第八話 黒獅子、川を越える
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川の手前に足場を得たグランヴァルト軍は、対岸へ進むために動き始めます。
アレクの鉄砲隊と、川を渡る仲間たち。それぞれの働きが、次の一歩を支えます。
夜が明ける前に、最後の報告が届いた。
北へ退いた敵の騎兵は、川沿いを進み、上流の浅い場所から東岸へ戻っていた。追跡していた斥候は、暗くなる前に渡河する姿を確かめ、その後も見張りを残していた。
「夜の間に、守りの兵が増えております」
報告を聞いたマティアスが、地図の上へ小石を置いた。
「川底は」
「石が多く、馬の脚が大きく沈む様子はありませんでした。ただ、街道につながる渡り場ほど広くはございません」
レオンハルトは頷いた。
机代わりの板には、正面の渡り場と、北で見つかった渡り場が描かれている。その間を流れる川の東側に、敵主力の丘があった。
昨日、アレクたちが押さえた小高い丘は西岸にある。そこから北を見張り、街道を通ってきた後続の兵を平地へ入れることで、夜のうちに軍を広げる場所を確保できていた。
それでも、川の向こうへ進めたわけではない。
正面の東岸には弓兵が並び、その後ろを槍兵が固めている。さらに後方の丘には、敵の主力が残っていた。
「向こうが守りたい場所は、一つではない」
レオンハルトは二つの渡り場を見比べた。
「ならば、同時に守らせればよい」
マティアスが顔を上げる。
「私が北へ参ります」
「歩兵六千、騎兵千を率いよ。無理に川へ押し込むな。だが、見せるだけの兵にはするな。渡れるなら渡れ」
「承知しました」
「向こうも、兵を送ってくるだろう」
「送らなければ、こちらが丘の横へ出ます」
マティアスの返答に、レオンハルトが小さく頷いた。
アレクはそのやり取りを聞きながら、地図を見ていた。
北へ向かう七千を放置すれば、敵は側面を脅かされる。防ごうとすれば、その分だけ正面か丘の兵を動かさなければならない。
敵に気づかれずに回り込む作戦ではなかった。
気づいても、対応するために兵を割かせる。
今度はこちらから、相手の配置を動かそうとしていた。
書記官が、夜の間にまとめた兵数を読み上げた。
「戦闘を続けられる兵は、二万九千九百九十二にございます」
昨日、騎兵二人が戦死し、六人が負傷して戦列を離れている。
レオンハルトはその数を聞いてから、配置を命じた。
「北へ七千。西岸の拠点と荷駄、負傷者を守るために歩兵二千を残す。残りは正面だ」
正面へ置くのは、歩兵と弓兵など一万六千、騎兵三千九百九十二、鉄砲隊千人だった。
アレクの直属百人も、丘の守備を歩兵へ引き継ぎ、九百人と合流している。昨日使った弾薬は夜のうちに補われ、銃の点検も済ませていた。
「アレク」
「はい」
「川岸の弓兵を下げられるか」
アレクは、昨夕に確かめた対岸の様子を思い出した。
敵は渡り場へ矢を浴びせるため、丘から弓兵を下ろしている。こちらが川へ入れば狙われるが、西岸から届かない場所へ隠れているわけではなかった。
「鉄砲隊で正面を崩します」
言い切ると、レオンハルトはアレクを見た。
「歩兵が渡り始めた後は」
「味方と重なる場所への射撃は止めます。東岸に足場ができたら、鉄砲隊も渡します」
「よい。川を越えた兵を、孤立させるな」
ヴィクトルとエイドリアンが呼ばれた。
「最初に歩兵千二百を渡す。六百ずつ率い、東岸へ上がったところを守れ。後ろから二千八百を続ける」
「承知しました」
二人の声が重なった。
レオンハルトは、地図の川筋を指で押さえた。
「敵は、渡り切る前に押し返そうとする。最初の兵だけで丘まで取りに行くな。後ろを迎える場所を作れ」
アレクはヴィクトルと目を合わせた。
彼が頷く。
対岸へ道を開けるのはこちらだ。その先を守るのは、ヴィクトルたちになる。
マティアスは地図を畳むと、アレクへ顔を向けた。
「正面は任せる。こちらが動いた報せは、必ず送る」
「はい」
