第十七話 王命と、兵の名
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ロスヴァール南部の城へ、王都から新たな命令が届きます。
ロスヴァール南部、カルディア軍と対峙する城で、アーノルド・フォン・ケッセルハイムは王都から届いた命令書を読んでいた。
南の守備を引き継ぎ、兵を選んで王都へ戻れ。
短い命令だった。
書状を届けた使者は、机の前に立ったまま返事を待っている。外套の裾には泥が乾いて付き、手袋の指先が擦り切れていた。
アーノルドは書状を机へ置いた。
「いつまでに戻れと」
「一刻も早く、と仰せです」
「こちらの兵を、どれだけ連れてこいという指定はあるか」
「兵をお選びになるのは、閣下にお任せすると」
使者の声は慎重だった。
西へ千五百を送り出した時も、命令は急を要するものだった。その結果、南の守りが薄くなり、アーノルドは城を捨てて退いた。
今度は、王都へ戻れという。
アーノルドは窓へ目を向けた。
城の南には街道が延びていた。その先へ出した見張りからは、カルディアの騎兵を見たという報告が繰り返し届いている。大軍が迫っているわけではないが、こちらの動きは探られていた。
「使者殿に食事を出せ。馬も休ませろ」
傍らの兵へ命じると、使者が口を開いた。
「お返事を持ち帰るよう、申しつかっております」
「帰還する。だが、今すぐ城を出るわけにはいかぬ。引き継ぎを終えてからだ」
「承知しました」
使者が退出すると、部屋には城代と、アーノルドの部下の隊長が残った。
城代は、王命の書状へ目を落としていた。
「閣下が去られれば、カルディアも動くかもしれません」
「そのつもりで備える」
アーノルドは地図を広げた。
先の城から退いた後、戦える状態にあった直属の兵は二千三百九十。ここには、それとは別に、以前から城を守っていた兵がいる。
アーノルドは、直属隊から二百を選んで王都へ連れていくことにした。残る二千百九十は、この城へ置く。
「残す隊は、そなたの指揮下へ入れる。各隊長には、私から命じる」
城代が顔を上げた。
「それほど残していただいて、王都では何も言われませんか」
「言われるだろうな」
アーノルドは答えた。
「だが、南の敵が消えたわけではない。兵を空にして城を渡せば、次は王都へ通じる道を、南から脅かされる」
地図の街道を指でたどる。
「見張りは一か所へ集めるな。敵の先頭を見た者が戻る間にも、後ろの動きを見る者を残せ。橋を渡って追うな。こちらを外へ引き出そうとしても、乗る必要はない」
城代は頷いた。
アーノルドは、残る兵の指揮を任せる隊長へ向き直った。
「城の兵と、私の兵で命令を分けるな。守る場所を決めたら、互いの隊長にも知らせておけ」
「承知しました」
「倉の記録と、兵へ配った数も合わせる。どちらか一方が食っていないなどということは、起こすな」
隊長が返事をした。
王都へ戻ること自体を、拒むつもりはなかった。
西で敗れた軍が再び敗れ、城が次々と失われている。王都を守らなければならないという判断は、アーノルドにも分かる。
だが、王都へ兵を集めれば、それまで兵が守っていた場所が空く。
その場所には、今も敵がいた。
アーノルドは地図を押さえた。
王都へ帰る前に、片づけておかなければならないことがあった。
◇ ◇ ◇
翌日の昼、城門から報告が入った。
グランヴァルトの使者が来ているという。
城代は、思わずアーノルドを見た。
「黒獅子の使者が、ここまで」
「何人だ」
「使者一人に、護衛が二人です。城門の前で待たせております」
「旗は」
「使者であることを示す白い布を掲げております。クレーマー伯爵からの書状を持つと申しています」
アーノルドは、しばらく考えた。
西からこの城へ通じる道は、いくつもある。グランヴァルトに従った領主が増えれば、案内を得ることもできるだろう。
それでも、敵の将が守る城へ来るには、相応の覚悟がいる。
「通せ。武器は門で預かれ。使者へ手荒なことをするな」
使者が部屋へ入ってきた時、アーノルドは机の前に立っていた。
男は一礼し、書状の筒を差し出した。
