第十九話 王へ向ける剣
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ロスヴァールの王都で、それぞれの立場と忠義が試される朝を迎えます。
使者が戻ってきた時、グランヴァルト軍の陣では、倉の前に残っていた荷を、倉の中へ運び込んでいた。
西の空に残った明かりが、荷車の車輪と兵の槍先を赤く染めている。王都へ向けた見張りは交代したばかりで、炊事の煙が上がり始めても、城壁への警戒を緩める者はいなかった。
マティアスは使者の顔を確かめてから、差し出された書状を受け取った。
南からアーノルドに同行してきた隊長だった。前に来た時と同じ二人の護衛を連れているが、外套には新しい泥がつき、馬も首を下げていた。
「返答を預かってまいりました」
「座って話せ。水を持ってこさせる」
マティアスは封を調べ、紙を開いた。
アレクは卓の反対側に立っていた。読み終えるまで口を挟まず、隊長が水を飲む間に、外で馬を預かった兵へ餌も与えるよう伝える。
書状には、先に示した条件を受け入れると記されていた。
その下に、決行の時刻と、王城で抵抗が続いた場合の連絡方法が書かれている。
「明後日の夜明けか」
「はい。西門から王城へ向かう道は、それまでに確かめます。正午までには、結果をお知らせする使者を出します」
「出しただけでは、こちらには伝わらない」
「承知しております。途中で止められる場合に備え、別の者も控えさせます」
隊長は木杯を置いた。
条件を持ち帰ってから、数日が過ぎていた。その間に、アーノルドは自分に従う隊長たちと兵の配置を確かめ、王城側にも働きかけていたらしい。
マティアスは紙を卓へ置いたまま尋ねた。
「王城の門は」
「警備を担う隊長の一人が、協力を承諾しました。配下は百人です」
「近衛の百人だな」
「はい。王都守備兵とは別です」
「その者が門を開いても、残る近衛まで従うとは限らない」
「閣下も、同じことを仰せでした」
隊長の声に、楽観はなかった。
王城へ入る道ができたことと、王城を押さえたことは違う。門の内側には、国王へ忠誠を誓った兵がいる。今まで同じ国の旗を守っていた者同士が、そこで剣を向け合うことになる。
アレクは、隊長の手が木杯から離れた後も、軽く握られたままなのを見ていた。
この男は、明後日の朝に自分がどちらの側から斬られるかさえ分からない場所へ戻る。
「陛下へお伝えする」
マティアスは立ち上がった。
「もう少し休んでいろ。返事を持たずに帰すわけにはいかない」
レオンハルトは、天幕の中でユリウスから騎兵の見回りについて報告を受けていた。
マティアスが書状を差し出すと、二人とも卓へ寄る。アレクは入口の近くに立ち、外を通る兵が不用意に中へ入らないよう目を配った。
レオンハルトは読み終えると、指で時刻の書かれた箇所を押さえた。
「正午までに城を押さえられなければ、どうする」
「途中の状況も知らせるよう、改めて伝えます。何の知らせもないまま、待つ時間だけを延ばすことは認めません」
「よい。約束した間はこちらから攻めぬ。だが、攻める支度を片づけるな」
ユリウスが頷いた。
「王都から別の部隊が出た場合は」
「近づけさせるな。使者なら確かめて通せ。兵を並べてくるなら止めろ」
レオンハルトはアレクへ目を向けた。
「鉄砲隊も同じだ。城内で騒ぎが起きても、それだけで前へ出るな」
「承知しました」
「待っている間に、撃てぬ隊になることも許さん」
「火縄と弾薬を確かめ、命令があれば動けるようにしておきます」
返答すると、レオンハルトは書状をマティアスへ返した。
陣に集まった戦闘可能な兵は、一万五千五百三十三人。その中に、アレクが指揮する八百九十五人の鉄砲兵が含まれている。大砲は四門とも、城へ向けて動かせる状態にあった。
これだけの兵を前に置きながら、王都が自ら門を開くのを待つ。
アレクには、それもまた兵を使うことなのだと分かり始めていた。
敵を撃つためだけに、ここまで来たのではない。撃てるだけの兵と武器を揃えたからこそ、城内で別の道を選ぶ者が現れた。
