第二十五話 崩れる盟約
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王都軍の到着と敗戦の知らせが、イグナーツの陣中にも波紋を広げます。
一方、東へ進むレオンハルトたちの前には、敵が選んだ戦場が待っていました。
男が椀を置いた時、向かいに座っていた兵が尋ねた。
「本当に、ご当主様がおられたのか」
周囲には、夕食を受け取った兵が集まっていた。火のそばへ寄る者もいれば、少し離れた荷の上へ腰を下ろす者もいる。話している二人へ顔を向けなくても、声の届く距離だった。
戻ってきた男は、右の頬に布を当てていた。
椀を持っていた手を膝へ置き、頷く。
「おられた。旗の下に、御自分で立っておられた」
「黒獅子に捕らえられていたのではないのか」
「兵を迎えていた。肩を貸し、怪我人を運ばせていた。縄を掛けられているようには見えなかった」
尋ねた兵が黙った。
隣の男は、手にしていたパンを割ったまま止まっていた。
「戻った者は、どうなった」
「主君のところへ入った。武器はまとめさせられていたが、斬られてはいない」
「その後で、別の兵にされたのでは」
「知らん。そこまでは見ていない」
男は答えた。
「だが、向こうへ行った仲間が、すぐ槍を持たされて戻ってきたわけではない」
火が小さく鳴った。
誰かが薪を押し込んだが、話を変える者はいなかった。
最初に尋ねた兵が、声を落とした。
「なら、帰還の命が来れば」
「余計な話をするな」
背後から声がした。
イグナーツの直属兵が二人、立っていた。
片方は椀を持っている。食事を取りに来たところで、話が耳へ入ったらしかった。
「勝手に戦列を抜けた者の話だ。見張りを増やされたいのか」
座っていた兵たちが、互いの顔を見た。
戻ってきた男は、頬の布を押さえたまま直属兵へ顔を向けた。
「主君の命令を聞いて動いた隊もいた」
「敵の前で抜ければ同じだ」
「同じではない」
男は立ち上がった。
足元に置いた椀へ、土が落ちた。
「帰れという命令が出た。主家の旗も見えた。それで戻ろうとした者へ、こちらから槍を向けた」
「止めただけだ」
「殺した」
直属兵の口元が動いた。
男は一歩近づいた。
「俺と同じ村の者がいた。負傷した仲間を運んでいた。その背中へ槍を入れたのも、止めただけか」
「だから、勝手に動かなければ」
「主君の命に従った者を斬っておいて、誰への忠義を口にしている」
男の手が、相手の胸元を掴んだ。
直属兵が腕を振り払い、肩を押す。よろめいた男の背を、近くの兵が支えた。
「手を離せ」
「先に、その口を閉じろ」
拳が飛んだ。
どちらからだったのか、火の向こうにいた者には見えなかった。
椀が落ち、汁が土へ広がった。二人が倒れ込むと、もう一人の直属兵が間へ入り、男の襟を掴もうとした。
その腕を、別の兵が押さえた。
「二人で掛かるな」
「邪魔をするな」
「そちらこそ」
火の周囲から、人が立ち上がった。
最初の二人を引き離そうとしていたはずの者まで、相手の肩を押し返し始める。直属兵の腰へ手が動くと、向かいの兵も短い刃物へ触れた。
「抜くな!」
隊長の声が響いた。
人の間へ入り、刃物へ伸びた腕を掴む。
「ここで誰を刺すつもりだ!」
兵が手を止めた。
隊長は、その腕を下ろさせてから振り返った。
「離せ。そちらもだ」
地面で組み合っていた二人が引き離された。
頬に布を当てていた男は、今度は唇からも血を流していた。直属兵は襟を直しながら、周囲を睨んでいる。
隊長は双方の名を尋ねた。
誰も、相手の傷を気遣わなかった。
火の周囲へ戻る者もいなかった。
こぼれた食事のそばで、倒れた椀だけが転がっていた。
◇ ◇ ◇
その夜、見張りの交代に一人、現れなかった。
寝ているのだろうと呼びに行った兵が戻り、荷もなくなっていると告げた。
翌朝には、別の隊から三人が消えていた。
同じ村の出身だった。
槍は残されていたが、食べ物を包む布と水筒はなかった。誰かに捕らえられた跡もなく、寝ていた場所の藁だけが平らになっている。
隊長は、残った兵へ尋ねた。