「グランヴァルト国王陛下の御許可を受け、マティアス・クレーマー伯爵より書状をお届けに参りました」
アーノルドは筒を受け取った。
封を確かめ、書状を取り出す。その下に、別の紙が重ねられていた。
兵の名が並んでいる。
初めは、何の名簿なのか分からなかった。
だが、二つ、三つと目を通すうちに、アーノルドの指が止まった。
知っている名だった。
自分が西へ送り出した兵の名だった。
「これは」
「捕虜として収容している者のうち、閣下の軍に属していたと確認できた兵の名簿です」
アーノルドは、紙を一枚めくった。
その先には、亡くなったと確認された者の名があった。
さらに別の紙には、消息を確認できていない者が記されている。死者にも捕虜にも数えられず、分からないまま残された名だった。
アーノルドは、部下の隊長を呼んだ。
「こちらへ来い」
隊長が机へ近づく。
紙へ目を落とした途端、顔が変わった。
「この者は……」
「知っているな」
「はい。同じ隊におりました」
隊長は、名簿の端へ添えられた短い文を読んだ。
捕らえられた隊長が、照合できた範囲について記したものだった。筆跡を見て、部下がアーノルドへ顔を向ける。
「本人の字だと思われます。以前、荷の受け取りを任せておりました」
アーノルドも、その筆跡を見た。
文字の形を確かめるように、紙を近づける。
西へ兵を送り出してから、まとまった報告はほとんど届いていなかった。
敵と戦ったという知らせは来た。
敗れたという知らせも来た。
だが、誰が生き、誰が死に、誰が戻れなくなったのか。その名が、これほど揃って届いたことはなかった。
敵から渡された紙を、自分たちが覗き込んでいる。
そのことに気づき、アーノルドは顔を上げた。
「兵の名を届ければ、私が王を裏切ると思ったか」
使者の背が、僅かに伸びた。
「名簿は、お返事と引き換えにお渡しするものではないと、伯爵より申しつかっております」
「では、何のために来た」
「伯爵の書状をお読みいただき、話し合いに応じるお考えがあるか、確かめるためです」
アーノルドは、まだ開いていなかった書状へ目を移した。
国王が降伏を拒んだこと。
グランヴァルトは進軍をやめないこと。
だが、これ以上の犠牲を避けるため、兵と民を守る条件について話す用意があること。
言葉は短く、アーノルドの忠義を褒める文も、王を罵る文もなかった。
「降った城の兵は、どうしている」
「武器を集め、将と分けて収容しております。負傷した者には手当てを行っています」
「町は」
「軍の倉を引き渡させ、守備を置いております。住民への略奪は禁じられています」
「禁じるだけなら、誰にでもできる」
使者は頷いた。
「御疑いがあるなら、閣下の側から確かめる者をお出しいただけるよう、伯爵へお伝えします。ただし、私の判断で受け入れの場所や人数まで約束することはできません」
アーノルドは使者を見た。
都合のよい返事を急いで並べる男ではなかった。
「王が戦い続けるなら、黒獅子はどこまで攻める」
「国として降伏し、残る軍へ戦いをやめる命令が出るまで、進軍を続けると伺っております」
「王都も攻めるか」
「必要ならば」
部屋にいた隊長が、息を詰めた。
アーノルドは視線を外さなかった。
「王が降れば、命は保証されるのか」
「そのお約束は、書状にはございません」
「そなたにも、できぬと」
「はい」
使者は、はっきりと答えた。
「国王御自身の責任と、武器を置く兵や民の扱いは、分けて考えておられます」
アーノルドは書状を机へ置いた。
王が拒んだ理由の一つは、そこにあるのだろう。
降れば国は残るかもしれない。だが、王自身がどうなるかは分からない。
アーノルドは、窓の外へ目を向けた。
城壁の上を、見張りの兵が歩いている。
「返事は、今は書けぬ」
「承知しました」
「私は王命で王都へ戻る。出発まで待つつもりなら、明朝までは留まってよい。急ぐなら、この名簿を受け取ったことだけ持ち帰れ」
使者は少し考えた後、頭を下げた。
「明朝まで、お待ちいたします」
アーノルドは兵を呼び、使者を休ませる部屋を用意させた。
男が退出した後も、名簿は机に残った。
隊長は、その前から動かなかった。
「生きておりましたか」
