第十二話 勝利の向こうの影
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ロスヴァールを巡る戦は、遠く離れた南の地でも続いています。
城を出てから三日目、東へ続く街道の向こうに、白い布を掲げた騎馬が現れた。
先に気づいた斥候が戻り、カスパルの騎兵が道を塞いだ。
騎馬は四頭だった。
鎧を着た者は一人だけで、残る三人は剣を腰へ下げているものの、兜も盾も持っていなかった。
先頭の男が、懐から書状を取り出した。
兵が受け取り、封を確かめる。
そのやり取りを、アレクは街道脇から見ていた。
後ろでは、鉄砲隊が歩いている。
九百三十人。
馬で動く直属の兵も、今は隊の進みに合わせていた。四門の大砲を引く馬のため、坂へ入る前に列を詰め直しているところだった。
レオンハルトの本隊は、一万三千二百五十六人になっていた。
城を守る兵を残すたび、進む列は短くなる。
それでも、街道の先からやってきた四人には、十分に大きな軍に見えたらしい。
書状を渡した男は、列の終わりを探すように後ろへ目を向けていた。
「次の城からです」
カスパルが戻ってきた。
「降伏条件を確かめたいと申しております」
マティアスが手を差し出し、書状を受け取った。
目を通し、レオンハルトへ渡す。
「城主本人ではないのか」
レオンハルトが尋ねた。
「家臣だそうです。条件を持ち帰るよう命じられたと」
「連れてこい」
カスパルが兵へ合図を送った。
ほどなく、使者が街道脇へ通された。
男は膝をつき、名乗った後、城主から託された言葉を述べた。
武器を置いた兵は殺されないのか。
住民の家へ兵を入れ、食料を奪わせることはないのか。
城を渡した後、領主の家族はどう扱われるのか。
レオンハルトは、一つずつ答えた。
すでに降伏した城へ伝えた条件と、変わらない。
家と領地の処遇は裁定するが、降伏したというだけで、その家族を兵の好きにさせることはない。
使者は、何度も頷いていた。
「岩場の城へ入っていた者が、村へ戻っております」
やがて、男が言った。
アレクは顔を向けた。
「あの城の者に会ったか」
レオンハルトが尋ねた。
「はい。家へ帰ることを許され、荷車も返されたと聞きました。兵が車輪を持ち上げ、道へ出すのを手伝っていたとも」
使者の視線が、アレクの後ろで揺れる旗へ移った。
林檎の花と、その周りの五つの蕾。
「その旗の方が、城主と話をされたのでしょうか」
「そうだ」
レオンハルトが答えた。
使者は、アレクへ頭を下げた。
「主から、その話が本当か確かめてくるよう申しつかっております」
アレクは男を見た。
自分が門を出てからも、あの城では暮らしが続いている。
住民が家へ帰り、隣の村で誰かと話し、その言葉が次の城まで届いていた。
「住民の方々が帰るところは、私も見届けました」
アレクは答えた。
「城には守備兵を置いています。住民からの訴えを受ける者も定めました」
「ありがとうございます」
男は、深く頭を下げた。
レオンハルトが書状をマティアスへ渡す。
「同じ条件を書き渡せ。門を開く日時と、兵を集める場所も決めさせよ」
「承知しました」
使者が下がってから、アレクは再び自分の旗を見た。
門の前では、矢の先ばかりが目に入っていた。
あの時の自分に、こんなところまで考える余裕はなかった。
「アレク」
マティアスに呼ばれた。
「はい」
「城で渡した書状の写しを持ってこい。今回も同じ条件だと、使者へ確かめさせる」
「承知しました」
アレクは馬の方へ向かった。
背後では、別の伝令がレオンハルトへ報告を始めていた。
南を進むユリウスの軍からだった。
確保した城へ守備を置き、さらに東へ通じる街道を押さえたという。
戦場で分かれた二つの軍は、違う道を進みながら、同じ王都へ近づいていた。
◇ ◇ ◇
ロスヴァール南方の係争地帯では、朝から弓弦の音が続いていた。
城壁の上へ、矢が突き立つ。
石の隙間へ身を寄せていた兵が、盾を持ち上げた。