見た者はいなかった。
知らないのか、知っていて言わないのかも、分からなかった。
次の夜には、陣の外で一組が捕まった。
小用へ行ったと言ったが、一人は靴を替え、もう一人は荷を背負っていた。見張りが戻るよう命じると、二人は互いの顔を見てから、別々の方へ走った。
一人は捕らえられた。
もう一人は、暗がりへ消えた。
故郷へ戻ろうとする者も、主君がどこにいるか確かめようとする者もいた。ただ戦場から離れたいという者もいる。
イグナーツのもとへ、報告が重なった。
「見張りを増やせ」
彼は命じた。
「隊ごとに人数を確かめろ。朝にいた者が、夕方もいると思うな」
直属兵が、諸侯の隊の外側へ配置された。
その日のうちに、別の揉め事が起きた。
自家の荷車を移そうとした家臣が止められ、隊長が説明に出た。そこへ当主自身が来て、見張りの騎士と向かい合った。
「荷を動かすにも、許しが要るのか」
「陣を離れる者が出ております」
「我が家の者だ。行き先は私が知っている」
「伯爵閣下の御命令です」
当主は、その言葉を聞いて顔を硬くした。
「我が家の兵を、閣下の許しがなければ動かせぬというのか」
騎士は答えなかった。
周囲に、自家の兵が集まり始めていた。
荷車の前に立つ見張りと、その向こうにいる家臣。
今は剣を抜いていなくても、どちらも相手へ背を向けようとはしていなかった。
その当主は、夕方の軍議へ出なかった。
代わりに、家臣が書状を持ってきた。
領内の守りを立て直すため、自家の兵を引き揚げるという内容だった。
イグナーツは使者を呼び止めた。
「今、この時にか」
「主の命にございます」
「黒獅子が来れば、その領地も守れなくなる」
家臣は頭を下げたが、書状を持ち帰ろうとはしなかった。
翌朝、その家の旗は陣になかった。
無断で逃げた兵とは違う。当主が命じ、隊長が兵をまとめ、家の旗を掲げたまま去っていた。
その動きを見た者たちは、何も知らないまま残ることができなくなった。
隣の隊へ、帰還命令が届いていないか尋ねる者が増えた。
主君からの書状を、途中で取り上げられているのではないかという話も出た。
見張りを増やしても、疑いまで止めることはできなかった。
◇ ◇ ◇
イグナーツは、机へ置かれた記録を見た。
前の報告と、数字が合わなかった。
隊を離れた者が出ているのに、同じ人数を記している家がある。戻ってきた敗残兵の数を、そのまま戦える者として書き直した隊もあった。
「これは、いつ確かめた」
書記が答える前に、横の騎士が口を開いた。
「昨日、隊長より」
「昨日の数を読むな」
イグナーツは紙を返した。
「今、旗の下に立っている者を数えろ」
騎士が一礼した。
外では、兵を集める声がしていた。
名を呼び、返答を待つ。
返事がないと、もう一度呼ぶ。
それでも誰も出てこなければ、近くの者に居場所を尋ねる。
その間に、別の隊から伝令が来た。
さらに二人がいない。
一人は朝の食事を受け取っていた。
もう一人は、昨夜から姿を見ていないという。
イグナーツは、途中の報告を止めさせた。
「隊ごとにまとめろ。同じ者を、別々の報告へ入れるな」
数え直しが終わったのは、日が高くなってからだった。
今、兵を並べられる者は約四千二百。
先に数えた五千三百ほどから、千人以上が減っていた。
その全てが一人ずつ逃げたのではない。主君に率いられて去った隊もあり、見張りの目を避けて抜けた兵もいた。
だが、理由を分けて書いても、目の前へ戻るわけではなかった。
「残った者は、命令を聞くのか」
イグナーツが尋ねた。
騎士は、答えるまでに少し間を置いた。
「直属の兵は、揃えております。諸侯の隊も、残ると答えた家を中心に組み直しました」
イグナーツは地図を引き寄せた。
去った家の印を外し、残った印を寄せる。
広く置いたままでは、隊と隊の間を守れなくなっていた。
彼は街道の狭まる場所を指した。
「正面に千六百。北と南へ七百ずつ。残る千二百を、後ろへ置く」
書記が書き留めた。
西から来る街道は、低い丘の間で幅を失う。北側には歩兵が登れる斜面があり、南側には足場の悪い起伏が続いていた。