マティアスが外へ出ると、冷たい朝の風が天幕へ入ってきた。
川の向こうで、角笛が鳴った。
◇ ◇ ◇
ロスヴァール軍の指揮官は、東岸の丘から西を見ていた。
昨日より、旗が増えている。
街道を通ってきた兵が、西岸の平地へ隊列を広げていた。丘を先に押さえたことで、敵は狭い道に詰まることなく後続を迎え入れている。
北の渡り場から戻った騎兵の報告では、花の旗の隊は百人ほどだった。
百人の火槍兵と、その脇を守った騎兵。
それだけで、こちらが用意した最初の形を崩されていた。
だが、川はまだこちらの前にある。
「弓兵は持ち場を離れるな。敵が岸へ寄っても、勝手に追うな」
指揮官は命じた。
正面には弓兵二千と、その後ろに槍兵三千を置いていた。北の渡り場には千を回し、残る兵を丘とその周囲に控えさせている。
西岸の軍がどちらへ動いても、丘から兵を送れる。
そう考えていたところへ、北から伝令が来た。
「敵が上流へ向かっております」
「数は」
「六千は下りません。騎兵もおります」
指揮官は北を見た。
ここからは低い丘が邪魔をして、渡り場そのものは見えない。
「見せかけではないのか」
「すでに弓兵が前へ出ております。渡り口を確かめる兵もいるとのことです」
千では止めきれない。
敵が渡り始めれば、こちらの主力の横へ出てくる。正面の川だけを見ているわけにはいかなかった。
「三千を北へ送れ。渡り切る前に止める」
近くの将が声を返した。
丘の上に待たせていた兵が動き始める。
その列を見送りながら、指揮官は西岸へ目を戻した。
今度は、正面の兵も動いていた。
盾を持った歩兵が前へ出て、その後ろから長い筒を持つ兵が続いてくる。
昨日の百人とは違った。
列が、長い。
「……あれだけいるのか」
思わず漏れた声を、隣の騎士が聞きとがめた。
指揮官は答えず、弓兵へ伝令を出した。
「渡り場だけを狙うな。筒を持った兵を止めろ」
◇ ◇ ◇
アレクは、盾の列の後ろを歩いていた。
足元の草が朝露で濡れている。川岸へ近づくにつれ、土に小石が混じり始めた。
背後には千人の鉄砲隊が続いている。
直属の百人だけを別の場所へ向かわせるのではない。今日は、千人で正面を押し開く。
アレクとギルベルトだけでは端まで声が届かないため、各隊を率いる者が間に立っていた。号令と合図を受け、その先の兵へ伝える役目だ。
一班三百三十、二班三百三十、三班三百四十。
大きな三班の中でも、兵は日頃から指示を受けている者のもとで動いていた。
「もう少し前だ」
アレクが言うと、近くの指揮役が声を送った。
盾を持つ兵が歩みを揃える。
対岸から矢が飛んできた。
土へ刺さる音がした。盾を叩いた矢が跳ね、後ろの兵の足元へ落ちる。
「止まるな!」
歩兵の隊長が叫んだ。
一人が膝をついた。肩の脇へ矢が刺さっている。隣の兵が支え、後ろへ引いた場所に、別の盾が入った。
アレクは川を見た。
渡り場の両脇では、岸が少しせり出している。昨日のうちに確かめた通り、その西側へ出れば、川沿いの弓兵を狙える。
ただし、そこは敵の矢も届く場所だった。
盾の縁を越えた矢が、後ろへ落ちた。
短い悲鳴が聞こえた。
アレクは振り返らず、指示を出した。
「怪我人は後ろへ。列を止めるな。空いた場所を詰めろ」
ここで立ち止まり続ければ、矢を受けるだけになる。
決めていた位置まで進み、アレクは手を上げた。
「ここで構える!」
声が左右へ伝わった。
兵が横へ広がり、後ろの班が間隔を取る。盾を持つ歩兵は鉄砲隊の動きを確かめながら、射撃の妨げにならない位置へ移っていった。
正面の敵が弓を引いている。
その後ろには、槍を持った兵が見えた。
「弾薬箱開放許可!」
ギルベルトの号令を、各隊の指揮役が繰り返した。
「一発取れ! 装填!」
アレクは川の流れへ一度目を落とし、対岸へ戻した。
兵たちの手は動いている。
矢を見て身体を縮めた者へ、隣の古参兵が何かを言った。その兵は頷き、銃を持ち直した。
訓練では、矢は飛んでこなかった。
その違いを、誰もが今知っていた。
