第三十話 王が遺す旗
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諸侯が集まる王都に、レオンハルトの妻と嫡男フェルディナントが到着します。
王国の行く末を定める日が、近づいていました。
王都の中庭へ馬車が入った時、レオンハルトは階段の下で待っていた。
護衛の馬が左右へ分かれ、車輪が止まる。扉が開くと、先に顔を出した少年が父を見つけた。
「父上」
下りようとした足が、車内で止まった。
後ろから母に肩を押さえられていた。
「踏み台が来てから」
「はい」
そう答えながらも、少年は扉の外を見ていた。
従者が踏み台を置く。今度こそ地面へ下りた少年は、数歩だけ走り、父の前で足を揃えた。
レオンハルトが、嫡男フェルディナントの頭へ手を置いた。
「フェル。大きくなったか」
「はい。剣は前より振れるようになりました」
「稽古を続けていたんだな」
「はい。父上にも見ていただきたいです」
「では、今度見せてみろ」
「約束ですよ」
フェルディナントが顔をほころばせた。レオンハルトはその肩を一度叩いてから、馬車へ手を差し出した。
妻がその手を取り、下りてくる。
顔を合わせた二人は、しばらく何も言わなかった。
「道中は」
「何事もありませんでした。休みも十分に」
「ならよい」
「あなたは、休めていますか」
レオンハルトは返事をせず、妻の顔を見た。
妻も、それ以上は尋ねなかった。
少し離れて控えていたアレクは、荷を受け取る従者へ場所を譲った。レオンハルトが妻へ手を差し出した時の顔は、戦場でも諸侯との会談でも見たことがなかった。
マティアスが進み出て、一礼する。
「お部屋は整えてあります」
「ありがとう。急に、手間をかけましたね」
「いえ。荷はこちらで運ばせます」
フェルディナントは母の隣へ戻りかけ、アレクたちを見た。
五人へ順に目を向け、父の袖を引く。
「父上。あの人たちが、五旗衆ですか?」
「そうだ」
「火槍を撃った人もいるんですか?」
アレクが自分へ向けられた目に気づき、頭を下げた。
「アレクにございます」
「本当に、すごい音がするんですか?」
「はい。初めて聞いた兵が、思わず肩をすくめるほどです」
「アレクも、最初は驚いたんですか?」
「驚きました。分かっていても、体が動いてしまいます」
フェルディナントの目が輝いた。
「僕も聞いてみたいです」
「フェル。その話は、後にしろ」
レオンハルトが言った。
フェルディナントは父を見上げたが、すぐに頷いた。
「はい」
廊下の入口に、侍女が立っていた。
その少し後ろに、シャルロッテがいる。
フェルディナントは、そちらへ顔を向けた。
シャルロッテは両手を前で重ねていた。こちらへ来ようとして、一度止まり、侍女を見上げる。
レオンハルトが先に歩み寄った。
「シャルロッテ」
「叔父様」
「来てくれたのか」
シャルロッテは頷いた。
レオンハルトは妻へ向き直り、二人を引き合わせた。シャルロッテは衣の裾をつまみ、教えられたとおりに礼をする。
「シャルロッテです」
声は、小さかった。
レオンハルトの妻は、その前へ身をかがめた。
「長く待たせてしまったかしら」
「いいえ。馬車が見えたと聞いて、来ました」
「迎えに来てくれたのね。ありがとう」
シャルロッテの指が、裾から離れた。
だが、次に何を言えばよいのか分からないようだった。
母の隣で待っていたフェルディナントが、半歩前へ出た。
「フェルディナントです。十歳です」
シャルロッテが顔を上げた。
「シャルロッテです。九歳です。」
「一つ違いですね」
そこで言葉が途切れた。
フェルディナントは少し考え、シャルロッテの手にある布へ目を向けた。
「それ、自分で作ったの?」
「父上に、見せるの」
シャルロッテが布を少し開いた。
小さな花が縫われていた。花びらの端は揃っていなかったが、空いていた場所には新しい糸が入っている。
