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『知らない世界で、前世の知識が武器になる』 ~剣と銃で乱世を生き抜く転生領主の成り上がり~  作者: 相田 ソウ
第八篇 乱世に結ぶ絆

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第七話 あなたと生きるために

救援の労をねぎらうため、アルヴェイン大公家から届いた招待状。

アレクは、エリーゼへ伝えたい言葉を胸に、再び国境を越えます。

 アルヴェイン大公家からの招待状が届いたのは、アレクが王都から領地へ戻り、留守中の報告をひと通り聞き終えた頃だった。

 補給街道の奪還と兵糧の護送に尽力した五人を、大公家の客として迎えたい。

 丁寧な言葉で記された書状を、アレクは机の上へ置いた。

 アルベルトは、今もベルン伯爵領にいる。前線を離れられない自分に代わり、本国で労をねぎらうよう指示したという。五人を迎えるのは、大公妃だった。

「こちらからは、ご出席のお返事を差し上げてよろしいでしょうか」

 机の向こうで、オスカーが尋ねた。

 アレクはすぐには答えず、もう一度書状へ目を落とした。

 招かれているのは自分一人ではない。私用で訪れるのでもなかった。

 それでも、エリーゼに会えるかもしれないと思った瞬間から、胸の奥が落ち着かなかった。

「マティアス様にも同じ知らせが届いているはずです。まずは、ご相談します」

「承知いたしました」

 オスカーは頷き、手元の紙へ書き留めた。

「お出かけになる場合、先ほどお話しした件は、出発前にご判断をお願いいたします。それ以外は、こちらで進められます」

「ありがとうございます。留守をお願いできるよう、今日のうちに目を通します」

 アレクが書類を引き寄せると、オスカーは次の一枚を差し出した。

 招待状は、その脇へ丁寧に置かれた。

 気になって何度も視線が向いたが、オスカーは気づかないふりをしていた。

 数日後、マティアスから知らせが届いた。

 レオンハルトは、五人が招待を受けてアルヴェインへ向かうことを許可した。先方への返書と、国境での受け入れについても手配が進められる。

 出発前に顔を合わせたマティアスは、アレクへ短く言った。

「向こうが礼を尽くして迎えると言っている。こちらも、相応の支度をして行け」

「はい」

「護衛の人数は先方へ伝えてある。軍を率いて行くわけではないからな」

「承知しています」

 マティアスは、アレクの顔を見た。

「それから、招待されたからといって、エリーゼ様の時間まで自由になると思うなよ」

「お会いできるか、手紙で伺おうと思っております」

「ああ。先方の都合に合わせろ」

 言われなくても、そのつもりだった。

 けれど、会えるかもしれないという期待ばかりが先に立っていたことも、否定できなかった。

 アレクは領地へ戻ると、エリーゼへの手紙を書いた。

 大公家から招待を受けたこと。訪問の日取りが決まったこと。都合が許すなら、会う時間をいただきたいこと。

 最後の一文を書くところで、しばらく筆が止まった。

 伝えたい言葉は、決まっている。

 その言葉を胸に留め、会う日まで待つことが、こんなにも難しいとは思わなかった。

 アレクは紙を見つめた後、ゆっくりと筆を動かした。

 お会いして、お伝えしたいことがあります。

 書き終えてから、声に出さずに読み返した。

 あまりに改まっているだろうか。何か悪い知らせだと思わせないだろうか。

 迷った末、その前に、久しぶりに会えることを楽しみにしていると書き添えた。

 エリーゼからの返事は、出発までに届いた。

 自分も会える日を楽しみにしていること。祝宴には大公家の一員として出席すること。そして、翌日であれば、ゆっくり話をする時間を取れること。

 面会については家宰にも伝え、来訪後に案内してもらえるよう頼んだとあった。

 アレクは最後まで読み終え、もう一度、初めから読み直した。

「お返事は、よいお知らせでございましたか」