城は、そこからさらに東にある。
ここで止めれば、黒獅子は城へ向かう前に兵を使う。
そのために選んだ場所だった。
「北の七百は、前と奥へ分ける」
イグナーツは、街道へ近い低い高所へ印を置いた。
「手前に三百。奥に四百。前の兵だけで追い下りるな。取られても、奥の兵まで一緒に崩れることのないようにしろ」
「南は」
「街道へ寄せすぎるな。騎馬を通せぬ場所を使え。敵の歩兵が回れば、こちらから知らせろ」
騎士たちは地図を見ていた。
陣から消えた者を追うための命令ではなかった。
残った四千二百人で、迫る軍をどう止めるかという命令だった。
イグナーツは、机に残る空いた場所へ目を落とした。
そこには、去った家の印が置かれていた。
彼はそれを戻さなかった。
「前へ出る。持ち場へ着いた隊から、道を確かめさせろ」
騎士が天幕を出た。
外で角笛が鳴る。
応じて動く兵は、数日前より少なかった。
それでも、槍を取り、盾を肩へ掛ける者たちは残っていた。
◇ ◇ ◇
カスパルが見つけたのは、東へ向かう軍ではなかった。
北へ離れていく、小さな一団だった。
騎馬は少なく、歩兵が荷車を囲んでいる。旗は畳まれていたが、先頭へ立つ男の服には、見覚えのある紋章があった。
遠くから見張っていた騎手が戻ってきた。
「こちらへ向かう様子はありません」
「人数は」
「二百に届くかどうか。荷車が三台です。見えない列が、林の向こうへ続いているかもしれません」
カスパルは頷いた。
全部を数えたことにはしなかった。
「追うな。道を戻る者を見張れ。敵の陣へ知らせに行く騎馬がいるかどうかだ」
騎手が引き返した。
その日の午後には、別の場所でも小集団が見つかった。
旗はない。槍を持たない者もいた。
見張りの騎馬へ気づくと、道を外れて姿を隠したという。
カスパルは、その報告をまとめてレオンハルトへ送った。
敵から兵が離れている。
ただし、どれだけ減ったかまでは分からない。
それを、同じ紙へ書かせた。
レオンハルトの軍は、二つの道を使って進んでいた。
先へ出た部隊が集結地点で待ち、後から来た歩兵と荷を迎える。火槍隊も坂を抜け、指揮役ごとに人数を確かめてから合流した。
六千四百十四人が、一つの街道へ細長く並んだまま敵へ向かうことは避けられていた。
レオンハルトは、カスパルから届いた紙をマティアスへ渡した。
「引き揚げる家も出たようだ」
「王都軍が加わったことは、もう伝わっているでしょう」
マティアスは答え、紙の末尾を見た。
「ですが、残った数までは分かりませんね」
「ああ」
レオンハルトは、東へ続く道を見た。
逃げる兵を見たというだけで、その先の全てが逃げたことにはならない。
そこへ、別の騎手が戻ってきた。
馬の首に汗が浮いていたが、騎手は慌てて声を上げなかった。止まって一度息を整え、レオンハルトへ向き直る。
「街道の先に、敵がおります」
「陣を張ったか」
「はい。道の両側です。最初は旗が見えず、前に兵がいないように見えました。ですが、北の高いところに弓が見えました」
カスパルも後から戻ってきた。
地図を開き、騎手の見た場所へ指を置く。
「道から少し引いて、起伏の向こうへ置いています。街道を進めば、近づいてから両側へ顔を向けることになります」
「前には」
「盾と槍です。数は、もう少し見なければ分かりません。ですが、逃げる支度ではありません」
レオンハルトは頷いた。
「数が減ったからといって、向こうの選んだ場所へ並んで入る必要はない」
王都軍の指揮官が、地図の北側を見た。
「まず、こちらを確かめます」
「騎馬を追い回す場所ではない。歩兵がどこまで上がれるかを見ろ」
「承知しました」
軍の前進が緩められた。
後ろの隊へも、止まる場所が伝えられる。
兵たちは、まだ見えない敵へ向かって歩き続けるのではなく、隊を保ったまま街道の西側へ展開し始めた。
◇ ◇ ◇
アレクが前へ出た時、地形は地図よりもはっきりしていた。
西から来た街道は、東へ進むほど狭くなる。その両側には低い丘があり、道だけを見て進めば、上から兵に見下ろされる形だった。
