第九話 揺らぐ二つの戦線
お読みいただき、ありがとうございます。
川を越えたグランヴァルト軍は、二軍に分かれて城の攻略へ進みます。
一方、西部の敗報は、カルディアとの係争地帯にも届こうとしていました。
川を渡った軍が動き出したのは、戦いを終えた翌日の午後だった。
先に出た騎兵が街道の両側を調べ、逃げた敵兵が潜んでいないか確かめている。その後ろで、歩兵の列が二つに分かれ始めていた。
レオンハルトの前には、斥候の報告を加えた地図が広げられていた。
川から東へ続く街道は、半日ほど進んだ先で枝分かれする。中央の道は内陸の大きな城へ、北と南の道は、それぞれ村や小城を結びながら東へ延びていた。
「逃げた兵は、どこへ入った」
「近くの城へ逃げ込んだ者もおりますが、そのまま東へ向かった者も多く見られます。隊を離れ、村で食料を求めている兵もいるようです」
斥候の報告に、マティアスが地図へ目を落とした。
「城主が受け入れて集めれば、守備兵にはなります。ただ、武器も食料も足りない者まで入れば、城の備蓄を食うことにもなります」
「まとめる時間を与えれば、兵になる」
レオンハルトが言った。
「その前に城を押さえる」
書記官が、各隊から集めた兵数を記した紙を置いた。
戦闘を続けられる兵は、二万九千二百人。
そのすべてを、城へ向かわせるわけにはいかなかった。
川の両岸には負傷者がいる。武器を取り上げた捕虜はおよそ六千人に上り、西へ送り返すにも、行き先と護衛を用意しなければならない。ジークブルクへ続く道も、守りを失えば後ろから断たれる。
「四千二百を後ろへ置く」
レオンハルトが命じた。
「渡り場、荷置き場、捕虜の護送だ。負傷者を運ぶ荷車にも兵を付けよ」
「承知しました」
「残る二万五千を二つに分ける。俺が一万五千で中央を進む。ユリウスは一万で南だ」
ユリウスが一礼した。
「南の街道を押さえ、中央への道を確保いたします」
「城だけを見るな。敵がまとまって向かってきたら、すぐに知らせよ。互いの居場所が分からぬまま進むことは許さん」
レオンハルトは、中央と南の街道をつなぐ細い線へ指を置いた。
村を通る横道だった。荷車が通れる場所と、騎馬しか通れない場所が、斥候の報告によって書き分けられている。
「朝と夕に報せを送れ。途中で敵に道を塞がれたら、別の道を探すより先に、そのことを知らせよ」
「承知しました」
ユリウスが答えると、レオンハルトはマティアスへ顔を向けた。
「マティアスは俺と中央だ。アレクの鉄砲隊も、まとめて連れていく」
「はい。中央の城を押さえながら、北から敵が回り込まぬよう、そちらの道も調べさせます」
アレクは地図の脇で、その指示を聞いていた。
二軍で進めば、一つの城へ全軍を止めずに済む。しかも、本隊は一万五千、別働軍も一万を数える。城へ逃げ込んだ敵が、簡単に外へ打って出られる兵力ではなかった。
ただし、離れて進む以上、敵が一方へ兵を集める可能性はある。川を渡る時のように、隣で戦う味方の旗が見えるとは限らない。二つの街道を結ぶ道と、そこを走る伝令が重要になる。
「アレク」
レオンハルトがアレクを見た。
「九百四十六人だな」
「はい」
「一万五千のうちに含める。城ごとに小分けにして置いていくつもりはない」
「承知しました」
アレクは答えた。
兵が減った分、各班の人数は組み直している。負傷した者の銃や道具も、持ち主と状態を確かめ、修理する物と運ぶ物を分けさせていた。
昨日の射撃で使った弾薬は多い。
後ろから届く分を待つだけでなく、手元の残りで何度戦えるかを知っておかなければならなかった。
「弾薬は」
「今ある分を数え直しました。補給の荷車も本隊に続きます。受け取った分と使った分は、隊ごとに記録させます」