「花だ。ここも、糸で作ったの?」
フェルディナントが布の端を指さした。
「侍女に、教えてもらった」
「僕は針を使うの、苦手なんだ。指に刺さりそうで」
「ゆっくりやれば、大丈夫」
シャルロッテは布を閉じず、指さされた場所を少し持ち上げた。
フェルディナントは、もっとよく見ようと顔を寄せた。
「これから見せに行くの?」
「起きていたら」
「一緒に行ってもいい?」
シャルロッテは侍女を見た。
侍女がレオンハルトへ目を向ける。レオンハルトは頷いた。
「様子を確かめてからだ」
フェルディナントはシャルロッテの隣へ並んだ。
歩き出すのを待ち、その後で、同じ速さで廊下へ入っていった。
レオンハルトの妻が、その背を見送る。
「張り切っていました。妹ができると聞いて」
「そうか」
「馬車の中では、何を教えようかと、そればかり」
レオンハルトは、廊下へ消える二人を見ていた。
「教わることもあるだろう」
「ええ」
妻は夫の顔へ目を戻した。
「陛下のお加減は」
レオンハルトの手が、腰の脇で止まった。
「起きていられる時間が、短くなっている」
妻は頷いた。
急いで慰める言葉を探すことはしなかった。
「私も、御挨拶を」
「ああ」
二人は並んで廊下へ向かった。
その後ろで、マティアスがアレクたちへ顔を向けた。
「こちらも、続きを進めよう」
アレクは頷き、手にしていた到着の記録を畳んだ。
◇ ◇ ◇
諸侯が王都へ集まるまでの間にも、東部からの報告は届いていた。
城へ納められた武器の数、返還された荷、家へ戻った兵。焼かれた町では、雨をしのげる屋根から直しているという知らせがあった。
後続の軍も王都の外へ到着した。
火槍隊はギルベルトの指揮で指定された場所へ入り、負傷者は治療を受けられるよう振り分けられた。護送されてきたイグナーツは、王宮の広間ではなく、見張りの置かれた収容先へ移された。
押収した書状の原本が届くと、ユリウスが写しと照合した。
国王の病を理由に、誰かの責任が消えることはなかった。反対に、急いで結論を出すために証言を省くことも、レオンハルトは認めなかった。
「証人の言葉と、紙を揃えろ。食い違うところは、そのまま持ってこい」
命じた後で、レオンハルトは兄の部屋へ向かった。
国王が眠っていれば、侍従から様子を聞いて戻る。起きていれば、必要なことだけを報告した。
グレンツベルク家の継承を認める書面も、その間に整えられた。
封じる前の紙を確かめたマティアスが、アレクへ渡した。
「家の名と、フェリックスの名を見てくれ」
アレクは両手で受け取った。
そこには、ルーカスから息子へ引き継がれるものが、曖昧にせず記されていた。
領地を治める務めも、幼い当主に代わって家宰が当面の政務を担うことも、紙の上で確かめられるようになっている。
「間違いありません」
「では、送ろう」
マティアスは書状を受け取り、使者へ渡す包みに加えた。
シャルロッテの養子縁組についても、国王とレオンハルトの意思を記した書面が整った。
新しい王の娘として迎えられても、亡き王妃と国王の娘であることを消されるわけではない。シャルロッテが生まれ育った場所も、これまで仕えてきた者たちも、突然取り上げられることはなかった。
ただ、食卓には隣へ座る者ができた。
フェルディナントは、最初の食事で自分の好きな菓子を勧めた。シャルロッテがあまり手をつけないと、皿と顔を交互に見る。
「これ、嫌い?」
「……お腹、いっぱい」
「じゃあ、取っておこうか。僕は食べないから」
シャルロッテは少し考えて、頷いた。
「後で、食べる」
フェルディナントが母を見ると、母は侍女へ小さな皿を頼んだ。
「シャルロッテの分だと分かるようにしておきましょう」
「僕の分と、別にしてくださいね」
「間違えて食べてしまわないように?」
「……はい」
シャルロッテが、少しだけ笑った。
