第二十話 王城に掲げる旗
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王都の門を前に、レオンハルトたちは新たな一歩を踏み出します。
王都の西門から戻ったユリウスは、馬を下りると、そのままレオンハルトの天幕へ入った。
「西門と、王城前の広場までの道を確かめました。門の隊長は引き渡しに応じています。街道へ向けて弓を構えている兵もおりません」
レオンハルトは卓へ広げた王都の図に目を落とした。
門から伸びた大通りは、市街を抜けて王城の南へ至る。その途中には、荷車の入る横道も、兵が二人並べば塞がる細い路地もあった。
「城壁の兵は」
「交代するまでは持ち場へ残すよう命じられています。武器を置いた者から下ろし、こちらの兵と入れ替えます」
「門を空けるな。こちらが入った後で、別の兵に閉じられてはかなわん」
「先に歩兵を入れます。門の内外を押さえ、通りへ順に兵を進めます」
ユリウスが図の西門へ指を置いた。
アレクはマティアスの横に立ち、その指が動く先を見ていた。
外から見ている間は、一つの城壁だった。
しかし、兵が中へ入れば、門の上も、家々の間も、王城へ続く曲がり角も、別々に確かめなければならない場所になる。
降伏の書状が届いたからといって、そこにいる全員が剣を収めたわけではなかった。
「入れるのは六千だ」
レオンハルトが決めた。
「残る九千五百三十三は城外に置く。陣と街道を守り、王都の外から近づく者を見張れ。大砲も四門とも残せ」
「承知しました」
「城内へ入れる六千に、鉄砲隊を含める」
アレクへ視線が向いた。
「八百九十五人、まとまって進めます」
「王城前の広場へ置け。家の間へ追い込むような使い方はせぬ」
「はい」
ユリウスは、鉄砲兵を除いた五千百五人の配置を確かめた。
千二百人で門とその周辺を引き継ぎ、二千人を大通りや主要な辻、兵糧倉などへ向かわせる。残る千九百五人は王城と、その前の広場を押さえる。
レオンハルトたちの護衛も、その中から出すことになった。
「先に門と通りを取ります。陛下には、その報告を受けてからお進みいただきます」
「任せる」
ユリウスが出ていくと、マティアスは控えていた書記官を呼んだ。
武器を受け取る者。倉の中身を確かめる者。負傷者のいる場所を聞き取る者。
すでに役目を決めていた者たちへ、入城する順番を短く伝える。
「向こうの帳簿を書き直すな。元の記録を残し、実際に受け取った数は別に記せ。違いがあれば、その場で報告するんだ」
書記官が頷き、紙を抱えて下がった。
レオンハルトは椅子の背に掛けていた外套を取った。
「アレク」
「はい」
「兵には、倉と家の違いを忘れさせるな」
アレクは顔を上げた。
「勝ったからといって、何でも持ってよいことにはならん。命じられていない家へ入るな。酒を探す者も、女を追う者も許さぬ。鉄砲隊にも伝えておけ」
「承知しました」
レオンハルトは剣帯を直した。
それから、天幕の外へ目を向けた。
「行くぞ。待たせている」
◇ ◇ ◇
西門の前で、グランヴァルトの歩兵が二列に分かれた。
一方は門をくぐり、もう一方は外側へ残る。
門楼へ上がる階段では、槍を預けたロスヴァール兵が一人ずつ下りてきていた。代わって上がる兵の盾には、グランヴァルト側の紋章が描かれている。
アレクが到着した時、門の上からこちらを見下ろしていたのは、ユリウスの兵だった。
鉄砲隊の先頭が、日陰に入る。
厚い壁の下では、足音が重なって聞こえた。
アレクは馬を引き、門の内側へ進んだ。後ろの兵も、銃口を上へ向けて歩いている。騎馬鉄砲隊の馬は暴れぬよう間隔を取り、その後ろから徒歩の鉄砲兵が続いた。
市街へ出ると、思っていたよりも道は広かった。
左右に石造りの家が並び、一階には店の入口がある。ただし、その戸はほとんど閉じられていた。
窓の隙間に顔が見える。
