これからは、気をつけます」
「では、私がお呼びした時は、来てくださいね」
「はい」
すぐに返事をすると、四人が笑った。
アレクも、今度は一緒に笑えた。
広間のあちこちで、同じように笑い声が起こっている。
城へ来たばかりの頃には、この場所でこれほどの人々に囲まれる日を想像していなかった。
まして、隣にエリーゼがいるとは思わなかった。
彼女が杯へ手を伸ばす。
袖が軽く触れた。
それだけのことを、アレクは何度も嬉しく感じていた。
◇ ◇ ◇
窓の外が暗くなる頃、祝宴は少しずつ終わりへ近づいた。
城内に用意された客室へ案内される者もいれば、城下の宿へ戻る者もいる。
アレクとエリーゼは、席を立つ客へ挨拶を返した。
アルベルトが二人の前へ来ると、エリーゼは姿勢を正した。
「叔父様、本日はありがとうございました」
「何度も礼を言わずともよい」
そう答えながら、大公の顔は穏やかだった。
「疲れたであろう」
「少しだけ。でも、とても嬉しい一日でした」
「それならば、よい」
アルベルトはアレクへ目を向けた。
「お前も、今夜くらいは仕事を忘れよ」
「はい」
アレクが答えると、少し離れた場所からマティアスの声がした。
「明日まで待てる書状は、持ち込ませないようにしてあります」
アレクはそちらを見た。
マティアスの隣で、オスカーが一礼する。
いつの間に話がついていたのか、分からなかった。
「ありがとうございます」
「礼はよい。客のことも、残りは任せろ」
マティアスはそう言ってから、エリーゼへ丁寧に礼をした。
「どうぞ、ごゆっくりお休みください」
「ありがとうございます」
エリーゼも礼を返した。
レオンハルトが近づいてきた。
「アレク」
「はい」
「よい城になったな」
アレクは一度、広間を見た。
給仕が卓を片づけ、オスカーが残る客の案内を確かめている。マルタは侍女たちへ声をかけ、そのうちの一人がこちらへ向かってきていた。
石の壁も、窓の位置も、初めて来た時と同じだった。
だが、その中にいる人々の顔を、今は知っている。
自分の隣には、エリーゼがいる。
「はい」
アレクは答えた。
「皆が、そうしてくれました」
レオンハルトは満足そうに頷いた。
「ならば、大切にしろ」
「はい」
国王はそれ以上何も命じず、二人を見送った。
◇ ◇ ◇
廊下へ出ると、広間の賑わいが遠くなった。
壁に灯された明かりが、床を照らしている。
エリーゼはマルタたちと先に部屋へ向かい、アレクも身支度を整えるため、自分の部屋へ戻った。
上着を脱いだところで、ようやく肩が軽くなった。
オスカーが受け取り、皺にならないよう整える。
「お疲れさまでございました」
「オスカーも、お疲れさまでした」
「皆、よい一日になったと申しております」
アレクは頷いた。
鏡の前へ立つと、朝よりも少し疲れた顔が映った。
それなのに、目は冴えていた。
この後、エリーゼの待つ部屋へ行く。
そう考えた途端、整えてもらった袖口へ、また手が伸びかけた。
途中で止める。
オスカーは気づいていたはずだが、何も言わなかった。
「エリーゼ様のご用意が整いましたら、お知らせいたします」
「はい」
アレクは答え、椅子へ座った。
何もせず待つ時間は、久しぶりだった。
卓の上に書状はない。
兵の報告も、領地の確認も、今は求められていなかった。
膝へ置いた手を見ていると、昼間、エリーゼと重ねた感触が思い出された。
誓いの言葉を口にした時、彼女もこちらをまっすぐ見ていた。
その目を思い出し、アレクは小さく息を吐いた。
ほどなく、扉の外で声がした。
オスカーが応じ、戻ってくる。
「ご案内いたします」
アレクは立ち上がった。
今度は襟へ手を伸ばさなかった。
◇ ◇ ◇
部屋の扉が開かれると、柔らかな灯りが見えた。
昼間とは違い、窓には厚い布が下ろされている。卓には水差しと杯が置かれ、そのそばにエリーゼが座っていた。
婚礼の衣装から、淡い色のゆったりとした衣へ着替えている。
髪もほどかれていた。
いつもより長く見える髪が肩へかかり、顔を上げた拍子に静かに揺れた。
アレクは入口で足を止めた。
「アレク様」
呼ばれて、ようやく部屋へ入る。
「お待たせしました」
「いいえ」
エリーゼは立ち上がりかけた。
アレクが慌てて手を差し出す。
「そのままで。お疲れでしょう」
彼女は少し笑い、もう一度腰を下ろした。
マルタが二人へ礼をした。
「何かございましたら、お呼びくださいませ」
「ありがとうございます」