父の部屋へ行きたいと言えば、母は食事の作法を理由に席へ留めることもしなかった。
国王は娘が来ると、目を開けようとした。
話せる日は、庭のことを尋ねた。
眠っている日は、シャルロッテが寝台の横へ座り、刺繍を膝に置いて待った。
フェルディナントも一緒に来るようになったが、長く黙って座るのは苦手だった。足を動かして椅子を鳴らし、慌てて止めることもあった。
ある日、国王がその音へ目を向けた。
フェルディナントの背が伸びる。
「すみません」
国王は、かすかに笑った。
「退屈か」
「……少しだけです」
答えてから、少年はシャルロッテを見た。
「でも、もう少しここにいてもいいですか?」
「構わぬ。そこにいてくれ」
フェルディナントは頷き、今度は椅子が鳴らないよう足を揃えた。
国王は二人を見比べた。
それから、何か言う代わりに目を閉じた。
その口元には、まだわずかな笑みが残っていた。
◇ ◇ ◇
召集された諸侯が揃う頃には、国王が寝台を離れることは、ほとんどなくなっていた。
譲位の礼の朝も、医師は支度を急がせなかった。
衣を整えるだけで、国王の息は上がった。侍従が襟元を直す手を止め、水を差し出す。
レオンハルトは、少し離れた場所で待っていた。
「もう少し、休め」
国王は椀から口を離した。
「休んでいる」
「支度の途中だ」
「座っている」
レオンハルトは兄を見た。
国王は、その視線を受けても顔をそらさなかった。
だが、侍従が再び衣へ手を伸ばすと、今度は自分から止めた。
「少し、待て」
部屋の中が静かになった。
レオンハルトは寝台の近くへ椅子を寄せ、座った。
外では、広間へ入る諸侯の足音が続いていた。声は低く抑えられていたが、人が集まっていることは分かった。
国王は扉へ目を向けた。
「揃ったか」
「揃っている」
「遅れた者は」
「報告は受けていない」
「そうか」
国王は膝の上へ手を置いた。
指先が、衣の縁を軽くつかんだ。
レオンハルトがその手を見る。
「立つところは、短くしてある」
「聞いた」
「無理なら座ったままでよい」
「それも聞いた」
国王は弟へ顔を向けた。
「お前は、今日になってよく喋る」
レオンハルトは答えなかった。
兄の襟元が少し折れていた。
手を伸ばして直そうとすると、国王は顎を上げた。
「そこではない」
「分かっている」
布を整え、手を離す。
国王は一度、長く息を吐いた。
「行くぞ」
レオンハルトが立ち上がった。
◇ ◇ ◇
広間の扉が開くと、諸侯は一斉に姿勢を正した。
アレクはマティアスの後ろに立っていた。隣にはヴィクトルたちがいる。
宴の時とは違い、誰も互いの装いを眺めて話してはいなかった。上座へ続く通路が空けられ、その両側に王国の諸侯が並んでいる。
侍従に支えられ、国王が入ってきた。
足取りは遅かった。
だが、広間へ向けた顔は上がっていた。
レオンハルトが、そのすぐそばを歩いている。兄が足を止めれば、自分も止まった。先へ促すことはしなかった。
国王が用意された椅子へ座るまで、広間には衣擦れ以外の音がなかった。
レオンハルトは、一段下で足を止めた。
書記が進み出て、王位を譲る意思を記した書面を開く。
文章は長くなかった。
国王自身の意思で王位をレオンハルトへ譲ること。王国の統治と軍の指揮を、新たな国王へ引き継ぐこと。
その言葉が、集まった諸侯の前で読み上げられた。
アレクは正面を見ていた。
東部の戦場で、レオンハルトの旗を見上げた兵たちの顔が浮かぶ。
あの旗へ従ったのは、もとから配下だった者ばかりではなかった。自分の主君の帰還命令を聞いて武器を下ろした兵も、敗れた後に道を開いた者もいた。
今、広間にいる諸侯にも、それぞれ違う過去があった。
国王の近くで力を持ってきた者。
レオンハルトへ早くから接近していた者。
東部の争いを前に、態度を決めかねていた者。
書記が読み終えると、国王は手を上げた。
国王は諸侯へ目を向けた。