「一班、装填状況!」
端から返答が届く。
ギルベルトはすべてを聞き取ろうとするのではなく、担当する指揮役が上げる合図を見ていた。
「一班、準備できております」
アレクは対岸の弓兵を指した。
「川沿いの列だ。丘の奥へ向けるな」
命令が伝えられる。
盾の陰から銃口が揃い、赤い布が上がった。
「火蓋開け!」
矢が一本、アレクの前へ落ちた。
すぐそばだった。
足を引きかけ、踏みとどまる。
「構え!」
三百を超える銃が対岸を向いた。
「撃て!」
轟音が川を渡った。
アレクの前に白煙が広がり、対岸の姿を隠した。遅れて響いてきた音が、背後の丘へぶつかって返る。
昨日の百挺とも違う。
空気そのものが押し寄せるような響きだった。
「一班、火縄上げ! 後退!」
兵が手で火縄ばさみを上げ、後ろへ下がる。
煙の切れ目から、対岸が見えた。
弓兵の列に穴ができていた。倒れた兵へ手を伸ばす者がいて、その横で弓を取り落とした者が腕を押さえている。
無傷の兵も、すぐには次の矢を放てていなかった。
隊長らしい男が剣を振り、列へ戻れと叫んでいた。
「二班、前へ!」
アレクは、その男のいる付近だけを狙わせなかった。
弓兵はまだ左右に残っている。渡り場へ矢を放てる位置にいる敵兵を、左右とも後退させる必要があった。
第二の射撃が続いた。
対岸で、盾を持つ槍兵が前へ出てきた。弓兵を後ろへ入れ、自分たちが受けようとしている。
だが、盾の列が揃う前に、三班が構えた。
「撃て!」
盾が傾いた。
持ち主ごと後ろへ倒れたものもあれば、隣の盾に寄りかかるように崩れたものもあった。盾の裏へ隠れた弓兵が、さらに後ろへ下がる。
矢はまだ飛んでくる。
だが、最初のように揃ってはいなかった。
アレクは、準備を終えて戻ってきた一班を前へ出した。
敵は川から離れ始めている。
逃げ散ったのではない。少し後ろへ陣を下げ、撃たれる場所から外れようとしていた。
それでよかった。
川岸を空けさせることが、今の役目だった。
「渡り場の正面へ向けろ。下がる列を追って、銃口を振り回すな!」
次の射撃が、前に踏みとどまっていた兵を下げた。
アレクは南側へ目を向けた。
ヴィクトルが待っていた。
剣を持つ手を上げ、こちらの合図を見ている。
アレクは伝令を呼んだ。
「渡り場の正面への射撃を止める。進めると伝えろ」
兵が走り、ヴィクトルへ言葉を届ける。
彼の剣が前を向いた。
「進め!」
盾を持つ兵が、水へ入った。
◇ ◇ ◇
川の水は、冷たかった。
ヴィクトルは馬を降り、兵とともに浅い場所を進んでいた。水の下の石へ足を置くたび、靴底がわずかに滑る。
前の兵がよろめいた。
隣の者が腕をつかみ、倒れる前に支える。
「急ぐな! 前の者を押すな!」
ヴィクトルは声を張った。
早く渡りたい気持ちは、自分にもあった。
対岸に敵がいる。
弓兵は下がったが、槍兵が消えたわけではない。ここで足を取られ、兵が重なれば、それだけ東岸へ上がるまでの時間が増える。
エイドリアンの六百は、渡り場の南寄りを進んでいた。
岸へ上がった先で互いに邪魔をしないよう、あらかじめ進む場所を分けている。
先頭が東岸へ足をかけた。
濡れた斜面を上り、盾を前へ向ける。
その向こうで、敵の槍が動いた。
「来るぞ!」
ヴィクトルが叫んだ。
ロスヴァールの槍兵三千が、川へ向けて進み始めていた。
こちらの先頭が上がったばかりなのを見て、押し戻しに来たのだ。
まだ千二百すべてが岸へ出たわけではない。
ヴィクトルは先頭へ追いつき、剣で左右を示した。
「ここを守れ! 丘へ向かうな。後ろを上げるんだ!」
盾の列が作られていく。
敵の槍が、その正面へ突き出された。
鈍い音がした。
盾を支えた兵の足が後ろへ滑り、膝が曲がる。後ろの兵が肩を押し当て、倒れるのを防いだ。
ヴィクトルは横から伸びてきた槍を剣で払った。
腕に重い衝撃が返る。
すぐに次が来た。
盾を持つ兵が割って入り、その穂先を受ける。ヴィクトルは礼を言う代わりに、空いた場所へ兵を寄せた。
