第十一話 戦を終える条件
三つ目の城を失ったベルン伯爵。
残された領地を前に、次の判断を迫られます。
ベルン伯爵の居城へ、東の城が降伏したという知らせが届いた。
使者の報告を聞き終えても、伯爵は椅子に腰を下ろしたまま動かなかった。卓には、数日前に出した命令書の控えがある。城を守り、アルヴェイン軍の進撃を食い止めよ。そう命じた相手が、自ら門を開けたという。
「城壁を破られたのか」
「いいえ」
「門は」
「攻められる前に、開けたとのことです」
伯爵は控えの紙を掴んだ。
城が落ちたのではない。城を渡したのだ。
指先で紙が歪んだ。使者は顔を伏せ、その前に立つコンラート・ヘルマンも口を開かなかった。
「兵も、食料も残っていたはずだ」
「そのように聞いております」
「ならば、なぜ守らん」
答えを求められた使者は、わずかに唇を動かした。
伯爵はそれを見た。
「何と言っていた」
「援軍が来る見込みがなく、これ以上は兵と民を危険にさらせないと……」
伯爵の手が止まった。
やがて、握っていた紙を卓へ投げた。
「コンラート。兵を集めろ」
騎士団長が顔を上げた。
「城を取り返す。今なら、向こうも引き継ぎを終えてはおるまい」
「すぐに向かわせられる兵は限られます」
「各地の守備兵を呼べばよい」
「呼べば、残る城の守りが薄くなります。アルヴェイン軍が動く先が、あの城だけとは限りません」
「では、このまま取られた城を眺めていろと言うのか」
声が広間へ響いた。
コンラートは目を伏せなかった。だが、すぐに言い返すこともしなかった。
「兵を集める前に、ご覧いただきたいものがございます」
「何だ」
「兵糧と装備の報告です」
伯爵は不快そうに眉を寄せた。
コンラートが戸口へ目を向けると、控えていた家臣が書付を抱えて進み出た。男は卓の端へ紙を置き、伯爵の顔をうかがった。
「申し上げても、よろしいでしょうか」
「言え」
「先日求めました穀物ですが、商人から返事が参りました。代金を先にお渡しするなら、荷を用意するとのことです」
「後で払うと伝えてある」
「その条件では、これ以上の荷は出せないと」
伯爵は家臣を睨んだ。
「今まで、この家に売ってきた者だぞ」
「はい。ですが、あちらも仕入れの代金が必要だと申しております」
「別の商人へ頼め」
「すでに尋ねました。同じ返事でございます」
伯爵は椅子の肘掛けを握った。
倉が空になったわけではなかった。城内の兵を養う食料はある。だが、各地から兵を呼び集め、野営を続けながら城を攻め返すとなれば、それだけでは足りない。
家臣が次の紙を開いた。
馬の補充。失われた盾と槍。傷んだ荷車の修理。
伯爵は途中で手を上げた。
「火槍はどうした」
家臣がコンラートへ目を向けた。
騎士団長が答えた。
「持ち帰ったものを調べさせております。ですが、失った数を埋められるだけの手配はできておりません」
「金さえ出せば、また集まる」
口にしてから、伯爵は卓の書付へ目を落とした。
そこに書かれた数字は変わらなかった。
四百挺を集めるために、どれほど金を使ったか。火槍だけではない。弾と火薬を買い、兵を集め、訓練の間も食わせてきた。
勝つための出費だった。
グランヴァルトが火槍で領土を広げるなら、自分たちも揃えればよい。商人は各地から注文が来ていると話し、伯爵は他国へ渡る前に買い集めた。
高かった。
それでも、その火槍がアルヴェイン軍を退け、失った城を取り戻すはずだった。
「……あれだけ揃えたのだぞ」
伯爵は低く言った。
広間の者は誰も答えなかった。
「兵にも、撃ち方を覚えさせた。ばらばらに撃たせるなと、何度も命じた」
「兵は命令に従いました」
コンラートが答えた。
伯爵は顔を上げた。