北側の手前には、一段低い高所がある。
さらに奥にも起伏が続いていたが、最初の高所を取らなければ、その向こうに何人いるかも見通せなかった。
南側は、馬を横へ広げられるような地形ではない。歩兵を回すにしても、窪みと斜面を一つずつ確かめる必要があった。
マティアスがアレクの横へ来た。
「街道の正面へ、火槍隊を置くのは難しいか」
「置けても、撃てる正面が狭くなります。両側の敵まで同時には狙えません」
アレクは北側へ目を向けた。
手前の高所の西には、斜面へ上がる前に兵を並べられる土地があった。緩い傾きはあるが、銃を構えた兵が足を揃えられる。
ただし、その先には高所の縁がある。
敵が下がっていれば、姿は見えなかった。
「北側へ置きたいです」
アレクは言った。
「手前の高所へ上がる兵を助けます。敵が縁へ出れば撃てますが、向こうへ隠れたままの相手には届きません」
「地面の向こうまで撃てるとは考えていない」
マティアスは答えた。
「こちらが上がれば、止めるために出てくるだろう」
王都軍の指揮官が、歩兵の隊長を伴って近づいた。
隊長は、先に道を見てきていた。
「西側から上がれます。急なところもありますが、足を掛けられます。北へ少し寄せれば、射手の前を横切らずに待てる場所がございます」
アレクは、その場所を確かめた。
火槍隊は高所の西、やや南寄りから東へ向ける。
上がる歩兵は、その北側に寄せて待たせる。
撃つ間、歩兵が高所の正面へ入らなければ、射線を分けられる配置だった。
「前へ出る歩兵の端を、あの低い岩より北へ置いてください」
アレクは指した。
「その南を撃ちます。射撃を始めた後は、合図が届くまで岩の先へ入らないでください」
隊長が岩を見た。
「分かった。隊の端に、指揮する者を立たせる」
レオンハルトが近づき、配置を聞いた。
王都軍から歩兵六百人を出す。
その外側にはヴィクトルの歩兵三百人を置き、さらに北から回る敵を警戒させる。高所へ向かう六百人の後ろを、横から突かせないためだった。
火槍隊は三百四十人をまとめて動かす。
この攻撃へ向けるのは、歩兵九百と火槍兵三百四十。
残る歩兵四千二百七十三人と騎兵の人員九百一人は、街道正面、南側、後方へ備えを保つ。全員を北側の斜面へ集めることはしなかった。
「取るのは、手前だ」
レオンハルトは隊長たちへ言った。
「上がった先で敵が退いても、そのまま追って奥へ入るな」
「承知しました」
「向こうが兵を足せば、こちらから知らせる。自分の見える場所だけで、勝ったと思うな」
アレクは頷いた。
高所を一つ取るための攻撃だった。
それでも、ここを押さえれば、街道の北側から受ける攻撃を一つ減らせる。
敵の選んだ場所へ、正面から押し込むだけではなくなる。
◇ ◇ ◇
北の手前を守る隊長は、西側で兵が動くのを見た。
街道へ並んでいた盾の一部が、こちらへ向きを変えている。
その後ろには、長い筒を持つ兵がいた。
「弓を前へ」
隊長は命じた。
三百人のうち、弓を持つ者を高所の縁へ寄せる。盾と槍を持つ兵は、その後ろから西斜面を見下ろした。
逃げてきた兵の話は聞いていた。
火槍は一度鳴って終わるものではない。前の射手が下がれば、次が出る。
だから、撃った後を待って走り下りろとは命じなかった。
「深く追うな。登ってきた者を落とせ。筒が並ぶ前に、弓を入れろ」
弓兵が弦を引いた。
西側から進んでくる盾兵へ、矢が放たれる。
先頭の盾が上がった。
兵たちは走らなかった。斜面の下まで進むと、北寄りへ列を整え、後ろの者を待っていた。
隊長は眉を寄せた。
その兵たちを追い払うには、縁から槍を見せるだけでは足りない。足を掛けて上がり始めれば、盾の上へこちらの槍を落とさなければならなかった。
「前へ。縁を渡すな」
盾と槍が進んだ。
高所の上で待つだけだった列が、西側へ寄る。
その下で、火槍兵の銃口が上がり始めていた。
◇ ◇ ◇
アレクは、岩の北側へ寄った歩兵を見た。
王都軍の六百人だった。
前の兵が盾を掲げ、後ろの兵が斜面を見ている。既に矢が届き、盾へ刺さっていたが、列を崩して登る者はいなかった。