小さな声だった。
アーノルドは答えず、紙を隊長の方へ寄せた。
もう一度、確かめる時間を与えたかった。
◇ ◇ ◇
翌朝、アーノルドは二百の兵を率いて城を出た。
残る隊長たちは、城代の前でそれぞれの持ち場と、誰の指揮に従うかを確かめていた。倉の鍵と記録も引き継がれ、南へ出した見張りからの報告は、すでに城代へ届くように変えられている。
門を出る前、アーノルドは城代へ言った。
「敵を倒すために、城を空けるな。ここを保つことが役目だ」
「承知しております」
「援軍を求める時は、王都へ知らせると同時に、近くの城にも使いを出せ。返事を一つ待って、何日も失うな」
城代が頭を下げた。
アーノルドは馬を進めた。
北へ続く街道を、兵が歩き始める。
グランヴァルトの使者は、まだ列の後ろにいた。アーノルドが北へ向かう道の途中で返書を渡すと告げると、同行を願い出たのだった。
護衛二人も同行しており、門で預かっていた武器は返されていた。
隊長の一人は、それを気にしていた。
「王都へ戻る列に、グランヴァルトの使者を加えてよろしいのですか」
「王都まで連れていくとは言っておらぬ」
「それでも、見た者が何を申すか」
「使者を受け取り、返事を返す。それだけのことだ」
アーノルドは答えた。
だが、それだけでは済まぬかもしれないということは、分かっていた。
王都が敵の使者を帰した直後に、自分もその敵と書状を交わす。
しかも、届いた文は、戦いを終えるための話し合いを求めるものだった。
疑おうと思えば、いくらでも疑える。
アーノルドは、鞍の脇へ収めた書状へ手を触れた。
その下に、兵の名簿が入っている。
王都へ帰れば、まずは国王に進言するつもりだった。だが、何をどこまで聞き入れられるのかは、会ってみなければ分からなかった。
昼を過ぎると、街道の両脇に畑が広がった。
兵が歩く道の向こうに、荷車の列が見えた。
初めは、王都へ向かう荷だと思った。
だが、近づいても動いていない。荷車の前には人が集まり、その周りを槍を持った兵が囲んでいた。
風に乗って、怒鳴り声が聞こえた。
「どけと言っている!」
「持っていかれたら、俺たちは何を食えばいい!」
アーノルドは馬を止めた。
先へ出ていた兵が、振り返って戻ってくる。
「徴発の隊です。村の者が車を止めております」
「何人いる」
「兵は三十ほど。村の者は、それより多く見えます」
アーノルドは、後ろの隊長へ向けて手を上げた。
「列を止めろ。前の二十だけ、私に続け」
街道を歩いていた兵が止まる。
アーノルドは二十人を伴い、荷車へ近づいた。
◇ ◇ ◇
荷車には、穀物の袋が積まれていた。
袋の間へ縄が掛けられ、車輪の前には、土の付いた靴を履いた男たちが立っている。
槍を持った兵が、男の肩を押した。
「道を空けろ。王都へ運ぶ荷だ」
「だから、もう出したと言っているだろう!」
「こちらの記録にはない」
「記録にないなら、俺たちが出した麦はどこへ行った!」
声が大きくなる。
荷車の横で、年配の男が紙を掲げていた。何かを訴えていたが、兵と村人の怒鳴り声にかき消されている。
アーノルドが馬から下りた時、一人の農民が兵の槍をつかんだ。
兵が引き戻そうとする。
その脇へ別の兵が出て、農民を突き飛ばした。
男は荷車へ背を打ちつけ、それでも兵の袖へつかみかかった。
隊長らしい男が剣の柄へ手を掛けた。
「離れろ!」
鞘から、刃が半ば抜けた。
「剣を収めろ」
アーノルドの声に、隊長が振り返った。
「その者たちは敵ではない」
隊長の顔が変わる。
旗と、後ろに続く兵を見てから、アーノルド本人へ目を戻した。
「ケッセルハイム閣下」
「何があった」
「王都への徴発を、村の者が妨げております」
隊長は、まだ柄から手を離していなかった。
アーノルドは、その手を見た。
「先に、収めろ」
刃が鞘へ戻った。
農民も兵の袖を離したが、荒い息をつきながら立っていた。
アーノルドは男へ向き直った。
「そなたも、兵につかみかかるな」
「ですが」
「話を聞く。だから、手を離して下がれ」
男は唇を噛み、荷車の脇へ退いた。
アーノルドは、連れてきた兵に道の両側へ立つよう命じた。村人へ槍を向けさせず、後ろから来る者を止め、荷車の周りに場所を空ける。
