第二十五話 城主の最初の仕事
お読みいただき、ありがとうございます。
新しい城で、アレクの領主としての日々が始まります。
城の中へ入ると、庭で聞こえていた声が遠くなった。
石の廊下には、窓から差し込む光が細長く落ちていた。壁際に置かれた燭台も、床に敷かれた敷物も、アレクがこれまで暮らしていた場所にはなかったものだった。
マルタが少し前を歩き、階段の手前で振り返った。
「お部屋は、こちらでございます」
アレクは頷いて後に続いた。
階段を上がる途中、何人かの使用人とすれ違った。そのたびに相手が足を止め、壁際へ寄って頭を下げる。
アレクもつい頭を下げ返しかけ、先ほど庭で挨拶したばかりだと思い出した。
「皆さん、いつもこうなのですか」
声を落として尋ねると、マルタが顔を向けた。
「何か、気になることがございましたか」
「いえ。私が通るたびに仕事を止めさせてしまうようで」
「すぐに持ち場へ戻りますので、お気になさらず」
そう答えた後、マルタは少し考えた。
「ただ、急いで運ばなければならない物がある時などは、そのまま通るよう伝えておきましょうか」
「そうしてもらえると助かります」
「承知いたしました」
廊下を曲がった先で、マルタが扉を開いた。
アレクは入口で足を止めた。
窓が二つあった。
大きな寝台と、衣服を収めるための戸棚。壁際には洗面の道具が置かれ、窓の近くには椅子と小さな卓がある。
部屋の奥へ歩く前に、もう一度左右を見た。
「ここを、私一人で使うのですか」
「はい。隣が執務室でございます」
「隣も」
マルタが頷いた。
アレクは窓へ近づいた。
庭の向こうに城壁があり、その先には町の屋根が見える。さらに遠くには畑が続いていた。
自分の部屋から、これほど広く土地を見渡せるとは思わなかった。
外套を脱ぎ、近くの椅子へ置こうとする。
マルタが手を差し出した。
「お預かりいたします」
「あ、ありがとうございます」
外套を渡す。
続けて上着を脱ぐと、今度は自分で畳み始めた。
「アレク様、上着はこちらへ」
「これくらいなら、自分でできます」
「存じております。ですが、私にも仕事をさせてください」
アレクは手を止めた。
マルタの表情は真面目だったが、声は少し柔らかくなっていた。
「すみません。つい」
「謝っていただくようなことではございません」
上着を受け取ったマルタは、袖口を確かめた。
道中でついた埃を指先で払い、外套と重ねる。
その動きは速かった。
アレクが自分で畳むよりも、ずっと早く、きれいに整えられていた。
「普段のお召し物も、こちらでお手入れいたします。置く場所など、御希望はございますか」
「剣と、すぐ使う物は、自分で取れるところに置いておきたいです」
「では、そちらの台をお使いください。位置を変える時は、先にお知らせいたします」
「お願いします」
話が決まると、マルタは戸口に控えていたメイドへ衣服を渡した。
若いメイドは両手で受け取り、慎重に部屋を出ていく。
マルタはその背を見送ってから、アレクへ向き直った。
「湯をご用意しております。お休みの前に、お使いになりますか」
「休む前に、城を少し見たいのですが」
「今からでございますか」
「はい。オスカーから話を聞きながら、実際に確かめておきたいと思いまして」
マルタは、窓から入る光へ一度目を向けた。
「かしこまりました。では、お召し替えの後に。オスカー様へお伝えいたします」
部屋を出る直前、もう一度振り返る。
「お食事の時刻までには、お戻りくださいませ」
アレクは、思わず笑った。
「分かりました」
◇ ◇ ◇
オスカーは、薄い帳簿を一冊だけ持って待っていた。
「詳しい収支は、後ほど御覧いただけます。まずは、城の中を御案内いたします」
「ありがとうございます」
アレクは廊下へ出た。
部屋着に近い動きやすい服へ替えていたが、城の者たちの態度は変わらなかった。
やはり、服だけの問題ではないらしい。
オスカーは、先ほどとは別の階段へ案内した。
「こちらは、使用人が主に使っている階段です。手すりの修繕を終えております」
アレクは、壁に取りつけられた木の手すりへ手を置いた。
新しい木の色が、周囲より明るい。
