第二十四話 新しい主の帰る場所
お読みいただき、ありがとうございます。
長い遠征を終え、アレクたちは帰路につきます。
ギルベルトが部屋へ入ってきた時、アレクは卓の上に置いた書面を、もう一度読み直していた。
村と畑の範囲。
領地から得られる収入。
領主として果たすべき務め。
何度も確かめたはずなのに、本人を前にすると、言い忘れたことがないか気になった。
「お呼びでしょうか」
「はい。こちらへ」
アレクが椅子を勧めると、ギルベルトは卓の手前で足を止めた。
視線が書面へ落ちる。
「帰還の編成についてですか」
「その話もありますが、今日は、先に伝えたいことがあります」
ギルベルトが椅子へ座った。
背を伸ばし、アレクの言葉を待っている。
戦場でも、兵の訓練でも、何度も見てきた姿だった。
報告を受ければ、何を確かめるべきかを考える。命令を出せば、実行するために必要な者を動かす。
アレクは、その働きにどれほど頼ってきたかを思い返した。
言葉を飾ろうとすると、うまく話せなくなる気がした。
「アイヒェンタールを、あなたの領地として与えたいと思っています」
ギルベルトは動かなかった。
聞こえなかったのかと思い、アレクが続けようとしたところで、ようやく口が開いた。
「私に、領地をですか」
「はい」
アレクは書面を差し出した。
ギルベルトは受け取らず、そこに記された村の名を見つめていた。
「あの土地は、アレク様が初めて賜った土地ではありませんか」
「だから、あなたに任せたいのです」
答えると、ギルベルトが顔を上げた。
「私にとって、大切な土地です。知らない誰かに任せるより、あそこで働く者や、鉄砲隊のことを知っているあなたに任せたいと思いました」
「しかし、私は」
ギルベルトは言葉を止めた。
卓の端に置いた手が、わずかに動く。
「城を任される方なら、ほかにもおられるでしょう。私は、兵を鍛え、隊を動かしてはきましたが、土地を治めたことはありません」
「私も、初めはありませんでした」
ギルベルトがアレクを見た。
「ですから、すべて一人でやれとは言いません。村のことを知る者の話を聞いてください。帳簿を扱う者も必要です。分からないことがあれば、私にも相談してください」
アレクは書面を開いた。
「私に仕える領主として、この土地を治めてもらいます。火縄銃に関わる施設は、引き続き私の直轄です。ただし、施設の管理はあなたに任せます」
ギルベルトは、今度は身を寄せて書面を見た。
「領地の収入と、施設の金は分けます。施設に必要な費用を、あなたが自分の収入から出すという意味ではありません」
「はい」
「あなたが出陣している間は、現地の担当者に、決めた範囲で日々の仕事を進めてもらいます。報告を受けて、問題があれば指示を出してください。大きな変更は、私にも知らせてもらいます」
ギルベルトは、そこまで聞いてから尋ねた。
「鉄砲隊は、どうなります」
「今までどおりです」
アレクは答えた。
「隊長の仕事まで、取り上げるつもりはありません」
ギルベルトの肩が、少しだけ下がった。
その反応を見て、アレクも口元を緩めた。
「そちらの方が気になりましたか」
「兵を教えてきましたので。途中で別の者へ渡せと言われれば、気にせずにはいられません」
「これからも、お願いします」
「……はい」
返事の後で、部屋が静かになった。
ギルベルトは、書面へ目を戻した。
村の名から、境を示す説明へ。それから、領地から得られる収入と、果たすべき務めについて、ゆっくり読み進めていく。
アレクは急かさずに待った。
やがて、ギルベルトが椅子を引いた。
立ち上がり、卓の脇へ回る。
「ギルベルト?」
片膝が床についた。
アレクは思わず立ちかけたが、ギルベルトが頭を下げるのを見て、動きを止めた。
「ありがたく、お受けいたします」
声は低かった。
普段の報告より、言葉の間が長い。
「お預かりする土地も、施設も、兵も。任せてよかったと思っていただけるよう、務めます」
アレクは、椅子の肘掛けから手を離した。
ここで慌てて立たせることは、相手が示している気持ちを遮ることになるのだろう。
そう思い、姿勢を正した。
「頼みます」
ギルベルトが顔を上げた。
アレクは書面を持ち、差し出した。