徴発隊の隊長は、胸元から折り畳んだ命令書を取り出した。
「王都を守るための徴発です。閣下といえど、王命を妨げるおつもりですか」
周りの兵が、動きを止めた。
隊長も、言った直後に口を結んだ。
引けなくなった顔だった。
アーノルドは手を差し出した。
「命令書を見せよ」
隊長が紙を渡す。
王都へ集める物資と、担当する村々が記されていた。期限もある。偽の命令ではなかった。
「荷の記録も」
書記を務めていた兵が、小さな板を抱えて進み出た。
アーノルドが目を通していると、先ほどから紙を掲げていた年配の男が近づいた。
「領主様。こちらも、見ていただけませんか」
男の手は震えていた。
差し出された紙の端は折れ、何度も開いた跡が付いている。
「村の長か」
「はい」
アーノルドは紙を受け取った。
穀物の受取書だった。
日付は、六日前。
兵糧として納めた量と、受け取った役人の名、印があった。
アーノルドは二枚を並べた。
「これは、別の役所から来ているな」
徴発隊長が覗き込む。
「私どもへ渡されたのは、こちらの命令だけです」
「この受取書は見たか」
「見せられました。ですが、別の徴収分だと考えました」
「別の分であると、どこに書いてある」
隊長は口を閉じた。
アーノルドは、双方の日付と村の名を確かめた。
受取書に記された前回の徴収も、今回の命令も、王都の守りに必要な穀物を集めるためのものだった。
一方は領内の役人を通じて出され、もう一方は軍の徴発隊へ直接出されている。すでに納めた村について、差し引く指示がない。
同じ村へ、二つの命令が届いていた。
「倉を見せよ」
アーノルドは村長へ言った。
村長は、何度も頷いた。
◇ ◇ ◇
村の倉へ入ると、床の広さが目についた。
壁際には袋を置いていた跡が残っている。こぼれた麦粒が隅に寄せられ、空の縄が杭へ掛けられていた。
残っている袋は少なかった。
「家々に隠している分は」
徴発隊長が尋ねた。
村長が顔をこわばらせる。
「日々食べる分は、それぞれの家にあります。ですが、ここへ集めていたのは、これから食べる分と、次に播く分で……」
「ほかの倉はないのか」
「ありました。そちらは、六日前に」
村長は、持っていた記録を開いた。
刈り入れて集めた量。
各家へ分けた量。
六日前に納めた量。
そこから今回の荷を出せば、何が残るか。
字は揃っていなかったが、村長は一つずつ指でたどりながら説明した。
アーノルドは、同行していた書記に確かめさせた。
倉の中だけで結論を出さず、荷車の袋も数え直させる。前の徴収で荷を運んだ御者が呼ばれ、運んだ先と、受け取りを見た者について尋ねられた。
村人たちは、黙って待っていた。
最初に兵へつかみかかった男も、倉の入口に立っていた。
アーノルドが視線を向けると、男は目を伏せた。
「六日前に運んだのは、そなたか」
「俺と、ほかに二人です」
「どこまで」
男が答えた。
書記は、受取書に記された場所と同じだと頷く。
「帰りには、もう出さなくてよいと言われたのか」
「これで、この村の分は済んだと」
男は、そこで顔を上げた。
「だから、残った物を分けたんです。足りない家には、ほかの家から回して。それを、また全部出せと言われても……」
声が途切れた。
アーノルドは徴発隊長を見た。
隊長も、もう命令書を掲げてはいなかった。
「今積んでいる荷を、すべて持ち出すことは認めぬ」
「閣下」
「六日前に納めた分を記録へ加えろ。残った穀物から、村の者が食べる分と、次に播く分を残す。その上で出せる分を確かめる」
「それでは、定められた量に届きません」
隊長の声が強くなった。
自分でそれに気づいたのか、すぐに頭を下げる。
「申し訳ございません。ですが、期限までに運べなければ、私が処罰されます」
「村を空にしてでも、揃えろと命じられたか」
「定められた量を揃えよと」
「それで、この倉を見て、足りると思うか」
隊長は周囲を見た。
空いた床。
僅かな袋。
入口に立つ村人たち。
その顔へ目を向けてから、アーノルドへ戻す。
「思いません」
絞り出すような声だった。
「ですが、私が減らせば、勝手に命令を変えたことになります」
