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『知らない世界で、前世の知識が武器になる』 ~剣と銃で乱世を生き抜く転生領主の成り上がり~  作者: 相田 ソウ
第六篇 乱世を動かす火

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第二十一話 向かい合う旗

取り戻した街道を通じ、レオンハルトのもとへ諸侯の兵と物資が集まります。

しかし、敵陣にはまだ、彼らが送り出した兵が残っていました。両軍が向かい合う野で、帰還を命じる声が響きます。

 昨日まで敵の兵を養っていた荷が、今朝はレオンハルトの陣へ運び込まれていた。

 穀物を積んだ荷車の脇で、ロベルトが御者の差し出した書状を受け取った。荷を調べる兵へ目を向け、数が合ったと知らされると、受領の印を押すよう書記へ命じる。

「帰りは西の道を使え。北東へは出るな」

「承知しました」

 御者は書状を受け取ると、ようやく肩の力を抜いた。

 アレクは荷台に縫い付けられた印を見た。取り戻した荷置き場で、同じ印の袋を見ている。

「行き先が変わりましたね」

「主人の立つ側が変わったからな」

 ロベルトは答え、次の荷車へ手を上げた。

「向こうへ送るはずだった分も、こちらへ回すそうだ。兵だけでなく、食わせる物まで引き上げられては、イグナーツも困るだろう」

 街道を取り戻したことで、諸侯はレオンハルトへ使者を送れるようになった。兵を預けたまま盟約から離れることを恐れていた者たちが、今は荷と兵を伴って陣へ来ている。

 ただし、その顔に安堵はなかった。

 自分は黒獅子の陣へ入れても、送り出した兵はまだ敵側にいる。荷車の向きを変えるようには、帰ってこられない。

 天幕の前では、一人の領主が立っていた。

 連れてきた兵は十二人だった。鎧の形も揃っておらず、若い者もいれば、白いものの混じる髭を蓄えた者もいる。その中の一人が、自家の旗を包んでいた布を解いていた。

 領主は広がった紋章を見てから、天幕の入口へ向き直った。

 アレクとロベルトが入った時、その男はレオンハルトの前へ進み出たところだった。

「殿下。私を、使者とともに行かせてください」

 机には、各家から届いた帰還命令が並んでいた。

 ユリウスが筆を止める。

「敵陣へ行くというのか」

 レオンハルトが尋ねた。

「預けた百人は、私の顔を知っております。書状を偽物だと言われても、私が命じれば」

「お前まで捕らえられれば、兵は誰のもとへ帰る」

 領主は口を閉じた。

 レオンハルトは、机に置かれた書状を指で押さえた。

「イグナーツは兵を返していない。帰れという命令を取り上げる者の前へ、命じた本人を差し出すつもりか」

「ですが、待っているだけでは」

「待つのではない。旗の下に立て。お前の兵が見つけられる場所に」

 領主の目が、書状へ落ちた。

 その紙には、預けた兵を帰還させるよう命じる言葉が記されている。しかし、兵を盟約の軍へ送るよう命じたのも、この男だった。

「私の命令で、出した者たちです」

「ああ」

「領地を守るためだと申しました。周囲の家が兵を出す中で、我が家だけが従わねば、何をされるか分からぬと」

 領主は一度息を吸った。

「今になって戻れと言えば、兵は私をどう思うでしょう」

 誰もすぐには答えなかった。

 天幕の外では、荷を下ろす声がしていた。槍の石突きが地面を打ち、見張りを交代する兵の足音が通り過ぎていく。