 茶を運んできたマルタに尋ねられ、顔を上げる。

「はい。お会いできるそうです」

「それはようございました」

 マルタは微笑んで、杯を置いた。

 アレクは頷き、手紙を畳んだ。

 今度は、会いたかったと伝えるだけでは帰れない。

 自分から書いた一文が、もうエリーゼへ届いている。

 手紙をしまう指に、少しだけ力が入った。

 ◇ ◇ ◇

 国境では、アルヴェイン側の役人が招待状と一行の名を確かめた。

 アレク、ヴィクトル、エイドリアン、カスパル、ロベルト。

 五人の確認を終えると、同行する護衛と従者の人数が照合される。待っていた案内役が進み出て、挨拶をした。

 先方との取り決めに従い、一行は国境を越えた。

 前にこの国へ入った時は、兵糧を待つ軍のもとへ、少しでも早くたどり着こうとしていた。

 今は、荷を積んだ馬の歩みに合わせ、整えられた道を進んでいる。

 アレクは街道の先へ目を向けた。

 戦のためではなく、会いたい人に会うために、この道を通っている。

 そう思うと、いつもは気に留めない宿までの距離が、妙に長く感じられた。

「まだ着かないぞ」

 隣からカスパルが言った。

「分かっている」

「さっきも、その先を見ていた」

「道を見ていただけだ」

「それなら、俺と同じものを見ているはずなんだがな」

 カスパルが笑う。

 アレクが何か言い返す前に、ロベルトが口を挟んだ。

「早く着いても、今の格好のまま宴へ出られるわけじゃない。着いてからの支度もある」

「その話は、出発前にも聞いた」

「なら、覚えておけよ。俺たちまで旅の埃を被ったまま並ばされては困る」

 アレクは自分の袖へ目を落とした。

 汚れてもよい旅装を選んできたが、用意した礼装を着ることを考えると、別の緊張が湧いてくる。

 ヴィクトルが、少し気の毒そうに笑った。

「まだ何もしていないうちから、あまり困らせるな」

「俺は支度の話をしただけだ」

 ロベルトが答え、カスパルが肩を揺らした。

 アレクはそれ以上言い返さず、手綱を握り直した。

 エリーゼに何を話すのかまでは、四人に明かしていなかった。

 それでも、会うことを楽しみにしているのは、隠せていないらしかった。

 旅を終え、大公家の居城へ着いた時には、門の内側で家宰と従者たちが待っていた。

 案内役が一行を紹介する。

 アレクが馬を下りると、家宰は進み出て頭を下げた。

「遠路、お越しいただきありがとうございます。大公家を代表して、皆様を心より歓迎いたします」

 五人も礼を返した。

 馬が引かれ、荷が運ばれていく。

 アレクは、案内されるまま石段を上がった。

 見覚えのある場所だった。

 けれど、先に立つ者も、自分へ向けられる言葉も、以前とは違う。

 かつてはアルベルトの呼び出しを待ち、用事を言いつけられれば、すぐに動けるようにしていた。今は客として迎えられ、旅の疲れを休めるよう勧められている。

 用意された部屋へ入ると、窓辺には水差しが置かれ、椅子には清潔な布が掛けられていた。

「御用がございましたら、外に控える者へお申しつけください」

「ありがとうございます」

 アレクが答えると、従者は一礼して退出した。

 扉が閉じてから、アレクは部屋の中を見回した。

 椅子に腰を下ろしかけて、やめる。

 窓へ歩き、庭を見下ろした。

 ここに、エリーゼがいる。

 その思いが、客として迎えられた驚きよりも強くなった。

 だが、今から勝手に探しに行くわけにはいかなかった。

 アレクは窓から離れ、運び込まれた荷へ向き直った。

 まずは、失礼のない姿で挨拶をしなければならない。

 上着を取り出す手が、いつもより慎重になった。

 ◇ ◇ ◇

 祝宴に先立ち、五人は大公妃へ挨拶をするため、居間へ案内された。

 広い部屋ではあったが、大勢の諸侯が並ぶ謁見の間とは違っていた。窓際には椅子が置かれ、その脇で侍女が控えている。

 大公妃は五人を迎えると、一人ずつ顔を見て言った。

「夫から、皆様の働きについて聞いております。遠いところを、よくお越しくださいました」

 アレクたちは進み出て、礼を述べた。

