第二十九話 王が託すもの
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東部の戦いを終え、王都へ戻ったレオンハルトたち。
国王への報告を前に、アレクは城内の静けさを感じ取ります。
王都の城壁が見えた時、レオンハルトは馬を急がせなかった。
街道には荷車が並び、門へ入る順を待っていた。先触れを受けた兵が道を空けようとすると、レオンハルトは手を上げて止めた。
「歩かせろ。押し退けるな」
百騎が速度を落とす。
アレクは、その後ろで手綱を引いた。数日の道中、必要な休息は取ってきたが、馬も人も疲れていた。王都へ近づくにつれて道を行く者が増え、黒地の旗へ顔を向ける者も多くなっていた。
門の前で、誰かがレオンハルトの名を呼んだ。
その声に、荷車の御者が立ち上がる。沿道で待っていた者たちも顔を上げ、金の獅子を見つけると手を振った。
「東部が収まったそうだぞ」
「殿下だ」
声は、一か所からではなかった。
城門をくぐった先にも人がいた。店の戸口に立つ者、子を抱き上げる者、仕事の手を止めて帽子を取る者がいる。
レオンハルトは一度、彼らへ手を上げた。
歓声が大きくなった。
アレクはその中を進みながら、東部に残した町を思い出していた。ここでは、屋根の下に人が立っている。戸口から子が顔を出し、その肩を親が抱いている。
戻すべき暮らしが、目の前にあった。
だが、王宮へ近づくにつれて、迎える声は少なくなった。
兵の立つ門を通り、石畳の中庭へ入る。侍従が一行を待っていたが、祝宴の支度を告げる者はいなかった。馬を預かる者も、荷を受け取る者も、声を落として動いている。
レオンハルトは鞍から下りると、すぐに尋ねた。
「陛下は」
「お部屋でお休みです。殿下の御到着は、お知らせしております」
「会えるか」
「医師に確かめてまいります」
侍従が頭を下げ、奥へ向かった。
レオンハルトはその背を見ていた。
王都へ戻れば、まず兄の言葉が来ると思っていたのかもしれなかった。兵をどこへ残した、何を持ち帰った、なぜ自分へ先に知らせなかった。そんな問いを受けるつもりでいた男が、今は廊下へ続く扉の前で待っていた。
マティアスが近づいた。
「報告の写しを揃えます」
「ああ」
「アレク。グレンツベルクの分を出してくれ。倉から返した荷の記録も、一緒に」
「はい」
アレクは荷を解いた。
イグナーツ本人も、押収した書状の原本も、後続の護送隊が運んでいる。先行した一行が持ってきたのは、東部の処置を記した報告と、必要な書状の写しだった。
紙を広げて順を確かめる間に、廊下の奥から足音が戻ってきた。
◇ ◇ ◇
医師は、レオンハルトへ深く頭を下げた。
目の下に疲れが見えた。手に持った布を侍従へ渡してから、一行へ向き直る。
「短い時間でしたら、お話しいただけます。ただ、お疲れになりましたら、こちらからお止めいたします」
「どのくらい悪い」
レオンハルトが尋ねた。
医師は、言葉を選んでいた。
「熱は上がり下がりを繰り返しております。咳も続き、お休みになる時間が長くなりました。お食事も、以前ほどは」
「良くなっているのか」
今度は、返事までに間があった。
「回復へ向かっていると、申し上げられる状態ではございません」
レオンハルトの顎が、わずかに引かれた。
廊下の向こうで、侍女が足を止めた。こちらの話を聞こうとしたのではなく、盆を持って通る場所を待っているのだった。
医師は声を低くした。
「熱を出された初めの頃は、陛下も書状を御覧になっておられました。ですが、次第に起きておられる時間が短くなり……今は、御身を休めていただくことを優先しております」
レオンハルトは扉へ目を向けた。
「話はできるのだな」
「はい。御判断は、はっきりしておられます」
「分かった」
それ以上、廊下で問い詰めることはしなかった。
面会に入るのは、レオンハルトとマティアス、ユリウス、そしてグレンツベルクの状況を直接知るアレクとなった。ほかの四人は、呼ばれればすぐに報告できるよう、別室で待つことになった。
