第二十話 黒獅子の進路
グレンツベルクに守りの兵を残し、レオンハルトたちは街道の奪還へ向かう。
その一方で、盟約へ預けた兵を取り戻したい諸侯も動き始めていた。
翌朝、グレンツベルクの広場には、濡れた木と灰の臭いが残っていた。
アレクが通りへ出ると、兵が焼け落ちた梁へ縄を掛けていた。昨日は火のために近づけなかった家だ。道へ倒れかけた壁の前には見張りが立ち、荷を取りに戻ろうとする者を止めている。
広場の端では、湯気の立つ鍋を囲んで人々が並んでいた。椀を受け取っても、その場を離れない子供がいる。後ろから来た女が肩へ手を置くと、ようやく歩き出した。
アレクは道を空け、城へ向かった。
門の脇には、昨日までなかった板が立てられていた。手当てを受けている者の名と、家族を探している者の名が分けて書かれている。文字を読めない領民へ、家宰の手伝いをする男が一つずつ読み上げていた。
城の広間へ入ると、マティアスが家宰と話していた。
「倉を開ける者は、引き続きそちらで決めてください。兵を置く場所はこちらからお伝えします」
「承知いたしました」
「物資を受け取る際も、記録を残してください。こちらが持ち込んだものと、町から取り戻したものを混ぜないように」
家宰は頷いた。目の下に深い隈があったが、手にした紙を取り違えないよう、指を挟んで分けている。
その隣に、フェリックスが座っていた。
机には領民の名簿が広げられていた。少年は筆を持たず、書かれた名を見つめている。家宰が別の紙を重ねようとすると、小さく手を伸ばした。
「こちらは、まだ」
「後で確かめましょう」
「父上が、名前を」
言いかけたまま、声が止まった。
フェリックスの指が紙の端を押さえた。マティアスはその手を見てから、少年のそばへ椅子を寄せた。
「なくさないように、ここへ置いておこう」
名簿を閉じず、机の奥へ移す。
「少し、食べられたか」
フェリックスは首を横へ振った。
「水は」
「いただきました」
「そうか」
マティアスは家宰へ目を向けた。
「そばに付いていられる方は」
「古くから仕える者がおります。今、食事を取りに」
「では、その方にお願いしましょう。あなたも、交代で休んでください」
家宰は答えかけ、唇を閉じた。やがて、深く頭を下げる。
アレクは入口の近くで立ち止まった。フェリックスがこちらを見たので、静かに会釈した。
「アレク様も、行かれるのですか」
少年が尋ねた。
アレクは近づき、机から少し離れた場所で足を止めた。
「殿下と一緒に、道を取り戻しに行きます」
「また、兵が来ますか」
「来させないために、こちらにも守る兵を残します」
絶対に来ないとは言えなかった。
フェリックスは廊下へ目を向けた。両親のいる部屋は、そちらだった。
マティアスが少年の肩へ手を添えた。
「この城のことも、家宰と話している。そなた一人で決めなくてよい」
少年は頷いた。
アレクは、何かを約束しようとしてやめた。代わりに一礼し、広間を出た。
門の外では、火槍隊の兵が並び始めていた。肩へ担いだ銃の位置を直し、隣の者と間を空けている。
その脇を、伝令の騎馬が駆けていった。
蹄の音が遠ざかっても、兵たちはまだ歩いていた。
◇ ◇ ◇
ギルベルトは、兵の列を端から確かめていた。
「九十三人。出られます」
アレクが近づくと、報告した。
「昨日、負傷した二人は」
「こちらへ残します。一人は腕、もう一人は足です。今朝も診てもらいましたが、行軍へ戻すのは早いと」
「分かりました」
アレクは列へ目を向けた。
百人から出発したわけではなかった。自領に四人を残し、リートベルクで一人、昨日の町で二人が戦列を離れた。
顔を知る兵がいなくなった場所を、数字だけで埋めることはできない。
「一班から三班まで、三十一人ずつに組み直しております」
「隊長たちには」
「伝えてあります」
ギルベルトが答えた時、荷車を引く馬が首を振った。御者が手綱を持ち直し、前の車へ近づきすぎないよう止める。
アレクは馬を見ていた。
「ギルベルト」
「はい」
「兵の中で、馬に乗れる者が何人いるか、後で確かめておいてください」
ギルベルトの視線が戻った。
「乗れる者を、どちらかへ出すのでしょうか」
「今すぐではありません。歩かせる程度なのか、長く乗って移動できるのかも知りたいです」
「承知しました」
ギルベルトは、少し間を置いて尋ねた。
