第十話 ヴァイスブルクの戦い(下)
援軍との合流を果たしたアルベルト軍。
しかしその頃、ヴァイスブルクの西門は崩壊寸前まで追い詰められていた。
城を落とそうとするフリードリヒ。
外から戦場を崩そうとするアルベルト。
そして、その狭間で動くアレク。
ヴァイスブルクを巡る戦いは、ついに最後の局面を迎える。
ドォォン――!
遠くで砲声が響いた。
少し遅れて、もう一発。
ドォン――!
俺は馬上から西を見た。
丘の向こうにあるヴァイスブルクの姿はまだ見えない。
だが、空へ昇っていく黒煙だけははっきりと見えた。
「全軍、速度を上げろ!」
アルベルトの声が飛ぶ。
「槍隊! 隊列を崩すな!」
「弓兵は中央!」
「騎兵は先行しすぎるな!」
ザッ、ザッ、ザッ、ザッ――。
二千五百を超える軍勢が西へ進んでいく。
ガチャ。
ガチャガチャ……。
鎖帷子、胸甲、剣、盾、槍。
無数の金属音が、軍靴の音へ重なっていた。
俺はアルベルトの少し後ろを馬で進んでいる。
「殿下!」
「何だ!」
「あとどれくらいです!」
「この速度なら半刻!」
「城は持ちますか!?」
「持たせる!」
「そうじゃなくて!」
アルベルトが振り返った。
「アレク!」
「はい!」
「今、私たちにできることは何だ!」
「……進むことです!」
「なら前を見ろ!」
「はい!」
俺は手綱を握り直した。
分かっている。
そんなことは分かっている。
それでも。
ドォォン――!
再び砲声が響く。
その音を聞くたび、胸の奥がざわついた。
城にはオットー男爵がいる。
トーマスもいる。
あの夜を一緒に守った兵士たちもいる。
避難してきた民も大勢いる。
もし俺たちが到着する前に、西門が完全に破られたら。
「……考えるな」
俺は自分に言い聞かせた。
今できるのは、走ることだけだ。
◇ ◇ ◇
ヴァイスブルク西門。
「砲撃!」
「伏せろぉぉぉ!」
ドォォン!
轟音が響いた。
次の瞬間。
ドガァァン!
砲弾が城壁へ激突し、石が弾け飛んだ。
「ぐあっ!」
「うわああっ!」
城壁の一部が崩れ、石片と砂埃が白煙の中へ舞う。
「負傷者を下げろ!」
「崩れたところを塞げ!」
「木材を持ってこい!」
オットー男爵が声を張り上げた。
「西門から兵を動かすな!」
「しかし男爵!」
一人の騎士が崩れた外壁を見る。
「次を受ければ、さらに崩れます!」
「分かっている!」
城外には、西門正面へ約千五百のベルン兵が展開している。
その後方に四門の砲。
さらに。
ギィ……。
ギギギギ……。
二基の破城槌が、兵士たちに押されながら前進していた。
「来るぞ!」
城壁上で声が飛ぶ。
「弓兵!」
ザッ!
弓兵たちが壁際へ並んだ。
「破城槌を押している兵を狙え!」
オットーが剣を上げる。
「放て!」
バシュッ!
ヒュヒュヒュヒュ――!
矢が降り注ぐ。
「盾!」
ベルン兵たちが盾を上げた。
ガガガガンッ!
何本もの矢が盾へ突き刺さる。
「止まるな!」
「押せ!」
「門まで運べ!」
ギギギギ……!
破城槌は止まらない。
「火矢!」
オットーが叫んだ。
「破城槌を燃やせ!」
「はっ!」
弓兵たちが矢の先へ火を移す。
「放て!」
バシュッ!
赤い軌跡が城壁から伸びた。
一本、二本と、火矢が破城槌を覆う獣皮へ突き刺さる。
ジュッ……。
だが火はすぐに消えた。
「駄目です!」
「濡れた獣皮です!」
「なら押している兵を狙え!」
「はっ!」
その時、城外で角笛が鳴った。
ブオォォォォ――!
