第七話 あなたと生きるために
救援の労をねぎらうため、アルヴェイン大公家から届いた招待状。
アレクは、エリーゼへ伝えたい言葉を胸に、再び国境を越えます。
アルヴェイン大公家からの招待状が届いたのは、アレクが王都から領地へ戻り、留守中の報告をひと通り聞き終えた頃だった。
補給街道の奪還と兵糧の護送に尽力した五人を、大公家の客として迎えたい。
丁寧な言葉で記された書状を、アレクは机の上へ置いた。
アルベルトは、今もベルン伯爵領にいる。前線を離れられない自分に代わり、本国で労をねぎらうよう指示したという。五人を迎えるのは、大公妃だった。
「こちらからは、ご出席のお返事を差し上げてよろしいでしょうか」
机の向こうで、オスカーが尋ねた。
アレクはすぐには答えず、もう一度書状へ目を落とした。
招かれているのは自分一人ではない。私用で訪れるのでもなかった。
それでも、エリーゼに会えるかもしれないと思った瞬間から、胸の奥が落ち着かなかった。
「マティアス様にも同じ知らせが届いているはずです。まずは、ご相談します」
「承知いたしました」
オスカーは頷き、手元の紙へ書き留めた。
「お出かけになる場合、先ほどお話しした件は、出発前にご判断をお願いいたします。それ以外は、こちらで進められます」
「ありがとうございます。留守をお願いできるよう、今日のうちに目を通します」
アレクが書類を引き寄せると、オスカーは次の一枚を差し出した。
招待状は、その脇へ丁寧に置かれた。
気になって何度も視線が向いたが、オスカーは気づかないふりをしていた。
数日後、マティアスから知らせが届いた。
レオンハルトは、五人が招待を受けてアルヴェインへ向かうことを許可した。先方への返書と、国境での受け入れについても手配が進められる。
出発前に顔を合わせたマティアスは、アレクへ短く言った。
「向こうが礼を尽くして迎えると言っている。こちらも、相応の支度をして行け」
「はい」
「護衛の人数は先方へ伝えてある。軍を率いて行くわけではないからな」
「承知しています」
マティアスは、アレクの顔を見た。
「それから、招待されたからといって、エリーゼ様の時間まで自由になると思うなよ」
「お会いできるか、手紙で伺おうと思っております」
「ああ。先方の都合に合わせろ」
言われなくても、そのつもりだった。
けれど、会えるかもしれないという期待ばかりが先に立っていたことも、否定できなかった。
アレクは領地へ戻ると、エリーゼへの手紙を書いた。
大公家から招待を受けたこと。訪問の日取りが決まったこと。都合が許すなら、会う時間をいただきたいこと。
最後の一文を書くところで、しばらく筆が止まった。
伝えたい言葉は、決まっている。
その言葉を胸に留め、会う日まで待つことが、こんなにも難しいとは思わなかった。
アレクは紙を見つめた後、ゆっくりと筆を動かした。
お会いして、お伝えしたいことがあります。
書き終えてから、声に出さずに読み返した。
あまりに改まっているだろうか。何か悪い知らせだと思わせないだろうか。
迷った末、その前に、久しぶりに会えることを楽しみにしていると書き添えた。
エリーゼからの返事は、出発までに届いた。
自分も会える日を楽しみにしていること。祝宴には大公家の一員として出席すること。そして、翌日であれば、ゆっくり話をする時間を取れること。
面会については家宰にも伝え、来訪後に案内してもらえるよう頼んだとあった。
アレクは最後まで読み終え、もう一度、初めから読み直した。
「お返事は、よいお知らせでございましたか」
茶を運んできたマルタに尋ねられ、顔を上げる。
「はい。お会いできるそうです」
「それはようございました」
マルタは微笑んで、杯を置いた。
アレクは頷き、手紙を畳んだ。
今度は、会いたかったと伝えるだけでは帰れない。
自分から書いた一文が、もうエリーゼへ届いている。