「火槍を持ったまま、ですか」
アレクは頷いた。
「兵を馬へ乗せられれば、道へ着くまでの時間を縮められないかと」
口にすると、簡単な話に聞こえた。
だが、馬を用意するだけでは済まない。乗り慣れない兵を急がせれば、落ちる者も出る。馬を下りた後、誰が手綱を持つのか。射撃の音に驚いて逃げれば、帰る足を失うことになる。
ギルベルトは荷車の馬へ目を向けた。
「銃声を聞いても逃げない馬が要ります」
「はい」
「兵も、馬から下りてすぐ並べるとは限りません」
「それも、確かめなければなりません」
アレクは答えた。
マティアスから騎馬隊の話をされた時には、百人の火槍兵を減らせないと考えていた。今も、それは変わらない。
ただ、火槍を持つ兵と、馬に乗る兵を、初めから別々に考える必要があるのか。
昨日から、そのことが頭を離れなかった。
「今回は、いつもどおりに動きます。兵へ急なことをさせるつもりはありません」
「分かっております」
ギルベルトは列の方へ向き直った。
「出発の支度が済んだ者から、聞いておきます」
アレクは礼を言い、自分の馬へ向かった。
乗れば、一人で先へ行ける。
だが、先へ運びたいのは自分だけではなかった。
◇ ◇ ◇
軍議は、城外に張った天幕で開かれた。
レオンハルトの前には、周辺の街道を記した地図がある。昨夜のうちに戻った斥候が、道の分かれ目へ小さな石を置いていた。
「こちらに、五百から六百ほどおります」
斥候が言った。
「城と町から逃れた兵も、そこへ入ったようです。旗は、昨日まで周囲の道を押さえていた隊のものと重なります」
「新しく来た軍ではないのだな」
マティアスが尋ねる。
「大きな軍列が北から入ったところは、見ておりません」
レオンハルトは石の置かれた場所を見た。
グレンツベルクから東へ進む街道と、北へ折れる道が交わっている。荷を一時置くための建物があり、井戸もあった。
そこを敵に押さえられたままでは、リートベルクへ送る荷も、戻ってくる使者も、遠回りを強いられる。
「リートベルクの方は」
「昨夜届いた報告では、正面の敵は宿営地を保っています」
ユリウスが答えた。
「三千ほどという見立ても、大きくは変わっておりません。こちらの留守を預かる隊長へ、追わずに道を守るよう、改めて伝えてあります」
レオンハルトは頷いた。
フェルゼンへ向かう道は、まだ先だった。町を焼いた指揮官を処刑しても、命じて兵を集めた者は残っている。
だが、その者だけを目指して進めば、後ろの町がまた襲われる。
「まず、ここを取る」
レオンハルトは分かれ道へ指を置いた。
「リートベルクとつなぎ直す。その先へ進む兵を集めるのは、道を使えるようにしてからだ」
マティアスが手元の紙を開いた。
「こちらに残すのは二百人。歩兵百五十人と、火槍兵五十人です」
火槍兵は、レオンハルトとマティアスに属する二百人から分ける。アレクの直属九十三人は、そのまま先へ向かわせることになっていた。
「城と負傷者、捕虜を預かる者を分けます。家宰からも、領内を案内できる者を付けていただきました」
「捕虜の武器は」
「別の建物へ移しました。負傷している者も分けております」
「町の者へ見張りを丸投げするな」
「承知しております」
マティアスは続けた。
「進めるのは、騎兵三百九十四、歩兵千三百十三、火槍兵二百四十三。合わせて千九百五十人です」
アレクは火槍隊の配置を確かめた。
自分の九十三人に、残る百五十人が加わる。町へ置く五十人にも隊長を付け、弾薬と予備の火縄を分けて渡してあった。
「この人数で、フェルゼンまで押すわけではありません」
マティアスが五人へ言った。
「目の前の敵を退かせても、勝手に先へ出ないように。取り戻した道を、後ろの兵と荷が通れる状態にする」
ロベルトが地図を見た。
「荷置き場を焼かれると、井戸が残っても使いにくくなります」
「だから、そちらにも働いてもらう」
マティアスが答える。
レオンハルトは剣帯へ手を置いた。
「フェルゼンには行く」
誰も顔を上げたまま動かなかった。
「だが、俺たちが通った後を、また荒らされては意味がない。今日は道を取る。取った道は渡さん」
天幕の外から、出発の支度が整ったと声が掛かった。
◇ ◇ ◇
町を出る時、道の脇に領民が立っていた。
声を掛ける者は少なかった。兵がいなくなることを心配しているのか、ただ行き先を見ているのか、アレクには分からない。