「これまで、ありがとうございました。これからも、私を支えてください」
ギルベルトは両手で受け取った。
紙を持つ指が、少し強く曲がっていた。
「はい」
今度の返事は、はっきりしていた。
それでも、立ち上がってからしばらく、ギルベルトは受け取った書面を畳もうとしなかった。
◇ ◇ ◇
帰還する軍の編成が告げられると、城外の陣では荷をまとめる仕事が始まった。
すべての兵が本国へ戻るわけではない。
王都と周辺の城には守備兵が残り、街道にも持ち場がある。交代する者は、倉の中身と、次に荷が届く日を確かめてから出発した。
ユリウスの下から出された命令は、帰る日だけを知らせるものではなかった。
誰へ鍵を渡すか。
どの道を通り、どこで宿営するか。
途中の城へ残す荷はどれか。
帰りたいという気持ちだけで兵が先へ進めば、残された者が困る。
アレクも、鉄砲隊の名簿をギルベルトと確かめた。
王都にいる八百九十五人は、同じ帰還路を取る。途中で各家の兵を引き渡す時も、何人を誰へ渡したかが分かるよう、名簿を揃えた。
「負傷して後方へ残った者には、先に知らせを出しました」
ギルベルトが言った。
「一緒に戻れる者は、途中で合流させます。まだ動かせぬ者については、現地の者へ引き続き世話を頼んでおります」
「帰りたいと言っても、無理に乗せないでください」
「承知しています」
ギルベルトは、以前と同じ調子で答えた。
領地を与えられたからといって、兵への指示が急に変わることはなかった。
ただ、時折、外套の内側へ手を添える。
そこに収めた書面を確かめているのだと気づき、アレクは何も言わずにいた。
出発の日、兵たちは暗いうちから起きていた。
馬の背へ荷を載せ、荷車の綱を確かめる。列が動き出す前に、銃と弾薬箱の数がもう一度数えられた。
アレクは、城門の方へ顔を向けた。
壁の上で、黒獅子の旗が風を受けている。
あの門を目指して進んでいた時には、その向こうで何人の兵と戦うことになるのかを考えていた。
今は、門の下を通る荷車に道を譲るよう、グランヴァルト兵が住民へ声をかけている。
ギルベルトが馬を寄せた。
「支度が整いました」
「では、行きましょう」
号令が伝わった。
列が、ゆっくり動き出す。
王都を離れて最初の丘を越えたところで、後ろの兵が小さく声を上げた。
「帰るぞ」
誰に向けた言葉でもなかった。
隣の兵が笑い、前を向いたまま答える。
「ああ。帰ろう」
アレクは振り返らなかった。
手綱を持ち直し、故郷へ続く道を進んだ。
◇ ◇ ◇
本国へ戻るまでには、幾度も宿営を重ねた。
帰路でも、兵糧を運ぶ荷車は遅れた。雨で道がぬかるめば、馬を下りて歩くこともあった。
それでも、見覚えのある城や道が増えるにつれ、兵の口数は多くなった。
各家の兵を引き渡し、負傷者の帰還を確かめた後、アレクは自分の隊を率いてアイヒェンタールへ向かった。
村へ近づくと、道の先に人が集まっていた。
最初にこちらへ気づいた子どもが、何か叫んで走り出す。
大人が慌てて追いかけた。
「馬の前へ出るな!」
止められた子どもは、道の脇で跳ねるように手を振った。
列の中で、一人の兵が笑った。
アレクが頷くと、その兵は空いた手を上げた。
子どもが、さらに大きく手を振る。
村の入口まで来たところで、アレクは馬を下りた。
迎えた者たちの声が、重なって聞こえた。
「お帰りなさいませ」
「御無事で」
「こちらです。荷を下ろす場所を空けてあります」
アレクは、一人ずつ顔を見た。
しばらく見ない間に、子どもの背が伸びていた。前に直していた柵は、新しい杭に変わっている。
自分たちが戦場にいる間も、ここでの暮らしは続いていた。
「留守を守ってくれて、ありがとうございます」
アレクが言うと、前にいた男が何度も頭を下げた。
後ろでは、帰った兵の顔を探す者がいた。
夫を見つけて駆け寄る女がいる。
息子の肩を両手でつかみ、痩せたのではないかと顔を覗く父親もいた。
笑い声が上がった。
その少し離れた場所に、静かに立っている者たちがいた。
アレクは、その姿を見落とさなかった。
帰らなかった兵については、すでに知らせを届けている。
だが、知っていることと、戻る列の中に姿がないことは、同じではなかった。
荷を下ろす指示をギルベルトへ任せ、アレクはそちらへ歩いた。