手紙をしまう指に、少しだけ力が入った。
◇ ◇ ◇
国境では、アルヴェイン側の役人が招待状と一行の名を確かめた。
アレク、ヴィクトル、エイドリアン、カスパル、ロベルト。
五人の確認を終えると、同行する護衛と従者の人数が照合される。待っていた案内役が進み出て、挨拶をした。
先方との取り決めに従い、一行は国境を越えた。
前にこの国へ入った時は、兵糧を待つ軍のもとへ、少しでも早くたどり着こうとしていた。
今は、荷を積んだ馬の歩みに合わせ、整えられた道を進んでいる。
アレクは街道の先へ目を向けた。
戦のためではなく、会いたい人に会うために、この道を通っている。
そう思うと、いつもは気に留めない宿までの距離が、妙に長く感じられた。
「まだ着かないぞ」
隣からカスパルが言った。
「分かっている」
「さっきも、その先を見ていた」
「道を見ていただけだ」
「それなら、俺と同じものを見ているはずなんだがな」
カスパルが笑う。
アレクが何か言い返す前に、ロベルトが口を挟んだ。
「早く着いても、今の格好のまま宴へ出られるわけじゃない。着いてからの支度もある」
「その話は、出発前にも聞いた」
「なら、覚えておけよ。俺たちまで旅の埃を被ったまま並ばされては困る」
アレクは自分の袖へ目を落とした。
汚れてもよい旅装を選んできたが、用意した礼装を着ることを考えると、別の緊張が湧いてくる。
ヴィクトルが、少し気の毒そうに笑った。
「まだ何もしていないうちから、あまり困らせるな」
「俺は支度の話をしただけだ」
ロベルトが答え、カスパルが肩を揺らした。
アレクはそれ以上言い返さず、手綱を握り直した。
エリーゼに何を話すのかまでは、四人に明かしていなかった。
それでも、会うことを楽しみにしているのは、隠せていないらしかった。
旅を終え、大公家の居城へ着いた時には、門の内側で家宰と従者たちが待っていた。
案内役が一行を紹介する。
アレクが馬を下りると、家宰は進み出て頭を下げた。
「遠路、お越しいただきありがとうございます。大公家を代表して、皆様を心より歓迎いたします」
五人も礼を返した。
馬が引かれ、荷が運ばれていく。
アレクは、案内されるまま石段を上がった。
見覚えのある場所だった。
けれど、先に立つ者も、自分へ向けられる言葉も、以前とは違う。
かつてはアルベルトの呼び出しを待ち、用事を言いつけられれば、すぐに動けるようにしていた。今は客として迎えられ、旅の疲れを休めるよう勧められている。
用意された部屋へ入ると、窓辺には水差しが置かれ、椅子には清潔な布が掛けられていた。
「御用がございましたら、外に控える者へお申しつけください」
「ありがとうございます」
アレクが答えると、従者は一礼して退出した。
扉が閉じてから、アレクは部屋の中を見回した。
椅子に腰を下ろしかけて、やめる。
窓へ歩き、庭を見下ろした。
ここに、エリーゼがいる。
その思いが、客として迎えられた驚きよりも強くなった。
だが、今から勝手に探しに行くわけにはいかなかった。
アレクは窓から離れ、運び込まれた荷へ向き直った。
まずは、失礼のない姿で挨拶をしなければならない。
上着を取り出す手が、いつもより慎重になった。
◇ ◇ ◇
祝宴に先立ち、五人は大公妃へ挨拶をするため、居間へ案内された。
広い部屋ではあったが、大勢の諸侯が並ぶ謁見の間とは違っていた。窓際には椅子が置かれ、その脇で侍女が控えている。
大公妃は五人を迎えると、一人ずつ顔を見て言った。
「夫から、皆様の働きについて聞いております。遠いところを、よくお越しくださいました」
アレクたちは進み出て、礼を述べた。
大公妃は座るよう勧めてから、自分も椅子へ腰を下ろした。
「本来なら、夫もここでお迎えしたかったでしょう。けれど、今は前線を離れられません。私から、改めてお礼を申し上げます」
「もったいないお言葉です」