「下へ出るな! 壁の陰に入れ!」
アーノルド・フォン・ケッセルハイムの声に、兵が腰を落とした。
その頭上を、矢が越えていく。
城の南側の正面には、カルディア軍の盾が並んでいた。
弓兵が後ろから射かけ、盾を持つ歩兵が少しずつ進む。
門へ近づくための道には倒木を置き、その内側にも柵を組んであった。敵はそれを取り除くたび、城壁から狙われた。
正面だけを見れば、まだ持つ。
門は破られていない。
城壁にも、兵が通れるほどの崩れはなかった。
だが、アーノルドが見ていたのは、敵の正面ではなかった。
右手に続く丘の間で、土煙が上がっていた。
朝には見えなかった旗が、木々の向こうへ消えていく。
隣へ来た副官が、低い声で告げた。
「戻った斥候が申すには、千二百ほどです。騎兵も混じっております」
「西の道か」
「はい。このまま進めば、城の北へ回ります」
アーノルドは頷いた。
カルディア軍は六千。
そのうち三千三百が正面へ出ていた。後ろの陣と荷駄を守る兵が千五百。残る千二百が、西を回っている。
こちらは二千五百。
西へ送った千五百は、戻ってこない。
二つの前哨地から引き揚げさせた兵も、今、城壁に立っている者たちの中にいた。
外へ出して、回り込む敵を追い払う余裕はなかった。
「西の隊を止めるなら、門から打って出るほかありません」
副官が言った。
「出れば、正面の三千に背を向ける」
「では、夜のうちに道へ兵を」
「その兵を出した分だけ、壁が空く」
アーノルドは答えた。
副官は黙った。
城を守るための兵を、城から離さなければ道を守れない。
道を守らなければ、城の兵が閉じ込められる。
敵は、その形を作ろうとしていた。
アーノルドは城壁から下りた。
階段の途中で、腕を押さえた兵が運ばれてくる。
指の間から血が流れていた。
担いでいる仲間の一人が、アーノルドへ気づいて立ち止まりかける。
「止まるな。手当てへ連れていけ」
兵は頭を下げ、そのまま進んだ。
広場には、門へ運ぶための丸太が積まれていた。
その隣では、荷車の車輪を兵が叩いて確かめている。
アーノルドは足を止めた。
「負傷者を乗せる車は」
「用意できております」
荷車を見ていた兵が答えた。
「村の者は」
「城を出たい者は、荷をまとめています。ただ、家へ戻れると思っている者もおります」
「北の城へ向かうと伝えよ。村へ帰れるとは言うな」
「承知しました」
副官が、アーノルドの後を追ってきた。
「閣下」
呼び止める声が硬かった。
「城を退くおつもりですか」
「ああ」
「王命では、ここを守れと」
「覚えている」
アーノルドは歩き続けた。
部屋へ入り、机に置かれた地図を広げる。
城の北には川があり、街道は浅い谷を通って橋へ続いていた。
橋を越えれば、道は再び広くなる。
その先に、次の城がある。
長年奪い合ってきた土地より、一つ内側の城だった。
副官も地図を見た。
「今夜なら、まだ橋へ出られます」
「敵の西の隊が先に着けば、出られなくなる」
アーノルドは言った。
「壁が破られるまで待てば、退くために敵の間を通らねばならん」
「ですが、許しなく城を捨てれば」
「城を失えば、私が責任を負う」
アーノルドは副官を見た。
「ここで兵まで失えば、次の城は誰が守る」
副官は答えなかった。
外では、矢を運ぶ兵の足音が続いていた。
アーノルドは紙を引き寄せた。
王都へ送る報告を書き始める。
守備兵の数。
敵の兵数。
西を回る敵の動き。
城と街道の両方を保てなくなったこと。
自分の判断で兵を退き、次の城で防戦を続けること。
書き終えると、印を押した。
「これを先に出せ」
副官が受け取った。
「お返事を待たずに、ですか」
「待てば、この道を使いが通れなくなる」
アーノルドは地図の橋を指した。
「荷車を先に出す。兵は二千を順に退かせろ。住民に付き添う二百も、その中から出す」
「残りの五百は」
「私と残る」
副官の顔が上がった。
「最後尾を、別の者へ任せては」
「道を塞がれた時、ここに残る兵だけで決めねばならん。私がいる方が早い」
