第十一話 仕える理由
ヴァイスブルクの戦いは終わりましたが、死傷者の治療や遺族への補償、城の修復など、多くの仕事が残されています。
戦後処理を通じてアルベルトの統治者としての姿を見たアレクは、自分の進む道を選びます。
ヴァイスブルクの戦いから三日が過ぎた。
城から剣戟と怒号は消えたが、静けさが戻ったわけではない。
夜が明けると同時に、破壊された西門の周囲で金槌の音が響き始める。門扉を支える木材が運び込まれ、崩れた城壁には足場が組まれていた。兵士と大工が声を掛け合い、石工たちは亀裂の入った石を一つずつ調べている。
城内を行き交う荷車が運んでいるのは、矢や兵糧だけではなかった。割れた石、焼けた木材、血の染みついた藁。戦が残していったものを片づけるだけでも、多くの人手が必要だった。
「アレク、そっちを持て」
「俺は肩を負傷しているんですけど」
「俺も足を負傷している」
トーマスはそう言いながら、包帯や薬草の入った木箱の片側を持ち上げた。
「普通に歩いているじゃないですか」
「歩けることと痛くないことは別だ」
「それなら俺も同じですよ」
「若いんだから我慢しろ」
「トーマスさんだって、そんなに年は離れていないでしょう」
「俺より若い。それで十分だ」
「随分と乱暴な理屈ですね」
文句を言いながらも、アレクは木箱の反対側を持った。
右肩に痛みが走る。傷そのものは深くなかったが、包帯の下にはまだ熱が残っている。重いものを持ち上げるたび、治りかけた傷が引きつるように痛んだ。
二人が運んでいるのは、城内の治療所で使う物だった。
包帯、薬草、傷を洗うための酒。戦が始まる前に集められた分では足りず、城下の商人や周辺の村から買い集めた品も含まれている。
「もう少し右だ」
「俺から見てですか?」
「お前から見て右だ」
「最初からそう言ってください」
二人は治療所の入口まで木箱を運び、壁際へ下ろした。
建物の中には、まだ多くの負傷兵が残っていた。立って歩ける者もいれば、藁を敷いた寝台から起き上がれない者もいる。アルベルト軍とヴァイスブルク守備隊だけでなく、捕虜となったベルン軍の兵も治療を受けていた。
薬師や手伝いの女たちは、敵味方を区別せずに傷を洗い、汚れた包帯を交換している。
「次は何を運びますか?」
アレクが治療所の者に尋ねると、疲れ切った顔の男が帳面を確認した。
「水の入った樽が届く。だが、お前たち二人では運べん。荷車から降ろす者を四人ほど呼んできてくれ」
「分かりました」
「それと、空いた酒瓶は捨てるな。洗って返す」
「薬を入れてきた箱もですか?」
「壊れていないものは全部だ。箱一つ、瓶一本でも金が掛かっている」
戦が終わっても、物資が勝手に湧いてくるわけではない。
アレクは治療所を出ると、近くで瓦礫を運んでいた兵たちへ声を掛けた。そのうち四人が作業を止め、水樽を運ぶために荷車の方へ向かっていく。
「人使いが荒くなったな」
トーマスが言った。
「頼んだだけです」
「そのうち自然に命令するようになる」
「嫌ですよ。自分で動いた方が気楽です」
「全部自分でできると思っているうちはな」
トーマスの言葉に、アレクは返事をしなかった。
戦場でも同じだった。
一人でできることなど、ほとんどない。策を考えても、実行する兵がいなければ意味はない。命令を伝える者がいて、動く者がいて、それを支える物資があって、ようやく一つの結果になる。
「まだ運ぶものがあるぞ」
「少し休ませてください」
「若いのに情けないな」
「怪我人を酷使している人に言われたくありません」
トーマスが笑い、アレクもつられて笑った。
その笑い声が、城内の広場へ出たところで止まった。
広場の端に、何枚もの木板が並べられていた。
その上には、人の形をしたものが横たえられている。一人ずつ布が掛けられ、胸元には名前を書いた小さな木札が置かれていた。
城外へ運び出されるのを待つ戦死者だった。
昨日までに身元を確認できた者は、家族や出身地へ返す準備が進められている。故郷が遠い者や、遺体の傷みが激しい者は、この近くで葬られると聞いていた。
百三十七人。
アルベルト軍とヴァイスブルク守備隊を合わせた戦死者の数だった。
報告された時は、一つの数字にしか見えなかった。
しかし、その数字の中には、一人ずつ名前がある。家族がいて、友人がいて、戦が終われば帰るはずだった場所があった。
アレクが直接言葉を交わした者もいるかもしれない。
