第二十三話 託される城
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戦を終えたロスヴァール王都で、諸将が広間に集います。
マティアスが開いた帳簿には、城や町の名に交じって、街道と橋の名が記されていた。
レオンハルトは、そのうちの一つを指した。
「ここは、降った城主に任せるのだったな」
「はい。兵と倉を引き渡し、周辺の村へも停戦を伝えております。徴税の記録と、引き渡された金穀にも、今のところ大きな食い違いはありません」
「ならば、そのまま働かせろ」
マティアスが頷き、書記官へ目を向ける。
アレクは、そのやり取りを卓の脇で聞いていた。
地図には、グランヴァルトの本国から旧ロスヴァールの王都まで、長い道が描かれている。行軍の時には幾日もかかった距離が、指を動かせば届く範囲に収まっていた。
だが、そこにある城をすべて、自分たちの兵で守り続けることはできない。
「王都と、その周辺は王家の直轄とします」
マティアスが続けた。
「国境から王都へ至る街道については、王家の兵を置く城と、諸侯へ任せる城を分けます。途中の関所を各家が勝手に閉じれば、荷も使者も通らなくなりますので」
「橋を直す金を誰が出すかも、決めておけ」
レオンハルトが言った。
「隣の領地へ荷を運ぶためだから、自分は払わぬなどと言わせるな」
「負担する範囲を、土地を渡す条件に含めます」
アーノルドが地図へ手を伸ばした。
「この川沿いは、雪解けの後に道が崩れます。城だけでなく、渡し場の者にも話を聞いた方がよいでしょう。地図にある道が、いつも使えるとは限りません」
マティアスは場所を確かめ、書記官に記録させた。
アーノルドの指が離れた後、ユリウスが同じ道を見た。
「兵を置くなら、渡し場から城へ知らせが届くようにする必要があります」
「人を決めましょう。城主だけに命じると、村へ話が届かぬことがあります」
地図の上に、小さな札が置かれていく。
攻める時には、門と城壁を見ていた。
今は、その城へ麦が届く道や、橋を直す者の話をしている。
アレクは、帳簿に並ぶ名へ目を戻した。
「本国から、領主を移すのですか」
尋ねると、マティアスが顔を向けた。
「ああ。こちらへ土地を得る家の中には、本国の領地と引き替えに移る家も出る」
「家の者も、兵もですか」
「一度には動かせない。先に役人を送り、城と収入を確かめさせる。家族や荷を移すのは、その後だ」
マティアスは本国側の地図を指した。
「離れた土地を幾つも持たせれば、領主がいない間の争いが増える。できるだけ、治められる形にまとめたい」
「以前、シュヴァルツ伯や東の盟約に従った家も含まれる」
レオンハルトが言った。
アレクは顔を上げた。
「ただし、済んだ裁きをやり直すのではない。土地を移すなら、代わりの土地と、その理由を示す」
王の指が、旧ロスヴァール側の城へ移った。
「反抗した家を一か所に集めるようなこともするな。それでは、また同じ旗を掲げる支度をしてやるようなものだ」
「移す家と、周囲へ置く家は分けます」
マティアスが答える。
「移転にかかる費用と、引き継ぐ倉の中身も確かめます。城は渡したが食う物はない、では、村から無理に取り立てることになります」
「そこまで整えてから渡せ」
アレクは、地図に置かれた札を見た。
ただ広い土地を与えれば、褒賞になるわけではなかった。
そこへ移る者にも、すでに暮らしている者にも、その後の生活がある。
マティアスが帳簿を一枚めくった。
今度の頁には、よく知る家の名があった。
ハルトマン。
アレクが自分の名を見つけた時、マティアスはその頁を閉じた。
「細かな引き渡しは、まだ詰める。今日は、ここまでにしよう」
アレクは、思わずその手元を見た。
マティアスの口元がわずかに緩む。
「アレクの分もある。忘れてはいない」
「そのような心配をしていたわけではありません」
「ならば、よい」
レオンハルトが椅子から立った。
「働いた者を、いつまでも待たせるつもりはない。諸将を集めろ。告げられるものから告げる」
◇ ◇ ◇
論功行賞が行われたのは、それから数日後だった。
王城の広間には、グランヴァルトの諸将が並んでいた。