すぐに引っ込むものもあれば、こちらを見たまま動かないものもあった。
門の脇には、武器を取り上げられた守備兵が並んでいた。
盾を壁へ立て掛け、両手を空けて立っている。
一人の若い兵が、通り過ぎる鉄砲隊の手元を見た。
「あれか」
隣の男が何か答えたが、足音に紛れて聞こえなかった。
若い兵は、銃から目を離さなかった。
アレクも、その兵を見た。
遠くの戦場で向かい合っていれば、狙いを定める相手だったかもしれない。
今は、槍を預けて道の脇に立っている。
その足元には、口の開いた小さな革袋があった。中から、硬そうなパンの端がのぞいていた。
「前との間を空けすぎるな」
ギルベルトの声が後ろへ伝わった。
アレクは前を向いた。
大通りの曲がり角には、グランヴァルトの歩兵が立っている。その脇で、ロスヴァール側の兵が横道から出てこようとした住民へ声をかけていた。
道を空けるよう告げられた老人が、杖をつきながら壁際へ寄った。
兵はその腕を支え、列が通り過ぎるまで待たせた。
やがて、前方の歩兵が槍を立て直した。
レオンハルトが門をくぐったのだ。
黒を基調に金の獅子を描いた王旗が、家々の屋根より高く揺れていた。その下を、レオンハルトが馬で進んでくる。
マティアスが隣に続き、護衛の兵が左右を固める。
道の脇にいた守備兵たちが、一斉に顔を上げた。
誰かが膝を折りかけた。
その動きを見て、隣の兵も身を屈める。
レオンハルトは立ち止まらなかった。
「列を崩すな。そのままでよい」
声が届いた兵は姿勢を戻したが、顔は上げられずにいた。
アレクは鉄砲隊を道の片側へ寄せ、王旗を先へ通した。
レオンハルトの馬がそばを通る。
その目は左右の建物へ動いていた。窓、扉、屋根の上。人の姿が見えれば、一度はそこへ目を向ける。
勝者として胸を張っていても、見ていない場所を作ろうとはしなかった。
王旗に続き、林檎の花の旗が動き出した。
歓声はなかった。
馬の蹄が石畳を打ち、歩兵の槍が揺れ、鉄砲隊の道具が小さな音を立てる。
その音を聞くために、町全体が口を閉じているようだった。
◇ ◇ ◇
王城前の広場には、まだ朝の戦いの跡が残っていた。
脇へ運ばれた荷車の車輪に、折れた槍の柄が引っ掛かっている。石畳を洗った水は、溝へ流れ込み、ところどころで薄赤くたまっていた。
広場の南側に、鉄砲隊のための場所が空けられていた。
アレクはギルベルトと共に列を整えた。
王城の正門は北にある。西門から来た大通りは広場の南西へ通じ、東側の道にはすでに歩兵が立っていた。
鉄砲隊は、その歩兵の背後へ押し込まれない位置に止まる。
人を通す道と、兵を動かす場所を分けた。
「馬は南側へ。荷と一緒に置いて、世話をする者を決めてください。銃を持つ兵は、ここで待機します」
「承知しました」
「通りを歩く者へ、銃口を向けないように」
ギルベルトがアレクを見た。
余計な命令だという顔ではなかった。
「各班へ伝えます」
兵の中には、顔を強張らせたまま城壁を見ている者もいた。
つい先ほどまで敵の王都だった場所へ入り、四方を家と壁に囲まれている。何も起きていなくても、窓が開く音に振り返る者がいた。
アレクは近くの兵へ声をかけた。
「門と通りには、ユリウス様の兵がいます。何かあれば、まず知らせが来ます。周りを見るなとは言いませんが、一人で判断して撃たないでください」
兵は頷き、銃を持つ手の位置を直した。
その時、広場の東側で声が上がった。
鉄砲隊の数人が振り向く。
歩兵の間に、白い布を持った男が立っていた。
「通してくれ。中に息子がいる」
男は王城を指していた。
使用人らしい服装だったが、片方の袖が裂けている。止めている兵へ、何度も同じことを言っていた。
「名前を聞け」
そばを通りかかったマティアスが命じた。
兵が問い直すと、男は息子の名を答えた。近衛にいるという。
マティアスは控えていた書記官へ顔を向けた。
