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『知らない世界で、前世の知識が武器になる』 ~剣と銃で乱世を生き抜く転生領主の成り上がり~  作者: 相田 ソウ
第七篇 乱世を越える黒獅子

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第八話 黒獅子、川を越える

お読みいただき、ありがとうございます。

川の手前に足場を得たグランヴァルト軍は、対岸へ進むために動き始めます。

アレクの鉄砲隊と、川を渡る仲間たち。それぞれの働きが、次の一歩を支えます。

 夜が明ける前に、最後の報告が届いた。

 北へ退いた敵の騎兵は、川沿いを進み、上流の浅い場所から東岸へ戻っていた。追跡していた斥候は、暗くなる前に渡河する姿を確かめ、その後も見張りを残していた。

「夜の間に、守りの兵が増えております」

 報告を聞いたマティアスが、地図の上へ小石を置いた。

「川底は」

「石が多く、馬の脚が大きく沈む様子はありませんでした。ただ、街道につながる渡り場ほど広くはございません」

 レオンハルトは頷いた。

 机代わりの板には、正面の渡り場と、北で見つかった渡り場が描かれている。その間を流れる川の東側に、敵主力の丘があった。

 昨日、アレクたちが押さえた小高い丘は西岸にある。そこから北を見張り、街道を通ってきた後続の兵を平地へ入れることで、夜のうちに軍を広げる場所を確保できていた。

 それでも、川の向こうへ進めたわけではない。

 正面の東岸には弓兵が並び、その後ろを槍兵が固めている。さらに後方の丘には、敵の主力が残っていた。

「向こうが守りたい場所は、一つではない」

 レオンハルトは二つの渡り場を見比べた。

「ならば、同時に守らせればよい」

 マティアスが顔を上げる。

「私が北へ参ります」

「歩兵六千、騎兵千を率いよ。無理に川へ押し込むな。だが、見せるだけの兵にはするな。渡れるなら渡れ」

「承知しました」

「向こうも、兵を送ってくるだろう」

「送らなければ、こちらが丘の横へ出ます」

 マティアスの返答に、レオンハルトが小さく頷いた。

 アレクはそのやり取りを聞きながら、地図を見ていた。

 北へ向かう七千を放置すれば、敵は側面を脅かされる。防ごうとすれば、その分だけ正面か丘の兵を動かさなければならない。

 敵に気づかれずに回り込む作戦ではなかった。

 気づいても、対応するために兵を割かせる。

 今度はこちらから、相手の配置を動かそうとしていた。

 書記官が、夜の間にまとめた兵数を読み上げた。

「戦闘を続けられる兵は、二万九千九百九十二にございます」

 昨日、騎兵二人が戦死し、六人が負傷して戦列を離れている。

 レオンハルトはその数を聞いてから、配置を命じた。

「北へ七千。西岸の拠点と荷駄、負傷者を守るために歩兵二千を残す。残りは正面だ」

 正面へ置くのは、歩兵と弓兵など一万六千、騎兵三千九百九十二、鉄砲隊千人だった。

 アレクの直属百人も、丘の守備を歩兵へ引き継ぎ、九百人と合流している。昨日使った弾薬は夜のうちに補われ、銃の点検も済ませていた。

「アレク」

「はい」

「川岸の弓兵を下げられるか」

 アレクは、昨夕に確かめた対岸の様子を思い出した。

 敵は渡り場へ矢を浴びせるため、丘から弓兵を下ろしている。こちらが川へ入れば狙われるが、西岸から届かない場所へ隠れているわけではなかった。

「鉄砲隊で正面を崩します」

 言い切ると、レオンハルトはアレクを見た。

「歩兵が渡り始めた後は」

「味方と重なる場所への射撃は止めます。東岸に足場ができたら、鉄砲隊も渡します」

「よい。川を越えた兵を、孤立させるな」

 ヴィクトルとエイドリアンが呼ばれた。

「最初に歩兵千二百を渡す。六百ずつ率い、東岸へ上がったところを守れ。後ろから二千八百を続ける」

「承知しました」

 二人の声が重なった。

 レオンハルトは、地図の川筋を指で押さえた。

「敵は、渡り切る前に押し返そうとする。最初の兵だけで丘まで取りに行くな。後ろを迎える場所を作れ」

 アレクはヴィクトルと目を合わせた。

 彼が頷く。