扉の前で、侍従が名を告げる。
中から声があった。
「入れ」
聞き覚えのある声だった。
だが、扉一枚を隔てただけなのに、以前より遠くから聞こえた。
◇ ◇ ◇
国王は、寝台の上で身を起こしていた。
背には幾つもの枕が重ねられ、膝へ薄い掛け物が置かれている。窓の近くに机はあったが、椅子は空いていた。書状の束も、寝台の脇へ移されていた。
アレクは一礼してから、顔を上げた。
王都を出る前に見た国王より、頬が痩せていた。襟元から見える首も細く、掛け物の上へ置いた手が大きく見えた。
レオンハルトは、寝台の前で足を止めた。
「戻ったか」
国王が言った。
「ああ」
「ずいぶん、静かに入ってきたな」
「病人の部屋へ、騒いで入る趣味はない」
「殊勝なことだ」
国王の口元が、少し動いた。
レオンハルトは笑わなかった。
国王も、それ以上は続けなかった。
「東部は」
「盟約の名で兵を集める城はなくなった。主だった城と街道を押さえ、兵を解かせた」
「イグナーツは」
「捕らえた。証拠とともに、護送している」
国王の目がマティアスへ向いた。
マティアスが進み出て、報告を差し出す。侍従が受け取り、国王の手元へ置いた。
「こちらは、処置の一覧と書状の写しでございます」
国王は紙を一枚めくった。
「兵を残しているな」
「歩兵二千二百と、騎兵の人員三百です。陛下からお預かりした軍の指揮官に、各地の守備をまとめさせております」
「国境へは」
「見張りを置き、逃亡した者の動向を確かめています。隣国へ追って兵を出す命令は、出しておりません」
国王が頷いた。
レオンハルトは、その手が次の紙を取るのを待っていた。
報告のたびに、兄が何を疑い、何を確かめたがるかは分かっている。だが、紙をめくる指の遅さには、まだ慣れなかった。
「帰還を命じた家の兵は、返したのか」
「所属を確かめて返した。自領の守りに就かせている」
「そちらの兵へは加えなかったか」
「主の命令で帰ると言った兵だ。俺が取り上げてどうする」
国王は、紙から目を上げた。
「そうか」
短く答え、また報告へ戻る。
徴発の停止と物資の返還について尋ねた時には、マティアスが帳簿の写しを示した。
賠償を領民への追加徴収で賄うことを禁じ、当主の財産や家の収入を調べさせている。城を受け取った後も、生活に必要な物まで一度に運び出すことはしていなかった。
「家を残せと願う者は、多かったであろう」
国王が言った。
「いた」
「何を答えた」
「何をしたかを調べると答えた。降った時期も、兵の使い方も違う。全て同じにはできぬ」
国王は咳をした。
侍従がすぐに椀を持ち、医師が半歩近づく。
国王は片手を上げて待たせたが、咳は一度では収まらなかった。体を少し前へ曲げ、布を口元へ当てる。
レオンハルトが動きかけた。
先に侍従が肩を支えたため、その手は寝台の脇で止まった。
アレクは、目を伏せた。
しばらくして咳が静まり、国王が水を飲んだ。
「続けよ」
「休め」
レオンハルトが言った。
「まだ、聞くことがある」
「紙は逃げぬ」
国王は椀を侍従へ返した。
「お前がそう言う日が来るとはな」
声はかすれていた。
だが、目はレオンハルトを見ていた。
◇ ◇ ◇
医師と相談し、少し間を置いてから、グレンツベルク家についての報告をした。
アレクは、焼かれた町の状況と、物資が届いた後に始まった修繕について話した。
全ての家へ屋根が戻ったわけではないこと。家族を失った者や、まだ働けない負傷者がいること。家宰が残り、フェリックスとともに必要な物を確かめていること。
国王は、途中で口を挟まなかった。
アレクが話し終えると、レオンハルトへ顔を向けた。
「嫡男が残ったのだな」
「ああ。フェリックスだ」
「幾つも失ったか」
「父も、母も」
国王の手が、掛け物の上で止まった。
レオンハルトは続けた。
