第十八話 待ち続けた旗
救援軍が道を急ぐ一方、グレンツベルクでは城を守る戦いが続いていた。
ルーカスが待つ旗と、友のもとへ向かうレオンハルト。それぞれの決断の先にあるものは。
門へ打ちつけられる音が、城の奥まで響いていた。
ルーカスは城壁の上で、剣を握り直した。
巻いた布の下で腕が痛む。
指は動いた。
まだ、盾も持てた。
城壁と門を守れる兵は百人まで減っていた。門前へ六十人、東西の壁へ二十人ずつを置き、交代に回せる者はもういない。今度は六百ほどの新手が寄せ、休む間を与えず梯子を掛けてきた。
「東へ、もう五人!」
指揮官の声がした。
ルーカスはそちらを見た。
梯子が二本、壁へ掛かっている。
兵が押し返そうとしていたが、下から飛んでくる矢に身を伏せた。
その間に、敵の兜が石の縁から現れた。
「私が行く」
ルーカスは近くの兵を連れて走った。
敵兵の片足が城壁へ乗る。
味方の槍が向かった。
相手は盾で払い、身体を引き上げようとした。
ルーカスが横から盾を当てた。
敵兵の足が滑る。
石へ掛けた手を離し、姿が消えた。
「梯子を!」
兵が棒を差し込む。
ルーカスも手を添えた。
下で支えている者がいるのか、重かった。
腕へ力を入れる。
痛みが肩まで走った。
それでも押した。
梯子の先が、ゆっくり外へ傾く。
隣の兵が声を上げた。
もう一度、押す。
梯子が壁から離れた。
下から悲鳴が上がった。
ルーカスは棒を放し、息を吐いた。
すぐ隣では、もう一本の梯子へ兵が集まっていた。
そちらも押し返した。
城壁の上へ静けさが戻ったのは、ほんの短い間だけだった。
「矢が足りません!」
弓兵が叫んだ。
「残りは」
「こちらの束で最後です!」
ルーカスは足元を見た。
空になった矢筒が転がっている。
少し離れた場所では、兵が膝をついたまま動かなかった。
休んでいるのではない。
首の脇へ布を当て、別の兵が必死に押さえていた。
「使える矢を集めろ。下からも運ばせる」
命じてから、城の西側へ目を向けた。
昨日の夕方に出した使者は戻っていない。
朝から見ている街道にも、黒い旗はなかった。
「領主様」
家宰が階段を上がってきた。
肩で息をしている。
「川へ下りる道を見ていた者が戻りました」
「通れるか」
「敵の見張りが、北へ移ったそうです。通用門から葦原までなら、今は」
ルーカスは家宰を見た。
「その先は」
「川沿いを少し下り、林へ入れます。ただ、道が細く、馬車は無理です」
「歩いて行ける者を出せ」
「ですが、全員は」
「分かっている。見つかるまでに通れる者だけでもよい。案内を付けろ」
家宰が頷いた。
ルーカスは、その腕を取った。
「妻と、あの子も」
ルーカスは門前の守りから三人を抜き、避難する者たちの護衛へ回すよう命じた。
家宰の表情が変わった。
「領主様は」
「ここを離れれば、すぐに追いつかれる」
また、門へ丸太がぶつかった。
石の下から、木の裂ける音がした。
ルーカスは家宰の腕を離した。
「支度をさせてくれ。私もすぐに行く」
◇ ◇ ◇
中庭では、兵が太い角材を運んでいた。
門の裏へ当て、倒れないよう石を積む。
打撃のたびに、木屑が落ちた。
ルーカスは広間へ入った。
妻がフェリックスの外套を留めていた。
荷は小さな包みだけだった。
少年が父を見た。
「父上」
ルーカスは近づき、外套の紐を確かめた。
「家宰と一緒に、川の方へ行きなさい」
「城を出るのですか」
「ああ」
フェリックスは母を見た。
妻が頷く。
「足元の悪い所を通ります。手を離さないで」
少年は、今度は父の剣を見た。
ルーカスは剣帯を外さなかった。
「父上も、後からいらっしゃるのですね」
ルーカスの手が止まった。
城壁の方で、叫ぶ声がした。
誰かの名を呼んでいる。
続いて、兵を上へ寄越せという声が響いた。
