第二十七話 外れの山に眠るもの
お読みいただき、ありがとうございます。
新たな領地の村から、アレクのもとへ気になる噂が届きます。
マティアスのもとから戻って、数週間が過ぎた。
城外では、兵舎の柱が立ち始めていた。
朝になると木槌の音が響き、昼には荷車が新しい材木を運び込む。町へ続く道を塞がないよう、荷を下ろす場所には杭が打たれていた。
アレクは執務室の窓から、その様子を眺めた。
兵が入れるようになるのは、もう少し先だった。
それでも、地面に縄を張っただけだった場所に、建物の形が現れている。
扉が叩かれた。
「どうぞ」
オスカーが書状を持って入ってきた。
「ロルフ様から、お返事が届いております」
アレクは卓へ戻り、差し出された手紙を受け取った。
工場では、普段の製造と修繕を続けながら、新しい仕事を受け持つ者の人選が進んでいた。
道具を作ることに関心を示した職人がいるという。
ただし、その者を今の持ち場から抜くには、代わりに仕事を任せる者を育てなければならない。まずは日を分けて、新しい作業へ回すつもりだと書かれていた。
アレクは最後まで読み、手紙を置いた。
「進めてもらってください。必要な道具の見積もりも、届いた分から確かめましょう」
「承知いたしました」
オスカーが書き留める。
その脇には、工房へ運んだ木材や鉄の記録もあった。
アレクは、燃料の項目へ目を向けた。
今は足りている。
だが、工房が増えれば、使う量も増える。
木炭を買う金だけ用意すればよいのか。炭を焼く者が増えれば、それまで畑や山で働いていた者の手が減るかもしれない。木を切り続ければ、後に残るものも変わる。
以前、領地を持ったばかりの頃にも考えたことだった。
オスカーが、別の紙を差し出した。
「燃える石について、報告がございます」
アレクは顔を上げた。
工房の燃料を考え始めた時、商人や領内の役人へ尋ねさせていた。
黒い石を、火にくべて使う土地はないか。
聞いたことがあれば知らせてほしい。それ以上のことは、まだ頼んでいなかった。
「見つかったのですか」
「実物は、まだ届いておりません。ただ、新しくお預かりになった領地の山村で、似た物を使っているという話がございました」
「どのような話ですか」
「村の者が、山から黒い石を持ち帰り、燃料にしているそうです」
アレクは身を乗り出しかけ、椅子へ座り直した。
「その村へ行く商人には、確かめましたか」
「はい。木炭を持っていっても、ほかの村ほど売れないとのことでした」
オスカーは紙を見た。
「もっとも、買う余裕がないためではないかとも申しております。薪を自分で集める家もございますので、木炭の購入量だけでは判断できません」
「そうですね」
アレクは頷いた。
欲しい答えに近い話だった。
だからこそ、すぐに決めつけるわけにはいかなかった。
「その村は、何をして暮らしているのですか」
「今は、山羊や羊を飼い、畑を耕しています。昔は鉄鉱山で栄えていた村だそうです」
「昔は?」
「主要な坑道が使えなくなり、採掘はほとんど行われておりません」
アレクは地図を広げた。
オスカーが山道を指で辿る。
街道から離れ、谷を越えた先に村があった。
道はそこで途切れているわけではない。山へ続く細い線が、古い鉱山の印へ伸びていた。
「坑道が使えなくなった理由は」
「詳しくは、現地で聞く必要がございます。水が溜まったという話ですが、古い記録だけでは、今の状態までは分かりません」
アレクは地図を見つめた。
石炭かもしれない。
もしそうなら、工房だけでなく、もっと先の仕事にも使える可能性があった。
だが、それは頭の中の話だ。
山にある物と、実際に使える物は違う。
「見に行きます」
アレクは言った。
「鉱山の仕事に詳しい者を、同行させてください。私だけでは、石を見つけても、その先を判断できません」
「手配いたします」
「村には、燃料のことを聞きに行くと伝えておいてください。急に兵を連れて訪ねて、驚かせたくありません」
オスカーが頷いた。
アレクはもう一度、鉱山の印へ目を落とした。
帳簿の中では、収入の減った村の一つだった。
そこに何が残っているのかは、まだ分からなかった。
◇ ◇ ◇
山へ近づくにつれ、荷車の通った跡が浅くなった。
車輪が踏み固めていたはずの場所には草が伸び、道の端では崩れた土が雨に流されている。
アレクは馬を歩かせながら、斜面を見上げた。