 マティアスが、領主の書状へ目を向けた。

「兵に、命令に従った責任まで負わせるおつもりですか」

「そのようなつもりはありません」

「なら、それも伝えてはいかがでしょう。戻れという言葉だけでなく、戻った後にどう扱うのかを」

 領主は顔を上げた。

 ユリウスが新しい紙を引き寄せる。その動きを見て、男は机へ近づいた。

「盟約の軍へ兵を出したのは、私の命令です」

 ユリウスの筆が動いた。

「その命令を取り消します。我が旗のもとへ戻るように。命に従い従軍したことをもって、罰することはないと」

「従軍したことと、その先で何をしたかは分ける」

 レオンハルトが言った。

「民を殺し、焼いた者まで、知らぬまま許すことはできん」

「承知しております」

 領主は頷いた。

「帰ってきた者から、聞きます。私の名で出た兵が、どこで何を命じられたかも」

 ユリウスは書き終えると、紙を領主へ向けた。

 男は一行ずつ目を通した。印を取り出す手は、先ほどよりも落ち着いていた。

 蝋へ押し当てた印を持ち上げる。

 その脇で待っていた家臣が、紙を受け取ろうとした。

「私も、旗の下へ立つ」

 領主は家臣へ言った。

「兵が戻った時に、ほかの者へ任せたままにはしない」

「はい」

 家臣が頭を下げる。

 アレクは、その男の腰の剣を見た。柄に巻かれた革は擦れている。十二人を揃えるため、城に残していた者まで選び直したのだろう。

 レオンハルトは、集まっていたほかの諸侯へ目を向けた。

「戻った兵は、まずそれぞれの主へ返す。ここへ来たからといって、俺の兵に取り上げることはせん」

 一人の男が、握っていた手を緩めた。

「ただし、勝手に戦列へ入れるな。負傷した者を休ませ、名と所属を確かめろ。敵から離れたばかりの兵へ、すぐ隣の隊と戦えとも命じるな」

「殿下のお指図に従います」

「自分の兵だ。迎える者を出せ」

 領主たちが頷いた。

 帰る場所を用意するのはレオンハルトだけではない。兵を出した家もまた、旗の向こうへ姿を見せなければならなかった。

 天幕を出ると、先ほどの旗手が竿を立てていた。

 領主はその紋章を見上げた後、家臣へ声をかけた。

「向こうから、見えるだろうか」

「見せます」

 旗手は答え、竿を握り直した。

「弟も、あちらにおりますので」

 領主の顔が動いた。

「そうだったな」

「はい。殿がここにおられると分かれば、あの者も、隊長も迷わずに済みます」

 男は風を受けた旗の端を見た。

「兵がこちらを見たら、手を振ってやってください」

 領主はしばらく家臣の顔を見ていたが、やがて頷いた。

「分かった」

 その声を聞きながら、アレクは天幕へ戻った。

 帰還命令を敵へ届けるだけでは終わらない。

 向こうから歩いてくる兵を、ここまで通さなければならなかった。

 ◇ ◇ ◇

 昼までに、西からの伝令が戻った。

 リートベルク方面に残っていた敵約六百人は宿営地を引き払い、先に北東へ動いた軍を追っているという。道と周辺を調べた見張りからも、まとまった伏兵は見つかっていないとの報告が届いていた。

 カスパルは地図の上で二つの道を指した。

「向こうはイグナーツ本隊への合流を急いでいます。フェルゼン方面からは、その合流を助ける増援が出ています」

「数は」

 レオンハルトが尋ねた。

「リートベルク方面の軍が、残っていた六百も含めて三千ほど。フェルゼンからの軍が千八百ほどです。途中で逃げた兵が加わっているとしても、斥候が見た軍列の中に含まれています」