 対岸へ道を開けるのはこちらだ。その先を守るのは、ヴィクトルたちになる。

 マティアスは地図を畳むと、アレクへ顔を向けた。

「正面は任せる。こちらが動いた報せは、必ず送る」

「はい」

 マティアスが外へ出ると、冷たい朝の風が天幕へ入ってきた。

 川の向こうで、角笛が鳴った。

 ◇ ◇ ◇

 ロスヴァール軍の指揮官は、東岸の丘から西を見ていた。

 昨日より、旗が増えている。

 街道を通ってきた兵が、西岸の平地へ隊列を広げていた。丘を先に押さえたことで、敵は狭い道に詰まることなく後続を迎え入れている。

 北の渡り場から戻った騎兵の報告では、花の旗の隊は百人ほどだった。

 百人の火槍兵と、その脇を守った騎兵。

 それだけで、こちらが用意した最初の形を崩されていた。

 だが、川はまだこちらの前にある。

「弓兵は持ち場を離れるな。敵が岸へ寄っても、勝手に追うな」

 指揮官は命じた。

 正面には弓兵二千と、その後ろに槍兵三千を置いていた。北の渡り場には千を回し、残る兵を丘とその周囲に控えさせている。

 西岸の軍がどちらへ動いても、丘から兵を送れる。

 そう考えていたところへ、北から伝令が来た。

「敵が上流へ向かっております」

「数は」

「六千は下りません。騎兵もおります」

 指揮官は北を見た。

 ここからは低い丘が邪魔をして、渡り場そのものは見えない。

「見せかけではないのか」

「すでに弓兵が前へ出ております。渡り口を確かめる兵もいるとのことです」

 千では止めきれない。

 敵が渡り始めれば、こちらの主力の横へ出てくる。正面の川だけを見ているわけにはいかなかった。

「三千を北へ送れ。渡り切る前に止める」

 近くの将が声を返した。

 丘の上に待たせていた兵が動き始める。

 その列を見送りながら、指揮官は西岸へ目を戻した。

 今度は、正面の兵も動いていた。

 盾を持った歩兵が前へ出て、その後ろから長い筒を持つ兵が続いてくる。

 昨日の百人とは違った。

 列が、長い。

「……あれだけいるのか」

 思わず漏れた声を、隣の騎士が聞きとがめた。

 指揮官は答えず、弓兵へ伝令を出した。

「渡り場だけを狙うな。筒を持った兵を止めろ」

 ◇ ◇ ◇

 アレクは、盾の列の後ろを歩いていた。

 足元の草が朝露で濡れている。川岸へ近づくにつれ、土に小石が混じり始めた。

 背後には千人の鉄砲隊が続いている。

 直属の百人だけを別の場所へ向かわせるのではない。今日は、千人で正面を押し開く。

 アレクとギルベルトだけでは端まで声が届かないため、各隊を率いる者が間に立っていた。号令と合図を受け、その先の兵へ伝える役目だ。

 一班三百三十、二班三百三十、三班三百四十。

 大きな三班の中でも、兵は日頃から指示を受けている者のもとで動いていた。

「もう少し前だ」

 アレクが言うと、近くの指揮役が声を送った。

 盾を持つ兵が歩みを揃える。

 対岸から矢が飛んできた。

 土へ刺さる音がした。盾を叩いた矢が跳ね、後ろの兵の足元へ落ちる。

「止まるな!」

 歩兵の隊長が叫んだ。

 一人が膝をついた。肩の脇へ矢が刺さっている。隣の兵が支え、後ろへ引いた場所に、別の盾が入った。

 アレクは川を見た。

 渡り場の両脇では、岸が少しせり出している。昨日のうちに確かめた通り、その西側へ出れば、川沿いの弓兵を狙える。

 ただし、そこは敵の矢も届く場所だった。

 盾の縁を越えた矢が、後ろへ落ちた。

 短い悲鳴が聞こえた。

 アレクは振り返らず、指示を出した。

「怪我人は後ろへ。列を止めるな。空いた場所を詰めろ」

 ここで立ち止まり続ければ、矢を受けるだけになる。

 決めていた位置まで進み、アレクは手を上げた。

「ここで構える!」

 声が左右へ伝わった。

 兵が横へ広がり、後ろの班が間隔を取る。盾を持つ歩兵は鉄砲隊の動きを確かめながら、射撃の妨げにならない位置へ移っていった。

 正面の敵が弓を引いている。

 その後ろには、槍を持った兵が見えた。

「弾薬箱開放許可!」

 ギルベルトの号令を、各隊の指揮役が繰り返した。

「一発取れ! 装填!」

 アレクは川の流れへ一度目を落とし、対岸へ戻した。

 兵たちの手は動いている。