少数の護衛とオスカー、それに近隣の鉱山で働いた経験のある男が同行していた。
男は何度か馬を止め、道の幅や、谷へ下る斜面を確かめた。
「重い荷を運ぶなら、先に道を見なければなりません」
「鉱山が動いていた頃も、この道で鉱石を運んでいたのでしょうか」
「おそらくは。ただ、鉱山が動いていた頃には、もっと手が入っていたはずです」
男が道端を指した。
土に埋まりかけた石が、並んでいる。
「水を逃がす場所が塞がっています。雨が降るたび、道の方へ流れているのでしょう」
アレクは頷いた。
アイヒェンタールで、初めて領地を見て回った時のことを思い出した。
地図には道があった。
帳簿には橋があった。
だが、荷車が通れるかどうかは、現地へ行かなければ分からなかった。
坂を上り切ると、谷の向こうに家々が見えた。
村の入口には、古い作業場があった。
屋根の一部が落ち、壁際には車輪の外れた荷車が置かれている。大きな木の台は残っていたが、その上に道具はなかった。
人が減ってから、長い時間が経っているようだった。
村長と数人の男が、道の脇で待っていた。
アレクが馬を下りると、一斉に頭を下げる。
「遠いところを、ようこそお越しくださいました」
「出迎え、ありがとうございます」
アレクは手綱を護衛へ渡した。
村長は、オスカーの持つ書類箱へ目を向けた。
「納めるものについては、役人の方にもお伝えしたとおりでございまして……」
「今日は、そのために来たのではありません」
アレクが答えると、村長は驚いたように顔を上げた。
「燃料にしている石を、見せていただきたいのです」
「本当に、そのことでございますか」
「はい。それから、鉱山の様子も聞かせてください」
村長は、後ろにいる男たちと顔を見合わせた。
領主が、わざわざ石を見に来る。
その理由が分からないのだろう。
アレクは急かさず、返事を待った。
「こちらへ、お越しください」
村長が、ようやく歩き出した。
◇ ◇ ◇
家の軒下に、黒い塊が積まれていた。
大きさは揃っていない。
拳ほどの物もあれば、それより小さく砕けた物もある。薪とは分けて置かれ、上には雨を避けるための板が掛けられていた。
村長が一つ拾い、両手で差し出した。
「これでございます」
アレクは受け取った。
思っていたより重かった。
黒い表面には、光を受けて鈍く照るところがある。指先で持ち直すと、掌へ黒い粉がついた。
石炭。
その名が頭に浮かんだ。
「これを、燃やしているのですね」
「はい。薪と使い分けております」
「いつ頃からですか」
「私が子供の頃には、もう使っていました。父も、鉱山で働いていた頃から持ち帰っていたと申しておりました」
アレクは、同行した男へ塊を渡した。
男は表面を見てから、積まれているほかの石も確かめた。
「採った場所を見せてもらえますか」
「山の入口まででしたら」
村長が答える。
アレクは、その返事を聞き逃さなかった。
「奥へは行かない方がよいのですか」
「使われなくなった道もございます。私どもも、普段石を採っている場所より奥へは入りません」
「分かりました。無理に案内しなくて構いません」
アレクは黒くなった掌を見た。
オスカーが差し出した布で、指先を拭う。
「少し、持ち帰らせてもらえますか。職人に確かめてもらいたいのです」
「この程度でしたら、いくらでも」
「いくらでも、では困ります。まず、調べるために必要な分だけでお願いします」
村長が、戸惑った顔をした。
アレクは続けた。
「採って運んできた物でしょう。代金を払います」
「領主様に、お代など」
「今後も使える物なら、続けて買うことになります。その最初だけ、ただでもらうわけにはいきません」
村長は、すぐには答えなかった。
オスカーが一歩進み、どれほど手間をかけて運んでいるのかを尋ね始めた。
そのやり取りを、家の戸口から女が見ていた。
少し離れた場所では、子供が母親の服を掴み、黒い石とアレクを交互に見ている。
アレクは再び、軒下の山へ目を向けた。
この村では、ずっと前から使われていた物だった。
自分が知る前から、誰かの食事を作り、寒い日を越える役に立っていた。
◇ ◇ ◇
鉱山へ続く道には、いくつもの分かれ道があった。
草に覆われた道もあれば、今も人が歩くため、土が見えている道もある。
村長は、古い杭の残る分岐で足を止めた。
「鉄を掘っていたのは、あちらです」
指した先には、斜面へ口を開けた坑道が見えた。