歩兵の隊長につけた伝令が、アレクのもとへ戻った。
「位置につきました。合図を待つとのことです」
「分かりました」
アレクは東を見た。
高所の縁へ、敵の盾が現れている。
その後ろに、弓を持つ兵が立っていた。全員の姿が見えるわけではない。身を低くした者は縁の陰へ消え、前へ出た者の胸と肩だけが現れる。
アレクは、見えている敵と歩兵の位置を確かめた。
味方は射線の北側にいる。
敵の後ろにも、味方はいない。
ギルベルトが、各班の報告を受けていた。
「一班、装填完了」
「二班、装填完了」
「三班、装填完了」
アレクは頷いた。
「高所の縁です。見えなくなった敵を、無理に追って撃たせないでください」
ギルベルトが前へ向いた。
「一班、前へ!」
百十三人が進む。
足を置く場所を確かめ、鉄筒を抱え直す。平らな畑とは違い、隣の兵と同じ高さへ銃口を揃えればよいわけではなかった。
指揮役が列の端を見た。
弓がこちらへ向いた。
「盾を上げろ!」
護衛の声とともに、矢が飛んできた。
射手の前と脇にいた盾兵が受ける。その間を抜けた矢が土へ刺さり、アレクの近くで一本が跳ねた。
アレクは目を伏せなかった。
高所の敵が、こちらを見ていた。
「火蓋開け! 構え!」
ギルベルトの声が響いた。
赤い布が上がる。
銃口が、高所の縁へ向いた。
盾を立てていた敵の一人が、隣へ体を寄せる。後ろの弓兵は、次の矢をつがえようとしていた。
「撃て!」
布が下りた。
百十三挺が、一斉に鳴った。
白煙が前へ噴き出し、高所の縁にいた盾兵が後ろへ倒れる。隣の男は膝を折り、支えを失った盾が斜面を滑った。
槍が一本、空へ跳ねるように傾いた。
弓を持っていた兵が身を捻り、その後ろの者へぶつかる。前列にできた穴を覗こうとした男が、すぐに頭を下げた。
王都軍の歩兵の前にも、倒れた盾が転がってきた。
先頭の一人が、足を動かしかけた。
「まだだ!」
隊長が止めた。
「待て。こちらの合図まで動くな!」
盾の列が保たれた。
アレクはその動きを見てから、再び高所へ目を戻した。
「一班、火縄上げ! 後退!」
射手たちは火縄ばさみを手で上げ、後ろへ下がり始めた。
その横を、二班が前へ進む。
敵は縁から姿を消しかけていた。
だが、歩兵はまだ斜面の下にいる。ここを空ければ、そのまま登られる。
高所の隊長が、後ろの兵を呼んだ。
盾を持つ者が前へ出る。
先ほど倒れた兵を引き寄せる者と、代わって槍を下ろす者が、狭い縁で重なった。
アレクは、その動きを見た。
銃声に驚いて無闇に走ってきたのではない。
守る場所を埋め直すために、出てきていた。
「二班、正面の盾です」
ギルベルトが命令を伝えた。
「火蓋開け! 構え!」
煙が横へ流れていた。
百十四人が、露わになった敵へ銃口を向ける。
赤い布が振り下ろされた。
「撃て!」
二度目の轟音が響いた。
前へ出た盾が揺れ、その後ろの男が倒れた。縁へ足を置いたばかりの兵が踏み外し、槍を放して斜面へ転がる。
高所の隊長が、身を低くしながら腕を振っていた。
弓兵が数人、その声へ応じた。
火槍隊の正面を避け、少し横から弓を引く。
矢が飛んだ。
後ろへ下がりかけていた一班の兵が、腕を押さえて止まった。
隣の者が銃を受け取り、補給の兵が男を列の外へ引く。アレクはそちらへ向きかけたが、ギルベルトが先に指揮役を呼んでいた。
「負傷者を下げろ。後退する道を空けておけ」
アレクは高所へ顔を戻した。
三班が前へ出る。
敵の弓は、まだ止まっていない。
だが、盾と槍の列は、最初のようには揃わなくなっていた。負傷者を引く者が縁へ残り、その横で別の兵が西斜面へ槍を向けている。
アレクは、北の岩を見た。
王都軍は、まだ待っていた。
前列の兵の盾には矢が刺さっている。身を低くした者もいるが、射線へ踏み出す者はいなかった。
「三班の後で、歩兵を入れます」
伝令へ告げた。
「射撃が終わったと知らせてからです。今は、まだ動かさないでください」
伝令が頷いた。
ギルベルトが三班を整えた。
百十三人の銃口が、高所へ向く。
「火蓋開け! 構え!」
