第十四話 傾く日と、崩れる塔
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城壁を挟み、それぞれの思いが交錯します。
城門から戻ってきた使者は、馬を下りると、兜を脇に抱えてレオンハルトの前へ進んだ。
「城主より、返答には今しばらくの時間をいただきたいとのことです」
「いつまでだ」
「時刻は示されませんでした。城内に入った諸侯の意見をまとめる必要があると」
レオンハルトは、東にそびえる城壁へ目を向けた。
昨日、その手前を埋めていた敵の軍勢は、もういない。槍を並べていた場所には折れた柄が残り、馬が駆け抜けた畑には深い蹄の跡が刻まれている。倒れた兵の収容は夜の間も続けられ、今も担架を運ぶ者が街道を横切っていた。
城壁の上には兵がいる。
こちらを見下ろす顔と、胸壁の陰に隠れる兜が、朝から同じ場所にあった。
「城主とは会えたのか」
「はい。ただ、昨日の敵将も同席しておりました。城主が口を開こうとすると、先に答えることが何度か」
「何と言った」
「この城は野原とは違う、と」
レオンハルトの口元がわずかに動いた。
「それは見れば分かる」
使者が下がると、マティアスは机に広げた紙の端を押さえた。風にめくれかけた紙には、夜明けまでに集めた各隊の報告が並んでいた。
「城主だけでは決められないようですね」
「決めさせてもらえんのだろう」
レオンハルトは椅子に腰を下ろさず、机の前に立ったまま尋ねた。
「こちらはどうだ」
「兵を動かす割り振りは、できています」
マティアスが紙へ指を置く。
昨日の戦いを終え、本隊とユリウスの合流部隊を合わせた戦闘可能な兵は、一万七千三百七十六人となっていた。その中には、アレクの指揮する鉄砲隊九百六人も含まれている。
「捕虜と負傷者の保護に三千。西の街道と荷駄の行き来、周囲の警戒に二千を回します。城の西へ歩兵を中心に七千、南へ歩兵と騎兵を合わせて四千。鉄砲隊九百六人は西側にまとめ、残る四百七十人を本陣と大砲の警護に当てます。伝令に出す者も、その中から確保します」
「捕虜を動かせるか」
「歩ける者から後方へ送る準備はしています。ただし、一度には難しいでしょう」
六千九百八十人。
負傷者を含む捕虜の数は、護衛を添えて歩かせれば済む規模ではなかった。食べさせ、水を飲ませ、誰の隊にいた者かを確かめなければならない。昨日までの将と兵をそのまま一緒にしておけば、命令一つで再び集団になる恐れもある。
すでに捕虜は隊ごとに分けられ、指揮していた者は別の場所に置かれていた。武器は離れた場所へ集め、負傷者を寝かせる区画には水と布が運ばれている。
「三千人を配置しても、交代で休ませることを考えれば、余裕があるとは言えません。城から兵が出れば、そちらへの備えも必要になります」
「分かった。後ろを薄くするな」
「はい」
アレクは紙に記された数字を見ていた。
昨日は敵の軍勢を破った。追ってきた騎兵を止め、歩兵の攻勢を崩し、最後には大勢が武器を捨てた。
その結果、動かせる兵が増えたわけではなかった。
敵を捕らえた場所にも、味方が倒れた場所にも、兵を残さなければならない。城へ向かう者だけを数えれば、勝つ前より軍が小さく見えるほどだった。
「アレク」
マティアスに呼ばれ、顔を上げた。
「鉄砲隊の補充はどうなっている」
「昨日使った分は、各隊へ渡しています。銃の点検も進めていますが、まだ清掃を終えていない者は後ろで作業させています」
「全員を立たせておく必要はない。交代で休ませろ。ただし、動くよう命令が出たら、すぐに集まれるようにしておくんだ」
「はい」
レオンハルトが城壁から目を戻した。
「飯も食わせろ。腹を空かせたまま門を見ていても、開きはせん」
アレクが一礼して本陣を出ると、街道の脇に腰を下ろしている兵が見えた。
一人が堅いパンを両手で割っていた。隣の兵は器を膝に載せ、湯気の薄くなった汁を口へ運んでいる。
城の方で何か音がした。
二人とも手を止めた。器を持ったまま立ちかけた兵へ、近くの隊長が声をかける。