「ルーカスは陛下の命令に従った。そのために家を取り上げることはしないと、息子へ伝えた」
「継承を認める」
国王は答えた。
迷う様子はなかった。
「必要な証と報告を揃え、正式に記せ。幼い間の政務は家宰に担わせ、隣の家が口実を作って領地を奪わぬようにせよ」
侍従が書記を呼んだ。
マティアスが一礼する。
「私からも、人と物の手配を助けるつもりでおります」
「任せる。ただし、その家の名を消すような助け方はするな」
「承知しております」
国王はアレクを見た。
「その子は、何をしていた」
アレクは少し考えた。
荷を数えていたことなら、もう話した。
だが、国王が聞きたいのは、帳簿の仕事だけではないように思えた。
「町へ配る物を確かめていました。母親が寝込んでいるため、隣の家で世話になっている子がいると聞いて、その子の分も加えるようにと」
国王は黙って聞いた。
「分からないことは、家宰に尋ねておりました」
「そうか」
国王は息を吐いた。
「知らぬことを尋ねられるなら、教える者を置いてやれ」
「はい」
アレクは頭を下げた。
顔を上げると、国王の視線は窓の方へ動いていた。
外には、王宮の庭が見えている。
そこに何かを見つけたわけではなく、少しの間、誰の顔も見ずにいたかったようだった。
レオンハルトは、その横顔を見ていた。
やがて国王が、寝台の脇の紙を押さえた。
「ロスヴァールについては、別に記録を揃えよ」
マティアスが頷いた。
「誰が、どの立場で関わったかを確かめろ。国境の一人の名だけで、話を閉じるな」
「はい」
レオンハルトが口を開いた。
「東部で終わる話ではない」
「分かっている」
国王は答えた。
「だからこそ、こちらの始末をつけよ。城を取っただけで国境を越えれば、背中でまた火が上がる」
レオンハルトは黙って頷いた。
その返事を見届けてから、国王は枕へ体を預けた。
医師が今度こそ面会を終えるよう告げる。
レオンハルトは逆らわなかった。
◇ ◇ ◇
部屋を出てから、レオンハルトは廊下の窓辺で止まった。
マティアスは書記へ報告を渡し、継承の手続きを進めるための書状を用意させていた。ユリウスは後続の護送隊へ送る伝令を呼んでいる。
アレクは、邪魔にならぬよう壁際へ寄った。
国王は、自分たちの報告を理解していた。
数も、命令も、その先に起こることも考えていた。
それだけに、咳を止められず、椀を持つ手を侍従に支えられた姿が、強く残っていた。
医師が部屋から出てきた。
レオンハルトが顔を向ける。
「休んでいるのか」
「はい。今はお話しにならず、横になっていただいております」
「……戻るのは、難しいか」
医師は、答える前に廊下を見た。
レオンハルトは声を落とした。
「聞いている。あの体で、以前のように務められるようになるのか」
「お約束はできません」
医師の返事は、短かった。
「日によって、少し楽になられることはございます。ですが、それをもって回復したとは申し上げられません。お力が、落ちております」
レオンハルトは窓の縁へ手を置いた。
医師を責める言葉は出さなかった。
何を言っても、答えが変わるとは思っていないようだった。
「分かった。必要な物があれば、伝えろ」
医師が一礼し、部屋へ戻っていく。
マティアスが近づいた。
「殿下」
「ああ」
「陛下から、明日、王都にいる重臣と諸侯を集めるよう御指示があったそうです」
レオンハルトが振り向いた。
「何をする」
「殿下にも、御同席をと」
レオンハルトは、閉じた扉を見た。
病床からでも、兄は次の手を決めていた。
何を決めたのかを尋ねようとして、足を動かしかける。
だが、扉の向こうに医師が戻ったばかりであることを思い出したのか、その場にとどまった。
◇ ◇ ◇
翌日、王の部屋に続く控えの間へ、人が集まった。
長く国王へ仕えてきた重臣。見舞いのため王都へ来ていた諸侯。宮中の政務を担う者たち。
東部から戻ったばかりのレオンハルトと、彼に従うマティアスたちが入ると、話し声が小さくなった。
