第五話 剣の届く、その先へ
お読みいただき、ありがとうございます。
アルヴェインから戻ったアレクは、騎馬鉄砲隊の訓練に加わります。
久しぶりに剣を手にした彼が向き合うのは、自分が勝つことと、仲間を守ることの違いでした。
出発を控えた朝、アレクは旅の荷から小さな包みを取り出した。
中には、エリーゼから贈られた手袋があった。
戦で傷めてからも、捨てる気にはなれなかった。使える道具と同じようには扱えなくなっても、ほかの荷に紛れて失わないよう、自分でしまう場所を決めていた。
布を開き、傷んだ革へ目を落とす。
これを贈られた時のことは、まだよく覚えている。手に馴染む柔らかさも、こちらの様子を窺っていたエリーゼの顔も。
アレクは布を畳み直した。
扉が叩かれ、迎えに来た侍女の声がした。
包みを持って部屋を出る。
案内された部屋では、エリーゼが本を手にして待っていた。
「お支度の途中に、申し訳ありません」
「もう、ほとんど済んでいます」
アレクが答えると、エリーゼは少し安心したように微笑んだ。
「こちらが、お話ししていた本です」
差し出された本を、両手で受け取る。
旅の荷に入れられるよう、薄い布で包まれていた。端から見える表紙には、使い込まれた跡がある。
「ありがとうございます」
「急いで読み終えなくても構いません。途中で、あまり好きではないと思われるかもしれませんし」
「その時も、お伝えしてよいのですか」
「もちろんです。同じところを好きにならなければ、お話しできないというわけではありません」
エリーゼは少し考えてから、付け加えた。
「でも、最後まで読んでからにしてください」
アレクは笑った。
「分かりました」
本を持ち直し、空いた手で自分の包みを差し出す。
「こちらを、お願いしてもよろしいでしょうか」
エリーゼは包みへ視線を落とした。
何が入っているか、すぐに分かったようだった。
「はい」
受け取った後、彼女は勝手に布を開かず、アレクを見た。
「職人に見てもらいます。直せるか分かったら、お手紙でお知らせします」
「お願いいたします」
「もし、元と同じにはできなかったら」
言いかけて、エリーゼが口を閉じた。
アレクは首を振った。
「無理に、新しく見えるようにしていただかなくても構いません」
「傷が残っても、ですか」
「はい。使ってきたものですから」
エリーゼは包みを見下ろした。
その手つきが丁寧だった。
「本は、アレク様がお返しに来てください」
「はい」
「手袋は、私がお返しできるようにしておきます」
アレクは彼女の顔を見た。
直ると決まったわけではない。
それでも、預けたものをまた受け取る機会ができたことが、嬉しかった。
「お待ちしております」
「それは、私の言葉です」
エリーゼが笑った。
廊下の向こうから、人の動く気配が聞こえる。使節の出発に合わせ、荷を運ぶ者たちが行き来していた。
アレクは本を胸元へ寄せた。
「では、行ってまいります」
「お気をつけて」
エリーゼは小さく頭を下げた。
顔を上げた時には、いつもの穏やかな表情に戻っていた。
アレクも一礼し、部屋を出た。
庭で約束した時よりも、借りた本の重さがはっきりしていた。
◇ ◇ ◇
帰りの荷には、両国で取り交わした盟約書が加わっていた。
マティアスが預かる盟約書は、ほかの荷とは分けて運ばれた。立ち寄る場所でも、誰が持っているかを曖昧にはしなかった。
アレクは夜、休む前に借りた本を少しずつ読んだ。
エリーゼが手紙に書いていた箇所へ来ると、頁をめくる手が止まる。彼女がどこで考えを変えたのか、先が気になった。
けれど、翌朝の出発がある。
読み続けたくなるところで閉じ、包みへ戻すことを繰り返した。
王都へ着くと、マティアスはレオンハルトへ同盟締結を報告した。
アルヴェイン側の火縄銃の生産と訓練の状況、ベルン伯爵領への反撃を検討することになった経緯も伝える。