「東部の争いは、収まった」
声は、広間の奥まで強く響くものではなかった。
それでも、聞き逃すまいとする者たちの前では、一語ずつがはっきり聞こえた。
「レオンハルトは、命に従って兵を進め、王国に背いた者を退けた」
レオンハルトは動かなかった。
「だが、勝ったことだけをもって、ここへ立たせるのではない」
国王は一度、息を整えた。
「兵を解き、道を戻し、焼かれた土地に人を残した。自らに従わなかった家にも、なすべき務めを与えた」
諸侯の中で、顔を上げた者がいた。
「余が託すのは、勝ち戦の続きではない。そなたらが治める土地と、そこに生きる民を含めた、この国である」
アレクの前で、マティアスの背がわずかに伸びた。
国王は言葉を切り、ゆっくりと息を吸った。
「余には、王位を託す息子がいない。弟であるレオンハルトは王家の血を引き、その務めを担う力を示した。そして、その先を継ぐ嫡男もいる」
諸侯は静かに聞いていた。
「余の後を定めるだけではない。次の代へ、この王家をつないでいくための譲位でもある」
国王は、広間に並ぶ諸侯を見渡した。
「これを、王としての最後の命とする」
広間が静まり返った。
「レオンハルトの旗の元に集い、支えよ」
国王は弟を見た。
「レオンハルト」
「はい」
「受けよ」
レオンハルトが進み出た。
椅子の前で片膝をつく。
侍従が王冠を捧げ持って近づいた。国王が両手を伸ばすと、その下から支えた。
金の縁へ置かれた指が、わずかに震えていた。
レオンハルトは頭を下げた。
王冠が、その頭へ移された。
国王の手が離れるまで、レオンハルトは動かなかった。
やがて兄が頷くと、立ち上がった。
レオンハルトが諸侯へ向き直っても、誰もすぐには動かなかった。
玉座の近くに立っていた重臣が、一歩前へ出た。
病床での国王の言葉を聞き、旧来の家々の扱いをレオンハルトへ尋ねた男だった。
今は問いを口にしなかった。
新しい国王へ向き直り、膝をついた。
「陛下に、忠誠を」
その後ろで、別の諸侯が膝をついた。
一人、また一人と続いた動きが、広間の両側へ広がっていく。
マティアスが膝を折った。
アレクも、それに続いた。
石の床へ膝が触れる。頭を下げる直前、レオンハルトの姿が見えた。
見慣れた肩だった。
東部の焼けた町へ入り、泣く少年の前に立った男と同じだった。
その頭に、今は王冠がある。
「陛下」
マティアスの声に、アレクも声を重ねた。
呼び慣れた言葉とは違った。
だが、口にしてから、その違いを取り消したいとは思わなかった。
レオンハルトは、膝をつく諸侯を見ていた。
「顔を上げよ」
皆が顔を上げた。
「各々の務めを果たせ。領地を治め、民を守り、王国に尽くせ。俺も、王としてその責を負う」
短い言葉だった。
功を求める者だけを呼び寄せる声ではなかった。
「過去に誰のそばへ立っていたかで、務めを果たす者を退けることはない。だが、王国の民を害した者の罪まで、消すこともない」
正面の重臣が、深く頭を下げた。
レオンハルトは兄へ向き直った。
国王は椅子の背へ体を預けていた。呼吸は浅くなっていたが、その目は弟を見ていた。
ほんのわずかに、顎が下がる。
レオンハルトは、その頷きを受けた。
礼が終わると、諸侯は立ち上がり、再び道を空けた。
兄が椅子から立とうとした時、レオンハルトはすぐに手を差し出した。
侍従に任せて先を歩くことはしなかった。
王冠を戴いた弟に支えられ、王位を譲った兄が、広間を出ていく。
アレクは、その二人を見送った。
◇ ◇ ◇
部屋へ戻ると、医師が待っていた。
礼装が解かれ、寝台へ横たえられる。額を拭かれている間、兄は目を閉じていた。
レオンハルトも王冠を外し、侍従へ預けた。
寝台の横へ椅子を寄せる。
「終わったぞ」
呼びかけると、兄の目が少し開いた。
「見ていた」
「そうだったな」
レオンハルトが座った。