アレクは、その視線を感じた。
王都軍が東部へ送られたことを知る者もいれば、戻ってくる兵の数を気にする者もいるのだろう。歓迎の宴で受けた視線とは違っていた。
国王の病と、レオンハルトの勝利が、同じ部屋の中へ持ち込まれていた。
国王は寝台のある部屋で待っていた。
全員を近くへ集められる広さではなかったため、続きの扉が開かれ、控えの間からも声が聞こえるようにしてあった。医師と侍従は、寝台の近くに残っている。
レオンハルトは最も近い場所へ立った。
マティアスと五人は、その後ろへ控えた。
国王は、集まった者の顔を順に見た。
顔を上げたまま待つ者もいれば、痩せた姿を見て目を伏せる者もいた。
「来たか」
国王が言った。
重臣の一人が進み出る。
「陛下。どうか、御無理をなさらず」
「長くは話さぬ」
国王は答えた。
その言葉で、人々の背が伸びた。
書記が紙を広げ、筆を取った。
「東部の盟約は解かれた」
国王の声は、以前の広間で聞いたような大きさではなかった。
それでも、誰も聞き返さなかった。
「諸城は開き、王命に背いて集められた兵も解かれた。レオンハルトが、これを成した」
国王は弟へ顔を向けた。
「シュヴァルツ伯を討ち、東部を平らげた。その功は大きい」
レオンハルトは黙って聞いていた。
「だが、余が今、ここで認めるのは、敵を破ったことだけではない」
国王の指が、寝台の脇に置かれた報告へ触れた。
「命令に従って戻る兵を、その主へ返した。先に従った家と、最後まで戦った家を分けて扱った。奪われた物を返し、戦の代価を、再び村へ負わせることを止めた」
控えの間にいた諸侯の一人が、レオンハルトを見た。
国王は続けた。
「勝った後に、何を残すかを考えた。その働きを、余は認める」
レオンハルトが頭を下げた。
そのまま、褒賞の話になると思った者もいたのかもしれない。
だが、国王は領地の名も、金の額も口にしなかった。
少し休むように息を整え、それから言った。
「余は、レオンハルトへ王位を譲る」
筆の動く音が止まった。
控えの間で、衣の擦れる音がした。
アレクは顔を上げた。
国王は、誰かの反応を待って言葉を引っ込めるつもりはなかった。
「正式な礼を行い、余の意思であることを、諸侯の前に示す」
レオンハルトが口を開いた。
「兄上」
国王は弟を見た。
「聞け」
その一言には、弱った声でも変わらぬものがあった。
「余の体が戻ることを待つだけでは、国は治められぬ。東部は収まったが、隣国の手は既に入っている。次に誰の命令を受けるかで、また諸侯を分けるわけにはいかぬ」
重臣の一人が、膝をついた。
「陛下がおられます。我らが政務をお支えいたします。何も、今すぐ」
「今すぐ、ではないと思えるうちに決める」
国王は答えた。
男の口が止まる。
「余が話せなくなってから、余の意思をそれぞれに語られては困る」
部屋が静まった。
レオンハルトは、寝台の脇へ一歩進んだ。
「急いで決めることではない」
「急いではおらぬ」
国王が返した。
「お前が東部で何をするか、報告を読んでいた。今、何を持ち帰ったかも聞いた」
レオンハルトは言葉を失った。
国王は掛け物の上へ手を戻した。
「勝って戻った弟へ、褒美として王位を渡すのではない。余の後を、任せる」
◇ ◇ ◇
レオンハルトは、すぐには答えなかった。
アレクから見える横顔は、戦場で敵を前にした時とも、諸侯の申し開きを聞いた時とも違っていた。
国王は返事を急がせず、集まった者たちへ目を向けた。
「余に仕えた者たちよ。これからは、レオンハルトを支えてほしい」
重臣たちが頭を下げた。
だが、一人の年長の諸侯は、膝をついたまま顔を上げていた。
「陛下の御意思には、従います」
男は言った。
「ただ、我らはこれまで、陛下の御命令で殿下と異なる判断をしたこともございます」
レオンハルトは男を見た。
広間での席次を争ったという程度の話ではなかった。兵の扱い、税や街道の取り決め、領地への働きかけ。国王へ従うことで、レオンハルトと対立した者もいる。