戦場では、生き残るために剣を振った。敵を倒さなければ自分や隣の者が死ぬ。それを迷っている余裕はなかった。
勝利を後悔しているわけではない。
ベルン軍を退けなければ、ここに並ぶ人数はさらに増えていた。城が落ちれば、兵だけでなく城下の民も殺されていたかもしれない。
それでも、勝ったという言葉だけで、目の前の死者が消えるわけではなかった。
「行くぞ」
トーマスが静かに言った。
「はい」
二人は木板の前で短く頭を下げ、再び歩き始めた。
◇ ◇ ◇
同じ頃、ヴァイスブルク城館の一室では、戦後処理のための会議が続いていた。
長机の上には、各部隊と城内から集められた報告書が積まれている。
アルベルトは上座に座り、ヴァイス男爵が読み上げる数字を聞いていた。ゲオルクをはじめ、軍の指揮官、城の役人、書記官も同席している。
「アルベルト軍とヴァイスブルク守備隊を合わせ、戦死者は百三十七人。重傷者は八十人を超え、軽傷者は二百人以上です」
「重傷者のうち、移送できる者は」
「現時点では半数ほどです。残りは傷の状態を見ながら判断します」
「無理に動かすな。必要な間は城内で治療を続けろ」
「承知しました」
「家族へ知らせる書状は」
「身元を確認できた者から作成しております。読み書きのできない家族へは、村の司祭か役人を通じて伝えます」
アルベルトは頷いた。
「遺族への補償は、いつから渡せる」
「兵の所属と家族を確認した後になります。すでに名簿との照合を始めていますが、徴集兵の中には記載の不十分な者もおります」
「急がせろ。ただし、間違った家へ渡すな」
「はい」
ヴァイス男爵は次の報告書を取った。
「民の死者は十三人。負傷者は二十七人です。火災で家を失った者もおります」
アルベルトの指が止まった。
「死んだ者の名前は」
「すべて記録しております」
「後で見せろ」
「承知しました」
「遺族には兵の家族と同じように補償を出す。負傷者の治療費もこちらで持て」
同席していた文官の一人が、困ったように帳面へ目を落とした。
「アルベルト様、民への補償まで同じ額にすれば、かなりの出費になります」
「分かっている」
「西門と城壁の修復にも金が必要です。兵への恩賞、武器の補充、死亡した馬の代わりも用意しなければなりません」
「それも分かっている」
「でしたら、民には住居の修繕費だけを出し、死者への補償は別に定めてはいかがでしょう」
「十三人だ」
「はい?」
「金を惜しんでいるうちに増えるような人数ではない。十三人分だ」
アルベルトは文官ではなく、机の上の報告書を見ていた。
「戦は兵だけでするものではない。籠城中、食料と水を運んだのは誰だ」
「城の者と民です」
「崩れた場所へ土嚢を積んだのは」
「守備兵と、集められた人夫です」
「矢を運び、負傷者の手当てを手伝い、火災を消した者もいる。その者たちが、自分たちは兵ではないから見捨てられたと思えば、次の戦で誰が我々を信用する」
文官は口を閉じた。
「領主が守るべき者に、兵か民かの違いはない。払え」
「……承知しました」
「足りない分は、他の支出を見直せ。何を削るか決めたら持ってこい」
命じるだけで金が増えるわけではない。補償を増やせば、別の何かを減らさなければならない。
アルベルトも、そのことは理解していた。
それでも、最初に削るものを、死者へ支払う金にはしなかった。
「捕虜は百十二人です」
ヴァイス男爵が報告を続けた。
「そのうち四十三人が治療を必要としています」
「味方と同じように治療しているか」
「はい。ただし、薬草と包帯の不足が続いております」
「周辺から買い集めろ。値をつり上げる商人がいれば名前を控えておけ」
「処罰しますか?」
「今は買う。戦が終わったからといって、商人が安く売る義務はない」
「では、なぜ名前を」
「次にこちらが商人を選ぶ時の参考にする」
ヴァイス男爵がわずかに笑った。
「承知しました」
「捕虜は身代金と引き換えに返す。ベルン伯爵へ書状を出せ」
「全員ですか?」
「こちらへ寝返りたい者がいないかは調べろ。故郷へ戻りたい者は返す」
「身代金はどの程度にしますか」
「騎士と指揮官からは相応に取れ。下級兵は安くしろ」
「徴集された農民兵もおります」
「その家族から金を絞り取っても、我々への恨みが増えるだけだ。それより、ベルン伯爵に払わせろ」
「伯爵が拒んだ場合は」