城外の陣や街道の守備を空にしないよう、出席する者はあらかじめ決められている。持ち場を離れられない者には、後で正式な書状を届けることになっていた。
アレクは、礼装の襟へ指を入れかけ、やめた。
戦場で身につける服とは、首の周りの感触が違う。
隣のカスパルが、それを見て小さく笑った。
「苦しいのか」
「慣れないだけです」
「俺もだ。剣を振るわけでもないのに、肩が凝る」
「二人とも、始まるぞ」
エイドリアンの声に、アレクは前を向いた。
ヴィクトルはすでに姿勢を正していた。ロベルトも広間の奥へ目を向けている。
書記官が名簿を開く。
諸将の話し声が収まった。
レオンハルトは、用意された椅子の前に立っていた。
「ロスヴァールとの戦は終わった」
広間に、王の声が通った。
「だが、ここへ来られたのは、最後に王城へ入った者だけの働きではない」
アレクは、自然と背を伸ばした。
「野で敵を破った者がいる。城門へ進んだ者がいる。落とした城を守り、街道を開き、食料を届けた者がいる。その働きがあったから、軍は止まらずに進めた」
列の向こうで、片腕を布で吊った騎士が顔を上げた。
「帰らぬ者の働きも、その家へ伝える。負傷してここへ立てぬ者を、名簿から落とすことも許さぬ」
レオンハルトは書記官へ頷いた。
「その上で、これからの国を支える役目を与える」
最初に呼ばれたのは、マティアスだった。
アレクの前から、一人分の背が離れる。
いつも地図や帳簿の向こう側にいる主君が、広間の中央へ進み、王の前で膝をついた。
書記官が戦功を読み上げた。
カルディアとの協力を取りつけたこと。
降伏した城の引き継ぎを進め、街道と補給を維持したこと。
敵将へ働きかけ、王都での大きな戦いを避けて王城を開かせたこと。
城を一つ取った、敵を何人倒したという話だけではなかった。
アレクが見てきた仕事もあれば、知らない間に済んでいた仕事もあった。
「マティアス」
レオンハルトが呼んだ。
「お前を侯爵に叙する。領地を加増し、宰相として国の政務を任せる」
広間の端で、衣擦れの音がした。
アレクは息を止めた。
侯爵。
そして、宰相。
隣でカスパルが、わずかに顎を引いた。
マティアスは顔を上げたが、すぐには答えなかった。
「王家と諸侯の間に立ち、各地から上がる政務を取りまとめろ。西部についても、諸侯と街道の守りを調整する役を任せる」
「承知いたしました」
マティアスの声は、普段と変わらなかった。
「ただし、各家へ命じる範囲は、書面で明らかにしていただきたく存じます。私の領地として扱うものと、陛下から預かる役目は分けなければなりません」
レオンハルトの口元が動いた。
「褒賞を受ける場でも、その話か」
「後で争いになるよりは、今のうちに明らかにしていただく方がよろしいかと存じます」
「よい。曖昧なまま働けとは言わぬ」
王は、書記官が差し出した証書へ手を置いた。
「だが、仕事は増えるぞ」
「その分、人をお貸しください。私一人の手は増えませんので」
広間に、小さな笑いが広がった。
レオンハルトも短く笑った。
「必要な者を選べ。選んだ理由も持ってこい」
「かしこまりました」
証書が渡された。
マティアスが受け取り、深く頭を下げる。
立ち上がった主君を見ながら、アレクは手を握っていた。
以前、マティアスの下で働き始めた時には、この姿を想像できなかった。
帳簿を見て、相手の言葉を聞き、道を調べる。
戦場では兵を動かし、必要なら自分で交渉へ赴く。
そうした一つ一つが、今、この広間で認められていた。
次に呼ばれたのはユリウスだった。
軍靴の音が、石の床に響いた。
ユリウスは王の前へ進み、迷いなく膝をついた。
「長く、俺の軍を支えてきた」
レオンハルトが言った。
「今回も、別働軍を率いて城を落とし、本隊が進む道を開いた。離れていても、任せた軍のことを案じずに済んだ」
ユリウスは、王を見上げた。
「お前も侯爵に叙し、領地を加増する。今後は王国軍を統率し、各地の軍を動かす際の指揮と備えを取りまとめよ」
「謹んで、お受けいたします」
短い答えだった。
だが、その声には力があった。
「これからは、俺と共に戦った者だけではない。兄に仕えていた者も、新たに従った者も率いることになる」
