第六話 勝利を携えて帰る城
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アルヴェインから帰還して三か月。アレクは、新たな旗と騎馬鉄砲隊を率いて東部へ向かいます。
各地の兵が集う城で、レオンハルトが進む先を示します。
アルヴェインから戻って、三か月が過ぎていた。
街道の先に城が見えた時、アレクは思わず馬の歩みを緩めた。
城壁の姿には見覚えがある。門へ続く坂も、その脇を流れる小川も変わっていない。それなのに、以前とはまるで違う場所に来たようだった。
城の西側に広がる平地を、幾筋もの旗が埋めている。白い天幕の列の向こうでは、槍を担いだ兵が進み、その間を馬に乗った伝令が駆けていた。街道から枝分かれした道には荷車が並び、穀物の袋を下ろす者と、空になった車を引き出す者が絶えず行き交っている。
かつてイグナーツが諸侯を集めた城の周囲に、今はグランヴァルト各地の兵が集まっていた。
「ずいぶん増えましたな」
隣へ馬を進めたギルベルトが言った。
「王都を出る時に聞いた数より、多く見える」
「これだけの兵を一度に見渡せる場所も、そうはありません」
城下へ近づくと、道の左右で馬をつないでいた兵が顔を上げた。先頭で揺れる旗には、林檎の花と、その周りに五つの蕾が描かれている。アレクの新しい旗だった。
出来上がった旗をマティアスとレオンハルトに見せた時のことを、アレクは思い出した。
二人とも、広げられた旗をしばらく眺めていた。先に笑みを浮かべたのは、レオンハルトだった。
「林檎の花か。これを見せたい相手が、ほかにもいるのではないか」
アレクが返事に詰まると、マティアスまで小さく笑った。
「エリーゼ様も、喜ばれるだろうな」
「……まだ、お見せしておりません」
「ならば、楽しみが一つ増えたな」
レオンハルトはそう言って笑った後、改めて旗へ目を向けた。
「よい紋章だ。戦場でも、これがアレクの旗だと覚えられる」
「私もそう思います」
マティアスが頷き、アレクへ顔を向けた。
「兵も、この旗を見て集まるようになる。大切にしろ」
「はい」
その旗が今、百人の先頭に立っている。アレクは風に開いた林檎の花を見上げ、背筋を伸ばした。
道端の兵たちの視線が、旗から、馬上の兵が携えた火縄銃へ移った。
「鉄砲隊だ」
「馬に乗って来たぞ」
声が追ってきたが、列は崩れなかった。
アレクの後ろには、直属の百人が続いている。乗馬を始めた頃のように、一頭が立ち止まっただけで後ろまで詰まることはなくなった。馬の間を空け、前が緩めれば後ろも歩みを落とす。そうした動きに、毎日の訓練が表れていた。
最初から百人を一度に馬へ乗せたわけではない。
先に覚えた者が次の者を助け、王の騎兵から来た指導役に何度も注意されながら、少しずつ人数を増やしてきた。落馬した兵もいれば、馬へ近づくところからやり直した兵もいる。
アレク自身、銃を扱う手と手綱を扱う手が、思うように働かず困ったことは一度や二度ではなかった。
今でも、馬上から狙えば地面に立った時ほどには定まらない。見えるようになった細い線も、馬の揺れまで消してはくれなかった。
それでも、歩いていた時には届かなかった距離へ、百人でたどり着ける。
その違いは、王都からここまでの道でも十分に感じられた。
「城の中へ入る前に、馬を休ませよう。兵にも水を飲ませてくれ」
「承知しました」
ギルベルトが後方へ指示を送り、列を道の脇の指定された場所へ導いた。アレクが下馬すると、待っていた兵が一人、駆け寄ってきた。
「ハルトマン子爵様。クレーマー伯爵様より、お着きになりましたら城へお越しくださるようにと」
「マティアス様は、もう戻られたのか」
「昨日、お着きになりました」
アレクは城門を見上げた。
マティアスがカルディアへ向かってから、届くのは短い書状ばかりだった。交渉が進んでいることは分かっても、どこまで話がまとまったかまでは知らされていない。