アレクが答えた。
「私たちは、レオンハルト陛下の命を受け、任じられた役目を果たしたまでです」
「そのおかげで、夫と兵たちのもとへ食べるものが届きました。私にとっては、それだけで十分に、お礼を申し上げる理由になります」
穏やかな言葉だった。
アレクは一度口を閉じ、それから頭を下げた。
「無事にお届けできて、よかったと思っております」
大公妃は頷いた。
その時、隣室へ続く扉が開いた。
乳母に手を引かれた幼い男の子が、敷居の前で足を止めた。
見知らぬ客が並んでいることに気づいたらしい。男の子は乳母の服をつかみ、大公妃を見た。
「こちらへいらっしゃい」
母親に呼ばれて、ようやく歩き出す。
アレクは、男の子が大公妃の膝元へ寄るのを見ていた。
目元に、見覚えがあった。
「私たちの息子です」
大公妃が言った。
「まだ、ご挨拶をしていませんでしたね」
アレクは返事をしようとして、一瞬遅れた。
「大公殿下の……」
口に出してから、当たり前のことを言ってしまったと気づく。
大公妃は驚いたようにアレクを見て、それから笑った。
「あの方から、聞いていなかったのですか」
「申し訳ありません。存じ上げませんでした」
「謝ることではありません。この子が生まれたのは、あなたがマティアス殿のもとへ移ってからですもの」
そう言われても、すぐには驚きが収まらなかった。
アルベルトには何度も会っている。
戦の話も、鉄砲の話もした。エリーゼについて、からかわれたことまであった。
けれど、自分の息子については、一度も聞いていなかった。
男の子が、母親のそばからアレクを見た。
アレクが視線を合わせて会釈すると、男の子は大公妃の袖へ顔を寄せた。
隣でカスパルが笑いをこらえている気配がしたが、振り向く余裕はなかった。
「まもなく、この子も兄になります」
大公妃は、そっと腹へ手を添えた。
アレクは顔を上げた。
「それは……おめでとうございます」
今度は、五人の声が重なった。
大公妃は礼を述べ、息子の髪を撫でた。
「ですから、今夜はあまり遅くまでお付き合いできません。その分、皆様にはゆっくりお過ごしいただければと思います」
アレクは頷いた。
大公家の跡継ぎが、母親の袖をつかみながら、こちらをうかがっている。
戦場で見るアルベルトからは、なかなか想像できなかった光景だった。
後でエリーゼに会ったら、知らなかったのかと笑われるだろうか。
そう考えたところで、再び扉が開いた。
アレクは顔を向けた。
エリーゼが、侍女を伴って入ってきた。
髪には、林檎の花の飾りがあった。
アレクの視線が、そこで止まる。
エリーゼもこちらを見つけ、表情を明るくした。けれど、すぐに歩みを整え、大公妃へ礼をした。
「遅くなりまして、申し訳ありません」
「ちょうどよいところです。皆様へのご挨拶を」
エリーゼは五人へ向き直った。
「ようこそお越しくださいました。皆様にまたお会いできて、嬉しく思います」
一人ずつ挨拶を交わし、最後にアレクと目が合った。
「アレク様も、お変わりないご様子で安心しました」
「エリーゼ様も、お元気そうで何よりです」
用意していたわけでもない、ありふれた返事だった。
もっと言いたいことはあったはずなのに、声を聞いた途端、うまく続かなかった。
エリーゼは少し笑った。
それだけで、アレクの頬が熱くなる。
大公妃が二人を見ていたことには、気づかなかった。
祝宴は、近しい家臣たちを交えた、落ち着いたものだった。
席に着くと、補給路を取り戻した五人の働きが紹介された。
敵を追い払ったことだけではない。街道を確保し、荷車を通し、警備を引き継ぐまでを果たしたことにも、礼が述べられる。
アレクだけに話が向くことはなく、ヴィクトルやエイドリアンも、それぞれ受け持った役目について尋ねられた。
カスパルは旅の話で周囲を笑わせ、ロベルトは出された料理について尋ねたところから、その土地の産物の話へ移っていた。