「はい」
「どの家の兵かは確かめろ。だが、それだけで働きの良し悪しを決めるな」
「戦場で果たした役目を見ます」
レオンハルトが頷いた。
ユリウスへも証書が渡される。
マティアスとユリウスが列へ戻る時、二人の目が合った。
「兵を動かす時は、早めに知らせていただきたい」
マティアスが低く言った。
「荷を揃えるのに、時間が要ります」
「金がないと言って、必要な荷まで減らさぬように」
「何に使うか分かれば、用意のしようもあります」
「では、よく話すことになりそうですな」
ユリウスの口元が緩んだ。
アレクは、その二人の後ろで息を吐いた。
役目が変わっても、明日からの仕事は続く。
ただ、二人が責任を負う範囲は、これまでよりはるかに広くなっていた。
◇ ◇ ◇
続いて、各隊を率いた者たちの名が呼ばれた。
ヴィクトルには、兵を率いて城門から進み、後続が入る場所を確保した働きが告げられた。
エイドリアンには、続く兵をまとめ、崩れかけた隊列を立て直したこと。
カスパルには、斥候と伝令を使い、敵の動きを早く知らせたこと。
ロベルトには、街道と荷の流れを押さえ、前へ出た軍を支えたこと。
四人の戦功が読み上げられると、レオンハルトが口を開いた。
「ヴィクトル、エイドリアン、カスパル、ロベルト。お前たち四人を、それぞれ子爵に叙する」
アレクは、前へ並んだ四人の背を見た。
「各家の領地を加増し、働いた兵への褒賞も与える。これからもマティアスの下で、その役目を果たせ」
四人が揃って頭を下げた。
「謹んで、お受けいたします」
証書が一人ずつ渡されていく。
ヴィクトルは両手で受け取ると、そこに記された自分の家の名を見つめた。やがて顔を上げ、もう一度、王へ深く頭を下げる。
カスパルも、この時ばかりは笑みを収めていた。
列へ戻ってきた四人へ、マティアスが頷いた。
「よく働いたな」
その言葉に、四人の表情がようやく和らいだ。
ロベルトは証書を受け取った後、そこに記された土地へ一瞬目を落とした。
もう収入を考えているのかもしれない。
アレクがそう思ったところで、自分の名が呼ばれた。
「アレク・ハルトマン子爵」
考えが止まった。
前へ出る。
王の前まで、そう長い距離ではなかった。
それでも、左右に並ぶ者たちの視線を感じた。
膝をつくと、床の冷たさが布を通して伝わってきた。
書記官が記録を読んだ。
鉄砲隊を率いて敵軍を崩したこと。
新型大砲の運用に携わり、攻城に貢献したこと。
使者として城へ入り、降伏開城を実現したこと。
街道で敵の援軍を阻み、城を攻める味方の背後を守ったこと。
アレクは、下げた目の先にある床を見つめた。
読み上げられる言葉の間に、違う音が重なった。
鉄砲の轟音。
門の向こうで鳴った足音。
負傷した兵を呼ぶ声。
自分一人の働きではない。
それは分かっていたが、今ここで口を挟むことではなかった。
「顔を上げろ」
レオンハルトが言った。
アレクは従った。
「お前を伯爵に叙する」
一度聞いただけでは、その言葉が自分へ向けられたものだと、うまく受け止められなかった。
伯爵。
つい先ほどまで、マティアスに対して使っていた爵位だった。
レオンハルトは、書記官が広げた地図へ手を置いた。
「今の領地に隣接する土地を加増する。村と農地だけではない。街道沿いの町と、そこを治める城も含む」
アレクの目が、王の手元へ動いた。
見覚えのある道があった。
自分の領地から伸びる道の先に、町と城の印が記されている。
「城も、ですか」
口にしてから、アレクは言葉を整えようとした。
しかし、レオンハルトは咎めなかった。
「そうだ。お前の居城とする」
広間の後ろで、誰かが小さく息を吐いた。
アレクには、それが誰なのか分からなかった。
「現在の領主は、代わりに与える土地へ移る。城と倉、収入の引き継ぎを済ませてから、お前へ渡す」
レオンハルトは地図から手を離した。
「増えた土地を、今までと同じ人数で治められるとは思うな。役人を置け。兵を養う支度も整えろ」
「はい」
「城は、そのために使え」
アレクは、ようやく喉を動かした。
「謹んで、お受けいたします」
頭を下げる。