アーノルドは地図を畳んだ。
「倉を燃やすな。運べぬ軍の兵糧は残してよい。火を上げれば、退く時が敵に分かる」
「承知しました」
「住民の荷へ兵を割り込ませるな。ただし、車を捨てねば通れぬ場所があれば、人を先に出せ」
副官が一礼した。
アーノルドは、壁に掛けていた兜を手に取った。
城を守れなかった。
その事実は、何を書いても変わらない。
ならば、せめて、ここへ連れてきた兵を城と一緒に失ってはならなかった。
◇ ◇ ◇
日が落ちても、城壁の火は消えなかった。
兵が歩き、時折、外へ声を掛ける。
正面の敵から見れば、昼と変わらず守備兵が残っているように見えた。
城の裏では、荷車が一台ずつ門を抜けていた。
車輪が石へ当たるたび、兵が手を添える。
泣き出した子供を、母親が抱き上げた。
「もう少しだ」
兵が小声で言った。
「坂を下りたら、車へ乗せてやる」
母親は頷き、子供を抱えたまま歩いた。
負傷者の乗る車は、先に出していた。
その後ろへ住民が続き、荷を運ぶ兵に続き、歩兵の列が動く。
城壁の兵も、一度には下ろさなかった。
一つの持ち場が空くと、隣の兵が少しずつ間を広げた。
火は残す。
声も絶やさない。
敵の陣から鐘が鳴り、夜の見張りが交代する音が届いた。
アーノルドは、裏門の内側に立っていた。
通り過ぎる兵の顔を見る。
煤で汚れた者。
唇を噛みしめている者。
何度も城壁を振り返る者。
この城で、何年も戦ってきた兵がいる。
仲間を埋めた場所も、ここにあった。
「急げ」
アーノルドは言った。
「列を切るな」
感傷に付き合っている時間はなかった。
城壁から最後の兵が下りてきた時、東の空が僅かに白み始めていた。
五百人が門を抜ける。
アーノルドも、その中へ入った。
門の扉を閉じた兵が、走って追いついてくる。
誰も、鍵を掛けには戻らなかった。
◇ ◇ ◇
カルディア軍が異変に気づいたのは、夜明けだった。
城壁の火は残っている。
だが、いつもの場所を歩く兵がいない。
門へ近づいた斥候が戻り、城内の物音が聞こえないと告げた。
正面へ出ていた指揮官は、すぐに兵を進ませた。
門を押した兵が、隙間から中へ入る。
広場には丸太が残され、倉の扉も閉じたままだった。
だが、槍を持って待ち受ける兵はいなかった。
「逃げたぞ!」
声が上がった。
続いて入った兵が、城壁へ駆け上がる。
ロスヴァールの旗が下ろされ、代わってカルディアの旗が掲げられた。
城外で、それを見たカルディア兵が歓声を上げた。
指揮官は、喜ぶ兵へ怒鳴った。
「まだ荷車は遠くへ行っておらん! 北へ追え!」
正面の兵から八百が出された。
西を回っていた隊にも伝令が走る。
そちらの騎兵四百を先行させ、逃げる敵の列を横から押さえる。
追撃に使う兵は、合わせて千二百。
城を退いた敵は二千五百と聞いていたが、住民と負傷者を連れている。
先頭を止めれば、後ろが詰まる。
その間に歩兵が追いつけば、街道の上で崩せるはずだった。
騎兵は、街道へ続く丘を越えた。
朝の光の中に、荷車の列が見えた。
遠い。
だが、その後ろに歩兵がいる。
さらに手前、道の狭まる場所に、盾が並んでいた。
騎兵の先頭が速度を落とした。
左には斜面。
右には、水の流れる浅い谷。
馬を横へ大きく広げて進める場所ではなかった。
盾の上に、弓が見えた。
◇ ◇ ◇
「まだ射るな」
アーノルドは、道の右側から言った。
残した五百のうち、二百の槍兵を街道へ並べていた。
弓兵二百は、道の両側に分けている。
残る百は後ろに置き、崩れた場所を埋め、負傷者を運ぶ役目を与えた。
敵を囲むための配置ではない。
街道を通る者を、正面と横から狙うための配置だった。
騎兵が、こちらを見て止まっている。
勢いのまま突っ込んではこなかった。
アーノルドは、その判断を悪いとは思わなかった。
時間が経つほど、後ろの荷車は橋へ近づく。
敵がためらうだけでも、こちらの役には立った。
やがて、騎兵が道の端へ寄った。
後ろから歩兵が見え始める。