「敵歩兵!」
「来ます!」
ザッ。
ザッ。
ザッ。
数百の兵士が前進を始める。
盾、槍、梯子を持った兵士たちだ。
ザッザッザッザッ――!
歩みが速くなる。
「走れぇぇぇ!」
「うおおおおおおおっ!」
ドドドドドド――!
地面が震えた。
「弓兵!」
オットーが剣を抜く。
「撃てぇぇぇ!」
バシュッ!
矢の群れが飛ぶ。
「第二射!」
バシュッ!
「第三射!」
バシュッ!
「ぐあっ!」
「止まるな!」
「城壁へ!」
ベルン兵が倒れる。
だが後続はその横を越えて走り続ける。
「梯子!」
ガンッ!
一本の梯子が城壁へ掛かった。
「落とせ!」
「押せ!」
「うおおおっ!」
ギギギ……。
城兵たちが長い棒で梯子を押す。
梯子が大きく傾いた。
「うわっ!」
取りついていた敵兵ごと落下する。
だが、その隣にはもう別の梯子が掛かる。
さらに一本。
さらにもう一本。
「多い……!」
城兵の一人が思わず呟いた。
「口を動かす暇があったら手を動かせ!」
オットーが怒鳴る。
「ここを抜かれれば終わりだ!」
「はっ!」
その時だった。
ギギギギギ――。
破城槌が西門へ到達した。
「来るぞ!」
敵兵たちが巨大な丸太を後ろへ引く。
「押せぇぇぇ!」
ドゴォォン!
門全体が揺れた。
衝撃が城壁にまで伝わる。
「もう一度!」
ギギギ……。
「押せ!」
ドゴォォン!
木片が飛んだ。
「男爵!」
「分かっている!」
オットーは西門を睨んだ。
「持て……」
敵兵たちが再び丸太を引く。
ギギギ……。
「もう少しだけ持て……!」
◇ ◇ ◇
ベルン軍本陣。
「西門、破城槌到達!」
「よし」
フリードリヒは馬上から城を見ていた。
「砲は?」
「残弾十二!」
「撃ち切るな。六発残せ」
「はっ!」
「歩兵第三隊を前へ」
「第三隊もですか?」
「ああ」
「ですが――」
副官が北を見る。
「アルベルト本隊が接近している可能性があります」
「分かっている」
「ならば、兵を残すべきでは?」
フリードリヒが笑った。
「残している」
副官が改めて自軍を見る。
攻城部隊千五百。
南方に六百。
北西に四百。
さらに後方予備が二百余り。
「北の七百を全部動かさなかったのは……」
「アルベルトのためだ」
「最初から?」
「奴が本隊と合流できれば、必ず戻る」
フリードリヒが北を見る。
「問題は、城へ入るかだ」
「それとも?」
「外から来るか」
副官が少し考えた。
「どちらだと思われます?」
「アルベルトなら……」
フリードリヒは一瞬だけ目を細める。
「外だ」
その時だった。
「伯爵様!」
北から騎兵が駆けてくる。
「報告!」
「言え!」
「北東に大軍!」
フリードリヒの目が変わった。
「旗は!」
「アルヴェイン大公旗!」
「数!」
「二千以上!」
副官が息を呑む。
「来た……」
だがフリードリヒは笑った。
「やはりな」
「伯爵様?」
「攻城部隊へ伝令!」
「はっ!」
「第三隊の前進は中止!」
「西門は?」
「攻め続けろ!」
「ですが!」
「今止めれば、オットーが兵を外へ回す!」
フリードリヒは次々と命令を飛ばす。
「北西隊四百!」
「はっ!」
「東へ向きを変えろ!」
「予備二百を加えますか?」
「加えろ!」
「計六百!」
「長槍を前へ!」
「騎兵は?」
「私のところへ集めろ!」
「はっ!」
「南隊から二百を中央へ!」
「残り四百は?」
「そのままだ!」
「なぜです?」
「城の南門を開かせるな!」
「はっ!」
副官が走り出す。
フリードリヒは北東を見る。
「アルベルト」
剣を抜いた。
シャッ――。
「来い」
◇ ◇ ◇
「旗!」