「車を動かしただけだ。見張りがいる。食えるうちに食っておけ」
兵は座り直したが、その顔はまだ城へ向いていた。
アレクは足を緩めた。
昨夜は、勝利を喜ぶ声も聞こえていた。それでも、敵のいる城壁を前に朝を迎えた兵たちは、再び警戒を続けなければならなかった。
鉄砲隊のいる場所へ向かう途中、荷車の陰からギルベルトが出てきた。
「城は開きますか」
「まだ分からない。話し合っているそうだ」
「こちらを待たせている間に、兵を並べ直しているのかもしれませんな」
ギルベルトは、火縄銃を手入れしている兵たちへ目を向けた。
「昨日はよく働きました。今日も必要なら動かせますが、休めるなら休ませてやりたいところです」
「交代で休ませる。食事も済ませてくれ」
「承知しました」
兵の一人がアレクに気づき、立ち上がろうとした。
アレクは手で制した。
「そのままでいい。先に食べてくれ」
兵は頭を下げ、再びパンへ目を落とした。その腰の弾薬箱には、新たに渡された一発筒が収められている。
昨日、その箱を開いていた時には、敵が迫っていた。
今日はまだ開く必要がない。
このまま済めばよいと、アレクは思った。
◇ ◇ ◇
城の広間には、夜の間に作られた名簿が積まれていた。
城主はその一枚を持ち上げた。
「三千余り。それだけなのだな」
「今朝までに、隊として集められた者です」
家臣が答える。
「負傷して兵舎や倉へ運ばれた者は、別に数えております。まだ所属を確かめていない者もおりますが、すぐ城壁へ上げられる者は多くありません」
昨日まで一万六千を数えた野戦軍のうち、この城で再び武器を持って並べられたのは、その程度だった。
ほかの者が全員死んだのではない。東へ逃れた者も、捕らえられた者もいる。主君を見失い、村や林へ散った者もいるだろう。
だが、今ここで城を守る兵にはならない。
城にもともといた二千を合わせれば、五千余りになる。それだけいれば城壁へ兵を置くことはできた。
城主は紙を机へ戻した。
「この兵で守るとして、いつまで守る」
「敵が退くまでです」
向かいに座っていた将が答えた。
鎧には、昨日の泥が乾いてこびりついていた。脇へ置いた兜の縁には傷があり、肩に当てられた布から薬の匂いがする。
「敵も無傷ではありません。大勢の捕虜を抱え、自軍の負傷者の手当ても必要でしょう。こちらは城壁に守られている。野で戦う時と同じようにはいきません」
「それで、何日後に援軍が来る」
将はすぐには答えなかった。
城主は続けた。
「王都へ送った使者は戻っていない。東の城から兵が来るという知らせもない。敵が先に疲れるまで、こちらが持ちこたえられると言うのなら、その根拠を聞きたい」
「今、門を開けば、王都への道を渡すことになります」
「昨日、その道を守るために出たのではなかったか」
将の顔がこわばった。
広間の端にいた騎士が姿勢を変えたが、口を開く者はいなかった。
城主は窓の外へ視線を移した。
城内の道には、兵だけでなく住民も集まっている。昨日、敗れた軍が門へ押し寄せた時から、自分たちがどうなるのかを聞こうと、何度も屋敷の前まで来ていた。
食料を売る店は戸を半分だけ開き、荷車を持つ者は家財を載せたまま動けずにいた。
東の門を開ければ、逃げたい者が殺到する。その中へ兵が紛れれば、もう引き戻せない。
だからと言って、すべての門を閉ざし、何も告げずに待たせ続けることもできなかった。
「住民は、兵糧を何日分残せばよいかと聞いている。兵の妻は、夫を門へ立たせたままにするのかと聞いている」
「戦の最中です。耐えてもらうほかありません」
「何を待って耐えるのかと聞いているのだ」
将が椅子を引いた。
「ここを渡せば、我々は陛下に何と申し開きをするのです」
城主は相手を見た。
初めて、答えに近い言葉が出た気がした。
将はその視線に気づいたのか、机に置いた手を握った。
「私一人のことではありません。この城が開けば、周りの領主も続きます。まだ戦える城まで門を開くでしょう」