盾を前へ出し、騎兵の間を抜けて進んできた。
追いついた歩兵の先頭、二百ほどだった。
「弓兵、右を狙え」
アーノルドが命じた。
盾を持つ敵兵が、中央へ寄り過ぎていた。
谷に近い側の兵は、足元を気にして、盾を正面へ向けきれていない。
「射よ!」
矢が飛んだ。
敵の列が揺れた。
盾を上げた兵が、隣の者とぶつかる。
後ろから押され、道の端へ足を踏み外した者がいた。
それでも、敵は止まらなかった。
盾を揃え直し、槍を前へ出す。
アーノルドは剣を抜いた。
「槍を下げよ! 前へ出過ぎるな!」
二百の槍兵が、穂先を揃えた。
敵の盾が当たる。
木と鉄のぶつかる音が、谷へ響いた。
先頭の兵が押された。
アーノルドは、その後ろへ寄った。
「左から詰めろ! 道を空けるな!」
予備の兵が動いた。
負傷して膝をついた味方が、腕を引かれて後ろへ運ばれる。
空いた場所へ、別の槍が出た。
敵の歩兵は、次々と追いついてくる。
後ろの騎兵も、斜面を上がれる場所を探していた。
長くは持たない。
アーノルドは、橋の方を見た。
伝令が走ってくる。
息を切らしながら、片手を上げていた。
「荷車は、渡り終えました!」
「兵は」
「先に退いた隊も、ほとんどが対岸へ!」
アーノルドは頷いた。
「弓兵、半分下がれ。次の曲がり角で待て」
百人の弓兵が動いた。
残る百が射かけ、敵の頭を下げさせる。
槍兵は、一斉には背を向けなかった。
後ろの列から少しずつ離れ、道の曲がり角へ向かう。
前に残る盾の間隔が広がり過ぎないよう、アーノルドが声を掛けた。
「まだだ。隣を見ろ」
敵が押してくる。
槍先が盾の縁を越え、味方の肩へ入った。
兵が倒れた。
アーノルドは腕をつかみ、後ろへ引いた。
別の兵が反対側を支える。
「運べ!」
血が手袋へ付いた。
拭く暇はなかった。
後方から角笛が鳴った。
下がった弓兵が、次の持ち場へ着いた合図だった。
「退け! 曲がり角まで走れ!」
槍兵が離れた。
最後まで射ていた弓兵も、弓を下ろして走る。
敵の歩兵が追った。
だが、曲がり角を越えたところで、待っていた百人の弓兵から矢を浴びた。
追撃の先頭が盾を上げ、足を止める。
その間に、アーノルドたちはさらに下がった。
倒した敵を確かめには戻らない。
落ちた武器も拾わない。
前の味方へ追いつき、橋を渡る。
それだけを繰り返した。
最後の兵が橋へ入った時、対岸には、先に退いた歩兵が盾を並べて待っていた。
カルディアの騎兵が、橋の手前まで来た。
だが、狭い橋を越えて、その盾へ飛び込む者はいなかった。
アーノルドは橋を渡り終え、そこで初めて振り返った。
敵の旗が見える。
その後ろに、捨ててきた城があった。
城壁の上で、カルディアの旗が揺れていた。
◇ ◇ ◇
次の城へ入った時、兵たちは声を上げなかった。
門の内側へ座り込む者がいる。
水を受け取り、両手で器を持つ者がいる。
荷車から下ろされた負傷者が、用意されていた建物へ運ばれていく。
アーノルドは、報告を待った。
城を退くまでの防戦と、その後の追撃戦を合わせ、死者二十七。
傷のため戦えなくなった者が八十三。
生きてこの城へ着いた兵は、二千四百七十三人。
そのうち、引き続き持ち場へ出せる者は二千三百九十人だった。
新しい城にも、元からいる守備兵がいる。
だが、アーノルドは、連れてきた者と混ぜて数えさせなかった。
誰を失い、誰が戻ったかを、先に確かめる必要があった。
「追撃してきた敵は、橋の南へ留まっております」
副官が報告した。
「橋を渡ってくる様子は、今のところありません」
「見張りは続けよ。兵は交代で休ませる」
「承知しました」
副官は、まだ何か言いたそうにしていた。
「何だ」
「先に王都へ送った使いから、道中で得た報せが届いております」
アーノルドは顔を上げた。
「西の城が、また一つ落ちたと」
「どの城だ」
副官が答えた。
アーノルドは、地図の上へ目を落とした。
すでに聞いていた場所より、さらに内側だった。
「大砲で門を破られた城の、その先か」