 矢を見て身体を縮めた者へ、隣の古参兵が何かを言った。その兵は頷き、銃を持ち直した。

 訓練では、矢は飛んでこなかった。

 その違いを、誰もが今知っていた。

「一班、装填状況!」

 端から返答が届く。

 ギルベルトはすべてを聞き取ろうとするのではなく、担当する指揮役が上げる合図を見ていた。

「一班、準備できております」

 アレクは対岸の弓兵を指した。

「川沿いの列だ。丘の奥へ向けるな」

 命令が伝えられる。

 盾の陰から銃口が揃い、赤い布が上がった。

「火蓋開け!」

 矢が一本、アレクの前へ落ちた。

 すぐそばだった。

 足を引きかけ、踏みとどまる。

「構え!」

 三百を超える銃が対岸を向いた。

「撃て!」

 轟音が川を渡った。

 アレクの前に白煙が広がり、対岸の姿を隠した。遅れて響いてきた音が、背後の丘へぶつかって返る。

 昨日の百挺とも違う。

 空気そのものが押し寄せるような響きだった。

「一班、火縄上げ! 後退!」

 兵が手で火縄ばさみを上げ、後ろへ下がる。

 煙の切れ目から、対岸が見えた。

 弓兵の列に穴ができていた。倒れた兵へ手を伸ばす者がいて、その横で弓を取り落とした者が腕を押さえている。

 無傷の兵も、すぐには次の矢を放てていなかった。

 隊長らしい男が剣を振り、列へ戻れと叫んでいた。

「二班、前へ!」

 アレクは、その男のいる付近だけを狙わせなかった。

 弓兵はまだ左右に残っている。渡り場へ矢を放てる位置にいる敵兵を、左右とも後退させる必要があった。

 第二の射撃が続いた。

 対岸で、盾を持つ槍兵が前へ出てきた。弓兵を後ろへ入れ、自分たちが受けようとしている。

 だが、盾の列が揃う前に、三班が構えた。

「撃て!」

 盾が傾いた。

 持ち主ごと後ろへ倒れたものもあれば、隣の盾に寄りかかるように崩れたものもあった。盾の裏へ隠れた弓兵が、さらに後ろへ下がる。

 矢はまだ飛んでくる。

 だが、最初のように揃ってはいなかった。

 アレクは、準備を終えて戻ってきた一班を前へ出した。

 敵は川から離れ始めている。

 逃げ散ったのではない。少し後ろへ陣を下げ、撃たれる場所から外れようとしていた。

 それでよかった。

 川岸を空けさせることが、今の役目だった。

「渡り場の正面へ向けろ。下がる列を追って、銃口を振り回すな!」

 次の射撃が、前に踏みとどまっていた兵を下げた。

 アレクは南側へ目を向けた。

 ヴィクトルが待っていた。

 剣を持つ手を上げ、こちらの合図を見ている。

 アレクは伝令を呼んだ。

「渡り場の正面への射撃を止める。進めると伝えろ」

 兵が走り、ヴィクトルへ言葉を届ける。

 彼の剣が前を向いた。

「進め!」

 盾を持つ兵が、水へ入った。

 ◇ ◇ ◇

 川の水は、冷たかった。

 ヴィクトルは馬を降り、兵とともに浅い場所を進んでいた。水の下の石へ足を置くたび、靴底がわずかに滑る。

 前の兵がよろめいた。

 隣の者が腕をつかみ、倒れる前に支える。

「急ぐな! 前の者を押すな!」

 ヴィクトルは声を張った。

 早く渡りたい気持ちは、自分にもあった。

 対岸に敵がいる。

 弓兵は下がったが、槍兵が消えたわけではない。ここで足を取られ、兵が重なれば、それだけ東岸へ上がるまでの時間が増える。

 エイドリアンの六百は、渡り場の南寄りを進んでいた。

 岸へ上がった先で互いに邪魔をしないよう、あらかじめ進む場所を分けている。

 先頭が東岸へ足をかけた。

 濡れた斜面を上り、盾を前へ向ける。

 その向こうで、敵の槍が動いた。

「来るぞ!」

 ヴィクトルが叫んだ。

 ロスヴァールの槍兵三千が、川へ向けて進み始めていた。

 こちらの先頭が上がったばかりなのを見て、押し戻しに来たのだ。

 まだ千二百すべてが岸へ出たわけではない。

 ヴィクトルは先頭へ追いつき、剣で左右を示した。

「ここを守れ! 丘へ向かうな。後ろを上げるんだ!」

 盾の列が作られていく。

 敵の槍が、その正面へ突き出された。

 鈍い音がした。

 盾を支えた兵の足が後ろへ滑り、膝が曲がる。後ろの兵が肩を押し当て、倒れるのを防いだ。

 ヴィクトルは横から伸びてきた槍を剣で払った。

 腕に重い衝撃が返る。