入口の周りには崩れた木材があり、その手前を細い水が流れていた。
「最初は、奥の方だけだったそうです。水を汲み出しながら掘っていたのですが、やがて追いつかなくなりました」
「それで、採掘をやめたのですか」
「すぐに全て止めたわけではございません。別の場所を掘り、取れる所から取っておりました。ただ、以前ほどは出なくなり、働く者も減りまして」
村長は坑道から目を離した。
「商人が来なくなりました。鉱山の仕事がなくなれば、荷を運ぶ者も、道具を直す者も食べていけません。若い者から、村を出ていきました」
アレクは、村の入口にあった荷車を思い出した。
車輪が外れたままなのは、直す意味がなくなったからかもしれない。
村長は別の道へ向かった。
「石を取っているのは、こちらです」
鉄を掘っていた坑道とは、向きも場所も違っていた。
道は狭かったが、人が歩いた跡がある。入口の近くには、土と混じって黒い欠片が落ちていた。
同行した男が先へ出た。
村長から話を聞き、入口の周囲を確かめる。
アレクはその後ろで待った。
「ここも、鉄を探して掘ったのですか」
「はい。山のあちらこちらに穴を掘ったそうです。しかし、ここではあの黒い石ばかりが出まして」
村長は、少し申し訳なさそうに言った。
「鉄は出ません。そこは外れの坑道です」
アレクは、足元の黒い欠片を見た。
「鉄を探していた時には、そうだったのでしょうね」
村長が顔を向けた。
アレクは屈み、欠片を一つ拾った。
ここにどれほど残っているかは分からない。
大量に採れるのか、工房で求める働きをするのかも、まだ分からなかった。
それでも、燃料として使える物がある。
それを採る場所を知る者がいて、使ってきた経験も残っている。
「これを町へ運んで売ったことはありませんか」
「ございます」
返事は、思っていたより早かった。
「商人へ見せた者も、荷に混ぜて持っていった者もおります」
「売れなかったのですか」
「全く売れなかったわけではありません。ただ、この山道では、重い荷を多く運べません」
村長が、戻ってきた道を見た。
「運び賃を払えば、ほとんど手元に残らないのです。町の者も、使い慣れた木炭を欲しがります。わざわざこちらまで買いに来る商人もおりません」
アレクは口を閉じた。
村人は、試していた。
売ればよいということに、気づかなかったのではない。
売ろうとして、それだけでは暮らせないと分かったのだ。
「昔、鉄を運んでいた時は」
「鉱山の荷がございましたから、商人も来ました。戻る荷車へ載せてもらえることもありました。今は、村の用事だけのために来てもらわねばなりません」
オスカーが、話を書き留めていた。
アレクは欠片を掌で転がした。
燃える石がある。
それだけでは、村は豊かにならない。
採る者がいて、運ぶ者がいて、買う者がいる。
どこか一つが欠ければ、石は山に置かれたままだった。
◇ ◇ ◇
アレクたちは村へ戻り、村長の家で話を聞いた。
昔、鉱山で働いていた老人も呼ばれた。
老人は、杖を椅子の脇へ置き、卓に広げられた古い図を覗き込んだ。
「この道は、今は通れません」
節の太い指が、一つの線を押さえる。
「こっちから回ることになります。あの頃は、そこにも小屋がありました」
同行した男が質問を重ねた。
水が増えた時期。
最後まで採っていた場所。
使わなくなった坑道と、今も村人が入る場所。
アレクは分からないことを途中で尋ねたが、自分の考えだけで話を進めようとはしなかった。
やがて、男が顔を上げた。
「これだけで、再開できるとは申し上げられません」
「はい」
「ただ、調べる場所は絞れます。石を採る場所と、鉄を掘っていた場所は、分けて見た方がよいでしょう」
「お願いします。必要な人と費用を出してください」
老人が、アレクを見た。
「水を、何とかしてくださるのでしょうか」
「方法を調べてもらいます」
アレクは答えた。
「今ここで、必ず坑道の水を汲み出せるとは言えません」
老人の目が、わずかに伏せられた。
アレクは地図の川を指した。
「この水の流れを利用できるか、水車を扱う職人にも相談したいと思っています。ただ、川があるだけで、うまくいくとは限りません」
アイヒェン村には、水車を使い、直してきた者たちがいる。
アレクより詳しい者が、すでにいた。
その経験を借りることはできる。
だが、麦を挽く水車を、そのまま鉱山へ移せばよいという話ではなかった。