レオンハルトは、受け取った盟約書を確かめてから頷いた。
「よくまとめてくれた」
「ベルン伯爵領については、兵を出すと決まったわけではございません。敵情と、動かせる兵や兵糧を調べた上で判断するとのことです」
「それでよい。こちらの言葉だけで出陣されても困る」
王はアレクへ目を向けた。
「アルベルトの兵はどうだった」
「命令を聞いて動ける隊になっていました。教える者も育てています」
「銃だけ揃えて、こちらへ助けを求めてくるわけではなさそうだな」
「はい」
レオンハルトは満足したように頷いた。
「では、こちらも遅れてはおれん。留守の間に、馬を教える者を回しておいた」
「ありがとうございます」
「まず、兵がどうなっているか見てこい。話はその後だ」
アレクは頭を下げた。
王宮を出ると、マティアスは待っていた家臣から別の書状を受け取った。王都を離れている間に届いた報告が、まだ幾つもある。
「アレクは隊へ行くといい」
「お手伝いすることはありませんか」
「そちらを確かめるのが、今の仕事だ。明日、様子を聞かせてくれ」
「承知しました」
マティアスは書状から顔を上げた。
「帰ってきたばかりだからと、兵ができることを全部今日見せてもらおうとするなよ」
アレクは返事をする前に、少し考えた。
伯爵が笑った。
「今、心当たりがあったな」
「……少し」
「では、気をつけて行ってこい」
アレクはもう一度礼をして、訓練場へ向かった。
◇ ◇ ◇
最初に聞こえたのは、銃声ではなかった。
「手を離すな!」
鋭い声が飛び、兵が慌てて立ち止まった。
その前で、馬が首を振っている。
アレクは道の端へ寄り、馬と兵の動きを見た。
兵が引こうとする方へ、馬が素直についていかない。焦った兵が余計に力を入れかけたところで、教えていた男がそばへ行き、落ち着いた声で指示をした。
しばらくすると、馬が歩き出した。
兵もようやく息を吐く。
「馬が相手では、兵に教えるのと同じようにはいきませんな」
横から声がした。
ギルベルトだった。
「戻った」
「お帰りなさいませ」
隊長が頭を下げる。
アレクは馬へ目を戻した。
「もう始めていたのだな」
「はい。最初に教わる者として、十二人を選びました。馬も十二頭、お預かりしております」
全員分の馬が揃ったわけではない。
王から回された指導役のもとで、まず限られた人数が学んでいるところだった。
「乗る前に、教わることが多いようです」
「そうだろうな」
アレクが近づくと、指導役がこちらへ向き直った。
レオンハルトの騎兵の中で、兵と馬を長く見てきた者だと、ギルベルトから紹介された。
「陛下より、まずは馬を扱えるようにせよと命じられております」
「頼む。鉄砲を持たせたまま、急いで乗せるつもりはない」
「その方が助かります。兵は、乗るところまで進むと、それでできたと思いがちですので」
指導役は訓練している兵へ目を向けた。
「馬を疲れさせたまま放っておいては、次の日に困ります。自分の足で歩いていた時と同じには参りません」
アレクは頷いた。
鉄砲隊の訓練も、別の場所で続いていた。
新兵の声に混じり、教官役の兵が指示を出している。以前より人数が増え、ギルベルト一人が全員を見回っているわけではなかった。
アレクはその日の訓練を一通り見た後、ギルベルトから留守中の様子を聞いた。
うまく進んだことだけではなく、時間がかかったこともあった。
説明する者によって、同じ動作の言い方が違っていたこと。
新兵が分かったと返事をしても、実際には意味を取り違えていたこと。
教える役の兵同士で確かめ、直したことが記されていた。
「私がいない間も、進めてくれたのだな」
「全部をお待ちしていては、戻られてからの仕事が増えるだけですので」
ギルベルトが答えた。
「ただ、これから確かめたいこともございます」
「何だ」
「馬から降りた後です。鉄砲を使う支度が整う前に、敵が近づいてきた場合を考えております」