 大公妃は座るよう勧めてから、自分も椅子へ腰を下ろした。

「本来なら、夫もここでお迎えしたかったでしょう。けれど、今は前線を離れられません。私から、改めてお礼を申し上げます」

「もったいないお言葉です」

 アレクが答えた。

「私たちは、レオンハルト陛下の命を受け、任じられた役目を果たしたまでです」

「そのおかげで、夫と兵たちのもとへ食べるものが届きました。私にとっては、それだけで十分に、お礼を申し上げる理由になります」

 穏やかな言葉だった。

 アレクは一度口を閉じ、それから頭を下げた。

「無事にお届けできて、よかったと思っております」

 大公妃は頷いた。

 その時、隣室へ続く扉が開いた。

 乳母に手を引かれた幼い男の子が、敷居の前で足を止めた。

 見知らぬ客が並んでいることに気づいたらしい。男の子は乳母の服をつかみ、大公妃を見た。

「こちらへいらっしゃい」

 母親に呼ばれて、ようやく歩き出す。

 アレクは、男の子が大公妃の膝元へ寄るのを見ていた。

 目元に、見覚えがあった。

「私たちの息子です」

 大公妃が言った。

「まだ、ご挨拶をしていませんでしたね」

 アレクは返事をしようとして、一瞬遅れた。

「大公殿下の……」

 口に出してから、当たり前のことを言ってしまったと気づく。

 大公妃は驚いたようにアレクを見て、それから笑った。

「あの方から、聞いていなかったのですか」

「申し訳ありません。存じ上げませんでした」

「謝ることではありません。この子が生まれたのは、あなたがマティアス殿のもとへ移ってからですもの」

 そう言われても、すぐには驚きが収まらなかった。

 アルベルトには何度も会っている。

 戦の話も、鉄砲の話もした。エリーゼについて、からかわれたことまであった。

 けれど、自分の息子については、一度も聞いていなかった。

 男の子が、母親のそばからアレクを見た。

 アレクが視線を合わせて会釈すると、男の子は大公妃の袖へ顔を寄せた。

 隣でカスパルが笑いをこらえている気配がしたが、振り向く余裕はなかった。

「まもなく、この子も兄になります」

 大公妃は、そっと腹へ手を添えた。

 アレクは顔を上げた。

「それは……おめでとうございます」

 今度は、五人の声が重なった。

 大公妃は礼を述べ、息子の髪を撫でた。

「ですから、今夜はあまり遅くまでお付き合いできません。その分、皆様にはゆっくりお過ごしいただければと思います」

 アレクは頷いた。

 大公家の跡継ぎが、母親の袖をつかみながら、こちらをうかがっている。

 戦場で見るアルベルトからは、なかなか想像できなかった光景だった。

 後でエリーゼに会ったら、知らなかったのかと笑われるだろうか。

 そう考えたところで、再び扉が開いた。

 アレクは顔を向けた。

 エリーゼが、侍女を伴って入ってきた。

 髪には、林檎の花の飾りがあった。

 アレクの視線が、そこで止まる。

 エリーゼもこちらを見つけ、表情を明るくした。けれど、すぐに歩みを整え、大公妃へ礼をした。

「遅くなりまして、申し訳ありません」

「ちょうどよいところです。皆様へのご挨拶を」

 エリーゼは五人へ向き直った。

「ようこそお越しくださいました。皆様にまたお会いできて、嬉しく思います」

 一人ずつ挨拶を交わし、最後にアレクと目が合った。

「アレク様も、お変わりないご様子で安心しました」

「エリーゼ様も、お元気そうで何よりです」

 用意していたわけでもない、ありふれた返事だった。

 もっと言いたいことはあったはずなのに、声を聞いた途端、うまく続かなかった。

 エリーゼは少し笑った。

 それだけで、アレクの頬が熱くなる。

 大公妃が二人を見ていたことには、気づかなかった。

 祝宴は、近しい家臣たちを交えた、落ち着いたものだった。

 席に着くと、補給路を取り戻した五人の働きが紹介された。

 敵を追い払ったことだけではない。街道を確保し、荷車を通し、警備を引き継ぐまでを果たしたことにも、礼が述べられる。