先頭の偵察騎が叫んだ。
「ヴァイスブルクです!」
俺たちは丘を駆け上がった。
そして頂上へ出た瞬間、初めて戦場全体が見えた。
ヴァイスブルク。
西壁から上がる煙。
城門前を埋める無数の兵士。
梯子。
破城槌。
さらにその西にはベルン軍本陣がある。
旗。
兵。
馬。
そして俺たちと城の間の平原では、敵兵がこちらへ向けて動き始めていた。
「気づかれた」
俺が言う。
「ああ」
アルベルトが答える。
ベルン軍の北側にいた部隊が向きを変える。
ザッ。
ザッ。
ザッ。
槍兵がこちらへ進んでくる。
「六百ほど!」
ゲオルクが報告する。
「槍兵中心です!」
「少ない」
俺が言った。
「だが」
アルベルトが敵を見る。
「止めるには十分だ」
こちらは二千六百。
敵は六百。
兵数だけ見れば、押し潰せる。
しかし。
「時間稼ぎ……」
「そうだ」
アルベルトが答える。
「我々があれを崩している間に、西門を落とすつもりだ」
遠くの城門で破城槌が動く。
ドゴォォン!
「殿下!」
一人の騎士が叫ぶ。
「突撃を!」
「駄目だ」
「なぜです!」
「槍が整っている」
敵六百は三列、いや四列ほどの厚みで陣を組んでいた。
前列は大盾を構え、その隙間から長槍が突き出されている。
後列にもさらに槍兵が並ぶ。
正面から騎兵を入れれば、まともに槍へ刺さる。
「歩兵で崩しますか?」
「時間がかかる」
アルベルトが戦場全体を見る。
俺も見る。
北には敵六百。
西にはベルン本陣。
東にはヴァイスブルク。
南には川。
待て。
「殿下」
「何だ」
「あの六百は、俺たちを止めるためですよね」
「そうだ」
「なら」
俺は敵陣を見る。
「戦わなければいい」
アルベルトが俺を見る。
「続けろ」
「迂回します」
「どちらへ」
「北は丘があります」
「ああ」
「南は?」
「平地だ。ただし西へ行けば川へ近づく」
「騎兵なら?」
「通れる」
「歩兵は?」
「行けるが遅い」
アルベルトがすぐに理解した。
「全軍ではないな」
「はい。全部で回ったら、それこそ時間がかかります」
「騎兵だけか」
「はい」
「何騎」
「二百くらい?」
「百五十しかいない」
「そうでした」
「忘れるな」
「じゃあ百五十全部」
ゲオルクがすぐに口を挟む。
「危険です。殿下まで行けば」
「だから私が行く」
「殿下」
「私がいなければ、敵も本気で騎兵を追わん」
アルベルトは即座に決断した。
「歩兵はここで六百を拘束!」
「はっ!」
「弓兵を前へ!」
「はっ!」
「槍隊は前進せず、その場で陣を組め!」
「攻撃しないのですか?」
「睨み合え!」
そしてアルベルトは騎兵へ向き直った。
「騎兵百五十!」
ガチャッ!
騎士たちが手綱を握る。
「南へ!」
「はっ!」
「アレク!」
「はい!」
「来い!」
「やっぱり!?」
「嫌なら残れ!」
俺は正面の敵六百を見る。
その向こうには味方二千五百。
危険度だけを考えれば、明らかにこちらへ残った方が安全だ。
「残ります!」
「分かった!」
「え?」
アルベルトはそのまま馬腹を蹴った。
ドドドドドッ!
百五十騎が南へ走り出す。
「……本当に置いていった」
俺が呟くと、ゲオルクがこちらを見る。
「行かなくていいのか?」
「いいです」
「そうか」
「……」
遠ざかるアルベルトの背中を見る。
何だろう。
ものすごく嫌な感じがした。
「ゲオルク様」
「何だ」
「俺も行きます」
「なぜだ」
「分かりません」
「なら残れ」
「でも行きます」
「面倒な奴だな」
「よく言われます」
「誰にだ」
「殿下に」
ゲオルクがため息をついた。
「行くぞ!」
「はい!」
ドドッ!