アレクも、向けられた問いへ答えた。
ただ、卓の向こうでエリーゼが笑うたび、つい視線が動いた。
一度、目が合った。
エリーゼが小さく会釈する。
アレクも頷いてから、隣の家臣へ向き直った。
「失礼いたしました。今、何と……」
「街道で、特に傷んでいた場所がないかと」
「はい。そちらについては、引き継ぎの際にもお伝えしましたが――」
答えながら、自分でも情けなくなった。
目の前の会話へ集中しなければならない。
そう思っているのに、エリーゼの声は、ほかの声よりはっきり聞こえた。
大公妃が先に席を立った後も、宴はしばらく続いた。
やがて客たちが退出を始めると、エリーゼがアレクのそばへ来た。
「明日は、朝のお食事の後でよろしいでしょうか」
「はい。私は、いつでも」
「では、庭へご案内します。お天気もよさそうですから」
「楽しみにしています」
エリーゼは頷き、少し声を落とした。
「お手紙、ありがとうございました」
アレクは、彼女の顔を見た。
それは訪問を知らせたことへの礼か、それとも、最後に添えた一文のことなのか。
確かめる前に、エリーゼは侍女とともに廊下へ歩いていった。
アレクがその姿を見送っていると、横からカスパルが顔をのぞかせた。
「今夜は、眠れそうか」
「眠る」
「そうか。それならよいんだが」
笑いながら先へ行く背を、アレクは追った。
部屋へ戻ってからも、明日の朝まで、まだずいぶん時間があるように感じられた。
◇ ◇ ◇
翌朝、庭へ案内される途中で、アレクは上着の襟へ手を伸ばしかけた。
指先を止め、そのまま下ろす。
身支度は、部屋を出る前に確かめてもらった。
今から触って、また曲げてしまっては意味がない。
案内の侍女が、庭へ続く扉を開いた。
外の空気は、室内より少し冷たかった。
石畳の先に、背の低い植え込みが続いている。その向こうの東屋で、エリーゼが待っていた。
アレクを見つけると、椅子から立ち上がる。
「おはようございます」
「おはようございます。お待たせしました」
「私も、今来たところです」
エリーゼが席を勧めた。
卓には茶と小さな菓子が用意されていた。侍女は杯へ茶を注ぐと、呼ばれればすぐに来られる距離まで下がった。
アレクは手袋を外し、膝の上へ置いた。
エリーゼが、それを見てから顔を上げる。
「昨夜は、よくお休みになれましたか」
「はい」
答えてから、少し間が空いた。
「……少し、目が覚めてしまいましたが」
エリーゼが笑った。
「私もです」
「エリーゼ様も?」
「久しぶりに皆様とお話しできて、嬉しかったので。部屋へ戻ってからも、なかなか眠くならなくて」
アレクは杯へ手を伸ばした。
自分だけではなかったのだと思うと、少し楽になった。
茶を一口飲んでから、エリーゼを見る。
「叔父様のこと、ありがとうございました」
彼女が言った。
「無事だとは聞いていました。でも、兵糧が届かなくなったと知った時は、心配で」
「お会いした時には、お元気でした。兵糧も届きましたので、兵の皆様も落ち着かれたと思います」
「ええ。こちらにも知らせが来ました」
エリーゼは頷いた。
「叔母様も、ほっとしていらっしゃいました。昨夜のご挨拶だけでは足りないくらいだと、おっしゃっていましたよ」
「私たちは、任じられた役目を――」
言いかけて、アレクは止まった。
エリーゼが、口元を押さえていた。
「何か、おかしなことを言いましたか」
「いいえ。ただ、今日はずいぶん改まっていらっしゃるのですね」
「そうでしょうか」
「昨夜のご挨拶を、もう一度聞いているようでした」
アレクは、自分でも笑ってしまった。
「すみません。どうも、うまく話せなくて」
「謝らないでください。私、お礼を申し上げたかっただけです」
「はい」
少し考え、それから言い直した。
「アルベルト様がご無事で、私も嬉しかったです」
「はい」