「捕虜を養う費用を加えて、もう一度請求しろ」
「少しずつ高くなるわけですか」
「戦を仕掛けた後始末だ。払ってもらう」
城壁の修復、死傷者への補償、武器の補充、兵糧の購入、捕虜の維持。
勝った側にも、金は必要だった。
ヴァイス男爵は次の書類を開いた。
「続いて、戦功の確認です」
アルベルトの前へ、新たな報告書が置かれた。
「各部隊から推薦された者の名をまとめました。ただ、一人だけ、所属の扱いが難しい者がおります」
「アレクか」
「はい」
ゲオルクが口を開いた。
「北方の戦いでは私の指揮下におりましたが、正式な兵ではありません。今回もアルベルト様の同行者という扱いです」
「だから褒美を与えないとでも言うつもりか」
「いいえ。むしろ、その逆です」
ゲオルクは戦功報告書を一枚取った。
「夜襲への備え、城内の第二防衛線、北方での偽装、迎撃戦での騎兵運用。すべてをあの少年一人の功績にすることはできませんが、あの少年がいなければ生まれなかった策がいくつもあります」
「分かっている」
「兵士として敵と戦い、負傷もしております」
「それも聞いた」
アルベルトは報告書を受け取った。
「では、功績に見合う褒美を与える。所属がないからといって、働きまでなくなるわけではない」
ヴァイス男爵が帳面を開く。
「金だけにしますか」
「銀貨百枚。馬を一頭。それと剣を一振り」
「かなり厚い褒美になります」
「十五歳の少年が、次も同じ働きをすることを期待するなら安いものだ」
「次も戦場へ連れていくおつもりですか」
アルベルトがヴァイス男爵を見た。
「本人が来ると言えばな」
「断れば?」
「その時に考える」
ヴァイス男爵は苦笑しながら、帳面へ褒美の内容を書き込んだ。
◇ ◇ ◇
午後になり、アレクはトーマスとともに空になった木箱を倉へ戻していた。
治療所から回収した瓶は洗浄へ回され、破れた布も、まだ使える部分を切り取って再利用される。戦場では使い捨てに見えたものも、戦後には一つずつ数え直されていた。
「アレク・ハルトマン」
背後から名前を呼ばれ、アレクは木箱を抱えたまま振り返った。
アルベルトの側にいた騎士の一人が立っている。
「はい」
「アルベルト様がお呼びだ」
「俺をですか?」
「他にアレク・ハルトマンがいるのか」
「いませんけど……何の用でしょう」
「行けば分かる」
その答えを聞いた途端、アレクの胸に嫌な予感が広がった。
前世でも、理由を告げられないまま上司から呼ばれる時は、たいてい良い話ではなかった。何か失敗したか、面倒な仕事を押しつけられるか、その両方だった。
「アルベルト様は怒っていましたか?」
「知らん」
「機嫌は」
「自分で確かめろ」
「少しくらい教えてくれてもいいでしょう」
「早く来い」
騎士はそれだけ言うと、先に歩き出した。
アレクが木箱を下ろすと、トーマスが不審そうな顔を向けてくる。
「何かしたのか?」
「していません」
「すぐに答えたな」
「たぶん、していません」
「急に怪しくなったぞ」
「戦場ではいろいろありすぎたんです。どれを怒られるのか分かりません」
「心当たりが多いなら、諦めろ」
「助けてくれないんですか?」
「大公に呼ばれた人間を、俺がどう助ける」
「薄情ですね」
「生きて戻ったら話くらいは聞いてやる」
「処刑されるみたいに言わないでください」
トーマスが笑った。
アレクは包帯の巻かれた肩を一度動かし、騎士の後を追った。
案内されたのは、城館の会議室だった。
扉の前には二人の兵が立っている。騎士が到着を告げると、中からアルベルトの声が返ってきた。
「入れ」
「失礼します」
扉を開けたアレクは、室内にいる人数を見て足を止めそうになった。
正面にはアルベルトが座り、その左右にヴァイス男爵とゲオルクがいる。壁際には騎士と文官が並び、机の端では書記官が筆を持って待っていた。
「随分と緊張した顔をしているな」
アルベルトが言った。
「これだけ人がいるとは聞いていませんでした」
「聞いていれば来なかったのか」
「来ますけど、心の準備はしました」
「それなら今しろ。前へ来い」
「はい」
集まった視線を感じながら、アレクは机の前まで歩いた。
アルベルトの手元には、一枚の報告書が置かれている。
「アレク・ハルトマン。ヴァイスブルクを巡る一連の戦いにおける、お前の働きについて確認する」
アレクはようやく、自分が叱られるために呼ばれたのではないと気づいた。