「その者たちへ、我々と共に死ねと命じる権限が、私にあるとは思えん」
「では、黒獅子にすべて差し出すのですか」
「条件を聞くと言っている」
扉が開き、衛兵が入ってきた。
「城主様。新たな使者が、西門へ到着しております」
「またか」
将が低く言った。
衛兵は城主だけを見て続けた。
「マティアス・クレーマー伯爵と名乗っております。グランヴァルト王の言葉を直接伝えると」
広間の空気が変わった。
城主は椅子から立ち上がった。
「通せ」
◇ ◇ ◇
マティアスが広間へ入ると、城主は立って迎えた。
武器は門で預けてきている。後ろに従う者も少なく、鎧を鳴らして相手を威圧するような歩き方はしなかった。
それでも、広間の者は皆、入ってきた男へ顔を向けた。
「お待たせしております」
城主が言うと、マティアスは軽く頭を下げた。
「クレーマー伯爵です。陛下のお言葉をお伝えします」
勧められた椅子には座らず、城主の前で足を止める。
「『いつまで待てばよい。これ以上の引き延ばしは、我が軍への足止めと受け取る。日が西へ傾くまでに返答せよ。返答がなければ、実力をもって城を開かせる』。以上です」
城主の隣で、将が顎を上げた。
「こちらにも事情があります」
「承知しています。そのため、朝からお待ちしています」
マティアスの声は変わらなかった。
「ただ、城内で話がまとまらない間も、こちらの兵は城へ備えていなければなりません。いつまで待つのか分からないままにはできません」
「攻めれば、そちらにも損害が出る」
「ですから、その前に返答を求めています」
将が言葉を切った。
マティアスは城主へ向き直った。
「武器を置いた兵と住民は保護します。兵の略奪も認めません。門を開いていただければ、こちらから入る部隊と引き渡しの手順を定めます」
「兵たちを殺さないと、約束していただけますか」
「降伏したという理由で殺すことはありません。ですが、それまでに何を命じ、何をしたかについては、調べることになります」
「領地と家は」
「この場で安堵のお約束はできません」
城主は息を吐いた。
隣の将が、すぐに言った。
「聞かれたでしょう。門を開いた後で、どうとでもできるということです」
マティアスは相手を見た。
「約束できないことまで、できるとは申しません。陛下にお伝えするご事情があれば伺います。ただし、そのお話が済むまで期限が延びるわけではありません」
城主はしばらく黙っていた。
外から荷車の車輪がきしむ音が聞こえた。誰かが道を空けるよう怒鳴っている。
「もう少しだけ、時間をいただけませんか」
「お伝えした時刻までに、お決めください」
「兵の主が、一人ではないのです」
「それでも、この城をどうするかは、お決めにならなければなりません」
マティアスは窓の向こうへ一度目を向けた。
「もう一つ。軍の施設の周りから、住民を離してください。抗戦を選ばれる場合にも、家族を兵の持ち場へ集めないように」
城主の顔から、かすかな血の気が引いた。
「城内を攻めるということですか」
「返答がなければ実力行使に移る。そのために来ました」
声を荒らげることも、机を叩くこともなかった。
城主は、その方が恐ろしいと思った。
怒りに任せて言っているのなら、なだめる余地がある。目の前の男は、何を伝え、何を約束しないかを決めた上で来ていた。
マティアスが退出すると、城主は家臣を呼んだ。
「兵舎と武器倉、それに見張り塔の周りから、住民を離せ。広場にある荷車も移すように」
「城主殿」
将が呼び止めた。
「今そんな命令を出せば、兵が怯えます」
「住民を置いておけば、兵が強くなるのか」
城主は振り返らずに言った。
「急がせろ」
◇ ◇ ◇
マティアスが帰陣した時、四門の大砲は、城の南西に広がる乾いた畑の縁へ移されていた。
低い畦の先は地面が固く、城壁の上部を見通せる。そこへ向かう道から荷車を退け、砲を引いてきた馬は後ろへ下げられていた。
西門に備える歩兵の列は、大砲の前を塞がない位置で止まっている。南へ回った部隊との間にも、伝令と兵が通れる道が残してあった。