「負傷者の名簿と照らせ。まだ載っていなければ、向こうの係に確かめさせろ。このまま城へは入れるな」
「ですが、息子が」
「探す者をつける。ここで名前を伝えずに走り込んでも、会えるとは限らない」
男は口を開きかけた。
書記官がもう一度息子の名を尋ねると、今度はゆっくり答えた。
アレクは、兵たちがそのやり取りを見ていることに気づいた。
「持ち場へ」
静かに告げる。
兵は前へ向き直った。
銃を使わずに済んでいる。
それでも、気を抜いてよい場所ではなかった。
やがて、王城から呼びに来た兵がアレクの前で止まった。
「ハルトマン子爵。陛下がお呼びです」
アレクはギルベルトへ隊を任せた。
「入城した歩兵の指揮官と連絡を取ってください。こちらから命令が届くまでは、隊を動かさずに」
「承知しました」
馬を預け、王城の門へ向かう。
門の内側では、槍を持つグランヴァルト兵の向こうに、武器を置いた近衛が並んでいた。
その鎧に残った血が、自分のものか、誰かを斬った時のものかは、見ただけでは分からなかった。
◇ ◇ ◇
アーノルドは、中庭の奥で待っていた。
外套の肩に血が乾いている。
姿勢は真っ直ぐだったが、レオンハルトへ歩み寄る時、片足の動きがわずかに遅れた。
傷を負っているのか、疲れが出ているのか。
アレクには分からなかった。
「ロスヴァール国王の身柄と、王城をお引き渡しいたします」
アーノルドは膝をついた。
腰の剣を鞘ごと外し、両手で差し出す。
「今朝、王城へ兵を入れたのは、私の命令です。兵の処遇と、私の責任はお分けください」
レオンハルトは剣を見た。
すぐには手を伸ばさず、中庭の端へ目を向けた。
戸板に乗せられた負傷者が運ばれていた。
支える兵の一人はロスヴァールの鎧を着ている。もう一人は、入城したばかりのグランヴァルト兵だった。
「報告にあった死傷者は、ここで出たのか」
「中庭と、居所へ続く通路です。市街にも負傷者がおります」
「数は確かめ終えたか」
「まだです。協力した近衛と、抗戦した者の名を揃えております」
レオンハルトは、アーノルドへ視線を戻した。
「ならば、最後まで引き渡しを果たせ。まだお前の命令を待つ兵がいる」
アーノルドの手が、わずかに動いた。
「私に、引き続き命じよと」
「お前が兵を動かしたのだろう。剣を預ければ、それで済むと思うな」
声は厳しかった。
しかし、後ろに控えていた兵が進み出て剣を受け取っても、縄は出されなかった。
「勝手に兵を集めることは許さん。命令を出す時は、こちらの者を立ち会わせろ。王都の外へ使者を出す場合も同じだ」
「承知しました」
「お前自身の処遇は、それらを確かめた後で決める」
アーノルドは頭を下げた。
立ち上がると、マティアスが近づいた。
「王城の鍵と、倉を預かる者を。近衛の各隊を呼べる者も必要です」
「すでに控えさせております」
「では、引き合わせていただきたい。兵の数だけでなく、誰の命令を待っているかも確かめます」
アーノルドはそばの隊長へ指示を出した。
南から同行してきた男だった。左手に巻かれた布が、少し赤くなっている。
男が立ち去ろうとすると、アーノルドが呼び止めた。
「その手を、もう一度見せてこい」
「先に人を呼んでまいります」
「呼ぶのは別の者でもできる。指が動くうちに手当てを受けろ」
隊長は一瞬だけ困った顔をした。
それから、そばの兵へ用件を伝え、負傷者のいる方へ歩いていった。
レオンハルトは、その背を見送った。
「国王は」
「奥の部屋に。侍従と共におられます」
「案内しろ」
アーノルドが先へ立った。
アレクも、マティアスに続いて中庭を横切る。
階段の脇には、洗っても落ちきらなかった血が残っていた。
そのすぐ横を、書記官が帳簿を抱えて歩いていた。
◇ ◇ ◇
国王のいる部屋へ続く廊下では、ユリウスの兵が近衛から守備を引き継いでいた。