ルーカスは息子の肩へ手を置いた。
「行けるようにする。だから、母上の言うことを聞きなさい」
フェリックスは頷かなかった。
父の顔を見つめていた。
ルーカスは、その目を見返した。
「フェリックス」
名を呼ぶと、少年の唇が動いた。
「はい」
「歩けなくなったら、黙っていないで伝えるんだ。転んだ時も、一人で遅れようとするな」
「……はい」
ルーカスは息子の髪へ触れた。
妻が一歩、近づいた。
「待っています」
ルーカスは妻を見た。
いつもなら、何か返せた。
先に休んでいてくれでも、すぐ戻るでもよかった。
今は、どちらも言えなかった。
「あの子を頼む」
妻の指が、ルーカスの手へ重なった。
腫れた腕を避け、反対の手を握る。
「あなたも、来てください」
「ああ」
短く答えた。
指が離れた。
家宰が扉を開ける。
妻がフェリックスの手を取り、広間を出た。
少年は扉のところで振り返った。
ルーカスは立っていた。
まだ、自分の足で立ち、剣を持っていた。
フェリックスが頭を下げた。
父も、小さく頷いた。
扉の向こうへ二人の姿が消えた。
ルーカスは、その場で一度だけ目を閉じた。
「領主様!」
外から声がした。
目を開ける。
兵が駆け込んできた。
「東の壁に、敵が!」
五人を回しても、倒れた者の穴を埋めただけだった。交代できぬまま二度目の攻撃を受け続け、東の守りがついに切れた。
ルーカスは剣を抜いた。
◇ ◇ ◇
東の城壁へ上がる階段を、味方の兵が下りてきた。
後ろへ槍を向けている。
その先に、敵がいた。
一人ではなかった。
盾を重ねた兵が上を押さえ、次々に梯子から仲間を引き上げていた。
城壁を守っていた指揮官の姿は見えなかった。
「ここで受ける!」
ルーカスは階段の下へ兵を並べた。
逃げてきた味方を通す。
最後の兵が脇へ寄ると、敵の槍が下りてきた。
盾で受けた。
下から突き返す。
敵兵が足を引き、階段の上で止まった。
「広間へ入れさせるな!」
ルーカスが叫んだ。
兵が寄った。
だが、上にいる敵は階段だけへ集まらなかった。
城壁を門の方へ走っていく。
ルーカスは顔を上げた。
「門だ!」
声を飛ばす。
門の内側で作業していた兵が振り返った。
頭上から敵が下りてくる。
斧を持っていた男が、そのまま向かっていった。
槍で止められた。
角材を運んでいた者が逃げる。
門の裏で、剣がぶつかる音が続いた。
ルーカスは兵を二人、そちらへ向かわせた。
階段の敵が押してきた。
盾へ重さが掛かる。
昨日から痛む腕が、一瞬、下がった。
敵の刃が肩の近くをかすめる。
外套が裂けた。
隣の兵が槍を突き出し、相手を退かせた。
「領主様、下がって!」
「まだだ!」
ルーカスは盾を上げ直した。
門の方で、大きな音がした。
積んでいた石が崩れる。
角材が倒れた。
続いて、閂を外す音が聞こえた。
ルーカスは振り返った。
重い扉の片方が、内側へ動いていた。
外から槍が入る。
盾が続く。
押し広げられた隙間から、敵兵が中庭へ流れ込んだ。
◇ ◇ ◇
川へ下りる道は、石壁と斜面の間にあった。
フェリックスは母の手を握り、足元を見て歩いた。
前には子供を抱いた女がいる。
その先を、案内の男と兵が進んでいた。
家宰は後ろを確かめながら歩いていた。
「急いで。葦の陰へ入れば、上からは見えにくくなります」
城の方から声が聞こえた。
フェリックスは振り返ろうとした。
母の手が、少し強くなった。
「前を見て」
「でも」
「転ばないように」
少年は足元へ目を戻した。
道の脇に、濡れた石があった。
母が先に足を置き、フェリックスを渡らせる。
川の水が近くなった。
葦が風で揺れている。
先に出た領民が、その中へ入っていった。
後ろで声がした。
「いたぞ!」
家宰が振り返った。
通用門の方に、兵が見えた。