「ならば、なぜ負けた」
コンラートの顎に力が入った。
川へ下げた負傷者の姿が浮かんだ。撃つ場所まで進もうとして倒れた兵も、筒を捨てずに運んできた兵もいた。
騎士団長は、伯爵を見据えた。
「同じように並べても、同じ距離で撃てる武器ではありませんでした」
「商人は、火槍を揃えれば」
「商人は、あの戦場におりません」
伯爵が口を閉じた。
コンラートは続けた。
「集めた兵が皆、臆病だったのではありません。訓練を怠ったわけでもありません。ですが、こちらが近づく間に、向こうは何度も撃ってきました。今ある火槍をもう一度揃えても、それだけで勝てるとは申し上げられません」
言葉が途切れた後も、伯爵は騎士団長から目を離さなかった。
広間の外で、誰かの靴音が止まった。
「お前まで、戦えぬと言うのか」
「残る城を守るためにも、今、戦を終えるべきです」
コンラートの声は静かだった。
「まだ城はある。兵もいる」
「はい。ですから、条件を聞く余地がございます」
伯爵は肘掛けから手を離した。
使者も家臣も、俯いたまま待っていた。誰一人として、城を奪い返すための支度を始めようとはしない。
伯爵は、歪んだ命令書を見た。
守れと命じることはできた。
その命令と一緒に送る兵も、食料も、今は用意できていなかった。
「使者を出せ」
しばらくして、伯爵は言った。
「まず、向こうの軍を止める。話はそれからだ」
コンラートは深く頭を下げた。
◇ ◇ ◇
アルヴェイン軍が新たに確保した城では、東門から入った荷車が兵糧倉へ向かっていた。
門の上にはアルヴェインの旗が掲げられ、通りの見張りも入れ替わっている。降伏した兵は武器を収め、名と所属を確かめられた後、定められた場所で待機していた。
城下では、閉じていた店が少しずつ戸を開け始めていた。
その城の広間へ、ベルン伯爵の使者が通された。
アルベルトは卓の奥に座り、左右には軍を率いてきた将たちが並んでいた。使者は一礼し、伯爵の印を押した書状を差し出した。
「伯爵様は、これ以上の争いを望んでおられません。双方が兵を退き、停戦について協議することを願っております」
アルベルトは書状へ目を通した。
読み終えてからも、すぐには口を開かなかった。
使者が顔を上げる。
「大公殿下」
「どこまで退けと言うのだ」
「現在、兵を向けておられる場所から、それぞれ……」
「この城からもか」
使者の言葉が止まった。
アルベルトは書状を卓へ置いた。
「先に取った二つの城も返せと、そういう申し出か」
「領地につきましては、協議の中でお決めいただければと」
「その協議が終わる前に、こちらの兵を退かせたいのだな」
使者は返事をせず、伯爵の書状へ視線を落とした。
アルベルトの隣に立つ将が、小さく息を吐いた。
ここまで進むために、城を攻めた。街道を断たれ、兵糧の残りを数えた。救援の知らせを待ちながら、負傷者を抱えて持ちこたえた。
その末に開かれた城門だった。
アルベルトは使者へ言った。
「兵を退けば終わる戦を、何度繰り返させるつもりだ」
広間が静まった。
「伯爵が我が領へ兵を向けたのは、一度ではない。そのたびに国境の者が畑を捨て、城へ逃げ込んだ。今、兵を集め直す間だけ止めてほしいと言われて、こちらが応じると思うか」
「そのような意図ではございません」
「ならば、次に兵を向けぬ証を示せ」
使者は唇を結んだ。
アルベルトは、傍らの書記官へ手を伸ばした。
差し出された紙には、城と街道、それぞれの領地の境が記されていた。卓へ広げると、使者も思わず身を寄せた。
「我が軍が確保した三つの城と、ここに記した周辺の領地を割譲してもらう。城を守る道と、そこに暮らす民を養う土地も含む」
使者の顔が強張った。
「三つ、すべてでございますか」