扉の前にいた侍従は、レオンハルトの姿を見ると、深く頭を下げた。
だが、取次ぎの言葉はすぐには出なかった。
これから部屋へ入れる相手を、何と呼ぶべきか迷っているようだった。
「そのまま伝えろ」
レオンハルトが言った。
「グランヴァルト王レオンハルトが来たとな」
侍従は頷き、扉の向こうへ消えた。
しばらくして戻り、横へ退く。
部屋の奥では、ロスヴァール王が椅子に座っていた。
卓の上に杯があったが、中身は減っていない。王の片手は肘掛けに置かれ、指先が木へ食い込むほど強く握られていた。
レオンハルトが入っても、立ち上がらなかった。
視線だけが動く。
マティアス、ユリウス、そしてアーノルド。
最後の一人を見た時、口元が歪んだ。
「よい案内役を得たものだ」
アーノルドは答えなかった。
レオンハルトは卓の手前で足を止めた。
「降伏の書状は受け取った」
「ならば、これ以上、何を求める」
「命令を行き渡らせてもらう。王都だけで戦っていたわけではあるまい」
「使者を出すよう命じた」
「出した先と、持たせた命令を確かめる。城と兵、倉の引き渡しもだ」
王は鼻から短く息を吐いた。
「すべて持っていくつもりか」
「軍を解き、こちらへ引き渡すと記したのは、その書状だ」
レオンハルトが目を向けると、マティアスは受け取った書状を卓へ置いた。
封を解いた跡と、王の印が見えた。
ロスヴァール王はそこを見た後、顔を上げた。
「私は降伏を命じた。王として果たすべきことは果たしている」
「そのことと、戦を始めさせた責任は別だ」
王の指が止まった。
アレクは、部屋の入口に近い場所へ立っていた。
護衛の兵が扉の左右を守っている。外の廊下にも、グランヴァルト兵がいた。
ここで剣を抜く者はいない。
それなのに、先ほどまでの中庭よりも息が詰まった。
マティアスが、書記官から別の包みを受け取った。
中から取り出したのは、東部から持ってきた記録だった。
「イグナーツの城で確保した、貴国の国境貴族からの書状と、その返書の控えです。こちらは送金と、荷の受け渡しに関する記録になります」
紙を一度に積み上げず、順に置いていく。
ロスヴァール王は、最初の書状へ目を落とした。
目を背けはしなかった。
「国境の領主が隣国と物を売り買いすることなど、珍しくもない」
「穀物を売っただけなら、私どももここまで確かめてはおりません」
マティアスは、別の紙をその脇へ置いた。
「送られた時期と、受け取った側の記録が合います。東部で兵が集められ、帰還を求める家の兵まで留め置かれていた間に、金と荷が渡っていました」
「それを、すべて私の命令だと言うのか」
「いえ」
答えは静かだった。
「この書状だけで、貴方が一つ一つの行為を命じたとは申しません。国境の諸侯が決めた範囲と、王城から指示された範囲を分けるため、伺っております」
王はマティアスを見た。
すぐに言い返すつもりだったのだろう。だが、口を開いたまま、一度言葉を飲み込んだ。
レオンハルトが尋ねた。
「我が国の東部が割れたままであれば、都合がよかったか」
「そちらが一つになり、軍を東へ向ければ、こちらの国境が脅かされる」
「それを聞いている」
王は肘掛けから手を離した。
「国を守るために、備えをするのは当然だ」
「城を直し、兵を置くことならな」
「それだけで防げる相手ばかりではない」
王の声が強くなった。
「そちらは諸侯を従え、あの武器を揃えていた。南ではカルディアとの戦が続いている。西まで同時に相手にできると思うか」
「できぬから、我が国の諸侯へ金を渡した」
「国境を保つためだ」
言い終えた後で、王は口を閉じた。
書記官の筆が動いた。
その音へ気づいた王が、横目で睨む。
マティアスは構わず尋ねた。
「東部の諸侯を支え、グランヴァルト王の支配が国境まで及ばぬようにする。その方針は、王城で認められていたのですね」
沈黙があった。