俺たちも後を追った。
◇ ◇ ◇
ドドドドドドッ――!
百五十騎が南へ駆ける。
正面にいた敵槍兵六百も動いた。
「敵騎兵、南!」
「右翼を回せ!」
ザザザザッ!
六百の一部がこちらへ向きを変えようとする。
だが遅い。
歩兵と騎兵では、動く速さが違いすぎる。
「追ってくる!」
俺が叫ぶ。
「追わせろ!」
アルベルトが答える。
「でも!」
「動けば陣が崩れる!」
見れば確かにそうだった。
正面を向いていた長槍陣が南へ向きを変えようとしている。
前列と後列では動く速さが違う。
槍の向きも揃わなくなり、隊列の間に小さな隙間ができ始める。
「今なら本隊が!」
「まだだ!」
「なぜ!」
「フリードリヒが見ている!」
西にある本陣。
あそこからなら戦場全体を見渡せる。
「こちらの歩兵が槍隊を崩しに行けば!」
「敵騎兵を出す?」
「そうだ!」
ベルン側にも騎兵がいる。
こちらの騎兵百五十は本隊から離れた。
残った二千五百はほぼ歩兵。
もし敵騎兵がそこへ突っ込めば、こちらも対応を強いられる。
「じゃあどうするんです!」
「走る!」
「また!?」
「騎兵だからな!」
ドドドドドッ!
さらに南へ走ると川が見えてきた。
水面が陽光を反射している。
「西へ!」
百五十騎が一斉に向きを変える。
今度はベルン軍の南側へ向かう。
そこには四百ほどの兵がいる。
俺たちを見つけると、すぐに陣形を変え始めた。
「また敵!」
「当然だ!」
「どうするんです!」
「近づく!」
「戦うんですか!?」
「戦わん!」
何なんだ、この作戦。
敵南隊四百が槍と盾をこちらへ向ける。
俺たちはその正面へは入らない。
距離が三百。
二百。
そこで。
「北へ!」
また進路が変わった。
今度はベルン軍本陣の方向だ。
「殿下!」
「何だ!」
「これ、敵陣の周りを走ってるだけじゃ!?」
「そうだ!」
「意味あるんですか!?」
「見ろ!」
言われて戦場を見る。
南の四百は俺たちを警戒して動けない。
北の六百は味方本隊を警戒している。
攻城部隊千五百は城を攻め続けている。
そしてフリードリヒは、その三方向すべてを見なければならなくなっていた。
「敵を動かしてる……」
「そうだ!」
こちらは百五十騎しかいない。
まだ敵をほとんど斬ってもいない。
ただ走っているだけだ。
それでも、百五十騎が次にどこへ向かうのか分からないから、ベルン軍は兵を動かさなければならない。
「これが騎兵……」
速いというだけで、戦場へ圧力を掛けられる。
その時、ベルン本陣から角笛が響いた。
ブオォォォ――!
「来るぞ!」
本陣から敵騎兵が飛び出してくる。
二百以上。
「やっぱり!」
「来たな!」
アルベルトが笑った。
「逃げるぞ!」
「喜んで!」
◇ ◇ ◇
フリードリヒは小さく舌打ちした。
「アルベルトめ」
自軍騎兵二百五十が、アルベルト率いる百五十騎を追っている。
だが簡単には捕まらない。
「伯爵様!」
「何だ!」
「北東槍隊、敵本隊と接触!」
「戦闘は!」
「まだです! 弓の応射のみ!」
「南隊は!」
「アルベルト騎兵を警戒して動けません!」
「……」
フリードリヒは城を見る。
西門。
破城槌。
もう少し。
本当に、あと少しだった。
「攻城部隊へ伝えろ!」
「はっ!」
「門を破れ!」
「何としてもだ!」
◇ ◇ ◇
「引けぇ!」
オットーの声が西門内側へ響く。
「第二障害物まで下がれ!」
ドゴォォン!