「すべてだ」
「それでは、伯爵様の領地が」
「減る。負けたのだからな」
アルベルトは使者を見た。
「だが、残る領地まで奪えとは申しておらぬ。ベルン家がそこを治めることは認める」
使者は紙へ目を戻した。
示された境を指で追いかけ、途中で手を引いた。
「ほかには」
「互いに新しい国境を認め、兵を越えさせぬ。伯爵自身の命令でなくとも、その配下が兵を向ければ、伯爵の責任として扱う」
書記官が言葉を書き留める。
「それと、賠償だ」
「今の領内には、すぐに用意できる金がございません」
「一度にすべて出せとは言わぬ。金と穀物で分けて納める。その額と期限を決めるため、収入と備蓄の記録を出してもらう」
「記録まで、でございますか」
「払えぬと言うなら、確かめねばならん」
アルベルトの声は変わらなかった。
「払えぬ額を紙へ書かせ、その紙だけを持ち帰るつもりはない。だが、払えぬという言葉だけで済ませるつもりもない」
使者は黙って頷いた。
しばらく紙へ目を落とした後、ためらいながら尋ねる。
「捕らえられた兵は、お返しいただけますか」
「名簿を照らし合わせ、引き渡し方を決める。約束が守られていることを確かめながら、順に返す」
「負傷している者もおります」
「負傷者は別に扱う。動かしても差し支えのない者から、受け取る者を出させよ」
使者の肩がわずかに下がった。
アルベルトはそれを見届けてから、紙を畳ませた。
「伯爵に伝えよ。停戦の話をするために、こちらが城を空けることはない。条件を受け入れる意思があるなら、決める権限を持つ者を寄越せ」
「それまでの間、軍は」
「ここから先へ進めるのは待とう。ただし、そちらが兵を動かし、我が軍や街道へ手を出せば、その約束は終わりだ」
使者は深く頭を下げた。
退出を許され、広間の戸口へ向かう。
その足音が遠ざかると、将の一人がアルベルトへ尋ねた。
「受け入れますでしょうか」
「城を返せとは、もう言えまい」
「それでも拒むようなら」
「軍を動かす」
アルベルトは短く答えた。
将が頷く。
だが、大公は続けた。
「だからといって、向こうが断るのを待つな。条件を守らせて戦を終えられるなら、それがよい」
窓の外では、空になった荷車が倉の前を離れていった。
「これ以上の城を取るには、また兵を使う。取った城には兵を残さねばならん。今の国境を守りやすくできるなら、ここで終える意味はある」
アルベルトは、書記官が残した控えへ目を落とした。
「城だけでなく、道と村まで確かめろ。境を曖昧にして、次の争いを残すな」
「承知いたしました」
将たちは礼をして散っていった。
◇ ◇ ◇
使者が戻ってから、ベルン伯爵の城では灯りが夜遅くまで消えなかった。
卓に広げた地図の東側へ、アルヴェインが求める境が書き込まれている。
伯爵は、その線を見つめていた。
三つの城だけではなかった。城下の市、街道沿いの村、年ごとに穀物を納めてきた土地が、線の向こうへ入っていた。
「これを渡せば、次の税は入らぬ」
伯爵が言うと、帳簿を抱えた家臣が頷いた。
「はい」
「そのうえ、賠償を払えと言う」
「分けて納めることは認めるとのことです。ですが、こちらの記録を確かめたうえで決めると」
伯爵は地図から顔を上げた。
「城を取っただけでは足りず、我が家の帳簿まで見るのか」
家臣は返事に詰まった。
コンラートが一歩進み出る。
「伯爵様。あの土地から、今、税を取り立てられるでしょうか」
伯爵の視線が鋭くなった。
「どういう意味だ」
「城も道も、すでに向こうの兵が押さえております。返せと命じても、納めさせることはできません」
「だからといって、認めれば戻らなくなる」
「取り返そうとすれば、残る土地の兵と金を使います」
