第二十三話 黒獅子の突撃
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戦場を行き交う命令と、動き始める軍勢。
アレクたちが切り開いた機を、レオンハルトが捉えます。
敵の中央は退いていたが、その後ろの旗は動いていた。
アレクは射手の前から、北東の街道へ目を向けた。下がってきた兵の間を伝令が走り、本陣に近い隊が向きを変えている。負傷者を運ぶ列とは逆に、盾を前へ出そうとする兵がいた。
敵は、まだ戦うつもりだった。
「本陣側から六百ほど、中央へ向かっています」
戻ってきたカスパルの騎兵が報告した。
「北の諸侯の隊も、五百ほどを抜いています。全部が動くのではありません。残る兵へ持ち場を渡しながら、順に後ろへ回しております」
レオンハルトは馬上で敵を見た。
「合わせて千百か」
「はい。南側でも、別に四百ほどが動いています」
マティアスが地図を持つ従者を呼んだ。
敵は開戦時、北側の諸侯部隊に約千三百、本陣から北東にかけて約千を置いていた。そこから五百と六百を中央へ向け、南側の予備四百も動かしている。
先ほど攻めてきた千二百、帰還を求める五家の七百、帰還を阻むために回された二百ほどと合わせれば、見積もった約四千八百人になる。だが、前へ出た部隊には既に死傷者があり、その人数がそのまま次の攻撃へ使えるわけではなかった。
「北に残る兵は」
レオンハルトが尋ねた。
「丘の側を向いたままです。こちらの騎馬が外を見ているため、全てを中央へ寄せる様子はありません」
「見張りは残せ。こちらも北を空けるな」
騎手が頷いた。
レオンハルトは、先ほどから形を変えている敵中央の南側へ目を向けた。
帰還へ動く隊と、中央へ寄ろうとする隊が、別々の方向へ歩いていた。その間を塞ぐはずの兵まで、味方を呼び止めるために列を離れている。
「道は」
「通れます。帰還する兵の道は南側です。その北を抜け、敵中央の南側面へ入れます。東へ深く回らなければ、溝にも当たりません」
「伏せた兵は」
「今のところ見つかっておりません。ただ、南側から動いた四百の一部が、その隙間へ入ろうとしています」
レオンハルトはマティアスを見た。
「千百が揃う前に入る」
「中央の四百を進めます。敵を正面へ向かせておきましょう」
「追って走らせるな。俺たちが横へ入るまで、列を保て」
「承知しました」
マティアスは隊長を呼び、前へ出していた歩兵を整えさせた。
中央の歩兵は、負傷者を下げて千百八十五人になっていた。その中から四百人を前進に使い、七百八十五人は左右と後方へ残す。射手を守る兵も、帰還通路へつながる場所を保つ兵も必要だった。
レオンハルトはアレクへ向き直った。
「増援を、揃わせたくない」
「火槍隊を、中央の右寄りへ進めます。殿下が入る前に、こちらへ寄せてくる敵を崩します」
「俺たちが通る道とは分けられるか」
アレクは敵の旗と、味方の歩兵を見比べた。
射手から見て北東に、中央へ加わろうとする敵がいる。騎兵はその南を抜けてから、北へ向きを変える。
騎兵が敵へ入った後では、同じ場所へ撃ち続けることはできなかった。
「撃つ間は、馬を進める位置を抑えてください。最後の射撃を終えたら、合図を送ります」
「分かった」
レオンハルトは短く答えた。
「合図を待つ。その代わり、開いたところを見逃すな」
アレクは頷いた。
火槍隊が三百四十一人、後ろで待っている。
先ほど敵の中央を止めた銃を、今度は敵が立て直す前に向ける。
アレクはギルベルトを呼んだ。
「全班、右寄りへ移動します。班ごとに列を保ってください」
「射撃位置も、まとめるのですね」
「はい。前へ出る班が替わっても、同じ正面へ向けられる場所を取ります」
ギルベルトは指揮役たちへ合図した。
三百四十一人が、銃口を上げて歩き始めた。
◇ ◇ ◇
四千八百の軍を預かった指揮官の前へ、中央から戻った兵が連れてこられた。
盾は持っていなかった。左手を右の脇へ押し込み、顔を歪めながら立っている。
「中央を任せた者は」
「負傷しております。旗の下へ運びましたが、脚を」
「話せるか」
「はい」
