第九話 祝福の返書
返事を待つ間も、領主としての日々は続いていました。
アレクは城の一室で、エリーゼと暮らす日を思い描きます。
城の廊下を歩いていたアレクは、庭に面した部屋の前で足を止めた。
扉は開いていた。掃除を終えたばかりなのか、窓から入る風に、薄い布が揺れている。
中には机と椅子、それに空の棚が置かれていた。誰かが暮らすための品は、まだほとんどない。
アレクは部屋へ入り、窓辺まで歩いた。
眼下には庭が広がっている。庭師が低い枝を整え、その少し向こうを、籠を抱えた使用人が通り過ぎた。
日当たりはよかった。窓を閉めれば廊下の足音も遠く、落ち着いて過ごせそうだった。
結婚が認められれば、ここがエリーゼの部屋になるのだろうか。
アレクは窓から室内へ目を戻した。
机はこの位置でよいのか。椅子は、もう少し座り心地のよいものがあった方がいいかもしれない。けれど、自分がよいと思ったものを、エリーゼも気に入るとは限らなかった。
どのような部屋なら、喜んでもらえるだろう。
考えているうちに、窓辺で手紙を読む姿が浮かんだ。
庭で自分の申し出を受けてくれた時の笑顔まで思い出し、アレクは口元を緩めた。すぐに、誰かに見られていないかと扉へ目を向ける。
廊下には誰もいなかった。
まだ、アルベルトからの返事は届いていない。
エリーゼが承諾してくれたことは、何より嬉しかった。レオンハルトも、マティアスも支えると言ってくれた。それでも、正式に決まるまでに必要なことは残っている。
この部屋に置くものを、今から決めるのは早い。
アレクは机の端へ置いていた手を離した。
「アレク様」
廊下から声がした。
振り返ると、書付を抱えたオスカーが扉の前に立っていた。
「こちらにいらしたのですね」
「何かありましたか」
「街道の補修について、ご確認いただきたいことがございます。村から人が参っております」
「ああ。今、行きます」
返事をしてから、アレクはもう一度だけ室内を見た。
オスカーは何も尋ねなかった。
扉の脇へ退き、アレクが出るのを待っている。
「この部屋は、普段も空けているのですか」
「はい。今のところ、お使いになる予定はございません」
「そうですか」
アレクは頷いた。
続けて何か言いかけたが、やめた。
オスカーも、それ以上は尋ねなかった。
二人は廊下を歩き出した。
「補修が必要なのは、雨が降ると荷車が通りにくくなる場所でしたね」
「はい。ただ、以前の報告より傷みが広がっているようです」
「では、先に話を聞きましょう」
返書を待っていても、街道は直らない。
アレクは歩調を少し速め、客を待たせている部屋へ向かった。
◇ ◇ ◇
マティアスから知らせが届いたのは、それから数日後だった。
都合をつけ、顔を出すように。
短い書状には、用件の詳しい説明はなかった。
アレクは城での仕事をオスカーへ引き継ぎ、翌朝、領地を発った。
道中、何度も書状の文面を思い返した。婚姻の話とは限らない。領地や兵について確認されるのかもしれない。それでも、別の用件かもしれないと考えるたびに、結局はアルベルトの返事が気になった。
マティアスのもとへ着き、案内された部屋へ入る。
机に向かっていたマティアスは、アレクを見ると、手にしていた書付を置いた。
「来たか。座れ」
「失礼いたします」
アレクは勧められた椅子へ腰を下ろした。
背筋を伸ばしたまま、次の言葉を待つ。
マティアスはその顔を見て、わずかに口元を緩めた。
「陛下のもとへ、アルベルト様から返書が届いた」
アレクの指が、膝の上で止まった。
「二人の結婚を認めるお考えだ」
すぐには、返事ができなかった。
聞き間違えてはいない。そう分かっていても、アレクはマティアスの顔を見つめた。
「……本当ですか」
「ああ。正式な婚約に向け、話を進めたいと仰っている」
アレクは息を吐いた。
椅子へ座り直すと、それまで肩に力が入っていたことに気づいた。
「そうですか……」