兵を休ませる場所を確かめてから、アレクは城へ向かった。
門の内側にも、変化があった。
以前は何も置かれていなかった一角に屋根がかけられ、修理を待つ車輪が並んでいる。壁際には新しい木材が積まれ、その向こうから金槌の音が響いていた。荷を運ぶ者の通路と、兵が出入りする通路は分けられ、門前に車が止まり続けないよう兵が声をかけている。
その声の中に、聞き覚えのあるものが混じっていた。
「その樽は手前の倉だ。奥へ入れると、明日また全部出すことになる」
帳面を持ったロベルトが、荷車の脇に立っていた。
アレクに気づくと、片手を上げる。
「着いたか。馬で来るようになっても、荷は勝手についてこないぞ」
「分かっている。こちらの荷車が着いたら、決められた場所へ向かわせる」
「それならいい。今日は、置き場所を聞きに来る者だけで小隊が作れそうだ」
そう言いながらも、ロベルトの目は荷車から離れなかった。御者が違う倉へ向きかけると、すぐに指を伸ばして止める。
「ずいぶん忙しそうだな」
「忙しいだけならいい。足りなくなってから走り回るよりはな」
ロベルトは帳面を閉じ、ようやくアレクへ顔を向けた。
「城の中だけ見て驚くなよ。裏の道にも倉を増やしている。陛下は本当に、ここから国一つを取りに行くおつもりだ」
軽い調子で言った最後の言葉が、アレクの胸に残った。
城外に広がる旗の数を、もう一度思い出した。
◇ ◇ ◇
マティアスは、城内の一室で書状を整理していた。
机には地図と封書が置かれ、その隅に旅用の手袋が重ねてある。昨日戻ったばかりと聞いていたが、休んでいた様子はなかった。
「戻ったか、アレク」
「はい。お帰りをお待ちしておりました」
「こちらも待っていた。百人とも、無事に着いたか」
「はい。馬も大きく体調を崩したものはありません」
「それならよい。座れ」
アレクが腰を下ろすと、マティアスは机の上の書状を一つ寄せた。二つの国の印がある。
「カルディアとの話がまとまった。陛下への報告は済ませてある」
「協力を受けてくださったのですね」
「ああ。ただし、ロスヴァールとの戦が続く間に限る。あちらの軍をこちらへ呼ぶわけでも、こちらから兵を預けるわけでもない」
マティアスは地図の上で、二つの戦線を指した。
グランヴァルトが入る西側と、カルディアが長く戦ってきた国境地帯。間には、幾つもの城と街道がある。
「互いの戦況を知らせ、兵を引くような大きな変更は先に協議する。片方だけで講和を決め、敵の全軍をもう片方へ向けさせることも避ける。その点は、特に念を入れた」
「向こうも、それを恐れていたのですか」
「こちらが少し領地を取ったところで満足して帰れば、ロスヴァールは再びカルディアへ兵を集める。逆に、あちらが先に手を引けば、こちらが同じ目に遭う」
同じ敵と戦うというだけで、互いを信用できるわけではなかった。
アレクが書状へ目を落とすと、マティアスはわずかに口元を緩めた。
「最初は、どこまで進めばこちらが兵を引くのか、そればかり聞かれた」
「何とお答えになったのですか」
「ロスヴァールが再び我が国の諸侯を動かし、争いを起こせるままでは終わらぬ、と」
その言葉を聞いた相手の顔が、アレクにも想像できた。
小さな国境争いの助力を求めに来たのではない。マティアスが携えていたのは、ロスヴァールの王権を倒すという、新しい王の意思だった。
「すぐには納得されなかったでしょう」
「向こうにも守る城があり、兵を養う事情がある。こちらが戦を大きくしたいと言うだけでは動かん」
マティアスは椅子へ背を預けた。
「カルディアは長く戦い続けている。土地を取り返したい気持ちはあっても、どこまでも兵を進めたいわけではない。こちらへ余計な要求をされることも警戒していた」
「それで、別々の戦線を保つと」
「あちらが担えることと、こちらが必要とすることを合わせた。無理な約束を取っても、守れなければ意味がない」
アレクは頷いた。