軽く力をかけても動かなかった。
「前は、外れかけていたのですか」
「はい。下の留め具が緩んでおりました。水を運ぶ者も通りますので、先に直させました」
下から、桶を持った使用人が上がってきた。
こちらを見て足を止めようとしたので、アレクは脇へ寄った。
「そのままで。通ってください」
使用人は小さく頭を下げ、階段を上がった。
片手が、直したばかりの手すりへ添えられる。
アレクは、その姿を見送った。
「直してもらってよかったですね」
「はい。修繕の費用は、こちらです」
オスカーが帳簿を開いた。
木材と留め具の代金、それから職人へ払った金が分けて記されている。
次に向かった倉でも、屋根の修繕を確かめた。
中へ入ると、穀物の袋が壁から離して積まれていた。入口の近くには、受け入れた日を書き留める板が置かれている。
「濡れた物はありませんでしたか」
「雨漏りする箇所の下にあった袋を先に移したため、大きな損失は出ておりません。傷んだ袋は分けてあります」
オスカーは、積まれた袋の数と記録を示した。
引き継ぎの時に数えたものと、その後に入ったもの。
厨房へ出した分も記されていた。
アレクは頁を追った。
城へ来る前に決めたことが、すでに仕事になっていた。
自分が立ち会わなくても、職人が呼ばれ、壊れた場所が直り、使った金が記録されている。
「お預かりした修繕費は、まだ残っております」
「残りは、そのまま保管してください。ほかにも急ぐ場所があれば、教えてもらえますか」
「承知いたしました」
倉を出ると、庭の反対側へ回った。
厩から、馬の鳴き声が聞こえる。
そちらへ顔を向けたアレクを見て、オスカーが足を止めた。
「厩も御覧になりますか」
「はい」
答えてから、アレクは少し笑った。
「まず案内を受けるようにと、マティアス様に言われていました」
「それでは、私が御案内したことにいたしましょう」
オスカーは真面目な顔で答えた。
アレクは、その横顔を見てから、もう一度笑った。
◇ ◇ ◇
厩は、今いる馬を収めるには足りていた。
だが、騎馬鉄砲隊を増やすことを考えれば、広いとは言えなかった。
馬を繋ぐ場所だけではない。
飼葉を置く倉も、水を運ぶ道も必要になる。
アレクは外へ出て、厩の裏を見た。
「この先の土地も、城の敷地ですか」
「はい。ただし、下へ続く道は、町の者も使っています」
オスカーが指した先を、荷車が一台通っていた。
「ここを塞ぐと、遠回りになるのですね」
「牧草や薪を運ぶ時に使う道です。別の道を設けずに閉じれば、困る者が出ます」
アレクは頷いた。
地図で見れば、空いている土地に見えた。
実際には、人が通り、荷が運ばれている。
城の持ち物だからといって、何も考えずに建物を置けるわけではなかった。
兵舎にも足を運んだ。
中には寝台が並び、壁際には兵が荷を置く場所がある。
窓の数と、通路の幅を確かめる。
ここへ兵を詰め込めば、寝る場所は作れるかもしれない。
だが、暮らしやすいとは思えなかった。
「兵を増やすなら、城外にも兵舎が要りますね」
「どの程度の人数を、お考えでしょうか」
オスカーが尋ねた。
アレクは、すぐには答えなかった。
頭の中にある数字を口にすれば、それを基に食料も建物も考えることになる。
願望として言うのとは違う。
「まずは、私の直轄兵を千人規模にしたいと思っています」
オスカーは驚いた顔をしなかった。
ただ、帳簿を持つ手を少し動かした。
「千人でございますか」
「はい。今すぐではありません。段階を踏んで増やします」
アレクは兵舎を見渡した。
「鉄砲隊を増やし、騎馬鉄砲隊も拡充したいのです。それから、大砲を扱う隊も必要になります」
「では、歩兵だけを千人養う計算にはできませんね」
「馬にも、荷を運ぶ者にも金がかかります」
「承知いたしました。領地の収入と照らして、御相談する必要がございます」
オスカーは、その場でできるとも、無理だとも言わなかった。
アレクは、それがありがたかった。
馬も銃も、人も、欲しいと言っただけでは揃わない。
それでも、以前の領地だけでは考えられなかった数だった。
兵舎を出ると、城外へ向かう門の近くで足を止めた。