「なら、残った兵を集めさせろ。後ろへ下げすぎるな」
兵を連れてきた騎士が一礼した。
指揮官は、中央へ動かす六百人の列を見た。
先頭は既に歩き出している。しかし、最後尾ではまだ別の旗の下から兵を抜いていた。百人を動かすと言えば、百人だけが地面から現れるわけではない。どの隊が前へ出て、誰が本陣を守るかを決めなければならなかった。
北側から来る五百人も、まだ揃っていない。
戻ってきた伝令は、持ち場を引き継いだ隊から後ろへ回していると報告していた。
「揃った隊から進めろ」
指揮官は命じた。
「中央の兵が戻る前に、こちらへ盾を向けさせるな。前へ出す」
騎士が命令を伝えに走った。
南側では、別の四百人を動かしていた。
帰還を求める隊が抜けた場所へ入り、中央との間を塞ぐための兵だった。その隊長が、前方を見て足を止める。
黒獅子の騎馬が、南から近づいていた。
カスパルの百騎だった。
百五十騎のうち、五十騎は警戒と連絡に残されている。前へ出た百騎は槍を並べ、敵の予備隊へ向きを合わせた。
敵の隊長が剣を上げた。
「南へ向け!」
盾と槍が回る。
中央へ進もうとしていた兵が、こちらの騎馬を正面に見る形となった。
カスパルは、槍へ馬を突っ込ませなかった。
十分に近づいたところで速度を落とし、敵がどこを向くかを見ていた。
相手も、それで困っていた。
この百騎を無視して中央へ進めば、横腹へ入られる。全員で南を向けば、中央との隙間が残る。
隊長は兵を二つに分けた。
およそ二百五十人を南へ残し、百五十人を中央寄りへ進ませる。
カスパルはその動きを見て、近くの騎手を呼んだ。
「殿下とアレクへ。百五十が、通るはずの場所へ向かっている。残る二百五十は、こちらで引き受ける」
騎手が走った。
カスパルは剣を肩の高さへ上げた。
「少し前へ」
百騎が進む。
敵の二百五十人が槍を揃えた。
中央へ目を向けていた隊長も、南へ顔を戻さざるを得なかった。
◇ ◇ ◇
アレクは、火槍隊を中央の右寄りで止めた。
帰還通路へは出ていない。マティアスの歩兵の後ろを使い、敵の増援が通る場所へ正面を向けられる位置だった。
前へ出る四百人は、射手の左手に当たる中央へ列を寄せていた。残る七百八十五人のうち百人が火槍隊につき、移動する射手の前を盾で守っている。
アレクは、その隊長と並んで前方を見た。
「ここから射手を出します。殿下の騎兵が通るのは、右側です」
「馬が入ったら、こちらも前へ出るのか」
「まだです。射手が下がって装填する間は、ここを守ってください。通路を押さえる兵は、マティアス様が別に動かします」
隊長が頷いた。
目の前では、敵の百五十人が槍を揃えようとしていた。
その北東には、本陣側から来る増援の先頭が見える。まだ一つの厚い列にはなっておらず、前の隊と後ろの隊との間を騎士が走っていた。
後続は、退いてきた負傷兵を避けている。
今なら、先頭を止めれば後ろも詰まる。
アレクはギルベルトへ伝えた。
「一班は、手前の百五十を。二班と三班は、その後ろから来る隊を見てください。撃つ場所は分けず、ここで交代します」
「一班、百十四。二班、百十四。三班、百十三、全班装填済みです」
ギルベルトが答えた。
アレクは、右手に並ぶ騎兵へ目を向けた。
レオンハルトの先頭の百騎が、歩兵の後ろから出ようとしていた。敵へ駆け出したのではない。後ろの二隊を詰まらせないため、順に進む場所を変えている。
レオンハルトはアレクの位置を見た。
アレクが右手を上げると、馬上からも腕が上がった。
まだ待つ。
互いにそれを確かめた。
「一班、前へ!」
百十四人が、盾兵の間から進み出た。
敵の百五十人がこちらを見た。
先頭の男が盾を持ち上げ、その後ろへ槍が並ぶ。だが、こちらへ向きを変えれば、北へ進むための列をもう一度組み直さなければならない。
隊長が叫び、半数ほどをこちらへ向けた。
残る兵は、急いで中央との間へ入ろうとしている。
「火蓋開け!」
アレクの命令を、指揮役が繰り返す。
「構え!」
長い鉄筒が持ち上がった。
敵は止まらなかった。
撃たれる前に進める場所まで出ようと、盾の後ろで足を速めている。後ろの者が前を押し、槍の柄が隣の肩へ当たった。