アレクが答え、エリーゼも礼を言った。
侍女たちが部屋を出ていく。
最後に扉が閉まると、廊下の音も遠くなった。
二人きりになった。
アレクは、扉から卓までのわずかな距離を歩いた。
椅子はエリーゼの隣にあった。
そこへ座ればよいことは分かっていたが、すぐには腰を下ろせなかった。
エリーゼがこちらを見上げる。
「こちらへいらしてください」
「はい」
「そんなに離れていては、お話ししにくいです」
少し笑いを含んだ声だった。
アレクも口元を緩め、彼女の隣へ座った。
袖が触れる。
祝宴の席でも触れていたはずなのに、今は、その小さな感触が気になった。
「……静かですね」
アレクが言った。
「はい」
エリーゼも部屋を見渡した。
「先ほどまで、あんなに大勢の方がいらしたのに」
「城の者たちも、ようやく落ち着けると思います」
「皆様に、お世話になりました」
「明日、お礼を伝えましょう」
そこまで話して、二人とも黙った。
言いたいことは、もっとあったはずだった。
手紙では、何枚も書けた。
目の前にいる彼女へ何から伝えようかと考えるうちに、アレクは自分の手を見ていた。
その手へ、エリーゼの指がそっと触れた。
顔を上げる。
彼女も、少し恥ずかしそうだった。
「叔父様のお言葉、嬉しかったです」
エリーゼが言った。
「私もです」
「アレク様のお働きを、あのように皆様の前でお話しくださって」
アレクは頷いた。
「認めていただけたのだと、改めて思いました」
「叔父様は、以前から認めておいででした」
「はい。でも、今日は……」
うまく言葉にできず、アレクは口を閉じた。
エリーゼは急かさなかった。
触れた指を、そのままにして待ってくれている。
「あなたの隣に立っていてよいのだと、そう言っていただけた気がしました」
ようやく言うと、エリーゼがこちらへ向き直った。
「私は、アレク様に隣にいていただきたくて、お返事をしたのです」
静かな声だった。
アレクは彼女を見た。
「はい」
「叔父様が認めてくださったことも、皆様が祝ってくださったことも、とても嬉しいです。でも、それより先に、私がそう望みました」
エリーゼの頬が赤くなった。
それでも、目を逸らさずに続けた。
「ですから、あまり心配なさらないでください」
アレクは、触れていた手を握った。
彼女の指が、そっと握り返してくる。
「ありがとうございます」
それだけでは足りないと思った。
アレクは少し息を整えた。
「あなたと夫婦になれて、嬉しいです」
エリーゼの目元が和らいだ。
「私もです」
二人は、しばらく手を握ったままでいた。
◇ ◇ ◇
卓の上には、小さな箱が置かれていた。
蓋は開いていて、中に林檎の花の髪飾りがある。
アレクはそれへ目を向けた。
「今日も、着けてくださったのですね」
エリーゼは髪飾りを見てから、こちらへ顔を戻した。
「大切な日ですから」
「ほかにも、もっと立派なものがあったでしょう」
「私は、これがよかったのです」
返事に迷いがなかった。
アレクは箱の中の花を見た。
贈った時には、婚礼の日にも着けてもらえるとは考えていなかった。
エリーゼは、アレクの視線を追った。
「お似合いだと仰ってくださって、嬉しかったです」
「あれは、本当にそう思いましたので」
「はい」
「今日は、ずっとお綺麗だと思っていました」
言ってから、アレクは急に恥ずかしくなった。
エリーゼも、少し目を伏せた。
だが、すぐに顔を上げる。
「……今日は、だけですか」
「いえ、そういう意味ではなくて」
アレクは慌てた。
「以前から、そう思っていました。今日は、その……」
言葉が続かない。
エリーゼの口元に笑みが浮かんだ。
アレクは、それを見てようやく気づいた。
「困らせましたね」
「少しだけ」
彼女は答えた後、照れたように俯いた。
「でも、続きは聞きたいです」
アレクは、握っていた手へ目を落とした。
逃げるように別の話をすることはできた。
だが、今日はそうしたくなかった。
「綺麗で、嬉しくて、何を言えばよいか分からなくなりました」
エリーゼが顔を上げる。
「広間へ入ってこられた時から、あなたばかり見ていました」
言い終えると、今度は彼女が言葉に詰まった。
アレクは、小さく笑った。
「お返事がありませんね」
「……今、考えております」
「では、待ちます」
エリーゼがこちらを見る。
二人は目を合わせ、同時に笑った。
笑いが収まっても、距離は戻らなかった。
エリーゼの肩が、先ほどより近くにある。