それでも、その道が通じるかは、まだ決まっていなかった。
◇ ◇ ◇
ロスヴァール王都では、その夜も城壁の上に火が灯っていた。
アーノルドは帰還した隊長から返書を受け取ると、決行までの残り時間を確かめた。机の上には王都守備兵の配置と、王城の図が並んでいる。
守備兵四千六百人のうち、今回の行動へ加わるのは千四百人だった。
南から連れてきた二百人に、王都の各隊から加わる千二百人。残る三千二百人は、門と城壁、兵糧倉など、それぞれの持ち場へ残す。
全員へ同じ話をしたわけではなかった。
王城へ向かう者には、王命ではなくアーノルド自身の命令で動くことを伝えた。城壁へ残る者には、敵が城外にいる以上、持ち場を離れるなと命じる。その命令には、王都守備を任された将としての権限があった。
ただし、王城で騒ぎが起きれば、それだけでは済まなくなる。
国王の使者が来る。近衛が援兵を求める。城門を開けろという命令と、閉じておけという命令が同時に届くかもしれない。
その時に、兵が何を頼りに動くか。
アーノルドは、各隊長へ一人ずつ確かめていた。
「南門の兵は、城外の敵を見張ったまま動かしません」
西門の隊長が報告した。
「西門も同じです。門を開くには、私が戻って命じる必要があります」
「お前が戻れなければ」
「代わりの者へ、閣下の書状と使者の両方を確かめるよう伝えてあります。旗だけでは開けません」
「それでよい」
アーノルドは配置図へ小さな木片を置いた。
王城は、市街の内側にもう一つの壁を巡らせている。西門から続く大通りは王城前の広場へ通じ、広場の北側に王城の正門があった。
門を抜けると中庭。その奥に、国王の居所と政務に使う建物が並ぶ。
王城の東側には荷を入れる脇門があり、その外の道は倉と厩へ続いていた。北側と西側にも人の通る道はあるが、家々の間へ入り込むため、大人数が横へ広がれる場所ではない。
「王城へ入るのは六百」
アーノルドは正門へ指を置いた。
「南から来た二百も、ここへ加える。外の通りへ四百。残る四百は広場の南で待て」
西門の隊長が、広場の南端を確かめた。
予備の四百は、彼が率いることになっていた。
「近衛が外へ出れば、通りの兵で止める。城壁から兵が来れば、お前が間へ入れ」
「両方から来た場合は」
「王城へ向ける兵を増やすより、市街で戦いを広げぬことを優先しろ。こちらは門の内側で持ちこたえる」
王城の近衛は千二百人。
そのうち協力を約束した百人を除けば、千百人がどのように動くかは分からない。全員が剣を抜くとは限らないが、全員が剣を収めると考えることもできなかった。
協力する百人を除いても、近衛の人数は王城へ入る六百人を上回っている。
しかし、近衛は門、居所、倉、厩、通路へ分かれている。騒ぎが起きた時、同じ場所へ集まれるとは限らない。
アーノルドが必要としているのは、近衛全員を倒すことではなかった。
国王のもとへ到達し、その口から戦を止める命令を出させる。
それができるまで、城内と市街を切り離しておかなければならなかった。
「門の隊長からは、変わりなく開けると」
南から来た隊長が言った。
「夜明けの交代前です。兵が広場へ出る時刻を遅らせれば、門の者だけが疑われます」
「遅らせぬ」
アーノルドは答えた。
門の隊長と話したのは、前日の夜だった。
初めから味方になった男ではない。最初の申し入れには、王へ背くことはできないと答えた。
それでもアーノルドが、城内へ敵軍を流し込むのではなく、国王に降伏を命じさせるのだと説明すると、男は長く考えた。
最後に尋ねたのは、助命や褒美のことではなかった。
武器を置く近衛も、ほかの兵と同じように扱われるのか。
その問いだった。
「門を守ってきた者を、門を開いた後で斬るようなことはさせぬ」
アーノルドはそう答えていた。
国王自身の処遇とは別に、兵について交わした条件は守らせる。その約束を信じて、男は百人を動かすと決めた。
アーノルドは図から顔を上げた。
「城内で武器を置いた者を追うな。捕らえる時も、剣を持つ者と持たぬ者を分けろ。王城の倉へ勝手に入る者は、味方でも止めよ」