医師は脈を確かめ、水を少しずつ飲ませた。しばらくは誰も話しかけなかった。
廊下には、面会を願う者が待っていた。
だが、医師は首を横に振った。礼を終えたばかりの体を、さらに人前へ出すことはできなかった。
マティアスがその旨を伝え、諸侯を下がらせた。
アレクも廊下へ出て、控えていた侍従へ場所を譲った。
少し後に、シャルロッテが来た。
両手で小さな布を持っている。
隣にはフェルディナントがおり、その後ろから母がついてきていた。
「父上、起きてる?」
シャルロッテが尋ねた。
侍従は部屋へ入り、医師へ確かめた。
戻ってくるまで、シャルロッテは扉から目を離さなかった。
「どうぞ。少しだけ、おそばへ」
シャルロッテは頷き、部屋へ入った。
レオンハルトが顔を上げる。
手にあるものを見ると、自分の椅子を少し動かした。
「ここへ来い」
シャルロッテは寝台へ近づいた。
「父上」
呼ぶと、父の目が開いた。
シャルロッテは布を広げた。
「できたよ」
小さな花の刺繍だった。
花びらの隣に、細い茎と二枚の葉が加わっていた。
父はしばらく、その布を見ていた。
手を動かそうとする。
シャルロッテが気づき、布を近づけた。
指先が、縫われた花へ触れた。
「ここ、少し曲がったの」
シャルロッテが言った。
「直そうとしたけど、もっと変になりそうだったから」
父の指が、糸の上で止まった。
「よく、できた」
小さな声だった。
シャルロッテは顔を上げた。
「本当?」
父が頷いた。
シャルロッテは、ようやく笑った。
「じゃあ、ここに置くね」
枕元を見たが、水の椀や布が並んでいた。
レオンハルトの妻が近づき、小さな台の上を空けた。
「ここなら、よく見えるわ」
シャルロッテはそこへ刺繍を置いた。
少し離れて見てから、向きを直す。
「こっちが上」
「葉っぱが下だね」
フェルディナントが覗き込むと、シャルロッテは頷いた。
それから椅子へ座り、父の手を握った。
フェルディナントはその後ろに立ったが、母がもう一脚の椅子を示すと、隣へ座った。
父の目が、二人へ動いた。
シャルロッテは手を握ったまま、顔を近づけた。
「眠い?」
返事までに、少し間があった。
「ああ」
「じゃあ、喋らない」
シャルロッテは口を閉じた。
父の手が離れないよう、自分の膝を寝台へ少し近づける。
その様子を見て、レオンハルトの妻は何も言わなかった。
布が落ちないようシャルロッテの肩へ掛け、少し後ろで待った。
窓から入る光が、寝台の端に届いていた。
国王は眠った。
時折、咳で目を開けたが、娘の顔を確かめると、また目を閉じた。
◇ ◇ ◇
礼の後、容体が持ち直すことはなかった。
医師は部屋を離れる時間を減らし、夜も侍従を呼べるようにした。
レオンハルトは政務を近くの部屋で受けた。書状へ目を通している途中でも、扉が開けば顔を上げた。
譲位から二日目の夜、医師が自ら迎えに来た。
レオンハルトは、問いを重ねなかった。
紙を机へ置き、立ち上がった。
マティアスが後を追いかけたが、廊下へ出たところで足を止めた。
「こちらは、私が」
「ああ」
レオンハルトは、それだけ答えた。
寝台の上で、兄は目を開けていた。
呼吸の間隔が、いつもと違っていた。胸が動き、しばらく止まったように見えてから、また浅く息を吸う。
妻とシャルロッテは、すでに来ていた。
シャルロッテは寝台の横へ立っている。
「叔父様。父上、苦しそう」
レオンハルトは、その肩へ手を置いた。
「俺もここにいる。父上のそばにいよう」
シャルロッテは頷き、寝台へ向き直った。
レオンハルトは寝台へ近づき、兄の手を取った。
「兄上」
目が、ゆっくり動いた。
レオンハルトの顔へ向いたところで止まる。
「いるぞ」
兄の指が、わずかに曲がった。
何かを言おうと、唇が動いた。
レオンハルトは身を寄せた。
声は、言葉になる前に途切れた。
「よい。聞いている」
レオンハルトが言った。
兄は弟を見ていた。
