第十二話 大公の小姓
アルベルトの小姓となったアレクは、書状や帳簿、倉庫の兵糧と向き合います。
戦場では見えなかった金と物流、周辺諸国の動きを知る中で、アレクは前世の歴史に似た構造を感じ始めます。
アルベルトの小姓となって三日目の朝、アレクは日の出より前に目を覚ました。
窓の外はまだ暗い。城壁の向こうに広がる空が、わずかに白み始めているだけだった。
寝台から起き上がると、右肩の傷が引きつった。痛みは前日より軽くなっているが、腕を高く上げると包帯の下が熱を持つ。
アレクは顔を洗い、服を着替えると、アルベルトから与えられた剣を腰へ差した。
装飾の少ない実用的な剣だった。
柄は革で巻かれ、鞘には使い込まれた跡がない。特別な力を宿しているわけでも、名の知れた鍛冶師が作ったものでもない。それでも、誰かから借りた武器ではなく、アレクが戦功によって得た自分の剣だった。
腰に重さを感じるたび、少しだけ落ち着かない。
鏡代わりの磨かれた金属板へ目を向けても、そこに映っているのは十五歳の少年だ。大公の小姓らしい姿になったのかどうか、自分では分からなかった。
執務室へ到着すると、扉の前に立っていた兵がアレクを見た。
「今日は遅くないな」
「昨日より早く来ました」
「アルベルト様は、もう中にいるぞ」
「それでも遅いんですか?」
「俺に聞くな」
兵は笑いながら扉を開けた。
「アレク・ハルトマンが参りました」
「入れ」
アルベルトはすでに机へ向かい、届いたばかりの書状を読んでいた。
アレクは窓を覆っていた厚い布を開き、卓上の燭台を確認する。火が小さくなった蝋燭を交換し、水差しと杯を机の端へ置いた。
小姓になった初日は、何をどこへ置けばよいのかさえ分からなかった。
水差しをアルベルトの利き手側へ置いて書類を濡らしかけ、急いで反対側へ移した。封を切るための小刀を別の部屋へ置き忘れ、二度も取りに戻った。
三日目になり、ようやく最低限の仕事の順序が分かり始めている。
「昨日の書状は分類したか」
「差出人と内容ごとに分けました。急ぎの返事が必要なものは机の右側、報告だけのものは左側です」
「右の一番上は」
「ベルン伯爵からの返書です」
「読んだのか」
「封を開けてよいとは言われていません」
「なら、なぜ分かる」
「封蝋の印と、届けた使者がベルン伯爵の名を口にしていたからです」
アルベルトが書状へ手を伸ばした。
「開けろ」
「俺がですか?」
「小姓が主君の代わりに封を切ることもある」
「中を読んでも?」
「読めと言った時だけ読め」
「分かりました」
アレクは小刀を取り、封蝋を傷つけないように紐を切った。
差出人の印は、書状が途中で開けられていないことを確かめるためのものでもある。中身ばかりに気を取られ、印を壊してしまえば、誰の書状だったのか確かめにくくなる。
紙を広げず、そのままアルベルトへ渡す。
「覚えるのが早いな」
「初日に一度怒られましたから」
「怒ったか?」
「水をこぼしかけた時、かなり怖い顔をしていました」
「あれは書類が濡れそうだったからだ」
「だから怒ったんでしょう」
「書類を守っただけだ」
「俺より書類が大切にされている気がします」
「お前は濡れても乾く」
「書類も乾きますよ」
「字が滲む」
「俺は風邪を引きます」
「若いから治る」
「随分と扱いが違いますね」
アルベルトは返事をせず、ベルン伯爵からの書状へ目を通した。
その間にアレクは、前日に使った報告書を机へ並べた。
部隊名、報告者、戦闘可能な兵、重傷者、軽傷者、戦死者。使用可能な武器、修理が必要な武器、失われた武器。兵糧の量と、現在の人数で何日維持できるか。
アレクが作った見本をもとに、書記官が正式な書式へ整えている。
まだ試しているのは、ヴァイスブルクに残る三つの部隊だけだった。
すべての部隊へ一斉に使わせれば、書き方を教えるだけでも時間が掛かる。これまでの報告方法に慣れた者から反発される可能性もある。
まず少数の部隊で使い、不足している項目や無駄な部分を確かめる。
それがアルベルトの判断だった。
「新しい報告書は届いたか」
「二つ届いています。三つ目は、書き直しになりました」
「何が悪かった」