「城壁が見えたからといって、届かぬ場所へ撃つな」
「はい。撃つ必要のある相手を確かめます」
レオンハルトは頷き、次にロベルトを呼んだ。
「中央の荷駄を見よ。城を取った後、その倉から使える物も調べさせる」
「承知しました。鍵と帳簿を持つ者は、先に逃がさぬようお願いいたします」
「人より倉の心配か」
「倉を開けても、中に何があるか分からなければ、運ぶ者が困ります」
ロベルトは真顔で答えた。
「麦と思って積んだ袋が馬の飼料では、兵が怒りますので」
張り詰めていた天幕の中で、誰かが短く笑った。
レオンハルトも口元を緩めたが、すぐに地図へ視線を戻した。
「取った城へ残す兵は、その都度数えよ。守備を置いた分だけ、先へ進む兵は減る。足りぬなら足りぬと申せ」
「はい」
命令が書き留められていく。
アレクが天幕を出ると、マティアスが後ろから声をかけた。
「アレク」
「はい」
「城へ入る時は、城壁の上だけでなく、門を開けた者の顔も見ておけ」
アレクは振り返った。
「降伏した者を、ですか」
「何を心配しているか、分かることがある。兵を失うことか、家を失うことか。それとも、こちらが約束を守らないことか」
マティアスは、街道へ向けて整列する本隊の兵を一度見た。
「門を開けさせても、その後で揉めれば兵を残すことになる。従わせ方を誤れば、次の城も余計に戦う」
「覚えておきます」
「何でも一人で引き受けるな。許されていない約束もするな」
「はい」
マティアスは頷き、従者から馬の手綱を受け取った。レオンハルトの近くへ戻るその背を見送り、アレクも自分の隊へ向かった。
林檎の花と、その周りに五つの蕾を描いた旗が、街道の風に揺れていた。
◇ ◇ ◇
中央の街道にある最初の城は、石造りの塔と、それを囲む低い城壁を備えていた。
街道を見下ろす小さな丘にあり、門へ続く道は途中で一度折れている。周囲の畑からは作物を刈り取った跡が見えたが、働く者の姿はなかった。
先行したカスパルの騎兵五百人が、城から東へ出る道を見張った。
残る本隊が西側の平地へ到着すると、城壁の上に並んだ兵が動き始めた。
弓を持つ者が増える。
門の上へ旗が掲げられ、内側から木を打ち付ける音が響いた。
アレクは鉄砲隊を、城壁から十分に離れた場所で止めた。
「ギルベルト。隊長たちへ伝えてください。指示が出るまで射撃の準備はさせません」
「承知しました」
城壁の上から見れば、こちらの銃も新型火槍に見えるのだろう。
兵が指を差し、隣の者へ何かを伝えている。
アレクは馬を下りた。
あの城壁を越えて兵を入れるには、門を破るか、壁へ取り付くかしなければならない。野戦と同じように射撃を重ねても、それだけで城が取れるわけではなかった。
レオンハルトの使者が、城へ向かって進んだ。
護衛は少数にとどめ、攻め込む動きは見せない。
城壁から返事があり、使者は門の手前で止められた。
しばらくして、小さな通用門が開いた。
城の中へ入った使者を見届けると、レオンハルトは馬から下り、折り畳みの椅子へ腰を下ろした。
「陛下。城内は、元の守備兵が三百ほど。川から逃げてきた兵が二百ほどと聞いております」
報告したのは、城下の住民から話を聞いてきた斥候だった。
「五百か」
「ただし、逃げ込んだ者の中には負傷者もおり、すべてが戦えるとは限りません」
「東へ逃げる道は」
「カスパル殿が見張っております。大勢で出れば分かります」
レオンハルトは城へ目を向けた。
「返事を待つ」
兵を壁へ走らせる命令は出なかった。
◇ ◇ ◇
「門を開ければ、王への反逆になる」
城主は、使者が置いていった書状を机へ押しつけた。
近くの窓から、黒地に金の獅子を描いた旗が見える。