隊長たちが頷く。
誰も、簡単な仕事だとは考えていなかった。
アーノルドは書状を畳み、外套の内側へ入れた。
それから、壁に掛けてあった剣を手に取った。
◇ ◇ ◇
夜明け前の王都には、炊事の煙がまだ少なかった。
井戸へ向かう女が、通りの先に並ぶ兵を見て足を止める。兵の一人が別の道を指すと、女は桶を抱え直し、来た方へ戻っていった。
鎧の触れ合う音が、家々の壁に反響した。
アーノルドは先頭から少し下がった位置を歩いていた。前には盾と槍を持つ兵、後ろには南から連れてきた者たちが続いている。
王都の守備兵が王城へ向かうこと自体は、珍しい光景ではない。
だが、六百人が隊列を組み、まだ薄暗い広場を横切れば、何も知らない者でも異変を感じる。
王城の壁の上で、一人の兵がこちらへ身を乗り出した。
声が上がるより先に、門の内側から閂を動かす音が聞こえた。
重い扉が開き始める。
隙間の向こうで待っていた近衛の隊長は、アーノルドを認めると、短く頭を下げた。
「中庭の奥に、交代を待つ兵が百五十ほどおります。まだ、こちらのことは知りません」
「お前の兵は門を守れ。後続を通したら、内外の通りを空けておけ」
「承知しました」
アーノルドは門をくぐった。
見慣れた王城だった。
王命を受けて南へ向かう時も、戦況を報告するために戻った時も、同じ門を通った。そのたびに近衛が敬礼し、侍従が国王への取次ぎをした。
今朝は、誰も出迎えに来ていない。
中庭の向こうで、近衛がこちらを見ていた。
最初に気づいた男が隣の肩を叩く。その視線が、門から途切れずに入ってくる槍の列へ移った。
「何の部隊だ」
問いかけた声に、アーノルドは自ら答えた。
「王都守備の兵だ。私は陛下へお目にかかる」
「この人数を、誰が許した」
近衛の指揮官らしい男が前へ出てきた。
剣にはまだ手を掛けていない。しかし、後ろの兵へ腕を伸ばし、奥の建物へ続く階段の前に並ばせている。
アーノルドは足を止めた。
「私は陛下に、戦を終えるよう申し上げる」
「何を言っている」
「武器を下ろせ。ここで争えば、城内の者まで巻き込む」
男の顔が変わった。
門へ目を向け、そこに立つ近衛の隊長を見つける。何が起きたのか悟ったのは、その時だった。
「門を閉じろ!」
叫びは、中庭の石壁にぶつかって返った。
門の隊長は動かなかった。
近衛の指揮官が剣を抜く。
「反逆だ! 陛下をお守りしろ!」
奥の階段を兵が駆け上がった。
ほぼ同時に、王城の中で鐘が鳴り始める。
アーノルドの前にいた盾兵が盾を上げた。向こうの槍が、一歩前へ出る。
「止まれ!」
アーノルドはもう一度命じた。
返ってきたのは、盾を打つ槍の音だった。
穂先が縁を滑り、横の兵の腕を裂く。男が呻いて下がると、その空いた場所へ別の盾が入った。
近衛が声を上げて押し寄せる。
アーノルドは剣を抜いた。
「盾を揃えろ! 階段の前で受け止めよ!」
左右から兵が前へ出た。
狭い階段を守ろうとした近衛は、その手前の中庭まで進んでいた。こちらを門へ押し返すつもりなのだろう。だが、その分だけ横へ広がり、後ろの者との間に隙間ができている。
アーノルドは南から来た隊長へ指を向けた。
「二百をここへ残せ。階段の兵を押さえろ。奥まで追うな」
「閣下は」
「西の通路を取る」
王の居所へ向かう道は、正面の階段だけではなかった。
中庭の西側には、政務の建物を回り込む通路がある。荷を担いだ使用人が通り、雨の日には侍従も使う場所だ。
近衛も当然知っている。
そこから現れた兵が、槍を構えて通路の入口を塞いだ。
アーノルドは残る四百人を動かし、先頭をその通路へ向けた。全員が一度に入れる幅ではない。後続は中庭側を守り、横から攻められないよう盾を並べる。
通路の奥で、扉が閉じられようとしていた。
「前へ! 閉じさせるな!」
先頭の兵が盾を寄せ、槍を突き出した。
近衛の槍が盾へ刺さり、押し合う足が石畳を擦る。背後から来た兵が味方の肩を支え、その重みで、列が少しだけ前へ動いた。
扉の前に立つ近衛が剣を振った。
盾の上から伸びた刃が、こちらの兵の首元へ届く。男が崩れ落ち、後ろの兵がその身体を後方へ引きずった。