証書を差し出され、両手で受け取った。
紙は、それほど重くなかった。
だが、そこに記された城や町を思うと、持ち上げた腕を簡単には下ろせなかった。
「鉄砲隊の働きについては、各家の兵にも褒賞を与える」
レオンハルトが続けた。
「お前の下で戦ったからといって、お前だけで受け取るものではない」
「承知しております」
今度は、すぐに答えられた。
「兵たちへも、必ず伝えます」
「そうしろ」
レオンハルトは、アレクを見た。
「これからは、兵を率いて勝つだけでは足りぬ。お前が留守の間も、領地が立ち行くようにしておけ」
「はい」
アレクは立ち上がった。
列へ戻る途中、マティアスと目が合った。
侯爵となった主君は、大きく笑うこともなく、小さく頷いた。
それを見た時、ようやく自分が何を与えられたのか、少しだけ実感が湧いた。
隣へ戻ると、カスパルが囁いた。
「城持ちの伯爵か」
「まだ、何も確かめていません」
「今から倉の中身を心配するなよ」
「倉は大事だぞ」
反対側からロベルトが言った。
エイドリアンが二人を見た。
それで口は閉じられたが、ヴィクトルは前を向いたまま、わずかに笑っていた。
アレクは証書を持ち直した。
その紙の向こうに、まだ見たことのない城があった。
◇ ◇ ◇
式を終え、広間を出ると、待っていた者たちが次々に挨拶へ来た。
侯爵となったマティアスとユリウスの周りには、人の輪ができている。
アレクも、すぐには廊下を抜けられなかった。
「ハルトマン伯爵。此度の御昇爵、お祝い申し上げます」
そう言われるたび、一拍遅れて頭を下げた。
自分の後ろに別の誰かがいるような気がする。
何度か挨拶を返すうちに、ようやく『伯爵』と呼ばれても戸惑わずに応じられるようになった。
廊下の角まで来ると、ギルベルトが待っていた。
広間には入らず、鉄砲隊の報告を持ってきていたらしい。
アレクの手にある証書へ目を向け、姿勢を正した。
「御昇爵、おめでとうございます」
「ありがとうございます」
「兵にも、よい知らせになります」
「兵たちにも褒賞が出ます。詳細は書面が整ってからですが、戦死した者や、負傷して後方へ残った者も含まれます」
ギルベルトの表情が変わった。
「それは、ありがたいことです」
「所属する家ごとに、渡し漏れがないか確かめてください。私からも話します」
「承知しました」
ギルベルトは報告を差し出した。
交代の状況と、銃や道具の点検結果だった。
アレクは受け取り、目を通した。
爵位が変わった日にも、火縄の残りを調べ、傷んだ道具を直す仕事がある。
そのことに、少し気が楽になった。
「いつ、領地へ戻られますか」
「まだ決まっていません。引き継ぎが残っていますから」
「兵も待っております。帰ると決まれば、荷をまとめられるようにしておきます」
「お願いします」
ギルベルトが一礼して去ろうとした。
アレクは、その背へ声をかけかけた。
だが、言葉にはしなかった。
渡したいものがあった。
金だけではない。
今まで、自分が受け取ってきたものの一部を、この人へ渡したい。
ギルベルトが廊下を曲がるまで見送り、アレクは証書を抱え直した。
◇ ◇ ◇
マティアスの周りから人が減った頃を見計らい、アレクは声をかけた。
「少し、御相談してもよろしいでしょうか」
「領地のことか」
「はい」
「こちらへ」
案内された部屋には、式で使われたものとは別に、領地の記録が運び込まれていた。
マティアスは外套を従者へ渡すと、椅子へ座った。
「何か気になることがあったか」
「ギルベルトに、領地を与えたいのです」
マティアスの手が止まった。
アレクは続けた。
「私が最初に頂いた土地を、任せたいと思っています」
「最初の土地をか」
「はい」
マティアスは、すぐに賛成も反対もしなかった。
「理由を聞こう」
アレクは、両手を膝の上へ置いた。
「これまでの働きに、報いたいからです。兵を教える時も、戦場でも、私一人では隊を動かせませんでした。私が別の仕事へ向かう時も、ギルベルトになら隊を任せられました」
「それは、俺も見ている」
「それに、あの土地なら、安心して任せられます」
言い終えてから、アレクは少し考えた。
「大切な土地です。誰でもよいとは思えません」