アーノルドは頷いた。
「そなたが変えたことにはしない」
書記へ紙を出すよう命じた。
この村がすでに納めた量と、今回持ち出す量。村に残す物と、その理由。
確認した事実を、順に書かせる。
徴発隊長は、その筆の動きを見ていた。
「私が命じたと記せ」
アーノルドが言った。
「不足を問われたら、私の名を出せ。王には私から申し上げる」
隊長が顔を上げた。
アーノルドは、書き終えた紙へ自分の名を記した。印を押し、乾くまで待ってから、隊長へ渡す。
「これを持っていけ。村の受取書も写しを付ける。口で説明しただけにするな」
隊長は両手で受け取った。
しばらく紙を見ていたが、やがて深く頭を下げた。
「承知しました」
アーノルドは倉の外へ出た。
待っていた村人たちが、一斉に顔を向ける。
「荷を戻す。だが、車へ群がるな。数を確かめながら下ろす」
村長が、その言葉を繰り返した。
兵が荷車の縄を解き始める。
農民たちは、信じてよいのか分からないように立っていたが、最初の袋が倉へ運ばれると、一人が前へ出た。
「俺が持ちます」
兵から袋を受け取り、肩へ担ぐ。
その後ろへ、別の男が続いた。
つい先ほどまで押し合っていた兵と村人が、同じ荷を運び始めた。
徴発隊長は書記と共に記録を直し、袋が一つ戻るたびに数を確かめていた。
アーノルドは、その様子を見ていた。
荷を戻せば、今日の争いは終わる。
だが、王都が必要としている穀物が、増えたわけではなかった。
足りない分は、足りないまま残る。
それを誰が、どこから持ってくるのか。ほかの村へ同じ命令が届いていないか。
一つの倉の前で止められることには、限りがあった。
◇ ◇ ◇
日が傾き始めた頃、徴発隊は出発した。
荷車の数は変わらない。
だが、積まれた袋は少なくなっていた。
隊長は、アーノルドへ一礼した後、部下の騎兵を呼んだ。
「先に王都へ行け。到着が遅れることと、荷の数が変わったことを伝えろ」
騎兵へ渡したのは、アーノルドが記した紙の写しだった。
自分を守るための報告でもあった。
アーノルドは止めなかった。
隊長がこちらへ目を向けた時も、頷いただけだった。
馬が街道を北へ駆けていく。
荷車が動き始めると、村人たちは道の脇へ下がった。もう車輪の前へ立つ者はいなかった。
アーノルドの部下が、低い声で言った。
「先に、王都へ話が届きます」
「ああ」
「都合の悪いところを、抜いて伝えるかもしれません」
「私も、同じ記録を持っていく」
アーノルドは村長へ向き直った。
書記が、もう一枚の紙を渡していた。
「これを保管しておけ。今日の受け取りだけでなく、六日前の分も一緒に記してある」
村長は、折らないよう両手で持った。
「ありがとうございます」
「別の隊が来たら、まずこれを見せよ。村の者に、兵へつかみかからせるな」
「はい」
村長は頭を下げた。
その後ろにいた農民が、躊躇いながら進み出た。最初に槍をつかんだ男だった。
「閣下」
「何だ」
「また来た兵が、これを見ても聞いてくれなかったら」
村長が男の袖を引いた。
だが、アーノルドは手を上げて止めた。
農民は、その場に立ったまま続けた。
「俺たちは、誰に言えばいいんですか」
アーノルドは、すぐには答えなかった。
その問いに、王の名を出すべきなのだろう。
領主か、代官か。命令を出す者へ訴えよと答えることもできた。
だが、今日この村へ届いた命令には、その王の権威があった。
アーノルドは書記を呼び、近くの城を治める者へ宛てた短い文を添えさせた。
「こちらへ使いを出せ。私の名を添えて、この村の徴発を確認するよう頼んでおく」
農民は頷いた。
安心した顔には、まだなっていなかった。
アーノルドには、それ以上のことを、その場で約束できなかった。
馬へ戻る途中、グランヴァルトの使者が道の脇に立っているのが見えた。
男は、兵と村人のやり取りへ口を挟んでいなかった。
アーノルドが近づくと、一礼する。
「随分と、待たせた」
「いえ」
使者は、それだけ答えた。
敵の不始末を笑うでもなく、自国なら違うと言うでもない。その態度が、かえってアーノルドには重かった。
王都から届いたのは、兵を連れて戻れという命令だった。