アレクは砲の横から城を見ていた。
高い塔が一本、城壁の内側から突き出している。下は石で積まれ、その上に木組みの楼上と屋根が載っていた。城外を見る兵の姿が、開いた窓の間に小さく見える。
昨日も、あそこから旗が振られていた。
「門から見えた範囲では、塔の下は兵の使う広場だ」
戻ったマティアスが、レオンハルトへ報告した。
「街の家並みとは離れています。ただし、荷車や、兵へ物を届けに来た者はいました。住民を離すよう伝えてあります」
「城主は動かすか」
「家臣を呼びかけていました。何もしないつもりではないでしょう」
「門は」
マティアスは首を横に振った。
「今のところ、開けるという返答はありません」
レオンハルトは塔を見た。
「まだ、あの男が止めているか」
「城主は条件を聞こうとしていました。ですが、隣から口を挟まれる。責任を負って開く決心が、まだついていないようです」
「代わりに決めてやるわけにもいかんな」
そう言って、レオンハルトは本陣へ戻るよう指示した。
待つ時間は残っていた。
アレクはギルベルトを呼び、鉄砲隊を確認した。
「九百六人、集まれます」
「今は休ませておいてくれ。動かす時は、大砲の後ろから左右へ出せるようにする。射撃の命令が出るまでは撃たない」
「承知しました」
ギルベルトは城門を見た。
「出てくれば、こちらで止めます」
「頼む」
アレクの声を聞き、近くの兵が火縄銃の木台を握り直した。
その手には、昨日までなかった布が巻かれている。
「怪我をしたのか」
「擦っただけです。動かせます」
兵は指を開いて見せた。
アレクは頷いたが、布の下がどうなっているのかまでは分からなかった。
列の後ろには、空いた場所があった。
人数を数え直し、班を整えれば、列は埋まる。それでも、一緒に立っていた者がいなくなったことを、隣の兵まで忘れるわけではない。
アレクは城へ顔を向けた。
門の上に動きがあった。兵が一人走り、別の者へ何かを伝えている。
待っていたが、門は動かなかった。
昼を過ぎると、荷駄の方からロベルトがやって来た。
「砲弾は、すぐ使える分を運ばせた。残りは後ろだ」
「ありがとう」
「礼なら、道を空けた兵に言ってくれ。昨日の担架と今日の荷車が同じところを通るから、詰まりかけていた」
ロベルトは砲と城を交互に見た。
「門を開ければ済むのにな」
「中で話がまとまらないそうだ」
「こちらの飯まで、向こうの話し合いに合わせて増えるわけじゃない」
軽く言ったが、その顔は疲れていた。
捕虜にも水を配らなければならない。昨日の勝利で手に入れた荷があっても、そのまま配れるとは限らなかった。誰かが確かめ、数え、運ぶ必要がある。
ロベルトは、後ろから呼ばれると片手を上げた。
「また来る。使ったら、数を知らせてくれ」
アレクが頷くと、ロベルトは足早に戻っていった。
城から返事はなかった。
◇ ◇ ◇
西日が、城壁の石の継ぎ目に影を作り始めていた。
レオンハルトは本陣の前へ出た。
「使者は」
「来ていません」
見張りの兵が答える。
城の上では、依然として旗が動いていた。弓を持った兵が胸壁の間を移り、門の後ろからは木を引きずるような音がかすかに届いていた。
何をしているのかまでは分からない。
だが、門を開く準備には見えなかった。
レオンハルトはアレクを呼んだ。
「アレク。あの見張り塔を落とせ」
指した先を確かめ、アレクは一度口を閉じた。
塔は見える。石の下部も、木組みの楼上も見える。
その下に、今、誰がいるかは見えない。
「陛下」
「何だ」
「塔の周りに住民が残っていれば、巻き込む恐れがあります」
言ってから、アレクは自分の声が小さくなったことに気づいた。
レオンハルトは怒らなかった。
「ああ。その恐れはある」
塔から目を離さずに答えた。
「だから、離すように伝えた。時間も与えた」
「はい。ただ、全員が離れたかどうかは……」
「こちらからは分からん」
レオンハルトはそこでアレクを見た。
「お前の気持ちは分かる。俺も、住民を巻き込むために撃たせるのではない」