「兵糧を袋の数だけで書いていました。袋ごとに重さが違うので、何日分になるのか分かりません」
「戻したのか」
「はい。アルベルト様が、書き直させろと言ったので」
「文句を言われたか」
「かなり」
「何と」
「昨日までの書き方で問題なかった、と」
「それで、お前は何と答えた」
「昨日までは、それぞれの部隊を知っている人が報告を読んでいた。今後、別の人が読んでも分かるようにするためだと説明しました」
「納得したか」
「渋々です」
「十分だ」
アルベルトはベルン伯爵の書状を机へ置いた。
「一度で全員が喜んで従うと思うな。仕事のやり方を変えれば、必ず嫌がる者が出る」
「便利になるのにですか?」
「新しい書き方を覚える手間は、今すぐ掛かる。便利になるのは、その後だ」
「先に面倒が来るわけですね」
「それに、これまでの自分のやり方を否定されたと思う者もいる」
「否定したつもりはありません」
「お前がどう思ったかではない。相手がどう受け取るかだ」
アレクは書き直された報告書へ目を落とした。
前世では、仕事に使う書類の様式が変わることなど珍しくなかった。そのたびに使い方を覚え、以前との違いを確かめなければならない。面倒だと思ったことも、一度や二度ではない。
便利になるのだから従えばよいと考えていたが、逆の立場になれば見え方も違う。
「では、どうすればいいですか」
「変える理由を説明する。それでも従わなければ命じる」
「最後は命令なんですね」
「軍だからな。だが、理由も分からず従わせれば、見ていない場所で元のやり方へ戻る」
「一度決めれば終わりではない、と」
「そういうことだ」
アレクは書類の端に、現場から出た不満も記録しておくことにした。
報告の書式を作っただけでは、人の動きは変わらない。
使う者が何に困り、どこで間違えるのか。それを確かめて初めて、形として残せる。
「アレク」
「はい」
「この書状をヴァイス男爵へ届けろ。返事は不要だが、内容を読んだか確認してこい」
「分かりました」
「その後、城壁修復の帳簿を持って戻れ」
「どこにありますか?」
「城の会計官が持っている」
「会計官はどこに?」
「自分で探せ」
「そこからですか?」
「人の顔と仕事を覚えるのも小姓の役目だ」
アレクは書状を受け取り、執務室を出た。
小姓になれば、アルベルトのそばで軍略や政治を学べる。
そう考えていた。
実際には、最初に覚えなければならなかったのは、誰がどの部屋にいて、どの鍵を持ち、どの書類を管理しているのかということだった。
◇ ◇ ◇
昼前、アレクは城壁修復の帳簿を抱えて執務室へ戻った。
会計官を探すだけで、城館と西門の間を一往復することになった。最初に教えられた部屋にはおらず、西門の修復現場で石工への支払いを確認していたからだ。
帳簿は一冊ではなかった。
石材、木材、人夫の賃金、荷車、縄、鉄の金具。それぞれの支出が別の紙へ書かれている。
「随分と重そうだな」
アルベルトが言った。
「重いです。手伝ってください」
「それを運ぶための小姓だ」
「肩を負傷している小姓に持たせる量ではありません」
「治療所で木箱を運んでいただろう」
「見ていたんですか?」
「報告を受けた」
「そんなことまで報告されるんですね」
「お前が仕事をさぼっていないか確かめるためにな」
「家臣になったばかりなのに、信用がなさすぎませんか?」
「信用しているから仕事を任せている。確認することと疑うことは別だ」
アレクは帳簿を机へ置いた。
アルベルトと会計官が確認する横で、数字を別の紙へ書き写していく。
「石材そのものより、運搬に掛かる費用の方が高いものがあります」
アレクが一つの項目を指さした。
「この石は、どこから運んでいますか?」
会計官が帳簿を覗き込む。
「西の採石場です。荷車で一日半ほど掛かります」
「近くに石はないんですか?」
「城壁へ使える硬さと大きさの石は、すぐ近くでは十分に採れません」
「木材は?」
「北の森林です。大きな梁に使える木は、周辺の村だけでは足りません」
アレクは運搬費の内訳を見た。
荷車を借りる費用。車を引く馬や牛の餌。御者と護衛の賃金。途中で壊れた車輪の修理。川を渡る場所で支払う通行料。
石や木を買えば終わりではない。