その先には、緩やかな傾斜の土地が広がっている。
町の家並みからは離れていた。
「こちらなら、兵舎と訓練場を設けられるかもしれません」
オスカーが言った。
「ただ、井戸の水だけで足りるかは、先に確かめます。建物を作ってから、毎日遠くへ水を汲みに行くようでは困りますので」
「お願いします。雨の後に水が溜まる場所も、聞いてください」
「土地を使ってきた者に確かめます」
アレクは、何も建っていない場所を見た。
そこに兵が並ぶ光景を思い浮かべる。
銃を持つ兵だけではなかった。
馬を引く者、荷車を直す者、食事を作る者。
千人の軍を持つということは、そのすべてを動かすことだった。
◇ ◇ ◇
執務室へ戻る頃には、卓の上に食事が用意されていた。
湯気の立つ皿を見て、アレクは窓へ目を向けた。
思っていたより日が傾いている。
マルタが、椅子を引いた。
「まずは、お召し上がりください」
「帳簿を見ながらでも」
「汁物がございますので、書類は少し離していただけますか」
アレクは、手に持っていた紙を止めた。
オスカーが横から受け取る。
「収支の帳簿は、食後に広げます」
二人の間で話が決まったようだった。
アレクは椅子へ座った。
「分かりました。いただきます」
匙を取ると、豆と肉を煮た汁から温かな匂いが上がった。
一口飲み、息を吐く。
気づかないうちに、腹が減っていた。
マルタはその様子を見てから、空いた卓の端へ水差しを置いた。
「お味はいかがでしょうか」
「おいしいです」
「厨房へ伝えておきます」
口元が少し和らいだ。
その表情を見て、アレクは付け加えた。
「熱いうちに食べた方がよいですね」
「はい」
短い返事だったが、少しだけ楽しそうに聞こえた。
食事を終えると、皿が下げられ、代わりに帳簿が並べられた。
オスカーは、まず領地の地図を広げた。
町と村。
農地、牧草地、森。
街道を通る荷から得られる収入も記されていた。
「こちらが、引き継いだ記録に基づく収入です。ただし、すべてが今、倉や金庫にあるわけではございません」
オスカーが別の頁を示した。
「次の取り入れを待つ分と、すでに納められた分は分けております。滞っているものもありますので、この総額を、そのまま今年使える金とはお考えにならないでください」
アレクは頷いた。
数字を追う。
以前より大きな額だった。
だが、出ていく金も増えている。
城の修繕。
役人と使用人の給金。
道や橋の維持。
すでに守備についている兵の費用。
アレクは、頁を一度戻した。
「思ったより、自由に使える分は少ないですね」
「これまで使われてきた金の中に、見直せるものはございます。ただ、必要な支出まで減らせば、後でかえって多くの費用がかかることになります」
オスカーは倉の修繕費を指した。
「屋根を放っておけば、穀物を失います。道の穴をそのままにすれば、荷車が壊れ、荷が遅れます」
「兵を増やすために、そこを削るわけにはいきませんね」
「はい」
アレクは千人という数字を書いた紙を、帳簿の脇へ置いた。
オスカーはその紙を見た。
「千人を集める費用だけでなく、来年も養い続ける費用が必要になります」
アレクは、筆を持つ手を止めた。
「今回の褒賞で、初めの支度は進められます。しかし、その金を毎年受け取れるわけではございません」
「分かっています」
答えた後、アレクは帳簿へ目を戻した。
だが、それまでは、最初に銃と馬を揃えることへ気を取られていた。
兵は、一度雇えば終わりではない。
食べ、服を着て、道具を使う。
戦へ出なくても、その費用は続く。
アレクは、紙の上の千人という数字を消さなかった。
代わりに、その下へ段階を分けるための線を引いた。
「一度には集めません」
オスカーが顔を上げた。
「先に、受け入れる場所を整えます。それから、教えられる人数に合わせて募ります。兵だけ先に来ても、寝る場所も、教える者も足りなければ困りますから」
「では、募集の時期も分ける形で」
「はい。給金と食料を用意できることを確かめてから、次を募ります」
オスカーが書き留める。
「千人規模を目指すことは、変えません。ただ、来た者を養えなくなる増やし方はしません」