城門には、残留する盾兵が並んでいた。その後ろで、火槍隊の隊長が新しい見張りの位置を確かめている。
家宰がレオンハルトの前へ進み、一礼した。
レオンハルトは馬を止めた。
「知らせは、残した隊長へ渡せ。そちらから俺たちへ送らせる」
「ありがとうございます」
「足りぬものもだ。遠慮して、後から困るな」
家宰は唇を引き結び、もう一度頭を下げた。
レオンハルトは城の窓へ目を向けた。
フェリックスの姿は見えなかった。
そのまま手綱を動かし、東へ続く道へ馬を進めた。
隊列は急がせなかった。先行する騎馬が曲がり角を確かめ、歩兵と荷車が続く。道端の低い所には夜露が残り、車輪の跡へ水が溜まっていた。
昼前、カスパルの兵が戻った。
敵は分かれ道から引いていない。荷置き場の前へ丸太を運び、道の西側に盾を並べているという。
レオンハルトは、先頭を低い丘の陰で止めた。
後続へも停止の知らせが送られる。
アレクは馬を下り、ギルベルトとともに丘の脇へ出た。
街道の先に、屋根の低い建物が三つ見えた。その前を横切るように丸太が置かれ、槍の穂先が並んでいる。
右手は浅い溝のある畑だった。左手には草地が広がり、その端を北へ通じる道が延びていた。
カスパルが戻ってきた。
「正面に四百ほど。後ろの建物と北の道へ、百五十ほどです」
「弓は」
アレクが尋ねた。
「正面の盾の後ろにいる。数えられたのは六十ほどだが、建物の陰にもいるかもしれん」
ヴィクトルは右の畑を見ていた。
「正面へ詰めれば、あの溝で足が止まる」
「左の草地なら、広がれます」
アレクが言った。
「ただ、そちらへ出ると、北の道から寄られます」
「そこは俺が見る」
カスパルが答えた。
レオンハルトは三人の話を聞いてから、マティアスへ向いた。
「配置を」
マティアスが隊長を呼んだ。
ヴィクトルには盾兵と槍兵四百人。エイドリアンには二百五十人を付け、左へ回ってくる敵を受けさせる。
ロベルトの百五十人は道沿いで待たせ、前が開けば荷置き場へ入る。残る歩兵五百十三人と、直属ではない火槍兵百五十人は、マティアスが後方に控えさせた。
「アレクは、ヴィクトルの左へ」
「はい」
「カスパルは百騎で北の道を見ろ。敵の後ろまで抜けようとして、見えない所へ入るな」
「承知しました」
レオンハルトは近衛へ顔を向けた。
「俺には百二十騎。残る騎馬は、後ろと周囲の見張りを続けろ」
兵が分かれていく。
敵の建物の前で、角笛が鳴った。
こちらが来るまでに、丸太を重ね終えるつもりだったのだろう。木を引いていた兵が縄を放し、盾の後ろへ走った。
レオンハルトは、それを見ていた。
「支度の途中で悪いが、退いてもらうぞ」
◇ ◇ ◇
敵へ使者を出した。
国王の退去命令と、グレンツベルクから兵を引く要求を伝える。昨日、城と町で戦っていた隊が敗れ、指揮官が捕らえられたことも告げた。
敵は使者を近づけなかった。
丸太の向こうで旗が動き、兵が左右へ分かれる。弓を持った者たちが前へ出てきたため、護衛が使者の馬を下げさせた。
「退去するつもりは、ないようです」
戻った騎士が報告した。
「返答は」
マティアスが尋ねた。
「こちらこそ兵を引けと。リートベルクの軍と離れたままなら、挟まれることになると言っております」
レオンハルトは北東へ目を向けた。
脅しだけとは限らない。
それでも、ここで引けば、敵はまた道を塞ぐ。
「前へ」
短い命令が渡った。
ヴィクトルの盾兵が歩き始めた。アレクの直属隊は、その左後ろへ続く。
最初の矢が落ちたのは、草地へ出る手前だった。
盾へ当たる音が重なり、一人の兵が首をすくめた。ヴィクトルは列の前を見たまま、声を掛ける。
「止まるな。上ではなく、前を見ろ」
盾の列が進んだ。
アレクは、その後ろで射撃位置を見定めた。敵の弓兵は丸太の手前まで出ている。だが、前にはまだ味方の盾があり、その隙間から撃つつもりはなかった。
「ここで分けます」
ギルベルトへ伝える。
「一班を左へ。二班はその後ろ、三班は道側を見てください」
「承知しました」
ギルベルトが兵へ向いた。
「弾薬箱開放許可! 一発取れ! 装填!」
兵が弾薬箱を開き、一発筒を取り出した。
アレクは前を見続けた。装填を急がせる声は出さない。射撃位置へ動く順番と、盾兵が寄る場所を確かめる。
ヴィクトルの側へ出した伝令が戻ってきた。