必要な場所まで運んで、初めて使える。
「街道を整備すれば、この費用を減らせませんか」
会計官が顔を上げた。
「街道ですか」
「道の窪みを埋めて、雨が降っても荷車が沈まないようにする。急な坂を避けられる場所があれば、通りやすい道へ変える。そうすれば、一台で運べる量も増えると思います」
「間違ってはいない」
アルベルトが答えた。
「では、直しましょう」
「金はどこから出す」
予想していた問いだった。
「今回の運搬費が減れば、その分を回せませんか?」
「道を直した後ならな。工事を始める時には、まだ運搬費は減っていない」
「先に金が必要になる……」
「人夫は誰が出す」
「周辺の村から」
「畑の仕事を止めさせるのか」
「農作業が少ない時期に行えば」
「それなら冬だ。凍った土をどう掘る」
「では、収穫の後から冬までの間に」
「短いぞ」
「工事する場所を分けます」
「どこから始める」
アレクは答えようとして、言葉を止めた。
街道を直すというだけでは、何も決まっていない。
どの道の、どの場所を、どれだけ直すのか。それによって必要な人員も金も変わる。
「荷車が最も通りにくい場所からです」
「誰が調べる」
「道を使っている御者に聞きます」
「一人の御者が、すべての街道を知っているのか」
「何人かに聞けば」
「誰が聞いて回る」
アレクは黙った。
アルベルトは問いを続ける。
「工事をする間、その道を通る荷車はどこを通す」
「迂回路があれば、そちらへ」
「なければ」
「通れる幅を残しながら工事します」
「道が狭ければ」
「……順番に通します」
「誰が順番を決める」
「見張りを置きます」
「その兵の給金と食料は」
「必要です」
「使う石と木は、誰の土地から取る」
「領主に許可を」
「その領主が、自分の領地を通る商人から通行税を取っていたらどうする。新しい道によって商人が別の領地へ流れると分かっていて、簡単に認めると思うか」
アレクは帳簿へ目を落とした。
「思いません」
「道を良くすれば、通る者すべてが得をするとは限らん。宿場から客が減ることもある。古い道沿いで店を開いている商人は、新しい道に反対するかもしれない」
「道を直すだけでも、利害が変わるんですね」
「土地を動かさなくても、人と金の流れは変わる」
前世では、道路が造られることを便利になるとしか考えていなかった。
だが、新しい道ができれば、使われなくなる道もある。人が通らなくなれば、その道沿いで暮らしていた者は収入を失う。
便利になる者の隣には、損をする者がいる。
「俺の考えは、間違っていますか」
「街道を整えるべきだという考えは間違っていない」
「では」
「正しいことと、今すぐできることは違う」
アルベルトは帳簿の一頁を指で押さえた。
「今のアルヴェインには、ヴァイスブルクの修復、負傷者の治療、遺族への補償、武器と兵糧の補充が必要だ。その上で、大規模な街道工事まで同時に始められるか」
「無理だと思います」
「なら、捨てるか」
「何をです?」
「街道を整えるという、お前の考えだ」
アレクは少し考えた。
「今はできないだけですよね」
「そうだ」
「それなら捨てません」
アルベルトが頷いた。
「記録しておけ」
「街道整備、とだけですか?」
「それでは後で見ても分からん。どの道で、何が問題になり、どれほどの費用が掛かっているのかも残せ」
「工事ができる時に、すぐ使えるようにするためですか」
「十年後も同じ場所で荷車が壊れているなら、十年間何も考えなかったということになる」
アレクは白紙を一枚取り、帳簿から必要な項目を書き写した。
西の採石場からヴァイスブルクへ続く道。
運搬に一日半。
雨の後に二か所で荷車が沈む。
急坂で荷を減らす必要がある。
川を渡る場所では、橋が狭いため一台ずつしか通れない。
単に街道を整備すると書くより、何を直す必要があるのかが見えてくる。
「アルベルト様」
「何だ」
「今できなくても、調べることはできます」
「ああ」
「調べるのにも、人と金が必要ですが」
「少しは分かってきたな」
「自分で言っていて嫌になりました」
「現実とはそういうものだ」
会計官が小さく笑った。