 アレクだけに話が向くことはなく、ヴィクトルやエイドリアンも、それぞれ受け持った役目について尋ねられた。

 カスパルは旅の話で周囲を笑わせ、ロベルトは出された料理について尋ねたところから、その土地の産物の話へ移っていた。

 アレクも、向けられた問いへ答えた。

 ただ、卓の向こうでエリーゼが笑うたび、つい視線が動いた。

 一度、目が合った。

 エリーゼが小さく会釈する。

 アレクも頷いてから、隣の家臣へ向き直った。

「失礼いたしました。今、何と……」

「街道で、特に傷んでいた場所がないかと」

「はい。そちらについては、引き継ぎの際にもお伝えしましたが――」

 答えながら、自分でも情けなくなった。

 目の前の会話へ集中しなければならない。

 そう思っているのに、エリーゼの声は、ほかの声よりはっきり聞こえた。

 大公妃が先に席を立った後も、宴はしばらく続いた。

 やがて客たちが退出を始めると、エリーゼがアレクのそばへ来た。

「明日は、朝のお食事の後でよろしいでしょうか」

「はい。私は、いつでも」

「では、庭へご案内します。お天気もよさそうですから」

「楽しみにしています」

 エリーゼは頷き、少し声を落とした。

「お手紙、ありがとうございました」

 アレクは、彼女の顔を見た。

 それは訪問を知らせたことへの礼か、それとも、最後に添えた一文のことなのか。

 確かめる前に、エリーゼは侍女とともに廊下へ歩いていった。

 アレクがその姿を見送っていると、横からカスパルが顔をのぞかせた。

「今夜は、眠れそうか」

「眠る」

「そうか。それならよいんだが」

 笑いながら先へ行く背を、アレクは追った。

 部屋へ戻ってからも、明日の朝まで、まだずいぶん時間があるように感じられた。

 ◇ ◇ ◇

 翌朝、庭へ案内される途中で、アレクは上着の襟へ手を伸ばしかけた。

 指先を止め、そのまま下ろす。

 身支度は、部屋を出る前に確かめてもらった。

 今から触って、また曲げてしまっては意味がない。

 案内の侍女が、庭へ続く扉を開いた。

 外の空気は、室内より少し冷たかった。

 石畳の先に、背の低い植え込みが続いている。その向こうの東屋で、エリーゼが待っていた。

 アレクを見つけると、椅子から立ち上がる。

「おはようございます」

「おはようございます。お待たせしました」

「私も、今来たところです」

 エリーゼが席を勧めた。

 卓には茶と小さな菓子が用意されていた。侍女は杯へ茶を注ぐと、呼ばれればすぐに来られる距離まで下がった。

 アレクは手袋を外し、膝の上へ置いた。

 エリーゼが、それを見てから顔を上げる。

「昨夜は、よくお休みになれましたか」

「はい」

 答えてから、少し間が空いた。

「……少し、目が覚めてしまいましたが」

 エリーゼが笑った。

「私もです」

「エリーゼ様も?」

「久しぶりに皆様とお話しできて、嬉しかったので。部屋へ戻ってからも、なかなか眠くならなくて」

 アレクは杯へ手を伸ばした。

 自分だけではなかったのだと思うと、少し楽になった。

 茶を一口飲んでから、エリーゼを見る。

「叔父様のこと、ありがとうございました」

 彼女が言った。

「無事だとは聞いていました。でも、兵糧が届かなくなったと知った時は、心配で」

「お会いした時には、お元気でした。兵糧も届きましたので、兵の皆様も落ち着かれたと思います」

「ええ。こちらにも知らせが来ました」

 エリーゼは頷いた。

「叔母様も、ほっとしていらっしゃいました。昨夜のご挨拶だけでは足りないくらいだと、おっしゃっていましたよ」

「私たちは、任じられた役目を――」

 言いかけて、アレクは止まった。

 エリーゼが、口元を押さえていた。

「何か、おかしなことを言いましたか」

「いいえ。ただ、今日はずいぶん改まっていらっしゃるのですね」

「そうでしょうか」

「昨夜のご挨拶を、もう一度聞いているようでした」

 アレクは、自分でも笑ってしまった。

「すみません。どうも、うまく話せなくて」

「謝らないでください。私、お礼を申し上げたかっただけです」