「最初に、ベルン軍の夜襲を予測し、城内へ知らせる必要があると進言した」
「はい」
「敵が城壁を奪った場合に備え、内側へ第二の防衛線を築くことを提案した」
「はい。ただ、それを形にしたのはヴァイス男爵と守備隊です」
ヴァイス男爵が小さく頷いた。
「北方では、敵の援軍が来るように見せかけ、こちらより数の多い部隊を退かせた」
「策を実行したのはゲオルク様と兵士たちです」
「分かっている。続けるぞ」
「はい」
「ヴァイスブルクへ戻った後は、敵の布陣を崩すため、騎兵を左右へ分ける策を提案した。弓兵が射るための間を作り、その後の攻撃を助けた」
「騎兵と弓兵が予定どおりに動いてくれたからです」
「それも分かっている」
アルベルトは報告書から顔を上げた。
「そして、お前自身も戦列へ加わった。味方を守るために敵兵と戦い、負傷した」
右肩の傷が、存在を主張するように痛んだ。
「命令に従っただけです」
「命令に従い、役目を果たした。それを功績という」
「ですが、俺一人で勝ったわけではありません」
「当然だ」
アルベルトは即座に答えた。
「戦は一人でするものではない。お前が策を出し、ゲオルクやヴァイス男爵が形を整え、兵が命を懸けて実行した。どれか一つが欠けても、同じ結果にはならなかっただろう」
アルベルトの視線が、室内にいる者たちへ向けられる。
「だから、働いた者にはそれぞれ報いる。お前も、その中の一人だ」
アレクは姿勢を正した。
「アレク・ハルトマン」
「はい」
「今回の戦功により、お前へ銀貨百枚を与える」
予想していなかった額だった。
この世界へ来てから、アレクが自分のものとして持った金はわずかしかない。日々の食事や寝床は誰かに与えられ、武器や衣服も借り物か支給品だった。
「さらに馬を一頭」
「馬までですか?」
「不満か」
「逆です。俺に世話ができるか心配で」
「世話の仕方も覚えろ」
「はい」
「剣を一振り。今使っているものは返さなくていいが、傷みが激しい。受け取る剣を今後の佩剣にしろ」
「分かりました」
与えられる剣は、特別な力を宿したものではない。豪華な宝石が飾られているわけでもなく、名のある鍛冶師が作った名剣でもなかった。
それでも、戦功を認められた者へ正式に与えられる剣だった。
アレクにとって、自分の働きによって得た初めての武器になる。
「以上だ」
「ありがとうございます」
アレクは深く頭を下げた。
顔を上げると、アルベルトが少し意外そうな表情をしていた。
「何ですか?」
「お前なら、もう少し何か欲しがると思っていた」
「これ以上ですか?」
「土地が欲しい、地位が欲しい、騎士にしろと言い出すかと」
「そんなことを言っても、もらえないでしょう」
「分かっているではないか」
「一応は」
室内に小さな笑いが起きた。
「銀貨百枚がどれほどの額かは分かっているのか?」
ゲオルクに尋ねられ、アレクは言葉に詰まった。
「正直に言うと、よく分かっていません」
「倹約すれば、一人で一年暮らしても余る」
「そんなにですか?」
「馬を飼えば、餌代と世話にかなり消えるがな」
「急に少なく思えてきました」
「馬を売れば金にはなる」
「せっかく頂いた馬をすぐに売るほど恩知らずではありません」
「なら、大切に扱え」
「はい」
アルベルトが椅子の背にもたれた。
「爵位や騎士の身分は、戦で一度働いたからといって簡単に与えられるものではない。家柄、土地、収入、他の貴族との関係まで考えなければならん」
「分かっています」
「だが、家柄がないから功績まで認めないということもない。今回は、今のお前に渡せる形で報いた」
「ありがとうございます、アルベルト様」
「受け取った後に浪費するなよ」
「何に使えばいいでしょう」
「それを考えるところから、お前の仕事だ」
「そこまで面倒を見てはくれないんですね」
「銀貨を渡した上で使い道まで考えてやるほど暇ではない」
アルベルトの言葉に、再び笑いが起きた。
最初にこの世界へ来た時、アレクは何も持っていなかった。
自分が誰であるのかを証明するものもなければ、頼れる家族もいなかった。この世界で使える金も、帰る家も、進むべき道もなかった。
今は違う。
自分の働きによって得た銀貨がある。乗ることを許された馬がいる。戦功の証として与えられる剣がある。
そして、自分の名と働きを知っている者たちがいる。
それを居場所と呼んでよいのか、アレクにはまだ分からなかった。