「はい。詳しいことは、まだ」
アーノルドは地図から目を離さなかった。
西へ兵を送った。
そのために、南の城を捨てた。
それでも、西の軍は止まっていない。
手の中で、血の乾いた手袋が軋んだ。
「王都へ、到着した兵の数を送れ」
アーノルドは言った。
「城を退いた理由も、もう一度書く。ここで守りを立て直すには、兵糧と矢が要ると」
「承知しました」
「傷を負った者の数を省くな。まだ槍を持てる者だけを数えて、足りると思われては困る」
副官は、深く頷いた。
アーノルドは窓へ向かった。
下の広場で、住民の女が、兵へ何度も頭を下げていた。
その足元には、眠った子供がいる。
逃がせた者はいる。
逃がせなかった兵もいる。
自分が王へ示せるのは、その両方だった。
◇ ◇ ◇
カルディア軍が城を得た日の午後、広間には酒が運ばれた。
杯は、まだ配られなかった。
指揮官たちが先に集められ、門と城壁の持ち場を割り振られていたからだった。
長く奪い合ってきた城だった。
石壁には古い補修の跡があり、倉の扉には、以前カルディアが支配していた時につけた印も残っている。
兵の中には、その印を覚えている者がいた。
「ようやく取り戻しましたな」
一人の将が言った。
広間の奥に座る総指揮官は頷いた。
だが、笑顔にはならなかった。
「敵将を取り逃がした」
「城は手に入りました」
「兵を二千以上も連れて逃がした。次の城にも、同じ者がいる」
追撃を指揮した将は、口を閉じた。
カルディア側も、無傷ではなかった。
城への攻撃と街道での追撃を合わせ、死者三十九。
傷を負い、当面戦えない者が百七。
六千のうち、動かせる兵は五千八百五十四人になっていた。
書記が部隊ごとの報告を揃え、机へ置いた。
総指揮官は、それを確かめた後、ようやく杯を取った。
「それでも、城を得たことは勝利だ」
周囲も杯を持ち上げた。
「ここを失うな」
短い言葉に、将たちが応じた。
酒を飲み終えたところで、扉の外から声がした。
西方の様子を探らせていた者が戻ったという。
「通せ」
泥の付いた外套を着た男が、広間へ入ってきた。
総指揮官の前で膝をつき、包みを差し出す。
「街道ごとに集めた報告でございます。使いが通れぬ場所があり、遅くなりました」
「グランヴァルト軍か」
「はい」
机の上から杯が退けられた。
地図が広げられる。
男は、総指揮官の許しを得て、城の位置を順に示した。
最初に、野戦の後で門を開いた城。
次に、大砲で門を破られた城。
そして、岩場の上に築かれた城。
「ここもか」
総指揮官が、指を止めた。
「はい」
「いつだ」
「城から戻った住民に、三日前に会っております。その時には、すでにグランヴァルトの守備兵が入っていました」
広間が静かになった。
総指揮官は、隣の将を見た。
「最後に聞いていたのは」
「大砲を運んでいるという話です」
「では、その間に門を破り、さらに先へ進んだのか」
「そのようです」
報告を持ち帰った男は、別の書状も出した。
「南の街道では、別の軍が動いております。こちらでも、城が開いています」
地図の上へ、もう一つ印が置かれた。
西から東へ伸びる道が二本。
グランヴァルトの兵は、一つの城の前へ集まり続けているのではなかった。
野戦でロスヴァールの軍を破った後、別々の街道を押さえながら進んでいる。
「岩場の城まで、大砲で破ったのか」
一人の将が尋ねた。
「いえ。使者が入り、城主が開城を決めたと聞いております」
「砲撃もせずに?」
「はい」
将は、言葉を失った。
城を落とすには、日が掛かる。
兵を並べ、矢を集め、門や壁を崩し、あるいは兵糧が尽きるのを待つ。
その間に、ほかの城が備える。
援軍を集め、街道を塞ぎ、次の戦いに備える。
だが、戦わずに門が開けば、その日数がなくなる。
城の中にいた兵だけでなく、後ろの城が得られるはずだった時間まで失われる。
「いくつか城を取れば、兵を引くのではなかったのか」
誰かが言った。
返事はなかった。