「左を空けます。ただし、敵の槍兵が出てきた場合は、その場で受けると」
「分かりました」
ギルベルトが声を上げた。
「一班、装填状況!」
「一班、装填完了!」
二班、三班からも返答が届いた。
敵の弓兵が、また弦を引いた。
矢が落ちる。
右後ろで誰かが呻いたが、アレクは振り返らなかった。運ぶ者を呼ぶ声があり、すぐに足音が続いた。
「一班、前へ!」
三十一人が左へ出た。
味方の盾兵は右へ寄り、アレクの前から射線を空ける。敵の弓兵の胸と、弓を持つ腕が見えた。
「火蓋開け! 構え!」
ギルベルトの声で銃口が上がる。
赤い布が掲げられた。
敵の一人が、こちらを指した。隣の兵が矢を取る手を止め、盾の方へ身を引こうとする。
アレクは前を確かめた。
味方はいない。
「撃て!」
赤い布が振り下ろされた。
三十一挺の轟音が重なり、白煙が草地へ吹き出した。
弓を引いていた兵が後ろへ倒れた。隣の男が顔を押さえ、膝をつく。さらに奥で、盾を持つ兵が肩から崩れ、後ろの者とぶつかった。
残った弓兵が丸太へ向かって走った。
狭い隙間へ同時に戻ろうとして、一人が転ぶ。助け起こそうとした兵まで、後ろから押されてよろめいた。
「一班、火縄上げ! 後退!」
兵が火縄ばさみを上げ、下がり始めた。
その向こうで、敵の隊長が剣を振った。
「今だ! 詰めろ!」
槍兵が丸太の脇から走り出した。
射撃の後に間があることは、向こうも知っていた。
◇ ◇ ◇
敵の槍兵は、火槍隊だけへ真っ直ぐ向かってきたわけではなかった。
一部がヴィクトルの盾兵へ寄り、その左を別の一団が抜けようとしていた。盾兵を動けなくし、下がる火槍兵へ横から取りつくつもりだった。
「左だ!」
ヴィクトルが叫んだ。
味方の槍が下ろされる。
敵の先頭が盾へぶつかった。木が鳴り、押された兵の踵が土を削る。
アレクは一班を止めなかった。
決めていた後退路は、盾兵の列とは離れている。戻った兵から後ろへ回り、次の装填に移っていた。
「二班、前へ!」
装填済みの三十一人が進んだ。
敵の左端は、まだ味方の槍兵と触れていない。草地を回り込み、こちらへ近づいていた。
「正面ではありません。左へ出てきた兵を」
アレクが示す。
ギルベルトが命令を伝え、兵の向きを揃えた。
「二班、火蓋開け! 構え!」
赤い布が上がった。
敵の槍兵が足を緩めた。目の前に、もう別の銃口が並んでいる。
後ろの兵は止まらなかった。
「進め!」
声に押され、先頭が槍を突き出すようにして走った。
「撃て!」
布が下りた。
白煙の中へ、槍の穂先が跳ね上がった。
先頭の男が胸を反らして倒れ、その脇を抜けようとした兵が足を取られる。盾を持っていた者が腕を下げ、後ろへよろめいた。
走っていた列が、そこで潰れた。
後続は倒れた仲間を避け、左右へ広がろうとした。しかし片側にはヴィクトルの槍兵がいる。もう片側にも、新たな火槍兵が出てきていた。
三班だった。
まだ一度も撃っていない三十一挺が並ぶのを見て、敵の足が止まった。
「二班、火縄上げ! 後退!」
ギルベルトの号令が響く。
アレクは三班へ、撃つ命令を出さなかった。
敵が止まったところへ、ヴィクトルが盾兵を押し出していた。槍先の向こうに、味方の兜が見え始める。
「待ってください。前に味方が入ります」
ギルベルトが同じ命令を繰り返した。
敵の隊長は、なお兵を前へ出そうとしていた。だが、槍を向ける者より、後ろを振り返る者が増えていた。
その時、左の奥で角笛が鳴った。
北の道から、別の敵兵が出てきた。
◇ ◇ ◇
カスパルは、百騎を街道へ並べていなかった。
北へ折れる道を見通せる場所に一部を置き、残りは草地の起伏を使って控えさせていた。道の先へ進みすぎれば、建物の陰から槍を向けられる。
敵の後ろにいた百五十人ほどが動いた時、すぐに伝令を出した。
「マティアス様へ。北の兵がこちらへ出ます。槍兵が主です」
敵はカスパルの騎馬を追い払おうとしていた。
正面の味方が火槍を受けている間に、横へ回る騎馬まで置かれては、後ろの道を使えなくなる。
槍を揃えた一団が進んできた。
カスパルは剣を抜いたが、突撃を命じなかった。
「少し下がる。走らせるな」
馬を引く。
敵の槍兵が歩みを速めた。
こちらが退いた分だけ、建物との間が開いていく。だが、カスパルはそれ以上深く誘わなかった。
右から、エイドリアンの隊が見えた。