破城槌が再び門へ激突した。
木材が割れ、亀裂が大きくなる。
「もう一度!」
敵兵たちが丸太を引く。
ギギギ……。
「来るぞ!」
城兵たちは盾と槍を構えた。
西門の奥にある狭い街路には、荷車、樽、木材など、使える物が積み上げられている。
「門を破られても、そこで終わりではない!」
オットーが兵士たちへ叫ぶ。
「門を通れる人数には限りがある!」
「入ってきたところを叩け!」
「おおおおっ!」
外から声が響く。
「押せぇぇぇ!」
ドゴォォォン!
バキバキバキッ!
門の木材が大きく割れた。
「破られた!」
西門に穴が開く。
「ベルン!」
「ベルン!」
「ベルン!」
城外から敵兵の叫び声が重なる。
「突入ぅぅぅ!」
「うおおおおおおっ!」
ザザザザザッ!
ベルン兵が穴へ殺到した。
「弓!」
オットーが剣を上げる。
「撃て!」
バシュッ!
至近距離から矢が飛ぶ。
「ぐあっ!」
先頭の敵兵が倒れる。
だが後ろから仲間が押し寄せる。
「進め!」
「入れ!」
狭い穴へ人が集中し、敵兵同士が押し合う。
「槍!」
「突けぇ!」
ザシュッ!
「ぎゃあっ!」
「盾を前へ!」
ガンッ!
ギィン!
西門の内側は完全な戦場になった。
オットーが剣を抜く。
「一歩も通すな!」
◇ ◇ ◇
「西門突破!」
伝令の声を聞き、フリードリヒが拳を握った。
「入ったか!」
「はい!」
「何人!」
「先頭百ほど!」
「続け!」
「はっ!」
勝てる。
あと少しだ。
城内へ五百も入れば、オットーは持たない。
そう思った時だった。
「伯爵様!」
「今度は何だ!」
「北東!」
フリードリヒが振り返る。
アルベルト本隊二千五百。
その軍勢に動きが出ていた。
「槍隊が!」
「どうした!」
「後退しております!」
「なぜ!」
「敵本隊が前進!」
「戦闘は!」
「ありません!」
「……何?」
◇ ◇ ◇
「前へ!」
アルヴェイン軍二千五百が進む。
ザッ!
一歩。
「前へ!」
ザッ!
正面のベルン兵六百が槍を構える。
弓兵が矢を放つ。
「放て!」
バシュッ!
敵側からも矢が返る。
バシュッ!
ガンッ!
盾に矢が当たる。
「前へ!」
ザッ!
二千五百の軍勢は止まらない。
走りもしない。
ただ隊列を維持したまま前進する。
六百人に向かって、巨大な壁そのものが近づいていく。
「下がれ!」
ベルン側の指揮官が叫んだ。
「隊列を維持しながら下がれ!」
ザッ。
六百が一歩後退する。
二千五百が一歩進む。
さらにベルン兵が下がる。
「そうか……」
俺は馬上からその光景を見て気づいた。
戦う必要がない。
二千五百対六百。
六百側が正面衝突すれば、数で包まれてしまう。
だから隊列が崩れる前に、下がるしかない。
「殿下!」
「見えている!」
アルベルトも、敵騎兵に追われながらその動きを見ている。
「本隊へ戻るぞ!」
「はい!」
百五十騎が北東へ向きを変える。
当然、追っていたベルン騎兵も来る。
「敵も来ます!」
「来させろ!」
「本隊まで!?」
「そうだ!」
後方では二百五十の敵騎兵が迫っている。
ドドドドドッ!
「追いつかれます!」
「まだだ!」
前には味方本隊。
二千五百。
どんどん近づく。
「弓兵!」
アルベルトが叫んだ。
本隊の指揮官がこちらへ気づく。
「弓兵!」
ザッ!
数百人の弓兵が前へ出る。
「構え!」
俺たちは、その射線へ向かって走っている。
「殿下!?」
「走れ!」
「味方に撃たれます!」
「撃たせん!」
「本当でしょうね!」
百メートル。
五十。
「騎兵、左右へ!」
アルベルトが命じた。
百五十騎が二つへ割れる。
俺は右側へ。
ドドドドッ!