後ろで、兵が馬を引いていた。鞍を下ろしきらず、すぐ乗れるようにしている。
レオンハルトはその方へ目を向けた。
「だが、ここは敵の領内だ。今、別の軍が現れたらどうする。西の街道を断たれたら、負傷者と捕虜をどこへ動かす」
アレクは答えなかった。
「城も街道も押さえてきた。それでも、好きな道を選んで帰れるわけではない。兵糧を運ぶ道も、負傷者を戻す道も、守りながら使っている」
「はい」
「敵はこの土地を知っている。逃げ込める場所も、助けを求める相手もいる。こちらの兵は、隊を離れれば、それだけで危うい」
レオンハルトの視線が、城を見張る歩兵の列をなぞった。
「国境を越えてから、何度、安心して眠れたと思う」
アレクは、パンを割る手を止めた兵を思い出した。
器を持ったまま立ちかけた兵も。
「昨日は戦った。今日は門が開くかと待っている。城から兵が出れば、また槍を持たねばならん。休めと命じても、城の上から見られていれば、気は抜けん」
レオンハルトは塔へ向き直った。
「城の中で話がまとまらんというだけで、いつまでも付き合わせるわけにはいかん」
アレクはゆっくり息を吸った。
城の住民を心配することと、こちらの兵を心配することは、どちらかを選べばもう一方が消える話ではなかった。
待てば誰も傷つかない。
そう言える状況ではないことは、分かっていた。
「塔を狙います」
アレクは答えた。
「家並みへ向けず、見えている楼上を」
「任せる。命じたのは俺だ」
アレクは一礼し、大砲へ向かった。
◇ ◇ ◇
砲手たちは、アレクが戻ると手を止めた。
「一門で、あの塔を撃ちます」
アレクが指した先へ、砲手の長が目を向ける。
「あの木組みのところですか」
「はい。ほかの三門は、命令があるまで撃たずに待ってください」
「承知しました」
アレクはギルベルトにも伝えた。
「鉄砲隊は、城から兵が出た時に備えてくれ。門が動いただけでは撃たない。降伏の使者が出てくるかもしれない」
「旗と武装を確かめます」
九百六人の鉄砲隊が、大砲の後方で列を整えた。
前へ出れば射撃に移れるが、まだ火蓋は閉じられている。城の西に展開した歩兵も、盾を構えたまま待っていた。
アレクは一門の砲へ近づいた。
大きな鉄の塊が、木の砲架に載っている。運んできた者たちが地面を確かめ、砲手が持ち場を整え、ここまで進めてきたものだった。
手を触れると、冷たさが掌へ伝わった。
塔へ意識を向ける。
薄い線が、視界の中に現れた。
砲の向いている先から伸び、空を横切っていく。アレクが狙おうとする場所に合わせて、その線を確かめた。
城壁の石へ吸い込まれるように見えた線を、塔の上部へ移す。
砲手へ短く指示を出し、向きを直してもらった。
手を離すと、線は薄れていった。
もう一度触れ、塔を見る。
見えるのは、そこまでだった。
弾が当たった後、どの梁が折れるのか。落ちた木がどこまで転がるのか。その下に人がいるのか。
何も分からない。
アレクは塔の窓を見た。
人影が動いた。
あそこには兵がいる。こちらを見ている。
相手が敵兵だからといって、何も感じなくなるわけではなかった。
「子爵様」
砲手の長に呼ばれ、アレクは顔を向けた。
「準備はできております」
職人も、砲の後ろから頷いた。
アレクは手を離し、砲の脇を退いた。
近くにいた兵が下がり、砲手だけが持ち場に残る。後ろからレオンハルトが見ていた。マティアスも、その隣に立っている。
城へ目を戻した。
白い旗はない。
門も閉じたままだった。
アレクは右手を上げた。
塔の上にいた兵が、胸壁の向こうへ身を乗り出したように見えた。
振り下ろす。
「撃て!」
轟音が、畑を震わせた。
砲が後ろへ跳ね、白い煙が一気に広がる。アレクの胸を音が叩き、耳の奥に重い響きが残った。
煙の向こうで、塔の木組みが弾けた。
木の破片が外へ飛び出し、楼上の一角が崩れる。屋根が一度沈み、それから片側へ大きく傾いた。
支えていた木組みが、傾いた屋根に引かれるように裂けた。
窓の並んでいた部分が消えた。