だが、少なくとも、この世界へ来た直後のように、何もないわけではない。
「下がってよい」
「はい」
アレクはもう一度頭を下げ、出口へ向かった。
扉の前まで歩き、取っ手へ手を伸ばす。
そこで足が止まった。
今ここを出れば、銀貨と馬と剣を受け取り、戦が終わるまでアルベルトのそばにいた少年として、この城を去ることもできる。
金があれば、しばらくは暮らせる。馬があれば、遠くへも行ける。剣があれば、少なくとも丸腰ではない。
危険を避けて静かに暮らしたいのなら、その方が正しいのかもしれない。
「どうした、アレク」
アルベルトの声が背中へ届いた。
アレクは扉から手を離し、振り返った。
「以前、アルベルト様は、俺に自分のもとで働かないかと尋ねましたよね」
「ああ」
「あの時、俺は断りました」
「よく覚えている」
「忘れていなかったんですか?」
「一度断られたことを、そう簡単に忘れると思うか」
「大公なのに、意外と根に持つんですね」
「大公だからといって、何でも笑って許すわけではない」
アルベルトの口元には笑みがあった。
アレクが最初に誘いを断ったのは、当然だった。
アルベルトが何者なのか、ほとんど知らなかった。身分を隠して村へ現れた変わった男に、突然仕えろと言われても決められるはずがない。
何よりアレクは、この世界で目立ちたくなかった。
争いに巻き込まれず、安全な場所で静かに生きる。前世では突然命を失ったのだから、今度こそ穏やかに暮らしたかった。
だが、実際には戦へ巻き込まれた。
剣を持ち、人を斬り、何度も死にかけた。
その中で、アルベルトという人物を見てきた。
無茶な命令を出し、自分も危険な場所へ進む。身分の低い者の意見でも、役に立つと思えば採用する。勝つためには敵を欺くが、勝った後まで敵を無意味に苦しめようとはしない。
兵士の損害を数え、民の死者の名前を確かめる。
すべてを救える人ではない。
判断を誤ることもあれば、救えなかった者もいる。アレク自身、アルベルトの判断によって戦場へ立たされた。
それでも、命令を出した結果から目を背けない人だった。
この男の近くにいれば、再び危険な場所へ行くことになる。
その可能性は高い。むしろ、安全からは遠ざかるかもしれない。
それでも、このまま別れることを想像すると、胸に引っかかるものが残った。
「アルベルト様」
「何だ」
「俺を、あなたの家臣にしてください」
室内から笑いが消えた。
アルベルトはすぐには答えず、アレクの顔を見つめていた。
「嫌だと言ったら?」
「困ります」
「なぜだ」
「今、かなり勇気を出して言ったので」
「それはお前の事情だ」
「一度断ったことは謝ります」
「謝る必要はない。あの時のお前が私を信用できなかったのは当然だ」
「では」
「まだ答えていない」
アルベルトの声から、からかうような調子が消えた。
「なぜ、私に仕えたい」
アレクは答えを探した。
忠誠という言葉を使うのは簡単だった。
命を懸けて仕えると誓えば、この場にいる者たちにも聞こえはよい。
だが、今のアレクにそこまでの覚悟はない。
アルベルトのためなら死んでもよいなどとは思えなかった。死にたくないという気持ちは、この世界へ来た時から変わっていない。
「出世したいからか?」
「できるなら、したいです」
「金が欲しい?」
「欲しいです」
「安全な暮らしは」
「できれば、それも」
「私のもとにいれば、安全から遠ざかるかもしれんぞ」
「それは、今回の戦でよく分かりました」
室内の何人かが笑った。
アルベルトは笑わなかった。
「それでも私を選ぶ理由を聞いている」
アレクは一度息を吸い、アルベルトを見た。
「戦の前、俺は強い軍があれば勝てると思っていました」
「違ったか」
「兵が多くても、食料がなければ動けません。命令が届かなければ、別々に動いてしまいます。城壁を守る兵がいても、後ろで矢や水を運ぶ人がいなければ戦えません」
戦場で見たことを、アレクは一つずつ言葉にした。
「戦に勝った後も、終わりではありませんでした。負傷者を治して、死んだ人の家族へ知らせて、壊れた門を直して、捕虜を食べさせなければならない。俺は、そういうことをほとんど知りません」
「それを学びたいのか」
「はい」
「なぜ私のもとで」
「アルベルト様が、そういうものを見ているからです」
アルベルトが目を細めた。