エリーゼの笑みが深くなった。
それを見て、アレクも肩の力を抜いた。
「そういえば、昨夜は本当に驚きました」
「叔父様のお子様のことですか」
「ご存じだったのですか」
「お隣にいましたもの。アレク様が、あまりに驚いたお顔をなさるので」
エリーゼは、思い出したように笑った。
「叔父様から、お聞きになっていると思っていました」
「私も、聞いていなかったことに驚きました。何度もお会いしていたのですが」
「お仕事のお話ばかりだったのでしょう?」
「……そうですね」
振り返ってみれば、その通りだった。
アルベルトが息子の話をするより前に、自分が用件を持ち込んでいたのかもしれない。
「あの子は、叔父様が戻られると、いつも後をついて歩くんです」
「アルベルト様の後を?」
「ええ。執務のお部屋まで行きたがって、止められています」
アレクは、その光景を思い浮かべた。
前線で命令を下すアルベルトの後ろを、小さな男の子が懸命についていく。
うまく想像できずにいると、エリーゼが言った。
「叔父様も、お嫌ではないようですよ」
「それは、そうでしょうね」
「困った顔をなさるのに、ご自分から抱き上げてしまうのですから」
アレクは笑った。
エリーゼが話すアルベルトは、自分の知っている大公とは少し違う。
この城には、自分が知らない時間が流れている。
エリーゼがどのように日々を過ごしているのか、もっと聞きたいと思った。
彼女は庭の植え込みへ目を向け、先日、幼い従弟がそこで見つけたものを得意げに持ってきた話をした。
アレクも、城へ戻った後のことを話した。
オスカーから次々に書類を渡されたこと。出発までに片づけるつもりだった仕事が、思ったより多かったこと。
「お忙しいのですね」
「自分の城なのに、まだ教わることばかりです」
「でも、楽しそうです」
「そう見えますか」
「はい。困っているとおっしゃる時も、嫌そうではありませんから」
アレクは少し考えた。
確かに、分からないことは多い。判断を迷うこともある。
それでも、帰る場所として城を思い浮かべるようになっていた。
そこにエリーゼがいてくれたら。
考えた途端、続けようとした言葉が消えた。
杯へ手を伸ばし、まだ茶が残っていることを確かめる。
エリーゼは、急かさずに待っていた。
木々の葉が風に揺れた。
離れたところで、侍女がこちらの様子をうかがい、静かに視線を外した。
アレクは杯を置いた。
そろそろ、話さなければならない。
そう思うほど、最初の言葉が出てこなかった。
「アレク様」
エリーゼに呼ばれ、顔を上げる。
「お手紙に、お伝えしたいことがあると書いていらしたでしょう?」
「はい」
「ずっと、気になっていました」
エリーゼは、膝の上で両手を重ねていた。
笑みは残っていたが、先ほどより少し緊張しているように見えた。
「私に、お話しくださいますか」
アレクは、その目を見た。
彼女も、待っていた。
自分が来る日だけではなく、この話をする時を。
「もちろんです」
アレクは答えた。
今さら、別の話へ逃げるつもりはなかった。
◇ ◇ ◇
「少し、歩きませんか」
アレクが言うと、エリーゼは頷いた。
椅子を引き、二人で東屋を出た。
侍女が卓を整える音が、後ろへ遠ざかる。付き添いの一人は、二人の姿が見える距離を保って歩き始めた。
石畳をゆっくり進みながら、アレクはエリーゼの歩みに合わせた。
話そうと考えていたことは、幾つもあった。
旅の途中でも、昨夜、眠れずにいた時にも、頭の中では言葉にできていた。
けれど、隣にいるエリーゼへ向けて口にしようとすると、用意した順番は役に立たなかった。
「お会いできて、嬉しいです」
ようやく言うと、エリーゼがこちらを向いた。
「私もです」
「いつも、お会いすると、次はいつ来られるだろうと考えてしまいます」
アレクは足元ではなく、エリーゼを見て話した。