 すぐに次が来た。

 盾を持つ兵が割って入り、その穂先を受ける。ヴィクトルは礼を言う代わりに、空いた場所へ兵を寄せた。

「左を空けるな!」

 隣で一人が倒れた。

 後ろから来た兵が、その者を引きずって岸の脇へ運ぶ。その場所に次の盾が入った。

 川へ押し込まれれば、後続まで止まる。

 ヴィクトルは奥歯を噛みしめた。

 南側では、エイドリアンの旗が動いていた。

 先に上がった兵を横へ広げ、敵が岸沿いから回り込むのを防いでいる。彼自身も盾の列のすぐ後ろで、崩れかけた場所へ兵を送っていた。

「北へ寄りすぎるな! そこを開ければ、渡ってくる者を狙われる!」

 声が聞こえた。

 その時、背後から新たな足音が加わった。

 二千八百の後続が、次々に川へ入っていた。

 岸へ上がった兵が左右へ散り、前の列を支える。槍の数が増え、押されていた盾が止まった。

 ヴィクトルは息を吸った。

「押し返せ! 岸から離すぞ!」

 今度は、こちらの兵が足を前へ出した。

 敵の槍兵が、一歩下がった。

 その一歩で、後ろから上がる兵の場所ができた。

 ◇ ◇ ◇

 アレクは西岸から、東岸の旗を見ていた。

 渡り場の正面へは、もう撃っていない。

 味方の盾と敵の槍が重なり、どちらかだけを撃てる場所ではなかった。

 敵の弓兵が左右へ出ようとすれば、射線の空いている範囲へ銃口を向ける。それ以外では、撃てるからと撃たせなかった。

 銃を構えて待つ兵の腕が、少しずつ下がってくる。

「下ろして待て。合図を見ろ」

 アレクは伝えた。

 対岸へ渡りたい。

 ヴィクトルたちが押し合っているところへ、早く加わりたかった。

 だが、東岸に上がる場所がないうちに千人を送れば、銃を持った兵が川の中で詰まる。

 アレクは、旗の位置を見続けた。

 ヴィクトルの旗が、少し前へ動いた。

 南側でも、エイドリアンの旗が川から離れた。

 伝令が水を渡ってくる。

 息を切らし、濡れた足で岸へ上がった。

「東岸に場所ができました! 歩兵が四千、渡り終えます!」

 アレクは頷いた。

「鉄砲隊、渡河する。班ごとに進め。装備を濡らすな。転んだ者がいれば、隣が支えろ」

 ギルベルトが号令を送った。

 兵たちは銃と弾薬箱を確かめ、水へ入った。

 アレクも続いた。

 馬は西岸で待たせてある。

 今日ここで必要なのは、百騎で駆けることではなかった。千挺を、敵へ向けられる場所まで運ぶことだった。

 水の下で石が動いた。

 アレクは足を止め、踏み直す。

 向こう岸から叫び声が届いていた。盾を叩く音に混じって、人の悲鳴も聞こえる。

 それでも、前の兵を押さずに進んだ。

 岸へ上がると、待っていた歩兵が道を示した。

「こちらです!」

 東岸には、まだ広い余裕があるわけではなかった。

 歩兵の列が半円を描くように前を守り、その後ろに後続が入っている。アレクは、中央より少し南の空いた場所へ鉄砲隊をまとめた。

 エイドリアンが駆け寄ってきた。

「敵が押してくる。前を下げすぎると、川まで戻される」

「こちらに射撃の準備をさせてくれ。整ったら、中央の兵を左右へ寄せられるか」

 エイドリアンは敵との間を見た。

「急に開ければ、突っ込んでくるぞ」

「その正面を撃つ」

 短い沈黙の後、エイドリアンは頷いた。

「合図を待つ」

 彼が戻ると、アレクはギルベルトへ向き直った。

「濡れた銃がないか確かめろ。使えぬ者は無理をするな。撃てる兵を前へ揃える」

「承知しました」

 千人が岸を上がり切るまでには時間がかかった。

 その間にも、前では歩兵が戦っている。

 アレクは赤い布が上がるのを待った。

 やがて、各隊の指揮役から準備を知らせる合図が届く。

 アレクはエイドリアンへ手を上げた。

 歩兵の列が動き始めた。

 中央を守っていた兵が、盾を敵へ向けたまま左右へ寄る。大きく退くのではなく、鉄砲隊の前に射線を作っていく。

 敵も、その動きを見た。

 押し切れると思ったのか、中央の槍兵が前へ出る。

 アレクは、最後に残った味方の盾が外れるまで待った。

「一班、火蓋開け!」

 銃口が揃う。

 迫ってくる槍の先が見えた。

「構え!」

 アレクは剣を抜かず、前を見ていた。