「はい」

 少し考え、それから言い直した。

「アルベルト様がご無事で、私も嬉しかったです」

「はい」

 エリーゼの笑みが深くなった。

 それを見て、アレクも肩の力を抜いた。

「そういえば、昨夜は本当に驚きました」

「叔父様のお子様のことですか」

「ご存じだったのですか」

「お隣にいましたもの。アレク様が、あまりに驚いたお顔をなさるので」

 エリーゼは、思い出したように笑った。

「叔父様から、お聞きになっていると思っていました」

「私も、聞いていなかったことに驚きました。何度もお会いしていたのですが」

「お仕事のお話ばかりだったのでしょう?」

「……そうですね」

 振り返ってみれば、その通りだった。

 アルベルトが息子の話をするより前に、自分が用件を持ち込んでいたのかもしれない。

「あの子は、叔父様が戻られると、いつも後をついて歩くんです」

「アルベルト様の後を?」

「ええ。執務のお部屋まで行きたがって、止められています」

 アレクは、その光景を思い浮かべた。

 前線で命令を下すアルベルトの後ろを、小さな男の子が懸命についていく。

 うまく想像できずにいると、エリーゼが言った。

「叔父様も、お嫌ではないようですよ」

「それは、そうでしょうね」

「困った顔をなさるのに、ご自分から抱き上げてしまうのですから」

 アレクは笑った。

 エリーゼが話すアルベルトは、自分の知っている大公とは少し違う。

 この城には、自分が知らない時間が流れている。

 エリーゼがどのように日々を過ごしているのか、もっと聞きたいと思った。

 彼女は庭の植え込みへ目を向け、先日、幼い従弟がそこで見つけたものを得意げに持ってきた話をした。

 アレクも、城へ戻った後のことを話した。

 オスカーから次々に書類を渡されたこと。出発までに片づけるつもりだった仕事が、思ったより多かったこと。

「お忙しいのですね」

「自分の城なのに、まだ教わることばかりです」

「でも、楽しそうです」

「そう見えますか」

「はい。困っているとおっしゃる時も、嫌そうではありませんから」

 アレクは少し考えた。

 確かに、分からないことは多い。判断を迷うこともある。

 それでも、帰る場所として城を思い浮かべるようになっていた。

 そこにエリーゼがいてくれたら。

 考えた途端、続けようとした言葉が消えた。

 杯へ手を伸ばし、まだ茶が残っていることを確かめる。

 エリーゼは、急かさずに待っていた。

 木々の葉が風に揺れた。

 離れたところで、侍女がこちらの様子をうかがい、静かに視線を外した。

 アレクは杯を置いた。

 そろそろ、話さなければならない。

 そう思うほど、最初の言葉が出てこなかった。

「アレク様」

 エリーゼに呼ばれ、顔を上げる。

「お手紙に、お伝えしたいことがあると書いていらしたでしょう?」

「はい」

「ずっと、気になっていました」

 エリーゼは、膝の上で両手を重ねていた。

 笑みは残っていたが、先ほどより少し緊張しているように見えた。

「私に、お話しくださいますか」

 アレクは、その目を見た。

 彼女も、待っていた。

 自分が来る日だけではなく、この話をする時を。

「もちろんです」

 アレクは答えた。

 今さら、別の話へ逃げるつもりはなかった。

 ◇ ◇ ◇

「少し、歩きませんか」

 アレクが言うと、エリーゼは頷いた。

 椅子を引き、二人で東屋を出た。

 侍女が卓を整える音が、後ろへ遠ざかる。付き添いの一人は、二人の姿が見える距離を保って歩き始めた。

 石畳をゆっくり進みながら、アレクはエリーゼの歩みに合わせた。

 話そうと考えていたことは、幾つもあった。

 旅の途中でも、昨夜、眠れずにいた時にも、頭の中では言葉にできていた。

 けれど、隣にいるエリーゼへ向けて口にしようとすると、用意した順番は役に立たなかった。

「お会いできて、嬉しいです」

 ようやく言うと、エリーゼがこちらを向いた。

「私もです」

「いつも、お会いすると、次はいつ来られるだろうと考えてしまいます」