国王は頷いた。
「知っている」
それから、弟へ向き直った。
「レオンハルト。頼みがある」
「何だ」
「余に仕えてきた者を、そのために冷遇せぬでほしい」
レオンハルトは、もう一度、諸侯を見た。
男は目を逸らさなかった。
この場で何を約束するかを、聞こうとしていた。
「国の諸侯は皆国のために働いている。優劣などあってはならない」
レオンハルトが言った。
国王の指が、わずかに緩んだ。
レオンハルトは言葉を続けた。
「兄上へ仕えたか、俺へ仕えたかで、忠義を量ることはしない。これまで俺と意見が違ったというだけで、領地も役目も奪わぬ」
男の肩から、少し力が抜けた。
「ただし、罪と功績は別だ。誰の配下であっても、したことは確かめる。俺の近くにいた者だけを、問わずに済ませるつもりもない」
マティアスが静かに頭を下げた。
アレクも、それに続いた。
国王は弟の顔を見ていた。
「その約束を、ここにいる者たちが聞いた」
「ああ」
「余も、聞いた」
年長の諸侯が、深く頭を下げた。
「承りました」
それ以上の言葉はなかった。
すぐに全ての不安が消えたわけではないのだろう。
それでも、男は国王だけでなく、レオンハルトへ向けて礼をした。
後ろにいた者たちも、一人ずつ頭を下げた。
国王は、その様子を見届けた。
咳が出かけ、布へ手を伸ばす。侍従が支えようとすると、今度は拒まなかった。
部屋にいた者たちは、誰も話さなかった。
咳が収まってから、国王は書記へ顔を向けた。
「今の言葉を、残せ」
筆が動いた。
王位を譲る意思と、諸侯へ求めたこと。そして、レオンハルトが返した約束が、同じ紙へ記された。
レオンハルトは、その紙を見ていた。
やがて、国王へ向き直る。
「引き受ける」
声は低かった。
「だが、礼の支度で体を削るな。必要なものは、こちらで整える」
国王は、わずかに笑った。
「まだ、余が命じる」
「分かっている」
レオンハルトが答えた。
そのやり取りを聞き、顔を伏せた重臣がいた。
◇ ◇ ◇
諸侯が退出し、国王が休む間、一行は控えの間で待った。
廊下には、知らせを受けて動き始めた侍従たちがいた。王都にいない諸侯へ、誰を使者として出すか。書状を何通用意するか。王の言葉を聞いた者の名を、どこへ記すか。
まだ譲位は行われていない。
それでも、王宮の仕事は、次の王を迎えるために動き始めていた。
アレクはマティアスの隣に立っていた。
何を言えばよいか分からなかった。
東部で城が開いた時には、次に誰を入れ、どこを押さえるかが見えていた。今は、自分の前で国そのものの主が変わろうとしている。
マティアスは、受け取った紙へ目を通していた。
「驚いたか」
小さな声で尋ねられ、アレクは頷いた。
「はい」
「私もだ」
マティアスは紙を畳んだ。
「だが、今は殿下が決められたことを支える。余計なことを言い広めず、聞いたことを正しく伝えよう」
「はい」
廊下の向こうで、侍女が足を止めた。
その隣に、小さな女の子がいた。
淡い色の衣を着て、両手を前で重ねている。金糸の飾りはあったが、宴の娘たちが身につけていたような華やかさではなかった。
顔を上げると、レオンハルトを見つけた。
侍女に促されて、近づいてくる。
「叔父様」
レオンハルトが顔を向けた。
少女は裾をつまみ、丁寧に礼をした。
「シャルロッテ。大きくなったな」
「お帰りなさいませ」
「ああ」
レオンハルトは、その前へ身をかがめた。
少女は笑おうとしたようだったが、口元が少し動いただけだった。
「父上は、たくさんお話しになりましたか」
「少し、話をした」
「疲れてしまわれませんでしたか」
レオンハルトは少女の顔を見た。
九歳の子が、部屋の外で待ちながら気にしていたことだった。
「今は休んでおられる」
答えると、シャルロッテは扉を見た。
侍女が、国王から呼ばれていると告げる。
レオンハルトは立ち上がった。
しばらくして侍従が扉を開き、少女を中へ招いた。