アレクは指導役を見た。
男も頷いた。
「乗っている間に退ければよいのですが、いつでもそうできるとは限りません」
「剣を使うこともあるな」
「はい」
ギルベルトが訓練場の脇を指した。
木の模擬剣が立てかけられている。
鉄砲を扱う訓練が増えてからも、近くまで来た敵への備えを捨てたわけではない。ただ、その時間をどの程度取り、どこまで教えるかには限りがあった。
「明日、私も入る」
アレクが言うと、ギルベルトが顔を向けた。
「お相手をさせますか」
「ああ。まず、私自身が動いてみたい」
隊長は一度、アレクの腰の剣へ目を落とした。
「承知しました」
◇ ◇ ◇
翌朝、アレクは木の剣を手に取った。
重さは、普段腰へ下げている剣とは違う。それでも、握り、腕を動かせば、どこで重みを感じるかが分かった。
訓練場の一角は、馬から十分に離してあった。
ここでは銃を使わない。相手を傷つけないよう、模擬剣と防具で稽古をする。
最初に前へ出てきたのは、隊で剣の扱いに慣れている兵だった。
アレクよりも肩幅があり、木の剣を持つ手にも迷いがない。
「お願いいたします」
「こちらこそ」
アレクは相手の足元を見てから、剣へ視線を戻した。
周囲には、その日の稽古に加わる兵がいた。ギルベルトは二人の動きが見える場所へ立ち、無理があればすぐに止められるようにしている。
「始め」
相手が動いた。
踏み込みに合わせて、剣が上がる。
アレクは半歩ずれた。
木と木がぶつかる音は、思っていたよりも小さかった。
正面から受け止めたのではない。相手の剣が通る場所を外し、その動きが戻る前に距離を詰める。
相手の目が開いた。
アレクの剣先は、胸へ届く直前で止まっていた。
「そこまで」
ギルベルトが言った。
相手の兵が、自分の胸元とアレクの剣を交互に見た。
「もう一度、お願いいたします」
「ああ」
離れて、構え直す。
今度の相手は、すぐには踏み込んでこなかった。
先ほどより慎重に剣を動かし、アレクの反応を探っている。
アレクも動かなかった。
手だけを見ると、何をしようとしているか迷う。けれど、肩と足の動きは同じではない。
相手がこちらを動かそうとした瞬間、アレクは逆に前へ出た。
短く二度、木の剣が鳴った。
相手の腕が外へ流れ、その間にアレクの剣が止まる。
今度も、振り切る必要はなかった。
周囲から、小さな声が漏れた。
相手の兵は息を吐き、剣を下げた。
「参りました」
「ありがとう」
アレクも剣を下げる。
握った手が、少し温かくなっていた。
体は動いた。
剣を使わなくなったわけではない。それでも、兵の射撃を見ることや、命令を伝えることに追われ、自分の剣だけへ集中する時間は減っていた。
こうして動くと、忘れていなかったことが分かる。
「次は、私が」
別の兵が進み出た。
今度の相手は、先ほどの二度を見ていた。
大きく踏み込まず、アレクが近づくのを待とうとしている。
アレクは剣先を少し動かした。
相手の目が、そこへ引かれる。
すぐに打ち込まず、一歩だけ距離を詰めた。相手が下がりかけて止まり、その足が揃いきらないうちに、アレクの剣が入った。
防具へ触れる手前で、動きを止める。
兵が苦笑した。
「近づかせなければよいと思ったのですが」
「近づかせなかったら、私も困った」
アレクが答えると、周囲から笑いが起きた。
ギルベルトが咳払いをする。
「見ていた者も、構えろ。眺めるために集めたのではない」
兵たちが姿勢を正した。
組に分かれて稽古が始まる。
アレクは少し離れたところで、剣を握り直した。
ギルベルトがそばへ来た。
「初めてアレク様の剣を見た者は、驚いておりました」
「普段、私が細かなことばかり言っているからか」
「それだけではないと思いますが」
隊長の口元が少し緩んだ。
「鉄砲を持たせる側の方という見方は、あったでしょうな」
アレクは、並んだ兵へ目を向けた。
自分が何をできるかを、兵に知ってもらうことにも意味はある。