年老いた女が、こちらに気づいて頭を下げた。
「顔を上げてください」
アレクは足を止めた。
「後ほど、お宅へ伺ってもよろしいでしょうか。お渡しするものと、お話ししたいことがあります」
女は、しばらくアレクを見ていた。
それから、小さく頷いた。
「はい。お待ちしております」
アレクも頭を下げた。
勝ったと告げるだけでは、帰還は終わらなかった。
◇ ◇ ◇
その日の午後、アレクはギルベルトと共に、戦死した兵の家を訪ねた。
王からの褒賞と、ハルトマン家から渡す金。
本人の持ち物。
それぞれを分け、受け取る者と内容を確かめた。
机の上へ置かれた包みを前に、家族はすぐには手を伸ばさなかった。
アレクは、兵がどこで何をしていたかを話した。
自分が見たことは、自分の言葉で。
離れた場所で起きたことは、確認できた報告の範囲で伝えた。
立派に死んだと言えば、残された者が納得するとは思えなかった。
ただ、何も知らせないまま金だけを渡すこともできなかった。
「最後まで、お役目を果たせたのでしょうか」
尋ねられ、アレクは一度息を吸った。
「はい。最後まで持ち場を離れず、仲間と共に務めてくれました。立派な兵でした」
ギルベルトが、その兵の普段の様子を語った。
行軍で遅れそうになった仲間の荷を、黙って引き受けていたこと。
後から隊へ入った者が困っていれば、自分から声をかけていたこと。
「自分の支度が済んでも、それで終わりにはしない男でした。周りを見て、手が足りないところを手伝ってくれました」
話を聞いていた女が、包みの紐へ指を添えた。
「家でも、そうでした。私が重い物を持とうとすると、何も言わずに代わってくれて」
そこで声が途切れた。
アレクは、すぐには次の言葉を出せなかった。
ギルベルトも黙っていた。
窓の外で、荷車の車輪が鳴った。
帰ってきた兵たちの荷を運んでいるのだろう。
女が顔を上げるまで、二人は席を立たなかった。
訪問を終えて外へ出る頃には、日が低くなっていた。
ギルベルトが、残った書面を袋へ収める。
「留守中のことで、困っている家もありました」
「明日、話を聞きましょう」
「はい」
アレクは村の道を見た。
ここを任せる相手が、隣にいる。
そのことを、今日ほど心強く思ったことはなかった。
◇ ◇ ◇
ギルベルトへ領地を与えることは、翌日、村の者たちへ伝えられた。
集まった顔には、驚きも不安もあった。
アレクは、前へ出た。
「これから、この土地はギルベルトに治めてもらいます」
人々の視線が、隣へ移った。
ギルベルトは背を伸ばして立っていた。
「私は、新しく与えられた城へ移ります。ただ、この村とのつながりがなくなるわけではありません。ギルベルトは、引き続き私に仕え、この土地を守ります」
前にいた男が、恐る恐る手を上げた。
「では、今までの取り決めは」
「領主が変わったからといって、今日からすべてを変えることはありません」
アレクは答えた。
「変える必要があることは、話を聞いてから決めます。施設の仕事も続けます」
ざわめきが少し収まった。
ギルベルトが一歩前へ出た。
「兵と施設のことは知っておりますが、畑や村の暮らしについては、皆に教わらねばならぬこともあります」
集まった者たちを見渡す。
「困り事があれば、早めに知らせてください。すべてをその場で解決できるとは申せませんが、聞かずに放っておくつもりはありません」
アレクは横顔を見た。
兵へ命令する時より、少し言葉が硬い。
ギルベルト自身も、初めての役目に緊張しているのだろう。
年配の男が頭を下げた。
「よろしくお願いいたします」
それに続いて、ほかの者たちも頭を下げる。
ギルベルトは、深く頷いた。
集まりが解けた後、アレクは声をかけた。
「どうでしたか」
「兵の前へ立つ方が、楽ですな」
「私も、最初はそう思いました」
「今は違うのですか」
アレクは少し考えた。
「今も、分からないことばかりです」
ギルベルトが笑った。
それまで張っていた肩の力が、ようやく抜けたようだった。
◇ ◇ ◇
村に滞在している間、アレクの元には書状が次々に届けられた。
帰還を知った商人からのもの。
新しい領地の引き継ぎについての報告。
そして、村で保管されていたアレク宛ての手紙だった。