盾兵と槍兵二百五十人が、草地の端へ進んでくる。
「ここで止める!」
エイドリアンが命じた。
先頭の盾が並び、その後ろから槍が突き出された。
敵兵が足を止める。
騎馬を追っていたはずが、正面に歩兵がいた。
戻ろうとすれば、カスパルの馬が横へ動く。だが、踏みとどまっている間にも、街道の方から味方の退く声が聞こえていた。
カスパルは伝令へ向いた。
「殿下へ。北の兵は、こちらを向いています。建物との間が開きました」
伝令が走った。
カスパルは剣を下げず、敵の槍先を見た。
自分の役目は、この兵をここへ向かせておくことだった。
◇ ◇ ◇
レオンハルトは、報告を受ける前から草地の動きを見ていた。
正面では、ヴィクトルが敵を丸太へ押し戻している。
北の兵は、エイドリアンとカスパルへ向き直った。
その二つの間に、道ができていた。
「アレクへ知らせろ。建物の西側を通る」
近くの伝令へ命じる。
「こちら側へ撃たせるな」
馬の向きを変えた。
近衛百二十騎が続く。
アレクのもとへ知らせが届くと、火槍隊は銃口を下げた。三班は撃たずに控え、一班と二班も次の命令を待つ。
味方の伝令が戻り、腕を上げた。
レオンハルトが剣を抜いた。
「続け」
近衛は、敵の槍が正面へ揃っている場所を避けた。
草地を斜めに進み、二つの敵部隊の間へ入る。馬の足が速まるにつれ、敵の声が変わった。
「横だ!」
槍兵が振り返る。
隣の者と向きが揃わない。
前をヴィクトルに押されていた兵は、後ろへ動こうとして丸太へぶつかった。
レオンハルトは、その列の端へ向かった。
槍が一本、馬の前へ出た。
剣で外へ払い、馬を寄せる。相手が身を引いた場所へ、続く近衛が入った。
盾が横へ倒れた。
敵兵が丸太を越えようとして、片脚を引っ掛ける。その背へ、後ろから逃げてきた兵がぶつかった。
「道を空けろ!」
敵の隊長が叫んだ。
だが、そこへ集まった者たちは、もう同じ方へ動いていなかった。
レオンハルトの剣が、振り向いた男の剣を打った。相手の腕が開き、近衛の槍が脇から向けられる。
男は剣を落とした。
「伏せていろ!」
レオンハルトは止まらず、荷置き場の前へ馬を進めた。
正面の敵が崩れたのを見て、北の槍兵も退き始める。
カスパルは、そこへ馬を寄せた。
敵は槍を向け直す。しかし、後ろからエイドリアンの歩兵が進んでいた。
隊長らしい男が周囲を見回し、剣を鞘へ戻した。
その動きを見て、近くの兵が槍を置いた。
さらに二人、盾を落とす。
カスパルは剣を上げたまま命じた。
「武器から離れろ! 走るな!」
逃げた兵を、全員捕まえたわけではなかった。
建物の裏から東の道へ抜けた者がいる。畑へ入り、低い場所を伝って姿を消した者もいた。
レオンハルトは近衛を遠くまで追わせなかった。
荷置き場の前で馬を止め、剣を持つ腕を下げた。
「道を押さえろ。建物の中を確かめる」
勝った場所を、今度は守る場所へ変える命令だった。
◇ ◇ ◇
ロベルトが荷置き場へ入った時、裏手で荷車が一台動きかけていた。
御者が鞭を持っている。その横では、兵が袋を荷台へ投げ上げていた。
「止めろ!」
ロベルトの槍兵が道へ出た。
御者は手を止めた。
兵は袋を放し、腰の剣へ触れたが、左右から来る盾を見て指を離した。
「中に、ほかの兵は」
ロベルトが尋ねた。
返事が遅れたので、入口へ二人を向かわせる。
「出てこい。武器は中へ置け」
建物の奥で音がした。
やがて、一人の男が両手を見せて出てきた。
その後ろから、もう二人が続く。
荷置き場には穀物と飼葉が積まれていた。空になった樽もあったが、火を掛けられた跡はない。
ロベルトは井戸を調べる者と、荷の印を確かめる者を分けた。
「この袋は、どこから持ってきた」
捕らえた兵へ尋ねる。
「知らん。運べと言われただけだ」
「受け取った者は」
男が建物の中を見た。
机の上に、紐で束ねた紙が残っていた。
ロベルトは手を伸ばしかけ、兵へ言った。
「ユリウス殿を呼べ。紙は、このままにしておけ」
外では、丸太を動かす作業が始まっていた。
逃げる敵が押し倒した荷車もあり、街道はまだ広く使えない。前へ出た兵を横へ寄せ、後続の荷駄は丘の陰で待たせた。
アレクは火槍隊を集めていた。
一班と二班が一度ずつ撃ち、使った弾は合わせて六十二発。三班は発射していない。
ギルベルトが各班の報告を受け、装填を終えた銃と、弾薬箱の中に残る一発筒を分けて確かめた。