その後ろには、街道を埋めるほどの兵が続いていた。
「ここは王国の城だ。敵が来たからといって、すぐに渡せるものか」
部屋には家臣と守備隊長、それに川から逃れてきた隊長がいた。
敗残兵の隊長は、左腕を布で吊っている。肩の辺りには血が滲み、椅子に座ることを許されても、傷が痛むのか、背もたれに体を預けられずにいた。
「東へ使いは出した。援軍が来るまで持ちこたえればよい」
城主の言葉に、誰もすぐには答えなかった。
守備隊長が口を開きかけ、また閉じた。
「どうした」
「……城内へ入った者を合わせても、五百ほどです。壁へ並べられる者は、それより少なくなります」
「城へ籠もれば、それ以上を相手にできる」
「それは、援軍が来るまで守るのであれば、でございます」
「だから、その援軍を待つと言っている」
城主の声が大きくなった。
腕を吊った隊長が、ゆっくりと顔を上げた。
「恐れながら」
「何だ」
「援軍を待つと仰せですが、その援軍になるはずだったのが、我々です」
部屋が静まった。
窓の外から、角笛が聞こえる。
城主は隊長を見た。
「本隊は退いたのだろう。まだ兵はいる」
「おります。ただ、私には、誰がどこへ集まるのか分かりません」
隊長は、机の上へ右手を置いた。
「丘へ戻れと命じられました。しかし、丘の下には敵の騎兵が入り、戻る道を塞がれておりました。次に東へ退けと聞いた時には、隣にいた隊の旗も見えませんでした」
「それでも、指揮官は生きている」
「はい。ですが、兵を集め、武器と食料を与え、ここへ戻るには時間が要ります」
隊長の目が、窓へ向いた。
「黒獅子は、その前に来ました」
城主は書状を見下ろした。
門を開き、兵の武器を収めること。
城内の兵数と、兵糧、武器の保管場所を申告すること。
従う者に対する殺害と略奪は禁じる。
城と軍需の品は接収するが、兵や住民の私物を勝手に奪わせない。
領地や身分の処遇は、別に裁定する。
城主の地位をそのまま認めるとは書かれていなかった。
だからこそ、何も失わずに済むような甘い話ではないと分かった。
「断れば」
城主の声は、先ほどより低くなっていた。
守備隊長が答えた。
「戦います」
その返答に、城主は顔を上げた。
「兵は命令に従います。ただ、城へ入れた村の者を、先に逃がす許しをいただきたく存じます」
城主は窓へ歩いた。
城壁の内側には、荷車が寄せられている。村から来た者たちが、その周りに座っていた。
男だけではない。
子供を抱いた女と、杖をつく老人もいた。
畑から戻れと呼び集め、敵が来るから城へ入れたのは自分だった。
城主は、しばらくそこを見ていた。
やがて、机へ戻った。
「使者を呼べ」
◇ ◇ ◇
門が開いた時、アレクは先頭の歩兵の後ろにいた。
守備兵は城内の広場へ集められ、槍と剣を地面へ置いていく。
先に入った歩兵三百人が、門、塔、倉、通用門を押さえた。
その三百人は城の守備として残り、本隊の先へ進む兵は一万四千七百人になる。
アレクは、その数を伝令が書き留めるのを見た。
城主は剣を外し、レオンハルトの前へ差し出した。
「城をお渡しいたします」
レオンハルトは近衛へ剣を受け取らせた。
「兵へ出した命令は」
「武器を置き、陛下の兵に従うよう伝えております」
「隠している兵は」
「おりません」
「後から見つかれば、話が変わる。今、申せ」
城主の喉が動いた。
「塔の中に、足を負傷した兵が二人おります。下りられず、運ぶ者を待たせております」
「武器を預かり、運び出せ」
レオンハルトは近衛へ命じた。
城主が深く頭を下げた。
その脇を、ロベルトが倉の管理をしていた男と共に歩いていく。
「鍵はこれで全部か」
「はい。大きな倉が二つと、塔の下に一つです」