「まず、何ができるかを確かめます。危ない場所へ、無理に入ってもらうことはしません」
アレクは同行した男へ向き直った。
「人を増やしても安全に働けるか。それを先に見てください」
「承知しました」
オスカーへも顔を向ける。
「道の修繕と、運ぶ費用をお願いします。工房で試す分を運びながら、どこで困るかも確かめたいです」
「商会にも、見積もりを求めます」
「買い手を増やせるかは、その結果を見てから相談しましょう」
オスカーが頷いた。
村長は二人のやり取りを、黙って聞いていた。
「領主様」
「はい」
「また、ここで働けるようになるのでしょうか」
部屋の中が静かになった。
老人も、戸口に立っていた男も、アレクを見ていた。
アレクは、卓の上にある黒い石へ目を落とした。
喜ばせる言葉なら、すぐに言える。
しかし、言った後に仕事も金も来なければ、この村には失望だけが残る。
「鉄鉱山を、以前のように戻せるかは、まだ分かりません」
アレクは村長を見た。
「ですが、この石を使えるか、私の工房で確かめます。そのために買う分と、調べるための費用は、こちらで用意します」
「本当に、買ってくださるのですか」
「はい。役に立ち、運び続けられるなら、その後も取引を続けたいと思っています」
村長の口が、少し開いた。
何か言おうとして、声にならなかったようだった。
オスカーが、持参した袋を卓へ置いた。
先ほど聞いた採取と運搬の手間を基に、今回買い取る分の代金を説明する。
石を持ってきた家の者が呼ばれ、量と金額を確かめた。
硬貨が、卓へ並べられた。
女はしばらく見つめてから、村長へ顔を向けた。
村長が頷く。
ようやく手を伸ばした指が、硬貨へ触れた。
「ありがとうございます」
「こちらこそ」
アレクは答えた。
「使ってみた結果も、お知らせします」
老人が、椅子の脇の杖を握った。
「昔の道なら、まだ覚えております。歩くのは遅くなりましたが、どこに何があったかくらいは」
「ぜひ、教えてください」
アレクが言うと、老人は図を自分の方へ引き寄せた。
「なら、この先にも印をつけておいた方がよろしい。荷車を止めていた場所がございます」
その声は、先ほどより大きかった。
◇ ◇ ◇
村を出る頃には、日が山の端へ近づいていた。
買い取った石は、運ぶ者と受け渡しの方法を決めた上で、村へ預けた。アレクたちは、確認に使う少量だけを持ち帰る。
村長は入口まで見送りに来た。
「御用命がございましたら、いつでも」
「まずは、調べに来る者へ話を聞かせてください。仕事が増えるからといって、急に奥まで掘り進めないようにお願いします」
「承知いたしました」
アレクは馬へ乗った。
少し進んでから、振り返る。
村の入口では、老人が若い男へ、壊れた荷車を指して何かを話していた。
何もかもが変わったわけではない。
道は傷んだままで、鉄の坑道には水が溜まっている。
今日渡した代金だけで、村が豊かになることもなかった。
それでも、あの荷車をもう一度使う話が始まったのかもしれない。
オスカーが、隣へ馬を寄せた。
「道の修繕費によっては、しばらく利益が出ないことも考えられます」
「はい」
「工房で使えると分かっても、一度に大きく広げるのはお待ちください」
「分かっています。兵を増やすのと同じですね」
オスカーが頷いた。
アレクは、持ち帰る石を包んだ荷へ目を向けた。
これが使えるなら、工房の燃料を選ぶ余地が増える。
買い手が増えれば、運ぶ荷もまとまる。
道を直す意味が生まれ、鉱山で働く者が増えるかもしれない。
その先には、もっと大きな動力があった。
火の力で、水を汲み出す機械。
水車を置けない場所でも、仕事を続けられる力。
蒸気機関の姿が頭に浮かんだ。
だが、今の自分が、図を一枚描けば作れる物ではなかった。
材料も、加工する道具も、それを扱う者の経験も必要になる。
だから、今から考え始める意味がある。
完成する日が遠いからといって、いつまでも手をつけずにいれば、その日は来ない。
「オスカー」
「はい」
「ロルフへ、もう一つ相談したいことがあります。ただ、今の仕事を増やして急がせるのではありません」
オスカーが顔を向けた。
「長くかかるかもしれない研究です。まず、話を聞いてもらうところから始めます」
「費用も、別に考える必要がございますね」
「お願いします。鉱山の調査が進めば、何を求めるべきかも、もう少し分かると思います」