レオンハルトは返事を急かさなかった。
やがて、王が言った。
「国境の向こうまで、そちらの旗で埋められるのを待てと言うのか」
「そのために、我が国の町を焼く者へ力を貸したのか」
レオンハルトの声が、部屋へ落ちた。
大きな声ではなかった。
王は眉を寄せた。
「町を焼けとは命じていない」
「誰が命じたかは、すでに調べた」
レオンハルトは、卓へ片手を置いた。
「領主を殺し、家族を追い、倉から荷を運び出した者も、その荷を受け取って軍を動かし続けた者もな」
アレクは、レオンハルトの手を見た。
卓を叩きはしなかった。
剣の柄にも触れなかった。
ただ、置かれた指に力が入っていた。
ルーカスの町へ着いた時のことが、アレクの頭に浮かんだ。
燃えた家。
煙の臭い。
待っていたと告げた、あの子の声。
視線を上げると、マティアスも王を見ていた。
「イグナーツに送った物が、どこで何に使われていたか。その報告を、貴方がいつ、どこまで受けていたかを確かめます」
マティアスは言った。
「使者を取り次いだ者、荷の手配をした者、金を出した者を、お示しいただきたい」
「私を取り調べるのか」
「はい」
王の顔に、はっきりと怒りが浮かんだ。
アーノルドへ目を向ける。
「あの男が、お前に何を約束したか知らぬが」
「アーノルド伯の話をしているのではありません」
マティアスが遮った。
声を張らなくても、言葉は途切れなかった。
「貴国から東部へ渡った支援について、伺っております」
王は椅子へ背を押しつけた。
窓の外で、兵の号令がした。
聞き慣れた近衛の声ではなかった。
王はそちらを見たが、すぐに卓へ視線を戻した。
「私だけが、国を守ろうとしたのではない。国境の諸侯も同じ考えだった」
「ならば、その者たちの責任も確かめる」
レオンハルトが答えた。
「お前一人が認めれば、ほかの者を調べぬという話ではない。逆も同じだ」
「王が国のためにしたことを、勝った者が裁くのか」
「国のためだと言えば、何をしてもよいのか」
王が口を開いた。
レオンハルトは、その目を見たまま続けた。
「お前が守ろうとした国の外にも、畑がある。家があり、そこへ帰る兵がいる。そいつらを争わせておけば安全だと考えたのなら、その争いが国境を越えて来た時だけ、国を守ったと言うな」
誰も口を挟まなかった。
アレクは、初めてこの部屋へ入った時よりも、王が小さく見えることに気づいた。
椅子も、着ているものも変わっていない。
だが、言い終えた後に命令を待つ兵はいなかった。
マティアスは書記官へ、今のやり取りを記した箇所を読み上げさせた。
王が認めたこと。
答えなかったこと。
焼き討ちの命令は否定したこと。
それらを混ぜずに読み上げる。
「違う箇所があれば、今、お答えください」
王はしばらく黙っていた。
やがて、支援の実務を扱った者を呼べと、侍従へ告げた。
侍従は頭を下げたが、扉の前で兵に止められた。
ユリウスが護衛をつけるよう命じる。
廊下へ出ていく背を見て、王はまた肘掛けを握った。
レオンハルトは卓から手を離した。
「降伏した兵と民は、交わした条件に従って扱う。お前の処遇は、記録と証言を確かめた上で決める」
王は顔を上げた。
「その間、私は」
「ここに留まってもらう。勝手に使者を出すことも、兵を呼ぶことも許さん」
扉の向こうで、足音が遠ざかっていった。
◇ ◇ ◇
話が終わったと思った時、ロスヴァール王がレオンハルトを呼び止めた。
「妻と、息子は」
それまでとは違う声だった。
レオンハルトが振り返る。
王は口元を動かしたが、次の言葉がすぐには出てこなかった。
代わりに、部屋の隅に控えていた侍従が顔を上げた。
「お二人は、別の居室におられます」
レオンハルトは侍従を見た後、王へ向き直った。
「今朝の争いには巻き込まれていないな」
「兵を入れさせてはいない」
アーノルドが答えた。