「左を空けるな!」
隣で一人が倒れた。
後ろから来た兵が、その者を引きずって岸の脇へ運ぶ。その場所に次の盾が入った。
川へ押し込まれれば、後続まで止まる。
ヴィクトルは奥歯を噛みしめた。
南側では、エイドリアンの旗が動いていた。
先に上がった兵を横へ広げ、敵が岸沿いから回り込むのを防いでいる。彼自身も盾の列のすぐ後ろで、崩れかけた場所へ兵を送っていた。
「北へ寄りすぎるな! そこを開ければ、渡ってくる者を狙われる!」
声が聞こえた。
その時、背後から新たな足音が加わった。
二千八百の後続が、次々に川へ入っていた。
岸へ上がった兵が左右へ散り、前の列を支える。槍の数が増え、押されていた盾が止まった。
ヴィクトルは息を吸った。
「押し返せ! 岸から離すぞ!」
今度は、こちらの兵が足を前へ出した。
敵の槍兵が、一歩下がった。
その一歩で、後ろから上がる兵の場所ができた。
◇ ◇ ◇
アレクは西岸から、東岸の旗を見ていた。
渡り場の正面へは、もう撃っていない。
味方の盾と敵の槍が重なり、どちらかだけを撃てる場所ではなかった。
敵の弓兵が左右へ出ようとすれば、射線の空いている範囲へ銃口を向ける。それ以外では、撃てるからと撃たせなかった。
銃を構えて待つ兵の腕が、少しずつ下がってくる。
「下ろして待て。合図を見ろ」
アレクは伝えた。
対岸へ渡りたい。
ヴィクトルたちが押し合っているところへ、早く加わりたかった。
だが、東岸に上がる場所がないうちに千人を送れば、銃を持った兵が川の中で詰まる。
アレクは、旗の位置を見続けた。
ヴィクトルの旗が、少し前へ動いた。
南側でも、エイドリアンの旗が川から離れた。
伝令が水を渡ってくる。
息を切らし、濡れた足で岸へ上がった。
「東岸に場所ができました! 歩兵が四千、渡り終えます!」
アレクは頷いた。
「鉄砲隊、渡河する。班ごとに進め。装備を濡らすな。転んだ者がいれば、隣が支えろ」
ギルベルトが号令を送った。
兵たちは銃と弾薬箱を確かめ、水へ入った。
アレクも続いた。
馬は西岸で待たせてある。
今日ここで必要なのは、百騎で駆けることではなかった。千挺を、敵へ向けられる場所まで運ぶことだった。
水の下で石が動いた。
アレクは足を止め、踏み直す。
向こう岸から叫び声が届いていた。盾を叩く音に混じって、人の悲鳴も聞こえる。
それでも、前の兵を押さずに進んだ。
岸へ上がると、待っていた歩兵が道を示した。
「こちらです!」
東岸には、まだ広い余裕があるわけではなかった。
歩兵の列が半円を描くように前を守り、その後ろに後続が入っている。アレクは、中央より少し南の空いた場所へ鉄砲隊をまとめた。
エイドリアンが駆け寄ってきた。
「敵が押してくる。前を下げすぎると、川まで戻される」
「こちらに射撃の準備をさせてくれ。整ったら、中央の兵を左右へ寄せられるか」
エイドリアンは敵との間を見た。
「急に開ければ、突っ込んでくるぞ」
「その正面を撃つ」
短い沈黙の後、エイドリアンは頷いた。
「合図を待つ」
彼が戻ると、アレクはギルベルトへ向き直った。
「濡れた銃がないか確かめろ。使えぬ者は無理をするな。撃てる兵を前へ揃える」
「承知しました」
千人が岸を上がり切るまでには時間がかかった。
その間にも、前では歩兵が戦っている。
アレクは赤い布が上がるのを待った。
やがて、各隊の指揮役から準備を知らせる合図が届く。
アレクはエイドリアンへ手を上げた。
歩兵の列が動き始めた。
中央を守っていた兵が、盾を敵へ向けたまま左右へ寄る。大きく退くのではなく、鉄砲隊の前に射線を作っていく。
敵も、その動きを見た。
押し切れると思ったのか、中央の槍兵が前へ出る。
アレクは、最後に残った味方の盾が外れるまで待った。
「一班、火蓋開け!」
銃口が揃う。
迫ってくる槍の先が見えた。
「構え!」
アレクは剣を抜かず、前を見ていた。
敵の顔が分かる。
叫んでいる口も、盾を持つ腕も見える。
「撃て!」
轟音が、東岸で響いた。