こちらの兵ではなかった。
「走れ!」
護衛の一人が叫んだ。
前にいた兵が戻ってくる。
狭い道へ盾を向けた。
母がフェリックスの手を引いた。
少年は走った。
靴が石へ当たる。
つまずきかけ、母に支えられた。
背後で、何かがぶつかった。
母の手が揺れた。
「母上?」
母が膝をついた。
外套の脇から、矢の軸が出ていた。
フェリックスは立ち止まった。
家宰が駆け寄り、母の身体を支える。
「立てますか」
母は立とうとした。
足を踏ん張る。
だが、顔が歪み、また膝が落ちた。
家宰が肩を担ごうとする。
後ろで護衛が叫んだ。
「長くは持ちません!」
母は、その方を見た。
兵が一人、道へ倒れた。
残った兵の盾が押されている。
「この子を」
母が言った。
家宰は首を振った。
「まだ、お運びできます」
「二人とも捕まります」
母の手が、フェリックスの頬へ触れた。
指が冷たかった。
「家宰と行きなさい」
「嫌です」
声が出た。
「母上も」
「フェリックス」
「歩けます。僕が支えます」
少年は母の腕を取った。
引こうとした。
持ち上がらなかった。
家宰が少年の肩へ手を掛ける。
フェリックスは振り払おうとした。
「待ってください。まだ」
母が家宰を見た。
「お願いします」
家宰の顔が歪んだ。
次の瞬間、フェリックスの身体が持ち上がった。
「母上!」
手を伸ばした。
指先が母の外套へ触れ、離れた。
家宰が走った。
少年は肩越しに母を見た。
母は道の脇に座り、こちらを見ていた。
何か言った。
聞こえなかった。
「母上!」
葦が視界を塞いだ。
フェリックスは叫び続けた。
家宰の腕は、緩まなかった。
◇ ◇ ◇
ルーカスは広間の入口で、最後の兵とともに敵を受けていた。
中庭は、もう敵のものになっていた。
領民の悲鳴が聞こえる。
武器を持たない者へも、兵が向かっていた。
「やめろ!」
ルーカスは叫んだ。
「その者たちは兵ではない!」
返事はなかった。
目の前の槍が突き出された。
盾で払った。
腕が上がりきらない。
槍の先が脇を裂いた。
息が止まった。
隣の兵が前へ出る。
ルーカスは壁へ手をついた。
指の間へ血が流れた。
「領主様」
兵が振り返った。
「私が受けます。奥へ」
奥に、逃げられる道はなかった。
ルーカスは首を振った。
剣を握り直す。
敵の盾がぶつかってきた。
隣の兵が倒れた。
ルーカスは剣を振った。
盾の縁へ当たった。
手から力が抜ける。
横から腕を打たれ、剣が落ちた。
膝をついたところへ、槍が向けられた。
「こいつだ」
敵兵が言った。
「領主だ」
ルーカスは顔を上げた。
中庭の向こうから、鎧を着た男が歩いてきた。
朝の使者ではない。
兵たちが道を空ける。
「門を開けていれば、こうはならなかった」
男が言った。
ルーカスは、その顔を見た。
「領民を……」
呼吸を整える。
「領民には、手を出すな」
「命令を拒んだのは、お前だ」
「拒んだのは私だ。あの者たちではない」
男は答えず、兵へ向いた。
「城門の前へ連れていけ」
両腕を取られた。
立たされると、脇の傷が開いた。
ルーカスは歯を食いしばった。
中庭を歩かされた。
門の向こうに、町が見える。
家の戸を壊している兵がいた。
荷を引きずり出している者もいる。
男が命じた。
「運べるものを出したら、火を掛けろ」
ルーカスは足を止めた。
「何を言っている」
「殿下の旗を頼れば、家も町も守れると思わせるわけにはいかん」
男はルーカスを見た。
「ほかの領主にも、見せておく」
ルーカスは身体をひねった。
腕を押さえる兵が力を込める。
傷が痛んだ。
膝が折れた。
城門の外へ引き出された。
町の先に、街道が伸びていた。
その向こうは、丘に隠れている。
ルーカスは目を凝らした。
旗は見えなかった。