その後で、レオンハルトとマティアスたちにも入るよう告げた。
◇ ◇ ◇
「シャルロッテ」
国王の声を聞くと、少女の歩みが少し速くなった。
だが、寝台の手前で止まり、侍従が椅子を置くのを待った。いつも、そうするように言われているのだろう。
国王が手を差し出す。
少女は、その指へ自分の手を重ねた。
「今日は、庭へ出たか」
「少しだけ」
「何を見た」
「鳥が、水を飲んでおりました」
国王が頷いた。
「そうか」
短い返事でも、少女は父の顔を見ていた。
次の言葉を待っている。
国王は、しばらく娘の手を握っていた。
アレクは、部屋の入口に近い場所で立っていた。退出した方がよいのではないかと思ったが、侍従から控えているよう目で示された。
国王がレオンハルトへ顔を向けた。
「この子のことを、頼みたい」
レオンハルトの目が、兄から少女へ移った。
「母を亡くしたのは、この子が生まれて間もなくのことだった」
国王の指が、娘の手の甲へ触れた。
「顔を覚える間もなかった」
シャルロッテは父を見ていた。
国王は言葉を切り、水を飲んだ。侍従が椀を受け取っても、しばらく続けなかった。
レオンハルトが待っている。
やがて国王は、弟へ告げた。
「この子を、お前の娘として迎えてほしい」
アレクは息を止めた。
王位の話を聞いた時には、このことまで考えていなかった。
国王の一人娘が、レオンハルトの養女になる。
新たな王のもとでも、王家の姫として生きていく。その意味は分かった。
だが、目の前の国王が見ていたのは、書記の紙ではなかった。
自分の手を握る娘だった。
「王家の姫としての立場は、残してやってほしい。この子を、余の代だけの者として扱わせたくない」
レオンハルトは頷いた。
国王は、まだ言い終えていなかった。
「それと」
声が止まった。
シャルロッテが、父の指を握り直した。
国王はその手を見て、低く続けた。
「一人に、せぬでやってほしい」
部屋の中で、衣の音もしなくなった。
国王が示した条件は、領地でも、持参金でもなかった。
朝、目を覚ました時に誰を呼べばよいのか。食卓に誰がいるのか。困った時、どこへ行けば話を聞いてもらえるのか。
言葉にはされなかったが、アレクには、そういうものを弟へ頼んでいるように聞こえた。
レオンハルトが寝台へ近づいた。
「迎える」
はっきり答えた。
「妻とともに、この子を迎える。姫としての立場も守る」
国王は弟を見た。
「お前の家にも、子がいる」
「ああ。息子には、妹になる子だと話す」
シャルロッテの顔が、レオンハルトへ向いた。
レオンハルトは少女を見た。
「年は、一つ上だ。兄になるのだと聞けば、張り切るだろう」
少女はすぐには笑わなかった。
父の手を握ったまま、尋ねた。
「私は、父上のお部屋へ来てはいけなくなるのですか」
国王の指が止まった。
レオンハルトは少女の前へかがんだ。
「そんなことはない」
「でも、叔父様の娘に」
「なっても、お前の父上であることは変わらぬ」
シャルロッテは国王を見た。
確かめるような目だった。
国王は頷いた。
「変わらぬ」
少女の唇が、少し開いた。
「では、明日も来ます」
国王は、すぐには答えられなかった。
レオンハルトは顔を上げなかった。
侍女が目を伏せた。
「疲れておられたら、お話はしません」
シャルロッテが続けた。
「ここで、座っております」
国王は娘の手を引き寄せた。
強く抱き寄せる力はなかった。それでも、少女が椅子から少し身を乗り出すと、肩へ手を置いた。
「そうしてくれ」
声がかすれていた。
シャルロッテが頷いた。
アレクは、窓の外へ目を向けた。
フェリックスに、父の家が残ると約束した時のことを思い出した。
あの少年には、両親へ確かめることができなかった。
ここには、まだ父がいる。
だからこそ、明日も来るという一言が、胸へ重く残った。
◇ ◇ ◇
国王が休むため、シャルロッテは先に部屋を出ることになった。