「開ける前に、帳簿と照らす。城の分と、村から預かった分は分かるか」
「札を付けております」
「ならば、その札は外すな」
アレクは、広場の隅で歩兵の一人が荷車へ近づくのを見た。
兵は荷台の布をめくろうとしていた。その前へ、女が立つ。
「それは、うちの物です」
「中を見せろと言っているだけだ」
女は荷車へ手をかけたまま動かなかった。
兵も、下がらない。
アレクは二人の間へ歩いた。
「何が入っていますか」
女はアレクの腰の剣と、その後ろの兵を見比べた。
「麦です。家から持ってきた分です」
「武器がないか確かめます。麦は持っていきません」
そう告げてから、アレクは兵へ顔を向けた。
「持ち主の前で調べてください。終わったら、元へ戻すように」
「はっ」
女がゆっくりと手を離した。
荷車には麦の袋と、鍋、毛布が積まれていた。小さな農具はあったが、隠れている兵や、隠された武器は見つからなかった。
兵が布を戻す。
女は何も言わず、荷台へ触れた。
少し離れた場所で、城主がこちらを見ていた。
アレクと目が合うと、城主は僅かに頭を下げた。
門を開けた者の顔を見ておけ。
マティアスの言葉が、アレクの中へ戻ってきた。
城主が見ていたのは、兵の強さではなかった。
書状に書かれたことが、本当に守られるかどうかだった。
◇ ◇ ◇
西部軍の敗報が、カルディアとの係争地帯へ届いたのは、それから数日の後だった。
長い道を走ってきた使者の外套は、裾まで泥に汚れていた。
城の執務室へ通された使者は、水を一杯飲んだ後、王の封印がある書状を差し出した。
アーノルド・フォン・ケッセルハイムは、封を切る前に使者の顔を見た。
「西の軍は」
「大きな損害を受けました。現在、兵を集め直しております」
「どれほどだ」
「死者と捕虜、戦えぬ負傷者を合わせれば、半数近くに及ぶとのことです」
アーノルドの手が止まった。
四十を幾つか過ぎたアーノルドの顔には、長年、城と陣地を行き来してきた疲れが刻まれていた。剣帯を外してはいたが、机の横にはいつでも持ち出せるよう剣が立てかけられている。
カルディアとの係争地帯で、城を守り、奪われた砦を取り戻し、また別の城へ兵を送る。
そうした戦いを任されてきた将だった。
「川と丘を使って受けると聞いていた」
「その川を越えられました」
「指揮官は生きているのか」
「はい。東へ退き、残った兵の収容を進めております」
アーノルドは書状を開いた。
目が文面を追う。
最後まで読み終えると、もう一度、兵数が書かれた箇所へ戻った。
「千五百」
「西部の守りを立て直すため、速やかに送り出すようにとのご命令です」
この城と周辺の陣地を合わせ、アーノルドが動かせる兵は四千人だった。
そこから千五百人を抜く。
残る二千五百人で、同じ城と陣地を守れという命令だった。
「返書を用意する。今日は休め」
使者が下がると、アーノルドは書状を机へ置いた。
指を離しても、紙の端が少し曲がっていた。
「西の失態を、こちらにも背負わせるのか」
側近は答えなかった。
窓の外では、城壁の修理が続いている。崩れた石を運ぶ音が、一定の間隔で響いていた。
その壁は、先月の戦いで傷んだものだった。
修理に使う石を集めるため、近くの村から荷車を借りている。兵を休ませる余裕がないため、夜の見張りを終えた者まで作業へ回していた。
「こちらにも余裕はない。千五百を送れば、今の陣地は保てん」
「兵を減らしても、カルディアに気づかれなければ」
「気づく」
アーノルドは即座に言った。
「向こうも、こちらの旗と荷車を見ている。千五百人が何日も道を歩くのだ。見落としてくれると思うな」
側近が口を閉じた。
アーノルドは地図を引き寄せた。