先頭の敵兵が崩れた。
盾が前へ倒れ、後ろの兵がそれにつまずく。横へ避けようとした兵は、隣の列へぶつかった。
それでも、後方から押されて前へ出てくる者がいる。
アレクは、その動きを見た。
敵が射撃後の隙を狙ったのではない。
後ろの兵には前で何が起きたか見えず、進めという命令だけが届いていた。
倒れた仲間の前で足を止めた兵と、押してくる兵の間で、列が潰れていく。
「二班、前へ!」
次の射撃が、後ろから押し寄せる敵兵の足を止めた。
前へ出る足が止まり、今度は後ろへ下がろうとする動きが生まれる。
敵の将校が剣を振っていた。
その声より、兵の叫びの方が大きかった。
三班が撃つ頃には、槍の列はもう揃っていなかった。
「歩兵、前へ!」
エイドリアンが叫んだ。
左右へ寄っていた味方が戻り、崩れた敵を押し下げる。
鉄砲隊はその後ろを進んだ。
敵を退かせた場所へ歩兵が入り、次に撃つための場所を作る。
川岸から、少しずつ離れていった。
◇ ◇ ◇
北の渡り場でも、兵は水の中にいた。
マティアスは西岸に立ち、対岸から飛ぶ矢を見ていた。
ここには鉄砲隊がいない。
弓兵が矢を返し、盾を持った歩兵が先頭に立って進んでいる。川へ入る者を一度に増やせないため、前へ出た隊が東岸で持ちこたえられるかどうかが重要だった。
「敵の増援が着きました」
伝令が告げた。
「三千ほどです。丘の方から来ております」
「合わせて四千か」
マティアスは東岸を見た。
守りが厚くなった。
こちらの先頭が岸へ上がると、敵が槍を向けてくる。歩兵は盾を寄せ、後ろを待ちながら耐えていた。
「弓兵は、渡っている者の前へ撃つな。岸の北側にいる敵へ向けろ」
命令を受けた隊長が走った。
矢が飛ぶ向きが変わる。
敵の弓兵が位置をずらす間に、こちらの歩兵が次の列を岸へ上げた。
マティアスは伝令を呼んだ。
「正面へ知らせろ。敵三千を北へ引いた。こちらは渡河を続ける」
伝令が駆け去った後、南から銃声が届いた。
重なった音が、丘の間を抜けてくる。
一度では終わらなかった。
間を置いて、また響いた。
マティアスは川の向こうの敵を見た。
何人かが、南へ顔を向けていた。
自分たちが守っている場所だけでなく、正面でも何かが起きていると知ったのだろう。
「前の隊を替えろ。疲れた者を岸の脇へ寄せ、次を入れよ」
マティアスは命じた。
「取った場所を渡すな。こちらには、まだ兵がいる」
六千の歩兵のうち、先に戦っている者ばかりに押し続けさせる必要はなかった。
後ろから兵を送り、傷ついた者を下げる。
敵は四千を集めていたが、さらに増やせる様子はない。
東岸に上がった味方の列が、少しずつ厚くなっていった。
◇ ◇ ◇
「正面が下がっております!」
ロスヴァール軍の指揮官のもとへ、伝令が駆け込んだ。
丘の下を見れば分かった。
川岸へ並べた槍兵が、こちらへ戻されている。前を向いたまま下がる隊もあれば、盾を捨てて走る兵もいた。
その向こうで、敵の旗が増えていく。
川を渡り終えた兵が、東岸へ広がり始めていた。
「四千を下ろせ。槍兵を受け入れ、そこで止める」
指揮官は命じた。
「弓兵は南へ寄せろ。敵の横を狙わせる」
丘に残した兵が動いた。
正面へ兵を下ろし、退いてくる者をその間へ入れる。新しい列を作れば、まだ敵を押し返せる。
指揮官はそう考えた。
その時、北から別の伝令が来た。
「敵が渡り場の先へ出ております!」
「四千を置いたはずだ」
「持ちこたえておりますが、押されています。さらに兵を、と」
指揮官は拳を握った。
正面へ送った兵を戻せば、今度は川から上がってくる大軍を止められない。
北へ兵を足せば、丘が薄くなる。
「北は今いる兵で支えよ。丘から離れすぎるなと伝えろ」
伝令は一瞬口を開きかけたが、頭を下げて走った。
指揮官は正面へ向き直った。
新たに下ろした四千が、退いてきた槍兵を受け入れようとしている。
だが、道を空けろという声と、そこへ並べという声が重なっていた。
弓兵を南へ動かす命令も、同じ場所を通ろうとしていた。