「兵だけではなく、食料や道を見ています。死者の数だけではなく、その人の名前を確かめています。俺が考えたことも、役に立つと思えば使いました」
「失敗すれば捨てるぞ」
「それでいいです」
「自分の策が退けられてもか」
「理由を教えてもらえるなら」
「教えない時もある」
「その時は自分で考えます」
答えながら、アレクは自分が何を望んでいるのか、少しずつ理解していった。
アルベルトを英雄だと思っているわけではない。
完成された名君だと信じているわけでもない。
だからこそ、その近くで見たいのだ。
この男が何を選び、何を失い、どこへ向かうのか。
その過程で、自分に何ができるのかを知りたい。
「俺は、まだこの世界のことをほとんど知りません」
転生したことを口にするわけにはいかない。
アレクは、自分がこの国の外から来た流れ者であるという意味に聞こえるよう、言葉を選んだ。
「土地のことも、国のことも、領主の仕事も分かりません。剣を振る以外に、戦を止める方法があるのかも知りたいです」
「私なら教えられると思うのか」
「教えてくれるとは思っていません」
「ほう」
「見て覚えろと言いそうです」
アルベルトの口元に笑みが戻った。
「少しは私を理解したらしいな」
「なので、近くで見せてください」
アレクは頭を下げた。
「あなたが何をするのか。そのために何が必要なのか。俺に何ができるのか。それを学ばせてください」
しばらく、誰も言葉を発しなかった。
「顔を上げろ」
アルベルトに言われ、アレクは姿勢を戻した。
「いいだろう」
「本当ですか?」
「ああ。お前を私の家臣として迎える」
「ありがとうございます」
「ただし、騎士にはしない」
「分かっています」
「思ったより素直だな」
「先ほど説明されたばかりですから」
家柄も後ろ盾もなく、正式な軍歴すらない十五歳の少年を、すぐに騎士へ取り立てることはできない。
アレクにも、それくらいは理解できていた。
「兵士ですか?」
「それも違う」
「では、何をすればいいのでしょう」
「小姓になれ」
アレクはすぐに返事ができなかった。
「小姓、ですか」
「ああ」
前世の日本にも、小姓と呼ばれる役目があった。
主君の身辺に仕え、使者や雑務をこなし、時には戦場へ同行する。若いうちから主君のそばで働き、将来必要になる知識や人脈を得る立場でもあった。
だが、この世界の小姓が同じ役目とは限らない。
「具体的には、何をするのでしょう」
「私の身の回りの手伝い。書状の運搬。来客の取り次ぎ。必要なら戦場にも同行する」
「やはり戦場にも行くんですね」
「嫌なら、後ろで荷物を守れ」
「それも攻撃されそうです」
「戦ではどこにいても絶対に安全とは限らん」
「聞かなければよかった」
アルベルトは構わず続けた。
「それから、執務と軍議にも立ち会わせる」
周囲にいた者たちが、わずかに反応した。
小姓が主君の近くにいること自体は珍しくない。しかし、素性の分からない少年を軍議にまで立ち会わせるとなれば、話は別だった。
ヴァイス男爵がアルベルトを見る。
「最初から、そこまでお任せになるのですか」
「意見を決めさせるわけではない。見せて、学ばせる」
「機密に触れることもあります」
「だから近くへ置く」
アルベルトはアレクへ視線を戻した。
「外で勝手に動かれるより、私の目が届く場所にいた方がいい」
「信用されているのか、疑われているのか分かりません」
「両方だ」
「普通は本人の前でもう少し言葉を選びませんか?」
「お前には、この方が分かりやすいだろう」
否定できなかった。
「剣を振れる者なら、私の周りにはすでにいる」
アルベルトはゲオルクたちへ目を向けた。
「お前より強い者も、兵を率いる経験がある者もいる。私がお前に期待しているのは、そこだけではない」
「俺の考えですか」
「他の者が見落とすものに気づき、それを言葉にする力だ。だが、今のお前には、それを実行するための知識も立場もない」
「はい」
「兵が何人いるのか。どれだけの食料が必要なのか。金をどこから集め、誰に命令し、どの領主を説得するのか。それを知らずに策だけを出しても、夢物語で終わる」
前世の知識があれば、何でもできるわけではない。
アレク自身、すでに何度も思い知らされていた。
道具を知っていても、それを作れる職人がいるとは限らない。制度を知っていても、そのまま別の社会へ持ち込めるとは限らない。優れた作戦を思いついても、兵が命令どおりに動けなければ失敗する。