城の前方に、小さな陣地が二つある。道を見張るためのものと、渡り場を守るためのものだった。
さらに後方には、谷の入口を押さえる別の城がある。
今いる城を失えば、敵はこの一帯の耕地と街道を使えるようになる。しかし、兵を後方へまとめれば、少なくとも谷へ入る道は守りやすくなる。
「前の陣地を畳み、必要ならこの城からも退く。その許可を求める」
「城を渡せば、陛下はお怒りになるかと」
「兵を送って城を失うのと、兵ごと城を失うのとでは、後に残るものが違う」
アーノルドは、後方の城を指した。
「西へ兵を出す必要があることは分かる。だからこそ、こちらの守り方も変えねばならん」
側近が書記を呼んだ。
アーノルドは兵数、城壁の損傷、前方の陣地を維持するための人数を、一つずつ述べた。
怒りをそのまま書かせることはしなかった。
千五百人を送れば、何ができなくなるか。
兵をまとめれば、どこまで守れるか。
その違いを、王が読める形へ直していった。
返書を持つ使者が出た後も、アーノルドは西へ送る兵の選定を止めなかった。
王命を受けた以上、出発の支度は進めなければならない。
各隊の名簿を集め、隊長と兵をばらばらにしないよう、まとまった隊を選んだ。
西で知らない者同士を並べても、すぐには軍にならない。
かといって、よく戦う隊ばかりを送れば、残る守備が持たなくなる。
机に並べた名簿を、アーノルドは何度も動かした。
◇ ◇ ◇
王の返答が届いたのは、数日後だった。
千五百人を西へ送ること。
城と係争地帯の守備を維持すること。
許可なく城を放棄した場合は、その責任を問うこと。
アーノルドは、最後の一文を黙って読んだ。
側近が傍らで待っている。
「陛下は、何と」
アーノルドは書状を渡した。
側近の顔が強張る。
「これでは」
「兵は送れ。城も守れ、ということだ」
アーノルドは椅子から立った。
窓へ歩き、城内の広場を見下ろす。
西へ向かう兵は、すでに荷をまとめていた。隊長が人数を数え、馬の鞍を確かめる者がいる。
荷車の周りでは、干し肉と麦の袋を積んでいた。
この城へ戻ってくるつもりで、寝床へ残す物を仲間へ預けた兵もいるだろう。
しかし、西の軍が半数近くを失ったという場所へ送るのだ。
次に同じ顔を見られる保証はなかった。
「……王命だ。千五百を西へ送れ」
側近が一礼した。
アーノルドは続けた。
「前方の陣地の荷を減らす。使わぬ道具と余分な穀物は、こちらへ運べ。負傷者のうち、今すぐ守備へ戻れぬ者は後方の城へ移す」
「城を退く支度と見られませんか」
「負傷者を治せる場所へ送る。今は、それができる」
アーノルドは地図の谷道を示した。
「この道の橋を調べさせろ。荷車が続けて渡れるよう、傷んだ板を直させろ。途中の村には、馬と水を用意させる」
「承知しました」
「村人を城へ集めるのは、必要になってからだ。先に家財をまとめさせておけ。兵を動かす時に村人まで一斉に道へ出れば、どちらも進めなくなる」
命令を受けた側近が出ていく。
アーノルドは剣帯を取り、腰へ締めた。
広場へ下りると、西へ向かう隊長が駆け寄ってきた。
「出発の支度が整いました」
「人数は」
「千五百、揃っております」
「道中の食料は」
「指示された分を積みました。途中で補給を受ける場所も、確認しております」
アーノルドは荷車の列を見た。
急げと命じるのは容易い。
だが、空腹の兵を歩かせ、足を傷めさせて西へ着かせても、失った軍の代わりにはならない。
「急げ。ただし、無理な行軍で兵を潰すな。西へ着いた時に戦えねば意味がない」
「はっ」
「遅れた者を、道に置き去りにするな。隊ごとに人数を確かめろ」
「承知しました」
隊長が敬礼し、自分の兵の前へ戻った。
角笛が鳴る。