勝つために必要なのは、兵を多く集めることだけではない。相手に果たせない役目を押しつければ、戦いが始まってから綻びが出る。
「相手が何を欲しがっているかだけでは足りん。何を失いたくないのかも考えろ」
マティアスが言った。
「同じ条件でも、それによって受け取り方は変わる。土地の広さを示すより、今いる兵を無駄に失わずに済むと分かる方が、話の進む相手もいる」
「……はい」
「ただし、相手を安心させたいからと、守れぬ約束はするな。後で陛下に頼めばよい、では済まん」
アレクは改めて頷いた。
これまでマティアスのそばで、何度も交渉を見てきた。話している時だけを見れば穏やかでも、その前には相手を調べ、こちらが出せるものを確かめている。
言葉が巧みだから、まとまるのではなかった。
「覚えておきます」
「ああ。これから先は、敵の領主と話す機会も出てくるだろう」
マティアスは立ち上がり、書状を取り上げた。
「陛下のところへ行く。鉄砲隊の様子は、アレクからも報告しろ」
◇ ◇ ◇
広間の机には、城の周囲と東へ続く街道を描いた図が広げられていた。
レオンハルトは窓際に立ち、外の陣営を見ていた。アレクたちが入ると振り返り、挨拶を受けてから机へ戻る。
「百人を馬で連れて来たそうだな」
「はい」
「歩いていた時とは違うか」
「大きく違います。ただ、着いた先ですぐに働けるようにするには、馬の扱いまで含めて考えなければなりません」
「馬だけ疲れさせて、兵が元気でも役には立たんからな」
レオンハルトは椅子へ腰を下ろした。
「どこまで使える」
「まとまって移動し、下馬して射撃するところまでは、繰り返し訓練しています。乗馬したままの射撃もできますが、狙いの正確さには差があります。離れた相手を確実に狙うなら、下馬させます」
「初めから騎兵と同じ働きをさせようとはするな。馬で運ぶだけでも、鉄砲隊の使い道は増える」
「はい」
間に合う距離が変わる。
アレクが騎馬鉄砲隊を考えた時、最初に求めたものだった。
レオンハルトはそれ以上その場で試させようとはせず、書記官へ目を向けた。
「揃った数を」
「本日までに到着し、確認を終えた兵は、歩兵と弓兵などが二万四千、騎兵が五千、鉄砲隊が千。合わせて三万にございます」
数字が広間へ落ちた。
城外で旗を見た時には、ただ多いと感じた。声にして聞くと、一人一人が食べ、眠り、命令を待っていることが、かえって重く感じられた。
「鉄砲隊の千人には、アレクの百人も含んでおります。馬に乗る百人を、騎兵の五千へ重ねて数えてはおりません」
マティアスが補った。
増員した六百人は、レオンハルトとマティアスに属している。アレクの直属が増えたわけではない。
東部で生じた欠員も、回復して戻った者と、新たに訓練を受けた者で補われていた。並ぶ銃は千挺になったが、それを持つ顔がすべて以前と同じではなかった。
「新しく入った兵はどうだ」
「号令で動き、各班の指揮を受けて射撃を続けるところまではできています。まだ実戦を知らない者も多いため、経験のある兵を教える側へ回し、班を率いる者を増やしました」
アレクは答えた。
「私と鉄砲隊長だけで、千人すべてを見る形にはしていません」
「よい。指揮する者が一人倒れただけで、動けなくなる隊にはするな」
「はい」
マティアスが別の帳面を開いた。
「輸送に当たる御者や人足、職人は、この三万とは別です。兵糧は城へ集める分と、軍に持たせる分を分けてあります。出立も隊ごとに時刻をずらし、門と街道へ一度に押し出さぬようにいたします」
「進んだ先の補給は」
「まず国境までの継ぎ場を使います。その先は、街道と城を押さえるたびに延ばします。前へ運ぶ車と、戻る車の通り道も、現地で確かめさせます」
レオンハルトは図を見下ろし、街道に沿って指を動かした。
「先へ進む兵が多くても、後ろが詰まれば止まる。荷を運ぶ者にも、無理を重ねさせるな」
「承知しております」
「それから、民の倉を勝手に開けた者は処罰する。必要な品は、決めた者を通して集めろ。各家の兵にも徹底させよ」