 アレクは足元ではなく、エリーゼを見て話した。

「まだ帰る日にもなっていないのに、次のことを考えるのは、変かもしれませんが」

「変ではありません」

 エリーゼは、すぐに答えた。

「私も、同じですから」

 その言葉に、アレクの胸が熱くなった。

 エリーゼは少し照れたように視線を落とし、それから続けた。

「お帰りになると分かっているので、仕方がないことなのですけれど。もう少し、お話しできたらと思ってしまいます」

「手紙に書こうと思うことも、あります」

「はい」

「でも、帰ってから書こうとすると、その時にお話ししたかったことと、少し違ってしまって」

 うまく説明できず、アレクは言葉を探した。

 仕事の報告なら、必要なことを順に記せばよい。

 けれど、エリーゼに話したいことは、それだけではなかった。

 何かを見て面白いと思ったこと。失敗して、後から笑ってしまったこと。うまくいって、一番に知らせたくなったこと。

 手紙が届く頃には、書き記した出来事も、何日も前の話になっている。

「その日のことを、その日のうちにお話しできたらと思うのです」

 アレクは言った。

 エリーゼが、顔を上げた。

「大切なことだけでなくても。今日、こんなことがあったと、お話しして。エリーゼ様が、何をなさっていたかも聞いて」

 自分の望みは、言葉にすると、驚くほどありふれていた。

 同じ場所で食事をする。

 顔を見て話す。

 出かける時には、そこへ帰ってくると思える。

 爵位を得た時も、城を与えられた時も、こんなふうに暮らしを思い描いたわけではなかった。

 エリーゼと暮らすことを考えて、初めて、自分が望む日々の姿がはっきりした。

「手紙をいただくのも、嬉しいです。何度も読み返しています」

「私も、アレク様のお手紙は、大切にしています」

「ありがとうございます」

 アレクは小さく息をついた。

「でも、これからもずっと、会って、別れて、手紙を待つだけではなくて」

 そこで足を止めた。

 エリーゼも立ち止まり、アレクへ向き直った。

 髪に留められた林檎の花が、すぐ目の前にあった。

 贈った時のことを思い出す。

 受け取ってもらえるか、それだけでも緊張していた。

 今、願おうとしているのは、それよりずっと大きなことだった。

 けれど、引き返したいとは思わなかった。

「エリーゼ様と、同じ場所へ帰るようになりたいのです」

 彼女の唇が、わずかに開いた。

 アレクは、最後まで視線をそらさなかった。

「エリーゼ様。私と結婚してください」

 風が、二人の間を通り過ぎた。

 エリーゼは動かなかった。

 アレクを見つめたまま、重ねていた手を胸元へ寄せる。

 返事がない時間が、ひどく長く感じられた。

 急に話して驚かせただろうか。

 もっと先に伝えるべきことがあっただろうか。

 考えが浮かんだが、口にはしなかった。

 エリーゼが答えようとしている。

 その唇が動いた。

「……はい」

 小さな声だった。

 アレクは息を止めた。

 エリーゼは頷き、今度ははっきりと言った。

「私も、アレク様と一緒にいたいです」

 頬が赤くなっていた。

 目元も、少し濡れている。

 けれど、その顔には笑みがあった。

「お帰りになるたびに、寂しかったのです。でも、お引き留めしてはいけないと思って」

「エリーゼ様」

「次にお会いしたら、今度こそ、もう少し素直に言おうと思っていました」

 彼女は笑おうとして、一度唇を結んだ。

 アレクは、何か言わなければと思った。

 だが、胸の奥に込み上げてくるものが強く、すぐには声にならなかった。

 エリーゼが、こちらをうかがう。

「アレク様?」

「すみません」

 アレクは息をつき、ようやく笑った。

「嬉しくて、何と言えばよいか……」

 それを聞いて、エリーゼも笑った。

 目元を指で押さえ、それから首を振る。

「私もです」

 二人とも、しばらく何も言わなかった。

 返事をもらうまでに考えていた不安が、すべて消えたわけではない。

 それでも、今は目の前のエリーゼが、同じことを望んでくれた。