アーノルドは倒れた男を見た。
顔を確かめる時間はなかった。
「右を空けるな!」
前へ出た兵が、扉の片側を盾で押さえた。
閉じようとした近衛が押し戻される。別の兵が隙間へ入り、剣と槍のぶつかる音が狭い通路へ響いた。
アーノルドは後ろを振り返らずに命じた。
「負傷者を門へ運べ。歩ける者も、ここへ座り込ませるな」
命令が後ろへ伝わっていく。
敵も味方も、同じ言葉で叫んでいた。
誰かの名を呼ぶ声さえ、どちらから聞こえたものか分からない。
アーノルドは剣を握り直し、開いた扉へ進んだ。
◇ ◇ ◇
王城の鐘は、市街にも届いた。
広場の南に待機していた西門の隊長は、壁の上を走る人影を見上げた後、部下へ視線を戻した。
「列を崩すな。王城だけを見るなよ」
予備の四百人は、広場の南端と、それに続く通りへ分けて置いてある。全員を王城へ向ければ、後ろから来る兵へ背をさらすことになる。
家の扉が開き、住民が顔を出した。
隊長は兵へ命じ、通りへ出てこないよう知らせに行かせる。
ほどなく、東側の道を押さえている兵から伝令が来た。
「王城の脇門から、騎馬の使者が出ました。国王の命令だと申しております」
「止めたか」
「はい。ですが、城壁の兵を王城へ集めよと叫んでいます」
隊長は舌打ちを飲み込んだ。
使者を止めれば、声まで消えるわけではない。
国王の名を聞いて、動く者が出ることも分かっていた。
「剣を抜いていなければ、斬るな。馬から下ろし、命令を確かめるまで留めておけ」
伝令が戻るのと入れ違いに、南の通りで声が上がった。
槍を持つ兵が、家々の間から現れる。
先頭には、倉の警備を任されていた隊長がいた。後ろに続く兵は二百ほど。全員が状況を理解しているわけではないらしく、王城の鐘と広場の兵を交互に見ている。
「何をしている!」
相手の隊長が叫んだ。
「王城が襲われている。道を開けろ!」
西門の隊長は百人を動かし、通りの出口へ横に並べた。狭い道から出てくる相手を、広場へ広がる前に止める。
「倉を離れたのか」
「陛下の命令だ」
「誰から受けた」
「城の者が知らせに来た。近衛が戦っているのが聞こえぬのか」
声には怒りがあった。
だが、兵が城壁を離れれば、城外の敵はその隙を見逃さない。倉の守りまで薄くなれば、市街で騒ぎが広がった時に食料を失う。
西門の隊長は剣を鞘へ収めたまま、一歩前へ出た。
「アーノルド閣下が、陛下へ戦を終えるよう申し上げている」
「やはり、お前たちか」
相手が剣を抜いた。
後ろの兵が槍を下げる。
こちらの盾兵も身構えたが、西門の隊長は腕を伸ばして止めた。
「その兵を連れて、王城で何をする」
「反逆者を討つ」
「城外には、グランヴァルトの軍がいる。ここで互いに兵を減らし、誰が門を守る」
「王に背いた者の言葉を聞くと思うか」
相手が近づいてきた。
剣が上がる。
西門の隊長は横へ退き、前へ出た盾兵がその刃を受けた。乾いた音が響いた直後、後ろにいた兵が相手の腕へ取りついた。
「斬るな! 押さえろ!」
槍が動き、盾の間へ突き込まれた。
一人が腿を刺されて倒れる。広場の予備からさらに百人が駆けつけると、通りの入口は盾と人で塞がった。
倉から来た兵の中で、後ろの者が足を止めた。
先頭では味方の隊長が押さえられている。目の前にいるのも、昨日まで同じ王都を守っていた兵だった。
「進むな!」
西門の隊長は、相手の列へ向かって叫んだ。
「武器を下げれば斬らぬ! 昨日まで共に王都を守っていた者へ、槍を向けるな!」
槍を突き出したままの兵がいた。
その横で、別の兵が穂先を上げた。
後ろから押す力が弱まり、前の者も動けなくなる。
押さえられた隊長はなお叫んでいたが、二百人の列は広場へ出てこなかった。
西門の隊長は、取り上げた剣を部下へ預けた。
王城の鐘は、まだ鳴っていた。
◇ ◇ ◇
ロスヴァール王は、居所の扉を開けた侍従へ怒鳴った。
「何が起きている!」
「アーノルド伯の兵が、王城へ入っております」
「兵を呼べ」
「すでに近衛が向かっております」