「合わせて四千八百か」

「およそ、その数です。ただし、イグナーツ本人が率いる本隊は、まだフェルゼン方面に残っています。今見えているのは、そこへ合流する軍です」

「合流させる前に、こちらを向かせる」

 レオンハルトは二つの道へ目を落とした。

「その中にいる兵へ、帰還の命を届けるぞ」

 ユリウスが報告を書き留めた。

 その中に帰還を求める家の兵がいる。しかし、呼びかける前から味方へ戻ったものとして差し引くことはできない。

 命令が届かなければ、向こうの旗に従って槍を向けてくる可能性もあった。

 マティアスは、こちらの兵をまとめた紙を開いた。

「この陣には、諸侯から到着した兵を含めて二千百八十八人。リートベルクから呼び寄せた千人と、新たに合流する諸家の八百十二人で、四千になります」

 リートベルクから来る千人は、騎兵百六十、歩兵七百四十、火槍兵百人だった。城には騎兵四十と歩兵三百五十を残す。エドガー自身の守備兵は、それとは別に城を守る。

 グレンツベルクへ残した二百人も、今回の軍へ加えてはいなかった。

「四千を、そのまま前へは出せません」

 マティアスは続けた。

「荷置き場と西の街道に歩兵二百を残します。決戦へ向かうのは三千八百人です」

 レオンハルトが頷く。

 敵より千人ほど少ない。それでも、城と補給の道を空にして数を揃えようとはしなかった。

「到着した者から休ませろ。後ろから来た兵を、息も整えさせず前へ出すな」

「今夜の宿営場所も分けてあります。朝には動かせます」

 マティアスの返答を聞き、レオンハルトはカスパルへ顔を向けた。

「場所は」

「北東の道が、丘の南へ出るところです」

 カスパルが地図へ指を置いた。

「低い丘の南に畑が広がっています。こちらは西から入り、北東の街道を背にした敵と向かい合えます。東へ深く回ると排水の溝が続きますが、畑の中央には兵を並べられます」

 指が南へ動く。

「帰る兵は、この側へ通せます。南西へ延びる農道を使えば、こちらの後ろへ出せる。道の先に、受け入れに使える空き地もありました」

 アレクは地図を見ながら、兵の動きを頭の中で並べた。

 北の丘を左手に置き、正面は北東へ向ける。帰還兵は右手の南側を通す。火槍隊の前を横切らせず、敵から離れた列を後ろへ送れる位置だった。

「火槍隊は、まとめて置きたいです」

 アレクは言った。

 マティアスがこちらを見る。

「直属の隊も、同じ場所へ置くのだね」

「はい。別々の場所で撃たせるより、一つの指揮で動かせる方が、敵のまとまった攻撃に対応できます。帰還する兵を守る時も、通路の中へ入るのではなく、その外から近づく敵を狙います」

 地図の中央から、南寄りの位置へ指を動かす。

「歩兵の守りの後ろで、中央にも右側にも向ける場所を取ります。ただ、敵が通路へ入り、帰還兵と入り交じってからでは撃てません」

「そこは俺たちが止める」

 ヴィクトルが答えた。

 隣のエイドリアンも、南側の道を見ていた。

「入口を広く取りすぎなければ、両側から守れる。火槍隊が動く場所とは分けておこう」

 マティアスはアレクへ尋ねた。

「班は、どうする」

「三班です。今いる三百四十三人を、百十五、百十四、百十四へ分けます。どの班も同じ射撃位置で交代できるようにします」

 レオンハルトとマティアスの兵を、アレクの私兵へ変える話ではない。それぞれの所属と指揮役を保ったまま、戦場で動く三つの班へ組み直すのだった。

「到着する百人も、ギルベルトと指揮役たちで組み込みます。誰の合図に従うか、今日のうちに揃えておきたいです」

「任せる」

 レオンハルトが言った。

「明日の敵の前で、初めて並びを確かめることのないようにしろ」

「はい」

 マティアスが、ほかの部隊の配置を告げた。

 中央の歩兵は千二百人。ヴィクトルの六百人を帰還通路の北側、エイドリアンの四百人を南側へ置く。ロベルトは二百人とともに、後ろの荷と帰還兵の受け入れを担当する。残る歩兵四百二十四人は、予備として必要な場所へ動かせる位置に残した。