 そのことだけで、胸がいっぱいだった。

 アレクは、ゆっくりと手を差し出した。

 エリーゼはその手を見てから、アレクの顔を見た。

 そして、自分から手を重ねた。

 指先が触れる。

 アレクは、強く握りすぎないように気をつけながら、その手を包んだ。

「ありがとうございます」

 口にしてから、ほかに言い方があったかもしれないと思った。

 けれど、エリーゼは嬉しそうに頷いた。

「こちらこそ。お話しくださって、ありがとうございます」

 アレクは彼女の手を見た。

 戦場で命令を出す時とは違う震えが、自分の指先に残っていた。

 エリーゼが、それに気づいたように少しだけ握り返す。

「緊張なさっていたのですね」

「はい」

「私も、何をお話しになるのかと、ずっと考えていました」

「悪い知らせだと思わせてしまいましたか」

「少しだけ」

 エリーゼは正直に答えて、それから笑った。

「でも、楽しみにしていると書いてくださったので。きっと違うと思っていました」

「書き添えてよかったです」

「ええ」

 何でもないやり取りだった。

 それなのに、アレクには、その一つ一つが嬉しかった。

 エリーゼの手は、まだ自分の手の中にあった。

 ◇ ◇ ◇

 二人は手をつないだまま、庭の奥へ少し歩いた。

 先ほどまでと同じ道なのに、アレクは歩幅を合わせるたび、隣を見てしまった。

 エリーゼも時々こちらを向き、そのたびに二人とも笑った。

 東屋の見える場所まで戻ったところで、彼女の表情が少し変わった。

 アレクは足を緩めた。

「どうなさいましたか」

 エリーゼは、つないだ手へ目を落とした。

「叔父様のことを、考えていました」

 アレクも、静かに頷いた。

「叔父様は……認めてくださるでしょうか」

 その声には、先ほどの返事を取り消すような迷いはなかった。

 喜びを誰かに伝えたくなり、最初に思い浮かんだ人を気にかけている。アレクには、そう聞こえた。

「私からも、きちんとお願いをします」

「叔父様が、アレク様をよく思っていないということではないのです」

 エリーゼは顔を上げた。

「お手紙にも、今回のことを書いていらっしゃいました。よく働いてくれたと。それに、前から……」

 言いかけて、少し頬を赤くした。

「前から?」

「アレク様のことで、私をからかうこともありました」

 アレクは思わず笑った。

「私もです」

「やはり、そうでしたか」

「はい」

 二人でアルベルトの顔を思い浮かべ、また笑う。

 だが、エリーゼはすぐに真剣な表情へ戻った。

「父も母もいなくなってから、叔父様と叔母様が、ずっと私を守ってくださいました」

 アレクは黙って聞いた。

「ですから、喜んでいただきたいのです。困らせて、この家を出ていくようなことにはしたくありません」

「はい」

 アレクは頷いた。

 大公家の了承が必要だということは、分かっていた。

 家柄も、国と国の関係も、考えなければならない。

 だが、エリーゼが今話しているのは、それだけではなかった。

 自分を育ててくれた人に、幸せになるところを見てほしい。

 その願いを、大公家との交渉という一言で片づけたくはなかった。

「アルベルト様にも、大公妃殿下にも、喜んでいただけるようにしたいです」

 アレクは言った。

「すぐに、すべて認めていただけるかは分かりません。ですが、お二人に黙って話を進めるつもりはありません」

 エリーゼが、こちらを見た。

「私たち二人が結婚を望んでいることを、きちんとお伝えしましょう」

「私からも、お手紙を書きたいです」

「はい」

「アレク様にお願いするだけではなくて。私が、どう思っているのかも」

 その言葉を聞き、アレクは頷いた。

 自分が何もかも引き受け、彼女を待たせるだけではない。

 エリーゼにも、自分で伝えたい気持ちがある。

「一緒に、お願いしましょう」

「はい」

 エリーゼは答え、少し安心したように息をついた。

 アレクも、自分が帰国した後にすべきことを思った。