「承知いたしました」
家宰の返事を聞き、アレクは背もたれへ身体を預けかけた。
だが、まだ終わりではなかった。
「この領地から、働く者を一度に連れていくことも避けたいです」
オスカーが頷いた。
「畑や町の仕事に、影響が出ます」
「農作業が忙しい時期も確かめてください。兵を増やしたために収入が減るのでは、何のための加増か分かりません」
「各村から話を集めます」
アレクは、ようやく息を吐いた。
千人を率いる光景より先に、千人を迎える支度が必要だった。
◇ ◇ ◇
軍備の計画を詰めるため、アレクは翌日、ギルベルトを城へ招いた。
城とアイヒェンタールは、使者を往復させられる距離にある。
常に同じ場所にいなくても、連絡を取り合うことはできた。
ギルベルトは部屋へ入ると、窓から見える庭へ一度目を向けた。
「立派な城ですな」
「まだ、どこに何があるのか覚えていません」
「兵舎は御覧になりましたか」
「はい。増員するなら、城外にも必要です」
アレクは地図を示した。
ギルベルトが椅子へ座り、オスカーも帳簿を開く。
千人規模を目標とする方針を聞いても、ギルベルトはすぐに喜ばなかった。
「教える者を、増やさねばなりません」
「まず、そこからお願いします」
アレクは答えた。
「今までと同じように、あなた一人がすべてを見る形では続きません。兵を教えられる者を選び、任せる仕事を分けてください」
「隊の中から、候補を挙げます。ただ、できる者を一度に抜けば、残る隊が困ります」
「その点も含めて、案を出してもらえますか」
「承知しました」
ギルベルトが地図へ目を落とした。
「騎馬の方は、馬を扱うことから教えねばならぬ者も出ます」
「全員を一度に騎馬兵へ変えるつもりはありません。騎馬鉄砲隊と、徒歩で動く鉄砲隊は、それぞれ増やします」
アレクは紙を分けた。
「大砲を扱う隊も、新しく設けたいと思っています」
ギルベルトの目が、そちらへ動いた。
「砲は、どちらから」
「陛下のお許しを得て、王家の鍛冶町へ製造を頼めるか相談します。今回の戦で使った砲を、そのまま私のものにする話ではありません」
ギルベルトが頷いた。
大砲は、威力だけを見ていればよいものではなかった。
運ぶ者、馬、荷車が要る。
道を確かめ、壊れた時には直す者も必要になる。
アレクは、そのために使う紙をもう一枚増やした。
「まずは、砲と道具をどれだけ揃えられるかを聞きます。人の数は、それから決めましょう」
オスカーが顔を上げた。
「鉄砲隊、騎馬鉄砲隊、大砲を扱う隊。それぞれの費用を分けて見積もります」
「お願いします。直轄兵千人を、すべて鉄砲隊や大砲隊へ回せるわけではありません。城や倉の守備、輸送を担う兵も必要です」
書き並べた項目を見て、アレクは口元を引き締めた。
やりたいことは多かった。
だが、紙に書くたび、人と金の要る場所が増えていく。
ギルベルトが、候補者の名を書き始めた。
オスカーは、食料と兵舎の費用を確かめている。
アレクは二人を見た。
少し前なら、この紙をすべて自分で抱えようとしていただろう。
「武器のことは、私からロルフへ手紙を書きます」
アレクが言った。
「ギルベルトは、訓練と人選を。オスカーは、受け入れる場所と費用をお願いします」
二人が頷いた。
それぞれの前に、書面が分けられた。
卓は広かった。
だが、その上に並んだ仕事を、一人で片づける必要はなかった。
◇ ◇ ◇
ギルベルトが帰った後、マルタが客室に必要な品の一覧を持ってきた。
アレクは受け取り、上から目を通した。
寝具と食器。
椅子、灯りに使う道具。
壁を飾る布も含まれていた。
「これほど替えるのですか」
「すべて新しくするという意味ではございません。前の御領主様がお持ちになった品の補充と、傷んだ品を分けてあります」
マルタが印を示した。
アレクは、もう一度読み直した。
「この壁布は、まだ使えると聞いています」
「はい。色は褪せておりますが、破れてはおりません」
「では、そのままにしましょう」
「承知いたしました」
「私の部屋の飾りも、急いで揃える必要はありません」
マルタが頷く。
オスカーは、アレクの判断を記録していた。