その中に、見覚えのある筆跡を見つけた。
エリーゼ。
名を確かめた途端、ほかの書状を置く手が慎重になった。
部屋で一人になってから、封を切る。
近頃あったことや、季節の移り変わりが綴られていた。その間に、アレクがきちんと食事を取っているか、無理をしていないかと気遣う言葉がある。
書かれた日を見た。
自分がまだ、旧ロスヴァールの道を進んでいた頃だった。
アレクは最後まで読み、もう一度、初めの行へ戻った。
窓の外から、村の子どもたちの声が聞こえる。
その声を聞きながら手紙を読めることに、帰ってきたのだという実感が湧いた。
紙と筆を用意した。
無事に戻ったこと。
伯爵位を頂き、新しい領地と城を任されたこと。
そこまで書いて、筆を止める。
爵位のことを、どう書けばよいのか迷った。
以前より胸を張って会いたい。
その気持ちはあった。
だが、伯爵になったのだから、もう何も気にする必要はないなどとは思えなかった。
アレクは、書きかけた言葉を読み返した。
新しい城のことも、まだ自分で見ていない。
そこで暮らす者へ挨拶をし、領地の引き継ぎを確かめなければならない。
少し考え、続けた。
落ち着くまで、もう少し時間がかかりそうです。
まだ会いに伺う日をお伝えできませんが、城へ着きましたら、また手紙を書きます。
最後に、贈られた手紙への礼を添えた。
封をする前に、もう一度読む。
エリーゼがこれを開く時、どんな顔をするだろう。
考えてから、アレクは静かに紙を畳んだ。
◇ ◇ ◇
オスカー・ベルナーが村へ来たのは、その数日後だった。
四十八歳の男は、派手な飾りのない服を着ていた。
荷は多くない。だが、持ってきた書類は種類ごとに揃えられ、紐の色で分けられていた。
「オスカー・ベルナーにございます。マティアス侯爵閣下より御紹介を賜り、参上いたしました」
「アレク・ハルトマンです。どうぞ、座ってください」
オスカーは礼をしてから椅子へ座った。
アレクは、マティアスから受け取った紹介状を卓へ置いた。
「領地の会計や管理に携わってこられたと伺っています」
「はい。収入の確認と、修繕や人足にかかる費用の取りまとめをしておりました。領主へお取り次ぎする訴えの整理も、務めの一つでした」
「城の家宰をお願いしたいと思っています。ただ、私も、どこまで任せるべきなのか、まだ分かっていないところがあります」
「では、一つずつ決めてまいりましょう」
答えは落ち着いていた。
知らないことを恥じる必要はないとも、何でも任せればよいとも言わなかった。
オスカーは、持ってきた紙を一枚開いた。
「城の引き継ぎについて、先方から届いた記録を拝見しました。急いで直すべき箇所が、幾つか挙げられております」
「私が着くまで待たずに、必要なものは進めてください」
「承知いたしました。では、使える金額と、先に手を入れる場所をお決めいただけますか」
アレクは、思わず紹介状へ目を落とした。
マティアスの言ったとおりだった。
オスカーが首を傾げる。
「何か」
「いえ。マティアス様から、そうしたことをきちんと確かめる方だと伺っていました」
「直した後で、別の仕事を先にすべきだったと分かりましても、使った金は戻りませんので」
アレクは頷いた。
「どこを直すのですか」
「倉の屋根と、使用人が使う階段の手すりです。ほかに、客室の壁布を取り替える話がございます」
「屋根と手すりを先にしてください。壁布は、使えないほど傷んでいるのですか」
「記録には、古くなったとだけあります」
「それなら、私が見てからにしましょう」
オスカーは紙へ書き込んだ。
アレクは修繕の見積もりを確かめ、使える額を決めた。
その額で足りなければ、理由とともに知らせてもらう。
話を進めるうちに、城で暮らすために必要な仕事が、少しずつ形になった。
食料を買う者。
客を迎える者。
倉を開け、使った品を記録する者。
あらかじめ決めた範囲で進める仕事と、その都度アレクへ確認する仕事を分けていく。
「私が出陣している間も、城の仕事は続きます」
アレクが言った。
「私の返事を待つために、日々の仕事まで止まることは避けたいのです」
「日々の仕事は、決めていただいた範囲で進めます。新たに大きな金を使うことや、領民の暮らしに関わる変更は、御判断を仰ぎます」