思ったほど速く、列が整わない。
その前へ、敵の鉄砲隊が進んできた。
◇ ◇ ◇
アレクは、敵の旗を見ていた。
丘から下りてきた兵は、まだ戦っていない。列も比較的揃っている。
その前へ、退いてきた槍兵が重なり始めていた。
こちらから見て右側では、弓を持った兵が南へ動こうとしている。
「南の敵を見ておいてくれ」
アレクはエイドリアンへ伝えた。
「弓兵が横へ出ようとしている」
「こちらで押さえる。正面を頼む」
エイドリアンが歩兵の一部を南へ向けた。
アレクは、鉄砲隊を止めた。
射撃を続けながら進むことはできない。
歩兵に前を守ってもらい、兵を揃え、次に撃つ場所を決める。
ここで狙うべきなのは、逃げる兵ではなかった。
「丘から下りてきた列だ。旗の前にいる兵へ向けろ」
命令が伝わる。
敵の新しい列の前から、退く兵が左右へ分かれ始めていた。
その隙間に、槍を構え直す者が見える。
アレクは銃を構えた。
細い線が、視界の中へ伸びた。
だが、その線が味方千人の銃口まで動かすわけではない。
どこへ隊を向け、いつ撃たせるかは、自分で決めなければならなかった。
敵の列が揃い切る前に、撃つ。
アレクは銃を下ろし、ギルベルトへ頷いた。
「一班、前へ!」
赤い布が上がった。
敵側でも、こちらへ盾を向ける声がした。
「撃て!」
射撃が、新たな列を叩いた。
前の兵が倒れ、後ろの兵が足を止める。退いてきた者たちがその音に驚き、さらに内側へ入り込もうとした。
続いて二班が撃った。
列を整えようとしていた将校が見えなくなった。
旗は残っている。だが、その下へ兵を集める声が弱くなる。
三班の射撃が重なると、敵の中央が大きくへこんだ。
歩兵が前へ出る。
鉄砲隊のすぐそばで、傷ついた兵が運ばれていった。
こちらも無傷ではない。対岸へ進んでからも矢は届き、敵の弓兵を押さえる歩兵には犠牲が出ていた。鉄砲隊の列にも空きができ、そのたびに指揮役が兵を寄せ直していた。
アレクは、後ろへ運ばれる兵の顔を見た。
知っている者だった。
声をかけようとして、飲み込む。
今、列から目を離せば、さらに誰かを失う。
「装填状況を確かめろ。弾が少ない者は、指揮役へ知らせろ」
アレクは声を出した。
煙の向こうで、敵の旗が右へ動いた。
北側の兵と、正面の兵をつなぎ直そうとしている。
だが、その間に、まだ兵の埋まっていない場所があった。
そこへ黒獅子の旗が向かっていた。
◇ ◇ ◇
レオンハルトは、川を渡り終えた騎兵二千を待たせていた。
馬が水から上がれば、すぐに全速で駆けられるわけではない。隊列を整え、前の歩兵とぶつからぬ場所へ移し、進める道を確かめさせていた。
正面の鉄砲隊が敵を押す間に、後続の歩兵二千も渡り終えている。
東岸にいる歩兵は、最初の四千と合わせて六千になった。
その間を、騎兵が進むための道が空けられた。
「北からの報せです」
伝令が来た。
「クレーマー伯爵様の歩兵が岸を押さえ、敵を南東へ押しております。騎兵も渡河を始めました」
レオンハルトは丘を見た。
敵はまだ兵を持っている。
だが、北へ向ける兵と、正面へ向ける兵の動きが揃っていなかった。丘の裾に、新しい列を作ろうとする者がいる一方、そこへ戻ろうとする兵もいる。
鉄砲隊の射撃が、さらに中央を揺らした。
レオンハルトは剣を抜いた。
「中央へ入る。丘の上へ真っすぐ上るな。裾を抜け、敵の列を分ける」
騎士たちが頷いた。
「前の歩兵を見ろ。道が空くまで、馬を走らせるな」
号令が送られた。
歩兵が左右へ寄り、騎兵の前に道ができる。
レオンハルトは馬を進めた。
最初はゆっくりと。
味方の最後の列を抜けてから、速さを上げた。
黒地に金の獅子を描いた旗が、前へ傾く。
敵の槍兵がこちらを向いた。
まだ槍は揃っていない。
後ろへ下がる味方を止め、向きを変えさせようとする者がいる。盾を持ち直した兵の横を、別の兵が走り抜けた。
「続け!」
レオンハルトの声が響いた。
二千の騎兵が、丘の裾へ入った。
衝突した場所から、敵の列が折れた。