そのまま幾つかの品を後回しにしようとしたところで、マルタが口を開いた。
「アレク様。こちらの寝具は、先に揃えさせていただけますか」
「今ある物では足りませんか」
「普段は足ります。ただ、お客様がお泊まりになった際、洗い替えが不足いたします」
マルタは、別の項目を指した。
「食器も同じです。数だけを合わせることはできますが、欠けた物をお出しするわけにはまいりません」
アレクは紙を見た。
自分なら、少しくらい欠けていても気にしないかもしれない。
しかし、自分が気にしないことと、客へそれを使わせることは違う。
「必要な分は揃えてください」
「ありがとうございます」
「高価な物でなくても、よいでしょうか」
「使いやすく、失礼のない品を選びます」
マルタは、迷わず答えた。
アレクはオスカーへ顔を向けた。
「兵舎と倉、厩、水場を優先したいと思っています。ただ、城で暮らし、客を迎えるために必要な物まで減らすつもりはありません」
「では、急ぐものから順に、費用をまとめ直します」
「お願いします」
話が終わりかけた時、マルタが一枚の紙を残した。
「お客様がいらっしゃる御予定は、今のところございますか」
アレクは、すぐに返事をしなかった。
エリーゼの顔が浮かんだ。
だが、約束はしていない。
「まだ、決まっていません」
「かしこまりました。お知らせをいただければ、人数に合わせて支度いたします」
マルタは、それ以上尋ねなかった。
紙を揃え、オスカーへ必要な分を渡す。
アレクは、その二人のやり取りを見ながら、客室がどこにあるのかを思い出そうとした。
昨日、案内の途中で扉の前を通った。
窓は、庭の方へ向いていたはずだった。
◇ ◇ ◇
その後の数日は、城と領地のことを覚えるうちに過ぎていった。
朝、オスカーからその日の用件を聞く。
町から来た者と会い、役人の報告を受ける。
午後には、城外で兵舎に使う土地を確かめた。
雨が降った翌朝、候補にしていた場所の一部に水が溜まっていると分かり、アレクは場所を少し変えるよう指示した。
牧草を運ぶ道は残す。
訓練に使う場所と、町の者が通る道を分ける。
厩の建て増しは、馬の数だけでなく、飼葉を置く場所と一緒に考える。
地図に書いた線が、そのまま正しいとは限らなかった。
現地の者の話を聞き、直すたびに、使える計画へ近づいていく。
ロルフへも手紙を出した。
今後、新たに火縄銃を揃える場合、どの程度の期間と費用が必要になるか。
既存の仕事に支障を出さず、どこまで対応できるかを尋ねた。
できている物をすべて送れとは書かなかった。
すでに使っている銃の修繕も、必要な仕事だった。
マティアスへは、直轄兵を千人規模にする方針と、そのために進めている支度を報告した。
あわせて、大砲の調達と、王家の鍛冶町への相談について、時間を頂きたいと書き添える。
城へ届く書状は増えていた。
だが、アレクの机に届く前に、オスカーが急いで判断すべきものと、後で目を通せるものに分けてくれる。
何を今日決めなければならないのかが、分かるようになった。
ある夕方、アレクは報告を終えたオスカーへ声をかけた。
「助かっています」
オスカーが顔を上げた。
「私一人なら、まだ最初の書状を探していたかもしれません」
「必要な時にお出しするのが、私の仕事でございます」
「それでも、助かっています」
オスカーは、わずかに目元を緩めた。
「では、明日も滞りなくお出しできるようにいたします」
そう言って、空いた書類箱を持ち上げた。
アレクは、その背を見送った。
仕事を任せることにも、少しずつ慣れてきていた。
◇ ◇ ◇
夜、執務室が静かになってから、アレクは新しい紙を取り出した。
宛名を書く。
エリーゼ。
その名を書く時だけは、ほかの書状より筆がゆっくりになった。
城へ無事に着いたことから書き始める。
庭には、城で働く者たちが並んでいた。
馬車を降りると一斉に頭を下げられ、最初はどうすればよいのか分からなかった。
そこまで書いて、アレクは少し笑った。
閣下と呼ばれたことも書いた。
恥ずかしくなって、名前で呼んでほしいと頼んだことまで続ける。
エリーゼなら、笑うだろうか。
