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『知らない世界で、前世の知識が武器になる』 ~剣と銃で乱世を生き抜く転生領主の成り上がり~  作者: 相田 ソウ
第七篇 乱世を越える黒獅子

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第二十五話 城主の最初の仕事

お読みいただき、ありがとうございます。

新しい城で、アレクの領主としての日々が始まります。

 城の中へ入ると、庭で聞こえていた声が遠くなった。

 石の廊下には、窓から差し込む光が細長く落ちていた。壁際に置かれた燭台も、床に敷かれた敷物も、アレクがこれまで暮らしていた場所にはなかったものだった。

 マルタが少し前を歩き、階段の手前で振り返った。

「お部屋は、こちらでございます」

 アレクは頷いて後に続いた。

 階段を上がる途中、何人かの使用人とすれ違った。そのたびに相手が足を止め、壁際へ寄って頭を下げる。

 アレクもつい頭を下げ返しかけ、先ほど庭で挨拶したばかりだと思い出した。

「皆さん、いつもこうなのですか」

 声を落として尋ねると、マルタが顔を向けた。

「何か、気になることがございましたか」

「いえ。私が通るたびに仕事を止めさせてしまうようで」

「すぐに持ち場へ戻りますので、お気になさらず」

 そう答えた後、マルタは少し考えた。

「ただ、急いで運ばなければならない物がある時などは、そのまま通るよう伝えておきましょうか」

「そうしてもらえると助かります」

「承知いたしました」

 廊下を曲がった先で、マルタが扉を開いた。

 アレクは入口で足を止めた。

 窓が二つあった。

 大きな寝台と、衣服を収めるための戸棚。壁際には洗面の道具が置かれ、窓の近くには椅子と小さな卓がある。

 部屋の奥へ歩く前に、もう一度左右を見た。

「ここを、私一人で使うのですか」

「はい。隣が執務室でございます」

「隣も」

 マルタが頷いた。

 アレクは窓へ近づいた。

 庭の向こうに城壁があり、その先には町の屋根が見える。さらに遠くには畑が続いていた。

 自分の部屋から、これほど広く土地を見渡せるとは思わなかった。

 外套を脱ぎ、近くの椅子へ置こうとする。

 マルタが手を差し出した。

「お預かりいたします」

「あ、ありがとうございます」

 外套を渡す。

 続けて上着を脱ぐと、今度は自分で畳み始めた。

「アレク様、上着はこちらへ」

「これくらいなら、自分でできます」

「存じております。ですが、私にも仕事をさせてください」

 アレクは手を止めた。

 マルタの表情は真面目だったが、声は少し柔らかくなっていた。

「すみません。つい」

「謝っていただくようなことではございません」

 上着を受け取ったマルタは、袖口を確かめた。

 道中でついた埃を指先で払い、外套と重ねる。

 その動きは速かった。

 アレクが自分で畳むよりも、ずっと早く、きれいに整えられていた。

「普段のお召し物も、こちらでお手入れいたします。置く場所など、御希望はございますか」

「剣と、すぐ使う物は、自分で取れるところに置いておきたいです」

「では、そちらの台をお使いください。位置を変える時は、先にお知らせいたします」

「お願いします」

 話が決まると、マルタは戸口に控えていたメイドへ衣服を渡した。

 若いメイドは両手で受け取り、慎重に部屋を出ていく。

 マルタはその背を見送ってから、アレクへ向き直った。

「湯をご用意しております。お休みの前に、お使いになりますか」

「休む前に、城を少し見たいのですが」

「今からでございますか」

「はい。オスカーから話を聞きながら、実際に確かめておきたいと思いまして」

 マルタは、窓から入る光へ一度目を向けた。

「かしこまりました。では、お召し替えの後に。オスカー様へお伝えいたします」

 部屋を出る直前、もう一度振り返る。

「お食事の時刻までには、お戻りくださいませ」

 アレクは、思わず笑った。

「分かりました」

 ◇ ◇ ◇

 オスカーは、薄い帳簿を一冊だけ持って待っていた。

「詳しい収支は、後ほど御覧いただけます。まずは、城の中を御案内いたします」

「ありがとうございます」

 アレクは廊下へ出た。

 部屋着に近い動きやすい服へ替えていたが、城の者たちの態度は変わらなかった。