「まだ帰る日にもなっていないのに、次のことを考えるのは、変かもしれませんが」
「変ではありません」
エリーゼは、すぐに答えた。
「私も、同じですから」
その言葉に、アレクの胸が熱くなった。
エリーゼは少し照れたように視線を落とし、それから続けた。
「お帰りになると分かっているので、仕方がないことなのですけれど。もう少し、お話しできたらと思ってしまいます」
「手紙に書こうと思うことも、あります」
「はい」
「でも、帰ってから書こうとすると、その時にお話ししたかったことと、少し違ってしまって」
うまく説明できず、アレクは言葉を探した。
仕事の報告なら、必要なことを順に記せばよい。
けれど、エリーゼに話したいことは、それだけではなかった。
何かを見て面白いと思ったこと。失敗して、後から笑ってしまったこと。うまくいって、一番に知らせたくなったこと。
手紙が届く頃には、書き記した出来事も、何日も前の話になっている。
「その日のことを、その日のうちにお話しできたらと思うのです」
アレクは言った。
エリーゼが、顔を上げた。
「大切なことだけでなくても。今日、こんなことがあったと、お話しして。エリーゼ様が、何をなさっていたかも聞いて」
自分の望みは、言葉にすると、驚くほどありふれていた。
同じ場所で食事をする。
顔を見て話す。
出かける時には、そこへ帰ってくると思える。
爵位を得た時も、城を与えられた時も、こんなふうに暮らしを思い描いたわけではなかった。
エリーゼと暮らすことを考えて、初めて、自分が望む日々の姿がはっきりした。
「手紙をいただくのも、嬉しいです。何度も読み返しています」
「私も、アレク様のお手紙は、大切にしています」
「ありがとうございます」
アレクは小さく息をついた。
「でも、これからもずっと、会って、別れて、手紙を待つだけではなくて」
そこで足を止めた。
エリーゼも立ち止まり、アレクへ向き直った。
髪に留められた林檎の花が、すぐ目の前にあった。
贈った時のことを思い出す。
受け取ってもらえるか、それだけでも緊張していた。
今、願おうとしているのは、それよりずっと大きなことだった。
けれど、引き返したいとは思わなかった。
「エリーゼ様と、同じ場所へ帰るようになりたいのです」
彼女の唇が、わずかに開いた。
アレクは、最後まで視線をそらさなかった。
「エリーゼ様。私と結婚してください」
風が、二人の間を通り過ぎた。
エリーゼは動かなかった。
アレクを見つめたまま、重ねていた手を胸元へ寄せる。
返事がない時間が、ひどく長く感じられた。
急に話して驚かせただろうか。
もっと先に伝えるべきことがあっただろうか。
考えが浮かんだが、口にはしなかった。
エリーゼが答えようとしている。
その唇が動いた。
「……はい」
小さな声だった。
アレクは息を止めた。
エリーゼは頷き、今度ははっきりと言った。
「私も、アレク様と一緒にいたいです」
頬が赤くなっていた。
目元も、少し濡れている。
けれど、その顔には笑みがあった。
「お帰りになるたびに、寂しかったのです。でも、お引き留めしてはいけないと思って」
「エリーゼ様」
「次にお会いしたら、今度こそ、もう少し素直に言おうと思っていました」
彼女は笑おうとして、一度唇を結んだ。
アレクは、何か言わなければと思った。
だが、胸の奥に込み上げてくるものが強く、すぐには声にならなかった。
エリーゼが、こちらをうかがう。
「アレク様?」
「すみません」
アレクは息をつき、ようやく笑った。
「嬉しくて、何と言えばよいか……」
それを聞いて、エリーゼも笑った。
目元を指で押さえ、それから首を振る。
「私もです」
二人とも、しばらく何も言わなかった。
返事をもらうまでに考えていた不安が、すべて消えたわけではない。
それでも、今は目の前のエリーゼが、同じことを望んでくれた。
そのことだけで、胸がいっぱいだった。