 敵の顔が分かる。

 叫んでいる口も、盾を持つ腕も見える。

「撃て!」

 轟音が、東岸で響いた。

 先頭の敵兵が崩れた。

 盾が前へ倒れ、後ろの兵がそれにつまずく。横へ避けようとした兵は、隣の列へぶつかった。

 それでも、後方から押されて前へ出てくる者がいる。

 アレクは、その動きを見た。

 敵が射撃後の隙を狙ったのではない。

 後ろの兵には前で何が起きたか見えず、進めという命令だけが届いていた。

 倒れた仲間の前で足を止めた兵と、押してくる兵の間で、列が潰れていく。

「二班、前へ!」

 次の射撃が、後ろから押し寄せる敵兵の足を止めた。

 前へ出る足が止まり、今度は後ろへ下がろうとする動きが生まれる。

 敵の将校が剣を振っていた。

 その声より、兵の叫びの方が大きかった。

 三班が撃つ頃には、槍の列はもう揃っていなかった。

「歩兵、前へ!」

 エイドリアンが叫んだ。

 左右へ寄っていた味方が戻り、崩れた敵を押し下げる。

 鉄砲隊はその後ろを進んだ。

 敵を退かせた場所へ歩兵が入り、次に撃つための場所を作る。

 川岸から、少しずつ離れていった。

 ◇ ◇ ◇

 北の渡り場でも、兵は水の中にいた。

 マティアスは西岸に立ち、対岸から飛ぶ矢を見ていた。

 ここには鉄砲隊がいない。

 弓兵が矢を返し、盾を持った歩兵が先頭に立って進んでいる。川へ入る者を一度に増やせないため、前へ出た隊が東岸で持ちこたえられるかどうかが重要だった。

「敵の増援が着きました」

 伝令が告げた。

「三千ほどです。丘の方から来ております」

「合わせて四千か」

 マティアスは東岸を見た。

 守りが厚くなった。

 こちらの先頭が岸へ上がると、敵が槍を向けてくる。歩兵は盾を寄せ、後ろを待ちながら耐えていた。

「弓兵は、渡っている者の前へ撃つな。岸の北側にいる敵へ向けろ」

 命令を受けた隊長が走った。

 矢が飛ぶ向きが変わる。

 敵の弓兵が位置をずらす間に、こちらの歩兵が次の列を岸へ上げた。

 マティアスは伝令を呼んだ。

「正面へ知らせろ。敵三千を北へ引いた。こちらは渡河を続ける」

 伝令が駆け去った後、南から銃声が届いた。

 重なった音が、丘の間を抜けてくる。

 一度では終わらなかった。

 間を置いて、また響いた。

 マティアスは川の向こうの敵を見た。

 何人かが、南へ顔を向けていた。

 自分たちが守っている場所だけでなく、正面でも何かが起きていると知ったのだろう。

「前の隊を替えろ。疲れた者を岸の脇へ寄せ、次を入れよ」

 マティアスは命じた。

「取った場所を渡すな。こちらには、まだ兵がいる」

 六千の歩兵のうち、先に戦っている者ばかりに押し続けさせる必要はなかった。

 後ろから兵を送り、傷ついた者を下げる。

 敵は四千を集めていたが、さらに増やせる様子はない。

 東岸に上がった味方の列が、少しずつ厚くなっていった。

 ◇ ◇ ◇

「正面が下がっております!」

 ロスヴァール軍の指揮官のもとへ、伝令が駆け込んだ。

 丘の下を見れば分かった。

 川岸へ並べた槍兵が、こちらへ戻されている。前を向いたまま下がる隊もあれば、盾を捨てて走る兵もいた。

 その向こうで、敵の旗が増えていく。

 川を渡り終えた兵が、東岸へ広がり始めていた。

「四千を下ろせ。槍兵を受け入れ、そこで止める」

 指揮官は命じた。

「弓兵は南へ寄せろ。敵の横を狙わせる」

 丘に残した兵が動いた。

 正面へ兵を下ろし、退いてくる者をその間へ入れる。新しい列を作れば、まだ敵を押し返せる。

 指揮官はそう考えた。

 その時、北から別の伝令が来た。

「敵が渡り場の先へ出ております!」

「四千を置いたはずだ」

「持ちこたえておりますが、押されています。さらに兵を、と」

 指揮官は拳を握った。

 正面へ送った兵を戻せば、今度は川から上がってくる大軍を止められない。

 北へ兵を足せば、丘が薄くなる。

「北は今いる兵で支えよ。丘から離れすぎるなと伝えろ」

 伝令は一瞬口を開きかけたが、頭を下げて走った。

 指揮官は正面へ向き直った。

 新たに下ろした四千が、退いてきた槍兵を受け入れようとしている。