「近衛だけではない。王都の兵を集めろ。あの男を捕らえよ!」
侍従が頭を下げ、廊下へ走る。
王は窓へ近づいた。
中庭の一部が見えた。槍の列がぶつかり、倒れた者が引きずられている。王城の門には兵が並んでいるが、その穂先は城外ではなく、中庭へ向いていた。
誰が門を開けたのか。
なぜ、これほどの兵が王城へ入るまで知らせがなかったのか。
考えるより先に、怒りがこみ上げた。
南から呼び戻し、王都の守りを任せた。
兵と倉を確かめる権限を与え、門と城壁の配置も変えさせた。あの男は国を守ると答え、その仕事を引き受けたはずだった。
「恩を忘れたか」
王は窓から離れた。
廊下の向こうで、近衛の隊長が兵へ命じている。
その声を聞くと、王は少しだけ落ち着きを取り戻した。まだ自分へ従う兵がいる。王城の中には千二百人の近衛がいるのだ。
王都の兵が集まれば、アーノルドの兵など挟み潰せる。
だが、戻ってきた侍従の顔は青かった。
「東の脇門から出た使者が、通りで止められました」
「別の道へ行かせろ」
「西側にも兵が……」
「ならば、城壁へ声を届けろ。王命だぞ!」
侍従は返事をしかけ、口を閉じた。
王はその沈黙が気に入らなかった。
「何だ」
「北の城壁から、返答が届いております」
「何と言った」
「城外に敵軍があるため、持ち場を離れられないと。まず、王城の状況を確かめる者を送ると申しております」
王はしばらく、侍従を見つめた。
自分が命じている。
それを確かめてから動くという。
「誰の城壁を守っていると思っている」
低く言ったが、侍従は答えなかった。
その時、廊下の奥で激しい音がした。
剣の音だった。
近衛の隊長が振り向き、王へ告げる。
「奥の部屋へお移りください」
「逃げろと言うのか」
「ここでは危険です」
王は動かなかった。
近衛の隊長は返事を待たず、兵を扉の前へ並べた。
足音が近づいてきた。
◇ ◇ ◇
アーノルドが西の通路を抜けた時、肩の外套には血がついていた。
自分のものではない。
扉の前で負傷した兵を支えた時についた血だった。男は運ばれていったが、その後どうなったかはまだ聞いていない。
中庭を押さえる二百人は、正面階段の近衛と向き合っていた。アーノルドと進んだ四百人のうち、二百人を通路と建物の出入口へ残し、残る二百人で王の居所へ向かう。
二百人全員を、王の部屋まで進ませるわけにはいかなかった。
曲がり角と階段に兵を置き、背後を守らせる。近衛の一隊が別の入口から入ろうとしたが、槍を交えた後、戸口の向こうで止まった。
王城の中は、敵と味方にきれいに分かれてはいなかった。
武器を持ったまま壁際へ退く近衛がいた。侍従を奥へ逃がし、それ以上は進んでこない者もいた。
アーノルドは、その者たちへ兵を向けなかった。
「その場を動くな。剣を収めれば、こちらからは手を出さぬ」
一人が鞘へ刃を戻した。
隣の男はまだ抜いたままだったが、前へは出なかった。
廊下の先には、盾を並べた近衛が待っていた。
その背後に王の部屋がある。
アーノルドは兵を止め、盾の列の間から前へ出た。
「陛下へお目にかかる」
「その剣を捨てろ」
近衛の隊長が答えた。
「兵を退かせれば、取次ぎはする。これ以上進めば、斬る」
「王城の門と通りは押さえた。王都の兵も、ここへは来ぬ」
「だから何だ」
男は剣を握ったまま、半歩前へ出た。
「私の務めは、陛下をお守りすることだ」
「ここで兵を死なせても、城外の軍は消えぬ」
「お前が決めることではない」
アーノルドは男の背後を見た。
近衛は、王を守る位置から動かない。
降伏を説いても、王命でなければ聞かないだろう。その王のもとへ行くためには、この兵を越えなければならなかった。
「最後に言う。武器を下ろせ」
隊長が首を振った。
次の瞬間、盾の脇から槍が突き出された。
アーノルドの横にいた兵が、それを盾で受ける。穂先が木へ食い込み、兵の足が後ろへ滑った。
「押さえろ!」
アーノルドが命じた。
廊下に叫びが満ちた。
広い場所なら横へ回れたはずの兵も、ここでは前の者の肩越しに槍を出すしかない。盾が重なり、倒れた者を踏まぬよう足を動かすだけでも力を使った。