 騎兵六百三十三人のうち、レオンハルトが三百騎を率いる。カスパルは百五十騎で南側を見張り、残る百八十三騎を北側の警戒、伝令、予備へ振り分ける。

 誰かが前へ出れば、その持ち場を空にしてよいわけではなかった。マティアスは隊長たちへ、兵を動かす時は隣へ伝えるよう念を押した。

 レオンハルトは、地図の上の帰還通路を見た。

「諸侯の旗は、兵から見える場所へ出す。だが、旗を見せるために、主君を敵の槍の前へ立たせるな」

「前へ出すのは使者と護衛です」

 ユリウスが答えた。

「国王陛下の命令を伝えた後、各家の帰還命令を読みます。一人で全軍へ叫ぶのではなく、相手の隊の位置を確かめて向かわせます」

 レオンハルトは頷いた。

「聞こえなかった兵まで、従わぬ者として斬るな。だが、こちらへ攻めてくる兵を待ってやる必要はない」

 軍議が終わると、隊長たちはそれぞれの兵のもとへ戻っていった。

 アレクも天幕を出た。西の道には、到着した兵の列が見えていた。

 長い鉄筒を担いだ兵たちが、歩兵に続いて陣へ入ってくる。

 ギルベルトがこちらを見つけ、迎えに出た。

「百人、到着しました」

「休ませてから、指揮役を集めてください。三百四十三人を、一つの火槍隊として動かします」

 ギルベルトは一度、入ってくる兵を振り返った。

「班を組み直すのですね」

「はい。明日は、直属だけを別の場所へ出しません」

 アレクは、こちらを見ていた兵へ頷いた。

 王都で数を並べて報告した時とは違う。ここにいる者の一人ずつが、明日は敵の弓と槍へ向かう。

 まだ到着していない兵を数へ入れることも、負傷して残った兵を都合よく戻すこともできなかった。

 ギルベルトは近くの指揮役を呼び、集まる場所を示した。

 アレクは彼らとともに、射手を並べるための地面へ歩いた。

 ◇ ◇ ◇

 その夜、百人を預かる隊長のもとへ、若い兵が来た。

 一人ではなかった。年嵩の兵が横につき、周囲へ目を配っている。

「どうした」

 隊長が尋ねると、若い兵は握っていた布を懐へ押し込んだ。

「殿が、黒獅子の陣へ行かれたと聞きました」

 声は低かった。

 隊長は二人を荷車の陰へ入れた。道の向こうでは、別の家の兵が火を囲んでいる。その間を、イグナーツの騎士が馬で通っていった。

「誰から聞いた」

「荷を運んできた者が、城で聞いたと」

「その者は」

「もう、戻されました」

 隊長は、近くへ立ててある自家の旗を見た。

 主君からの書状は届いていない。

 だが、届いていないのか、途中で止められたのかも分からなかった。

「兄も、殿と一緒だそうです」

 若い兵が続けた。

 隊長は、その兄を知っていた。城へ残された兵の一人で、この若者を送り出す時には、盾の紐を直してやっていた男だった。

「私は、兄と戦うのでしょうか」

 年嵩の兵が顔を伏せた。

 隊長はすぐには答えられなかった。

 兵を預かった時、主君は領地を戦から守るためだと言った。盟約の軍へ加わり、家の務めを果たせと命じた。

 その主君が向こうへ行ったのなら、ここへ残る理由も変わる。

 しかし、噂だけで百人を動かせば、周囲の隊から槍を向けられる。主君の命令を確かめる前に、自分の判断で兵を死なせることはできなかった。

「明日、旗を見る」

 隊長は言った。

「主があちらにおられるのなら、確かめる。今夜は隊を離れるな」

「はい」

「一人で探しに出れば、お前を迎える者まで捕らえられる」

 若い兵は頷いた。

 隊長は年嵩の兵へ顔を向けた。

「ほかに聞いた者は」

「おります。声にはしておりませんが」

「騒ぎにするな。だが、仲間を疑って縛る必要もない。明日は、負傷して歩みの遅い者を列の中へ入れておけ」

 年嵩の兵の目が動いた。

「帰ることになった時のためですか」

「置いていかぬためだ」

 隊長は答えた。

 二人が去った後、隊長は荷の脇へ置いた兜を取った。

 縁についた古い傷を指でなぞる。百人を預けると言われた日にも、この兜を抱えて主君の前へ立っていた。

 兵を連れて行く役目は果たした。

 帰れという命が出ているのなら、連れて帰ることも、自分の役目だった。

 同じ頃、北東の道では、リートベルク方面から退いてきた軍と、フェルゼン方面からの増援が合流していた。合わせて四千八百ほど。その先で待つイグナーツ本隊へ向かう途中だった。

 この軍の指揮を任された騎士の天幕には、諸侯からの書状が集められていた。イグナーツからは、兵の帰還を認めず、諸家の隊を保ったまま本隊へ連れてくるよう命じられている。