ただ、勝って見せるだけで終わりにはしたくなかった。
「次をやろう」
ギルベルトは頷いた。
◇ ◇ ◇
地面には、二本の線を引いた。
一方からもう一方まで、足を痛めた味方役を退かせる。
味方役は一人で歩けないことにし、別の兵が支える。アレクはその二人を守る役だった。
相手役は二人。
追い払うだけでなく、守る側の後ろにいる者へ触れれば、攻撃が届いたことにする。
剣を振り回して勝つだけの稽古ではなかった。
ギルベルトが双方を見て、始めるよう命じた。
味方役の二人が動き出す。
相手役の一人が、アレクの前へ来た。
もう一人は少し離れている。
アレクは正面の相手の剣を払い、踏み込みを止めた。追えば、そのまま退かせられる。
だが、追わなかった。
もう一人が横へ動いていた。
アレクは後ろの二人との距離を確かめながら、相手の進路へ体を向ける。
正面にいた兵が、もう一度近づいてきた。
打ち合えば勝てる。
しかし、その間に別の一人が回る。
アレクは剣を受け流し、横へ出ようとした相手を止めた。少しずつ後ろへ下がり、味方役が線へ届くまでの間を稼ぐ。
「そこまで」
ギルベルトの声が上がった。
二人は線を越えていた。
アレクは剣を下げた。
勝って追い払ったわけではない。それでも、守る役目は果たせた。
「次は、相手を一人増やします」
ギルベルトが言った。
アレクは頷いた。
三人が並ぶ。
真ん中の兵が、アレクへ向かってきた。
今度は左右にも一人ずついる。
アレクは前へ出すぎないようにしながら、中央の剣を外した。右から来た相手へ向き直り、その踏み込みを止める。
その時、左の兵が走った。
目には入った。
何をしようとしているかも分かった。
だが、今いる場所からでは届かなかった。
「下がって」
アレクが声をかける。
味方役を支えていた兵が慌てて向きを変えた。足を痛めた役の兵を抱え直すため、歩みが止まる。
左の相手が、その肩へ手を触れた。
「そこまで」
ギルベルトが止めた。
木の剣を持ったまま、アレクは動かなかった。
自分は一度も打たれていない。
目の前の相手にも、負けてはいなかった。
しかし、守るはずの者には手が届いていた。
相手役の兵が、気まずそうにこちらを見る。
「よく動いた」
アレクは言った。
「今のでいい」
兵が少し安心したように頭を下げた。
アレクは味方役へ近づいた。
「最後に向きを変えさせたのは、私の声だ。動きにくくなったな」
「いえ。こちらも、どちらへ下がればよいのか迷いました」
「急に言われても困るな」
アレクは地面の線を見た。
もう少しで届いていた。
けれど、その少しが残った。
ギルベルトが横へ来る。
「相手を増やせば、いずれはこうなります」
「ああ」
「アレク様がお一人で全部を見る必要はありません」
「分かっている」
答えてから、アレクは剣へ目を落とした。
分かっているつもりだった。
それでも、見えていたのに止められなかったことが、胸に残る。
ギルベルトは兵を一人呼んだ。
「次は、守る役をもう一人加えます。役を決めてから始めましょう」
守る側に加わる兵が、アレクへ頭を下げた。
アレクは顔を上げる。
「私が前を見る。左へ回る者は頼む。無理に追わず、二人から離れないでくれ」
「承知しました」
もう一度、同じ位置へ戻った。
結果は、先ほどと違った。
アレクが正面を止めている間、別の兵が横へ入る相手を防いだ。味方役は向きを変えず、決めた方へ下がれた。
剣の強さだけでなく、役を分けたことで間に合った。
アレクは訓練を終え、兵へ礼を言った。
自分の力を広げることと、ほかの者へ任せること。
どちらか一つを選べばよいのではなかった。
◇ ◇ ◇
その夜、アレクは借りた本を開いたまま、昼の稽古を思い返していた。
物語の文字を追っていたはずが、いつの間にか、左へ走った兵の姿が浮かんでいる。
読んだはずの行を、もう一度読み直した。