敵から届いたのは、その前に送り出した兵の消息だった。
そして、王都へ向かう途中で見たのは、王都を守るための徴発に抗う、自国の民だった。
どれも、同じ戦争の中で起きている。
アーノルドは、鞍へ手を掛けた。
「今夜、返書を書く」
使者が顔を上げた。
「明朝には、持って帰れるようにする」
「承知しました」
アーノルドは馬へ上がり、兵へ出発を命じた。
村長と農民たちが、道の脇で頭を下げている。
アーノルドは、その姿を長く見ることができなかった。
自分が立ち去った後にも、村はここに残る。
次に来る兵の旗を見て、あの者たちは何を思うのだろうか。
◇ ◇ ◇
その夜、アーノルドは街道沿いの宿所で机に向かった。
部屋の外には、交代で見張る兵が立っている。二百の兵は建物と周囲へ分かれ、翌朝の出発に備えて休んでいた。
机には、三つの紙が置かれていた。
王都への帰還を命じる書状。
マティアスからの手紙。
そして、徴発の記録の写し。
アーノルドは、兵の名簿をもう一度開いた。
亡くなったと確認された者の欄で、目が止まる。
西へ向かう列を見送った時には、その中にいた兵だった。
国を守るために行けと命じた。
命令に従い、遠い戦場で戦い、戻らなかった。
その兵の死が、王都へ届いた紙の中では、どれほどの重さを持っていたのか。
アーノルドは、名簿を静かに畳んだ。
扉が叩かれた。
部下の隊長が入ってくる。
「本当に、お返事を出されるのですか」
「出す」
「今日の徴発の件もございます。敵との書状まで知られれば、閣下を疑う者が出ます」
「すでにいるかもしれぬな」
隊長は、机の紙へ目を向けた。
「王都へ戻り、陛下のお話を聞いてからでも」
「王都へ戻る。陛下にも申し上げる」
アーノルドは筆を取った。
「だが、話す道まで、先に閉じるつもりはない」
隊長は黙った。
アーノルドは新しい紙へ書き始めた。
兵の消息を知らせたことへの礼。
名簿を受け取ったこと。
自分は王命によって王都へ戻ること。
そこまで記した後、一度筆を止めた。
続きには、単なる受領の返事では済まない言葉を書くことになる。
隊長は、動かなかった。
アーノルドは、その視線を感じながら筆を進めた。
王都では、国王に降伏を進言する。
なお抗戦が続くならば、兵と民を守るための条件について、直接話したい。
そう書いた。
国王を捕らえるとも、城門を開けるとも記していない。
マティアスが求めるものに、すべて応じると誓ったわけでもなかった。
だが、王が戦えと命じ続けるなら、その命令とは別に、戦いを終える道を探す。
それを、自分の名で敵へ伝えようとしていた。
「閣下」
隊長が、低い声で呼んだ。
アーノルドは顔を上げた。
「止めるか」
「私には、その権限はございません」
「権限を聞いているのではない」
隊長は、しばらく迷った。
やがて、机の徴発記録へ目を落とす。
「今日、あの村で剣が振るわれていたら、誰かが死んでいたと思います」
「ああ」
「ですが、閣下がおられない村では、どうなっているのか」
言葉が途切れた。
アーノルドは頷いた。
「私も、それを考えている」
隊長は、それ以上止めなかった。
アーノルドは書き終えた紙を読み直した。
自分の身の安全については、何も求めていなかった。まず話すべきことは、それではないと思った。
署名し、封をする。
翌朝、使者へ渡す時には、もう迷わなかった。
「クレーマー伯爵へ届けよ」
「確かに、お預かりします」
「返書の届け先は、私が王都へ戻ることを踏まえて考えてもらいたい。南の城へ送られても、私はおらぬ」
「そのようにお伝えします」
使者は筒へ書状を収めた。
護衛二人と共に馬へ上がり、西へ分かれる道へ向かう。
アーノルドは北を見た。
自分の進む道の先には、国王が待っていた。
◇ ◇ ◇
アーノルドの返書が届くまでの間、グランヴァルト軍では王都へ向かう準備が続いていた。
本隊は八千五百三十三人。
そのうち八百九十五人を数える鉄砲隊は、銃と弾薬を確かめながら、隊の並びを整え直していた。
兵が減れば、それまでと同じ列にはならない。