赤い布が上がる。
アレクは、騎兵が射線の右へ離れたままであることを確かめた。
「撃て!」
布が落ちた。
百十四挺の銃声が重なった。
敵の盾列の端が、内側へ折れた。
肩を撃ち抜かれた男が盾を落とし、隣の兵の足元へ倒れ込む。槍を持って進んでいた後列がそれを避け、まだこちらを向いている兵へぶつかった。
盾の上から顔を出した男が、何かを叫びかけて仰向けに倒れた。
後ろの兵がその盾を掴んだが、持ち主の腕が革紐へ絡んで離れない。引き抜こうとしたところへ別の兵が押し寄せ、二人とも膝をついた。
中央へ向かう列が止まった。
その後ろでは、増援の先頭が足を緩めていた。
前へ進めと言われた場所で味方が崩れている。乗り越えて進むには、盾を持った兵を押し退けなければならなかった。
「一班、火縄上げ! 後退!」
射手が下がる。
その時、北東から矢が飛んだ。
退いてきた弓兵の一部が、増援の脇へ寄っていた。歩兵を止める筒へ向け、散らばったまま弓を引いている。
一班の端で、兵が腿を押さえて倒れた。
隣の者が銃を受け取り、後ろから来た二人が腕を掴む。前へ出た盾兵がその前を塞ぎ、負傷者を列の後ろへ運んだ。
「一班、一人離脱!」
報告が来た。
アレクは一度頷き、敵へ目を戻した。
ここで手を止めれば、後ろから来る兵が前の混乱を押し流してしまう。
「二班、前へ!」
百十四人が、同じ射撃位置へ進んだ。
◇ ◇ ◇
本陣側から来た隊長は、止まった百五十人へ道を空けるよう怒鳴った。
「中央へ通せ! そこに留まるな!」
だが、相手の隊長も命令を受けていた。
中央と南の間を塞げと言われて来たのだ。自分たちが下がれば、その場所を騎兵が通る。
しかも、負傷者が足元へ倒れ、動けない者を兵が抱えている。
「北へ回れ!」
増援の隊長は、自分の兵へ向き直った。
前の一団を避け、中央へ加わろうとした。
そこへ、二班の銃口が向いた。
アレクは、敵の動きを追って射手を散らさなかった。味方の歩兵は左手に残り、騎兵も右手で待っている。その間の正面を、増援の先頭が横切ろうとしていた。
「火蓋開け! 構え!」
赤い布が上がった。
敵の隊長が筒を見た。
「盾を向けろ!」
命令が届いた先から、兵が身体を捻る。
列を進ませながら射撃を受けるための盾を並べようとしたが、前には下がってくる味方がいる。足を止めた者と、進み続ける者の肩がぶつかった。
「撃て!」
二度目の射撃が、向きを変えかけた列へ入った。
盾を持ち上げた兵が後ろへ倒れ、その背に続いていた男が盾ごと押された。列の外へ出た槍兵の胸が揺れ、握っていた槍が地面へ突き刺さる。
その柄へ後続が足を引っかけた。
中央へ急ぐための列が、倒れた兵の周囲で分かれた。旗の下へ寄ろうとする者と、煙から離れようとする者が別々に動く。
隊長は、なお前へ出ようとしていた。
「止まるな! 旗へ寄れ!」
声を聞いた兵が集まる。
だが、その動きで列の間隔は狭くなった。
後ろからは、さらに兵が来ていた。本陣を出た六百人の後続と、北から回された五百人の先頭だった。前が撃たれていると知らない者まで、命令に従って進もうとしている。
兵を揃える場所が、足りなくなっていた。
アレクは二班を下げた。
「二班、火縄上げ! 後退! 三班、前へ!」
百十三人が進む。
後ろでは、一班の動ける百十三人が装填を始めていた。二班もその隣へ戻り、空いた一発筒を収める。
前へ出るのも、撃つのも、下がるのも、同じ隊の中で続いていた。
敵の弓が再び上がった。
矢が盾へ刺さり、射手の足元を掠める。三班の兵が一人、顔を背けかけたが、指揮役の声で正面へ戻った。
「構えを崩すな!」
アレクは敵の旗を見た。
撃つ相手は、後ろにいる千百人全員ではない。
先に着いた隊が足を止め、後続がそこへ重なっている。その正面を崩せば、敵は中央へ兵を渡せなくなる。
「火蓋開け! 構え!」
火皿が開かれ、銃口が揃った。
敵の旗手が竿を持ち直す。
その下では、隊長が集まった兵を前へ押し出そうとしていた。
「撃て!」
三度目の轟音が、畑へ広がった。
旗の前で、盾が落ちた。