馬の蹄の音も、聞こえなかった。
ただ、遠くへ出した使者はいる。
妻と、あの子も、そちらへ向かっているはずだった。
ルーカスは、街道を見たまま息を吐いた。
後ろで剣が抜かれた。
◇ ◇ ◇
前から戻ってきた斥候は、馬を止める前に叫んだ。
「城が落ちています!」
レオンハルトが顔を上げた。
アレクも、声の方へ馬を寄せた。
「確かめたか」
「城門が開き、敵兵が出入りしております。町にも火が」
「ルーカスは」
「分かりません。避難してきた者を見つけましたが、城内のことまでは」
レオンハルトはマティアスへ向いた。
「騎馬を先へ出す」
「近衛とカスパルの隊から二百騎。残る二百騎は、歩兵と荷車に付けろ」
「承知しました。歩兵と火槍隊は、私が連れていきます」
「逃げてきた者を受け入れる場所を作れ。手当ての者も」
「こちらで」
マティアスは頷いた。
レオンハルトが剣帯を直した。
「カスパル、来い」
カスパルが馬を進める。
騎馬の隊長たちへ命令が伝わった。
馬が街道を駆け始めた。
アレクは、その後ろ姿を見た。
自分も行きたかった。
馬へ踵を入れれば、追える。
だが、後ろには火槍隊がいる。
ギルベルトがアレクを見ていた。
「アレク様」
アレクは手綱を握り直した。
「隊を進めます」
声が、少し掠れた。
「前の道は空きました。遅れた者がいないか、確かめながら」
「はい」
マティアスは前を向いたままだった。
それでも、声ははっきりしていた。
「荷車の場所を空けろ。負傷者を乗せられるようにする」
ロベルトが動いた。
兵が荷をまとめ直す。
火槍隊の列が、再び進み始めた。
◇ ◇ ◇
丘を越えると、町が見えた。
レオンハルトは馬上で息を止めた。
屋根から炎が上がっていた。
通りの奥へ煙が流れ、見慣れたはずの道が黒く霞んでいる。
城の上に、ルーカスの旗はなかった。
街道へ、人が逃げてきていた。
片方の靴を失った男。
子供を抱いた女。
腕を押さえ、何度も後ろを振り返る兵。
レオンハルトは馬を止めた。
「こちらへ来い!」
カスパルの兵が道へ広がる。
「味方だ! そのまま進め!」
女が足を止めた。
黒い旗を見上げた。
次の瞬間、地面へ座り込んだ。
「来てくださった……」
声が泣き声に変わった。
兵が駆け寄る。
レオンハルトは、その向こうを見た。
葦の付いた外套を着た老人が歩いていた。
片腕で、少年を抱えるように支えている。
少年は足を動かしていたが、顔を上げていなかった。
レオンハルトは馬を下りた。
「フェリックス」
少年の足が止まった。
ゆっくり、顔が上がる。
頬に泥が付いていた。
唇が震えていた。
レオンハルトは近づいた。
「フェリックス。父はどこだ」
少年の口が開いた。
声は出なかった。
もう一度、何か言おうとする。
「父上は……」
そこで、息が詰まった。
家宰が頭を下げた。
「城に、お残りになりました」
声が震えている。
「奥方様とお坊ちゃまを、私にお預けになり……」
「奥方は」
家宰は答えなかった。
少年の肩へ置いた手が、強くなる。
フェリックスが言った。
「母上が、歩けなくなって」
レオンハルトは少年を見た。
「僕が、支えようと……でも」
言葉が続かない。
家宰が目を閉じた。
「追手が参りました。奥方様は、お坊ちゃまを連れていくようにと」
レオンハルトの顎が強張った。
カスパルがそばへ来た。
少し離れたところで、傷を負った兵が二人、支えられて座っていた。
「通用門から出た護衛です」
カスパルが言った。
レオンハルトは兵へ目を向けた。
一人が頭を下げた。
「奥方様は……敵に」
それ以上、言えなかった。
レオンハルトは目を閉じた。
短く息を吐く。
「手当てを受けろ」
兵が肩を震わせた。
「申し訳、ございません」
「今は、生きろ」
レオンハルトはフェリックスへ向き直った。