近衛の隊長が刃を振り下ろす。
こちらの兵が剣で受けたが、押し負け、肩を斬られた。
男が崩れた場所へ、アーノルドが入った。
再び上がった剣を受け、横へ流す。近衛の隊長はすぐに刃を引き戻した。
強い。
一度合わせただけで分かった。
アーノルドは打ち合いを続けず、盾兵の横へ身を寄せた。追おうとした男の足元へ槍が伸び、男が退いたところを、後ろの兵が盾で押した。
近衛の列が、わずかに崩れる。
「前へ!」
二枚の盾が間へ入り、後続が続いた。
アーノルドは近衛の隊長へ剣を向けた。
男はもう一度斬りかかろうとしたが、横から伸びた槍に腕を傷つけられた。剣先が下がったところへ、盾がぶつかる。
壁へ押しつけられても、男は剣を放さなかった。
「取り上げろ。首を斬るな」
アーノルドが命じた。
兵二人が腕を押さえ、ようやく剣が床へ落ちる。
隊長の姿を見て、後ろの近衛が足を止めた。
「剣を置け!」
アーノルドは叫んだ。
「陛下へ刃を向けるために来たのではない!」
しばらく、荒い息と鎧の音だけが続いた。
一人が剣を床へ置いた。
もう一人が、盾を壁へ寄せた。
まだ武器を持つ者は残っていたが、扉の前には道ができていた。
アーノルドは剣先を下げた。
鞘へ収める前に、刃についた血を見た。誰の血か、すべてを確かめることはできなかった。
王の部屋の扉は、内側から閉じられていた。
「開けよ。アーノルド・フォン・ケッセルハイムだ」
返事はなかった。
もう一度名乗ると、内側で人が動く音がした。
扉が少し開き、侍従が顔を出した。
アーノルドは、剣を鞘へ収めた。
「陛下へ、お目にかかる」
侍従は廊下を見た。
壁へ座らされた近衛の隊長、運ばれていく負傷者、扉の左右へ立つ兵。
その後で、アーノルドへ道を開けた。
◇ ◇ ◇
国王は、部屋の奥に立っていた。
椅子にも座らず、卓へ片手をつき、入ってきたアーノルドを睨んでいる。
「いくらで売った」
最初の言葉は、それだった。
アーノルドは扉から数歩進んだところで止まった。
「何を、でございますか」
「国だ。王だ。お前が守ると誓ったものだ」
王の声は大きくなかった。
怒りが収まったのではない。言葉を一つずつ噛むようにして、押し出していた。
「レオンハルトは、何をくれると言った。領地か。爵位か。それとも、私の席か」
「いずれも、約束されておりません」
「嘘をつけ」
「私が求めたのは、武器を置いた兵と、民を守る条件です」
王は笑った。
短く、乾いた笑いだった。
「そのために、ここで私の兵を斬ったのか」
アーノルドは答えを急がなかった。
廊下では、負傷者を運ぶ足音がしていた。
王の言葉は間違っていない。
戦を止めるためだと決め、王城へ兵を入れた。その結果、今朝まで同じ国の兵だった者が死んだ。
「今朝の命令は、私が出しました。その責任から逃れるつもりはありません」
「ならば、剣を捨てて縄につけ」
「陛下が降伏を命じられた後で、私の責任をお問いいただきます」
「誰が降伏などするものか」
王が卓を叩いた。
「城壁は残っている。兵もいる。倉にも食料がある。お前が裏切らなければ、まだ戦えた」
「戦うことはできたでしょう」
「分かっているなら」
「その後に、何を残せますか」
王の目が細くなった。
アーノルドは、外套の内側から条件を記した書状を取り出した。
「西の城は落ち、野戦の軍は破られました。王都へ来た敵軍は減るどころか、守備を交代した兵を集めて増えています。南でも、これ以上兵を抜けば守れません」
「敵の言葉を、そのまま私へ聞かせるな」
「私が見た兵と城の話です」
王は口を閉じた。
アーノルドは書状を卓へ置いた。
「国王御自身に降伏を表明していただきます。王都の兵だけではありません。残る城と軍へ、戦いをやめるようお命じください」
「私の命は」
問いが落ちた。
アーノルドは王を見た。
ここで助かると言えば、王は筆を取るかもしれない。少なくとも、今より話は進むだろう。
だが、その言葉を口にする権限はなかった。
「保証は得ておりません」
王の顔から、わずかに血の気が引いた。