伯爵は黙った。
コンラートは地図の東へ手を伸ばさなかった。伯爵の居城と、その周囲の領地を見ていた。
「ここからまた兵を出し、失えば、この城へ戻る者も減ります。その時に条件を聞いて、今より軽くなるとは思えません」
「お前は、城を守る自信がないのか」
「守ります」
答えは早かった。
伯爵が顔を上げる。
「命じられれば、最後まで守ります。ですが、守れると申し上げることと、伯爵様に戦を続けるようお勧めすることは別です」
コンラートは頭を下げた。
「残った兵を、もう一度揃える時間をください。武器を直し、領内へ戻せる者は戻すべきです」
伯爵はしばらく、騎士団長の下げた頭を見ていた。
家臣が抱える帳簿の端は擦り切れていた。何度も開き、同じ数字を確かめたのだろう。金を出せと命じるたび、男はあの帳簿を開いていた。
兵を補うための金も、残っていなかった。
伯爵は椅子へ座り直した。
「コンラート」
「はっ」
「お前が行け」
騎士団長が顔を上げた。
「境と賠償を確かめろ。向こうの申し出を、すべてそのまま飲めとは言わん」
「承知いたしました」
「だが……」
伯爵は、そこで言葉を切った。
地図の東へ目を戻す。
かつては、その先へ領土を広げるつもりだった。奪われた城を取り戻すだけでなく、アルヴェインの城を自分の旗で飾るはずだった。
「残る領地を守れ」
今度の命令は、低い声だった。
コンラートは深く一礼した。
◇ ◇ ◇
その後の協議には、幾日もかかった。
城の割譲そのものは変わらなかったが、街道沿いのどの村までを含めるか、川のどこを境とするかは、現地の者を伴って確かめられた。地図の線だけで田畑を分ければ、水路や渡し場を巡って争いが残る。
賠償についても、伯爵側が示した記録と、すでにアルヴェインが押さえた城の記録が照らし合わされた。
すぐに納める分と、三年に分けて納める分。
金だけでは用意できない分は穀物とし、受け渡す場所も定めた。
コンラートは、村で食べる分まで持ち出せば次の収穫にも響くと訴えた。アルヴェイン側も、納める量を減らすなら、その根拠を出すよう求めた。
兵は、その間も持ち場を離れなかった。
アルヴェインの斥候は伯爵側の動きを確かめ、ベルン軍も、自分たちの城へ続く道を見張っていた。停戦の申し出があったからといって、互いを信用したわけではない。
それでも、協議を打ち切るという報告は来なかった。
双方が持ち帰った文面へ、最後の修正が加えられた。
ベルン伯爵の前へ、清書された取り決めが置かれたのは、三つ目の城を失ってから数週間が過ぎた頃だった。
コンラートが卓の脇に立っている。
「残る領地と、ベルン家が治めることは認められます」
「読んだ」
「境についても、現地で確認したものと違いはございません」
「それも読んだ」
伯爵は紙を押さえていた。
同じ内容を記した書面が二通、並べられていた。双方の印を揃え、一通ずつ保管することになっている。
紙の上では短く記されていても、失う領地は小さくなかった。
三つの城の名を、伯爵はもう一度見た。
「兵は戻るのだな」
「名簿の照合を進めております。重傷者は移動に耐えられるかを確かめ、ほかの者は取り決めに従って順に返されます」
伯爵は頷いた。
筆を取る。
家臣が紙の位置を直そうとすると、伯爵は手で制した。
自分で紙を引き寄せ、名を記した。
続いて、用意された封蝋へ印を押す。
印を持ち上げても、しばらくその手は止まったままだった。
「……持っていけ」
伯爵は言った。
コンラートが書面を受け取る。
「承知いたしました」
「兵が戻ったら、数だけを知らせるな」
戸口へ向かいかけた騎士団長が振り返った。
「歩けぬ者と、傷が治れば隊へ戻れる者を分けて知らせろ。火槍隊にいた者についても調べろ」