「お願いします」
「火縄銃の施設については、ギルベルト殿が管理なさると伺っております」
「はい。必要な経費は城でも把握しますが、製造や警備については、勝手に変更しないでください」
「承知いたしました。私が分からぬことは、まずギルベルト殿へ確かめます」
その返事を聞き、アレクは姿勢を正した。
「オスカー。私の家宰として、働いていただけますか」
オスカーは筆を置いた。
「謹んで、お仕えいたします」
深く頭が下がる。
アレクは、その礼を受け止めた。
マティアスに勧められたからではなく、自分が会い、自分で任せると決めた人だった。
◇ ◇ ◇
オスカーは、アレクより先に城へ向かった。
残る使用人たちと顔を合わせ、倉と部屋を確かめるためだった。
その間に、アレクは村で済ませるべき仕事を終え、ギルベルトと領地の管理について確認した。
やがて、城の引き渡しが整ったという知らせが届いた。
前の領主が持ち出す品と、城に残す品は分けられている。
鍵と帳簿も受け取った。
アレクを迎える支度も進んでいるという。
出発の朝、用意された馬車を見て、アレクは足を止めた。
扉には、林檎の花と、その周りの五つの蕾が描かれていた。
自分の紋章だ。
旗で見るのとは、また違った。
マティアスは馬車のそばに立ち、アレクへ顔を向けた。
「支度はできたか」
「はい」
答えたところで、主君の目が襟元へ動いた。
「少し曲がっている」
アレクが手を伸ばすより先に、そばの従者が近づいた。
襟と外套の位置を整えられ、アレクは顎を上げたまま待った。
マティアスが頷く。
「それでよい」
「ありがとうございます」
馬車の中へ目を向ける。
座る場所には、厚い布が敷かれていた。
足をかけて乗り込むと、剣の位置が気になった。座ってから一度持ち上げ、邪魔にならないよう脇へ寄せる。
窓の外で、マティアスがそれを見ていた。
「着いたら、まず家宰の案内を受けろ」
「はい」
「城の中を、勝手に見て回るなよ。迎える者が探すことになる」
「そこまではしません」
答えると、マティアスは口元を緩めた。
「ならば、心配はいらんな」
扉が閉じられた。
外の音が、少し遠くなる。
馬車が動き出した。
アレクは、窓の向こうへ頭を下げた。
マティアスの姿が後ろへ流れていく。
道へ出ると、護衛の騎兵が馬車の脇についた。
馬上の揺れは見慣れている。
こちらは、車輪が石を越えるたび、身体の下から押し上げられるように揺れた。
アレクは膝へ手を置いた。
しばらく外を見ていたが、馬車の中から護衛へ何度も顔を向けていることに気づき、座り直した。
兵を率いて進む時とは違う。
今日は、自分を迎える者たちのところへ行くのだ。
窓の外では、畑の向こうに低い丘が続いていた。
その先に、新しい城があった。
◇ ◇ ◇
城が見えたのは、道が緩やかに上り始めた頃だった。
丘の上に、石の壁が連なっている。
門の左右には塔が立ち、その奥に屋根が重なって見えた。
麓には町があった。
道沿いの店から出てきた者が、馬車へ顔を向ける。荷を運んでいた男が脇へ寄り、帽子を取った。
アレクは窓へ近づきかけ、外套を踏まないよう座り直した。
子どもが一人、母親らしい女の後ろからこちらを見ていた。
目が合ったので、小さく手を上げた。
子どもも、ためらいながら手を振った。
馬車は町を抜け、城へ続く坂道を上った。
アレクは門の上を見た。
林檎の花。
その周りを囲む五つの蕾。
自分の旗が、城門の上で風を受けていた。
城を攻める時には、あの位置にある旗を下ろすために兵を進めた。
今は、門が開かれ、自分の到着を待っている。
馬車が石造りの門をくぐった。
車輪の音が、短く壁へ響く。
陰を抜けた途端、庭が見えた。
アレクは息を止めた。
道の両側に、人が並んでいた。
揃えた服を着た執事や従者。
前掛けを整え、両手を重ねたメイドたち。
その後ろには、庭や厩で働く者たちの姿もある。
これほど大勢が待っているとは、思っていなかった。
馬車が止まる。
外から扉が開かれた。
「到着いたしました」
アレクは返事をして、足を下ろした。
石畳へ立った瞬間、並んでいた者たちが一斉に頭を下げた。
衣擦れの音が重なった。