「私を差し出すつもりか」
「陛下の処遇は、別に責任を調べた上で決めるとのことです」
「それで、降伏しろと言うのか」
「はい」
王はアーノルドを見つめた。
廊下の向こうで、呻き声がした。すぐに誰かが、ゆっくり運べと告げた。
王の視線が、扉へ動いた。
助けに来る兵の足音は聞こえなかった。
「私が命じれば、お前を討つ者はまだいる」
「おります」
「ならば」
「私一人をお裁きになるために、これ以上、兵を死なせるおつもりですか」
アーノルドは声を荒らげなかった。
「近衛の中には、まだ陛下の命令を待つ者がいます。城壁にも、地方の城にもいます。その者たちを止められるのは、今は陛下だけです」
王は卓の書状へ目を落とした。
そこには、領地を増やす約束も、勝者の歓喜も書かれていなかった。
武器、倉、負傷者、捕虜。
引き渡すものと、守るものが並んでいる。
長い間、王は何も言わなかった。
やがて、侍従へ顔を向けた。
「書記官を呼べ」
侍従が一度アーノルドを見た。
アーノルドは扉の兵へ、通すよう命じた。
◇ ◇ ◇
書記官が持ってきた紙は、卓へ置かれる時に端が震えた。
王はそれを見たが、叱らなかった。
「グランヴァルト王へ」
声を出し、そこで一度止まった。
書記官の筆も止まる。
窓の外では、鐘の音が途切れていた。
王は、アーノルドへ顔を向けずに続けた。
ロスヴァール王国が降伏を申し出ること。
王都守備兵と近衛に、戦闘をやめるよう命じること。
各地の城主と将にも同じ命令を送り、武器と軍需物資の引き渡しについて、グランヴァルト側の指示を受けること。
書記官は途中で二度、言葉を確かめた。
王はそのたびに短く答えた。
書き終えた紙を読み上げる間、部屋の中にいる者は動かなかった。
アーノルドは最後まで聞き、抜けている命令がないか確かめた。
それから、王へ頭を下げた。
「こちらを各地へ届けるため、使者をお出しいただきます」
「まだ、私に命じさせるのか」
「城へ届いた書状が偽物だと疑われれば、兵が戦い続けます」
王は返事をせず、印を持ってこさせた。
封蝋の支度をする侍従の手元を見ている。
印が押された時、アーノルドはようやく息を吐いた。
終わったのではない。
王の命令が外へ出るまでは、まだ城内でも剣を下ろさない者がいる。
アーノルドはまず、王城内へ停戦を伝える命令を別に作らせた。それを侍従と書記官に持たせ、兵を護衛につける。
王の声を直接聞くまで信じぬ者には、隊長を一人ずつ連れてこさせることにした。
廊下へ出ると、壁際に座らされた近衛の隊長が顔を上げた。
傷ついた腕には布が巻かれている。剣は取り上げられていたが、アーノルドを見る目は変わらなかった。
「陛下は」
「御無事だ。戦を止めるよう命じられた」
「お前が、そう言わせたのだろう」
アーノルドは否定しなかった。
「陛下の命令を確かめろ。その後は、兵を止めてほしい」
男は何も答えなかった。
しかし、侍従が王命を読み始めると、顔をそちらへ向けた。
中庭では、まだ盾を並べた兵が向き合っていた。
侍従が階段へ立ち、印のある書状を示す。近衛側の指揮官が近づいて確かめるまで、誰も列を解かなかった。
やがて、一方の槍先が上がった。
向かい合っていた兵も、少し遅れて槍を立てる。
張りつめていた列の間へ、負傷者を運ぶ者が入った。
アーノルドは門の近くまで戻り、各隊からの報告を受けた。
王都守備兵から動かした千四百人のうち、確認できた戦死者は十八人、負傷者は五十七人。負傷者の中には、手当てを受けても当面は持ち場へ戻れない者がいた。
協力した近衛百人にも死傷者が出ている。抗戦した側の人数は、まだ揃っていなかった。
「兵を混ぜずに名を確かめろ。近衛の負傷者も、手当てを待たせるな」
アーノルドは命じた。
中庭の端には、布を掛けられた身体が並んでいた。
一枚だけ、足元まで届いていない布がある。アーノルドは通りかかった兵を呼び、別の布を持ってこさせた。
自分が選んだ朝だった。
そのことを、忘れないように見た。
◇ ◇ ◇
城外のアレクたちに届いたのは、まず鐘の音だった。