 だが、道を空けろという声と、そこへ並べという声が重なっていた。

 弓兵を南へ動かす命令も、同じ場所を通ろうとしていた。

 思ったほど速く、列が整わない。

 その前へ、敵の鉄砲隊が進んできた。

 ◇ ◇ ◇

 アレクは、敵の旗を見ていた。

 丘から下りてきた兵は、まだ戦っていない。列も比較的揃っている。

 その前へ、退いてきた槍兵が重なり始めていた。

 こちらから見て右側では、弓を持った兵が南へ動こうとしている。

「南の敵を見ておいてくれ」

 アレクはエイドリアンへ伝えた。

「弓兵が横へ出ようとしている」

「こちらで押さえる。正面を頼む」

 エイドリアンが歩兵の一部を南へ向けた。

 アレクは、鉄砲隊を止めた。

 射撃を続けながら進むことはできない。

 歩兵に前を守ってもらい、兵を揃え、次に撃つ場所を決める。

 ここで狙うべきなのは、逃げる兵ではなかった。

「丘から下りてきた列だ。旗の前にいる兵へ向けろ」

 命令が伝わる。

 敵の新しい列の前から、退く兵が左右へ分かれ始めていた。

 その隙間に、槍を構え直す者が見える。

 アレクは銃を構えた。

 細い線が、視界の中へ伸びた。

 だが、その線が味方千人の銃口まで動かすわけではない。

 どこへ隊を向け、いつ撃たせるかは、自分で決めなければならなかった。

 敵の列が揃い切る前に、撃つ。

 アレクは銃を下ろし、ギルベルトへ頷いた。

「一班、前へ!」

 赤い布が上がった。

 敵側でも、こちらへ盾を向ける声がした。

「撃て!」

 射撃が、新たな列を叩いた。

 前の兵が倒れ、後ろの兵が足を止める。退いてきた者たちがその音に驚き、さらに内側へ入り込もうとした。

 続いて二班が撃った。

 列を整えようとしていた将校が見えなくなった。

 旗は残っている。だが、その下へ兵を集める声が弱くなる。

 三班の射撃が重なると、敵の中央が大きくへこんだ。

 歩兵が前へ出る。

 鉄砲隊のすぐそばで、傷ついた兵が運ばれていった。

 こちらも無傷ではない。対岸へ進んでからも矢は届き、敵の弓兵を押さえる歩兵には犠牲が出ていた。鉄砲隊の列にも空きができ、そのたびに指揮役が兵を寄せ直していた。

 アレクは、後ろへ運ばれる兵の顔を見た。

 知っている者だった。

 声をかけようとして、飲み込む。

 今、列から目を離せば、さらに誰かを失う。

「装填状況を確かめろ。弾が少ない者は、指揮役へ知らせろ」

 アレクは声を出した。

 煙の向こうで、敵の旗が右へ動いた。

 北側の兵と、正面の兵をつなぎ直そうとしている。

 だが、その間に、まだ兵の埋まっていない場所があった。

 そこへ黒獅子の旗が向かっていた。

 ◇ ◇ ◇

 レオンハルトは、川を渡り終えた騎兵二千を待たせていた。

 馬が水から上がれば、すぐに全速で駆けられるわけではない。隊列を整え、前の歩兵とぶつからぬ場所へ移し、進める道を確かめさせていた。

 正面の鉄砲隊が敵を押す間に、後続の歩兵二千も渡り終えている。

 東岸にいる歩兵は、最初の四千と合わせて六千になった。

 その間を、騎兵が進むための道が空けられた。

「北からの報せです」

 伝令が来た。

「クレーマー伯爵様の歩兵が岸を押さえ、敵を南東へ押しております。騎兵も渡河を始めました」

 レオンハルトは丘を見た。

 敵はまだ兵を持っている。

 だが、北へ向ける兵と、正面へ向ける兵の動きが揃っていなかった。丘の裾に、新しい列を作ろうとする者がいる一方、そこへ戻ろうとする兵もいる。

 鉄砲隊の射撃が、さらに中央を揺らした。

 レオンハルトは剣を抜いた。

「中央へ入る。丘の上へ真っすぐ上るな。裾を抜け、敵の列を分ける」

 騎士たちが頷いた。

「前の歩兵を見ろ。道が空くまで、馬を走らせるな」

 号令が送られた。

 歩兵が左右へ寄り、騎兵の前に道ができる。

 レオンハルトは馬を進めた。

 最初はゆっくりと。

 味方の最後の列を抜けてから、速さを上げた。

 黒地に金の獅子を描いた旗が、前へ傾く。

 敵の槍兵がこちらを向いた。

 まだ槍は揃っていない。

 後ろへ下がる味方を止め、向きを変えさせようとする者がいる。盾を持ち直した兵の横を、別の兵が走り抜けた。

「続け!」