 やはり、服だけの問題ではないらしい。

 オスカーは、先ほどとは別の階段へ案内した。

「こちらは、使用人が主に使っている階段です。手すりの修繕を終えております」

 アレクは、壁に取りつけられた木の手すりへ手を置いた。

 新しい木の色が、周囲より明るい。

 軽く力をかけても動かなかった。

「前は、外れかけていたのですか」

「はい。下の留め具が緩んでおりました。水を運ぶ者も通りますので、先に直させました」

 下から、桶を持った使用人が上がってきた。

 こちらを見て足を止めようとしたので、アレクは脇へ寄った。

「そのままで。通ってください」

 使用人は小さく頭を下げ、階段を上がった。

 片手が、直したばかりの手すりへ添えられる。

 アレクは、その姿を見送った。

「直してもらってよかったですね」

「はい。修繕の費用は、こちらです」

 オスカーが帳簿を開いた。

 木材と留め具の代金、それから職人へ払った金が分けて記されている。

 次に向かった倉でも、屋根の修繕を確かめた。

 中へ入ると、穀物の袋が壁から離して積まれていた。入口の近くには、受け入れた日を書き留める板が置かれている。

「濡れた物はありませんでしたか」

「雨漏りする箇所の下にあった袋を先に移したため、大きな損失は出ておりません。傷んだ袋は分けてあります」

 オスカーは、積まれた袋の数と記録を示した。

 引き継ぎの時に数えたものと、その後に入ったもの。

 厨房へ出した分も記されていた。

 アレクは頁を追った。

 城へ来る前に決めたことが、すでに仕事になっていた。

 自分が立ち会わなくても、職人が呼ばれ、壊れた場所が直り、使った金が記録されている。

「お預かりした修繕費は、まだ残っております」

「残りは、そのまま保管してください。ほかにも急ぐ場所があれば、教えてもらえますか」

「承知いたしました」

 倉を出ると、庭の反対側へ回った。

 厩から、馬の鳴き声が聞こえる。

 そちらへ顔を向けたアレクを見て、オスカーが足を止めた。

「厩も御覧になりますか」

「はい」

 答えてから、アレクは少し笑った。

「まず案内を受けるようにと、マティアス様に言われていました」

「それでは、私が御案内したことにいたしましょう」

 オスカーは真面目な顔で答えた。

 アレクは、その横顔を見てから、もう一度笑った。

 ◇ ◇ ◇

 厩は、今いる馬を収めるには足りていた。

 だが、騎馬鉄砲隊を増やすことを考えれば、広いとは言えなかった。

 馬を繋ぐ場所だけではない。

 飼葉を置く倉も、水を運ぶ道も必要になる。

 アレクは外へ出て、厩の裏を見た。

「この先の土地も、城の敷地ですか」

「はい。ただし、下へ続く道は、町の者も使っています」

 オスカーが指した先を、荷車が一台通っていた。

「ここを塞ぐと、遠回りになるのですね」

「牧草や薪を運ぶ時に使う道です。別の道を設けずに閉じれば、困る者が出ます」

 アレクは頷いた。

 地図で見れば、空いている土地に見えた。

 実際には、人が通り、荷が運ばれている。

 城の持ち物だからといって、何も考えずに建物を置けるわけではなかった。

 兵舎にも足を運んだ。

 中には寝台が並び、壁際には兵が荷を置く場所がある。

 窓の数と、通路の幅を確かめる。

 ここへ兵を詰め込めば、寝る場所は作れるかもしれない。

 だが、暮らしやすいとは思えなかった。

「兵を増やすなら、城外にも兵舎が要りますね」

「どの程度の人数を、お考えでしょうか」

 オスカーが尋ねた。

 アレクは、すぐには答えなかった。

 頭の中にある数字を口にすれば、それを基に食料も建物も考えることになる。

 願望として言うのとは違う。

「まずは、私の直轄兵を千人規模にしたいと思っています」

 オスカーは驚いた顔をしなかった。

 ただ、帳簿を持つ手を少し動かした。

「千人でございますか」

「はい。今すぐではありません。段階を踏んで増やします」

 アレクは兵舎を見渡した。

「鉄砲隊を増やし、騎馬鉄砲隊も拡充したいのです。それから、大砲を扱う隊も必要になります」

「では、歩兵だけを千人養う計算にはできませんね」

「馬にも、荷を運ぶ者にも金がかかります」

「承知いたしました。領地の収入と照らして、御相談する必要がございます」

 オスカーは、その場でできるとも、無理だとも言わなかった。