少年は城を見ていた。
父のいる場所を探すように、煙の向こうを見つめていた。
◇ ◇ ◇
城門の方から逃げてきた男が、騎馬の兵に連れられてきた。
町で革を扱っていたという。
家の裏へ隠れ、敵兵が荷を運び出している間に抜けてきた。
カスパルは男を道の脇へ呼んだ。
レオンハルトも近づいた。
「領主を見たか」
男は頷いた。
顔が真っ白だった。
「門の前へ、連れてこられました」
「生きていたか」
「その時は」
レオンハルトは動かなかった。
男は両手を握った。
「兵が、剣を……」
声が消えた。
レオンハルトは男の顔を見た。
問い直さなかった。
男が泣き始めた。
「止められませんでした。隠れて、見ているだけで」
カスパルが男の肩を支えた。
レオンハルトは城門の方を見た。
煙が流れていた。
ここから、門の前は見えなかった。
それでも、もう尋ねることはなかった。
後ろで、足音がした。
フェリックスが立っていた。
家宰が隣にいる。
止めようとしたのだろう。
伸ばした手が、少年の背に触れたままになっていた。
「父上は」
フェリックスが言った。
レオンハルトは振り返った。
少年の目が、こちらを見ている。
「父上は、亡くなったのですか」
レオンハルトの唇が動いた。
言葉にするまで、少し時間が掛かった。
「……ああ」
フェリックスは瞬きをした。
一度。
もう一度。
それから、顔が歪んだ。
「来てくださると」
声が震えた。
「知らせが届けば、殿下は、必ず動いてくださると」
レオンハルトは何も言わなかった。
フェリックスが一歩近づいた。
「ずっと、城を守って……」
息を吸おうとして、喉が鳴った。
涙が頬を伝った。
「父上は……ずっと、レオンハルト殿下をお待ちしておりました」
レオンハルトは、少年の前へ膝をついた。
鎧が地面へ触れた。
フェリックスの顔が、すぐ前にあった。
以前、父の隣で名乗った少年だった。
背を伸ばし、自分が跡継ぎだと伝えようとしていた。
その父が、もういない。
「……間に合わなかった」
レオンハルトは言った。
目に涙が浮かんでいた。
瞬きをしても、消えなかった。
「すまない」
フェリックスが首を振った。
何を否定しているのか、本人にも分からないようだった。
「父上……」
少年の手が、レオンハルトの外套を掴んだ。
「母上も……」
レオンハルトは、その身体を受け止めた。
小さな肩が震えていた。
鎧へ額を押しつけ、声を上げて泣いていた。
レオンハルトは少年の背へ手を回した。
大丈夫だとは言わなかった。
もう、父も母も戻らない。
抱きしめたまま、ただ、その泣き声を聞いていた。
◇ ◇ ◇
マティアスたちが到着した時、街道の脇では負傷者の手当てが始まっていた。
荷車が寄せられる。
水を運ぶ兵が走っていた。
アレクは馬を下りた。
煙の臭いがした。
木だけではない。
布や、食べ物や、さまざまなものが焼ける臭いだった。
町の方で、屋根が崩れた。
大きな音がして、火の粉が舞った。
アレクは城を見た。
ルーカスと話した場所が、煙の中にあった。
フェリックスが名乗った時の声を思い出した。
まだ、何日も経っていない。
マティアスはレオンハルトのもとへ歩いていた。
その途中で、家宰に呼び止められた。
二人が短く話す。
マティアスの足が止まった。
家宰が頭を下げる。
マティアスは、しばらく顔を上げなかった。
やがて、家宰の肩へ手を置いた。
何か言った。
アレクには聞こえなかった。
レオンハルトのそばには、フェリックスがいた。
泣き疲れたのか、声は小さくなっていた。
それでも、外套を掴む手は離れない。
マティアスが膝をついた。
「フェリックス」
少年が顔を向けた。
「マティアス、様」
「ああ」
マティアスは少年の泥の付いた手へ、自分の手を添えた。