その後ろの男が膝をつき、隣の兵が腕を伸ばす。助けようとした男も肩を揺らされ、その場へ崩れた。
竿を支えていた旗手がよろめいた。
旗は倒れなかった。別の兵が掴んで持ち上げた。
しかし、旗の下で前へ進もうとしていた列は、もう揃っていなかった。
倒れた者を跨ぐ兵がいる。仲間を引きずって下がる者がいる。その間へ、何も知らずに後続が押し寄せた。
隊長は兵を止めた。
止めなければ、自分の隊が味方を踏んでしまう。
アレクは、その腕が上がるのを見た。
「三班、火縄上げ! 後退!」
射手が下がる。
アレクは連絡役へ振り返った。
「殿下へ。射撃を止めました。先頭が止まっています」
連絡役が走った。
アレクは全班へ命じた。
「ここから先は、合図なしに撃たないでください。騎兵が入ります」
赤い布が下ろされたまま保たれる。
白煙の向こうで、黒地の旗が前へ動いた。
◇ ◇ ◇
レオンハルトは、三度目の銃声が消えるのを待った。
右手には帰還する兵の列がある。
その北側を抜ければ、敵中央の南へ出られる。だが、そこを塞ごうとした百五十人と、後ろから来た増援がいた。
今、その先頭が止まっている。
アレクの連絡役が駆けてきた。
「射撃停止! 先頭が止まっています!」
レオンハルトは腕を上げた。
「前へ!」
先頭の百騎が動いた。
マティアスの歩兵も、同時に前進を始める。
中央の四百人が盾を揃え、まだ立て直しの途中にある敵へ向かっていた。火槍隊が撃つために空けた正面は、その射撃が止まったことで歩兵と騎兵の進む場所へ変わった。
レオンハルトは馬を急がせなかった。
まずは歩兵の列を抜ける。
後ろの百騎が続ける幅を保ち、帰還通路へ寄りすぎないようにした。さらに南では、各家の家臣が旗を掲げ、戻ってくる兵を農道へ導いている。
「こちらへ! 北へ寄るな!」
家臣の声が聞こえた。
馬を見て足を止めかけた兵が、仲間に腕を引かれて南へ進む。
レオンハルトは、その列へ顔を向けなかった。
助けた兵へ手を振るために馬を寄せれば、自分の後ろも詰まる。
前にある敵中央の側面を見たまま、進んだ。
敵の盾が向きを変え始める。
正面ではマティアスの歩兵が近づいていた。そこへ向けていた槍を抜き、南へ回そうとする兵がいる。だが、全員が南を向けば、今度は正面へ盾がなくなる。
同じ列の中で、兵の身体が別々の方向へ捻れた。
「二隊目、続いております!」
後ろから声が来た。
レオンハルトは一度だけ振り返った。
次の百騎が歩兵の列を抜けていた。三隊目の百騎は、通った入口を守りながら後ろへ続いている。
レオンハルトは剣を上げた。
「速歩!」
蹄の音が早くなる。
浅い畝を越え、踏み倒された草を蹴って馬が進む。敵の槍先が大きく見え始めた。
南へ向き直った兵が、槍を倒そうとしていた。
だが、その穂先は隣の肩へ当たった。男が引き戻し、もう一度向け直す。
その間に、前の盾がマティアスの兵へ押された。
「駆けろ!」
レオンハルトが命じた。
馬が速度を上げた。
風が顔を打ち、旗の布が激しく鳴る。敵の一人が盾を抱えて身を縮め、その横の男が槍を支えようと足を開いた。
まだ揃っていない。
「押し開け!」
騎兵の槍が、敵の盾へ突き当たった。
盾を持つ兵が後ろへ倒れ、隣の男が馬を避けて横へ飛ぶ。その隙間へ、次の馬が入った。
レオンハルトは突き出された槍を剣で払い、馬をわずかに左へ寄せた。穂先が脇を過ぎ、その柄を引き戻そうとした兵の肩へ剣を振り下ろす。
手へ重い感触が残った。
前へ進む。
盾を振り上げた敵が迫り、その横から味方の槍が伸びた。敵の身体が捻れた場所を、レオンハルトの馬が抜ける。
後ろで馬の悲鳴がした。
振り返れなかった。
「止まるな! 前を開けろ!」
その場で一人を斬ることへこだわれば、後ろの百騎が入れなくなる。
レオンハルトは旗手を伴って進み、敵の列の内側へ道を作った。
正面では、マティアスの盾が迫っていた。
南から馬が入り、西から槍が伸びる。
敵の兵は片方へ盾を向けるたび、もう片方へ身体をさらした。
二隊目の百騎が、その乱れへ続いた。
◇ ◇ ◇
マティアスは、敵の中央が横へ押されるのを見た。