先頭の旗が動き、兵の列が城門へ向かった。
アーノルドは門の脇で、その列を見送った。
歩きながら顔を向ける兵がいる。
アーノルドが頷くと、兵は前へ向き直った。
千五百人の列が、少しずつ城の外へ消えていく。
最後の荷車が門を抜けた後、広場は広くなったように見えた。
何も増えてはいない。
そこにいた兵が、いなくなっただけだった。
アーノルドは城壁の階段を上った。
城の南には、カルディアの陣地がある。
遠くの見張り台には、今日も旗が上がっていた。
◇ ◇ ◇
カルディアの斥候は、その兵の列を見逃さなかった。
城から離れた林の縁で、二人の男が道を見下ろしている。
一人が兵のまとまりを数え、もう一人が旗と荷車を書き留めていた。
千を超える兵が西へ進んでいる。
城の外へ出て陣地を移しただけではない。昼を過ぎても列は戻らず、夕方になっても西の道を進んでいた。
翌日、別の斥候が前方の陣地を調べた。
柵の内側に残る天幕は減っている。見張りの人数も、以前と同じではなかった。
報告を受けたカルディアの指揮官は、地図の上へ指を置いた。
「西へ行ったのだな」
「はい。少なくとも千を超えます。旗の数と列の長さから、千五百ほどかと」
「城へ戻った様子は」
「ありません。前の陣地からも、荷車が引き上げております」
指揮官は傍らの参謀と目を合わせた。
グランヴァルトが西からロスヴァールを攻める。
その申し出を受けた時から、期待していた動きだった。
ロスヴァールは二つの戦線へ同じ兵を置けない。
西で戦えば、こちらの城から兵を抜く。抜かなければ、西の守りが薄くなる。
どちらにしても、カルディアには得になる。
「黒獅子が西で引きつけてくれた」
指揮官の口元が緩んだ。
「今度はこちらが取り戻す番だ」
地図に描かれた城は、何度も旗を変えていた。
カルディアが取れば、ロスヴァールが次の年に取り戻す。ロスヴァールが兵を増やせば、カルディアは別の砦へ攻め込み、守備を動かさせる。
そうした戦いを繰り返してきた場所だった。
城の壁だけでなく、どの村から麦が入り、どの坂で荷車が遅れ、雨が降ればどの道が使えなくなるかまで、互いによく知っている。
それでも決着がつかなかったのは、城を囲めば、後ろから援軍が来るためだった。
今、その兵が西へ向かっている。
「六千を出す。まず前の陣地を押さえ、城へ続く道を断つ」
参謀が地図の後方へ目を向けた。
「こちらの城の守りは、予定の兵を残します」
「そうしろ。取る前から、後ろを空ける必要はない」
「グランヴァルトへは」
「攻勢に出ると知らせよ。約束は果たす」
指揮官は椅子へ背を預けた。
西で幾つか城を奪えば、グランヴァルトも王へ条件を突きつけるだろう。
賠償か、土地か。東部の諸侯へ手を出さないという誓約か。
その間に係争地帯の城を取り戻し、こちらに有利な形で戦を終えられればよい。
ロスヴァールの奥深くまで兵を送り、知らない土地を治める余裕は、カルディアにはなかった。
「向こうが西で手を止める前に、この城を取る」
指揮官は立ち上がった。
「兵を集めよ」
その日の午後、カルディアの陣地で旗が動いた。
槍兵の列が道へ出る。
弓兵と、城を囲むための道具を積んだ荷車が続いた。車輪が軋み、乾いた地面に轍を刻んでいく。
六千の兵が、係争地帯の城へ向かって進み始めた。
◇ ◇ ◇
城壁の上からその旗を見つけた兵が、鐘を鳴らした。
アーノルドが上る頃には、見張りが指差す先に、長い列が見えていた。
「カルディア軍です」
「数は」
「まだ後ろが見えません。斥候の報告では、六千ほどとのことです」
アーノルドは城壁へ手を置いた。
千五百人を送り出した後、残る兵は二千五百人。
前方の陣地も、まだ完全には引き払っていない。