「こちらで、少し休もう。家宰も一緒だ」
フェリックスは城を見た。
「父上が」
マティアスの指が止まった。
「……うん」
それだけ答えた。
少し間を置き、続ける。
「父上のことは、私たちに任せてくれ」
少年は目を伏せた。
「一人にはしない」
マティアスが言った。
フェリックスの手が、ようやく外套から離れた。
家宰が身体を支える。
マティアスも立ち、少年を手当ての場所へ連れていった。
アレクは道を空けた。
フェリックスが、こちらを見た。
何か言おうとした。
声にはならなかった。
アレクは頭を下げた。
「ここにいます」
それしか言えなかった。
少年が通り過ぎた。
アレクは自分の馬を見た。
まだ、立っている。
乗れば走れる。
行軍中も、自分だけなら先へ行けた。
だが、兵は歩いていた。
火槍隊が同じ速さで進めていたら。
あの切り通しへ、もっと早く着いていたら。
考えが、そこへ戻ってしまう。
騎馬だけで来れば救えたのか。
それは分からない。
分からなくても、燃える町を前にすると、考えることをやめられなかった。
「アレク様」
ギルベルトが呼んだ。
アレクは顔を上げた。
「隊長たちが、指示を待っております」
後ろに、火槍隊が並んでいた。
兵も町を見ていた。
誰も、声を出していなかった。
アレクは息を吸った。
煙で喉が痛んだ。
「弾薬を確かめてください」
ギルベルトが頷く。
「いつでも動けるように」
◇ ◇ ◇
レオンハルトは立ち上がった。
外套の胸元が、涙で濡れていた。
その跡を見た。
手で拭おうとはしなかった。
カスパルが近づいた。
「敵は、まだ町の北側におります」
「城は」
「兵が残っています。荷を積んだ車を、北の道へ出そうとしているようです」
レオンハルトは町を見た。
家から奪ったものを運び出す。
残りへ火を掛ける。
そのために、まだ留まっている。
剣の柄へ手を置いた。
「逃げてくる者の道を空けろ」
まず、そう命じた。
「こちらの兵を見て、町へ戻る者が出ぬようにしろ。家族を探す者の名は控えろ」
エイドリアンが頷いた。
「西側で受け入れます」
「ロベルト。水を運べる者と、道具を持つ者を集めろ。兵が道を押さえてから町へ入れ。まだ敵のいる通りへ、消火の者だけを出すな」
「承知しました」
ロベルトが走った。
ヴィクトルが盾兵を連れてきた。
「進めます」
レオンハルトは、その列を見た。
「町へ入る。領民と敵を見分けろ。武器を捨てた者まで、斬るな」
「はい」
マティアスが戻ってきた。
目の縁が赤かった。
だが、声は静かだった。
「火槍隊も動かせます」
レオンハルトは頷いた。
カスパルへ向く。
「北の道を押さえろ。荷車だけではない。敵兵を抜けさせるな」
「承知しました」
「深く入りすぎるな。こちらが押すまで、退路を塞げ」
カスパルが馬へ向かった。
マティアスが尋ねた。
「捕らえた指揮官は」
「誰が命じたか、話させる」
レオンハルトの目が城へ向いた。
「ルーカスを殺した者も、火を掛けさせた者も」
アレクは、その横顔を見た。
怒鳴ってはいなかった。
剣を振り回してもいない。
それなのに、近くにいるだけで背筋が冷えた。
レオンハルトが馬へ乗った。
兵が旗を上げる。
金の獅子を描いた黒旗が、煙を含んだ風を受けた。
ルーカスが待っていた旗だった。
レオンハルトは燃える町へ馬を向けた。
「この町を焼いた連中を、逃がすな」
第十八話を読んでいただき、ありがとうございました。
ルーカスが待ち続けた旗は、ようやくグレンツベルクへ届きました。
残されたフェリックスと、彼を受け止めたレオンハルトたちの歩みを、引き続き見届けていただけましたら幸いです。
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