書記官の筆が動く。
その命令を聞きながら、アレクは城門で見たロベルトを思い出した。樽を一つ違う倉へ運ぶだけでも、後の仕事が増える。三万の軍を進めるには、剣を抜く前から多くの者の手が要るのだった。
続いて、机へ置かれたのは鍛冶町からの報告だった。
町の調査を終えた後、王の許可を受けて始まった試作は、この三か月で何度も作り直されていた。古い大砲を扱ったことのある職人も加わり、砲そのものだけでなく、それを載せて動かす台や車の手直しも進めている。
マティアスが報告の一節を読み上げると、レオンハルトは顔を上げた。
「試し撃ちでは、以前のものよりまとまって当たったか」
「はい。ただし、それだけで引き渡してよいとはしておりません。撃った後の状態と、運んだ後でも同じように使えるかを確かめているところです」
「いつ、こちらへ出せる」
「検査を終えたものから、少数ずつです。砲手と修理のできる職人をつけ、後を追わせる手筈にしております」
レオンハルトはアレクを見た。
「考えた通りのものに近づいているか」
「報告を読む限りでは。ただ、私も完成したものをここで見てはいません。城へ向ける前に、運んできた状態で確かめたいと思います」
「そうしろ」
レオンハルトは書状を机へ戻した。
「出立の日に並べるためだけに、使えぬものを持って来させる必要はない。職人には、戦場で役立つものを届けよと伝えろ」
「承知しました」
アレクはわずかに肩の力を抜いた。
大砲があれば、兵が城壁へ取りつく前にできることが増える。だが、期待ばかり先へ走っても、現場で扱う者を困らせるだけだった。
レオンハルトは椅子から立つと、窓へ歩み寄った。
外では、新たに到着した一隊が旗を立てていた。兵の声が、開いた窓からかすかに聞こえる。
「明日、この城を発つ」
広間にいた者たちが姿勢を正した。
「その前に、兵へ話をする。城外に場所を用意せよ」
「かしこまりました」
「それと、いつまでもイグナーツの城と呼ぶのはやめる」
レオンハルトが振り返った。
「ここには、別の役目を与えた。その役目に合う名をつける」
◇ ◇ ◇
翌朝、城の西側の広場には各隊の旗が集まっていた。
城壁に近い一段高い場所へ、木の足場が組まれている。その前には各家の当主と隊を率いる者が並び、兵は所属ごとに列を作っていた。
アレクはマティアスの近くに立ち、後方を振り返った。
広場に収まらない隊は、続く平地に並んでいる。さらに遠くには、荷車の列が見えた。城門と倉の見張りは持ち場に残り、交代する兵が命令を伝えに走っていた。
カスパルが隣へ来て、小さく息を吐いた。
「こうして並ぶと、歩く場所を決めるだけでも一苦労だな」
「勝手に動けば、隣の隊とぶつかる」
「兵だけなら、まだいい。馬にそれを説明できれば楽なんだが」
アレクが返事をする前に、近くの馬が鼻を鳴らした。
カスパルはそちらを見て、口を閉じる。
「聞かれたな」
ヴィクトルが言うと、エイドリアンの口元にも笑みが浮かんだ。
ロベルトは最後まで後方の荷車を見ていたが、城門から近衛が現れると、帳面を従者へ渡して前へ向き直った。
笑い声が消えた。
黒地に金の獅子を描いた旗の下を、レオンハルトが歩いてくる。
王冠を戴いた儀礼の席とは違い、鎧を身につけ、腰には剣を帯びていた。足場へ上がる動きにためらいはなく、兵の前へ立つと、まず左右の旗を見渡した。
誰かが声を上げかけ、近くの隊長に止められた。
静けさが、前の列から広がっていく。
「顔を上げよ」
レオンハルトが言った。
「これから共に戦う者の顔を、見ておきたい」
兵たちが顔を上げた。
レオンハルトは少しの間、兵を見ていた。王都から来た者、東部で戦った者、今回初めて黒獅子の旗の下へ加わった者が、同じ方を向いている。
「この城には、かつて王国を割ろうとした者たちが集まった」
低く、よく通る声だった。