中央が大きく空く。
その先には追ってきたベルン騎兵。
「放てぇぇぇ!」
バシュッ!
空が黒くなった。
「うわっ!」
俺は馬上で身を伏せる。
ヒュヒュヒュヒュヒュッ――!
無数の矢が頭上を越えていく。
直後、背後から悲鳴が上がった。
「ぐあっ!」
「馬が!」
「うわあああっ!」
ドサッ!
ベルン騎兵の列が崩れる。
「退け!」
敵指揮官が叫ぶ。
「退けぇ!」
ベルン騎兵が反転した。
ドドドドッ!
アルベルトが剣を上げる。
「追うな!」
味方騎兵も止まる。
「……はぁ」
俺は大きく息を吐いた。
「死ぬかと思った」
「生きている」
ゲオルクが言う。
「結果論です」
アルベルトが本隊の前へ出た。
「全軍!」
二千六百を超える兵士たちが大公を見る。
「敵は退いた!」
アルベルトが剣を西へ向ける。
「ヴァイスブルクへ進む!」
「おおおおおおっ!」
「城を救うぞ!」
「おおおおおおおおっ!」
鬨の声が響く。
「進めぇぇぇ!」
ザッ!
ザッ!
ザッ!
最初は一定だった足音が、徐々に速くなる。
ザッザッザッザッ――!
ヴァイスブルクが近づいてくる。
◇ ◇ ◇
フリードリヒは地図を睨んでいた。
「北東隊後退!」
「騎兵も戻ります!」
「アルベルト本隊、こちらへ進軍中!」
「距離半里!」
「西門は!」
「突破しております!」
「城内へ約三百!」
「三百……」
足りない。
あと少し。
本当にあと少しだった。
「伯爵様!」
「何だ!」
「ご決断を!」
副官の顔を見れば、言いたいことは分かる。
このまま攻城を続ければ、北東から二千六百に迫られる。
そして城内にはオットーの守備兵がいる。
完全に挟まれる。
だが今退けば、ここまで払った犠牲が無駄になるように思える。
フリードリヒは西門を見る。
本当に、あと一歩だった。
だからこそ。
「全軍」
声が低くなった。
「攻城中止」
「伯爵様!」
「撤退準備!」
「しかし西門は破りました!」
「だから何だ!」
フリードリヒが怒鳴った。
「城を取って軍を失えば意味がない!」
副官が黙る。
「城内の兵を戻せ!」
「はっ!」
「砲を下げろ!」
「はっ!」
「南隊四百を後衛!」
「北東隊は後退しながら合流!」
「騎兵は敵の追撃を警戒しろ!」
「はっ!」
命令が次々と伝わっていく。
フリードリヒは歯を食いしばった。
「アルベルト……」
負けた。
少なくとも、この場所では。
だが軍はまだ残っている。
「ここではな」
◇ ◇ ◇
「敵が下がる!」
味方兵が叫んだ。
「ベルン軍が下がるぞ!」
俺にも見えた。
城壁から敵兵が少しずつ離れていく。
破城槌は放棄され、梯子もいくつか置き去りにされている。
砲は馬に繋がれ、西へ動き始めていた。
「逃げる!」
「追撃!」
騎士が叫んだ。
だが。
「待て!」
アルベルトが声を張り上げる。
「全軍停止!」
「殿下!」
「なぜです!」
「敵はまだ二千以上いる!」
アルベルトは後退するベルン軍を見る。
「崩れていない!」
確かに逃走ではなかった。
後退だ。
盾兵が列を作り、槍兵がこちらを向いている。
騎兵も左右へ展開し、追撃に備えている。
「追えば噛まれる」
アルベルトが言った。
「ですが勝機です!」
一人の騎士が食い下がる。
「違う」
アルベルトは即座に否定した。
「勝ったから追わない」
「……」
「我々の目的は、ベルン軍を全滅させることではない。ヴァイスブルクを守ることだ」
俺はその言葉を聞きながら、前世で読んだ戦国時代の戦を思い出した。
勝った後の追撃で隊列が伸び、逆襲や伏兵を受けて崩れる。
そんな例はいくらでもある。
勝っている時ほど、もっと取りたいと思う。
もっと敵を倒したい。
もっと成果を得たい。