マティアスは頷いた。
「では、施設はどうする」
「火縄銃に関わる施設は、私の直轄として残します。ただ、管理はギルベルトに任せたいと思います」
「土地から得る収入と、施設の金は分ける必要があるな」
「はい。施設の支出を、ギルベルト個人の負担にはしません」
マティアスは紙を引き寄せた。
「領地として与える畑や村の収入。直轄として残す土地と建物。施設を管理する者の権限。それぞれ書き分ける」
筆を動かしながら、顔を上げる。
「鉄砲隊から外すのか」
「いいえ。今までどおり、隊長を務めてもらいたいのです」
「ならば、留守中に領地を預かる者が要る。出陣するたびに、村も施設も判断を待っていたのでは困る」
「日々の仕事は現地の者に任せ、報告を受けられるようにします。大きな変更は、私にも知らせてもらいます」
「それなら、形にできる」
アレクは顔を上げた。
「認めていただけますか」
「働きに見合う褒賞だ。あの者が、何を任されたかを理解して受けるならな」
マティアスは筆を置いた。
「ただし、領地を与えることと、今率いている兵をその者の兵にすることは別だ」
「承知しています。鉄砲隊の所属と指揮は変えません」
「よい。では、本人へ話す前に、渡す範囲を確かめよう。村の者にも、明日から何が変わるのか分かるようにしておけ」
アレクは深く頭を下げた。
「ありがとうございます」
「俺に礼を言う話ではない。アレクが主君として与える褒賞だ」
その言葉に、アレクは顔を上げた。
マティアスは、卓の端に置かれた伯爵位の証書を見た。
「自分が受け取るだけでは済まなくなったな」
「はい」
「与える時も、後のことまで考えろ。土地を渡して終わりではない」
アレクは頷いた。
ギルベルトが、どんな顔で話を聞くのか。
驚くだろうか。辞退しようとするだろうか。
考えると、式で自分の名を呼ばれた時とは違う緊張があった。
それでも、早く伝えたいと思った。
◇ ◇ ◇
マティアスは、もう一枚の書状を取り出した。
「ギルベルトの話が出たところで、こちらからも人の話をしておこう」
「人、ですか」
「新しい城を、誰に任せるつもりだ」
アレクは、すぐには答えられなかった。
兵のことは考えていた。
鉄砲と馬、訓練する場所。増えた土地から、どれだけの収入を得られるか。
だが、城の中で誰が何をするのかまでは、まだ思い描けていなかった。
「今いる者だけでは、足りませんね」
「足りない。それに、人数を増やせばよいわけでもない」
マティアスは書状を渡した。
「オスカー・ベルナーという者がいる。俺の領地で、会計と土地の管理に携わってきた。城の家宰として、会ってみるとよい」
アレクは名を確かめた。
「どのような方ですか」
「任せた仕事を、分からぬまま進めない者だ」
「分からぬまま、ですか」
「よいようにやれと言えば、何を先にするのか、幾らまで使えるのかを聞いてくる」
マティアスの口元が緩んだ。
「急いでいる時には、少々面倒に感じることもある」
「それでも、推薦なさるのですね」
「後で、そんなつもりではなかったと言う方が面倒だからな」
アレクは、書状へ目を戻した。
城の収支。
働く者の配置。
留守中に届く訴えや書状。
そこには、自分が戦場へ持っていけない仕事が並んでいた。
「城の家宰とは、そこまで任せるものなのですか」
「任せる範囲は決める。大きな支出や処罰まで、何でも勝手に決めさせるわけではない。だが、アレクが返事をするまで一枚の戸も直せない城では困る」
「確かに、そうですね」
「軍のことは、ギルベルトたちに聞かせればよい。誰に何を確かめるべきか分かる者がいれば、留守中の仕事も回る」
マティアスは、アレクの手にある書状を見た。
「会って、任せられると思うなら召し抱えろ。俺が勧めたからといって、断れぬと思う必要はない」
「マティアス様の領地は、困りませんか」
「後を引き継げる者はいる」
答えは早かった。
「それに、これから俺の仕事も増える。近くの領地で何かあるたび、アレクが全部抱えて相談に来るより、ハルトマン家の政務を任せられる者を置いてもらった方が助かる」
アレクは苦笑した。
「できるだけ、そうならないようにします」