「諸侯を争わせ、仕える家の違う兵をぶつけ合い、その間に町が焼かれた。耕す者を失った畑も、主を失った家も、まだ東部に残っている」
アレクの脳裏に、焼けた町がよぎった。
石の間に残った黒い木材と、立ち上る煙。戻らない者を待っていた子の声。
手を握りかけ、ゆっくりと開いた。
「だが、今日ここに集まったのは、この国を一つに支える者たちだ。ゆえに、この城にも新しい名を与える」
レオンハルトが背後の城を指した。
「この城を、今日よりジークブルクと呼ぶ。我らが勝利を携えて帰る城だ」
一瞬の静けさの後、近くの兵から声が上がった。
「ジークブルク!」
それを聞いた後ろの列が、同じ名を呼ぶ。
新しい名が広がる間、レオンハルトは待った。旗が揺れ、声が少しずつ落ち着いてから、再び口を開く。
「東部で剣を取った者たちよ。城を守り、街道を開き、傷ついた仲間を連れ帰った者たちよ。荷を運び、兵を食わせ、その帰りを支えた者たちよ」
列の中で、兵たちがわずかに顔を動かした。
自分の働きも認められたと気づいたような動きだった。
「お前たちの働きが、この国を支えた。王が替わったからといって、その功が消えることはない。どの家の旗の下で務めを果たした者であろうと、俺はその働きに報いる」
アレクの前で、年嵩の騎士が背を伸ばした。
先王のもとで長く仕えてきた家の者だった。隣に立つ若い当主も、同じように顔を上げている。
「そのうえで、今日は新たな戦を命じる」
レオンハルトの声が変わった。
「向かう先は、ロスヴァールだ」
広場が静まり返った。
「東部の争いへ金と使者を送り、我が国の内に自らの盾を作ろうとした。その事実は、押さえた書状と、金の受け渡しを知る者の証言を突き合わせて確かめている」
城を接収してからも、調べは続いていた。
諸侯のもとに残された書状だけでなく、使者が通った道や、渡された金の行方も追われた。ロスヴァール側の窓口から出た指示は、複数の家に残っていた記録とつながっていた。
何も知らずに遠い国へ向かうのではない。
アレクは昨日、マティアスから見せられた調査のまとめを思い出した。
「この国の諸侯を動かし、この国の兵を殺し合わせれば、自分たちは別の戦へ兵を向けられる。そう考えた者たちが、国境の向こうにいる」
レオンハルトの手が、足場の縁に置かれた。
「俺は、それを許さぬ」
兵の誰かが、低く声を漏らした。
「東部で失った者たちは帰らぬ。だが、残された者の明日まで、あの国の思惑に委ねるつもりはない。再び諸侯へ金を渡し、次の争いを起こす力を残して帰るつもりもない」
風が吹き、金の獅子が大きく広がった。
「ロスヴァールの王権を倒す。この国の背後へ手を伸ばし、争いを繰り返させる力を断つ」
それは、国境の城を幾つか取るための命令ではなかった。
アレクの周囲にいた者たちにも、それが伝わっていた。笑う者はいない。槍を握り直す音と、鎧の触れる音が近くで聞こえた。
「だが、敵国の民を苦しめることを手柄とするな。武器を置いた者を斬るな。勝った兵が勝手に奪い始めれば、我らは自ら次の敵を作ることになる」
レオンハルトは兵を見渡した。
「町を焼いた者を討った俺たちが、進む先で同じことをしてよいはずがない」
アレクは、顔を上げたまま息をついた。
怒りを忘れろと言われたのではない。
誰へ向けるのかを、王が示していた。
「俺は、お前たちだけを戦場へ送るつもりはない」
レオンハルトが腰の剣へ手を添えた。
「俺も行く。同じ道を進み、同じ敵と戦う。王都で勝利の報せだけを待っているつもりはない」
「おお……」
抑えていた声が、列のあちこちから上がった。
「家を守るために戦う者もいるだろう。功を立てたい者もいるだろう。失った仲間の名を胸に、ここへ来た者もいるはずだ。そのどれも、俺は忘れぬ」
レオンハルトが剣を抜いた。
朝の光が刃を走った。
「働きには功を。傷ついた者には支えを。帰りを待つ者には、争いを繰り返さぬ国を。それを持ち帰るために、俺たちは進む!」
最前列の兵が、槍を高く掲げた。