敵の隊長は、弓兵へ下がれと叫んでいた。
だが、前の盾兵まで一緒に引けば、登ってくる歩兵を止める者がいなくなる。
数人が残り、槍を握り直した。
アレクは、その姿を見た。
「撃て!」
三度目の銃声が、斜面へ響いた。
槍を下ろしていた男が崩れた。
後ろから支えようとした兵が、倒れた体を抱えたまま膝をつく。別の盾兵は身を伏せ、隣にいた者が立ち上がるのを待っていた。
立ち上がる者は、すぐには現れなかった。
「三班、火縄上げ! 後退!」
射手が下がる。
その列へ飛んできた矢を、盾兵が受けた。一本が縁を越え、三班の兵の肩へ刺さる。男が銃を落としかけると、隣の兵が木台を掴んだ。
ギルベルトが人を呼んだ。
アレクは伝令へ手を下ろした。
「射撃終了。歩兵、前進です」
伝令が走った。
アレクは、次の装填を終えようとしている一班へ声を掛けた。
「前へ出ないでください。これから味方が入ります」
高所には、まだ敵がいた。
だが、その間へ味方が進む。
撃てる銃があっても、同じ場所へ撃ち続けることはできなかった。
◇ ◇ ◇
王都軍の隊長は、戻ってきた伝令の声を聞いた。
剣を上げる。
「前へ! 列を崩すな!」
先頭の兵が、岩の北側から斜面へ入った。
盾を上へ向け、足を掛ける場所を探す。後ろの者が詰めすぎないよう、隊の中から繰り返し声が飛んだ。
六百人が、一度に同じ場所へ駆け上がるのではなかった。
前の隊が上がり、その後ろへ次が続く。脇には、足を滑らせた者を起こす兵がついた。
高所から槍が伸びた。
先頭の盾へ突き当たり、兵の上体が反る。
後ろの男が背を支え、別の槍が盾の脇から上へ向いた。
敵が引いた。
その隙へ、先頭の兵が片膝を乗せた。
「上がれ!」
隊長が叫んだ。
矢が降った。
一人が頬を押さえ、斜面へ座り込んだ。後ろの兵がその脇を抜け、盾を高く掲げる。
高所の縁から、今度は剣を持つ男が出てきた。
味方の槍を払い、登りかけた兵の肩へ刃を向ける。
盾が間に入った。
刃が縁へ食い込み、その間に、別の兵が相手の脚へ槍を突き出した。
敵が後ろへ跳んだ。
最初の兵が、高所へ上がった。
すぐには走らず、盾を前へ向けて後ろの仲間を待つ。
二人目が上がり、三人目が並ぶ。
高所の上で、味方の盾がつながり始めた。
敵の隊長は、残った兵を呼び寄せていた。
前へ出る者はいる。
だが、その後ろでは、負傷した仲間を運び出す兵も動いていた。火槍に崩された場所を埋めるだけで、兵の並びが何度も変わっていた。
そこへ、下から登ってくる盾の列が加わった。
「押せ!」
王都軍の隊長が、高所へ足を掛けながら命じた。
前の兵が半歩進む。
敵の盾とぶつかり、木が鳴った。
横へ伸びた槍が、味方の盾兵の脇へ入った。男が崩れ、その場所へ後ろの兵が盾を寄せる。
倒れた者を越えて走るのではない。
足元を空け、隣と並び直しながら、少しずつ前へ出る。
敵は、奥へ下がり始めた。
隊長が退く場所を示し、まだ動ける者へ旗を追わせる。倒れた者を全て運び出す余裕はなかった。
「東へ! 奥の隊へ入れ!」
声が飛んだ。
敵の一団が、高所の向こうへ消えていく。
その背を追いかけようとした味方へ、王都軍の隊長が怒鳴った。
「止まれ! ここを取れと言われたはずだ!」
兵が足を止めた。
隊長は剣で左右を示した。
「盾を並べろ。向こうへ降りるな!」
後続が上がってくる。
高所の縁へ、今度は王都軍の盾が並び始めた。
◇ ◇ ◇
ヴィクトルは、北側のさらに外を見ていた。
正面では、王都軍が登っている。
その声と金属の音が聞こえても、自分の三百人を同じ場所へ寄せることはしなかった。
奥から出てきた敵が、北を回ろうとしていた。
人数は多くない。
だが、斜面へ登る兵の横へ槍を向けられれば、先頭よりも後ろが崩される。
「左へ向けろ」
ヴィクトルが命じた。
盾の端が動いた。
敵は、それを見てもすぐには退かなかった。先頭の兵が槍を下ろし、その後ろから弓を持つ者が顔を出す。
矢が来た。
ヴィクトルの隣で、盾兵が首を縮めた。
その向こうの兵が、膝をついた。
「負傷者を下げろ。列は、そのままだ」
ヴィクトルは敵を見た。