集中できていない。
アレクは本を閉じた。
机のそばには、ロルフから贈られた銃が、革の覆いに収められていた。壁際には剣がある。
剣なら、手の届く範囲で何ができるかを体で知っている。
相手が動く前のわずかな変化を捉え、踏み込むか、待つかを決める。初めからできたことではなく、戦いと稽古の中で覚えたものだった。
鉄砲には、剣より遠くへ届く力がある。
しかし、自分が剣を持った時と同じように、届く場所を感じ取れるわけではなかった。
兵へ命令する時には、距離を見て、地形を見て、隊の状態を確かめる。
それとは別に、自分が一挺を構えた時にも、もっと確かに分かることがあれば。
アレクは銃の覆いへ手を置いた。
欲張っているのかもしれない。
剣を扱う才能も、強い体も、前の世界の記憶もある。それでも、足りないと思うことがある。
窓の外から、夜の見張りが交代する声が聞こえた。
アレクは手を離し、寝台へ向かった。
明日も訓練がある。
◇ ◇ ◇
足の裏に、硬い感触があった。
アレクは目を開いた。
寝台ではない。
立っていた。
どこまで見ても、白い光が広がっている。壁も天井もなく、遠くを見ても距離が分からない。
息が止まった。
覚えていた。
この場所を、忘れることはなかった。
アレクは胸へ手を当てた。
鼓動がある。
前にここへ来た時とは違った。
「……また、死んだのですか」
「いや」
声がした。
アレクが顔を上げると、少し離れた場所に男が立っていた。
白い衣。後ろで束ねた長い髪。
老人にも、もっと若い男にも見える顔は、記憶の中と変わらなかった。
「お前の体は、眠っている」
アレクは胸から手を離した。
「では、今回は手違いではないのですね」
男の顔に、気まずそうな表情が浮かんだ。
「違う。そう思わせたことは、謝る」
その返事を聞いて、アレクはようやく息を吐いた。
あの時と同じだった。
神と呼ぶほかない存在なのに、威厳を示すより先に謝ろうとする。
「久しぶりですね」
「ああ」
「もう会うことはないと思っていました」
「お前が望んだ時に、いつでも会えるわけではない」
「今日は、なぜ」
男はアレクを見た。
「お前が生きるために与えた力と、今のお前が引き受けている役目を、確かめる時になった」
アレクは黙った。
白い光の中には、剣も銃もない。
着ているものは、この世界で使っている服だった。前に立っていた時の背広ではなかった。
「剣の力では足りなくなったか」
男が尋ねた。
アレクはすぐには答えなかった。
昼に勝った稽古を思い出した。
剣を払い、相手より先へ踏み込み、危険な場所で止められる体。
与えられたものは、確かに自分を助けていた。
「自分が勝つだけなら、十分です」
アレクは言った。
「でも、今はそれだけでは守れません」
男は頷いた。
「最初は、自分が明日まで生きることを考えていました。食べる物も、寝る場所もありませんでしたから」
「ああ」
「今は、私の命令で動く兵がいます。私の領地で暮らす人もいます。私が間違えれば、その人たちが困ります」
言葉にすると、重さが増した気がした。
子爵になったから突然生まれたものではない。
もっと前から、一人ずつ増えていた。
「お前は、すべてを自分で守りたいのか」
「できるなら、そうしたいと思うことはあります」
アレクは答えた。
「ですが、一人ではできません。今日も、それは分かりました」
男は何も言わず、続きを待っていた。
「兵に任せればよいこともあります。任せなければ、かえって間に合わなくなることも。だから、私だけを強くして、全部済ませてほしいとは言いません」
「では、何を望む」
アレクは自分の手を見た。
「私自身ができることも、もう少し広げたいです」
剣を握っていた手だった。
今は、銃も持つ。
「兵を遠くへ向かわせるなら、私もそこへ行くことがあります。その時、指示を出すだけではなく、自分の手で助けられることがあるなら、助けたい」