「黒獅子の旗に続け!」
歓声が上がった。
近くの声が耳を打ち、後方から返ってきた声が重なる。レオンハルトの名を呼ぶ者もいれば、新しい城の名を叫ぶ者もいた。
アレクも、気づけば声を上げていた。
隣でヴィクトルが剣を掲げ、エイドリアンが自分の兵へ振り返っている。カスパルは笑っていたが、その目は王から離れていなかった。
遠くの隊には、ここで交わされた言葉のすべてが届いたわけではない。
話を聞いていた将校たちが戻り、王の命令を伝えていた。そのたびに新しい歓声が生まれ、旗が上がる。
城に近い広場から、天幕の並ぶ平地へ。
さらに、荷車の列が続く街道の方へ。
三万の軍の中を、出征の声が広がっていった。
◇ ◇ ◇
「三万だと」
ロスヴァールの王が、報告を持ってきた男を見下ろした。
男の旅装には土がつき、膝をついた床にも細かな砂が落ちていた。国境の城から馬を替え、休む間を惜しんで来たのだと、その姿だけでも分かった。
「正確に全軍を数えられたわけではございません。ですが、城の周囲へ集まった各家の隊と、街道を通った兵の数を合わせれば、その規模に達するものと」
「イグナーツの城に、それだけ入るものか」
「城内だけではございません。西の平地に陣が広がり、倉も増やされています。荷車は、今も入り続けております」
王の指が、肘掛けを叩いた。
東部でイグナーツたちが敗れた報告は、すでに受けている。グランヴァルトの王が替わったことも知っていた。
それでも、次に必要なのは国内を落ち着かせる時間だと見ていた。
敗れた諸侯の領地を取り上げ、味方へ与え、兵を帰す。王位を得たレオンハルトにも、そうした仕事が山ほどあるはずだった。
国境に兵が増えたと聞いた時も、威嚇と警戒のためだという意見が多かった。
報復があるとしても、国境の城を一つか二つ狙う程度。その見立てでは、もう説明がつかない。
「黒獅子は」
「城へ入ったことを、確認しております」
居並ぶ重臣の一人が、隣の者へ目を向けた。
王自身が、三万に及ぶ軍のもとへ来ている。
「西部の諸侯へ、直ちに兵を集めさせよ」
王が命じた。
「カルディアの前にいる軍からも回す。あちらにばかり兵を置いておくわけにはいかん」
「陛下」
軍務を預かる重臣が、一歩進み出た。
「その方面から、すでに報告が届いております」
「ならば、早く申せ」
重臣は書状を開いた。
カルディアと戦う軍を預かる将からのものだった。国境の動きだけでなく、兵を抜く場合に生じる穴まで、簡潔に記されている。
「敵は、以前より広く斥候を出しております。こちらが兵を減らせば、城の間の街道へ出てくる可能性が高いと。特に、後方とのつながりを守る兵は動かすべきではないとのことです」
「どこも動かせぬと言うのか」
「いえ。退く持ち場を先に決め、兵糧と負傷者を移す時間をいただければ、一部をまとめ直すことはできると。ただし、城を守る兵まで急に抜けば、残った隊も持たなくなると申しております」
王は口を閉ざした。
兵を送れと命じれば、数は報告に載るだろう。だが、そのために崩れた戦線からカルディア軍が入り込めば、西へ回した兵を再び戻すことになる。
「……慎重すぎる」
王は言った。
重臣は書状を持ったまま、答えなかった。
そこに書かれているのは、戦を避けるための言い訳ではない。残る兵でどこを守り、何を諦めれば軍を保てるかという、具体的な判断だった。
西部の兵をまとめる役目を負う将が進み出た。
「陛下。西に集められる兵を、先に定めていただきたく存じます」
「いくつ集まる」
「西部諸侯の兵と、王家の兵を合わせて一万八千。留守を守る兵を別に残し、指定した場所へ集められるのは、その数です」
「三万に、一万八千か」
誰かが小さく呟いた。
将は、その声へ振り向かなかった。
「広い平地で正面から受ければ、不利にございます」
「城に籠もるつもりか」
「城ごとに兵を分ければ、敵は一つずつ囲むでしょう。その間に街道を失えば、互いに助けにも行けません」