「はい」
伯爵はそれ以上言わなかった。
コンラートが出ていくと、広間には地図と帳簿が残った。
伯爵は、東側に引かれた境を消すようには命じなかった。
◇ ◇ ◇
アルベルトの前へ、ベルン伯爵の印が入った書面が運ばれた。
使者を迎えた広間には、コンラートも立っていた。
腰の剣は入口で預けている。それでも背筋は曲がらず、書記官が取り決めを読み上げる間、視線を逸らすことはなかった。
アルベルトは、読み上げられる文面を手元の控えと照らし合わせた。
三つの城と、その周辺領地の割譲。
新しい国境の承認と、互いに兵を向けないこと。
賠償の額、納める期限、捕虜の引き渡し。
最後まで聞き終え、大公は筆を取った。
名を記し、印を押す。
書記官が二通を確かめ終えると、広間にいた将たちの肩から、わずかに力が抜けた。
「これで、戦を終える」
アルベルトが告げた。
コンラートは一礼した。
「伯爵様にも、確かにお伝えいたします」
「伝えるだけでなく、守らせよ」
騎士団長が顔を上げた。
アルベルトはまっすぐに見返した。
「我が軍にも命じる。境を越えて追うことも、勝手に村へ入ることも許さぬ。そちらも、配下のしたことだという言い逃れはするな」
「承知しております」
コンラートは答えた。
以前、戦場で向かい合った時と同じ顔だった。
アルベルトは椅子から立った。
「捕虜の名簿を確かめていけ。名前だけでは分からぬ者もいるそうだ」
「私が会っても、よろしいのでしょうか」
「そのために来たのだろう」
コンラートは一瞬だけ目を伏せ、深く頭を下げた。
広間を出ると、案内の兵に従って城内を歩いた。
降伏した城の兵とは別に、戦いの中で捕らえられたベルン兵が収容されている場所があった。扉の外には見張りが立ち、中からは低い話し声が聞こえた。
コンラートが姿を見せると、壁際に座っていた男が顔を上げた。
「騎士団長殿……」
男は立とうとしたが、片足へ体重をかけられず、隣の兵に支えられた。
「座っていろ」
コンラートは近づいた。
男の顔を覚えていた。川の近くで、火槍を運ばせていた兵だった。
「足は」
「まだ、うまく歩けません」
「手当ては受けたか」
「はい」
男は、戸口に立つアルヴェイン兵へ目を向けた。
コンラートもそちらを見てから、兵の前へしゃがんだ。
「戦は終わった」
男の口が少し開いた。
部屋の奥で話していた者たちも、こちらへ顔を向けた。
「戻る準備を進める。動けぬ者を置き去りにはせん。まずは名を確かめさせろ」
「また、前へ出るのですか」
別の兵が尋ねた。
コンラートは男を見た。
腕に巻かれた布は、新しいものへ替えられていた。その手で武器を握るのは、まだ難しいだろう。
「今度は、帰るためだ」
兵は俯いた。
しばらくして、肩が小さく揺れた。
コンラートは急かさなかった。傍らの書記を呼び、最初の兵から名と所属を確かめていった。
◇ ◇ ◇
講和の成立は、その日のうちにアルヴェイン軍へ伝えられた。
城の広場にいた兵たちから声が上がった。
互いの肩を叩く者もいれば、その場へ腰を下ろし、何度も息を吐く者もいる。国へ戻れると聞いて、故郷の名を口にする兵もいた。
だが、全員が一斉に帰るわけではなかった。
アルベルトは、今回の包囲へ振り向けた二千四百人のうち、二百人を新たに得た城へ残すよう命じた。残る二千二百人は、帰国に向けて隊を整える。先に確保した二つの城の守備兵は、引き続きそれぞれの城に置いた。
国境を確かめる者、兵糧倉を引き継ぐ者、捕虜を送り出す者も必要だった。
帰還の順は、その仕事と道の状況を見ながら決められていった。
アルベルトは本営の卓で、城に残る指揮官の報告を聞いていた。