男はゆっくりと近づいた。
足音はしなかった。
「お前に与えたのは、剣を覚える才能だった」
「はい」
「今、お前が読んでいる間合いや、相手の動きのすべてを、初めから知っていたわけではない」
「それは、覚えています」
初めて剣を持った日から、誰にも負けなかったわけではない。
怖くて動けなくなることも、判断が遅れることもあった。
与えられた体で、覚え、試し、失敗した。
「剣を扱う中で身につけた感覚を、鉄砲にも生かせるようにすることはできる」
アレクは顔を上げた。
「鉄砲にも、ですか」
「ああ」
男が右手を上げた。
白い光の中へ、細い筋のようなものが現れた。
まっすぐな棒ではない。
遠くへ伸びるにつれ、輪郭が淡くなり、やがて白い空間へ溶けていた。
「自分が構えた銃から、弾がどこへ進もうとするか。それを、お前が捉えられるようにする」
アレクは光の先を見た。
「弾が飛ぶ道筋が、見えるのですか」
「今の構えから予測されるものだ。これから起きることが、決まった形で見えるわけではない」
「必ず当たるわけではない」
「そうだ」
男は指を下ろした。
光が消える。
「見えている相手でも、お前が撃つ前に動く。お前自身の構えも変わる。銃の出来や状態まで、この力で直ることはない」
「遠くも、同じように見えますか」
「遠くなるほど曖昧になる。煙や物陰の向こうに、何があるかを見通す力でもない」
アレクは頷いた。
銃口の先にあるものを、何もかも知るわけではない。
自分が今、どこへ向けているのかを、以前より確かに感じ取れるようになるのだ。
「ほかの兵の銃は」
「お前自身が構えているものに限られる」
「分かりました」
男がアレクの前へ手を伸ばした。
触れたわけではなかった。
それでも、額の奥に小さな熱を感じた。
視界が白くなり、一瞬だけ、距離のない場所に奥行きが生まれたように思えた。
アレクは目を閉じた。
痛みはない。
再び開くと、男は手を下ろしていた。
「これで、使えるようになったのですか」
「目覚めてから確かめるといい。剣の時と同じだ。与えられた感覚と、使いこなせることは別になる」
アレクは頭を下げかけて、止まった。
聞きたいことがあった。
ずっと、誰にも聞けなかったことだった。
「助けられなかった人がいます」
男は、黙ってアレクを見た。
「待っていてくれたのに、着いた時には、もう」
そこで言葉が途切れた。
燃えた町。
泣いていた子供。
レオンハルトの顔。
男は、よくやったとも、仕方がなかったとも言わなかった。
アレクは唇を結び、もう一度開いた。
「この力が、あの時あればと考えてしまいます」
「それで結果が変わったと、私から言うことはできない」
静かな返事だった。
「間に合わなかった距離が、見えるようになっただけで縮むわけではない」
アレクは目を伏せた。
求めていた答えではなかった。
だが、別の答えをもらえば納得できたのかも分からない。
「……そうですね」
「お前が馬を揃え、人を育てようとしていることまで、この力が代わりに果たすわけではない」
「はい」
アレクは顔を上げた。
神の前へ来たからといって、あの町へ戻れるわけではなかった。
戻る先は、兵が訓練している王都だった。
「この力に、代わりに差し出すものはありますか」
男は首を振った。
「ない。誰かの命を引き換えに取ることも、お前に果たすべき戦を命じることもない」
「では、使うかどうかも、私が決めるのですね」
「ああ」
男は頷いた。
「見えるようになっても、必ず届くわけではない。いつ撃つか、撃たないかは、お前が決めることだ」
白い光が、少しずつ強くなっていた。
アレクは周囲を見た。
前にも、こうして話が終わった。
「また、ここへ来ることはあるのですか」
「お前の立場が変わり、今の力と役目が合わなくなる時があれば、その節目に会うこともあるだろう」
「困るたびに呼べるわけではない」
「そうだ」