王は、その返答を聞いてもアーノルドを見なかった。
「幼い子だ。何も命じていない」
「分かっている」
「妻も、兵を動かすことには関わっていない」
さっきまで国のためだと言っていた王が、今は二人のしたことと、していないことを分けようとしていた。
アレクは、グランヴァルトの先王を思い出した。
衰えた身体で、娘の行く末を案じていた姿。
王として話している時と、シャルロッテの父親として話している時では、声の聞こえ方が違った。
目の前の王も、息子について話す時だけ、言葉を選んでいた。
レオンハルトは答えた。
「妻子を、お前と同じ罪で処刑するつもりはない」
王の肩が、わずかに下がった。
だが、その次の言葉を聞くと、再び顔を強張らせた。
「二人はグランヴァルト国内へ移す。暮らす場所と世話をする者はこちらで決め、監督下に置く」
「連れていくのか」
「ここへ残せば、王子の名で兵を集めようとする者が出る」
「子に、そのつもりはない」
「子供のつもりだけで済むことではない」
王は返せなかった。
アレクも、その言葉の先を考えた。
王子が何も望まなくても、旗を持たせる者はいる。
父の国を取り戻すのだと教え、本人が分からぬうちに人を集める者もいるだろう。
生かすことと、自由にすることは、同じではなかった。
「母親と離すな」
王が言った。
命令の形だった。
しかし、先ほどのような力はなかった。
レオンハルトは短く頷いた。
「離して暮らさせるつもりはない。移す時も、無理な旅程は組ませぬ」
王は、その顔を見つめていた。
何かを確かめようとしているようだったが、やがて目を伏せた。
「そうか」
それ以上は言わなかった。
レオンハルトも、慰める言葉はかけなかった。
部屋を出る直前、侍従へ告げる。
「二人の居室へは、命じられた者以外を入れるな。必要な物があれば、こちらの担当へ伝えろ」
侍従は深く頭を下げた。
扉が閉じる。
廊下へ出ると、レオンハルトはしばらく何も言わずに歩いた。
マティアスも、その横で口を閉じていた。
階段の手前へ来て、ようやくレオンハルトが足を止める。
「記録を押さえろ」
「すでに人を向かわせております」
「国王の言葉だけで済ませるな。責任を押しつけられる者も、王に押しつけて逃げる者も出る」
「一人ずつ、別に話を聞かせます」
レオンハルトは頷いた。
その横顔を見て、アレクは、怒りが消えたのではないと分かった。
あの部屋で剣を抜かなかったのは、忘れたからではなかった。
◇ ◇ ◇
王城の倉を預かる男は、鍵束を両手で持って立っていた。
指が震え、鍵同士が小さな音を立てている。
マティアスが受け取る者を呼ぶと、男はすぐに差し出そうとした。
「どの鍵が、どの扉のものですか」
問われ、男の手が止まった。
「こちらが西の倉で、こちらが地下の……」
「順に案内してください。帳簿を持つ者も一緒に」
鍵を渡しただけでは終わらないと分かると、男はかえって少し落ち着いたようだった。
自分がするべきことを、ようやく見つけたのかもしれない。
近くでは、近衛の隊長たちが名を呼ばれていた。
剣を預け、配下の人数と持ち場を告げる。
腕に厚く布を巻いた男が、一人だけ椅子へ座らされていた。
アーノルドがそばへ行くと、男は顔を上げた。
「王城まで明け渡したか」
「陛下が、降伏を命じられた」
「そうさせたのだろう」
アーノルドは、しばらく男を見た。
「ああ」
男の顎に力が入った。
アレクは足を止めかけたが、マティアスがわずかに手を動かした。
そのまま待つ。
「私の隊の負傷者は」
男が尋ねた。
「中庭の東側へ集めている。運べぬ者には、こちらから人を向かわせた」
「名が分からぬ者は、私へ知らせろ。顔を見れば分かる」
「そうする」
男はアーノルドから顔を背けた。
許したのではなかった。
それでも、兵を探すための言葉は交わされた。
マティアスは、そばの書記官へ命じた。