アレクは、ゆっくりと手を差し出した。
エリーゼはその手を見てから、アレクの顔を見た。
そして、自分から手を重ねた。
指先が触れる。
アレクは、強く握りすぎないように気をつけながら、その手を包んだ。
「ありがとうございます」
口にしてから、ほかに言い方があったかもしれないと思った。
けれど、エリーゼは嬉しそうに頷いた。
「こちらこそ。お話しくださって、ありがとうございます」
アレクは彼女の手を見た。
戦場で命令を出す時とは違う震えが、自分の指先に残っていた。
エリーゼが、それに気づいたように少しだけ握り返す。
「緊張なさっていたのですね」
「はい」
「私も、何をお話しになるのかと、ずっと考えていました」
「悪い知らせだと思わせてしまいましたか」
「少しだけ」
エリーゼは正直に答えて、それから笑った。
「でも、楽しみにしていると書いてくださったので。きっと違うと思っていました」
「書き添えてよかったです」
「ええ」
何でもないやり取りだった。
それなのに、アレクには、その一つ一つが嬉しかった。
エリーゼの手は、まだ自分の手の中にあった。
◇ ◇ ◇
二人は手をつないだまま、庭の奥へ少し歩いた。
先ほどまでと同じ道なのに、アレクは歩幅を合わせるたび、隣を見てしまった。
エリーゼも時々こちらを向き、そのたびに二人とも笑った。
東屋の見える場所まで戻ったところで、彼女の表情が少し変わった。
アレクは足を緩めた。
「どうなさいましたか」
エリーゼは、つないだ手へ目を落とした。
「叔父様のことを、考えていました」
アレクも、静かに頷いた。
「叔父様は……認めてくださるでしょうか」
その声には、先ほどの返事を取り消すような迷いはなかった。
喜びを誰かに伝えたくなり、最初に思い浮かんだ人を気にかけている。アレクには、そう聞こえた。
「私からも、きちんとお願いをします」
「叔父様が、アレク様をよく思っていないということではないのです」
エリーゼは顔を上げた。
「お手紙にも、今回のことを書いていらっしゃいました。よく働いてくれたと。それに、前から……」
言いかけて、少し頬を赤くした。
「前から?」
「アレク様のことで、私をからかうこともありました」
アレクは思わず笑った。
「私もです」
「やはり、そうでしたか」
「はい」
二人でアルベルトの顔を思い浮かべ、また笑う。
だが、エリーゼはすぐに真剣な表情へ戻った。
「父も母もいなくなってから、叔父様と叔母様が、ずっと私を守ってくださいました」
アレクは黙って聞いた。
「ですから、喜んでいただきたいのです。困らせて、この家を出ていくようなことにはしたくありません」
「はい」
アレクは頷いた。
大公家の了承が必要だということは、分かっていた。
家柄も、国と国の関係も、考えなければならない。
だが、エリーゼが今話しているのは、それだけではなかった。
自分を育ててくれた人に、幸せになるところを見てほしい。
その願いを、大公家との交渉という一言で片づけたくはなかった。
「アルベルト様にも、大公妃殿下にも、喜んでいただけるようにしたいです」
アレクは言った。
「すぐに、すべて認めていただけるかは分かりません。ですが、お二人に黙って話を進めるつもりはありません」
エリーゼが、こちらを見た。
「私たち二人が結婚を望んでいることを、きちんとお伝えしましょう」
「私からも、お手紙を書きたいです」
「はい」
「アレク様にお願いするだけではなくて。私が、どう思っているのかも」
その言葉を聞き、アレクは頷いた。
自分が何もかも引き受け、彼女を待たせるだけではない。
エリーゼにも、自分で伝えたい気持ちがある。
「一緒に、お願いしましょう」
「はい」
エリーゼは答え、少し安心したように息をついた。
アレクも、自分が帰国した後にすべきことを思った。
レオンハルトとマティアスへ、彼女の返事を報告する。