アレクは小さく頷いた。
もう一つだけ、男が尋ねた。
「今、お前には帰る場所があるか」
アレクは、すぐに答えた。
「あります」
待っている兵がいる。
主君がいる。
借りた本を、返しに行く約束もある。
男は初めて、少し表情を和らげた。
「そうか」
光の中へ、その姿が薄れていく。
アレクは目を閉じた。
今度は、知らない場所へ送られることを恐れてはいなかった。
◇ ◇ ◇
目を開けると、天井があった。
窓の隙間から、朝の光が差している。
アレクは寝台の上で体を起こした。
胸へ手を当てる。
鼓動は、先ほどと同じように感じられた。
机の上には、閉じた本がある。壁際には剣があり、そのそばに革の覆いへ収めた銃があった。
アレクはしばらく、動かなかった。
夢を見た。
そう考えることはできた。
けれど、あの男の声も、白い空間の感触も、普通の夢よりはるかにはっきり残っていた。
アレクは立ち上がり、銃へ近づいた。
覆いを外すと、木台の林檎の花が現れた。
ロルフから贈られた時と変わらない。
銃そのものに、何かが起きたわけではなかった。
手に取りかけて、止める。
部屋の中で、銃をあちこちへ向けて確かめるわけにはいかない。
アレクは覆いを戻し、身支度を始めた。
訓練場へ向かう頃には、兵たちも動き始めていた。
ギルベルトがこちらを見つけ、近づいてくる。
「おはようございます」
「今日は、私も撃つ」
「ロルフ殿からの銃を、お使いになるのですか」
「ああ」
ギルベルトは頷いた。
「では、こちらへ」
射撃を行う場所へ案内される。
的の後ろには人が入らないよう、すでに兵が見張りについていた。ほかの訓練とは場所を分け、指示を出す者が全体を見ている。
アレクは銃を手に取った。
初めて箱から取り出した時と同じように、握った木台が手に収まる。
銃を構え、的へ目を向けた。
最初は、何も変わらなかった。
いつもの的があり、その向こうに土の斜面がある。
アレクは目を凝らした。
その時、視界の中へ薄い筋が浮かんだ。
息が止まりかけた。
銃の先から、淡い線が伸びていた。
色と呼べるほどはっきりしていない。それでも、目を向けた先に、昨日まではなかったものがある。
アレクの腕がわずかに動く。
線も動いた。
的の端を横切り、地面の方へずれる。
慌てて追いかけると、さらに揺れた。
「アレク様」
ギルベルトの声がした。
アレクは銃を下げた。
線が薄れ、消えた。
「どうかなさいましたか」
「少し、構えを確かめていた」
「お疲れでしたら、後でも構いません」
「いや。大丈夫だ」
アレクは答え、ギルベルトの顔を見た。
隊長は、こちらの様子を気にしていた。
線を見た者の顔ではない。
アレクはそれ以上、何も言わなかった。
神のことも、白い場所のことも、話せなかった。
「一発、撃ってみる」
「承知しました」
支度を終え、アレクは射撃位置へ立った。
周囲の確認が済み、合図を待つ。
改めて銃を構えると、薄い線が現れた。
見ようとして腕まで動かせば、線も逃げる。
アレクは、剣の稽古で相手の刃ばかり追った時を思い出した。
目に見えるものへ引かれ、体が先に動いてしまう。
今も、それに似ていた。
線を追い回すのをやめ、的を見る。
銃を支える感覚へ意識を戻した。
揺れていた筋が、少し落ち着く。
的の上を通っていた。
それでも、細い線の先はぼやけている。
一点へ必ず届くと告げる印ではなかった。
合図が出た。
アレクは引金を引いた。
銃声が響き、肩へ衝撃が伝わる。
白い煙が視界を覆った。
線は、もう見えなかった。
遠くの的を確かめようとしても、煙の向こうが透けることはない。
アレクは火縄ばさみを手で上げ、銃を下げた。
煙が流れるのを待つ。
的には、新しい跡があった。
狙った中央そのものではない。
それでも、思い描いた場所に近かった。
ギルベルトが的を見てから、アレクへ向き直った。
「よいところへ入りました」
「ああ」