「その隊の名簿を、ここへ持ってこい。尋ねる時は、一度に何人も取り囲むな」
書記官が駆けていった。
アレクは階段を下りながら、中庭へ目を向けた。
血の残った石畳の上を、荷と書類が行き来している。
王を捕らえれば終わると思っていたわけではない。
だが、城を受け取るとは、これほど多くの者へ別々の命令を出すことなのだと、目の前で見て初めて分かることもあった。
「アレク」
マティアスが呼んだ。
「隊へ戻れ。広場の兵が動けば、通りも詰まる。入れ替える時は、先に知らせるよう伝えておく」
「承知しました」
「兵は休ませてよい。ただし、一度に全員休ませるな。水も順に取らせろ」
「はい」
アレクは頭を下げ、王城の門へ向かった。
◇ ◇ ◇
広場へ戻ると、鉄砲隊は同じ場所にいた。
ギルベルトが歩み寄ってくる。
「変わりありません。東側へ負傷者を運ぶ道を空けています」
「こちらの兵ですか」
「ロスヴァールの兵です。王城から出てきました」
アレクは頷いた。
「隊を順に休ませてください。水を飲ませて、馬の様子も確かめましょう。王城の引き渡しが進んでいます」
ギルベルトが兵へ命令を伝えに行った。
銃を支えたまま、肩の力を抜く兵がいる。
腰を下ろした男が靴の中へ指を入れ、小石を取り出した。長い間踏んでいたらしく、それを見てから苦い顔で投げ捨てる。
隣の兵が水袋を差し出した。
アレクは馬のいる方へ歩いた。
手綱を預けていた兵から様子を聞き、首筋へ手を置く。馬は一度耳を動かし、差し出された水へ鼻を寄せた。
その向こうで、先ほど息子を探していた男が、書記官と話していた。
王城から来た兵が何か告げると、男は両手で顔を覆った。
アレクは足を止めた。
書記官が男の肩へ手を置く。
それから、負傷者を集めている方へ向かって歩き出した。
男も、よろめくように後を追った。
息子がどのような状態なのかまでは分からなかった。
アレクは尋ねなかった。
馬の首から手を離し、隊へ戻る。
王城の正門から、グランヴァルト兵が数人出てきた。
一人が巻いた旗を抱えている。
それを見た兵たちが、顔を上げた。
正門の上では、ロスヴァールの旗が風を受けていた。
兵が綱へ手をかける。
布がゆっくり下がり始めた。
広場を横切っていたロスヴァールの元守備兵が、立ち止まった。
武器は持っていない。
そばのグランヴァルト兵に先へ進むよう言われるまで、下りてくる旗を見つめていた。
降ろされた旗は、地面へ投げられなかった。
二人の兵が受け取り、石の上で畳む。
代わって、黒い布が広げられた。
風を受けた端が持ち上がり、金の獅子が見えた。
鉄砲隊の後ろで、小さく声が漏れた。
綱が引かれる。
黒獅子の旗が、王城の門の上へ上がっていく。
アレクは首を上げた。
初めてレオンハルトの軍を見た時も、あの獅子が兵の上で揺れていた。
その旗に従って戦い、領地へ戻り、また兵を連れて出た。
今は、別の国の王城に掲げられている。
「上がったぞ」
誰かが言った。
隣の兵が笑った。
大声ではなかった。疲れた顔のまま、ただ口元を緩めていた。
ギルベルトも門の上を見ていた。
「ここまで来ましたな」
「ええ」
アレクは答えた。
それ以上の言葉が、すぐには見つからなかった。
歩いてきた道の途中には、戻らなかった兵がいる。
いま隣で旗を見ているはずだった顔も、思い浮かんだ。
それでも、目の前の兵が笑ったことを、止めたいとは思わなかった。
アレクは銃を持って立つ兵へ目を向けた。
「交代が来たら、ちゃんと休んでください。今日は、食事を急いで飲み込む必要はなさそうです」
兵が少し驚いた顔をした後、笑った。
「冷める前に食べられると、ありがたいです」
「それも、伝えておきます」
そばの二人も肩を揺らした。
広場の緊張が、ほんの少しだけ緩んだ。
王城の門では、次の仕事を命じられた兵が外へ出てきていた。
◇ ◇ ◇