オスカーは頷いた。
馬の蹄が、石を踏んだ。
アレクは前を向く。
城へ戻れば、報告を待っている者たちがいる。
村で見たものを、次の仕事へ変えなければならなかった。
◇ ◇ ◇
視察から戻った後も、城での日々は変わらず続いた。
ギルベルトからは、教える側へ回す兵の報告が届いた。オスカーは兵舎と厩の費用を確かめ、町の職人と工事の日程を調整している。
山村で買い取った石も、手配した荷とともに運ばれてきた。
アレクはその一部をロルフへ送り、燃料として確かめてほしいと頼んだ。
火の力で機械を動かす構想についても、改めて相談したいと書き添える。
今使っている道具を作る仕事を止める必要はない。すぐに成果を出せという注文でもない。
そのことは、はっきりと書いた。
鉱山の調査を任された男からは、古い坑道の図を作り直しているという報告が来た。
まだ、再開の日は決まっていなかった。
それでも、村の名は、滞った税の記録以外にも書かれるようになっていた。
そして、アレクは十八歳の誕生日を迎えた。
朝、執務室へ入ると、卓の上に書状が分けて置かれていた。
アレクが手を伸ばしかけたところで、オスカーが一礼する。
「お誕生日、おめでとうございます」
アレクは顔を上げた。
「ありがとうございます」
「本日は、夕方までに急ぎの用件を終えられるようにしております」
「何か、あるのですか」
「マルタが、食事の支度を進めておりますので」
アレクは扉の方へ目を向けた。
ちょうど入ってきたマルタが、その視線を受け止める。
「大きな宴ではございません。どうぞ、お時間だけ空けておいてくださいませ」
「そこまでしてもらわなくても」
「厨房の者たちも、お祝いを申し上げたいと申しております」
アレクは言葉を止めた。
遠慮することが、相手の厚意を退けることになる場合もある。
城へ来てから、何度か教えられたことだった。
「ありがとうございます。楽しみにしています」
マルタの表情が和らいだ。
「では、冷める前にお越しください」
「今日は、忘れません」
「お願いいたします」
オスカーが、卓の端に置いてあった一通を差し出した。
「こちらは、先にお渡ししておきます」
封を見た瞬間、アレクの指が止まった。
エリーゼからだった。
◇ ◇ ◇
二人が部屋を出た後、アレクは椅子へ座った。
ほかの書状を少し脇へ寄せ、封を切る。
最初の一文に、誕生日を祝う言葉があった。
手紙が当日に届くかは分からないため、少し早めに出したという。
城へ着いた報せを受け取り、安心したとも書かれていた。
アレクは、ゆっくりと読み進めた。
庭に並ぶ使用人を前に戸惑ったこと。
閣下と呼ばれ、名前で呼んでほしいと頼んだこと。
自分が書いた話に、エリーゼが返事をしていた。
『アレクが慌ててお願いしているところを想像して、少し笑ってしまいました』
アレクは口元へ手を当てた。
やはり、笑われた。
だが、次の文を読んで、その手を下ろした。
『けれど、城の方々にも、アレクがどのような人なのか伝わったのではないでしょうか。オスカー様とマルタ様が助けてくださっていると知り、私も安心しました』
窓の外から、木槌の音が聞こえていた。
廊下では、誰かが荷を運んでいる。
慣れ始めていた城の音を聞きながら、アレクは手紙の続きを読んだ。
『いつか、お城を見せてください。アレクが暮らしている部屋の窓から、どのような景色が見えるのか、私も見てみたいです』
その一文を、もう一度読んだ。
来てくれる。
日が決まったわけではない。
正式な訪問の話になったわけでもなかった。
それでも、自分が書いた願いに、エリーゼが答えてくれていた。
アレクは窓へ顔を向けた。
庭の先には町があり、その向こうには畑が広がっている。
領地をもらった時には、守らなければならない場所が増えたと思った。
今も、その気持ちは変わらない。
だが、この景色を見せたい相手がいることで、城の窓から見えるものが少し違って感じられた。
手紙には、エリーゼ自身が学んでいることも書かれていた。
帳面を読んで分かったつもりになっても、実際に話を聞くと、考え直すことがあるという。
アレクは山村でのやり取りを思い出した。
石があるなら、売ればよい。
そう考えた自分へ、村人は、売ろうとしたと答えた。
帳面だけでなく、自分の知識にも、見えていない部分がある。
返事には、そのことを書こうと思った。