ギルベルトは班長を呼び、欠けた場所へ誰が入るかを確かめていた。アレクもその横に立ち、命令が後ろまで伝わるかを見ている。
騎馬で動く直属の兵は、馬から荷を下ろし、再び積み直していた。
「その縄は、もう替えてください」
アレクが言うと、兵が手を止めた。
荷を留めていた縄の表面が、擦れて毛羽立っている。
「まだ使えると思いましたが」
「途中で切れてから結び直すより、今、替えた方が早いです」
「はい」
兵が新しい縄を取りに行く。
アレクが隣の馬へ移ろうとしたところで、伝令が来た。
「クレーマー伯爵様がお呼びです」
天幕へ向かうと、マティアスが使者から話を聞いていた。
レオンハルトも、その場にいる。
机の上には、封を開いた書状が置かれていた。
「本人が、王都へ戻ると」
レオンハルトが尋ねた。
「はい。私が到着した時には、守備の引き継ぎを進めておりました」
「兵は」
「帰還する列に加わっていたのは、二百ほどです。城へ残した兵の数までは、確かめておりません」
使者は、見たことと聞いていないことを分けて答えた。
マティアスが返書へ目を落とす。
「こちらの名簿は」
「配下の隊長を呼び、確かめておられました。添えた文の筆跡も、御存じだったようです」
アレクは、使者の話を聞いていた。
そこから、帰還途中の村の話になった。
二重に穀物を取り立てられた村。
命令どおりの量を持ち帰ろうとする兵。
その間へ入り、自分の責任で荷を戻させたアーノルド。
使者は、村の倉へは入っていないと断った上で、道から見たことを伝えた。
「徴発隊の兵と村の者が、荷を下ろしておりました。アーノルド殿が書かれた紙を、隊長が持っていきました」
レオンハルトは黙って聞いていた。
報告が終わると、使者を休ませるよう命じた。
男が退出してから、アレクはマティアスへ尋ねた。
「降伏に応じるのでしょうか」
「まだ分からない」
マティアスは答えた。
「だが、王命を待つだけではなくなった」
返書が、レオンハルトへ渡される。
国王に降伏を進言するという一文を読み、レオンハルトは紙を少し下げた。
「王が聞かなければ、こちらと話すか」
「そう記されています」
「本人は、どこまで決めている」
「それを確かめる必要があります。こちらへ従うとまでは、書いておりません」
レオンハルトは頷いた。
「返事を出せ。話し合いには応じる。ただし、王が考えを変えるのを、いつまでも待つとは約束するな」
「承知しました」
マティアスが書記を呼ぶ。
アレクは、机に置かれた返書を見た。
まだ、敵の将の手紙だった。
だが、そこには、敵の兵と民を救いたいという意思が記されている。
自分たちが攻めている国にも、同じように兵を数え、失った者の名を覚え、残った者を守ろうとしている将がいた。
その将が、国王へ何を言い、どう答えられるのか。
アレクには見えなかった。
レオンハルトは地図を広げ直した。
「こちらは、こちらの支度を進める。王都の道を見ている斥候へ、報告を急がせよ」
軍を止める命令は、出なかった。
◇ ◇ ◇
ロスヴァールの王都へ着いた時、アーノルドは門前の荷車を見た。
穀物を運ぶ車に交じり、寝具や鍋を積んだ車がある。子どもを抱いた女が、門兵へ何かを説明していた。
城壁の上では、兵が木材を運んでいる。
町へ入る道は混み、馬を進めるには、前の車が動くのを待たなければならなかった。
「兵は、決められた場所へ入れろ」
アーノルドは隊長へ命じた。
「勝手に町へ散らすな。食事と水を先に受け取らせよ」
「閣下は」
「王城へ行く」
供を少数だけ連れ、アーノルドは王城へ向かった。
石畳の道には、槍を担いだ兵が歩いていた。揃った鎧の者ばかりではない。まだ体に合っていない装備を、何度も直しながら歩く者もいた。
広場の隅では、集められた者の名が読み上げられている。
アーノルドは、その列を見た。
これから隊へ入る兵だった。
教える者が必要になる。並ぶ場所を覚えさせ、隣の兵と動きを合わせ、命令を聞いて止まれるようにしなければならない。
槍を渡すだけでは、軍にはならなかった。
王城の門を通ると、侍従が待っていた。
「陛下がお待ちです」
アーノルドは馬を預け、広間へ向かった。
扉が開く。