そこへ六千が来る。
懸念したとおりだった。
だが、そう言っても兵は増えない。
「前の陣地へ使いを出せ。囲まれる前に城へ戻す」
「陣地を渡すのでございますか」
「外で五百ずつ失うより、城で千を使う」
アーノルドは城の外へ目を向けたまま答えた。
「持ち出せる食料は運べ。運べぬ物に兵を付けて残すな。荷のために戻れなくなるなと伝えろ」
「はっ」
「弓兵を上へ。修理をしている者は道具を片づけ、石を通路から退けよ」
兵が走り始めた。
階段を下りようとした側近を、アーノルドが呼び止めた。
「王都へ報せを出す」
側近が振り返る。
「カルディア軍六千が進出。こちらは兵力を西へ送ったため、守備を城へ集中する。前方の陣地を維持することはできない」
「そのまま、お伝えしてよろしいので」
「事実だ」
アーノルドは言った。
「書き換えても、城の前の兵は減らん」
側近が一礼して去った。
遠くで、前方の陣地にいた味方の旗が動き始めた。
城へ戻る道には、すでに荷車が出ている。先に荷を減らしておいたため、兵の歩く場所は残っていた。
アーノルドはその列を見届けてから、敵へ視線を戻した。
カルディアの旗は止まらない。
この城が弱くなったと、向こうは知っている。
アーノルドは、城壁の上へ上がってきた兵たちを見た。
「持ち場へ着け」
声を張った。
「門は、外の兵が戻るまで閉じるな。最後の隊を、ここへ入れる」
◇ ◇ ◇
西部では、グランヴァルトの二つの軍が、別々の街道を進んでいた。
南のユリウスから、街道を押さえる砦が降伏したとの報告が届いた。
マティアスは、使者が持参した書状を地図の横へ置いた。
「砦へ残した守備兵と、先へ進む兵の数も記されています。中央へ通じる横道には、見張りを置いたとのことです」
レオンハルトは書状へ目を通し、南の街道を指した。
「その道を使って、こちらの居場所も知らせよ。次の城へ向かう前に、互いの進路を確かめる」
「承知しました」
旗を立てただけでは、道は守れない。
城を得るたびに、荷車の休む場所と、伝令が馬を替える場所を増やしていった。
中央の本隊が次の城へ近づいた時、アレクは先頭の騎兵の後ろにいた。
今度の城は、先に開いた小城とは違っていた。
石壁が高い。
門の両側には塔があり、近づく道を左右から見下ろしている。城の背後には斜面が続き、正面の平地には、城壁の上からよく見える場所が広がっていた。
そこを歩兵に走らせれば、門へ着く前に矢を受ける。
兵が伏せられる窪みはあるが、全隊を隠せるほどではなかった。
アレクは馬を止め、城壁へ目を向けた。
弓兵がいる。
盾を並べた場所もある。
門の上には、太い木を組んだ張り出しが設けられていた。
カスパルが横へ馬を寄せた。
「前の城のようには開きそうにないな」
「兵の動きが揃っています」
「逃げてきた者も入ったらしい。門へ行った使者には、王の援軍が来ると答えたそうだ」
アレクは城の向こうを見た。
援軍が、どの道から来るのか。
いつ着くのか。
城内の者が、それを本当に知っているのか。
外から見ただけでは分からなかった。
「東の道は調べていますか」
「ああ。大きな隊が近づけば分かるようにしてある。ただ、山の小道までは全部塞げん」
「少人数で動く使者まで止めようとすれば、こちらも兵が散りますね」
「そういうことだ」
二人は馬を返した。
本隊は城壁から離れた平地へ入り、兵を休ませながら陣を整えていた。
川からここまでに使った道は、後ろへつながっている。降伏した小城の倉も使えるようになり、荷車は途中で馬を休ませられる。
それでも、大軍が止まれば、それだけ食料が要る。
城を前にして、何日も無為に待つことはできなかった。