だが、目的はそこではない。
ヴァイスブルクを守ること。
「……引き際」
俺が呟いた。
アルベルトがこちらを見る。
「そうだ」
第七話で話したことを思い出す。
成功する方法だけではなく、いつ諦めるかを決める。
だが、それは負けている側にだけ必要なものではない。
勝った側にも、どこで止まるかという判断が必要なのだ。
「全軍!」
アルベルトが剣を掲げる。
「ヴァイスブルクへ!」
「おおおおおおっ!」
◇ ◇ ◇
西門は酷い有様だった。
俺は馬から降りた。
「……」
すぐには言葉が出なかった。
門は大きく壊れている。
崩れた石。
折れた木材。
大量の矢。
血。
そして、倒れている人間。
味方も敵も入り混じっていた。
さっきまで俺は何千人という軍勢を見ていた。
地図。
部隊。
右翼。
左翼。
騎兵。
槍兵。
全部を数字や駒のように考えていた。
でも、ここへ戻ってくると違う。
倒れているのは、一人一人の人間だ。
「アレク!」
聞き慣れた声がした。
「トーマス?」
振り返る。
トーマスがこちらへ走ってくる。
生きている。
「生きてた!」
「そっちも!」
「当たり前だ!」
「良かった……」
本当に、それしか言葉が出なかった。
「肩!」
「ああ」
言われて傷を思い出した。
「血が出てる!」
「前からだよ」
「治療所へ行け!」
「後で」
「今!」
「分かったよ」
その時。
「殿下!」
オットー男爵が歩いてきた。
顔にも鎧にも血が付いている。
それでも自分の足で歩いている。
「オットー」
「申し訳ありません」
「何がだ」
「西門を破られました」
「城は?」
「守りました」
「なら十分だ」
「……」
オットーが深く頭を下げた。
「はっ」
アルベルトは城壁周辺を見る。
座り込む兵士。
負傷者を運ぶ者。
泣いている者。
生き残れたことに笑う者。
「被害を確認しろ」
「はっ」
「敵兵の負傷者もだ」
騎士が少し驚いたように見る。
「敵もですか?」
「捕虜にできる者は治療しろ」
「はっ」
アルベルトが歩き出す。
俺はその背中を見ていた。
「アレク」
「はい」
「来い」
「治療所へ行けと言われました」
「なら治療してから来い」
「どこへ?」
「城壁だ」
◇ ◇ ◇
夕方。
俺の肩には包帯が巻かれていた。
西壁へ上がると、アルベルトが一人で立っている。
「殿下」
「来たか」
「はい」
西を見る。
ベルン軍は遠くまで下がっている。
旗もかなり小さくなっていた。
「勝ったんですか?」
俺は聞いた。
「ああ」
「……あまり実感がないですね」
「そういうものだ」
「殿下も?」
「ああ」
しばらく二人とも黙った。
風が吹く。
城壁にはまだ血の匂いが残っている。
「何人死んだんでしょう」
「まだ分からん」
「敵も?」
「ああ」
「昨日まで生きていた人たちが」
「ああ」
俺は石壁へ手を置いた。
「昔読んだ物語では、戦いって数字で書かれていたんです」
「数字?」
「何千対何千で戦って、死者何百。どちらが勝った。それだけで終わることもある」
「便利だな」
「はい」
本当に便利だ。
だから忘れる。
その『一』という数字が、一人の人間だったことを。
「殿下」
「何だ」
「俺……怖かったです」
「そうか」
「何回も逃げたかった」
「そうか」
「人も斬りました」
「ああ」
「……慣れるんでしょうか」
アルベルトはすぐには答えなかった。
しばらくしてから静かに言う。
「慣れる」
「そうですか」
「だが」
アルベルトが俺を見る。
「慣れたことを誇るな」
「……」
「怖いと思わなくなった時ほど、自分を疑え」
「殿下も?」
「私は」
アルベルトは少しだけ笑った。
「何度も疑っている」
この人でもそうなのか。