 指揮官は机へ置かれた一通を読み、紙を伏せた。

「兵を返せ、か」

「ほかの家からも、似た申し出が出ております」

 側にいた騎士が答えた。

「黒獅子のもとへ使者を送った家もあるようです」

「送っただけではない。向こうへ荷まで回している」

 指揮官は別の紙を持ち上げた。

 入るはずだった穀物と飼葉の一部が、届いていなかった。街道を押さえていた時には、どちらへ渡すかを商人に選ばせずに済んだ。今は、その道を黒獅子が使っている。

「明日は、帰還を申し出た家の隊を端へ置くな」

「中央へ集めますか」

「ほかの家の間へ入れろ。後ろには直属の兵を置く。勝手に抜ける隙を作らせるな」

 騎士が頷く。

「主君が呼びかけた場合は」

 指揮官は、伏せた書状へ目を落とした。

 諸侯の兵は、イグナーツ個人へ忠誠を誓った者ではない。それぞれの主君から命じられ、ここへ来ていた。

 その主君が命令を取り消せば、剣を向けて留めることになる。

「黒獅子の前で、家ごとに相談を始めさせるな」

 彼は言った。

「黒獅子に追われたままでは、本隊へ着くまでに兵が抜ける。増援を合わせた今なら、こちらの方が多い。まず、追ってくる軍を押し返す」

 騎士が天幕を出ていった。

 指揮官は机の上の旗印を、中央へ寄せた。

 味方の数は、まだ黒獅子より多い。

 だが、その数が明日も同じ命令で動くかどうかは、書状の束が厚くなるたびに怪しくなっていた。

 ◇ ◇ ◇

 夜明け前に出した先行隊は、騎兵百と歩兵五百だった。

 カスパルが確かめた丘の南へ入り、北東の道へ見張りを出す。敵の偵察騎兵が三十騎ほど姿を見せたが、こちらの槍と旗を認めると、接近をやめて引き返した。

 その後から、レオンハルトの本隊が到着した。

 北には低い丘があり、南には刈り跡の残る畑が広がっている。畑を区切る細い道の先で、南西へ向かう農道が曲がっていた。その奥が、帰還兵を迎える空き地だった。

 敵が来るのは北東の街道である。

 レオンハルトの軍は西から入り、その街道へ正面を向けた。丘が左手、帰還通路が右手になる。

 マティアスの歩兵が中央へ並び、盾の間隔を確かめた。ヴィクトルとエイドリアンの兵は南側へ進み、帰還通路の両側を押さえる。ロベルトはさらに後ろで荷車を止め、各家の家臣へ、自分の旗を立てる位置を示していた。