その目が、娘の方へ動く。
シャルロッテが寝台へ近づいた。
「父上」
空いている手へ、自分の手を重ねた。
「私、ここ」
父の視線が止まった。
シャルロッテはもう一度、呼んだ。
「父上」
唇が、かすかに動いた。
笑おうとしたのかもしれなかった。
シャルロッテも笑おうとしたが、うまくいかなかった。口元が震え、父の指を両手で包んだ。
レオンハルトの妻が、その背へ手を添えた。
誰も、シャルロッテを寝台から離さなかった。
やがて、兄の目が閉じた。
レオンハルトは手を握ったまま待った。
一度、胸が動いた。
次の息を待つ間が、長くなった。
医師が近づいた。
手首へ指を当て、胸元へ顔を寄せる。部屋にいる者たちは、その動きを見ていた。
シャルロッテだけが、父の顔を見ていた。
「寝たの?」
医師はすぐには答えなかった。
レオンハルトへ目を向け、静かに頭を下げた。
レオンハルトの指に力が入った。
握っている手は、動かなかった。
「兄上」
返事はなかった。
レオンハルトはもう一度呼ぼうとして、口を閉じた。
妻が目を伏せた。
シャルロッテが、父の腕へ触れた。
「父上」
少しだけ、声が大きくなった。
「父上。ねえ」
レオンハルトが顔を向けた。
シャルロッテは父の手を引いた。
「起きて」
妻が膝をつき、その肩を抱いた。
シャルロッテは振り向かなかった。
「さっき、見てたよ」
誰も否定しなかった。
「私のこと、見てた」
レオンハルトは兄の手を寝台へ戻した。
ゆっくり、指を離した。
それからシャルロッテの前へかがんだ。
「シャルロッテ」
顔が、レオンハルトへ向いた。
「父上は、亡くなった」
言い終えるまで、レオンハルトは目をそらさなかった。
シャルロッテは首を振った。
「でも」
父へ顔を戻す。
「まだ、ここにいる」
レオンハルトは答えられなかった。
肩を抱く妻の手が、少し強くなった。
シャルロッテは父の手へ額を寄せた。
「父上」
今度の声は、小さかった。
その後に、息を詰まらせる音が続いた。
泣き声を抑えようとしているのが分かった。いつものように、眠っている父を起こさぬようにしているのかもしれなかった。
レオンハルトの妻が、シャルロッテを抱き寄せた。
顔が肩へ触れると、シャルロッテは衣をつかんだ。
「父上が」
「ええ」
「父上……」
それ以上は、言葉にならなかった。
レオンハルトは寝台へ向き直った。
兄の顔には、先ほどまでの苦しそうな動きがなかった。
枕元の台に、小さな刺繍が置かれている。
花びらは揃っていなかった。
その一つへ触れた兄の指は、もう動かなかった。
レオンハルトは目を閉じた。
顔を下げると、頬を伝った涙が、膝へ置いた手に落ちた。
◇ ◇ ◇
知らせを受けた侍従たちが、廊下を静かに行き来していた。
マティアスは部屋の前で一礼し、必要な指示だけを受け取った。
王宮の門を守る者へ知らせる。諸侯への使者を手配する。国王の死を告げる文面は、勝手な噂が先へ出ぬよう、内容を揃える。
アレクは書状を運ぶため、控えの間へ向かった。
そこには、フェルディナントがいた。
夜着の上へ衣を羽織り、椅子の前に立っている。侍女に起こされて来たらしく、髪が少し乱れていた。
「父上は、どこですか?」
「お部屋にいらっしゃいます」
フェルディナントは扉を見た。
「伯父上は、亡くなったんですか?」
アレクは足を止めた。
「はい」
フェルディナントの目が下がった。
少し前に、寝台から自分へ声をかけた人だった。
退屈かと聞かれた時、少しだけですと答えたことを思い出しているのかもしれなかった。
アレクは、何か言葉を添えようとしてやめた。
フェルディナントは衣の端を握り、待った。
しばらくして扉が開いた。
母に肩を抱かれ、シャルロッテが出てきた。
目元が赤く、歩く時も顔を上げなかった。
フェルディナントは一歩近づいた。
「シャルロッテ」
シャルロッテが止まった。