「火槍隊に負傷者はおりません」
「不調の銃は」
「今のところ、ありません。もう一度見ます」
「お願いします」
アレクは兵の顔を見た。
汗を拭う者もいれば、まだ敵のいた方角を見ている者もいた。
撃たずに終えた三班の兵が、一班の仲間へ水を渡していた。
少し離れた場所では、ヴィクトルが膝をついていた。
布を掛けられた兵が二人、横たえられている。
アレクは近づいた。
ヴィクトルは顔を上げた。
「矢を受けた。一人は、前へ出る途中だ」
その声は、戦っていた時より低かった。
「ほかの怪我人は」
「運んでいる」
ヴィクトルは立ち上がった。
兵へ何かを命じようとして、先にアレクを見た。
「そちらは」
「全員、動けます」
「そうか」
短く答え、盾兵の方へ向き直る。
アレクは布の端を見た。
見えていた靴に、まだ濡れた土が付いていた。
◇ ◇ ◇
夕方までに、道は荷車を通せるようになった。
マティアスのもとへ集まった報告では、歩兵二人が死に、七人が戦列へ戻せない傷を負っていた。騎兵にも一人、馬を下りて手当てを受ける者が出た。
先へ動かせる兵は、千九百四十人になった。
敵の死者は、その時点で四十一人が確認されていた。捕らえた者は二百八十六人。そのうち六十七人が負傷している。
逃げた兵の数は、まだ分からない。
カスパルは見張りを遠くへ出したが、暗くなる前には戻すと伝えていた。
「リートベルクへ、知らせを出します」
ユリウスが言った。
「道を取り戻したことと、こちらの位置を。向こうからも見張りを進めてもらい、間を確かめます」
「敵の三千が動けば、すぐ知らせろと伝えろ」
レオンハルトが答えた。
「こちらの勝ちを聞いて、勝手に追い始めるなともな」
「承知しました」
ロベルトは、荷置き場で見つかった紙を並べていた。
どこの家から穀物が来たか。馬の飼葉を何束受け取ったか。返すはずの空樽を、誰が持っているか。
軍の命令書だけではない。
兵を養うために、諸侯が出した荷の記録だった。
「この家は、まだ向こうへ荷を送っています」
ロベルトが一枚を示した。
「ですが、今日来た使者は、兵を返してほしいと」
アレクが尋ねた。
「使者が来たのですか」
「後ろの陣へ。近くの領主からです」
マティアスが答えた。
レオンハルトは紙を取った。
「自分の兵がいるから、食わせる荷を止められぬのだろう」
「はい。使者も、そのように申しております」
「呼べ」
レオンハルトは紙を戻した。
「何を求めるのか、本人から聞く」
◇ ◇ ◇
天幕へ入ってきた家臣は、剣を預けていた。
外套の裾には泥が付いている。案内の兵に促されると、レオンハルトの前で膝をついた。
「当主の書状を、お持ちしました」
差し出された封を、ユリウスが受け取る。
レオンハルトは印を確かめ、開いた。
盟約への参加を取りやめること。
預けた兵へ帰還を命じたこと。
しかし、隊長へ命令が届いたか確かめられず、使者も戻っていないことが記されていた。
「何人を預けた」
「百二十人です」
「手元には」
「領内の見張りと城の兵を合わせて、五十ほど」
家臣は顔を上げた。
「主は、ご用意できるものをすべて差し出すと申しております。穀物も、馬も、荷車も。兵も、出せる者を連れて参りたいと」
「こちらへか」
「はい」
家臣の手が、膝の上で握られた。
「自分の兵を取り戻すために、殿下だけを戦わせることはできぬと」
レオンハルトは書状を読み直した。
マティアスは、家臣の顔を見ていた。
「ご当主は、グレンツベルクのことをご存じですか」
「逃れてきた者から聞きました」
家臣の声が低くなった。
「その後、殿下からの使者も。主は、城へ人を集めております」
「兵を送るためにか」
レオンハルトが尋ねた。
「領民を守るためにです」
「なら、その兵は残せ」
家臣が口を開きかけた。
レオンハルトは書状を机へ置いた。
「すべて出して、次にそなたの城が空になっては困る。領地を守る兵と、食わせる分は残せ。その上で、出せるものを知らせろ」
「ですが、それではわずかな数に」
「数だけを聞いているのではない」
レオンハルトは家臣を見た。
「預けた百二十人は、そなたの顔を知っているか」
家臣は瞬きをした。
「存じております。私も、城の兵を預かっておりますので」
「隊長は」
「父の代から仕える者です」
「その者へ、帰れと命じたのだな」