最後には、身体を大切にしてほしいという言葉があった。
アレクは、読み終えてからもしばらく手紙を持っていた。
十八歳になった。
伯爵となり、城を持ち、千人の兵を養う計画を進めている。
それでも、一通の手紙を前にすると、返事の最初の一文さえ、すぐには決められなかった。
扉が軽く叩かれた。
「どうぞ」
マルタが入ってきた。
「お茶をお持ちしました」
「ありがとうございます」
マルタは手紙から離れた場所へ器を置いた。
アレクが、畳みかけた手紙をもう一度開く。
マルタはそれを覗かず、卓の上の空いた場所を整えた。
「少し、お休みになれそうでございますね」
アレクは顔を上げた。
「そんな顔をしていますか」
「今朝、書類を御覧になっていた時とは、違って見えます」
アレクは返事に困り、茶へ手を伸ばした。
マルタは小さく一礼して、部屋を出ていった。
◇ ◇ ◇
夕方の食卓には、普段より少し手の込んだ料理が並んでいた。
焼いた肉と、温かな汁物。
パンのほかに、蜂蜜を使った菓子も用意されている。
大勢の客を招いた宴ではなかった。
それでも、厨房の者が料理を運ぶ時、少し緊張した顔をしているのが分かった。
「お口に合いますでしょうか」
「おいしいです」
アレクが答えると、男は目に見えて肩の力を抜いた。
「ありがとうございます」
「こちらが礼を言う方です。皆さんにも、伝えてください」
男は深く頭を下げた。
食事の途中で、オスカーから、鉱山の調査に必要な人員の手配が進んでいると聞いた。
アレクは尋ねかけたが、マルタが空いた皿を下げながら言った。
「詳しいお話は、食後でもよろしいでしょうか」
オスカーが口を閉じた。
アレクは二人を見て、笑った。
「今日は、私だけではありませんね」
「失礼いたしました」
オスカーは真面目に答えたが、目元は少し緩んでいた。
食事を終えると、アレクは厨房へも礼を伝えた。
驚いて立ち上がろうとした者を手で制し、片づけの途中へ長く居座らずに部屋を出る。
廊下の窓からは、暗くなった庭が見えた。
昼間、木材を運んでいた荷車は、もう動いていない。
明日になれば、また仕事が始まる。
そのことが、今日は少し嬉しかった。
◇ ◇ ◇
夜、アレクはエリーゼへの返事を書き始めた。
誕生日を祝ってくれた礼。
城の者たちが、食事を用意してくれたこと。
まだ分からないことは多いが、尋ねれば答えてくれる者がいること。
山村を訪れた話も、短く添えた。
かつて鉱山で栄えた村に、燃料として使えるかもしれない石が残っていたこと。
村人が売ろうとしなかったのではなく、売ろうとしても難しかったと知ったこと。
これから職人や商人の力を借りて、仕事を戻せるか確かめていくこと。
武器や工房の秘密には触れなかった。
それでも、伝えたいことは十分にあった。
書き進めてから、アレクは筆を止めた。
城を見たい。
エリーゼの言葉を思い出す。
まだ、自分の気持ちだけで日を決められる立場ではない。
彼女にも家があり、自分にも主君がいる。
伯爵になったことだけで、何もかも整ったとは思わなかった。
だが、以前より胸を張って会いたいという気持ちはあった。
いつか、という言葉を交わした。
その先へ進むには、自分から動かなければならない。
アレクは紙へ筆を下ろした。
『城へ来ていただける日を、私も楽しみにしています。その時は、庭だけでなく、町も御案内したいです』
今は、日付を書かなかった。
代わりに、次にマティアスと会う時には、エリーゼとのことを改めて相談しようと決めた。
手紙の最後に名を書く。
文字が乾くのを待つ間、卓の脇に置いた小さな黒い石へ目を向けた。
村人たちが外れと呼ぶ坑道から採れた石だった。
それが何をもたらすのかは、まだ誰も知らない。
アレクにも、全てが見えているわけではなかった。
けれど、調べる者を送り、仕事を任せ、結果を待つことはできる。
手紙を丁寧に畳んだ。
明日出す書状の上へ置く。
十八歳になった最初の日は、そうして終わった。
第二十七話を読んでいただき、ありがとうございました。
村に残っていたものと、そこで暮らしてきた人々の経験が、新たな仕事へ繋がり始めました。
十八歳を迎えたアレクが、領主としても、一人の青年としても、少しずつ歩みを進めていきます。
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