遠くから、遅れて裂けるような音が届く。
塔の上部が大きく傾き、石の下部へぶつかりながら崩れ落ちた。屋根板と太い木が落ち、塔の根元から土埃が噴き上がる。
風を受けていた旗が、屋根と一緒に沈んだ。
残ったのは、上を失った石の塔と、宙に突き出した折れた木だった。
誰かが息を呑んだ。
アレクは、その声が味方の兵のものだと気づくまで、少し時間がかかった。
「命中」
砲手の長が低く言った。
アレクは返事をせず、崩れた塔を見ていた。
目の前の砲からは、まだ煙が流れている。
ほかの三門は、一度も撃っていなかった。
◇ ◇ ◇
城壁の兵は、最初、城門が撃たれたのだと思った。
音に肩をすくめ、石の陰へ身を伏せる。
その直後、後ろで悲鳴が上がった。
振り返った兵の目に、屋根が落ちてくる光景が飛び込んだ。
毎日見上げていた塔だった。
交代を告げる旗が上がり、遠くの街道へ敵が現れれば、真っ先に知らせが届く場所だった。
その屋根が、横を向いて落ちていた。
「下がれ!」
広場の兵が叫んだ。
塔の周りからは、城主の命令で荷車が移されていた。物を届けに来た住民も、兵に促されて家並みの方へ下がっている。
それでも、兵は残っていた。
飛び散った木片に盾をかざす者がいた。倒れた仲間の襟をつかみ、引きずって離れる者がいた。土埃の中から誰かが這い出し、その腕を二人が引いた。
城壁の兵は、塔と城外を交互に見た。
畑の縁に、煙が広がっている。
そこから顔を出したのは、一門だけではなかった。
「四つ……」
隣の兵が呟いた。
砲口が、こちらを向いていた。
塔を崩したものの隣に、まだ同じものが三つ並んでいる。
門を破られた城の話は聞いていた。新しい大砲が、木の門を打ち抜いたという。
だが、門は低いところにある。兵が寄り、道具を使えば壊れることもある。
塔は違った。
高い場所にいれば、少なくとも城外の歩兵からは届かない。そう思っていた場所が、目の前で消えた。
「次はどこだ」
誰も答えなかった。
弓を握った兵が胸壁の陰へ座り込む。隊長が立てと怒鳴りかけたが、城外に並ぶ大砲を見て、自らも言葉を失った。
まだ三つある。
その事実が、誰の目にも見えていた。
広間では、窓枠が震えた。
城主が駆け寄った時には、塔の上部はもうなかった。埃が屋根の間を流れ、叫び声が城内を走ってくる。
将も窓へ来た。
しばらく、二人とも何も言わなかった。
扉を開けて入ってきた家臣が、息を切らして報告した。
「見張り塔が……楼上が崩れました。下にいた兵を運び出しております」
「住民は」
「離すよう命じておりましたが、全員の確認はまだできておりません」
城主は目を閉じかけ、すぐに開いた。
「人を出せ。崩れた木の下を調べさせろ。火は」
「今のところ、上がっておりません」
「水も用意しておけ」
「はっ」
家臣が走り出ていく。
城主は将へ向き直った。
「門を開く」
「まだ、塔を一つ失っただけです」
言葉が終わるより先に、外から別の叫び声が届いた。
城主は窓の外を指した。
「あれが、兵舎へ当たったらどうなる」
「城壁は残っています」
「兵を寝かせた倉へ当たったらどうなると聞いている」
将は唇を引き結んだ。
城主は衛兵の隊長を呼んだ。
「白い旗を上げろ。西門を開く用意をし、使者を出す。降伏すると伝えるのだ」
「門は開けさせん!」
将が声を張り上げた。
「持ち場を離れた者は斬れ! 敵は、こちらが怯えるのを待っているだけだ!」
広間にいた兵が動きを止めた。
将の後ろに控えていた騎士が、剣の柄へ手をかけた。
城主の衛兵も槍を握り直す。
ほんの少し前まで、同じ敵を前にしていた者たちだった。今は、互いの手元を見ていた。
城主は将から目を逸らさなかった。
「剣を預かれ。この城の兵へ命じるのは私だ」
「城主殿。王命で戦っている軍の将に対して――」
「その軍を、この城へ受け入れた。負傷した兵も運び込ませた。できることはした」
城主の声が震えた。
それでも、止めなかった。
「だが、私の城の兵を斬れと命じることは許さん」
衛兵が進み出た。