レオンハルトの馬を避けた兵が北へ寄り、こちらへ向けていた槍の柄が隣の盾へぶつかっている。
「列を保て。空いた場所を押さえるんだ」
隊長が命令を繰り返した。
四百人の歩兵が、敵の下がった場所へ進む。
旗の周囲へ一斉に殺到させなかった。敵が集まっている場所だけを目指せば、こちらも狭くなる。空いた場所を押さえ、隣の敵が留まれないようにする。
その途中で、味方の一人が倒れた。
槍を腹へ受け、盾を離さず膝をついている。隣の兵が助けようと前を向いたまま手を伸ばしたが、敵の剣がその盾を叩いた。
「運ぶ者は後ろから! 前は崩すな!」
隊長の声が飛んだ。
後列の二人が倒れた兵の脇へ入り、列の間から下げた。空いた場所へ次の槍が出る。
勝ち始めても、目の前の敵の槍が鈍くなるわけではなかった。
押し込まれた兵ほど、逃れる場所を得ようとして必死に突いてくる。
マティアスは前へ進みすぎた兵を戻し、南の入口を見た。
レオンハルトの三隊目は、まだその付近に残っていた。敵の中へ入った二隊と、後ろの味方をつなぐ場所を守っている。
そこへ、火槍に崩された敵の一部が寄ろうとしていた。
槍を並べられれば、通路が狭くなる。
マティアスは隊長を呼んだ。
「南寄りの百人で、殿下の通った場所を押さえてくれ。残る三百は正面を保つ」
「承知しました」
「敵を追って、さらに南へ出る必要はない。後ろとの道をつなぐ」
四百人のうち百人が向きを変えた。
三百人が正面を押す間に、百人が騎兵の入口へ盾を並べる。
火槍隊を守るために後方から出した百人とは、別の兵だった。そちらの盾兵は、装填する射手の前に残っている。
マティアスの伝令が、三隊目の指揮役へ走った。
「歩兵が道を押さえます!」
騎兵の指揮役が頷いた。
最後の百騎が、前へ動き始めた。
◇ ◇ ◇
カスパルの前では、二百五十人の敵がまだ槍を揃えていた。
中央で黒獅子の騎兵が突入したことは、彼らにも見えている。
隊長は何度も北を見た。
助けに行かなければならない。
だが、南の百騎へ背を向ければ、そのまま追いつかれる。
敵の一部が北へ向きを変えた。
カスパルは馬を進めた。
「前へ。槍には触れるな」
百騎が近づく。
敵の兵が南へ戻り、槍を下ろした。
カスパルは距離を保って止まった。
敵の隊長が、こちらへ何か叫んだ。聞き取れなかったが、槍を持つ兵が前へ出た。
「下がる」
カスパルは命じた。
隊ごとに馬の向きを変え、間隔を崩さず退く。
敵が追えば、中央から遠ざかる。止まれば、カスパルも止まる。北へ向こうとすれば、再び馬を寄せた。
百騎で二百五十人を斬り倒す必要はなかった。
今、この兵を中央へ行かせないことが、レオンハルトへ道を渡す働きだった。
北で黒地の旗が進んだ。
敵中央の旗が、その前から下がっていく。
カスパルは近くの騎手へ声をかけた。
「殿下へ。こちらはまだ止めている。ただし、敵は槍を保っていると」
騎手が走る。
カスパルは敵の隊長へ視線を戻した。
相手も、同じ旗を見ていた。
先ほどまでの焦りだけではない。
中央へ向かったところで、間に合うのか。
その迷いが、剣を握る手へ出始めていた。
◇ ◇ ◇
レオンハルトの前で、敵が槍を落とした。
両手を上げ、膝をつく。
「降りた者は斬るな!」
レオンハルトは叫び、その横を抜けた。
後ろの騎兵も進む場所を変え、膝をついた兵を避ける。別の敵がそれを見て、盾を地面へ置いた。
だが、旗の近くでは抵抗が続いていた。
味方の騎兵が馬から落ちる。起き上がろうとしたところへ槍が向き、その前へ別の騎兵が馬を寄せた。
レオンハルトは槍を持つ敵へ向きを変えた。
敵がこちらを見た時には、剣が届いていた。
男の身体が横へ崩れる。
「拾え!」
味方の騎兵が手を伸ばした。
落ちた男は腕を掴もうとしたが、身体を持ち上げられない。別の兵が馬を下り、その脇へ入る。
レオンハルトは全員を止めなかった。
助ける者の前を守る騎兵を残し、自分は先へ進む。敵の中で馬が詰まれば、倒れた味方を救う場所まで失う。
後ろから三隊目が来た。
百騎が、先に戦っていた隊の脇へ入る。
息の荒くなった馬が下がり、その横から別の槍が突き出された。残っていた敵の盾が、また一枚倒れた。