「私の近くで、それを学べ」
アルベルトは言った。
「考えるだけではなく、考えたものを人に動かさせる方法を覚えろ」
「分かりました」
「返事だけなら誰でもできる」
「やってみます」
「その答えならよい」
アルベルトが椅子から立ち上がり、アレクの前へ手を差し出した。
最初に会った時、アレクはその手を取らなかった。
相手が何者なのか分からず、何を求められるのかも知らなかった。拒むことは、自分を守るために必要な判断だった。
今は違う。
この手を取れば、危険が増えるかもしれない。
だが、それも理解した上で、アレクは自分の意思で選んだ。
「よろしく頼む、アレク」
「はい。よろしくお願いします、アルベルト様」
差し出された手を、アレクはしっかりと握った。
◇ ◇ ◇
会議室を出ると、廊下の壁にトーマスが寄りかかっていた。
「何をしているんですか?」
「生きて出てくるか確かめに来た」
「処刑されませんでしたよ」
「そのようだな」
「それどころか、アルベルト様の家臣になりました」
「……本当か?」
トーマスの顔から笑みが消えた。
「はい。小姓として仕えることになりました」
「お前から頼んだのか」
「そうです」
トーマスはしばらくアレクを見た後、大きく息を吐いた。
「変わったな」
「何がです?」
「最初に会った頃のお前なら、絶対に断っていた」
「一度は断りました」
「それでも、今度は自分から頼んだんだろう」
「はい」
「なら、俺が口を出すことじゃない」
そう言ったトーマスは、アレクの肩を叩こうとして、包帯に気づいて手を止めた。
「出世したな」
「小姓ですよ」
「大公の小姓だ。そこらの領主に仕えるのとは違う」
「そんなに大きな違いがありますか?」
「アルベルト様のすぐ近くで働けば、騎士、貴族、役人、商人、他国の使者に顔を覚えられる」
「仕事で失敗したら、それも覚えられますね」
「そうだな。恥をかくなら大勢の前だ」
「嫌なことを教えないでください」
トーマスが笑った。
「偉くなっても、俺のことを忘れるなよ」
「もう忘れかけています」
「今ここにいるだろう」
「冗談ですよ」
「お前も言うようになったな」
二人は並んで廊下を歩いた。
「ところで、仕事はいつからです?」
「俺に聞くな」
「明日からでしょうか」
「アルベルト様なら、今日からと言いそうだ」
「まさか」
その時、背後から声が飛んできた。
「アレク」
二人が振り返ると、会議室の扉の前にアルベルトが立っていた。
「何でしょう」
「明日、日の出前に私の執務室へ来い」
「明日からでした」
トーマスが笑いをこらえる。
「日の出前ですか?」
「ああ」
「随分と早いですね」
「私より遅く来る小姓がいるか」
「日が昇っていないのに、遅いも早いもないでしょう」
「遅れるなよ」
アルベルトはそれだけ言うと、会議室へ戻っていった。
「大変そうだな」
「他人事みたいに言わないでください」
「他人事だからな」
トーマスは楽しそうに笑っていた。
◇ ◇ ◇
翌朝、アレクが城館の執務室へ到着した時、空はまだ薄暗かった。
窓の外には朝靄が残り、城内で働き始めている者も少ない。
それでもアルベルトはすでに着替えを済ませ、机に向かっていた。
「遅い」
部屋へ入ったアレクへ、最初に投げかけられた言葉がそれだった。
「約束どおり、日の出前に来ました」
「私より遅い」
「アルベルト様は、いつから起きているんですか?」
「鐘が鳴る前だ」
「それを基準にされたら、俺は毎朝遅刻になります」
「なら、明日はもっと早く来い」
「小姓になると決めた昨日の自分を、少し殴りたいです」
「後悔するには早いぞ」
アルベルトは机の横に積まれていた書類の束を持ち上げた。
戦死者と負傷者の記録。武器の損耗。兵糧の残量。城壁と門の修復費。捕虜の名簿。遺族への補償。馬と荷車の状態。
それらが一つにまとめられ、かなりの厚さになっている。
「これを読め」
差し出された束を受け取ったアレクの腕に、ずっしりとした重さが掛かった。
「全部ですか?」
「全部だ」
「読んで、どうするんです?」
「要点をまとめろ」
「俺が?」
「他に誰がいる」
「小姓の最初の仕事が、戦後報告の整理なんですか?」
「不満か」
「もう少し簡単な仕事から始まると思っていました。水を持ってくるとか、手紙を届けるとか」
「それもやらせる」
「これに加えて?」
「当然だ」
アレクは書類の束とアルベルトを見比べた。