ここから追いかければ、北側の斜面を空ける。
相手も、それを待っているかもしれなかった。
敵の先頭が近づき、槍が盾を叩いた。
味方の槍が返る。
押し合いが始まった時、高所の上で声が上がった。
王都軍の旗だった。
敵も、それを見た。
回り込もうとしていた一団の後ろから、戻れという声が飛ぶ。前の兵がすぐには引けず、盾を向けたまま何歩か下がった。
ヴィクトルは追わせなかった。
「行かせろ。奥に、まだいる」
敵は北東へ退いた。
その先には、手前から逃れた兵を受け入れる別の隊があった。
高所を取ったからといって、北側全体が空になったわけではなかった。
◇ ◇ ◇
アレクは、撃たせずに待っていた。
高所の上には味方の盾がある。
敵の姿がその向こうへ見えても、銃口を向けられる場所ではなかった。
ギルベルトが戻ってきた。
「二人、戦列から下げました。一班と三班から一人ずつです」
「傷は」
「手当てを受けさせています。銃は、こちらで預かっております」
アレクは頷いた。
一班百十二、二班百十四、三班百十二。
戦える射手は三百三十八人になった。
三班が一度ずつ撃ち、使った弾は三百四十発。負傷した二人は、どちらも自分の射撃を終えた後に矢を受けていた。
各班の指揮役から、次弾の装填が終わったとの報告が届く。
アレクは、銃口を上げて待たせた。
前へ出せばよいわけではない。
高所へ上がる道には、まだ歩兵と負傷者がいた。
王都軍の隊長が、斜面を下りてきた。
盾を従者へ預けていたが、剣は手に持っている。刃についた土を布で拭き、アレクの前で止まった。
「取った」
「見えました」
「先に撃ってもらわねば、縁で押し返されていた。登ったところで、盾を並べる場所がなかったはずだ」
アレクは高所を見た。
上では、兵が負傷者を運んでいた。
「場所を守ってくださったから、射撃を終えられました。途中で前へ入られていれば、三班まで撃てませんでした」
隊長は、短く息を吐いた。
「待てと言うのも、楽ではないな」
先頭の兵は、敵が倒れるのを見ていた。
そのまま上がれば、間に合うと思った者もいただろう。
だが、次に鳴る銃の前へ入れば、味方まで危険にさらす。
隊長は、後ろにいる射手を見た。
「次も、こちらから動く時には知らせる」
「お願いします」
アレクは頭を下げた。
隊長は、それ以上長く話さずに戻っていった。
高所の上では、まだ自分の兵が待っている。
アレクもギルベルトへ向き直った。
「射手は、まだ上げません。先に足場と、荷を運ぶ道を確かめます」
「銃を並べる幅もですね」
「はい。上がっただけで、撃てると思わないように」
ギルベルトが指揮役を呼んだ。
アレクは、王都軍の隊長が通った道へ向かった。
◇ ◇ ◇
レオンハルトのもとへ、北側から報告が届いた。
王都軍の歩兵六百人のうち、三人が戦死し、十二人が戦列へ戻せない傷を負った。
外側を守ったヴィクトルの三百人は、一人が戦死、四人が負傷して下がった。
火槍隊は二人が負傷して離脱。
今回の攻撃で、戦える人員から二十二人が外れた。
六千四百十四人から六千三百九十二人。
歩兵五千百五十三、騎兵の人員九百一、火槍兵三百三十八となる。
マティアスは報告をまとめ、負傷者を運ぶ場所へ伝令を出した。
王都軍の指揮官は、高所を見ていた。
「兵を替えますか」
「まず、上がった者の列を整えろ」
レオンハルトが答えた。
「全員を一度に入れ替えて、道を詰まらせるな。運ぶ者を先に下ろせ」
「承知しました」
カスパルからも知らせが来た。
北側の奥には、まだ敵が残っている。
手前から退いた兵も、その隊へ入っていた。逃げた者が全て陣を捨てたわけではなく、旗の下で並び直そうとしているという。
「奥の隊は、こちらへ出てくるか」
「今のところ、守りを固めています。後ろへ伝令を出したのは見えました」
レオンハルトは東を見た。
イグナーツの軍は、まだいる。
街道の正面にも、南側にも兵が残る。
だが、北の手前から街道を見下ろしていた敵は、そこを離れた。
マティアスが地図へ置いた印を、一つ動かした。
戦場全体から見れば、小さな移動だった。