 アレクはギルベルトとともに、中央の歩兵の後ろへ入った。

 三百四十三人の射手が、三つの班に分かれて続いてくる。

 昨夜のうちに指揮役と並びを揃えてあった。兵は所属ごとの列から戦場での班へ移り、自分が前へ出る順序を確かめている。

「一班、百十五人」

「二班、百十四人」

「三班、百十四人」

 指揮役から順に報告が来た。

 アレクは前方を見た。

 盾兵の間には射手を通す場所があり、その後ろには装填して戻るための地面がある。右へ動く場合も、南の帰還通路まで踏み込む必要はなかった。

「荷は、もう少し後ろへお願いします。兵が戻る場所を空けてください」

 ギルベルトが補給の兵へ伝えた。

 一発筒を収めた荷が動き、空いた地面へ射手の指揮役が立つ。赤い布を掲げる兵は、各班の前から見える位置を確かめていた。

 アレクはマティアスの隊長へ歩み寄った。

「使者が出ている間は撃ちません。戻る時に盾の列へ入れる場所を、空けておいてください」

「こちらで受け入れる。射手が前へ出る時は知らせてくれ」

「はい」

 短く答え、アレクは自分の位置へ戻った。

 その後ろでは、レオンハルトの三百騎が馬を落ち着かせていた。正面の歩兵と火槍隊を押し潰さないよう、間を空けている。南へ向かう道も塞いでいなかった。

 レオンハルトは馬上から敵の来る方角を見ていた。

 先に現れたのは、街道の曲がり角から延びる槍の列だった。

 次に旗が見えた。

 一つではない。別々の紋章を掲げた隊が道から畑へ出て、横へ広がっていく。盾を持つ歩兵の後ろには弓兵が続き、騎馬の伝令が隊と隊の間を走っていた。

 カスパルの見張りが戻ってきた。

「後ろの軍も、同じ道を来ています。先頭だけで止まる様子ではありません」

「北は」

 レオンハルトが尋ねた。

「丘の外へ回る騎馬は見ています。今のところ、大きな別働隊はありません」

「見張りを残せ」

 騎手が去ると、レオンハルトはユリウスを呼んだ。

「家の旗を見つけろ。間違った隊へ命令を持たせるな」

 ユリウスは、各家から出された家臣を前へ集めた。

 敵陣の旗を見て、知っている紋章と隊の位置を確かめさせる。

 やがて、十二人を連れてきた領主の家臣が手を上げた。

「あそこです」

 敵中央に近い場所だった。

 自家の旗の両側には、別の家の盾が並んでいる。後ろには騎馬の騎士と、イグナーツの兵と思われる一団がいた。

 家臣の顔が険しくなる。

「囲まれております」

「抜けにくい場所へ置かれたのだろう」

 レオンハルトは答えた。

「それでも、こちらの旗は見える」

 領主が旗手を伴って進み出た。

 ヴィクトルの兵が守る側から、敵陣へ紋章を向ける。風で布が巻きつくと、旗手は竿を傾けて開き直した。

 アレクの位置からも、その旗が見えた。

 射手たちは敵を見ている。旗の持ち主を知らない兵も多い。それでも、そこへ帰ろうとする者がいることは、昨夜の指示で伝えられていた。

 領主は動かなかった。

 前へ出たいのだろう。剣の柄へ触れかけた手を下ろし、旗手の隣で足を止めていた。

 レオンハルトはその横へ馬を寄せた。

「ここで迎えろ」

「はい」

 領主は頷いた。

 その声は、昨日天幕で敵陣へ行かせてほしいと願った時よりも、はっきりしていた。

 ◇ ◇ ◇

 若い兵が旗を見つけた時、最初は目を細めただけだった。

 敵側に、自分の家の紋章がある。

 昨夜まで噂だったものが、畑の向こうで風を受けていた。

「隊長」

 呼びかけた声が、思ったより大きくなった。

 隣の年嵩の兵が、若者の視線を追う。その男も、すぐには何も言わなかった。

 旗の脇に、人が立っていた。

 遠くて表情までは分からない。だが、上着の色と立ち姿には覚えがある。城の庭で兵を送り出した時にも、あのように両手を下ろして立っていた。

「殿だ」

 誰かが言った。

 その声が隣へ伝わる。

 隊長は前へ出て、旗の下を見た。

 主君がいた。

 その隣で旗竿を支えているのは、城に残した若い兵の兄だった。

 隊長は一度、後ろを振り返った。

 イグナーツの騎士がこちらを見ている。周囲の兵の顔ではなく、隊長が何を命じるかを見張っていた。

 まだ、隊長は何も言わなかった。

 敵側の盾の間から、使者が出てきた。

 書状を持つ者と、その家を知る家臣。二十人の盾兵が護衛につき、こちらへ近づいてくる。護衛はヴィクトルの隊から出た兵で、後ろの隊長が戻る場所を空けていた。