「もう少し喜ぶかと思っていたが」
「喜んでおります。ただ……」
言葉を探したが、うまく続かなかった。
アルベルトに、どう評価されているのか。エリーゼを任せてもよいと思ってもらえるのか。
考えないようにしていても、不安は消えなかった。
エリーゼも、叔父の許しを気にしていた。
これで、彼女も安心できる。
そう思うと、ようやく頬が緩んだ。
「エリーゼ様も、きっと喜んでおられます」
「まず、自分が嬉しいと言えばよいだろう」
「……はい。嬉しいです」
マティアスは笑った。
「ようやく落ち着いて眠れそうだな」
「仕事に差し支えるほどではありませんでした」
「眠れたかどうかを聞いたのだが」
アレクは答えに詰まった。
マティアスはそれ以上からかわず、机の上から別の書状を取った。
「陛下へも顔を出す。私も同行する」
「はい」
「向こうでは、今のように黙り込むなよ」
「気をつけます」
「まあ、無理もないか」
マティアスが、手元の書状を畳んだ。
「よく、ここまで進めたな」
アレクは顔を上げた。
マティアスはもう笑っていなかった。落ち着いた表情で、まっすぐにこちらを見ている。
「自分で伝えに行ったから、返事をもらえた。これから先も、肝心なところを人任せにするな」
「はい」
アレクは深く頷いた。
「ありがとうございました」
「まだ礼を言って終わるところではない。これから整えることがある」
「分かっております」
そう答えながらも、笑みを抑えることはできなかった。
◇ ◇ ◇
王都へ着いたアレクとマティアスは、翌日、王宮へ向かった。
レオンハルトのもとへ通されると、アレクは礼をして顔を上げた。
国王は二人を見渡し、アレクへ視線を戻した。
「返事は聞いたな」
「はい。マティアス様から伺いました」
「よかったな、アレク」
短い言葉だった。
だが、その声にからかう響きはなかった。
アレクはもう一度、頭を下げた。
「ありがとうございます。陛下のお力添えに、心より感謝いたします」
「アルベルトも、お前の働きを見ている。俺の書状だけで決めたわけではあるまい」
レオンハルトは、机に置かれた返書へ目を向けた。
「二人の願いを認め、正式に話を進めたいとある。先方も、協議に当たる者を決めるそうだ」
アレクは頷いた。
アルベルトに認めてもらえたのだと、ようやく実感が湧いてきた。
「こちらはマティアスに任せる」
「承知いたしました」
マティアスが答えた。
「先方の担当が決まり次第、連絡を取り合います」
「ああ。まずは婚約の公表と、その後の段取りだ。式の日取りは、アルベルトの都合も聞かねばならん」
アルベルトは、今もベルン伯爵領の前線にいる。
祝福してもらえることと、すぐに式へ来てもらえることは別だった。
レオンハルトはアレクへ尋ねた。
「エリーゼを迎える場所は、考えてあるか」
庭に面した部屋が浮かんだ。
「候補はございます。ただ、エリーゼ様のお考えも伺ってから整えたいと思っております」
「まだ聞いていないのか」
「お許しをいただく前に、部屋の話を進めるのは早いかと思いまして」
「そうか」
レオンハルトが頷く。
「では、聞いておけ。立派な部屋を用意しても、本人が落ち着かねば仕方がない」
「はい」
「一緒に来る者もいるだろう。その人数や住まいについては、先方と相談が必要になる」
マティアスが言葉を継いだ。
「城で用意できる部屋と、手を入れる必要のある部屋を調べておけ。まだ決まっていない人数に合わせ、勝手に人を増やす必要はない」
「オスカーとマルタに相談いたします」
「それでよい」
するべきことが、一つずつ形になっていく。
返書を待っていた時には、考えても仕方がないと思うことが多かった。今は、確かめたうえで動ける。
レオンハルトは書状を揃えた。
「同盟の取り決めについても、別に協議を進める。そちらは俺たちに任せておけ」
「承知いたしました」
「お前は、エリーゼへの返事を忘れるなよ」
「忘れません」