アレクはその笑いを聞きながら、街道について書いた紙を、今後検討するものを入れる箱へ収めた。
◇ ◇ ◇
午後になると、アレクは城内の倉庫へ向かった。
命じられた仕事は、ヴァイスブルクに残っている兵糧の確認だった。
倉庫の中には、小麦、大麦、燕麦、豆、塩漬け肉が積まれている。棚へ置かれたものもあるが、穀物の多くは袋へ入れられ、木の床へ直接積み重ねられていた。
倉庫管理官が帳面を開く。
「現在、城内に残る兵と負傷者を合わせた人数であれば、二十日ほどです」
「アルベルト軍の大半が残れば?」
「十日余りでしょう。馬へ与える燕麦も足りなくなります」
「もうすぐ部隊を戻す予定ですよね」
「はい。ただ、移動させる部隊にも道中の食料を持たせなければなりません」
残っている量のすべてを、城で使えるわけではない。
軍が移動するなら、その日の食事だけでなく、次の補給場所へ到着するまでの分を持たせる必要がある。
「保存している間に駄目になるものは、どれくらいありますか?」
「季節と天候によります。少ない時でも数分、多ければ一割を超えます」
「そんなに?」
「鼠、虫、湿気、黴です。袋が破れ、床へこぼれるものもあります」
アレクは倉庫の中を歩いた。
石造りの壁は厚く、外より涼しい。しかし、床に近い場所には湿った空気が溜まっている。壁際に置かれた袋の一つには、薄い染みができていた。
「この袋、中を見てもいいですか?」
「構いません」
管理官が袋の口を開く。
表面の麦には異常がない。しかし、底に近い部分を掬うと、わずかに湿り気があった。
「床から上がった湿気ですか?」
「おそらく」
「袋を床から離せませんか」
「棚へ置けば離せますが、これだけの量を載せる棚はありません」
「棚ほど高くなくてもいいと思います」
アレクは倉庫の隅へ積まれていた木片へ目を向けた。
西門や城壁の修復で出た廃材だった。梁や足場として再利用できるものは別に分けられ、ここにあるのは、ひびが入っていたり、長さが足りなかったりするものばかりだ。
「この木は使ってもいいんですか?」
「薪にする予定です」
「では、燃やす前に一部を使わせてください」
「何を作るのです?」
アレクは倉庫の床へしゃがみ、指で埃の上に簡単な形を描いた。
「太い木を何本か横へ並べ、その上に板を置きます。袋は板の上へ載せる」
「低い棚のようなものですか」
「はい。床との間に隙間を作れば、少なくとも袋の底が直接湿った床に触れません」
管理官は図と廃材を見比べた。
「板の下へ風が通るようにするのですね」
「そのつもりです。ただ、どれくらい効果があるかは分かりません」
「分からないのですか?」
「実際に、この倉庫で試したことはありませんから」
知識として、穀物を湿った床から離した方がよいことは分かる。
だが、木枠を置けばすべての問題が解決するわけではない。倉庫全体の湿気が多ければ、床から離しても黴は生える。隙間が鼠の巣になる可能性もある。
「いきなり全部の袋を移すのはやめましょう」
「では、どうします?」
「同じ時期に入れた麦を、同じくらいの量だけ二つに分けます。一方はこれまでどおり床へ置く。もう一方は木枠の上に置く。一月後に、傷み方を比べてください」
「一月ですか」
「途中でも、数日ごとに湿り気や鼠の跡を確認してもらえますか?」
「記録も残しますか」
「お願いします。効果がなければ、倉庫全部へ広げずに済みます」
管理官は廃材の一つを持ち上げ、ひびの位置を確かめた。
「人が乗るわけではありませんが、穀物は重い。細い木では折れるかもしれません」
「どれが使えるかは、管理官に任せます」
「あなたが作るのではないのですか?」
「俺には、どの木がどれほどの重さに耐えるか分かりません。それに、他の仕事があります」
以前のアレクなら、思いついた以上は自分で最後まで形にしなければならないと考えたかもしれない。
しかし、倉庫を日々管理しているのは目の前の男だ。
袋の重さも、使える廃材も、鼠の出る場所も、アレクよりよく知っている。
目的と確かめる方法を伝えた後は、実際の作業を知る者へ任せた方がよい。
「分かりました。大工に使える木を選ばせます」
「結果は、俺ではなくアルベルト様へ報告してください」