天幕へ戻ると、ジークブルクから来た伝令が、レオンハルトへ書状を差し出していた。
「新しい大砲の輸送隊が、城を出ました」
アレクは足を止めた。
レオンハルトが書状を開く。
「検査は」
「城まで運んだ後、職人が改めて調べ、試射を終えております。異常のなかった物を、砲手と共に送り出しました」
アレクは伝令へ顔を向けた。
王家の鍛冶町からジークブルクまで運ぶだけでも、大砲を載せた荷車には大きな負担がかかる。
作った場所で撃てたからといって、そのまま戦場で使えるとは限らない。車輪、台、取り付けた箇所に緩みがないかも確かめる必要があった。
「今は、どこに」
「渡り場へ向かっております。重い荷車を通すため、先に道を調べる者を出しております」
ロベルトが地図へ近づいた。
「川を越えた先に、荷車が片側へ寄りやすい場所がありました。そこへ人を出します。砲が来てから直していては遅れます」
「頼みます」
アレクが答えると、ロベルトはすぐに従者を呼んだ。
レオンハルトは書状を畳んだ。
「アレク。城を見てきたな」
「はい」
「鉄砲隊で、どうする」
アレクは地図の横へ置かれた板を引き寄せた。
城門と二つの塔、それに道の曲がる場所を、簡単に描いていく。
「正面から兵を近づければ、この二つの塔と門の上から狙われます。鉄砲隊で射撃を抑えられる場所はありますが、銃だけでは門を開けられません」
レオンハルトは黙って聞いていた。
「大砲を使うなら、どこを狙うか決めてから、鉄砲隊の位置を合わせたいと思います。砲を据える者と、門へ向かう兵を守れる場所です」
「壁を端から崩すつもりはない」
「はい。兵が入れる場所を作る必要があります」
アレクは門の周囲へ指を置いた。
これまで、銃で狙ってきたのは、盾を持つ兵や槍の列だった。
今、目の前にあるのは、人を守るために積まれた石と、閉ざされた門である。
火縄銃を大きくすれば、それだけで何もかも解決するわけではない。
運ぶ者が要る。
据える場所が要る。
その場所を守る兵も要る。
そして、開いた先へ進む兵がいなければ、穴を開けても城は取れない。
「砲手が着いたら、共に見よ」
レオンハルトが言った。
「どこまでできるかは、扱う者にも聞け」
「承知しました」
天幕の外で、城へ送った使者の帰還が告げられた。
レオンハルトが入るよう命じる。
使者は膝をつき、返答を述べた。
「開城には応じぬとのことです。王の兵が来るまで守り抜くと」
「そうか」
レオンハルトは立ち上がった。
天幕を出ると、アレクも続いた。
夕方の光を受け、城壁の上の旗がはっきりと見える。
その下には兵が並んでいた。
援軍が来る。
それを支えに、門を閉じている者たちだった。
レオンハルトは、城から西へ続く街道を振り返った。
歩兵の列の向こうで、補給の荷車が陣へ入ってくる。
そのさらに後ろから、新しい大砲が運ばれてくる。
「援軍が来るまで守り抜くつもりか」
レオンハルトは城へ向き直った。
「ならば、着く前にこの城を落とす」
アレクは、閉ざされた門を見た。
あの門の前へ、何人の兵を進ませることになるのか。
そのうち、何人を戻せるのか。
目の前の城壁を見ながら、使える道と、兵を隠せる窪みを、もう一度頭の中で確かめた。
街道の西から、車輪の軋む音が続いていた。
第九話を読んでいただき、ありがとうございました。
城を開いた者との約束を守るアレクと、厳しい王命の中で兵を守ろうとするアーノルド。それぞれの立場での判断を描いた一話でした。
西の戦いが別の戦線を動かす中、グランヴァルト軍には新たな攻城の手段が近づいています。
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