 アレクは、それがありがたかった。

 馬も銃も、人も、欲しいと言っただけでは揃わない。

 それでも、以前の領地だけでは考えられなかった数だった。

 兵舎を出ると、城外へ向かう門の近くで足を止めた。

 その先には、緩やかな傾斜の土地が広がっている。

 町の家並みからは離れていた。

「こちらなら、兵舎と訓練場を設けられるかもしれません」

 オスカーが言った。

「ただ、井戸の水だけで足りるかは、先に確かめます。建物を作ってから、毎日遠くへ水を汲みに行くようでは困りますので」

「お願いします。雨の後に水が溜まる場所も、聞いてください」

「土地を使ってきた者に確かめます」

 アレクは、何も建っていない場所を見た。

 そこに兵が並ぶ光景を思い浮かべる。

 銃を持つ兵だけではなかった。

 馬を引く者、荷車を直す者、食事を作る者。

 千人の軍を持つということは、そのすべてを動かすことだった。

 ◇ ◇ ◇

 執務室へ戻る頃には、卓の上に食事が用意されていた。

 湯気の立つ皿を見て、アレクは窓へ目を向けた。

 思っていたより日が傾いている。

 マルタが、椅子を引いた。

「まずは、お召し上がりください」

「帳簿を見ながらでも」

「汁物がございますので、書類は少し離していただけますか」

 アレクは、手に持っていた紙を止めた。

 オスカーが横から受け取る。

「収支の帳簿は、食後に広げます」

 二人の間で話が決まったようだった。

 アレクは椅子へ座った。

「分かりました。いただきます」

 匙を取ると、豆と肉を煮た汁から温かな匂いが上がった。

 一口飲み、息を吐く。

 気づかないうちに、腹が減っていた。

 マルタはその様子を見てから、空いた卓の端へ水差しを置いた。

「お味はいかがでしょうか」

「おいしいです」

「厨房へ伝えておきます」

 口元が少し和らいだ。

 その表情を見て、アレクは付け加えた。

「熱いうちに食べた方がよいですね」

「はい」

 短い返事だったが、少しだけ楽しそうに聞こえた。

 食事を終えると、皿が下げられ、代わりに帳簿が並べられた。

 オスカーは、まず領地の地図を広げた。

 町と村。

 農地、牧草地、森。

 街道を通る荷から得られる収入も記されていた。

「こちらが、引き継いだ記録に基づく収入です。ただし、すべてが今、倉や金庫にあるわけではございません」

 オスカーが別の頁を示した。

「次の取り入れを待つ分と、すでに納められた分は分けております。滞っているものもありますので、この総額を、そのまま今年使える金とはお考えにならないでください」

 アレクは頷いた。

 数字を追う。

 以前より大きな額だった。

 だが、出ていく金も増えている。

 城の修繕。

 役人と使用人の給金。

 道や橋の維持。

 すでに守備についている兵の費用。

 アレクは、頁を一度戻した。

「思ったより、自由に使える分は少ないですね」

「これまで使われてきた金の中に、見直せるものはございます。ただ、必要な支出まで減らせば、後でかえって多くの費用がかかることになります」

 オスカーは倉の修繕費を指した。

「屋根を放っておけば、穀物を失います。道の穴をそのままにすれば、荷車が壊れ、荷が遅れます」

「兵を増やすために、そこを削るわけにはいきませんね」

「はい」

 アレクは千人という数字を書いた紙を、帳簿の脇へ置いた。

 オスカーはその紙を見た。

「千人を集める費用だけでなく、来年も養い続ける費用が必要になります」

 アレクは、筆を持つ手を止めた。

「今回の褒賞で、初めの支度は進められます。しかし、その金を毎年受け取れるわけではございません」

「分かっています」

 答えた後、アレクは帳簿へ目を戻した。

 だが、それまでは、最初に銃と馬を揃えることへ気を取られていた。

 兵は、一度雇えば終わりではない。

 食べ、服を着て、道具を使う。

 戦へ出なくても、その費用は続く。

 アレクは、紙の上の千人という数字を消さなかった。

 代わりに、その下へ段階を分けるための線を引いた。

「一度には集めません」

 オスカーが顔を上げた。

「先に、受け入れる場所を整えます。それから、教えられる人数に合わせて募ります。兵だけ先に来ても、寝る場所も、教える者も足りなければ困りますから」

「では、募集の時期も分ける形で」