「降伏した兵を、すぐに我が兵へ混ぜるな。仕えることを望む者がいても、名と家を確かめてからだ」
「はっ」
「村から訴えがあれば聞け。取る者が変わったからといって、すでに納めた税をもう一度出させるな」
指揮官は頷き、書付へ目を落とした。
「城主の扱いにつきましては」
「提出された記録を確かめてから定める。先に降伏したことは考慮するが、何もかも以前のままという約束はしておらぬ」
「承知いたしました」
指揮官が退出すると、アルベルトは背を椅子へ預けた。
卓の上には、なお書状が残っていた。
本国への戦勝報告。新しい国境を知らせる書面。グランヴァルトへ届ける講和の報告。
その下から、別の書状を引き出した。
エリーゼからの手紙だった。
婚約が告げられた日のことが書かれていた。祝いを述べる家臣へ、何度も同じ礼を言ってしまったこと。アレクからも手紙が届き、向こうでも同じように祝われたと知ったこと。
最後には、叔父の無事を願う言葉があった。
アルベルトは、そこをもう一度読んだ。
「お待たせしております」
戸口から書記官が声をかけた。
アルベルトは手紙を畳み、ほかの書状とは分けて置いた。
「グランヴァルトへ出す使者に、もう一通持たせる」
「同盟の協議についてでしょうか」
「それもある。だが、先に婚礼の話だ」
書記官が顔を上げた。
「日取りを、お決めになりますか」
「こちらだけで決められるものではない。レオンハルトとマティアスにも、都合を聞かねばならん」
アルベルトは新しい紙へ手を伸ばした。
「城と国境の引き継ぎを済ませれば、私も戻れる。帰国の見通しと、式へ出られる時期を知らせる」
「では、そのように」
「ああ」
書記官が、アルベルトの指示を書き留める。
アルベルトは、机の脇へ置いたエリーゼの手紙を見た。
「エリーゼには、私から書く」
「承知いたしました」
戦の報告と同じ文面を送るつもりはなかった。
叔父が帰ると知れば、姪も安心するだろう。
その後に何の相談をするかまで書けば、きっと、すぐにアレクのことを考える。
アルベルトは小さく笑い、筆を取った。
◇ ◇ ◇
婚約の公表から数週間が過ぎた頃、アレクはマティアスから呼び出しを受けた。
今度は用件が書かれていた。
アルヴェインとベルン伯爵領の講和について、知らせたいことがある。
アレクは城での仕事をオスカーへ引き継ぎ、マティアスのもとへ向かった。
案内された部屋では、主君が地図と書状を並べていた。
アレクが礼をすると、マティアスは椅子を示した。
「ベルン伯爵が、条件を受け入れた」
腰を下ろしかけたアレクの動きが止まった。
「戦が、終わったのですか」
「ああ。三つの城と周辺の領地をアルヴェインへ渡し、新しい国境を認める。賠償についても決まった」
マティアスが地図の一部を示した。
アレクは椅子を寄せた。
補給の荷車を送り出した先に、見覚えのある城の名がある。その先へ伸びる道と、新たに加わった城が記されていた。
「伯爵は、そのまま残るのでしょうか」
「残る領地を治める。ただし、以前と同じだけの税は入らん。兵を揃え直すにも時間がかかるだろう」
「コンラートは」
「協議に当たったそうだ」
アレクは地図から顔を上げた。
渡河点の向こうで、兵をまとめて退いていった騎士団長を思い出した。
「最後まで戦うのかと思っておりました」
「戦ってきたからこそ、続けられぬと分かることもある」
マティアスは書状を揃えた。
「伯爵が何を考えて署名したかまでは知らん。だが、アルヴェインが約束を守らせるつもりでいることは確かだ」
アレクは頷いた。
しばらく地図を見ていると、紙に描かれた街道へ、荷車の列が重なって見えた。
宿場に止まっていた十六台。