それでも、次に進む兵が受ける槍と矢の向きは変わる。
レオンハルトは、王都軍の指揮官へ顔を向けた。
「兵へ伝えろ。取った場所を守ったことも、命令を待ったことも、見ていたとな」
指揮官が一礼した。
今度は、その返答に迷いがなかった。
「必ず伝えます」
◇ ◇ ◇
イグナーツは、北から来た伝令を立たせたまま報告を聞いた。
手前の高所を失った。
火槍の射撃を受け、その後から王都軍の歩兵が上がってきた。
前へ出した三百人のうち、退けた者は奥の四百人へ合流している。死傷者と、まだ戻っていない者の数は確かめているところだった。
「奥まで追ってきたか」
「いえ。取った場所で止まっております」
イグナーツの指が、机の上で止まった。
勢いに任せて追ってくれば、残していた兵を当てられた。
狭い斜面へ騎馬まで入れてくれば、別の場所から圧力をかけることもできた。
だが、黒獅子の軍は止まっていた。
取った場所へ盾を並べ、その後ろを確かめている。
「北の奥は動かすな」
イグナーツは命じた。
「戻った兵を分け、まだ使える者を列へ入れろ。手前を取り返そうとして、勝手に下りるな」
「援軍は」
「こちらで決める。正面を空けてまで、全員を北へ寄せるな」
伝令が去った。
イグナーツは地図を見た。
陣を抜けた兵によって、守る範囲を縮めた。
その縮めた守りの一端を、今度は敵に取られた。
残る兵を動かせば、別の場所が薄くなる。
動かさなければ、黒獅子は取った場所から次を選ぶ。
彼は後ろに控える騎士を呼んだ。
「予備の隊長を集めろ」
声は低かった。
外では、北から戻った負傷者を運ぶため、荷車が動かされていた。
◇ ◇ ◇
高所へ上がると、アレクには街道の先が見えた。
敵の盾が並んでいる。
西から見ていた時には、起伏の陰へ隠れていた兵だった。
さらに東には旗があり、その間を騎馬が走っていた。北の奥にも、手前から退いた兵を迎える列がある。
ここへ三百三十八人を上げれば、すぐ全てへ撃てるわけではなかった。
高所の上にも傾きがあり、歩兵の盾と銃口の位置を分ける必要がある。補給の荷を上げる道を塞げば、次弾を運ぶ者まで止まる。
アレクは、同行した指揮役へ場所を示した。
「あの端まで見てください。敵から見える場所へ、一人で立たないように」
男が頷き、盾兵とともに移動した。
ギルベルトは斜面の途中を見ていた。
負傷者を下ろす者と、盾を運び上げる者が、順番に通っている。
「こちらを上げるなら、もう一つ道を空けていただきたいです」
「マティアス様へ伝えます」
アレクは答えた。
その時、後ろから馬の足音がした。
レオンハルトは斜面の下で馬を預け、歩いて上がってきた。
王都軍の隊長が姿勢を正そうとすると、手で止める。
「前を見ていろ」
レオンハルトは盾の後ろへ入り、敵の旗を見た。
風が吹いた。
銃の煙は、もう薄くなっていた。
アレクが隣へ立つと、レオンハルトは高所の縁へ目を向けた。
「使えるか」
「場所を選べば。ただ、全員を上げる前に、歩兵と道を分けたいです」
「確かめろ。急いで並べて、下がれなくなるな」
「はい」
レオンハルトは、東で動く騎馬を見た。
敵はまだ命令を送っている。
逃げる者が出ても、仲間同士で争っても、最後まで残る者はいた。
その軍を崩すために、ここまで来た。
レオンハルトは後ろの隊長たちへ向き直った。
「取った場所を空けるな。ここから、残りを動かす」
命令を受けた伝令が斜面を下りていく。
西では、まだ多くの兵が次の合図を待っていた。
王都から来た盾も、東部の街道を戦ってきた槍も、その列の中にある。
アレクは、眼下の敵へ目を戻した。
イグナーツが選んだ戦場に、こちらの兵が立つ場所が一つできていた。
第二十五話を読んでいただき、ありがとうございました。
火槍隊の射撃と王都軍の歩兵が、初めて実戦でかみ合いました。
手前の高所を得たレオンハルトたちは、残る敵の守りへどう攻め込むのか。次の戦いへ続きます。
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