槍を突き出した兵もいた。馬を傷つけ、乗り手を落とした者もいる。
だが、一つの列として受ける形ができていなかった。
騎兵は崩れた場所から奥へ入り、敵を左右へ分けていく。
レオンハルトは、正面へ出てきた騎士の剣を受けた。
腕へ衝撃が走る。
馬を寄せ、相手の次の振りを外した。
近衛の槍が横から伸び、敵騎士の姿が後ろへ消える。
レオンハルトは止まらなかった。
丘へ退く兵と、川の方へ押し出される兵の間を進む。敵の伝令らしい騎兵が道を変え、命令を届ける先を見失ったように馬を返した。
北では、マティアスの旗が川から離れ始めていた。
両方の戦線を支えようとしていたロスヴァール軍が、今度はその間を断たれていた。
◇ ◇ ◇
「丘へ戻れ!」
ロスヴァールの指揮官は叫んだ。
「旗の下へ集まれ! 勝手に東へ逃げるな!」
声を伝える者が走った。
だが、丘の裾には敵の騎兵がいる。
戻れと言われても、そこを越えられない隊があった。
北へ送った兵も、押されながら下がってきている。その後ろには、グランヴァルトの歩兵と騎兵が見えた。
正面では、新型火槍の発射音がまた響いた。
指揮官は、残っていた兵を丘の中腹へ並べようとした。
そこで受け止めれば、まだ全軍の崩壊は防げる。
しかし、下から上がってきた兵が、その列の間へ入り込んだ。
「後ろへ通せ!」
「そこを空けるな!」
異なる命令が重なる。
旗を持つ兵が倒れ、別の者が拾おうとした。その脇を、馬を失った騎士が駆け上がってくる。
「陣を移さねばなりません!」
「まだ戦える」
「ここへ兵が戻れません!」
その言葉に、指揮官は丘の下を見た。
正面の兵と、北の兵。
どちらも自分の旗を見ていたはずだった。
今は、目の前の敵から逃れることに必死になっている。命令を受け取る隊長が見つからず、伝令が戻ってきていた。
丘を守ることと、軍を守ることが、同じではなくなっていた。
指揮官は歯を食いしばった。
「東へ退く。道を確保しろ」
その命令が伝わった時、前で戦っていた兵のすべてが退けたわけではなかった。
丘へ向かう道を断たれた一隊が、旗を下げた。
隊長が剣を置き、両手を上げる。
その周囲で槍が地面へ落ちた。
一つの隊が武器を置くと、隣の隊も動きを止めた。
まだ戦う者の声に、もう戦えぬ者の叫びが重なった。
◇ ◇ ◇
「撃つな!」
アレクは声を張った。
前方で槍が捨てられていた。
旗を下ろした敵兵が、地面へ膝をついている。その後ろにはまだ逃げる者もいたが、まとめて撃ってよい状況ではなかった。
赤い布が高く掲げられたまま止まった。
指揮役たちが号令を繰り返し、銃口が下がっていく。
「武器を置いた者を分けろ!」
歩兵の隊長が命じた。
盾を持った兵が進み、降伏した隊を囲む。槍や剣を集める者と、負傷者を脇へ運ぶ者が動き始めた。
アレクは丘を見た。
敵の旗が減っていた。
すべて倒れたのではない。東へ移る旗があり、持ち主を失って地面に伏せた旗もある。
その間を、黒獅子の旗が進んでいた。
ギルベルトが近づいてきた。
「追いますか」
「歩兵と離れるな。撃てる兵と銃を確かめてくれ」
アレクは答えた。
銃を持つ手が重かった。
戦場にはまだ叫び声が残っている。遠くでは騎兵が動き、逃げる敵を追っていた。
それでも、正面からこちらへ押し寄せていた力は消えていた。
丘の上に、金の獅子が上がった。
近くの兵が声を上げた。
その声が隣へ伝わり、やがて歩兵の列からも歓声が返ってくる。
アレクは銃を支え直した。
川を越えた。
それだけではなかった。
地の利を頼みに集まった敵の軍を、ここで破ったのだ。
◇ ◇ ◇
日が落ちても、戦場の仕事は終わらなかった。
川の西岸へ負傷者を運ぶ列と、東岸へ食糧や水を運ぶ列が続いた。渡り場には兵が立ち、行き交う者がぶつからぬように順を決めていた。
捕虜は武器を集められ、隊ごとに分けられた。
負傷した捕虜も多い。武器を持つ者と混ぜず、治療する場所へ運ばせている。
アレクは、布を敷いた地面に並ぶ味方の銃を見ていた。