「はい。給金と食料を用意できることを確かめてから、次を募ります」

 オスカーが書き留める。

「千人規模を目指すことは、変えません。ただ、来た者を養えなくなる増やし方はしません」

「承知いたしました」

 家宰の返事を聞き、アレクは背もたれへ身体を預けかけた。

 だが、まだ終わりではなかった。

「この領地から、働く者を一度に連れていくことも避けたいです」

 オスカーが頷いた。

「畑や町の仕事に、影響が出ます」

「農作業が忙しい時期も確かめてください。兵を増やしたために収入が減るのでは、何のための加増か分かりません」

「各村から話を集めます」

 アレクは、ようやく息を吐いた。

 千人を率いる光景より先に、千人を迎える支度が必要だった。

 ◇ ◇ ◇

 軍備の計画を詰めるため、アレクは翌日、ギルベルトを城へ招いた。

 城とアイヒェンタールは、使者を往復させられる距離にある。

 常に同じ場所にいなくても、連絡を取り合うことはできた。

 ギルベルトは部屋へ入ると、窓から見える庭へ一度目を向けた。

「立派な城ですな」

「まだ、どこに何があるのか覚えていません」

「兵舎は御覧になりましたか」

「はい。増員するなら、城外にも必要です」

 アレクは地図を示した。

 ギルベルトが椅子へ座り、オスカーも帳簿を開く。

 千人規模を目標とする方針を聞いても、ギルベルトはすぐに喜ばなかった。

「教える者を、増やさねばなりません」

「まず、そこからお願いします」

 アレクは答えた。

「今までと同じように、あなた一人がすべてを見る形では続きません。兵を教えられる者を選び、任せる仕事を分けてください」

「隊の中から、候補を挙げます。ただ、できる者を一度に抜けば、残る隊が困ります」

「その点も含めて、案を出してもらえますか」

「承知しました」

 ギルベルトが地図へ目を落とした。

「騎馬の方は、馬を扱うことから教えねばならぬ者も出ます」

「全員を一度に騎馬兵へ変えるつもりはありません。騎馬鉄砲隊と、徒歩で動く鉄砲隊は、それぞれ増やします」

 アレクは紙を分けた。

「大砲を扱う隊も、新しく設けたいと思っています」

 ギルベルトの目が、そちらへ動いた。

「砲は、どちらから」

「陛下のお許しを得て、王家の鍛冶町へ製造を頼めるか相談します。今回の戦で使った砲を、そのまま私のものにする話ではありません」

 ギルベルトが頷いた。

 大砲は、威力だけを見ていればよいものではなかった。

 運ぶ者、馬、荷車が要る。

 道を確かめ、壊れた時には直す者も必要になる。

 アレクは、そのために使う紙をもう一枚増やした。

「まずは、砲と道具をどれだけ揃えられるかを聞きます。人の数は、それから決めましょう」

 オスカーが顔を上げた。

「鉄砲隊、騎馬鉄砲隊、大砲を扱う隊。それぞれの費用を分けて見積もります」

「お願いします。直轄兵千人を、すべて鉄砲隊や大砲隊へ回せるわけではありません。城や倉の守備、輸送を担う兵も必要です」

 書き並べた項目を見て、アレクは口元を引き締めた。

 やりたいことは多かった。

 だが、紙に書くたび、人と金の要る場所が増えていく。

 ギルベルトが、候補者の名を書き始めた。

 オスカーは、食料と兵舎の費用を確かめている。

 アレクは二人を見た。

 少し前なら、この紙をすべて自分で抱えようとしていただろう。

「武器のことは、私からロルフへ手紙を書きます」

 アレクが言った。

「ギルベルトは、訓練と人選を。オスカーは、受け入れる場所と費用をお願いします」

 二人が頷いた。

 それぞれの前に、書面が分けられた。

 卓は広かった。

 だが、その上に並んだ仕事を、一人で片づける必要はなかった。

 ◇ ◇ ◇

 ギルベルトが帰った後、マルタが客室に必要な品の一覧を持ってきた。

 アレクは受け取り、上から目を通した。

 寝具と食器。

 椅子、灯りに使う道具。

 壁を飾る布も含まれていた。

「これほど替えるのですか」

「すべて新しくするという意味ではございません。前の御領主様がお持ちになった品の補充と、傷んだ品を分けてあります」

 マルタが印を示した。

 アレクは、もう一度読み直した。

「この壁布は、まだ使えると聞いています」

「はい。色は褪せておりますが、破れてはおりません」

「では、そのままにしましょう」

「承知いたしました」