俺は再び西を見た。
「フリードリヒは、また来ます?」
「来る」
「やっぱり?」
「あれで諦める男ではない」
「嫌ですね」
「私もだ」
「本当ですか?」
「半分くらいは」
「半分?」
「強い敵と戦うのは嫌いではない」
「俺には分かりません」
「そのうち分かる」
「分かりたくないです」
アルベルトが笑った。
俺も少しだけ笑った。
◇ ◇ ◇
その夜。
撤退中のベルン軍野営地。
コンラートが馬から降りた。
「伯爵様」
「遅かったな」
「申し訳ありません」
「北は?」
「失敗しました」
「そうか」
「処罰を」
「必要ない」
フリードリヒは焚き火を見ている。
「しかし」
「私も失敗した」
「……」
「なら二人とも首を落とすか?」
「それは困ります」
「私もだ」
コンラートが少し笑った。
しばらくして、フリードリヒが聞く。
「少年は?」
「いました」
「どうだった」
「昨日より厄介でした」
コンラートは負傷した肩を見る。
「そうか」
「ただ、策だけではありません」
「何だ」
「アルベルトが育てようとしているように見えました」
フリードリヒが目を細める。
「名前は」
「アレク・ハルトマン」
「アレク……」
火がパチッと鳴った。
「覚えておこう」
◇ ◇ ◇
翌朝。
ヴァイスブルクでは、ようやく被害の集計が進んでいた。
アルヴェイン側の戦死者は百三十七。
負傷者は三百を超えた。
ベルン側は確認できただけでも二百六十余。
撤退時に連れていかれた死傷者まで含めれば、実際の数はさらに多いだろう。
俺は報告書に並んだ数字を見ていた。
昨日考えたことを思い出す。
一という数字。
その一つが、一人の人間だ。
百三十七。
百三十七人。
それぞれに家族がいて、友人がいて、名前がある。
それでも歴史には、いずれ数字として残るのだろう。
「アレク」
アルベルトに呼ばれ、顔を上げる。
「はい」
「何を見ている」
「死者の数です」
「そうか」
「殿下」
「何だ」
「この戦いって、何て呼ばれるんでしょう」
アルベルトが少し考える。
「さあな」
「決まってないんですか」
「戦の名前など、後から誰かが勝手につける」
「そんなものですか」
「そんなものだ」
俺は窓から外を見る。
ヴァイスブルク。
壊れた西門では、もう修復作業が始まっている。
兵士。
民。
馬。
荷車。
皆が少しずつ日常へ戻ろうとしている。
いつか、この戦いも歴史書に載るのだろうか。
アルベルト・ヴァレンシュタイン。
フリードリヒ・ベルン。
ヴァイスブルク。
兵力。
死者。
勝敗。
そして俺の名前は、そのどこかに載るのだろうか。
それは分からない。
ただ、一つだけ分かったことがある。
俺はもう、歴史を外から眺める人間ではない。
この世界の歴史の中にいる。
俺が考えたこと。
俺が口にしたこと。
俺が斬った人間。
俺が助けた人間。
その一つ一つが、この世界で起こった出来事として積み重なっていく。
そして、この時の俺はまだ知らなかった。
後世、アルヴェイン大公国の歴史を語る上で、この小さな城を巡る戦いが必ず語られることになることを。
そして、その記録の片隅に。
十五歳の少年、アレク・ハルトマンの名が初めて記されることになることを。
――ヴァイスブルクの戦い。
それが、俺が初めて歴史に名を残した戦だった。
ヴァイスブルクを巡る戦いは、アルヴェイン側の勝利で幕を閉じた。
しかし残ったのは、壊れた城門と、多くの負傷者、そして数え切れない死者たち。
勝利とは、決して軽い言葉ではない。
そしてこの戦いを境に、十五歳の少年アレク・ハルトマンの名は、初めて歴史の中へと刻まれる。
ただの徴集兵だった少年は、少しずつ乱世の中心へと近づき始めていた。