王都から風に乗って聞こえ、しばらく続いた後に途切れる。
鉄砲隊の列で、兵が顔を上げた。
「持ち場を見ろ」
ギルベルトが声をかける。
アレクも王城の方を見ていたが、城壁の向こうで何が起きているかは分からなかった。高い建物の間に人影が見える時もある。それが兵なのか、旗を動かす者なのかまでは見分けられない。
大砲のそばでは、砲手が道具を確かめていた。
火縄の匂いが、鉄砲隊の前を流れる。
撃つための準備はできていた。
それでも、撃たずに待つ。
日が高くなるにつれ、アレクは王都の西門を見る回数が増えた。
やがて、門が細く開いた。
最初に出てきたのは、布を掲げた騎馬の使者だった。その後ろへ二騎が続く。兵の列は出てこない。
グランヴァルト側の騎兵が進み、城壁から離れた場所で一行を止めた。
使者が馬を下りる。
剣を預け、書状を示しているのが見えた。
アレクの横にいた兵が、小さく息を吐いた。
まだ、何も分からない。
アレクはそう思いながらも、自分も同じように息を止めていたことに気づいた。
ほどなく、使者は護衛をつけられて本陣へ通された。
アレクも呼ばれ、鉄砲隊をギルベルトへ任せて向かう。
天幕へ入ると、南から来たあの隊長が立っていた。
鎧の肩に新しい傷があり、左手には布が巻かれている。
隊長はマティアスへ書状を差し出した。
「ロスヴァール国王陛下より、降伏と停戦の書状をお届けしました」
レオンハルトは、すぐには受け取らなかった。
マティアスが封と印を確かめ、書記官にも見せる。それから紙を開き、内容を読んだ。
「王城の抵抗は」
「大きな戦闘は止まりました。近衛の各隊へ、王命を伝えております。ただし、すべての兵の武装解除が終わったわけではありません」
「王都の門は」
「西門は、こちらの指示を待っております。ほかの門は守備を続け、勝手に開けぬよう命じています」
「アーノルド伯は」
「王城に残り、陛下の身柄と命令書を守っております」
隊長が答えるたびに、マティアスは確認を重ねた。
王の印がある。
王城も押さえた。
それでも、知らない場所にいる兵が、すべて同じ判断をしているとは限らなかった。
マティアスは読み終えた書状を、レオンハルトへ差し出した。
レオンハルトは、王の名が記された箇所を見た。
長くはなかった。
だが、誰もその間に口を開かなかった。
やがて、レオンハルトは紙から目を上げた。
「ユリウス。門と、そこへ続く道を確かめろ。入れる兵の数は、それを見てから決める」
「承知しました」
「マティアス。引き渡しを受ける者を揃えろ。兵だけ入れて、倉の管理や兵への指揮を曖昧にするな」
「すぐに」
最後に、アレクへ視線が向いた。
「鉄砲隊は、まとまったまま待て。勝手に門へ詰めるな。命令があれば、歩兵と共に進めるようにしておけ」
「承知しました」
アレクは頭を下げた。
外へ出ると、王都の城壁が見えた。
旗は、まだロスヴァールのものだった。
その下に立つ兵も、つい先ほどまで敵だった者たちだ。
アレクは鉄砲隊へ戻り、ギルベルトを呼んだ。
「降伏の書状が届きました」
近くにいた兵の肩が動いた。
喜びの声が上がりかけたが、アレクは続けた。
「これから門と守備兵を確かめます。入城の命令が出るまでは、このまま待機してください」
「承知しました。各班へ伝えます」
ギルベルトが列へ向かう。
アレクは、林檎の花と、その周りに五つの蕾を描いた旗を見上げた。
その向こうで、黒を基調に金の獅子を描いた王旗が風を受けていた。
王都へ続く道を、確認のために出た騎兵が進んでいく。
今度は、その後ろから自分たちも門をくぐることになる。
アレクは兵の列へ向き直った。
まだ、武器を置く時ではなかった。
第十九話を読んでいただき、ありがとうございました。
王に従うことと、国を守ること。アーノルドは、その二つが重ならなくなった時に、自らの責任で道を選びました。
降伏の書状を受け取ったレオンハルトたちは、いよいよ王都へ入る準備を進めます。
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