持ち主が戻らなかった銃もある。
傷ついた兵から預かったものもあった。
ギルベルトが帳面を持ってきた時、空はすっかり暗くなっていた。
「鉄砲隊は、十人が戦死。四十四人が、今は戦いに戻れません」
アレクは頷いた。
「名は」
「記してあります」
差し出された帳面を受け取った。
知っている名があった。
増員の際に入ってきた兵の名もある。
千人を揃えた時には、これだけいればと思った。その千人のうち、五十四人が一日の戦いで戦列を離れていた。
「銃の損傷と、弾薬の使用数もまとめています。本日の発射は、全隊で五千発を超えております」
「分かった。残りと装填済みの分を分けて確かめてくれ。明日の補充を頼む」
「承知しました」
アレクは帳面を閉じた。
遠くで、馬が嘶いた。
その声に顔を上げると、負傷者を乗せた荷車が川へ向かっていた。
アレクはしばらく、その灯りを見送った。
◇ ◇ ◇
翌朝、レオンハルトのもとへ戦果が集められた。
敵が残していった帳面と、捕らえた隊長たちの証言から、この方面に集められていた兵は一万八千と確認された。
ただし、今なお東へ逃れた兵のすべてを数えられたわけではない。
マティアスは、その点を分けて報告した。
「捕虜は六千ほどです。負傷している者も、この中に含んでおります。戦場で確認した死者と、逃れたものの戦いを続けられぬ負傷者を合わせれば、敵の損害は八千五百前後になると見ております」
「初めの丘の戦いも含めてか」
「はい。昨日の丘での死者と捕虜も含めた数です。東へ運ばれた負傷者の数には、まだ幅がございます」
一万八千の、半数近く。
それだけの兵を失えば、集め直すにも時間がかかる。
生きて逃れた者が、すべて同じ城へ戻ったわけでもなかった。捕虜の話では、自領の方へ向かった隊もあるらしい。
「こちらは」
レオンハルトが尋ねた。
マティアスは別の紙を開いた。
「前日の丘での戦いを含め、今朝までに確認した戦死者は百八十四。負傷して戦列を離れる者が六百十六。軽傷で戻れる者は、これに含めておりません」
レオンハルトは、しばらく黙っていた。
アレクも顔を上げなかった。
勝ったという言葉で、その数が軽くなるわけではなかった。
「遺族への知らせと、負傷者を戻す手配を進めよ。働きを記す時に、死んだ者の名を落とすな」
「承知しました」
「捕虜を守る兵も要る。次へ進める兵の数は、守備に残す兵を分けてから出せ」
マティアスが頷いた。
戦列に残るのは二万九千二百。
だが、その全員を次の城へ向かわせるわけにはいかない。渡り場、荷駄、負傷者、捕虜。ここで守るべきものが増えていた。
レオンハルトは地図を広げた。
川の東へ、街道が伸びている。
その先には、幾つもの城があった。
「敵の指揮官は」
「東へ退いたと見られます。まとまった騎兵を連れていたとの報告です」
「まだ兵を集めるつもりだろうな」
レオンハルトは、街道沿いの城を見た。
昨日まで、この川の向こうには一万八千の迎撃軍がいた。
城を助けに出る兵も、街道を取り返す兵も、その軍から動かせたはずだった。
今は違う。
城ごとに残る兵はいても、それらをまとめて支える軍が崩れている。
アレクは地図の端に置かれた小石を見た。
昨日、こちらがどこから川を渡るかを示していた石だった。
今日は、その先を考えている。
レオンハルトが顔を上げた。
「兵を立て直す時間は与えぬ」
天幕の外では、朝の点呼が始まっていた。
呼ばれた名に、兵の声が返ってくる。
「次は城を押さえる」
マティアスが頷き、将たちが地図へ身を寄せた。
アレクも、その輪へ加わった。
第八話を読んでいただき、ありがとうございました。
鉄砲隊が道を開き、歩兵が踏みとどまり、騎兵が決着をつける。それぞれの役割がつながった戦いでした。
勝利の代償を受け止めながら、レオンハルトたちはロスヴァールの城々へ目を向けます。
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