「はい」
「なら、その命令をもう一度書かせろ。誰へ出す命令か、隊長の名も入れる。ご当主の印を押したものを持ってこい」
ユリウスが書き留めた。
レオンハルトは続けた。
「家の紋章を入れた旗もだ。出せる兵がいれば、その旗を持たせろ。そなたのように、向こうの兵が顔を知る者を付ける」
家臣は黙って聞いていた。
やがて、レオンハルトの意図を測るように、顔を上げる。
「こちらで、旗を掲げるのでしょうか」
「ああ」
レオンハルトが答えた。
「そなたたちの兵へ見せる」
◇ ◇ ◇
翌日、街道の先から来たのは、敵の増援だけではなかった。
領主が一人、少数の供を連れて陣へ入った。
その後に、別の家の使者が来た。
取り戻された道を確かめるため、近くまで来ていた者たちだった。レオンハルトの所在を聞くと、そのまま会うことを求めた。
申し出は、少しずつ違っていた。
兵糧ならすぐ出せるという家。
荷車を送るため、護衛を付けてほしいという家。
城を守る兵しか残っていないが、自分だけでも同行したいという領主もいた。
共通していたのは、盟約へ出した兵を戻したいということだった。
レオンハルトは、一人ずつ話を聞いた。
兵を帰せと命じたなら、その書状を見せる。
これから命じるなら、今、当主の名で書く。
誰の兵を何人預け、どの隊長が率いているのかを、曖昧にしたままにしない。
マティアスは、その横で役目を分けていた。
荷を集める話はロベルトへ回す。通行を求める道はユリウスが確かめる。連れてきた兵の数と装備は、エイドリアンが受け取った。
申し出られた人数を、そのまま軍の数へ加えることはしなかった。
城に残す兵を引けば、半分にもならない家がある。馬があると言っても、畑仕事に使うものと、騎兵が乗るものは同じではない。
それでも、陣の外へ荷車が一台ずつ増え始めた。
アレクが水を受け取る場所を通ると、見慣れない紋章の兵が並んでいた。
古い盾を持つ男と、槍の柄を新しく替えた若い兵だった。二人とも、火槍隊の肩にある長い銃へ目を向けている。
その後ろには、布で包まれた旗竿があった。
昨日までは、敵の側へ送られていたかもしれない旗だった。
◇ ◇ ◇
昼過ぎ、レオンハルトの前で、一人の領主が深く頭を下げた。
「百人を預けました」
声が掠れていた。
「今、連れてこられたのは十二人です。あとは、領地の守りを抜かなければ」
「十二人でよい」
レオンハルトが答えた。
「その十二人に、百人を取り返してもらう」
領主が顔を上げる。
「戦わせるのでしょうか」
「そなたの兵と、いきなり槍を交えさせるつもりはない」
レオンハルトは、机へ広げられた命令書を見た。
「まず、帰れと伝える」
「使者は出しました。ですが、向こうは」
「隊長へ会わせなかったのだろう」
「はい」
「今度は、旗も本人も見える所へ出る」
天幕の中が静かになった。
レオンハルトは、顔を上げた領主へ言った。
「向こうの兵が見るのは、黒獅子だけではない。自分の家の旗と、そなたが送り出した者たちだ」
マティアスが言葉を継いだ。
「帰還命令を偽物だと言われても、顔を知る家臣がいれば確かめられます。旗だけを借りてきたのではないと、兵たちに分かってもらう必要があります」
領主の視線が、自分の書状へ落ちた。
「兵が、こちらへ来ようとすれば」
「通す」
レオンハルトが答えた。
「その道を、こちらで守る」
アレクは机の横で聞いていた。
ただ旗を掲げれば、全員が歩いてくるわけではない。向こうの指揮官が黙って返すはずもなかった。
帰ろうとする兵を止める者が出る。
あるいは、帰る兵へ槍を向ける。
その時、こちらが何をするのかまで決めなければ、旗は見せただけで終わってしまう。
マティアスが、アレクたちへ目を向けた。
「受け入れる場所は、戦う隊の後ろへ直接つなげない。各家の者に立ち会ってもらい、誰が戻ったか確かめる」
ヴィクトルが頷いた。
「通路の両側を押さえる兵が要ります」
「その配置も考えておいてくれ。敵が近づいた時に、帰る兵ごと囲んでしまわないように」
「承知しました」
アレクは地図を見た。
「火槍隊の正面とは、離していただきたいです」
レオンハルトがこちらを向いた。
「戻ってくる兵の向こうへ敵が重なれば、撃てません。受け入れる道と、敵を止める場所を分ける必要があります」
「分かっている。戦場を選ぶ時に、それも見る」