総指揮官は、地図の西側から指を動かした。
まだロスヴァールには城がある。
王都も遠い。
国を失ったわけではない。
それでも、この進み方は、国境の城を二つか三つ取り合う戦とは違っていた。
「黒獅子は、どこで止まるつもりだ」
報告の男は頭を下げた。
「そこまでは、確かめられておりません」
「そうか」
総指揮官は、杯を見た。
先ほどまで、喜ぶための酒だった。
今は、その匂いが妙に強く感じられた。
◇ ◇ ◇
夜の軍議には、城の倉を調べた者も呼ばれた。
残されていた兵糧はある。
井戸も使える。
だが、それだけで、この先へいくらでも進めるわけではなかった。
「ここを守りながら、次の城へ出すなら、千五百は残すべきです」
将の一人が言った。
「門と壁だけではありません。後ろの街道と、渡し場にも兵が要ります」
総指揮官は頷いた。
「動かせる兵は四千三百五十四か」
「はい。負傷者は、ここで手当てを続けます」
別の将が地図を指した。
「敵将が退いた城には、元からの守備兵もおります。すぐ落とせるとは限りません」
「分かっている」
「ならば、ここを固め、しばらく様子を見る方が」
「グランヴァルトとの取り決めがある」
総指揮官は遮った。
「こちらだけ兵を引き、ロスヴァールがまた西へ兵を送れるようにすれば、何のために手を組んだと言われる」
「ですが、我々が欲しかったのは、この土地です」
「ああ」
総指揮官は答えた。
「だからといって、取ったから後は知らぬとは言えん」
誰も、進んでロスヴァールの奥まで攻めたいとは言わなかった。
長年争ってきた土地を、ようやく取り戻したばかりだった。
兵を集めた諸侯も、まずここを確実に押さえたいはずだった。
さらに先へ進めば、守る場所が増える。
兵糧を運ぶ道も延びる。
城を取るたび、その城に兵を残さなければならない。
西の大軍と同じ速さで進む力は、今のカルディア軍にはなかった。
「次の城へは出る」
総指揮官が決めた。
「ただし、門へ兵を重ねて失うな。外の道を押さえ、敵が兵を出せば退ける。攻める場所と時を選べ」
将たちが頷く。
「王都へも報告する。西の戦いは、我々の見込みより早く進んでいる」
書記が筆を取った。
総指揮官は、少し間を置いて続けた。
「グランヴァルトがロスヴァールの王都まで進むつもりなのか、確かめる必要がある」
その言葉を聞いて、広間の一人が地図の向こうを見た。
今は、ロスヴァールの領地だった。
だが、もしそこにある城が、すべて黒獅子の旗へ変わったら。
この城の次に向かい合う相手も、変わる。
今回の勝利を助けた軍が、そのまま新しい隣国の軍になるのだった。
◇ ◇ ◇
カルディア軍が次の城へ姿を見せた時、アーノルドは城壁の上にいた。
街道へ出た敵の先頭が止まる。
その後ろで、兵が左右へ分かれ、陣を置く場所を確かめ始めた。
門へすぐに押し寄せてはこなかった。
「四千を超えております」
隣の兵が告げた。
アーノルドは敵の動きを見た。
前の城で向き合った六千が、そのまま来たわけではない。
取った城と街道へ、兵を残したのだろう。
それでも、軽く扱える相手ではなかった。
「外へ出ている者を戻せ。敵の騎兵へ、荷車を見せるな」
「承知しました」
副官が階段を上がってきた。
手に書状を持っている。
アーノルドは、その封を見た。
王都からだった。
受け取り、開く。
短い文だった。
城を失ったことへの叱責。
退いた兵を用い、次の城を必ず守れという命令。
求めた兵糧と矢については、手配を急がせるとだけあった。
いつ届くのかは、書かれていなかった。
アーノルドは最後まで読み、書状を畳んだ。
「何と」
副官が尋ねた。
「ここを守れと」
「援軍は」
「書かれておらん」
副官の口元が歪んだ。
アーノルドは、書状を懐へ入れた。
「兵には、持ち場を知らせよ。王都への使いは続ける」
「承知しました」
「倉の数も、毎日確かめろ。足りなくなってから申しても、間に合わん」
副官が下がった。
アーノルドは再び城外を見た。