「あなたにも知らせます」
「お願いします」
管理官は帳面の空いている頁へ、試す内容を書き始めた。
「しかし、変わったことを考えますね」
「昔読んだ本に、似たような方法が書いてありました」
「倉庫についての本ですか?」
「いろいろです」
「便利な本があるものですね」
「本当に便利です」
詳しく聞かれる前に、アレクは話を終わらせた。
前世の知識は、完成した答えではない。
この世界にある材料、人、金、技術へ合わせ、使える形へ変えなければならない。小さく試し、失敗した時の損を減らす必要もある。
倉庫の一角に置く木枠は、国を変えるような大発明ではない。
それでも、麦が腐る量を少し減らせれば、その分だけ食べられる者が増える。
今のアレクにできることは、その程度で十分だった。
◇ ◇ ◇
倉庫から戻ったアレクを待っていたのは、地図と複数の木駒だった。
執務室ではなく、城館の会議室に長机が置かれ、その上へアルヴェイン大公国と周辺地域の地図が広げられている。
ゲオルク、ヴァイス男爵、軍の指揮官、文官、周辺の領主たちが集まっていた。
アレクは地図の端を押さえる重しを置き、アルベルトの席へ水を用意した。
「準備が終わったなら、そこにいろ」
アルベルトが自分の斜め後ろを指した。
「俺も軍議に残るんですか?」
「そのために呼んだ」
「意見を求められても困ります」
「求めるかどうかは、私が決める」
「小姓は黙って立っているものでは?」
「黙って立っていろ」
「分かりました」
答えたアレクに、ゲオルクが笑いをこらえるような顔を向けた。
軍議が始まる。
「ベルン軍は国境近くのグラーツ城へ退いております」
ゲオルクが地図の西側へ駒を置いた。
「確認できている兵は二千前後。ただし、ヴァイスブルクから戻った兵がすべて城内に入ったかは分かりません」
「脱走者は」
「出ているようです。敗戦後、故郷へ戻った徴集兵も少なくありません」
「ベルン伯爵本人は」
「グラーツ城にいるとの報告です」
騎士の一人が身を乗り出した。
「アルベルト様。軍を数日休ませた後、グラーツ城へ進むべきです」
「理由を言え」
「ベルン軍は敗戦直後です。兵の数を減らし、士気も落ちております。立て直す時間を与えるべきではありません」
別の騎士も頷いた。
「ヴァイスブルクから逃げたという事実は、周辺の領主にも広がっています。今なら、ベルン伯爵へ従う者を切り崩すこともできます」
「グラーツを取れば、国境を西へ押し広げられます」
アルベルトは戦場で、退くベルン軍を追わないと決めていた。
あの時は、敵の退却が崩れていなかった。無理に追えば、罠へ誘い込まれる恐れがあった。
しかし騎士たちが求めているのは、今すぐ追撃することではない。軍を休ませた後、改めて攻めることだった。
「こちらの戦える兵は」
アルベルトが尋ねた。
「ヴァイスブルク守備隊を除けば、二千二百ほどです」
「負傷から戻れる者を含めてもか」
「すぐに戻れる者だけを含めています」
「兵糧は」
「ヴァイスブルクの備蓄だけでは足りません。周辺から集める必要があります」
「攻城の道具は」
「城壁の修復を優先しているため、まだ用意しておりません」
「それでも攻められると考えるか」
「ベルン軍が立て直す前でなければ、好機を失います」
騎士の言葉にも理由はあった。
敵が弱っている間に攻める。戦国時代でも珍しくない判断だ。
それでも、アレクは朝から見てきた帳簿の数字を思い出していた。
武器は傷み、矢は減り、馬は疲れている。城壁の修復にも人と金を取られている。
地図の上では、ヴァイスブルクからグラーツ城まで指一本ほどの距離しかない。
実際には、何日分もの兵糧を積んだ荷車が必要になる。
「アレク」
アルベルトに呼ばれ、地図を見ていたアレクは顔を上げた。
「はい」
「どう思う」
予想していたとはいえ、周囲の視線が一斉に集まると落ち着かなかった。
「俺は、ここに立っているだけでは?」
「今は意見を求めた」
「軍を動かした経験はありません」
「分かっている。今日見た帳簿と地図から答えろ」
アレクは騎士たちの顔を見た。
彼らは実際に兵を率いて戦った者たちだ。その前で十五歳の小姓が反対意見を述べれば、快く思われないかもしれない。