壊れた車輪を直す者と、出発を待つ御者。川を越えた後、ようやく前線へ向かって進んでいった兵糧。
あの荷が届くのを見送り、自分たちの役目は果たしたと思った。
その先で、軍は動き続けていたのだ。
「……終わったのですね」
アレクが言うと、マティアスは頷いた。
「アルベルト様から、救援への礼も改めて届いている。アレクだけでなく、皆にも伝える」
「兵たちにも、知らせてよろしいでしょうか」
「知らせろ。自分たちが何のために戦ったか、その結果を聞く権利はある」
「はい」
アレクは深く頷いた。
喜ぶ者もいるだろう。負傷して戻った者には、まず伝えたかった。命を落とした兵の家へも、あの戦いが何につながったのかを知らせたい。
マティアスは、その顔を見ていた。
「道を開いただけで終わったと思っていたか」
「荷を送り出した後のことは、報告で聞くばかりでしたので」
「軍が進むには、あの道が必要だった」
マティアスは街道へ指を置いた。
「アルベルト様は、そのことを忘れておられん」
アレクは地図の上へ目を戻した。
地図に引かれた街道を見ていると、あの道を進んだ兵や荷車の姿が思い浮かんだ。
そこを取り戻したことが、今、ひとつの戦の終わりにつながっていた。
「ギルベルトにも、伝えます」
「ああ」
マティアスは答え、脇に置いていたもう一通の書状を取った。
「それと、アレクには別の話がある」
差し出された紙を、アレクは両手で受け取った。
アルベルトの帰国についての知らせだった。
占領した城と国境の引き継ぎを済ませた後、本国へ戻る。その見通しを踏まえ、婚礼の日取りを協議したい。
そこまで読んで、アレクは顔を上げた。
マティアスが言った。
「今度は、式の日を決める話だ」
アレクは、紙へ目を戻した。
結婚を認めるという返事は、もう受け取っていた。婚約も公に告げられた。
それでも、いつ一緒に暮らし始められるのかは決まっていなかった。
「アルベルト様も、お越しになれるのですね」
「そのために、都合を知らせてくださったのだろう」
「……はい」
アレクの口元が緩んだ。
エリーゼは喜ぶだろう。叔父が無事に帰ることも、自分たちの婚礼へ来てくれることも。
マティアスは別の紙を手元へ寄せた。
「陛下の日程も確かめ、先方と相談する。決まるまでは、まだ人を招くな」
「承知しております」
「城で受け入れられる人数などは、調べてあるな」
「はい。泊まっていただける部屋と、手を入れる必要のある場所を、オスカーたちと確認しております」
「では、その控えを次に持ってこい。先方から来る者が決まったら、照らし合わせる」
アレクは頷いた。
マティアスは少し考えてから、尋ねた。
「エリーゼ様には、何か希望を聞いているか」
「部屋については、お尋ねしました。式については、まだ」
「ならば、そちらも聞いておけ。こちらで決められることと、二人に決めてもらうことは分ける」
「はい」
返事をしたアレクは、もう一度書状を見た。
城に用意する物も、招く人も、これから具体的に決まっていく。
だが、最初に思い浮かんだのは、そのどちらでもなかった。
「マティアス様」
「何だ」
「日が決まりましたら、私からもエリーゼ様へお伝えしたいと思います」
マティアスはアレクを見た。
やがて、穏やかに頷いた。
「そうしろ。正式な知らせは先方へ届くが、アレクから聞くのとは違うだろう」
「ありがとうございます」
「その礼は、まだ早い。まず日を決める」
アレクは少し恥ずかしくなり、背筋を伸ばした。
けれど、受け取った書状から手を離す気にはなれなかった。
◇ ◇ ◇
領地へ戻ると、アレクはギルベルトへ講和の成立を知らせた。
話を聞いたギルベルトは、しばらく黙ってから息を吐いた。
「そうですか。終わりましたか」