「いつまでにまとめればいいでしょう」
「昼までだ」
「無理です」
「まだ読んでもいないのに、なぜ分かる」
「厚さを見れば分かります」
「なら、文句を言っている時間が惜しいな」
「誰のせいで文句を言っていると思っているんですか」
アルベルトは答えず、自分の書類へ視線を戻した。
アレクは諦めて、部屋の隅に置かれた小さな机へ向かった。
最初の一枚を開く。
そこに書かれていたのは、部隊ごとの兵数と死傷者の一覧だった。
次の紙には、破損した槍、弓、鎧、盾の数が記されている。その次は矢の使用数、その次は軍馬の損失、その次は残された兵糧だった。
戦場で見た光景が、数字へ変わって並んでいる。
しかし、数字になったからといって、簡単になったわけではない。
一人の兵が負傷すれば、治療する者が必要になる。槍が折れれば新しい槍を用意しなければならない。馬が死ねば、騎兵だけでなく荷物の輸送にも影響する。
城壁を直すには石と木がいる。それを運ぶ荷車と人夫がいる。人夫に働かせるには賃金と食料が必要になる。
戦に勝つことと、勝った後も軍や領地を維持することは、別の仕事だった。
「アルベルト様」
「何だ」
「この数字、部隊ごとに書き方が違います」
「だからお前がまとめる」
「最初から書き方を揃えさせた方が早くありませんか?」
アルベルトの筆が止まった。
「続けろ」
「同じ内容なのに、ある部隊は負傷者を一つにまとめています。別の部隊は重傷と軽傷に分けています。食料も、袋の数だけ書いてあるものと、何日分かを書いてあるものがあります」
「それで?」
「次から報告する項目と書き方を決めれば、読む方も比べやすくなります」
「誰に教わった」
「昔読んだ本です」
「また本か」
「便利な言葉なので」
「正直に言ったな」
アルベルトは椅子から立ち、アレクの机まで来た。
「では、お前なら何を揃える」
「まず、部隊名と報告した人の名前。それから、戦うことができる兵、重傷者、軽傷者、戦死者を分けます。武器も、使えるもの、修理できるもの、捨てるしかないものを分けた方がいいです」
「兵糧は」
「何がどれだけあるかと、今の人数なら何日持つか。その両方です」
「馬は」
「動ける馬、休ませれば戻る馬、戻らない馬。それに餌の残り」
「他には」
アレクは目の前の書類を見た。
「今は、それ以上分かりません」
「十分だ」
アルベルトは元の机へ戻り、白紙を一枚取った。
「まとめ方の見本を作れ。使えるようなら、次から各部隊に同じ形で出させる」
「俺が決めていいんですか?」
「決めるのは私だ。お前は案を作る」
「なるほど」
「もう一つ覚えておけ」
「はい」
「良い案を出すことと、それを命令できることは違う」
アレクは筆を取った。
戦場でも、アルベルトは同じことをしていた。
アレクの提案を聞き、そのまま使うのではなく、実際に兵を動かせる形へ変えて命じた。
考える者がいて、決める者がいて、実行する者がいる。
その違いを知らなければ、人は動かせない。
「剣だけを振れる者なら、俺の周りにはすでにいる」
書類へ目を戻しながら、アルベルトが言った。
「俺が使いたいのは、お前の頭だ」
「便利に使われそうですね」
「そのために家臣へ迎えた」
「少しは隠してください」
「嫌なら役に立たないふりをしろ」
「それでは、ここに来た意味がありません」
「分かっているではないか」
アレクは苦笑し、白紙の上に必要な項目を書き始めた。
兵、武器、馬、食料、城、金、捕虜、そして民。
戦場では別々に見えていたものが、報告書の中では互いにつながっている。
そのすべてを理解するには、まだ知らないことが多すぎた。
だからこそ、学ぶ価値がある。
アルベルトの小姓として過ごす最初の一日は、剣を握ることからではなく、一本の筆と山のような書類から始まった。
第十一話を読んでいただき、ありがとうございました。
戦功への恩賞を受けたアレクは、誰かに求められたからではなく、自らの意思でアルベルトへ仕えることを決めました。
アルベルトがアレクを小姓として近くへ置いたのは、その剣だけでなく、物事を見る視点と考える力を育てるためでもあります。
次回、アレクはアルベルトのそばで政務に触れ、知識を現実の中で生かすことの難しさを学んでいきます。
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