アレクは、思わず馬車の方へ顔を向けかけた。
レオンハルトも、マティアスも乗っていない。
迎えられているのは、自分だった。
「お待ち申し上げておりました、閣下」
先頭に立つオスカーが、一歩進み出た。
村で会った時よりも服装が整えられている。
胸元も袖口も、乱れがなかった。
「城と町の引き継ぎは、滞りなく済んでおります。後ほど、改めて御報告いたします」
「あ、はい。ありがとうございます」
返事が少し遅れた。
オスカーは気にした様子を見せず、隣の女性へ手を向けた。
「こちらは、メイド長のマルタ・ケスラーでございます」
女性が進み出た。
まだ若かった。
髪をきちんとまとめ、背を伸ばしている。落ち着いた表情だったが、アレクと目が合うと、わずかに口元を和らげた。
「マルタと申します。閣下のお部屋は、すでに整えてございます」
その後ろで、若いメイドが慌てて頭を下げ直した。
マルタは声を出さず、小さく頷いて落ち着かせる。
アレクはその仕草を見た後、二人へ目を戻した。
閣下。
先ほどから、その呼び方が自分へ向けられている。
式で伯爵と呼ばれた時とは違った。
ここでは、これから毎日、そう呼ばれるのだろうか。
耳が熱くなった。
「閣下はやめてください! アレクと呼んでください」
思ったより大きな声が出た。
庭が静かになった。
アレクは、自分の言い方に慌てた。
「いえ、その、呼ばれ慣れていないものですから」
オスカーとマルタが顔を見合わせた。
やがて、オスカーがわずかに口元を緩めた。
「では、アレク様とお呼びしてもよろしいでしょうか」
「はい。それでお願いします」
「承知いたしました、アレク様」
マルタも呼び直した。
その声を聞き、アレクはようやく肩の力を抜いた。
列の後ろで、誰かが小さく息を吐いた。
緊張していたのは、自分だけではないらしい。
アレクは、並んだ人々を見渡した。
「皆さん、ずっと外で待っていたのですか」
「見張りから馬車が坂へ入ったと知らせがあり、集まってもらいました」
マルタが答えた。
「お仕事の途中の者もおりますが、長くは待たせておりません」
「そうですか」
アレクは頷いた。
こちらが気を遣わなくても、待つ者たちのことは考えられていた。
それでも、自分が何も言わなければ、皆はこのまま立っている。
オスカーも、マルタも、静かに言葉を待っていた。
アレクは、襟元へ伸ばしかけた手を下ろした。
姿勢を正す。
「アレク・ハルトマンです」
自分の名を告げた。
顔を上げた者たちと、順に目を合わせる。
「今日から、よろしくお願いします。皆さんの仕事も、この城のことも、少しずつ教えてください」
声は、思っていたよりまっすぐ出た。
「長く働いてきた方もいると思います。私が知らないことは、遠慮せずに教えてもらえると助かります」
年配の従者が、深く頭を下げた。
隣の若いメイドも、それに続いた。
オスカーが一礼する。
「一同、力を尽くしてお仕えいたします」
アレクは、その礼を受けた。
城壁も、塔も、大きかった。
だが、目の前で頭を下げる人々の方が、自分に与えられたものの大きさを感じさせた。
ここで働く者がいる。
城の下には町があり、その先には畑と村が続く。
伯爵になった今、自分の判断に暮らしを左右される者は、以前よりもはるかに増えていた。
マルタが、城の入口へ身体を向けた。
「どうぞ、中へ。お荷物はこちらでお預かりいたします」
アレクは頷き、歩き出した。
後ろでは、オスカーの指示で人々が持ち場へ戻り始めている。
並んでいた時には静かだった庭に、仕事の音が戻ってきた。
荷を運ぶ足音。
馬を厩へ導く声。
扉を開く音。
アレクは入口の前で、一度だけ振り返った。
城門の上では、林檎の花の旗が揺れていた。
次にあの門をくぐる時には、迎える者たちの名を、もう少し覚えていたい。
そう思いながら、アレクは自分の城へ入った。
第二十四話を読んでいただき、ありがとうございました。
支えてくれた者へ土地を託し、自らも新しい城へ。アレクの領主としての歩みが、また一つ進みました。
次回は、新たな城での暮らしと、広がった領地を支える仕事へ進みます。
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