それでも、アルベルトは答えを求めている。
「俺は、今は攻めない方がいいと思います」
何人かの表情が険しくなった。
「理由は」
アルベルトに促され、アレクは地図へ目を戻した。
「グラーツ城にいる兵が二千前後で、こちらは二千二百。数だけを見ても、大きな差ではありません」
先ほど攻撃を主張した騎士が口を開く。
「敵は敗戦直後だ。城へ逃げ込んだ兵のすべてが戦えるとは限らん」
「こちらも同じです」
「こちらは勝った」
「勝っても、傷が治るわけではありません。折れた槍や減った矢も戻りません」
アレクは戦後報告書を一枚取った。
「戦える兵が二千二百いるというのは、今すぐヴァイスブルクを守れる人数だと思います。全員をグラーツ城へ連れていける人数ではありません」
「なぜだ」
「城の守備兵を残さなければならないからです。道中の補給拠点にも人が必要です。荷車を守る兵もいります」
「それでも、敵より少なくなるとは限らん」
「攻める先は野営地ではなく城です」
アレクはグラーツ城を示す駒へ指を近づけた。
「ヴァイスブルクより大きな城だと聞きました。同じ程度の兵数で、守る二千人を攻めるのは危険だと思います」
「包囲して降伏させればよい」
「包囲している間、こちらも食べ続けます」
倉庫で見た穀物袋が脳裏に浮かんだ。
「兵だけではありません。馬も食べます。矢や石を運ぶ荷車も必要になります。長引けば、どちらが先に兵糧を失うか分かりません」
騎士はすぐには答えなかった。
「他には」
アルベルトが尋ねる。
「ベルン伯爵だけを見ていていいのか分かりません」
「どういう意味だ」
「俺たちがヴァイスブルクで戦っていることを、周りの国や領主も知っていますよね」
「ああ」
「ベルン伯爵が弱ったと思えば、ベルン領を奪おうとする者がいるかもしれません。アルヴェインが弱ったと思えば、こちらを狙う者もいます」
地図には、アルヴェインとベルンだけが描かれているわけではない。
北西から北、東にかけてはグランヴァルト王国。西にはベルン伯爵領。南西にはヴァルデン大公国があり、その間には、複数の小領主と城がある。南東にはラウレンシア王国があり、南には海が広がっていた。
アルヴェイン軍が西のグラーツ城へ集まれば、別の国境が薄くなる。
「ゲオルク」
アルベルトが呼んだ。
「北の動きは」
「グランヴァルト王国が北西部の国境付近の兵を増やしております」
会議室の空気が変わった。
「数は」
「正確には分かりません。少なくとも、二つの城で周辺の村から兵を集めています」
「目的は」
「こちらへの侵攻か、警戒だけなのかは判断できません」
「東は」
「グランヴァルト王国に大きな動きはありません。ただし、商人と使者の往来が増えております」
「西は」
「ヴァルデン側の諸侯が、ベルン領との境へ兵を寄せています」
アルベルトは地図全体を見渡した。
「我々とベルン伯爵だけが、この戦を見ていたわけではない」
「はい」
「勝った後に欲を出せば、別の者へ隙を見せることになる」
アルベルトはグラーツ城を示す駒から手を離した。
「グラーツ城は攻めない。ヴァイスブルクの修復を優先する。負傷者を治療し、各部隊を休ませ、兵糧と武器を補え」
攻撃を主張していた騎士が頭を下げる。
「承知しました」
「不満か」
「好機を逃すことになるのではと考えております」
「その可能性はある」
アルベルトは否定しなかった。
「攻めないことで失うものもある。だが、今攻めれば、それ以上を失う危険がある。グラーツ城一つを取るために、アルヴェインの別の国境を空けるつもりはない」
「はっ」
「ベルン伯爵の動きは監視する。周辺領主へ使者を送り、どちらへ動こうとしているか確かめろ。北西部のグランヴァルトとの境にも斥候を増やす」
アルベルトの命令を、書記官が記録していく。
軍議はその後も続いた。
アレクは必要な地図や書類を渡しながら、話を聞いた。
戦場では、目の前の敵に勝つことへ集中していた。
軍議では、今そこにいない敵まで考えなければならない。
一つの場所へ兵を送れば、別の場所から兵が減る。一つの城を攻めれば、別の国が動く。
戦は、剣が届く範囲だけで起きているのではなかった。