将の後ろの騎士は、剣を抜かなかった。城主を見て、将を見て、それから柄に置いた手を離した。
将が振り返る。
目の合った騎士は、頭を下げた。
「これ以上は……」
続きは言わなかった。
衛兵が将の剣を外した。
誰も助けに動かなかった。
城主は広間を見渡した。
「抗戦を望む者も、今は武器を預けてもらう。兵に別の命令を出すことは認めん」
椅子に座っていた領主が一人、ゆっくり立ち上がった。
腰から剣帯を外し、机へ置く。
その隣の男も続いた。
城主は衛兵の隊長へ頷いた。
「急げ。もう一発、撃たせるな」
◇ ◇ ◇
「白旗です!」
見張りの声に、アレクは顔を上げた。
西門の上で、白い布が広げられていた。風に取られかけた端を兵が押さえ、長い柄へ結び直している。
レオンハルトが手を上げた。
「撃つな。全隊、そのまま待て」
命令を受けた伝令が走る。
鉄砲隊の列にも声が伝わり、ギルベルトが振り返った。
「待機! 門へ備えたまま動くな!」
門が少し開いた。
出てきたのは、白い布を持った騎士と、武器を持たない数人だった。門の前で一度止まり、こちらの兵に促されて進んでくる。
マティアスが迎えた。
短い言葉が交わされ、騎士は深く頭を下げた。
やがて、マティアスがレオンハルトの前へ戻ってきた。
「降伏します。城主が門を引き渡すとのことです」
「中の将は」
「城主が剣を取り上げ、拘束したそうです。こちらへ引き渡すと」
「城内の兵へ、武器を置く命令は出たか」
「今、伝えています。まず門の兵を下げ、こちらが入れるようにします」
レオンハルトは頷いた。
「城主の使いと、こちらの将を一緒に回せ。命令を聞いていない兵を、いきなり囲むな。ただし、武器を持ったまま集まることは許さん」
「はい」
「先に二千を入れる。西に置いた七千から出せ。八百で門と城壁の持ち場を受け取り、残る千二百で武器倉と広場、井戸を押さえろ。勝手に家へ入るな」
隊長たちが返事をした。
「捕虜の見張りは動かすな。城の兵と、外にいる捕虜を混ぜるな」
レオンハルトは、最後に城内の塔を見た。
「倒れた者の救出は止めさせるな。武器を持っていなければ、先に運ばせろ」
アレクは、その言葉を聞いてから大砲へ向き直った。
「ほかの三門は、撃たずに待機してください。使ったのは一発です。砲の状態を確かめてください」
「承知しました」
砲手が動き出す。
アレクはギルベルトにも、鉄砲隊をその場に残すよう伝えた。門が開いても、すぐに全員が従うとは限らない。城内の兵の武装解除が進むまでは、備えを解けなかった。
西門が大きく開いた。
城主の家臣に先導され、グランヴァルトの歩兵が入っていく。盾を持つ兵が先に立ち、後ろから槍の列が続いた。
歓声は上がらなかった。
城壁の上では、ロスヴァールの兵が弓を置いていた。剣を外し、隊長の前へ並べる者もいる。下りてくる階段の前にはグランヴァルトの兵が立ち、一人ずつ手元を確かめていた。
やがて、門の上へ黒地に金の獅子の旗が上がった。
城外の兵の間から、低い声が広がる。
隣にいた者の肩を叩く兵がいた。盾を地面へ下ろし、長く息を吐く者もいた。
まだ命令は終わっていない。
それでも、城壁の上からこちらへ向けられていた弓が消えたことは、誰にも分かった。
◇ ◇ ◇
城主と、剣を取り上げられた将がレオンハルトの前へ連れてこられたのは、門の引き渡しが始まってしばらくしてからだった。
城主は片膝をつき、頭を下げた。
「返答を遅らせましたこと、お詫び申し上げます。城をお渡しいたします。兵と住民のことを、どうか」
「武器を置いた者を襲わせはせん。兵の略奪も許さん」
レオンハルトは答えた。
「兵の数と、兵糧、武器のある場所を出せ。負傷者を集めた場所もだ。誰が命令を伝えるか、こちらへ知らせろ」
「かしこまりました」
「塔の下は」
「今も探しております。運び出した者の手当てをしておりますが、まだ全員を確かめられておりません」
「分かった。救出に当たっている者の持ち場は、そのままでよい。こちらからも確かめに行かせる」
城主は、もう一度頭を下げた。