中央攻撃を指揮していた男が、兵に支えられていた。
脚を血で濡らし、剣を持って立とうとしている。だが、旗手が後ろへ動き、周囲の兵も退き始めていた。
マティアスの歩兵が近づいた。
男を支えていた一人が手を離して逃げ、もう一人は剣を捨てた。
「そこへ座れ!」
歩兵の隊長が命じる。
男は口を開いたが、声を出す前に膝を折った。
中央の旗が下がった。
その先には、本陣があった。
軍を預かる指揮官の命令を伝えていた騎士たちが、退いてくる兵を止めようとしている。しかし、既に中央は一つの列ではなくなっていた。
負傷者を抱えた者も、盾だけを持って走る者も、同じ場所へ戻ろうとしていた。
そこへ、増援の後続が重なる。
火槍隊の射撃で先頭を止められた千百人は、まだ全てを中央へ入れられていなかった。ようやく前へ進もうとした隊へ、今度は崩れた中央の兵が流れ込んでいた。
「本陣を守れ! 右へ回せ!」
隊長が叫んだ。
その隊は、まだ槍を持っていた。
兵が足りなかったのではない。前へ出す場所を失い、隣の隊との間を、退いてくる味方に切られていた。
隊長は東へ回ろうとした。
だが、そこには本陣から下げようとした荷車があった。御者が馬を引き、兵が車輪へ手をかけている。
隊長が道を空けろと怒鳴った。
その間に、黒獅子の旗が近づいていた。
レオンハルトは先頭の馬を少し抑えた。
後ろの隊を寄せ、ばらばらになったまま本陣へ入るのを防ぐ。
本陣側に残していた兵も、盾と槍を前へ出していた。
まだ、抵抗する者はいる。
「荷を追うな。前の槍を崩せ」
レオンハルトは命じた。
騎兵が向きを揃えた。
正面の槍が伸びたが、その横へ回る馬を見て端の兵が身体を捻った。隣の盾が追いつかず、わずかに間が開く。
レオンハルトは、その端へ馬を向けた。
剣を握る手に力が入った。
燃えていた町が、脳裏をよぎる。
ルーカスが待っていた旗。
辿り着いた時には、もう会うことのできなかった友。
ここへ来るまで、その光景が消えたことはなかった。
だが、怒りに任せて一騎だけ飛び込めば、後ろの兵を置き去りにする。
レオンハルトは、隣の騎兵が並んだのを見た。
「続け!」
敵の端へ入った。
剣を振り下ろし、盾を押し退けた場所へ馬を進める。横から味方の槍が伸び、その後ろへ次の騎兵が続いた。
本陣の前列が崩れた。
旗竿が傾いた。
支えようとした兵が手を離し、大きな旗が人の肩へ落ちる。引きずられた布が、畑の土へ触れた。
それを、後ろの兵が見た。
命令を待っていた者たちの間から、声が消えた。
先ほどまで中央へ進もうとしていた隊長が、足を止めた。
本陣の旗が下がり、中央には黒獅子の騎兵がいる。西から歩兵が進み、その向こうには、また装填を終えつつある火槍隊が見えた。
ここから自分の隊だけを前へ出せば、戻る場所を失う。
隊長は剣を後ろへ向けた。
「旗を下げるな! 街道へ退く!」
兵が向きを変えた。
槍を揃えたまま下がる隊の隣で、既に走り出している兵もいた。自家の旗を追う者と、最も近い道へ逃れる者が分かれていく。
北側に残っていた諸侯の隊も、本陣の旗が倒れたことを知らされた。
中央へ加わる命令は来ない。
隣の隊は後ろへ向きを変え、街道には退却する兵が流れている。
その当主は、自家の旗を守って退くよう命じた。
全員が倒されたのではなかった。
だが、互いの側面を支えながら、この野に留まる軍ではなくなっていた。
◇ ◇ ◇
アレクは、敵本陣の旗が下がるのを見た。
その近くには、既に味方の騎兵がいる。マティアスの歩兵も前へ出ていた。
撃てる兵は揃いつつあったが、今は撃つ場所ではなかった。
「全班、そのまま待機です」
アレクは命じた。
指揮役たちが、列の中へ声を送る。
正面では、槍を捨てる敵が増えていた。
近くへ進んだ味方の盾兵が、武器から離れるよう命じている。抵抗する者もいたが、隣の兵が剣を置くと、その男もゆっくりと腕を下ろした。
南側から伝令が来た。
「百八十人と百六十人を預けた家の兵が、通路へ入っています」
「追ってくる敵は」
「今は見えません。ヴィクトル様とエイドリアン様は、通り終わるまで持ち場を守ると」