立ち上がる時も、父の指をなかなか離さなかった。侍女がそばで待ち、国王がもう一度頷いてから、ようやく手を解いた。
少女はレオンハルトへ向き直った。
「叔父様」
「何だ」
「奥方様は、怖い方ではありませんか」
レオンハルトは、少しだけ目を和らげた。
「困っていることを聞かずに、怒るような者ではない」
「……はい」
「会った時に、自分で話すといい。何が好きか、何が苦手かもな」
シャルロッテは頷いた。
それから国王へ礼をし、侍女とともに扉へ向かった。
アレクたちの前を通る時、裾が椅子の脚へ掛かりかけた。少女は自分で止まり、布を持ち上げてから歩いた。
その小さな動きまで、皆に見られていた。
扉が閉じると、国王は目を伏せた。
「よく、我慢をする」
誰に言うともなく、呟いた。
レオンハルトは寝台の脇に立ったままだった。
「我慢しなくてよい場所を、作る」
国王が顔を上げた。
レオンハルトは兄を見ていた。
「そのためにも、妻と息子を呼ぶ。急な話だが、事情は俺から伝える」
「頼む」
国王が言った。
先ほど諸侯へ向けた声よりも、小さかった。
マティアスが一歩進み出た。
「養子縁組と、姫君の立場を定める書面も整えます。陛下と殿下の御意思を、後で違えて伝える者が出ぬように」
「そうしてくれ」
国王が頷いた。
アレクには、マティアスが感情を避けて仕事の話をしたのではないと分かった。
ここで交わされた約束を、二人だけの言葉で終わらせないためだった。
国王はレオンハルトへ目を戻した。
「お前の家の食卓は、賑やかになるな」
「一人増えるだけだ」
「その一人が、大事なのだ」
「ああ」
レオンハルトが答えた。
「分かっている」
◇ ◇ ◇
譲位の礼について、国王はその日のうちに命令を出した。
王都にいない諸侯へ使者を送り、参集を求める。東部に残した守備の指揮まで空にしないよう、召集の書状と軍への命令は分けて作られた。
書記が必要な名を読み上げると、国王は時折、補うべき者を告げた。
医師は、寝台の脇でその様子を見ていた。
「陛下。礼は、お部屋で行われてはいかがでしょうか」
国王が顔を向ける。
「長くお座りいただくことも、お体には障ります。人を多く入れれば、それだけお疲れにもなります」
「礼を省くことはできる」
国王は答えた。
「だが、余が何をしたかを、見せずに済ませることはできぬ」
医師は口を閉じた。
レオンハルトが言った。
「立ち続ける必要はない。椅子を置け。移動も、人をつける」
「分かっている」
「言うだけでは困る」
国王は弟を見た。
しばらくして、頷いた。
「では、短く整えよ」
侍従が一礼した。
長い行列も、何度も場所を移す作法も、削ることになった。国王が座ったまま言葉を告げられるようにし、休む場所をすぐ近くへ用意する。
それでも、譲る意思を告げるのは国王自身だった。
レオンハルトは、その点については争わなかった。
書記が紙を整え、国王の前へ置いた。
王位を譲る意思。
諸侯の召集。
グレンツベルク家の継承を進める命令。
シャルロッテをレオンハルトの養女として迎えるための手続き。
それぞれ別の紙だった。
国王は順に目を通し、確かめた。
途中で手が止まると、レオンハルトが紙の端を押さえた。字を隠さぬ場所を選んだ手だった。
「読める」
国王が言った。
「紙が動いている」
「そうか」
国王はそれ以上、手を退けさせなかった。
アレクは、その二つの手を見ていた。
同じ机を挟み、互いの権限を量っていた兄弟が、今は一枚の紙を揃えている。
譲位の言葉が記されても、レオンハルトの顔に喜びはなかった。
失われようとしている時間を、少しでも残そうとするように、兄の手が次へ動くのを待っていた。
◇ ◇ ◇
面会が終わると、一行は別の部屋で翌日からの仕事を分けた。
マティアスは、諸侯へ送る書状と東部からの報告を整理する。ユリウスは、護送隊の到着と、国王の命令を各地へ届ける手配を確かめた。
五人にも、それぞれ役目が渡された。