◇ ◇ ◇
軍議が終わると、騎士や領主たちは会議室を出ていった。
アレクは机の上に残された駒を箱へ戻し、地図を巻こうとした。
「気になるのか」
アルベルトに尋ねられ、アレクの手が止まった。
「何がです?」
「軍議の間、何度も地図を見ていただろう」
「地図を見るのは好きです」
「変わった趣味だな」
「昔からです」
「なら、好きなだけ見ていろ。破るなよ」
「いいんですか?」
「軍議で使った内容を他人へ話さなければな」
「分かりました」
アレクは地図を再び広げた。
アルヴェイン大公国は、周辺諸国と比べれば広くない。
アルヴェインの北西から北、東にかけては、グランヴァルト王国の領地が広がっている。東側には広い平野と大河があり、複数の街道が王都へ集まっていた。グランヴァルト王国のさらに北には山脈が連なり、その向こうにノルディア王国がある。西ではベルン伯爵領と国境を接し、南西のヴァルデン大公国との間には、小領主の土地が複雑に入り組んでいる。南東にはラウレンシア王国があり、南には海が広がっていた。
形だけを見れば、日本列島とはまるで違う。
海岸線も、山脈も、川の流れも一致しない。
それでも、先ほどの軍議を思い返すと、妙な既視感があった。
一つの勢力が戦えば、その隙を別の勢力が狙う。
街道と川が交わる場所には城が築かれ、そこを押さえた者が兵と物資を動かしやすくなる。
古くから権威を持つ家と、戦や商売によって新しく力を得た者が争う。
戦だけでなく、婚姻や取引によって領地が変わる。
前世で読んだ戦国時代の歴史と、構造が似ていた。
だが、似ているからといって、同じ未来へ進むわけではない。
日本の戦国時代にも、似た立場の大名は何人もいた。置かれた条件が少し違うだけで、その後の運命は大きく変わった。
まして、ここは別の世界だ。
人も、地形も、国の成り立ちも違う。
知っている歴史へ無理に当てはめれば、かえって判断を誤る。
「アルベルト様」
「何だ」
会議室に残っていたアルベルトは、机の端で書状を読んでいた。
「ヴァレンシュタイン家は、昔から大公だったんですか?」
「いや」
「違うんですか?」
「祖父の代に大公となった。それ以前から領主ではあったが、領地は今の半分にも満たなかった」
「どうやって広げたんです?」
「戦と婚姻だ」
アルベルトは書状から目を上げた。
「祖父は南の領主と争い、いくつかの城を得た。父は東の家と婚姻を結び、その後、跡継ぎの絶えた領地を引き継いだ」
「周りの古い家は、それを認めたんですか?」
「認めた者もいれば、成り上がりと呼んだ者もいる」
「今でも?」
「ああ。ヴァレンシュタイン家の大公位を快く思わない者はいる」
「ベルン伯爵もですか」
「それだけが戦を仕掛けた理由ではないが、無関係ではないだろう」
アレクは地図上のアルヴェインを見た。
古い家だが、大公となったのは祖父の代。
戦と婚姻によって領地を広げ、周囲から成り上がりと呼ばれている。
それだけなら、前世の歴史にも似た家はいくつもある。
「アルベルト様は、これから領地を広げたいんですか?」
「必要ならな」
「必要でなければ?」
「今の領地を守る」
「天下を取りたい、とかは」
「天下?」
アルベルトが眉を動かした。
「すべての国を従えたいという意味です」
「今のお前は、ヴァイスブルクの帳簿をまとめるだけで一日掛かっている」
「俺の話ではありません」
「私も同じだ。自分の領地で起きていることをすべて把握できているわけではない。それなのに、すべての国を従えた後のことを考えてどうする」
「随分と現実的ですね」
「お前は私を何だと思っている」
「もう少し大きなことを考えている人かと」
「考えることと、口にすることは違う」
アルベルトの口元に、わずかな笑みが浮かんだ。
「考えてはいるんですか?」
「さてな」
「そこは教えてくれないんですね」
「小姓になって三日の者へ、すべて話すと思うか」
「信用と疑いの両方でしたね」
「覚えているではないか」
アルベルトは再び書状へ視線を戻した。
アレクも、それ以上は聞かなかった。
アルベルトを前世の誰かへ当てはめるには、知らないことが多すぎる。
そもそも、一人の人物だけを見ても意味はない。