「できるだけではなく、そうするために人を置くんだ」
「はい」
マティアスは頷いた。
「城に残る使用人についても、引き継ぎの記録を送らせている。土地の領主が変わっても、働く者をすべて入れ替える必要はない」
「前の領主に仕えていた者でも、ですか」
「不正をした者まで残せとは言わぬ。だが、厨房で働く者や寝具を整える者が、主君の国替えを決めたわけではない」
アレクは、王都で帳簿を運んでいたロスヴァールの役人を思い出した。
従う相手が変わっても、仕事は残る。
新しい領主にどう扱われるか分からず、不安に思っている者もいるのだろう。
「城へ着いたら、まず話を聞きます」
「そうしろ。何年も城で働いた者なら、雨漏りする屋根も、冬に風が入る窓も知っている」
「城にも、雨漏りはあるのですね」
「屋根があれば、ある」
マティアスが当然のように答えたので、アレクは少し笑った。
地図の上にある城が、ようやく人の暮らす建物に思えてきた。
◇ ◇ ◇
話を終えて立ち上がると、マティアスがアレクの服へ目を向けた。
「その礼装は、戻ってからも使うことになる」
アレクは自分の袖を見た。
「城での挨拶ですか」
「ああ。新しい城へ行く時は、伯爵にふさわしい格好をして、馬車で行け」
「馬車ですか」
「そう言った」
アレクは、少し間を置いた。
「馬ではいけませんか」
「駄目だ」
返事が早かった。
アレクは、もう一度袖を見た。
軍を率いて城へ入るのなら、馬の方が慣れている。
自分で周りを見られ、何かあれば止まれる。馬車の中で座っているより、よほど落ち着くはずだった。
「道中も、この格好で過ごすのですか」
「長い旅の間、ずっと着ていろとは言っていない。城へ入る前に整えろ」
「でしたら、城の近くまでは馬で」
「アレク」
名を呼ばれ、口を閉じた。
マティアスは、怒ってはいなかった。
むしろ、何を言い出すか初めから分かっていたような顔だった。
「迎える者たちにも支度がある。領主の方が、それを台無しにするな」
アレクは顔を上げた。
「皆、新しい主君がどんな者か知らぬまま待っている。服も整えず、急に馬で乗りつけて、挨拶もそこそこに厩へ行かれては困るだろう」
「厩へ行くとは、まだ言っていません」
「馬の様子は確かめるつもりだったのだろう」
アレクは答えられなかった。
マティアスが小さく息を吐く。
「馬は任せろ。まず、迎える者たちの前へ立て」
「……承知しました」
「よし」
それで話は終わったらしい。
マティアスは次の書状を取り上げた。
アレクは証書と紹介状を持ち、部屋を出た。
廊下の窓から、城外の陣が見えた。
並ぶ天幕の間を、兵糧の荷車が進んでいる。その先では、帰還に備えて車輪を確かめている者がいた。
自分も、あの道を戻る。
だが、帰り着く先には、まだ見たことのない城がある。
その城で待つ者たちへ、何と挨拶すればよいのだろう。
戦場で兵へ出す命令なら、迷わず声にできる。
ところが、これから自分の家で働く者たちの前へ立つことを考えると、急に言葉が浮かばなくなった。
アレクは腕の中の証書へ目を落とした。
ハルトマン伯爵。
その文字を、もう一度読む。
城を貰ったのだ。
自分がいなくても仕事を続ける者を置き、留守を任せ、帰ってきた時には報告を受ける。
いつか、そこへエリーゼを迎えることもあるのだろうか。
思い浮かべた途端、顔が熱くなった。
アレクは誰も見ていないことを確かめ、窓から離れた。
まずは、ギルベルトへ伝える話を整えなければならない。
それから、家宰に勧められた者にも会う。
やることを一つずつ思い浮かべると、ようやく足が動いた。
廊下を進みながら、アレクは襟へ手を伸ばした。
少し緩めようとして、先ほどのマティアスの言葉を思い出す。
結局、襟元が乱れていないかを確かめるだけにした。
第二十三話を読んでいただき、ありがとうございました。
共に戦った仲間たちと、新たな役目を担うことになったアレク。受け取るだけでなく、支えてくれた者へ報いる立場にもなりました。
次回は、ギルベルトへ託す領地と、新しい城を支える人々の話へ進みます。
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