将は卓上の地図へ歩み寄った。
西の国境から内陸へ続く街道を、指でたどる。その先で、道は低い丘陵の間を抜け、川を渡っていた。
「ここで迎え撃ちます」
両側から迫る丘によって、進める幅が狭くなっている。川を渡った先には緩やかな高まりがあり、その脇には、雨の後に水の残りやすい低地が広がっていた。
「この道を進む限り、敵は三万の兵を一度に展開できません。こちらは先に高い側を押さえ、道と渡り場を見下ろせます」
「別の道へ回ったらどうする」
「荷車まで通せる道は限られます。大軍が回れば、時間も食糧も要る。その間に、こちらは次の持ち場へ移れます。斥候を置き、動きを見失わなければ、対応できます」
王は地図へ視線を落とした。
将は続けた。
「敵の兵は多い。ですが、この迎撃地点へ至る道も、騎兵を動かせる地形も、こちらの方がよく知っております」
「火槍を持つ兵がいるぞ。イグナーツは、それに崩された」
「承知しております。正面へ兵を重ね、ただ近づけるつもりはございません」
将は丘の裏側へ指を移した。
「敵から見えぬ場所を使い、進む向きを変えさせます。こちらの選んだ場所で足を止めれば、大軍の後ろは街道に詰まる。先頭が進めなくなれば、後ろの兵が多くても、そのまま戦う力にはなりません」
地図を囲む者たちが、身を乗り出した。
城壁だけを頼みに待つ話よりも、そこには勝つための形があった。
「こちらには地の利があります。迎え撃つ場所まで、敵に選ばせる必要はありません」
将が言い切った。
王はしばらく地図を見ていたが、やがて頷いた。
「一万八千を集めよ。西から来る軍を、そこで止める」
「はっ」
「カルディアの前から動かす兵は、別に調整する。今いる兵で迎え撃つ準備を進めよ」
命令を書き取る者が、急いで机へ向かった。
国境の城へ、西部の諸侯へ、街道を守る隊へ。
王都から使者が放たれた。
◇ ◇ ◇
ジークブルクの城外では、先頭の隊が動き始めていた。
騎兵の一部が先へ出て、その後を歩兵の列が追う。各隊は決められた間隔を取り、街道へ入るところで旗を揃えていた。
アレクは馬のそばで、銃の革覆いを確かめた。
木台に刻まれた林檎の花が、覆いの隙間から少しだけ見える。ロルフが贈ってくれた銃は、訓練の間も大切に手入れを続けてきた。
腰には剣がある。
どちらかがあれば、もう片方は要らないということではなかった。馬も、銃も、剣も、使い方を誤れば兵を守れない。
後方で、ギルベルトが人数を確かめていた。
「全員、揃っております」
「分かった」
アレクが馬へ乗ると、マティアスが近くへ来た。
「今日の行軍は、鉄砲隊全体に合わせる。馬があるからと、先へ出すな」
「はい。必要な時に動けるよう、馬を休ませながら進めます」
「それでよい」
マティアスは百人の列を見てから、街道へ顔を向けた。
その先を、レオンハルトが進んでいた。
黒地に金の獅子を描いた旗が、王のそばで揺れている。周囲の兵が道を空けると、レオンハルトは城を一度振り返った。
城門の上にも、同じ旗があった。
新しい名を与えられた城は、これから進む軍へ物資を送り、傷ついて戻る者を迎える場所になる。
レオンハルトが前へ向き直った。
「進め」
号令が伝わった。
アレクも馬を歩ませた。直属の百人がその後ろに続く。さらに後方には残る九百人の鉄砲隊が並び、その後ろに歩兵の列が伸びていた。
ジークブルクから東へ向かう道を、軍は進んだ。
行く先には、地形を選び、兵を集めて待つ敵がいる。
その姿は、まだ見えない。
アレクは手綱を握り直し、前方の黒獅子の旗へ目を向けた。
第六話を読んでいただき、ありがとうございました。
新たに名づけられたジークブルク城から、ロスヴァールへ向けて軍が動き始めました。
一方、迎え撃つ側も地の利を頼みに兵を集めます。両軍の判断が、国境の先でぶつかろうとしています。
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