王の支持を得たことを先に知らせ、了承を迫るためではない。二人で決めた願いを、大公家へ正式に伝えてもらうためだった。
エリーゼの気持ちを確かめた今、二人の願いとして報告できることが嬉しかった。
エリーゼが、髪飾りへ空いた方の手を添えた。
「叔父様にお話しする前に、叔母様には、私からお伝えしてもよろしいでしょうか」
「もちろんです。必要でしたら、私もご一緒します」
「ありがとうございます。まずは、私からお話ししてみます」
彼女は頷き、林檎の花から手を離した。
アレクの視線がそこへ向いたことに気づき、少し首を傾げる。
「どうかなさいましたか」
「今日も、つけてくださっていたのですね」
「はい。アレク様とお会いする日ですもの」
ためらいのない返事に、アレクの頬が熱くなった。
エリーゼは、その反応を見て嬉しそうに笑った。
「今度は、アレク様のお城も見てみたいです」
「ぜひ、おいでください」
すぐに答えてから、アレクは言葉を継いだ。
「まだ、私自身も慣れていないところがありますが」
「ご案内してくださいますか」
「もちろんです」
「では、楽しみにしています」
エリーゼは城の様子を尋ねた。
庭はあるのか。窓から何が見えるのか。アレクは普段、どの部屋で仕事をしているのか。
アレクは一つずつ答えた。
立派さを誇れるように話そうとは思わなかった。
朝、どこから光が入るのか。オスカーが報告に来る部屋はどこか。城下へ出る時には、どの門を通るのか。
そんなことを話しているうちに、エリーゼを案内する自分の姿が、自然に浮かんできた。
「たぶん、私よりオスカーの方が、上手にご説明できます」
「でも、私はアレク様にご案内していただきたいです」
「……では、それまでに、もう少し覚えておきます」
「分からないところは、一緒に教えていただけばよいのではありませんか」
アレクは彼女を見た。
エリーゼは、何でもないことのように笑っていた。
「すべて、お一人で覚えておかなくても」
アレクも笑った。
「そうですね」
いつか、本当にそうして歩けるだろうか。
自分の城の廊下を、隣にエリーゼがいることを当たり前に思いながら。
その日を望んでよいのだと、ようやく実感が湧いてきた。
東屋へ戻ると、侍女が新しい茶を用意していた。
二人が近づくのを見て、一礼する。
アレクは椅子を引こうとして、つないだ手を緩めた。
けれど、エリーゼの指が、すぐには離れなかった。
顔を向けると、彼女もこちらを見ていた。
「あの……」
エリーゼは、少し恥ずかしそうに笑った。
「もう少しだけ、歩きませんか」
アレクは、引きかけた椅子から手を離した。
「はい」
侍女へ会釈し、もう一度エリーゼへ手を差し出す。
今度は、彼女も迷わず握った。
二人で石畳へ戻ったところで、エリーゼが言った。
「帰られた後のお手紙も、待っています」
「必ず、書きます」
「今日のことは、忘れないでくださいね」
アレクは足を止めかけた。
エリーゼの声は冗談めいていたが、その頬はまだ赤かった。
「忘れられるはずがありません」
そう答えると、彼女は嬉しそうに目を細めた。
「私もです」
アレクは、握った手へわずかに力を込めた。
帰国すれば、報告しなければならないことがある。アルベルトへの正式な申し入れも、その返事を待つ時間も、これからだった。
けれど、エリーゼの返事は、もう自分の耳で聞いた。
隣を歩く彼女も、同じ未来を望んでいる。
アレクは歩みを緩めた。
エリーゼも、それに合わせてくれた。
今はもう少しだけ、この庭を二人で歩いていたかった。
第七話を読んでいただき、ありがとうございました。
手紙と再会を重ねてきた二人が、ようやく同じ未来を言葉にしました。戦場とは違うアレクの緊張と、エリーゼの喜びを感じていただけたら嬉しいです。
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