 レオンハルトの声が響いた。

 二千の騎兵が、丘の裾へ入った。

 衝突した場所から、敵の列が折れた。

 槍を突き出した兵もいた。馬を傷つけ、乗り手を落とした者もいる。

 だが、一つの列として受ける形ができていなかった。

 騎兵は崩れた場所から奥へ入り、敵を左右へ分けていく。

 レオンハルトは、正面へ出てきた騎士の剣を受けた。

 腕へ衝撃が走る。

 馬を寄せ、相手の次の振りを外した。

 近衛の槍が横から伸び、敵騎士の姿が後ろへ消える。

 レオンハルトは止まらなかった。

 丘へ退く兵と、川の方へ押し出される兵の間を進む。敵の伝令らしい騎兵が道を変え、命令を届ける先を見失ったように馬を返した。

 北では、マティアスの旗が川から離れ始めていた。

 両方の戦線を支えようとしていたロスヴァール軍が、今度はその間を断たれていた。

 ◇ ◇ ◇

「丘へ戻れ!」

 ロスヴァールの指揮官は叫んだ。

「旗の下へ集まれ! 勝手に東へ逃げるな!」

 声を伝える者が走った。

 だが、丘の裾には敵の騎兵がいる。

 戻れと言われても、そこを越えられない隊があった。

 北へ送った兵も、押されながら下がってきている。その後ろには、グランヴァルトの歩兵と騎兵が見えた。

 正面では、新型火槍の発射音がまた響いた。

 指揮官は、残っていた兵を丘の中腹へ並べようとした。

 そこで受け止めれば、まだ全軍の崩壊は防げる。

 しかし、下から上がってきた兵が、その列の間へ入り込んだ。

「後ろへ通せ!」

「そこを空けるな!」

 異なる命令が重なる。

 旗を持つ兵が倒れ、別の者が拾おうとした。その脇を、馬を失った騎士が駆け上がってくる。

「陣を移さねばなりません!」

「まだ戦える」

「ここへ兵が戻れません!」

 その言葉に、指揮官は丘の下を見た。

 正面の兵と、北の兵。

 どちらも自分の旗を見ていたはずだった。

 今は、目の前の敵から逃れることに必死になっている。命令を受け取る隊長が見つからず、伝令が戻ってきていた。

 丘を守ることと、軍を守ることが、同じではなくなっていた。

 指揮官は歯を食いしばった。

「東へ退く。道を確保しろ」

 その命令が伝わった時、前で戦っていた兵のすべてが退けたわけではなかった。

 丘へ向かう道を断たれた一隊が、旗を下げた。

 隊長が剣を置き、両手を上げる。

 その周囲で槍が地面へ落ちた。

 一つの隊が武器を置くと、隣の隊も動きを止めた。

 まだ戦う者の声に、もう戦えぬ者の叫びが重なった。

 ◇ ◇ ◇

「撃つな!」

 アレクは声を張った。

 前方で槍が捨てられていた。

 旗を下ろした敵兵が、地面へ膝をついている。その後ろにはまだ逃げる者もいたが、まとめて撃ってよい状況ではなかった。

 赤い布が高く掲げられたまま止まった。

 指揮役たちが号令を繰り返し、銃口が下がっていく。

「武器を置いた者を分けろ!」

 歩兵の隊長が命じた。

 盾を持った兵が進み、降伏した隊を囲む。槍や剣を集める者と、負傷者を脇へ運ぶ者が動き始めた。

 アレクは丘を見た。

 敵の旗が減っていた。

 すべて倒れたのではない。東へ移る旗があり、持ち主を失って地面に伏せた旗もある。

 その間を、黒獅子の旗が進んでいた。

 ギルベルトが近づいてきた。

「追いますか」

「歩兵と離れるな。撃てる兵と銃を確かめてくれ」

 アレクは答えた。

 銃を持つ手が重かった。

 戦場にはまだ叫び声が残っている。遠くでは騎兵が動き、逃げる敵を追っていた。

 それでも、正面からこちらへ押し寄せていた力は消えていた。

 丘の上に、金の獅子が上がった。

 近くの兵が声を上げた。

 その声が隣へ伝わり、やがて歩兵の列からも歓声が返ってくる。

 アレクは銃を支え直した。

 川を越えた。

 それだけではなかった。

 地の利を頼みに集まった敵の軍を、ここで破ったのだ。

 ◇ ◇ ◇

 日が落ちても、戦場の仕事は終わらなかった。

 川の西岸へ負傷者を運ぶ列と、東岸へ食糧や水を運ぶ列が続いた。渡り場には兵が立ち、行き交う者がぶつからぬように順を決めていた。

 捕虜は武器を集められ、隊ごとに分けられた。