アルヴェインがどのように生まれ、周辺国と何度戦い、誰と婚姻を結んできたのか。グランヴァルト王国やノルディア王国、ヴァルデン大公国が、なぜ今の領域を持っているのか。
それを知らなければ、歴史が似ているのかさえ判断できない。
「この国の歴史を記した本はありますか?」
アレクが尋ねると、アルベルトは顔を上げた。
「ある」
「読ませてもらえますか?」
「この城にあるものは、ヴァイスブルクと周辺領地の記録が中心だ。アルヴェイン全体の記録なら、大公都へ行った方が多い」
「大公都」
「アルヴェインブルクだ」
大公国の中心。
アルベルトの居城があり、政治、軍、商業の中心でもある町。
「いつ戻るんですか?」
「それを今から話そうと思っていた」
アルベルトは読んでいた書状を畳んだ。
「ヴァイスブルクの守備と修復の方針は決まった。動かせる部隊から順に戻す。私も三日後にここを発つ」
「俺もですか?」
「お前は私の小姓だろう」
「ここへ残れと言われる可能性もあるかと」
「残りたいのか」
「いえ。アルヴェインブルクを見てみたいです」
「なら、荷をまとめておけ」
アレクは地図上に書かれた大公都の位置を見た。
ヴァイスブルクから東へ延びる街道の先。二本の川が合流する近くに、城を示す印がある。
「どれくらい掛かりますか?」
「軍と一緒なら五日ほどだ。急げば短くできるが、負傷者と荷車がいる」
「街道は整っていますか?」
「ヴァイスブルクへ来る時に通っただろう」
「戦の前は、周りを見る余裕がありませんでした」
「今度は見ておけ」
アルベルトが立ち上がった。
「道だけではない。橋、村、畑、宿場、倉も見ろ。軍がどこで休み、何を買い、誰が運ぶのかもな」
「小姓の仕事ですか?」
「お前が知りたいと言ったことだ」
確かに、アレク自身が望んだ。
戦だけではなく、国や領主の仕事を学びたい。そのためにアルベルトの近くへ置いてほしいと頼んだ。
「分かりました」
「それと、アルヴェインブルクへ戻れば、お前に会わせたい者が何人かいる」
「誰ですか?」
「行けば分かる」
「その言い方は、嫌な予感がするのでやめてください」
「楽しみにしておけ」
「不安になってきました」
「人と会うたびに不安がっていては、小姓は務まらんぞ」
アルベルトは地図を巻き、アレクへ渡した。
「これはどこへ?」
「執務室へ戻せ」
「アルベルト様は?」
「ヴァイス男爵と城壁を見てくる」
「俺も行きます」
「地図を戻してから来い」
「先に行かないでくださいよ」
「お前が遅ければ置いていく」
アルベルトは会議室を出ていった。
アレクは急いで駒を箱へ収め、地図を抱えた。
大公の小姓になれば、主君の近くで黙って仕事を見ていればよいと思っていた。
実際には、書状を運び、帳簿を読み、人を探し、倉庫を歩き、軍議の準備をしなければならない。その上、考えを尋ねられれば答えることを求められる。
楽な仕事ではなかった。
それでも、戦場に立っているだけでは見えなかったものが、少しずつ見え始めている。
兵を動かす金。
食料を運ぶ道。
麦を守る倉庫。
領主同士の利害。
国境の向こうからこちらを見ている者たち。
そして、過去から今へ続く歴史。
アレクは地図を抱え、アルベルトの後を追った。
三日後には、アルヴェイン大公国の中心であるアルヴェインブルクへ向かう。
そこには、まだ知らない人々と、知らない記録が待っている。
この世界が、前世で知っていた歴史と本当に似ているのか。
それとも、知っているものに重ねようとしているだけなのか。
今のアレクには分からない。
分からないからこそ、知る必要があった。
第十二話を読んでいただき、ありがとうございました。
小姓として政務へ触れたアレクは、正しい考えであっても、人、金、土地の利害が揃わなければ実行できないことを学びました。
倉庫で始めた小さな試みや、記録に残した街道整備の案は、今後のアレクの兵站や内政に対する考え方へつながっていきます。
次回、アレクはアルヴェイン大公国の中心へ向かい、この世界の歴史をさらに深く知ることになります。
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