思わず強く答え、マティアスが横を向いた。
レオンハルトも口元を緩める。
「それならよい」
アレクの頬が熱くなった。
だが、今度は顔を伏せずに頷いた。
◇ ◇ ◇
アルヴェイン大公家の屋敷で、エリーゼは手紙を読み終えても、そのまま机に向かっていた。
前線にいる叔父から届いたものだった。
忙しい中で書いたのだろう。長い手紙ではない。それでも、必要な言葉はすべてあった。
アレクとの結婚を認めること。
レオンハルトへも、その意向を伝えること。
そして、自分の気持ちを偽らずに返事をしたことを、謝る必要はないという言葉。
エリーゼは最初の行へ目を戻した。
読む前には、どのような返事であっても、きちんと受け止めようと思っていた。もし反対されていたなら、改めて気持ちを伝えるつもりだった。
けれど、手紙を開く指は震えていた。
今も、紙を持つ手に少し力が入っている。
机のそばへ、大公妃が近づいた。
「叔父様からのお返事ですか」
「はい」
「何と書いてありましたか」
エリーゼは顔を上げた。
「祝福してくださると……」
そこで声が震えた。
笑おうとしたのに、目の奥が熱くなる。
大公妃は穏やかに微笑んだ。
「よかったですね」
「はい」
エリーゼは頷いた。
頬へ落ちる前に涙を拭おうとして、手紙を置く。大公妃が差し出した布を受け取り、目元へそっと当てた。
「ありがとうございます」
「私にまで、改まらなくてよいのですよ」
「でも、お話を聞いていただいて……」
「聞いただけです。気持ちを伝えたのは、あなたでしょう」
エリーゼは手紙へ視線を戻した。
叔父はアレクの働きを知っている。それでも、自分の望みを認めてくれるかどうかは、返事を読むまで分からなかった。
ようやく、安心して喜べる気がした。
「叔父様へ、お礼を書きます」
「ええ。きっと、お喜びになります」
「アレク様にも」
口にしてから、少し恥ずかしくなった。
大公妃はそれを見て笑ったが、からかいはしなかった。
「二通とも、書けたら預けなさい。出せるようにしておきます」
「はい」
一人になると、エリーゼは新しい紙を取り出した。
まず、叔父へ礼を書いた。許しを得られたことが、どれほど嬉しかったか。遠くにいても、自分を気に掛けてくれていることへの感謝を、一つずつ言葉にする。
書き終えた後、アレクへ宛てた紙を広げた。
何から伝えようかと考えたが、迷うほどのことではなかった。
叔父から返事が届いた。
自分たちの結婚を認め、祝福してくれると書いてあった。
そこまで記すと、自然に次の言葉が浮かんだ。
早く、アレクにも知らせたかった。
本人が隣にいれば、そのまま伝えられるのに。
エリーゼは筆を止め、窓の外を見た。
アレクから結婚を申し込まれた庭が見える。
あの日、嬉しさの中に残っていた心配が、今はなくなっていた。
次に会えた時には、二人でこの手紙のことを話せる。
そう思いながら、エリーゼは続きを書き始めた。
◇ ◇ ◇
王都から領地へ戻って数日が過ぎた頃、アレクのもとへエリーゼの手紙が届いた。
オスカーから受け取った時には、まだ仕事の途中だった。
目の前には、確認を終えていない書付が残っている。
アレクは封の筆跡を見てから、手紙を机の脇へ置いた。
「こちらを先に済ませます」
「承知いたしました」
オスカーは表情を変えなかった。
けれど、アレクが同じ行へ二度目を落としたところで、静かに口を開いた。
「お急ぎの知らせかもしれません。先にお確かめになってはいかがでしょう」
「……そうですね」
アレクは手紙を取った。
オスカーが退室した後、封を開く。
最初に目へ入ったのは、アルベルトから返事が届いたという知らせだった。
内容は、すでにマティアスとレオンハルトから聞いている。
それでも、エリーゼの言葉で読むと、胸が温かくなった。
叔父が祝福してくれたこと。
手紙を読むまで、やはり少し怖かったこと。
許してもらえたと分かり、早くアレクにも知らせたくなったこと。