「前へ出るな」

 イグナーツの騎士が言った。

 隊長は答えず、使者を見た。

 護衛の盾兵は、こちらの槍がすぐ届くところまでは来なかった。途中で止まり、左右へ盾を開く。

 使者が書状を掲げた。

「グランヴァルト国王陛下の命を伝える!」

 声が届いた。

 近くの兵が顔を上げる。後ろの者へは聞こえにくいのか、列の中で首を伸ばす者もいた。

 使者は、王の命に背いて集められた軍から退き、それぞれの主君のもとへ戻るよう告げた。

 読み終えるまで、誰も動かなかった。

 国王の命令だけで、目の前の騎士の槍が消えるわけではない。主君からここへ来いと命じられた兵にとっては、どちらへ従えばよいのかも、その場では決められなかった。

 続いて、家臣が一歩前へ出た。

 隊長はその男を知っていた。

 城で何年も顔を合わせてきた相手だった。出陣の際には、食糧の数を揃え、足りない革紐を探してきた男である。

「主より、そなたに預けた百人へ帰還を命じる!」

 若い兵が、隊長を見た。

 隊長は家臣から目を離さなかった。

 書状が開かれる。

「盟約の軍へ兵を出したのは、我が命令である。その命令を取り消し、我が旗のもとへ戻るよう命じる!」

 後ろで、鎧の擦れる音がした。

 イグナーツの兵が、こちらへ寄ってきている。

 だが、家臣は読み上げるのをやめなかった。

「命に従い従軍したことをもって、そなたらを罰することはない! 隊を保ち、負傷した者を見捨てず、帰還せよ!」

 隊長の目が、主君へ向いた。

 旗の下で、領主が右手を上げていた。

 兵へ手を振ってやってほしいと旗手に言われた男が、その約束を果たしていた。

 若い兵は唇を噛んだ。

 旗手が竿を高く持ち上げる。風を受けた紋章が開き、その下で兄がこちらを見ていた。

 声が届かなくても、分かった。

 あそこへ帰ればよいのだ。

 隊長は息を吐いた。

 命令は、もう確かめられた。

 同じ問いを繰り返していても、後ろから近づく槍が減ることはなかった。

「旗を前へ」

 隊長が命じた。

 自分たちの旗手が、一歩進み出た。

「待て」

 騎士が馬を寄せた。

「勝手に隊を動かすことは許さん。伯爵閣下から指揮を預かった方の命令に従え」

 隊長は振り返った。

「我が主が、帰れと命じておられる」

「今ここを離れれば、敵前で軍を捨てたことになる」

「この軍へ来いと命じたのも、あの方だ」

 騎士の手が、剣の柄へ動いた。

 その背後で、槍の穂先が下がった。

 若い兵が盾を握り直す。隣の年嵩の兵は、若者の肩へ手を置いて前へ出すぎないようにした。

 隊長は二人を見た。

 ここで剣を抜けば、自分たちの帰還は、味方同士の斬り合いから始まる。抜かずに留まれば、主君へ背いて黒獅子へ向かわされる。

 向こうの旗の下で、領主はまだ手を上げていた。

 隊長は自分の兵へ向き直った。

「槍は立てたままだ。負傷した者を列の中へ」

 兵が動いた。

 歩みの遅い者の荷を、隣の兵が持つ。盾を持つ者が外側へ回り、自家の旗へ顔を向けた。

「命令が聞こえなかったか」

 騎士が声を強めた。

 隊長は今度は振り返らなかった。

「聞こえた」

 主君の旗を見たまま、答えた。

「だから、帰る」

 右手を上げ、前へ下ろす。

「旗に続け。走るな。隣の者を離すな」

 旗手が歩き出した。

 百人の先頭が、敵と向かい合うために並ばされていた場所から前へ出る。向かう先は黒獅子の中央ではない。少し進んで南へ折れれば、主君の旗が示す道へ入れる。

 後ろで、騎士が剣を抜いた。

「止めろ!」

 その声とともに、槍を持つ兵が動いた。

 畑の向こうでは、ヴィクトルが剣を上げた。

 アレクも、敵陣から離れ始めた旗を見ていた。

 主君が帰れと命じ、兵がそれに従った。

 ここから先は、命令書だけでは守れない。

 アレクはギルベルトへ顔を向けた。

「火槍隊、射撃準備に入ります」

 指揮役たちが、その命令を後ろへ伝えた。

第二十一話を読んでいただき、ありがとうございました。

兵を送り出した主君が、自ら旗の下に立って迎える。その姿が、百人の決断を支えました。

帰る先は見つかりましたが、そこへ至る道はまだ敵の槍に阻まれています。次は、その道を守る者たちの戦いです。


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