声が、少し遅れた。
アレクは銃へ目を落とした。
自分の手の中にあるのは、ロルフが仕上げた一挺だった。
初めて使う魔法の道具ではない。
そこから弾が進もうとする先を、自分が以前より明確に感じ取れた。
「もう一発、よろしいですか」
ギルベルトが尋ねた。
「頼む」
次の支度をしながら、アレクは先ほどの感覚を思い返した。
見えた。
それは間違いなかった。
しかし、見えてから撃つまで、自分の体が止まっているわけではない。
二度目は、線を確かめることへ気を取られた。
撃つ直前に、先がずれたのが分かった。
銃声の後、煙が流れる。
弾は的を捉えたが、最初よりも外側だった。
アレクは小さく息を吐いた。
「今の方が、外れたな」
「構えてから、少し長く迷われているように見えました」
ギルベルトが答えた。
その通りだった。
線がよいところへ来るのを待とうとして、かえって体を固くしていた。
「狙いを定めようとして、考えすぎたのかもしれない」
ギルベルトは頷いた。
「兵にもおります。よく狙おうとして、いつまでも撃てなくなる者が」
アレクは少し笑った。
「私も同じだな」
「慣れた銃とは、感触も違いますから」
ギルベルトには、それ以上の理由は見えていなかった。
アレクも説明しなかった。
もう一度、撃った。
今度は薄い線だけに気を取られず、自分の構えと的を確かめた。
今度は、最初よりも落ち着いて撃てた。
だが、三発とも同じ場所へ入ったわけではない。
アレクは銃を下げた。
これから、覚えなければならないことが増えた。
それでも、増えたのは迷いだけではなかった。
昨日まで分からなかった先が、今は少し見えている。
◇ ◇ ◇
射撃を終え、アレクは道具を整えた。
ギルベルトが、使った分の記録を確かめている。
その向こうでは、馬を教わる兵たちが集まっていた。
昨日、手綱を持って困っていた兵が、今日は指導役の声を聞きながら落ち着いて歩いている。
たった一日で騎兵になったわけではない。
それでも、昨日とは違うことが一つあった。
アレクは銃の木台を見た。
自分も同じだった。
「今日は、ここまでになさいますか」
ギルベルトが尋ねた。
「射撃は、ここまで」
アレクは答えた。
それから、訓練場の脇に置かれた木の剣へ目を向ける。
「次は、剣を使いたい」
ギルベルトが少し意外そうな顔をした。
「昨日の続きを」
「ああ。守る役の兵と、もう一度合わせたい」
「承知しました」
隊長が兵を呼びに行く。
アレクは銃を預け、模擬剣を取った。
握った感覚は、昨日と変わらない。
神に会ったからといって、剣が遠くまで伸びるわけでも、体が二つになるわけでもなかった。
昨日一緒に守る役を務めた兵が、こちらへ走ってくる。
「お願いいたします」
「今日も、左を頼む」
「はっ」
兵がアレクの横へ立った。
少し離れたところでは、味方役の二人が位置につく。相手役も、それぞれ木の剣を持った。
アレクは隣の兵を見た。
「私が前へ出すぎたら、声をかけてくれ」
兵が驚いたように顔を向ける。
「私から、申し上げてもよろしいのでしょうか」
「ああ。そのために、隣にいてもらう」
兵は姿勢を正し、強く頷いた。
アレクは正面へ向き直った。
剣の届くところには、自分が立つ。
届かないところには、ほかの者がいる。
その先へ銃を持って行けるように、兵と馬を育てる。
昨夜与えられた力があっても、その積み重ねが不要になるわけではなかった。
「始め」
ギルベルトの声が響いた。
アレクは隣の足音を聞きながら、木の剣を上げた。
第五話を読んでいただき、ありがとうございました。
神との再会によって、アレクの力が新たな広がりを得ました。
それでも、剣も鉄砲も、一人ですべてを守れるものではありません。仲間とともに、その力を生かす道を探っていきます。
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