国王は、奥の席にいた。両側に重臣が並び、その少し後ろへ、書記が控えている。
アーノルドは進み出て、膝をついた。
「アーノルド・フォン・ケッセルハイム、王命により帰還いたしました」
王は、すぐには答えなかった。
机の上へ置かれた紙を取り、こちらへ向ける。
見覚えがあった。
村の徴発について、自分が記した文だった。
「徴発を止めたそうだな」
アーノルドは顔を上げた。
「止めたのは、同じ村から二度取り立てることです」
広間の端で、誰かが身じろぎした。
王は紙を机へ置いた。
「王都へ運ぶ量が減ったことに、違いはあるまい」
「はい。ですが、その村は、すでに割り当てられた分を納めておりました。受取書と、運んだ者の証言を確かめています」
「では、王都の兵を飢えさせろというのか」
「そのようなことは申し上げておりません」
「今ここへ、どれだけの者を集めねばならぬと思っている。西の城は失われ、残る諸侯も兵を惜しんでいる。南から戻ったそなたまで、荷を減らしてどうする」
王の声が、広間へ響いた。
アーノルドは、自分の持ってきた記録を差し出した。
侍従が受け取り、王の前へ運ぶ。
「同じ村へ、役所と軍から別々に命令が届いておりました。すでに受け取った物が記録へ加えられていなければ、足りぬと判断する量も違ってまいります」
「帳面の話を聞いているのではない」
「兵を養うための話です」
王の手が止まった。
アーノルドは、言葉を続けた。
「持ち出せるだけ持ち出せば、今日の荷は増えます。ですが、村が食べる物まで失えば、その者たちも王都へ来ます。門の外には、すでに家財を積んだ車が並んでおりました」
重臣の一人が、目を伏せた。
「兵の食料を集めるために、養わねばならぬ者を増やしては、いつまでも足りません。徴発を命じる先と、すでに受け取った分を、先に揃える必要がございます」
王は記録を見た。
しばらくして、隣の重臣へ渡す。
「調べさせよ」
「承知いたしました」
それで、話が終わったように見えた。
だが、王はアーノルドへ視線を戻した。
「連れてきた兵は、二百と聞いた」
「はい」
「南に、残し過ぎたのではないか」
「カルディア軍が、なお城の近くにおります。私が去ったと知れば、動く恐れがございます」
「王都の危機よりも、南の城が大事か」
アーノルドは、ゆっくりと息を吸った。
「南の城が落ちれば、敵が王都へ近づく道が増えます。王都を守るためにも、残す必要があると判断いたしました」
王は肘掛けへ手を置いた。
王は怒鳴らなかった。その静かな問いかけに、アーノルドはかえって強い圧力を感じた。
「では、そなたは何をしに戻った」
広間が静かになった。
南に兵を残し、途中で徴発を減らし、二百だけを連れて戻った将。
王から見れば、必要な物を何一つ持ってこなかったように思えるのかもしれなかった。
アーノルドは、膝をついた姿勢のまま答えた。
「残る兵と、この国を守るために」
「ならば、王都を守れ」
王の返事は早かった。
「城壁へ兵を置き、敵を止める。そなたには、その指揮を任せる」
アーノルドは黙って王を見た。
命じられたことは、できる。
門を固め、兵を配置し、弱い場所へ備えを置く。敵の攻め方を読み、持ちこたえるために手を打つ。
だが、その先に何がある。
王都を救う援軍は、どこにいるのか。
長く耐えた後、何が変わるのか。
アーノルドは、村の倉を思い出した。
空いた床と、残った袋。
そして、敵から渡された兵の名簿。
「陛下」
王が、僅かに顎を上げた。
「守りを整える前に、お聞きいただきたいことがございます」
「申せ」
アーノルドは、一度だけ頭を下げた。
次に顔を上げた時には、王から目を逸らさなかった。
「グランヴァルトとの戦を終えるため、降伏を御決断いただきたく存じます」
誰も動かなかった。
王の指が、肘掛けを強くつかんだ。
第十七話を読んでいただき、ありがとうございました。
王命に従うことと、兵や民を守ること。その間で、アーノルドは自らの責任で一歩を踏み出しました。
王都へ戻った彼の進言に、国王はどう応えるのでしょうか。
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