アレクは頷いた。
敵が崩れれば、前へ出て戦果を挙げたくなる兵もいる。
だが、二人は帰還兵を途中へ残していかなかった。
北の丘の裾にも、別の旗が見えた。
百四十人を預けた家の兵だった。
迎えに出た家臣に導かれ、丘を西へ回っている。北を警戒していた騎兵の一部が外側につき、後ろの空き地へ送っていた。
アレクは、その旗が敵の旗から離れていくのを見た。
呼びかけは届いた。
道を守り、敵の中央を崩したことで、彼らは実際に帰れるようになった。
ギルベルトが戻ってきた。
「一班、百十三。二班、百十四。三班、百十三。全班、装填を終えています」
三百四十人だった。
今回、一班で一人が負傷して下がった。矢を受けた兵は、手当ての者へ引き渡してある。
アレクは、兵たちを見た。
三班がそれぞれ一度ずつ撃ち、三百四十一発を使った。どの班も同じ射撃位置へ入り、次へ道を渡している。
敵の先頭を崩した火力は、数人の射手だけで作ったものではなかった。
「各班の残る一発筒も、指揮役から報告してください。補給する場所を決めます」
ギルベルトが頷いた。
銃を持つ腕を揉んでいた兵が、再び木台を抱え直す。
アレクはその前を歩いた。
笑っている者はいなかった。
だが、敵の旗を見ていた時とは違う顔で、兵たちは立っていた。
◇ ◇ ◇
後方の空き地では、ロベルトが戻った兵を各家の旗へ分けていた。
捕虜は別の場所へ集め、武器を取り上げる。負傷者は所属を確かめる者をそばにつけ、先に手当てを受けさせていた。
「道の上へ座らせるな。運ぶ者が通れなくなる」
ロベルトが命じると、兵が縄を張り直した。
書記が、家ごとの記録を持ってくる。
最初の家は九十七人。
百二十人を預けた家は百十六人。
百八十人の家は百七十二人、百六十人の家は百五十四人。北を回ってきた家では、百三十三人が確認された。
「合わせて六百七十二人です」
ロベルトは記録を見た。
「最初の三人は、戦死が確認されている。残る二十五人は」
「まだ、分かりません」
「なら、未確認のままにしておけ。最後に見た場所を聞く」
近くにいた領主が顔を上げた。
「捜しに出したい」
「こちらの兵をつけます。安全を確かめた場所からです」
ロベルトは答えた。
「戻ったばかりの兵が、一人ずつ飛び出していくことにはしないでください」
領主は口を結んだが、やがて頷いた。
旗の下では、帰ってきた兵が座っていた。
主君の姿を見て頭を下げる者も、負傷した仲間の手を握ったまま動かない者もいる。
命令書に印を押した時、諸侯が求めていたのは人数だった。
だが、目の前へ戻ってきたのは、顔と名を知る者たちだった。
一人の領主が兵の前へ膝をついた。
若い兵が何かを言おうとし、その前に肩を震わせた。
ロベルトは二人から目を離し、捕虜を連れてきた隊長へ向き直った。
喜ぶ者のそばでも、仕事は止められなかった。
◇ ◇ ◇
敵本陣の跡で、レオンハルトは馬を止めた。
マティアスの歩兵が周囲を押さえ、捕虜を集めている。騎兵の一部は東へ出ていたが、全員を追わせてはいなかった。
「この軍を率いていた者は」
レオンハルトが尋ねた。
隊長が答える。
「まだ確認できておりません。本陣から東へ抜けた騎馬がおります。その中にいたかどうかは、調べております」
「姿を見た者を探せ。噂だけで全員を走らせるな」
「はっ」
「退いた先の道も見ろ。馬を使い潰して追うな」
隊長が去った。
少し離れた場所には、中央攻撃を指揮していた男が座らされていた。脚へ布を巻かれ、両側を兵に見張られている。
四千八百の軍全体を預かった者ではなく、千二百人の中央攻撃を任されていた男だった。
男は倒れた旗の場所を見ていたが、レオンハルトとは目を合わせなかった。
マティアスとアレクが、本陣の跡へ来た。
二人とも、まず周囲の兵の動きを見てからレオンハルトへ向き直る。
「今回の前進で、中央の歩兵は六人が戦死、二十一人が負傷して下がりました」
マティアスが報告した。
「火槍隊は一人が負傷して離脱しました。戦える者は三百四十人です」
アレクが続けた。
騎兵からも報告が来た。