「私の部屋の飾りも、急いで揃える必要はありません」

 マルタが頷く。

 オスカーは、アレクの判断を記録していた。

 そのまま幾つかの品を後回しにしようとしたところで、マルタが口を開いた。

「アレク様。こちらの寝具は、先に揃えさせていただけますか」

「今ある物では足りませんか」

「普段は足ります。ただ、お客様がお泊まりになった際、洗い替えが不足いたします」

 マルタは、別の項目を指した。

「食器も同じです。数だけを合わせることはできますが、欠けた物をお出しするわけにはまいりません」

 アレクは紙を見た。

 自分なら、少しくらい欠けていても気にしないかもしれない。

 しかし、自分が気にしないことと、客へそれを使わせることは違う。

「必要な分は揃えてください」

「ありがとうございます」

「高価な物でなくても、よいでしょうか」

「使いやすく、失礼のない品を選びます」

 マルタは、迷わず答えた。

 アレクはオスカーへ顔を向けた。

「兵舎と倉、厩、水場を優先したいと思っています。ただ、城で暮らし、客を迎えるために必要な物まで減らすつもりはありません」

「では、急ぐものから順に、費用をまとめ直します」

「お願いします」

 話が終わりかけた時、マルタが一枚の紙を残した。

「お客様がいらっしゃる御予定は、今のところございますか」

 アレクは、すぐに返事をしなかった。

 エリーゼの顔が浮かんだ。

 だが、約束はしていない。

「まだ、決まっていません」

「かしこまりました。お知らせをいただければ、人数に合わせて支度いたします」

 マルタは、それ以上尋ねなかった。

 紙を揃え、オスカーへ必要な分を渡す。

 アレクは、その二人のやり取りを見ながら、客室がどこにあるのかを思い出そうとした。

 昨日、案内の途中で扉の前を通った。

 窓は、庭の方へ向いていたはずだった。

 ◇ ◇ ◇

 その後の数日は、城と領地のことを覚えるうちに過ぎていった。

 朝、オスカーからその日の用件を聞く。

 町から来た者と会い、役人の報告を受ける。

 午後には、城外で兵舎に使う土地を確かめた。

 雨が降った翌朝、候補にしていた場所の一部に水が溜まっていると分かり、アレクは場所を少し変えるよう指示した。

 牧草を運ぶ道は残す。

 訓練に使う場所と、町の者が通る道を分ける。

 厩の建て増しは、馬の数だけでなく、飼葉を置く場所と一緒に考える。

 地図に書いた線が、そのまま正しいとは限らなかった。

 現地の者の話を聞き、直すたびに、使える計画へ近づいていく。

 ロルフへも手紙を出した。

 今後、新たに火縄銃を揃える場合、どの程度の期間と費用が必要になるか。

 既存の仕事に支障を出さず、どこまで対応できるかを尋ねた。

 できている物をすべて送れとは書かなかった。

 すでに使っている銃の修繕も、必要な仕事だった。

 マティアスへは、直轄兵を千人規模にする方針と、そのために進めている支度を報告した。

 あわせて、大砲の調達と、王家の鍛冶町への相談について、時間を頂きたいと書き添える。

 城へ届く書状は増えていた。

 だが、アレクの机に届く前に、オスカーが急いで判断すべきものと、後で目を通せるものに分けてくれる。

 何を今日決めなければならないのかが、分かるようになった。

 ある夕方、アレクは報告を終えたオスカーへ声をかけた。

「助かっています」

 オスカーが顔を上げた。

「私一人なら、まだ最初の書状を探していたかもしれません」

「必要な時にお出しするのが、私の仕事でございます」

「それでも、助かっています」

 オスカーは、わずかに目元を緩めた。

「では、明日も滞りなくお出しできるようにいたします」

 そう言って、空いた書類箱を持ち上げた。

 アレクは、その背を見送った。

 仕事を任せることにも、少しずつ慣れてきていた。

 ◇ ◇ ◇

 夜、執務室が静かになってから、アレクは新しい紙を取り出した。

 宛名を書く。

 エリーゼ。

 その名を書く時だけは、ほかの書状より筆がゆっくりになった。

 城へ無事に着いたことから書き始める。

 庭には、城で働く者たちが並んでいた。

 馬車を降りると一斉に頭を下げられ、最初はどうすればよいのか分からなかった。

 そこまで書いて、アレクは少し笑った。

 閣下と呼ばれたことも書いた。

 恥ずかしくなって、名前で呼んでほしいと頼んだことまで続ける。