丁寧な文字を追ううちに、庭で聞いた声がよみがえった。
アレクもまた、早く彼女へ知らせたいと思っていた。
同じ返事を待ち、同じ知らせに喜んでいたのだ。
読み終えると、アレクは手紙を折り直さず、机へ置いた。
返事を書くための紙を取り出す。
自分も、アルベルトの意向を聞いたこと。レオンハルトが祝福してくれたこと。正式な婚約に向けた協議は、マティアスが中心となって進めてくれること。
そこまで書いた後、筆を止めた。
これでは、ただの報告になってしまう。
アレクは少し考え、続きを記した。
知らせを聞いた時には、安心して、すぐには言葉が出なかった。
エリーゼも喜んでいると知り、ますます会いたくなった。
書いたものを読み返すと、顔が熱くなった。
部屋には誰もいない。
それでも、アレクは小さく咳払いをした。
消すことはせず、次へ進む。
城には、庭に面した明るい部屋があること。
もし気に入ってもらえるなら、そこを使ってもらいたいと考えていること。
ただし、自分だけで決めず、希望を聞きたいということ。
文章の終わりに、アレクは問いを添えた。
こちらで暮らす部屋について、何か希望はありますか。
大きなことでも、小さなことでも、教えてほしい。
書き終えた手紙を、最初から読み返す。
まだ式の日取りも決まっていない。正式な婚約の公表もこれからだ。
それでも、彼女を迎える日のことを尋ねてもよいところまで、ようやく来た。
アレクは手紙を丁寧に畳んだ。
◇ ◇ ◇
その日の午後、アレクはオスカーとマルタを伴い、庭に面した部屋を訪れた。
窓は閉じられていたが、室内には明るい光が差し込んでいる。
「エリーゼ様をお迎えする部屋として、ここを考えています」
二人へ告げると、マルタが室内を見渡した。
「お休みになる部屋との行き来もしやすく、日中をお過ごしになるには、よろしいかと存じます」
「ただ、家具などは、まだ決めないでください。ご希望を伺う手紙を書きました」
「承知いたしました」
オスカーが頷く。
「では、先に窓や扉など、直すべきところがないか確かめておきましょう」
「お願いします」
マルタは窓辺へ歩き、窓に掛けられた布へ目を向けた。
「今あるものも、一度よく見ておきます。残せるものまで、すべて新しくする必要はございませんから」
「そうですね。立派に見せようとして、落ち着かない部屋にはしたくありません」
「エリーゼ様は、普段どのようにお過ごしになるのがお好きなのですか」
尋ねられ、アレクは考えた。
手紙にはいろいろなことが書かれていた。実際に会い、話したこともある。
けれど、一日のどの時間に、どのような場所で過ごすのが好きなのか。毎日の暮らしについては、まだ知らないことが多かった。
「……それも、これから聞いていきたいと思います」
知ったふりはしなかった。
マルタは微笑んだ。
「では、お返事をいただいてから、ご相談いたしましょう」
「はい」
オスカーが、部屋の隅に置かれた机へ目を向けた。
「ご希望に合わせて選べるよう、使える家具を調べておきます」
「お願いします」
二人が退室すると、アレクは窓を開けた。
庭から風が入り、頬を撫でる。
以前ここへ来た時と、眺めはほとんど変わらない。机と椅子は以前のままで、棚にもまだ何も置かれていない。
けれど、今度はエリーゼへ尋ねられる。
この部屋を気に入るだろうか。机はどこへ置きたいだろう。窓から見える庭を、どう思うだろう。
アレクはしばらく庭を眺めてから、窓辺を離れた。
彼女の返事が届いたら、もう一度ここへ来よう。
今度はその手紙を持って、部屋を見渡したかった。
第九話を読んでいただき、ありがとうございました。
同じ知らせを、それぞれの場所で喜ぶアレクとエリーゼ。二人の願いが、少しずつ具体的な暮らしへとつながり始めました。
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