突入した三百騎のうち、九人が戦死し、二十三人が負傷して戦えなくなっている。兵が無事でも、馬を失った者がいた。
もう一度騎兵として出すには、人だけでなく馬も確かめる必要があった。
今回の損耗は六十人。
中央攻撃を撃退した時点の三千七百七十四人から、戦える人員は三千七百十四人となっていた。歩兵二千七百七十三人、騎兵の人員六百一人、火槍兵三百四十人である。
レオンハルトは報告を最後まで聞いた。
「まだ生きている者を、先に運べ」
ユリウスへ命じる。
「敵も、武器を置いた者は手当てを受けさせろ。見張りは外すな」
ユリウスが伝令を呼んだ。
レオンハルトはアレクへ目を戻した。
「増援が揃っていれば、あの入り方はできなかった」
アレクは敵本陣の北東を見た。
そこには捨てられた盾と槍があり、まだ負傷者を探す兵が歩いていた。
「先頭を止められました。後ろが追いついても、前へ出る場所を作れなかったのだと思います」
「ああ。その時間で、中央へ入れた」
レオンハルトは答えた。
「火槍隊が開けた道だ」
アレクは頭を下げた。
射手たちの顔が浮かんだ。
矢が来る中で前へ出た者。撃ち終えた銃を抱え、次の班へ場所を渡した者。負傷した仲間を運び、その銃を受け取った者。
自分一人が道を開けたわけではなかった。
「兵へ伝えます」
「伝えろ。次に動かすまで、休める者は休ませておけ」
そこへ、ロベルトから五家の帰還人数が届いた。
レオンハルトは六百七十二人という報告を聞き、未確認の二十五人を捜すよう命じた。各家の家臣をつけ、捕虜の中にも混じっていないか確かめさせる。
戻った兵を、そのまま自分の軍へ組み入れるとは言わなかった。
送り出した主君の旗へ返す。
その約束は、勝った後も変わらなかった。
アレクは南西の空き地へ目を向けた。
五つの家の旗が立っている。
最初から全員を反対派の兵として斬っていれば、あの旗は最後まで敵側にあったかもしれない。
帰る道を作ったことで、戦う相手が変わった。
火槍隊が攻撃を砕き、歩兵と騎兵がその先へ進んだことで、その道を守り切った。
レオンハルトは東を見ていた。
逃れた敵がいる。
その先には、イグナーツ本人が率いる本隊が残っていた。今日崩したのは、そこへ合流するはずだった軍である。
まだ門を閉ざしている城もある。
この野の勝利だけで、東部の全てが従ったわけではなかった。
「残る諸侯へ、今日の結果を伝えます」
マティアスが言った。
「帰還を命じた家の兵を返したことも、併せて」
「そうしろ。従う者には、何をすべきか示せ」
レオンハルトは答えた。
それから、倒れた敵の旗へ目を落とす。
「ルーカスの城で何があったかも、忘れさせるな」
アレクはその横顔を見た。
声は低かった。
戦う前にあった怒りは、勝ったからといって消えていない。
友は戻らない。
勝利を伝えに行っても、あの城で待っていた男が門へ出てくることはなかった。
それでも、今日ここで帰れた兵がいる。
兄の旗へ辿り着いた弟がいる。
主君のもとで、もう一度家へ戻る望みを得た者たちがいる。
レオンハルトは手綱を引き、兵へ向き直った。
「旗を上げろ」
旗手が進み出た。
倒れた敵の旗が運び去られ、その場所へ黒地の旗が立つ。風を受けて布が開き、金の獅子が姿を現した。
最初に声を上げたのは、近くの歩兵だった。
隣の兵が槍を上げ、盾を叩く者が続く。負傷した仲間を支えたまま、顔だけを上げる男もいた。
声が広がった。
後ろの火槍隊にも届き、長い鉄筒を抱えた兵たちが旗を見上げた。
アレクは、その声の中で肩から力を抜いた。
命令を読み上げた時には、まだ敵の向こうにいた者たちがいる。
その兵を迎える道は、最後まで閉じられなかった。
黒獅子の旗は、敵の中央を越え、本陣の跡へ立っていた。
第二十三話を読んでいただき、ありがとうございました。
火槍隊と歩兵、そして騎兵。それぞれの働きが、黒獅子の突撃へとつながりました。
勝敗が決しても、兵を家へ帰す約束は残っています。レオンハルトたちは、戦いの先へ歩みを進めます。
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