カルディア軍の陣では、杭を打つ音が始まっていた。
すぐには帰らない。
こちらも、ここから兵を動かせない。
西へ送った者たちは、今、どの城にいるのだろう。
まだ、まとまった隊として動けているのだろうか。
アーノルドは、城壁へ手を置いた。
答えのない問いを考えていても、目の前の兵は守れなかった。
「弓兵の矢を数え直せ」
近くの兵へ命じた。
「昨日戻った者と、この城の者で、持ち分が違う。足りぬ隊へ回しておけ」
兵が走った。
アーノルドは、その背を見送った。
◇ ◇ ◇
南部の戦いの報告が、グランヴァルトの本隊へ届いたのは、その数日後だった。
カルディアからの使者は、取り戻した城の名と、さらに先へ兵を進めたことを伝えた。
マティアスは地図を広げ、位置を確かめた。
アレクも、その横にいた。
南部戦線から来た使者の外套には、道の土が厚く付いている。
こちらが一つの城の前で話をしている間にも、遠い場所では別の兵が戦い、城を出ていた。
「ロスヴァール軍は、退いたのですね」
マティアスが尋ねた。
「はい。夜のうちに城を出ました。追撃しましたが、街道と橋で防がれたと聞いております」
「城内の兵は、どれほど残っていたのでしょう」
「二千五百ほどだったとのことです。詳しい損害までは分かりませんが、大半が次の城へ入りました」
マティアスの指が、地図の上で止まった。
使者は、カルディア側がさらに先の城へ圧力をかけていることを説明した。
同じ戦場で合流する話ではない。
南に残るロスヴァールの兵を、西へ動かさせないための戦いだった。
報告を聞き終えたレオンハルトが、使者へ言った。
「協力に感謝する。こちらの進軍も、書状で知らせよう」
使者は頭を下げた。
旅の間の食事と休む場所を与えられ、天幕を出ていく。
アレクは、地図の南側を見た。
「城を捨てても、兵を残したのですね」
マティアスが頷いた。
「退かせた兵で、次の城を守っている」
「王命に背くことには、ならないのでしょうか」
「命令の内容までは分からん。だが、城を失えば、何も言われずには済まないだろう」
マティアスは、使者が残した書状へ目を戻した。
「それでも退いた。追われながら、荷車まで逃がしている」
レオンハルトが椅子へ腰を下ろした。
「退く戦は、誰にでもできるものではない」
アレクは頷いた。
敵へ向かって進む時とは違い、退く兵は、後ろから迫る敵にも気を配らなければならない。
止まれば置いていかれると思い、走れば隣の者が遅れる。
そこで列を保ち、負傷した仲間を運ぶには、命令を出す者だけでなく、その命令を信じて残る兵も必要になる。
マティアスが、天幕の入口にいた従者を呼んだ。
「使者に、もう一つ確かめたいことがある。休もうとしているところを済まないが、もう一つだけと断って聞いてきてくれ」
「何を伺いましょう」
「城を退いた軍を率いていた者の名だ」
従者が一礼して出ていった。
マティアスは、地図へ小さな印を置いた。
西から見れば、まだ遠い城だった。
今すぐ、こちらの前へ現れる将ではない。
それでも、その軍が南に残るか、西へ動くかで、これからの戦いは変わる。
従者が戻ってきた。
「アーノルド・フォン・ケッセルハイムという将だそうです」
マティアスは、その名を繰り返した。
「アーノルド・フォン・ケッセルハイム」
アレクも、地図の印を見た。
まだ顔も知らない。
声を聞いたこともない。
だが、その男が、城を失う責任を負いながら、兵を連れて退いたことは分かった。
「覚えておこう」
マティアスが言った。
地図の西と南に、違う旗の印が置かれていた。
その間には、まだロスヴァールの城が並んでいた。
第十二話を読んでいただき、ありがとうございました。
城を取ったカルディアと、城を捨てて兵を救ったアーノルド。それぞれの判断が、南の戦線を動かしました。
そして、マティアスが一人の将の名を覚えました。
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