 レオンハルトとマティアスへ、彼女の返事を報告する。

 王の支持を得たことを先に知らせ、了承を迫るためではない。二人で決めた願いを、大公家へ正式に伝えてもらうためだった。

 エリーゼの気持ちを確かめた今、二人の願いとして報告できることが嬉しかった。

 エリーゼが、髪飾りへ空いた方の手を添えた。

「叔父様にお話しする前に、叔母様には、私からお伝えしてもよろしいでしょうか」

「もちろんです。必要でしたら、私もご一緒します」

「ありがとうございます。まずは、私からお話ししてみます」

 彼女は頷き、林檎の花から手を離した。

 アレクの視線がそこへ向いたことに気づき、少し首を傾げる。

「どうかなさいましたか」

「今日も、つけてくださっていたのですね」

「はい。アレク様とお会いする日ですもの」

 ためらいのない返事に、アレクの頬が熱くなった。

 エリーゼは、その反応を見て嬉しそうに笑った。

「今度は、アレク様のお城も見てみたいです」

「ぜひ、おいでください」

 すぐに答えてから、アレクは言葉を継いだ。

「まだ、私自身も慣れていないところがありますが」

「ご案内してくださいますか」

「もちろんです」

「では、楽しみにしています」

 エリーゼは城の様子を尋ねた。

 庭はあるのか。窓から何が見えるのか。アレクは普段、どの部屋で仕事をしているのか。

 アレクは一つずつ答えた。

 立派さを誇れるように話そうとは思わなかった。

 朝、どこから光が入るのか。オスカーが報告に来る部屋はどこか。城下へ出る時には、どの門を通るのか。

 そんなことを話しているうちに、エリーゼを案内する自分の姿が、自然に浮かんできた。

「たぶん、私よりオスカーの方が、上手にご説明できます」

「でも、私はアレク様にご案内していただきたいです」

「……では、それまでに、もう少し覚えておきます」

「分からないところは、一緒に教えていただけばよいのではありませんか」

 アレクは彼女を見た。

 エリーゼは、何でもないことのように笑っていた。

「すべて、お一人で覚えておかなくても」

 アレクも笑った。

「そうですね」

 いつか、本当にそうして歩けるだろうか。

 自分の城の廊下を、隣にエリーゼがいることを当たり前に思いながら。

 その日を望んでよいのだと、ようやく実感が湧いてきた。

 東屋へ戻ると、侍女が新しい茶を用意していた。

 二人が近づくのを見て、一礼する。

 アレクは椅子を引こうとして、つないだ手を緩めた。

 けれど、エリーゼの指が、すぐには離れなかった。

 顔を向けると、彼女もこちらを見ていた。

「あの……」

 エリーゼは、少し恥ずかしそうに笑った。

「もう少しだけ、歩きませんか」

 アレクは、引きかけた椅子から手を離した。

「はい」

 侍女へ会釈し、もう一度エリーゼへ手を差し出す。

 今度は、彼女も迷わず握った。

 二人で石畳へ戻ったところで、エリーゼが言った。

「帰られた後のお手紙も、待っています」

「必ず、書きます」

「今日のことは、忘れないでくださいね」

 アレクは足を止めかけた。

 エリーゼの声は冗談めいていたが、その頬はまだ赤かった。

「忘れられるはずがありません」

 そう答えると、彼女は嬉しそうに目を細めた。

「私もです」

 アレクは、握った手へわずかに力を込めた。

 帰国すれば、報告しなければならないことがある。アルベルトへの正式な申し入れも、その返事を待つ時間も、これからだった。

 けれど、エリーゼの返事は、もう自分の耳で聞いた。

 隣を歩く彼女も、同じ未来を望んでいる。

 アレクは歩みを緩めた。

 エリーゼも、それに合わせてくれた。

 今はもう少しだけ、この庭を二人で歩いていたかった。

第七話を読んでいただき、ありがとうございました。

手紙と再会を重ねてきた二人が、ようやく同じ未来を言葉にしました。戦場とは違うアレクの緊張と、エリーゼの喜びを感じていただけたら嬉しいです。


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