アレクは、彼女の顔へかかった髪に気づいた。
手を上げかけ、途中で止める。
エリーゼはその手を見てから、静かにこちらを向いた。
アレクは指先で髪をそっと払った。
彼女は目を伏せたが、離れなかった。
短い沈黙の後、アレクが名を呼んだ。
「エリーゼ様」
「はい」
返事は、すぐ近くで聞こえた。
アレクは少しだけ顔を寄せた。
そこでためらうと、エリーゼの手が、握った指へわずかに力を込めた。
彼女も、こちらへ顔を近づけた。
唇が、そっと触れた。
ほんの短い口づけだった。
離れた後、二人とも何も言わなかった。
アレクは、どのような顔をすればよいのか分からなくなった。
エリーゼも赤くなっている。
それでも、握った手は離さなかった。
「……また、緊張してしまいました」
アレクが言うと、エリーゼが小さく笑った。
「私もです」
その返事で、少しだけ気が楽になった。
自分だけが戸惑っているのではない。
彼女も、同じ気持ちで隣にいる。
アレクは腕を伸ばした。
エリーゼがそっと身を寄せる。
抱き寄せると、彼女の手が背へ回った。
アレクは、腕へ力を込めすぎないようにしながら、その温かさを確かめた。
遠くにいて、手紙を待つしかなかった人だった。
会いに行く日を約束できず、返事の言葉を選んだこともある。
今は、手を伸ばせば触れられる場所にいる。
「ようやく、二人でいられますね」
アレクが言った。
腕の中で、エリーゼが頷いた。
「はい」
彼女は少し顔を上げた。
「今日は、まだお話ししていてもよいですか」
「もちろんです」
「明日の朝、急いでお帰りになることもありませんね」
アレクは彼女を見つめた。
以前なら、帰る日を数えながら会っていた。
滞在を終えれば、また国境を越えなければならなかった。
「ありません」
アレクは答えた。
「ここにいます」
エリーゼは目元を和らげた。
そのまま、もう一度、肩へ額を寄せた。
アレクは彼女の背に腕を回し、しばらく黙って抱き締めていた。
話したいことは、明日にも話せる。
そのことが、何より嬉しかった。
◇ ◇ ◇
灯りが静かに揺れていた。
水を飲み、少し話しているうちに、エリーゼの肩からも力が抜けてきた。
アレクも、朝から続いていた緊張がようやくほどけていくのを感じた。
彼女が笑うたびに、つられて笑った。
城へ来る途中に見た景色のこと。
持ってきた本のこと。
マルタが丁寧に部屋を案内してくれたこと。
どれも、今日の彼女が覚えていて、伝えたいと思った話だった。
アレクはそれを聞いていた。
やがて、エリーゼが小さく息をついた。
疲れた顔を隠そうとしていることに、今度は気づけた。
「そろそろ、休みましょうか」
アレクが尋ねた。
エリーゼは、少し間を置いて頷いた。
「はい」
その返事を聞くと、アレクまで急に照れてしまった。
椅子から立ち上がり、彼女へ手を差し出す。
エリーゼは、その手を取った。
寝台までは、わずかな距離だった。
二人で歩き、並んで腰を下ろす。
部屋に入った時よりも、互いの距離は近かった。
アレクは、彼女の手を握ったまま言った。
「今日は、何度もお礼を言いましたが」
エリーゼが顔を向ける。
「ここへ来てくださって、ありがとうございます」
彼女はゆっくりと首を振った。
「私が、来たかったのです」
そう答えて、アレクの肩へそっと身を寄せた。
アレクは彼女を見た。
エリーゼも顔を上げる。
今度は、二人とも目を逸らさなかった。
アレクがそっと口づけると、彼女は握っていた手を離し、その袖へ指を添えた。
離れた後も、すぐには顔を背けなかった。
「これからも、よろしくお願いいたします」
エリーゼが囁いた。
「こちらこそ」
アレクは微笑み、彼女の手を取り直した。
昼間、皆の前で重ねた手だった。
今は、誰に見せるためでもなく握っていた。
アレクは灯りを落とし、エリーゼとともに寝台へ身を横たえた。
暗さに目が慣れる前に、彼女の手がそっと探るように触れた。
アレクはその手を握り返し、空いた腕で彼女をそっと抱き寄せた。
城の賑わいは、もうここまでは届かなかった。
静かな部屋で、二人は初めての夜を迎えた。
第十五話を読んでいただき、ありがとうございました。
大勢に祝福された一日を終え、ようやく二人きりになったアレクとエリーゼ。その穏やかな時間を楽しんでいただけたら嬉しいです。
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