レオンハルトは、その隣へ目を移した。
将は顔を上げていた。
鎧は着ているが、腰に剣はない。後ろには二人の兵が立ち、少し離れたところで別の兵が見張っていた。
「まだ戦うつもりだったか」
レオンハルトが尋ねると、将は喉を動かした。
「私は、王命に従っておりました」
「そうか」
「王都へ通じる道を守れと」
「そのために軍を出したのだろう。それは分かっている」
将の目が、わずかに動いた。
レオンハルトは続けた。
「俺と戦ったことだけで斬りはせん。だが、何を命じ、何をしたかは調べる」
将は口を開きかけたが、言葉を出さなかった。
「連れていけ。見張りをつけろ」
兵が将を促した。
ほかの将たちも、武器を預けた上で一般の兵とは別の場所へ移された。そこで一人ずつ、名前と所属の確認が進められた。
城主は立ち上がると、家臣へ指示を出した。
広場へ集める隊、負傷者を残す兵舎、まだ命令の届いていない門。次々と報告が来て、マティアスの指示を受けた者がそれぞれへ向かった。
アレクが城へ入った時には、街道から門までの間に、槍が束ねて置かれていた。
その脇に座る敵兵たちは、ほとんど喋らなかった。足に布を巻いた者が壁へ背を預け、隣の兵から水を受け取っている。
家の戸口には住民がいた。
子どもを後ろへ隠す女と、両手を見えるところへ出して立つ老人。こちらの兵が通り過ぎるたびに、視線が動いた。
アレクは足を止めなかった。
門の中で立ち止まれば、後ろの兵が詰まる。道を空けるよう声をかける隊長に従い、広場の方へ進んだ。
塔が見えた。
城外から見た時より、崩れずに残った塔の石造りの下部が大きかった。その根元に屋根の破片が積もり、折れた木が斜めに突き出している。
兵が数人で木を持ち上げていた。
誰かが下へ潜り、もう一人が腕を伸ばす。
「こちらへ! 足元を空けろ!」
担架が近づいた。
アレクは道の端へ寄った。
運ばれてきた男の顔には、白い埃がついていた。頭に巻かれた布の一部が赤く染まり、片手が担架の縁を握っている。
男の目が、アレクの方を向いた。
目が合ったかどうかは分からなかった。
担架はそのまま通り過ぎ、兵舎の方へ運ばれていった。
「アレク」
声をかけたのは、マティアスだった。
アレクが振り返ると、マティアスは崩れた塔へ目を向けた。
「陛下がお呼びだ。鉄砲隊を入れる場所を決める」
「はい」
返事をしても、すぐには足が動かなかった。
マティアスは急かさず、少し待った。
「……当たりました」
アレクは言った。
「狙ったところに」
「ああ」
「城外からは、下が見えませんでした」
「そうだな」
マティアスは、担架が運ばれていった方を見た。
「ここで何が起きたかは、確かめる。城主にも報告させる」
アレクは頷いた。
「その上で、今は兵を入れる。暗くなる前に、休める場所を作らなければならない」
「分かりました」
二人で歩き出した。
門の方から、味方の兵が入ってきた。昨日から外で城へ備えていた歩兵だった。隊長の指示で道の片側へ寄り、割り当てられた広場へ向かっていく。
一人が兜を少し持ち上げ、額を拭った。
その隣では、盾を背負い直した兵が城壁を見上げていた。上にいるのが味方だと確かめると、肩の力を抜いた。
アレクはもう一度、塔へ目を向けた。
自分の命令で放たれた一発が、あの塔を崩した。
それで門が開いた。
城壁へ梯子をかけることも、狭い門へ兵を押し込むこともなく、味方は城へ入っている。
だが、塔の下では、まだ木を持ち上げる声が続いていた。
アレクはその声を聞きながら、マティアスの後に続いた。
西門の上で、金の獅子が夕日を受けていた。
第十四話を読んでいただき、ありがとうございました。
兵を守るために決断するレオンハルトと、自ら放った一発の重さを受け止めるアレク。それぞれの立場から、戦を終わらせる責任を描きました。
グランヴァルト軍は、さらにロスヴァールの奥へと進んでいきます。
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