レオンハルトは領主へ視線を戻した。
「そなたにも働いてもらう。戻った兵が迷わぬよう、迎える者を決めておけ」
領主は、しばらく答えなかった。
やがて、机の命令書へ手を置いた。
「私が迎えます」
レオンハルトは頷いた。
◇ ◇ ◇
諸侯が出ていった後も、軍議は続いた。
レオンハルトの軍へ加わった兵は、まだ少ない。申し出た援軍が揃ったわけでも、リートベルクの留守部隊が来たわけでもなかった。
敵の三千が正面に残っている以上、そちらの守りを大きく抜くことはできない。
「旗を見せれば、全員が戻るとは考えない方がよいでしょう」
マティアスが言った。
「フェルゼン伯の直属兵は残ります。ほかにも、主君自身が深く加わっている家があります」
「ああ」
レオンハルトは答えた。
「戻りたくても、動けぬ隊もあるだろう」
「離反が広がる前に、こちらへ攻めてくるかもしれません」
「なら、受けて立つ」
レオンハルトの指が、地図の街道をなぞった。
「だが、その前に兵と荷を集める。国王の命令も、各家の命令も、戦う兵へ届かなければ紙のままだ」
ユリウスが書状をまとめた。
国王の退去命令は、既にある。
新しく偽の権威を作る必要はなかった。従わせるべき命令を押し隠し、諸侯の兵を返さずにいるのは、向こうだった。
レオンハルトは椅子から立った。
「そいつらに、もう一度選ばせる」
天幕の外へ歩く。
アレクたちも続いた。
新しく陣へ入った領主の兵が、旗の覆いを外していた。
布の端が風に持ち上がる。
旗手は一度、竿を握り直した。黒獅子の旗へ近づけるべきか、少し離れて立てるべきか、迷っているようだった。
レオンハルトが、その前で足を止めた。
「そなたの家の兵が見つけられる場所へ立てろ」
旗手が顔を上げた。
「はい」
竿が持ち上がった。
広がった布には、黒獅子とは違う紋章があった。
アレクは、その旗を見上げた。
敵の兵を減らすためだけの旗ではなかった。
あの向こうに、自分の帰る場所があると知らせるための旗だった。
◇ ◇ ◇
イグナーツのもとへ、街道の敗報が届いた。
荷置き場を失った。
集め直そうとしていた兵は散り、一部は捕らえられた。
レオンハルトはグレンツベルクに留まらず、リートベルクへ通じる道を取り戻し始めている。
代官が読み終えても、イグナーツはすぐに口を開かなかった。
机には、兵の帰還を求める書状が重ねられていた。
昨日まで届いていた荷について、次の発送を見合わせると知らせてきた家もある。
「正面の軍は」
「宿営地を保っております」
「そちらへ、勝手に兵を返すなと伝えろ」
代官が頷いた。
「それから、城の兵を数え直せ。外へ出せる者と、残す者を分ける」
「レオンハルト殿下を、城でお迎えになるのでしょうか」
「門の前まで来させるつもりはない」
イグナーツは書状を一通取った。
帰還を命じた当主の印がある。
その家は、盟約へ加わる時にも同じ印を押していた。
「ここへ兵を預けた時は、守ってほしいと言っていた」
低く言った。
「今は、返せと言う」
代官は答えなかった。
イグナーツは書状を机へ戻した。
「離れようとする家を、これ以上増やすな。隊長を集めろ。兵へ勝手に書状を回させるな」
「承知しました」
代官が下がりかけたところで、扉の外から声がした。
別の使者だった。
通された男は、埃の付いた外套のまま膝をついた。
「殿下の陣へ、諸侯が入っております」
「どこの家だ」
男が家名を挙げた。
一つではなかった。
イグナーツの視線が、机の書状へ落ちる。
名を聞いたばかりの家の印が、その中にあった。
「兵も連れているのか」
「少数ですが。それと、旗を」
イグナーツは顔を上げた。
「旗だと」
「はい。各家の旗を、陣へ立てております」
室内が静かになった。
遠くで、城の兵を呼ぶ角笛が鳴っていた。
イグナーツは、帰還命令の書状を裏返した。
「隊長たちを急がせろ」
今度は、先ほどより強く命じた。
「黒獅子が来る前に、軍を動かす」
第二十話を読んでいただき、ありがとうございました。
街道を取り戻したレオンハルトのもとへ、各家の旗と帰還命令が集まり始めました。
敵陣にいる兵たちは、主君の旗を前に何を選ぶのか。続きもお楽しみいただけましたら幸いです。
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