カスパルは使者の道と交代の馬を確かめ、ロベルトは帰還する軍と王都側の受け入れを調整する。ヴィクトルとエイドリアンは、東部に残した部隊への追加の連絡をまとめた。
アレクは、グレンツベルク家へ届ける知らせをマティアスと確かめた。
国王がフェリックスの継承を認め、正式な手続きを進めるよう命じたこと。家宰が引き続き政務を担い、必要な支援を受けられること。
まだ完成していない証書が届いたかのようには書かず、何が決まり、何を待つのかを分けた。
「これなら、家宰も動ける」
マティアスが言った。
「先に知らせよう。正式な書面は、整い次第送る」
アレクは頷いた。
フェリックスが、家の名を口にした時の顔を覚えている。
この知らせが届けば、少なくとも一つは、待ち続けずに済むことができた。
レオンハルトは、少し離れた机へ座っていた。
自領へ送る書状を書いている。
兵を出せという命令ではなかった。
妻と息子を王都へ呼ぶためのものだった。
途中で筆が止まり、しばらく紙を見ている。やがて、もう一行を書き足した。
封じる前にユリウスを呼び、言葉を添えた。
「道は急がせすぎるな。護衛をつけ、無理なく来られるようにしろ」
「承知しました」
「事情は書いた。足りぬところは、俺が会って話す」
ユリウスが書状を受け取った。
レオンハルトは、机の上から手を離した。
その前へ、マティアスが進んだ。
「殿下。こちらの手配は進めます。少し、お休みください」
「まだ、陛下のところへ行く」
「医師が、今夜は休ませると」
「部屋へ入るつもりはない」
レオンハルトは立ち上がった。
「様子を聞いてくるだけだ」
マティアスはそれ以上止めなかった。
アレクも、書状をまとめる手を止めた。
廊下へ出ていく背中を見送った。
◇ ◇ ◇
国王の部屋の前には、夜の見張りが立っていた。
昼に控えていた侍従とは別の者が、椅子から立ち上がる。
レオンハルトは、扉へ目を向けた。
「眠っているか」
「はい。先ほど、お休みになりました」
「咳は」
「今は、落ち着いております」
レオンハルトは頷いた。
そのまま戻ろうとした時、侍従が小さな包みを持ち上げた。
「姫様が、こちらを」
布に包まれていたのは、小さな刺繍だった。
端の縫い目は揃っていない。途中までできている花の脇には、まだ針を入れていない場所があった。
「お目覚めになりましたら、お見せするようにと。明日、続きを持ってこられるそうです」
レオンハルトは、それを見た。
侍従は丁寧に布を戻した。
扉の向こうからは、何も聞こえなかった。
レオンハルトは、その静けさを確かめるように、しばらく立っていた。
王都へ戻るまで、兄へ何を報告するかを考えていた。
東部の兵をどう解いたか。
ルーカスの家をどう守るか。
ロスヴァールの書状を、どう扱うか。
それを聞いた兄が何を言い、何を認め、どこで自分を止めるのかも考えていた。
今は、その先まで引き受けることになった。
王国も、諸侯も、まだ幼い娘も。
レオンハルトは扉へ触れかけた手を下ろした。
起こしてまで言うことではなかった。
「目を覚ましたら、知らせろ」
「承知しました」
侍従が一礼した。
レオンハルトは廊下を戻った。
奥の部屋には、まだ灯りがあった。マティアスたちが書状を整え、使者へ渡す順を確かめている。
扉を開けると、全員が顔を上げた。
レオンハルトは机へ戻った。
「続きを聞く」
マティアスが紙を取った。
王位を受ける日まで、待っていてよい仕事ではなかった。
兄が目を覚ました時、何も進んでいないとは言えなかった。
レオンハルトは椅子へ座り、国王から預かった紙を、自分の前へ引き寄せた。
第二十九話を読んでいただき、ありがとうございました。
国王として国の行く末を案じ、父として娘の幸せを願う。その二つの思いを、レオンハルトは受け止めました。
王都では、王位を引き継ぐための準備が始まります。
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