 負傷した捕虜も多い。武器を持つ者と混ぜず、治療する場所へ運ばせている。

 アレクは、布を敷いた地面に並ぶ味方の銃を見ていた。

 持ち主が戻らなかった銃もある。

 傷ついた兵から預かったものもあった。

 ギルベルトが帳面を持ってきた時、空はすっかり暗くなっていた。

「鉄砲隊は、十人が戦死。四十四人が、今は戦いに戻れません」

 アレクは頷いた。

「名は」

「記してあります」

 差し出された帳面を受け取った。

 知っている名があった。

 増員の際に入ってきた兵の名もある。

 千人を揃えた時には、これだけいればと思った。その千人のうち、五十四人が一日の戦いで戦列を離れていた。

「銃の損傷と、弾薬の使用数もまとめています。本日の発射は、全隊で五千発を超えております」

「分かった。残りと装填済みの分を分けて確かめてくれ。明日の補充を頼む」

「承知しました」

 アレクは帳面を閉じた。

 遠くで、馬が嘶いた。

 その声に顔を上げると、負傷者を乗せた荷車が川へ向かっていた。

 アレクはしばらく、その灯りを見送った。

 ◇ ◇ ◇

 翌朝、レオンハルトのもとへ戦果が集められた。

 敵が残していった帳面と、捕らえた隊長たちの証言から、この方面に集められていた兵は一万八千と確認された。

 ただし、今なお東へ逃れた兵のすべてを数えられたわけではない。

 マティアスは、その点を分けて報告した。

「捕虜は六千ほどです。負傷している者も、この中に含んでおります。戦場で確認した死者と、逃れたものの戦いを続けられぬ負傷者を合わせれば、敵の損害は八千五百前後になると見ております」

「初めの丘の戦いも含めてか」

「はい。昨日の丘での死者と捕虜も含めた数です。東へ運ばれた負傷者の数には、まだ幅がございます」

 一万八千の、半数近く。

 それだけの兵を失えば、集め直すにも時間がかかる。

 生きて逃れた者が、すべて同じ城へ戻ったわけでもなかった。捕虜の話では、自領の方へ向かった隊もあるらしい。

「こちらは」

 レオンハルトが尋ねた。

 マティアスは別の紙を開いた。

「前日の丘での戦いを含め、今朝までに確認した戦死者は百八十四。負傷して戦列を離れる者が六百十六。軽傷で戻れる者は、これに含めておりません」

 レオンハルトは、しばらく黙っていた。

 アレクも顔を上げなかった。

 勝ったという言葉で、その数が軽くなるわけではなかった。

「遺族への知らせと、負傷者を戻す手配を進めよ。働きを記す時に、死んだ者の名を落とすな」

「承知しました」

「捕虜を守る兵も要る。次へ進める兵の数は、守備に残す兵を分けてから出せ」

 マティアスが頷いた。

 戦列に残るのは二万九千二百。

 だが、その全員を次の城へ向かわせるわけにはいかない。渡り場、荷駄、負傷者、捕虜。ここで守るべきものが増えていた。

 レオンハルトは地図を広げた。

 川の東へ、街道が伸びている。

 その先には、幾つもの城があった。

「敵の指揮官は」

「東へ退いたと見られます。まとまった騎兵を連れていたとの報告です」

「まだ兵を集めるつもりだろうな」

 レオンハルトは、街道沿いの城を見た。

 昨日まで、この川の向こうには一万八千の迎撃軍がいた。

 城を助けに出る兵も、街道を取り返す兵も、その軍から動かせたはずだった。

 今は違う。

 城ごとに残る兵はいても、それらをまとめて支える軍が崩れている。

 アレクは地図の端に置かれた小石を見た。

 昨日、こちらがどこから川を渡るかを示していた石だった。

 今日は、その先を考えている。

 レオンハルトが顔を上げた。

「兵を立て直す時間は与えぬ」

 天幕の外では、朝の点呼が始まっていた。

 呼ばれた名に、兵の声が返ってくる。

「次は城を押さえる」

 マティアスが頷き、将たちが地図へ身を寄せた。

 アレクも、その輪へ加わった。

第八話を読んでいただき、ありがとうございました。

鉄砲隊が道を開き、歩兵が踏みとどまり、騎兵が決着をつける。それぞれの役割がつながった戦いでした。

勝利の代償を受け止めながら、レオンハルトたちはロスヴァールの城々へ目を向けます。


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