フェルディナントは、何か言おうとした。
口を開き、閉じる。
それから手を差し出した。
シャルロッテは、その手を見た。
すぐには取らなかった。
フェルディナントの指が少し下がりかけたところで、シャルロッテが握った。
強くつかまれ、フェルディナントの肩が動いた。
だが、手を引かなかった。
「一緒にいるよ」
それだけ言った。
シャルロッテの口元が歪んだ。
「明日も、会いたかった」
フェルディナントは頷いた。
何と答えればよいかは分からなかった。
シャルロッテは、また泣き始めた。
フェルディナントは困った顔で母を見たが、母はシャルロッテの背を撫でながら、その場にいた。
泣きやませるようには言わなかった。
フェルディナントも、握られた手をそのままにした。
アレクは、書状を胸の前へ寄せた。
二人のそばを静かに離れ、マティアスの待つ部屋へ向かった。
◇ ◇ ◇
国王の死は、王都から各地へ伝えられた。
葬儀の支度が整うと、王国は国葬をもって亡き王を送った。
王家の旗に覆われた棺が進む道には、諸侯だけでなく、多くの民が並んだ。歓声はなく、帽子を取り、頭を下げる人々の間を行列が通った。
レオンハルトは妻と子どもたちを伴い、兄を見送った。
シャルロッテは何度も棺へ顔を向けた。その隣で、フェルディナントは手を握っていた。
王家の墓所へ棺が納められる時、レオンハルトは最後までそこに立っていた。
やがて扉が閉じられた。
王都へ戻る道でも、誰も急ぐようには命じなかった。
◇ ◇ ◇
国葬を終えた後、執務の間へ戻ったレオンハルトの前には、各地から届いた書状が置かれていた。
窓の外は、まだ明るかった。
王宮の中には弔意を示す布が掛けられ、廊下を行く者たちも声を落としている。
それでも、仕事を止めて待っているわけにはいかなかった。
マティアスが一通目を開いた。
「東部の守備隊からです。配置に変更はありません。街道の見回りと、武器の回収を続けています」
「食糧は」
「予定した分は届いています。焼かれた町へ回す荷も、止めていません」
「そのまま続けろ。足りぬものは、数を付けて報告させよ」
「承知しました」
ユリウスが次の書状を差し出した。
先王の死とレオンハルトの即位を各地へ知らせる使者の記録だった。
すでに出発した者、途中で馬を替える者、領主の城へ到着したという返事を持ち帰った者。それぞれの名と行き先が記されている。
レオンハルトは端から目を通した。
「東部へ送る者には、守備の命令が変わらぬことも、改めて伝えろ。王が代わったからと、勝手に兵を引かせるな」
「はい」
マティアスが補った。
「帰還を認めた兵と、残す兵の区別も、そのまま伝えます」
「ああ」
アレクは机の脇で、グレンツベルクから届いた返書を持っていた。
呼ばれて進み出る。
「家宰から、継承の書面を受け取ったと返事が届いております」
レオンハルトが顔を上げた。
「フェリックスは」
「書面を読んでもらい、受け取ったそうです。町の修繕は続けています。材木を運ぶ荷車も、今は通れています」
「そうか」
アレクはもう一枚、紙を出した。
「こちらは、本人からです」
マティアスの目が、その紙へ向いた。
短い手紙だった。
礼の言葉に続き、家宰に教わりながら領地のことを覚えると書かれていた。文字の大きさが途中で変わり、書き直した跡もあった。
レオンハルトは、最後まで読んだ。
それから、紙をマティアスへ渡した。
「返事をしてやれ」
「はい」
「学ぶことを急がせすぎるな。あの土地に必要な手は、大人が揃えろ」
マティアスは頷いた。
アレクは一歩下がった。
レオンハルトの机へ、次の報告が置かれる。
帰還した兵の扱い。
負傷者の治療。
諸侯から納められる賠償と、取り戻した品の返還先。
国葬の間にも続いていた仕事を、レオンハルトは一つずつ確かめた。
途中で、廊下から子どもの声が聞こえた。
「こっちで待とう。父上、まだお仕事だから」