日が西へ傾き始めた頃、王城の一室で、まだ引き渡しを受けていない城と、そこへ続く街道を記した図が広げられた。
国王の居室ではなかった。
政務に使っていた部屋の一つで、卓の上にあった物を片側へ寄せ、グランヴァルトの書記官が紙を並べていた。
レオンハルトは、王都から延びる道を見ていた。
マティアスとユリウス、その向かいにアーノルドが立つ。
アレクは鉄砲隊の待機状況を報告するために呼ばれ、そのまま控えていた。
「王都の門は、すべてこちらの兵が引き継ぎました」
ユリウスが告げた。
「城壁は交代を続けています。城内に入れた兵は六千のままです。城外の陣から、勝手に入ろうとした者もおりません」
「よし」
レオンハルトは、図の南側へ目を向けた。
「こちらの城へ命令を届けるには、何日かかる」
アーノルドが道を指した。
「この街道を使えば早く届きます。ただし、王都が落ちたという知らせだけでは、城主が書状を疑うかもしれません」
「国王の印だけでは足りぬか」
「足りる者もおります。ですが、敵に奪われた印だと言い張る者もいるでしょう。命令を持つ者の顔が知られていれば、確かめやすくなります」
マティアスが尋ねた。
「各地の城主に顔を知られている使者を出せますか」
「名を挙げます」
「こちらの者を同行させます。引き渡しの条件を勝手に変えられても困りますので」
アーノルドは頷いた。
「南の兵へは、私からも書状を添えます。国王の命令に従って戦を止め、指示が届くまでは隊を散らさぬように」
「兵糧を持って逃げる者が出ぬようにしろ」
レオンハルトが言った。
「村へ押しつけることも許さん。武器を置く者には、そのための道を用意する。だが、倉を焼いて去る者は別だ」
書記官の筆が動く。
城ごとに使者が決められ、通る街道が確かめられていった。
国王の命令書だけでなく、受け取った城主が返事を戻すための支度も整えられる。
マティアスは別の紙を取った。
「カルディアへも、王都で降伏の命令が出たことを知らせます」
「そうだな」
「使者には、現在押さえている城と土地を、書面で示すよう求めさせます」
レオンハルトは顔を上げた。
「王都が降った後まで、都合よく戦を続けさせるな」
「承知しております」
アーノルドは二人のやり取りを聞いていた。
何かを言いかけたが、口を閉じる。
レオンハルトはそれを見逃さなかった。
「南の城が心配か」
「兵が命令を待つ間にも、相手が進む可能性はございます」
「そのために知らせる。お前の兵にも、勝手に戦を広げるなと伝えろ。降伏を命じておいて、守るべき者を置き去りにはさせぬ」
アーノルドは、ゆっくり頭を下げた。
窓から差す光が、卓の端まで伸びていた。
外では、王城の守備を交代する号令が聞こえる。
アレクは窓へ目を向けた。
広場の南側に、鉄砲隊の列が見えた。林檎の花の旗は、兵と馬の間で揺れている。
その上に、王城へ掲げられた黒獅子の旗があった。
レオンハルトが、書き終えた命令へ目を通した。
一枚ずつ確かめ、印を押させる。
それを受け取った使者が、膝をついた。
「各地へ届けます」
「急げ」
レオンハルトは命じた。
「まだ戦っている兵に、戦が終わったことを知らせてこい」
使者が立ち上がり、部屋を出ていった。
続いて別の使者が書状を受け取る。
王城を出た馬が、広場を横切っていく音がした。
アレクはその音を聞きながら、卓の上に残された紙へ目を戻した。
城と兵を引き渡すための命令書は、少しずつ減っていた。
東部から持ってきた記録は、まだマティアスの手元に残っていた。
第二十話を読んでいただき、ありがとうございました。
王城に旗を掲げた後にも、兵を守り、各地の戦を終わらせる仕事が残っています。
そして、レオンハルトたちは東部の争いを招いた責任と向き合います。
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