 エリーゼなら、笑うだろうか。

 きっと、少し笑ってから、似合っていると言うかもしれない。

 そう考えると、余計に恥ずかしくなった。

 アレクは窓へ目を向けた。

 昼間は町まで見える窓も、今は暗い。

 庭の灯りが、石畳の一部を照らしている。

 城の中は静かだったが、誰もいないわけではなかった。

 廊下では使用人が明日の支度をし、門には見張りが立っている。

 自分の知らない仕事が、いくつも続いていた。

 紙へ目を戻す。

 家宰のオスカーと、メイド長のマルタに助けられていることを書いた。

 部屋が広く、まだ自分の居場所に慣れないことも。

 新しい城の暮らしを伝えようとすると、報告書には書かないことばかりが出てきた。

 筆が止まった。

 書きたい一文があった。

 だが、書けば、本当にそうしたいと思っていることが相手へ伝わる。

 アレクは、紙の端へ添えた指を動かした。

 城の門を通るエリーゼを思い浮かべる。

 庭を案内し、部屋の窓から町を見てもらう。

 まだ自分も知らないことの多い城だった。

 それでも、いつか見てほしかった。

 アレクは筆を下ろした。

 いつか、この城を見ていただけたら嬉しいです。

 書いた後、しばらくその一文を見つめた。

 消さなかった。

 訪れる日を決めたわけではない。

 それでも、自分の願いを一つ、相手へ渡した気がした。

 扉が軽く叩かれた。

「どうぞ」

 マルタが、水差しを持って入ってきた。

 卓の上へ置こうとして、手紙に気づく。

「こちらでよろしいでしょうか」

 紙から離れた場所を示された。

「はい。ありがとうございます」

 アレクは、乾きかけた文字を袖で擦らないよう、腕を引いた。

 マルタは手紙を覗かず、水差しを置いた。

「まだ、お仕事を続けられますか」

「これを書いたら終わります」

「では、お部屋の支度をしておきます」

 扉へ向かいかけたところで、もう一度振り返る。

「明日は、朝食の後に町の方がお見えになる予定です」

「覚えています」

「それでしたら、安心いたしました」

 アレクは顔を上げた。

 マルタの口元が、少しだけ緩んでいた。

 初めて会った時より、表情の小さな変化から、マルタの気持ちを読み取れるようになっていた。

「忘れそうに見えますか」

「お考え事を始められると、お時間をお忘れになることはあるようです」

「気をつけます」

「お願いいたします」

 マルタが一礼して出ていった。

 アレクは手紙へ目を戻した。

 最後に、身体を大切にしてほしいと書く。

 自分も同じことを言われていたと気づき、少し笑った。

 署名を終えたところで、今度はオスカーが来た。

「遅くに失礼いたします。侯爵閣下から、お返事が届きました」

 差し出された書状を受け取る。

 マティアスからだった。

 領地と軍備の支度について、報告を読んだこと。

 大砲の調達を含め、一度話を聞くという。

 アレクは書状を最後まで読んだ。

 千人の兵は、まだ揃っていない。

 新しい兵舎も、厩も、これからだった。

 それでも、誰に何を頼み、何から始めるかは、少しずつ決まっている。

「明日、必要な書類を揃えましょう」

 アレクはオスカーへ言った。

「収入の見込みと、最初にかかる費用。それから、まだ分からないことも分けておきたいです」

「承知いたしました」

 オスカーは頷いた。

「今夜は、こちらでお預かりしてもよろしいでしょうか」

 軍備について書き込んだ紙へ目を向ける。

 アレクは、その紙をまとめて渡した。

「お願いします」

 オスカーが出ていくと、卓の上には、エリーゼへの手紙が残った。

 アレクは文字が乾いたことを確かめ、丁寧に畳んだ。

 翌日、使者へ託す書状と一緒に置く。

 それから、席を立った。

 廊下へ出ると、隣の部屋には灯りが用意されていた。

 ここで眠り、朝になれば、またこの卓へ戻ってくる。

 城主としての暮らしは、まだ始まったばかりだった。

第二十五話を読んでいただき、ありがとうございました。

人に任せ、意見を聞き、自分で決める。新しい城での仕事を通して、アレクも少しずつ伯爵として歩み始めています。

次回は、マティアスとの相談を通じて、軍備拡充の計画を具体的に進めます。


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