息子の声だった。
続いて、小さな返事があった。
レオンハルトは扉へ目を向けた。
侍従が近づく。
「姫様が、お顔を見たいと」
レオンハルトは机へ置いた紙を揃えた。
「入れてよい」
扉が開いた。
シャルロッテが顔を出し、その後ろにフェルディナントが立っていた。
「お仕事?」
「ああ」
シャルロッテは足を止めた。
「じゃあ、後で」
「待て。何かあったか」
シャルロッテは衣の前を握った。
用事を言おうとして、言葉が出ないようだった。
フェルディナントが隣から言った。
「父上がどこにいるか、気になったそうです。それで、一緒に来ました」
シャルロッテが、小さく頷いた。
レオンハルトは椅子から立ち上がった。
二人の前まで歩き、身をかがめる。
「今日は、この部屋で仕事をしている。どこへも出かけぬ」
「夜も?」
「夜は仕事を終えて、食事に行く。二人も一緒だ」
シャルロッテは頷いた。
「じゃあ、待ってる」
レオンハルトは息子へ目を向けた。
「フェル。母上にも、そう伝えてくれ」
「はい。父上、遅くならないでくださいね」
「待たせぬようにする」
「お菓子を食べずに待っていますから」
レオンハルトは、息子の頭へ軽く手を置いた。
「それなら、俺も急がねばな」
二人が廊下へ戻ると、侍従が静かに扉を閉めた。
レオンハルトは、しばらくその扉を見ていた。
やがて机へ戻り、椅子へ座った。
「続けろ」
ユリウスが、別にしてあった書状の束を持ち上げた。
東部で押収された原本だった。
封蝋の跡が残るものも、運ばれる間に角が擦れたものもあった。どの城から出たか、誰が受け取ったかを記した紙が、それぞれに添えられている。
「ロスヴァールからの書状です」
机へ置かれると、レオンハルトの目が止まった。
アレクも、その束を見た。
東部へ送られた金と物資。
諸侯を結びつけ、王国の中へ争いを持ち込んだ約束。
紙の上に残された言葉の先に、焼けたグレンツベルクがあった。
ルーカスが守ろうとした町があり、父を待っていたフェリックスがいた。
レオンハルトは一通を開いた。
すでに読んだ箇所だったが、飛ばさなかった。
最後まで確かめてから、机へ戻す。
「東部の取り調べと合わせろ。誰が命じ、誰が金を渡したかを、つなげて示せ」
ユリウスが頷いた。
「承知しました」
「商人の荷を止めて、噂だけを集めるな。関わりのない者まで敵へ追いやる必要はない」
マティアスが顔を上げた。
「国境の様子も、確かめます」
「ああ。ロスヴァールが、今どこへ兵を向けているかもだ」
アレクはレオンハルトを見た。
怒りが消えたわけではなかった。
町の焼け跡に立った時から、それは変わっていない。
だが、今この机の前で、レオンハルトは怒りだけを命令にはしなかった。東部へ残した兵があり、家へ戻す者がいる。兄から託された王国を動かすには、確かめ、揃えなければならないものがあった。
マティアスが尋ねた。
「揃いましたら、御前へ」
「持ってこい」
レオンハルトは書状の束へ手を置いた。
「東部を荒らした者に、終わったと思わせるつもりはない」
誰も声を挟まなかった。
窓の外で、旗が動いた。
アレクは一度だけ、そちらへ目を向けた。
国王を送った鐘の音は、もう聞こえなかった。
机の上には、これから果たすべき仕事が残っている。
レオンハルトが次の紙を取った。
「マティアス」
「はい、陛下」
その呼びかけを、レオンハルトは受け止めた。
「始めるぞ」
第三十話を読んでいただき、ありがとうございました。
王国と家族を託されたレオンハルトが、新たな王として歩み始めました。
フェルディナントも、シャルロッテの兄として小さな一歩を踏み出しています。
これにて第六篇は完結です。次篇も引き続き、よろしくお願いいたします。
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