きっと、少し笑ってから、似合っていると言うかもしれない。
そう考えると、余計に恥ずかしくなった。
アレクは窓へ目を向けた。
昼間は町まで見える窓も、今は暗い。
庭の灯りが、石畳の一部を照らしている。
城の中は静かだったが、誰もいないわけではなかった。
廊下では使用人が明日の支度をし、門には見張りが立っている。
自分の知らない仕事が、いくつも続いていた。
紙へ目を戻す。
家宰のオスカーと、メイド長のマルタに助けられていることを書いた。
部屋が広く、まだ自分の居場所に慣れないことも。
新しい城の暮らしを伝えようとすると、報告書には書かないことばかりが出てきた。
筆が止まった。
書きたい一文があった。
だが、書けば、本当にそうしたいと思っていることが相手へ伝わる。
アレクは、紙の端へ添えた指を動かした。
城の門を通るエリーゼを思い浮かべる。
庭を案内し、部屋の窓から町を見てもらう。
まだ自分も知らないことの多い城だった。
それでも、いつか見てほしかった。
アレクは筆を下ろした。
いつか、この城を見ていただけたら嬉しいです。
書いた後、しばらくその一文を見つめた。
消さなかった。
訪れる日を決めたわけではない。
それでも、自分の願いを一つ、相手へ渡した気がした。
扉が軽く叩かれた。
「どうぞ」
マルタが、水差しを持って入ってきた。
卓の上へ置こうとして、手紙に気づく。
「こちらでよろしいでしょうか」
紙から離れた場所を示された。
「はい。ありがとうございます」
アレクは、乾きかけた文字を袖で擦らないよう、腕を引いた。
マルタは手紙を覗かず、水差しを置いた。
「まだ、お仕事を続けられますか」
「これを書いたら終わります」
「では、お部屋の支度をしておきます」
扉へ向かいかけたところで、もう一度振り返る。
「明日は、朝食の後に町の方がお見えになる予定です」
「覚えています」
「それでしたら、安心いたしました」
アレクは顔を上げた。
マルタの口元が、少しだけ緩んでいた。
初めて会った時より、表情の小さな変化から、マルタの気持ちを読み取れるようになっていた。
「忘れそうに見えますか」
「お考え事を始められると、お時間をお忘れになることはあるようです」
「気をつけます」
「お願いいたします」
マルタが一礼して出ていった。
アレクは手紙へ目を戻した。
最後に、身体を大切にしてほしいと書く。
自分も同じことを言われていたと気づき、少し笑った。
署名を終えたところで、今度はオスカーが来た。
「遅くに失礼いたします。侯爵閣下から、お返事が届きました」
差し出された書状を受け取る。
マティアスからだった。
領地と軍備の支度について、報告を読んだこと。
大砲の調達を含め、一度話を聞くという。
アレクは書状を最後まで読んだ。
千人の兵は、まだ揃っていない。
新しい兵舎も、厩も、これからだった。
それでも、誰に何を頼み、何から始めるかは、少しずつ決まっている。
「明日、必要な書類を揃えましょう」
アレクはオスカーへ言った。
「収入の見込みと、最初にかかる費用。それから、まだ分からないことも分けておきたいです」
「承知いたしました」
オスカーは頷いた。
「今夜は、こちらでお預かりしてもよろしいでしょうか」
軍備について書き込んだ紙へ目を向ける。
アレクは、その紙をまとめて渡した。
「お願いします」
オスカーが出ていくと、卓の上には、エリーゼへの手紙が残った。
アレクは文字が乾いたことを確かめ、丁寧に畳んだ。
翌日、使者へ託す書状と一緒に置く。
それから、席を立った。
廊下へ出ると、隣の部屋には灯りが用意されていた。
ここで眠り、朝になれば、またこの卓へ戻ってくる。
城主としての暮らしは、まだ始まったばかりだった。
第二十五話を読んでいただき、ありがとうございました。
人に任せ、意見を聞き、自分で決める。新しい城での仕事を通して、アレクも少しずつ伯爵として歩み始めています。
次回は、マティアスとの相談を通じて、軍備拡充の計画を具体的に進めます。
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