「はい。アルヴェインは三つの城を確保したまま、新しい国境を認めさせました」
「兵にも、知らせましょう」
「お願いします。療養している者にも」
「承知しました」
ギルベルトは頷き、兵のいる方へ歩き出した。
アレクも少し離れて続いた。
手入れをしていた兵が顔を上げる。ギルベルトが人を集め、アルヴェインから届いた知らせを伝えると、列の中で声が漏れた。
「もう、あの道へは出なくてよいのか」
「今回の戦は終わった」
ギルベルトが答えた。
「皆が開いた街道を使い、アルヴェイン軍は城を取り、講和を結んだ」
兵たちが隣の者を見た。
大きな歓声は上がらなかった。すでに帰国し、日々の仕事へ戻っていた者たちだった。
それでも、ほっとした顔は分かった。
渡河点で腕を負傷した兵が、まだ少し動かしにくそうな手を膝へ置いた。
「荷は、役に立ったんですね」
アレクはその声を聞き、近づいた。
「はい。届いた兵糧で、向こうの兵は戦いを続けられました」
兵がアレクを見上げる。
「アルベルト様からも、皆さんへお礼が届いています」
「そうですか」
男はそう答え、照れたように口元を緩めた。
隣の兵が、その背を軽く叩く。
「お前が痛いと言いながら運ばれた甲斐もあったな」
「痛かったんだ。本当に」
「分かっている」
二人が笑った。
アレクも笑みを返した。
この場にいない者のことまで、忘れたわけではなかった。だからこそ、戻ってきた者が笑っている姿を、しばらく見ていたかった。
ギルベルトが近づいてきた。
「アレク様。婚礼の話も、進むのでしょうか」
アレクは振り返った。
「なぜ、それを」
「アルベルト様が前線におられるため、日取りはまだと伺っておりましたので」
「ああ……はい。これから相談することになりました」
「それは、ようございました」
近くにいた兵が、手入れの手を止めた。
アレクはそれに気づき、慌てて付け加えた。
「まだ、日が決まったわけではありません」
「決まりましたら、お知らせください」
ギルベルトは落ち着いて答えた。
その後ろで、兵が笑っている。
アレクは小さく咳払いをし、ギルベルトへ話を戻した。
「では、ほかの持ち場にも、講和の知らせをお願いします」
「承知しました」
城へ戻る道で、アレクは懐の書状を確かめた。
帰ったら、まずエリーゼへ手紙を書こう。
叔父の帰国を喜んでいるだろう彼女へ、自分も同じ知らせを聞いたと伝えたかった。そして、婚礼についてどのような希望があるのか、尋ねたい。
城門を抜けると、庭に面した窓が見えた。
あの部屋を整えるための相談は、もう始まっている。
今度は、そこへ彼女が来る日を決めるのだ。
アレクは城の入口で待っていたオスカーへ歩み寄った。
「マティアス様から、婚礼の日取りについてお話がありました」
オスカーの表情が和らいだ。
「いよいよ、でございますね」
「はい。まだ相談はこれからですが、用意する部屋の控えを見せてください。先方から来られる方々についても、これから話が進みます」
「すぐにお持ちいたします」
オスカーが先に立ち、二人は廊下へ入った。
庭から差し込む光が、足元へ伸びていた。
アレクは歩きながら、手紙の最初の言葉を考えた。
戦が終わりましたね。
そう書いた後は、もう、遠慮せずに続けられる。
あなたを迎える日を、一緒に決めたい。
その言葉を早く紙へ記したくて、アレクは執務室へ向かう歩調を少し速めた。
第十一話を読んでいただき、ありがとうございました。
アレクたちが開いた補給路は、戦の終結につながりました。そして、待ち望んでいた婚礼の話も、いよいよ具体的に動き始めます。
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