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『知らない世界で、前世の知識が武器になる』 ~剣と銃で乱世を生き抜く転生領主の成り上がり~  作者: 相田 ソウ
第六篇 乱世を動かす火

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第十八話 待ち続けた旗

救援軍が道を急ぐ一方、グレンツベルクでは城を守る戦いが続いていた。

ルーカスが待つ旗と、友のもとへ向かうレオンハルト。それぞれの決断の先にあるものは。

 門へ打ちつけられる音が、城の奥まで響いていた。

 ルーカスは城壁の上で、剣を握り直した。

 巻いた布の下で腕が痛む。

 指は動いた。

 まだ、盾も持てた。

 城壁と門を守れる兵は百人まで減っていた。門前へ六十人、東西の壁へ二十人ずつを置き、交代に回せる者はもういない。今度は六百ほどの新手が寄せ、休む間を与えず梯子を掛けてきた。

「東へ、もう五人!」

 指揮官の声がした。

 ルーカスはそちらを見た。

 梯子が二本、壁へ掛かっている。

 兵が押し返そうとしていたが、下から飛んでくる矢に身を伏せた。

 その間に、敵の兜が石の縁から現れた。

「私が行く」

 ルーカスは近くの兵を連れて走った。

 敵兵の片足が城壁へ乗る。

 味方の槍が向かった。

 相手は盾で払い、身体を引き上げようとした。

 ルーカスが横から盾を当てた。

 敵兵の足が滑る。

 石へ掛けた手を離し、姿が消えた。

「梯子を!」

 兵が棒を差し込む。

 ルーカスも手を添えた。

 下で支えている者がいるのか、重かった。

 腕へ力を入れる。

 痛みが肩まで走った。

 それでも押した。

 梯子の先が、ゆっくり外へ傾く。

 隣の兵が声を上げた。

 もう一度、押す。

 梯子が壁から離れた。

 下から悲鳴が上がった。

 ルーカスは棒を放し、息を吐いた。

 すぐ隣では、もう一本の梯子へ兵が集まっていた。

 そちらも押し返した。

 城壁の上へ静けさが戻ったのは、ほんの短い間だけだった。

「矢が足りません!」

 弓兵が叫んだ。

「残りは」

「こちらの束で最後です!」

 ルーカスは足元を見た。

 空になった矢筒が転がっている。

 少し離れた場所では、兵が膝をついたまま動かなかった。

 休んでいるのではない。

 首の脇へ布を当て、別の兵が必死に押さえていた。

「使える矢を集めろ。下からも運ばせる」

 命じてから、城の西側へ目を向けた。

 昨日の夕方に出した使者は戻っていない。

 朝から見ている街道にも、黒い旗はなかった。

「領主様」

 家宰が階段を上がってきた。

 肩で息をしている。

「川へ下りる道を見ていた者が戻りました」

「通れるか」

「敵の見張りが、北へ移ったそうです。通用門から葦原までなら、今は」

 ルーカスは家宰を見た。

「その先は」

「川沿いを少し下り、林へ入れます。ただ、道が細く、馬車は無理です」

「歩いて行ける者を出せ」

「ですが、全員は」

「分かっている。見つかるまでに通れる者だけでもよい。案内を付けろ」

 家宰が頷いた。

 ルーカスは、その腕を取った。

「妻と、あの子も」

 ルーカスは門前の守りから三人を抜き、避難する者たちの護衛へ回すよう命じた。

 家宰の表情が変わった。

「領主様は」

「ここを離れれば、すぐに追いつかれる」

 また、門へ丸太がぶつかった。

 石の下から、木の裂ける音がした。

 ルーカスは家宰の腕を離した。

「支度をさせてくれ。私もすぐに行く」

◇ ◇ ◇

 中庭では、兵が太い角材を運んでいた。

 門の裏へ当て、倒れないよう石を積む。

 打撃のたびに、木屑が落ちた。

 ルーカスは広間へ入った。

 妻がフェリックスの外套を留めていた。

 荷は小さな包みだけだった。

 少年が父を見た。

「父上」

 ルーカスは近づき、外套の紐を確かめた。

「家宰と一緒に、川の方へ行きなさい」

「城を出るのですか」

「ああ」

 フェリックスは母を見た。

 妻が頷く。

「足元の悪い所を通ります。手を離さないで」

 少年は、今度は父の剣を見た。

 ルーカスは剣帯を外さなかった。

「父上も、後からいらっしゃるのですね」

 ルーカスの手が止まった。

 城壁の方で、叫ぶ声がした。

 誰かの名を呼んでいる。

 続いて、兵を上へ寄越せという声が響いた。

 ルーカスは息子の肩へ手を置いた。

「行けるようにする。だから、母上の言うことを聞きなさい」

 フェリックスは頷かなかった。

 父の顔を見つめていた。

 ルーカスは、その目を見返した。

「フェリックス」

 名を呼ぶと、少年の唇が動いた。

「はい」

「歩けなくなったら、黙っていないで伝えるんだ。転んだ時も、一人で遅れようとするな」

「……はい」

 ルーカスは息子の髪へ触れた。

 妻が一歩、近づいた。

「待っています」

 ルーカスは妻を見た。

 いつもなら、何か返せた。

 先に休んでいてくれでも、すぐ戻るでもよかった。

 今は、どちらも言えなかった。

「あの子を頼む」

 妻の指が、ルーカスの手へ重なった。

 腫れた腕を避け、反対の手を握る。

「あなたも、来てください」

「ああ」

 短く答えた。

 指が離れた。

 家宰が扉を開ける。

 妻がフェリックスの手を取り、広間を出た。

 少年は扉のところで振り返った。

 ルーカスは立っていた。

 まだ、自分の足で立ち、剣を持っていた。

 フェリックスが頭を下げた。

 父も、小さく頷いた。

 扉の向こうへ二人の姿が消えた。

 ルーカスは、その場で一度だけ目を閉じた。

「領主様!」

 外から声がした。

 目を開ける。

 兵が駆け込んできた。

「東の壁に、敵が!」

 五人を回しても、倒れた者の穴を埋めただけだった。交代できぬまま二度目の攻撃を受け続け、東の守りがついに切れた。

 ルーカスは剣を抜いた。

◇ ◇ ◇

 東の城壁へ上がる階段を、味方の兵が下りてきた。

 後ろへ槍を向けている。

 その先に、敵がいた。

 一人ではなかった。

 盾を重ねた兵が上を押さえ、次々に梯子から仲間を引き上げていた。

 城壁を守っていた指揮官の姿は見えなかった。

「ここで受ける!」

 ルーカスは階段の下へ兵を並べた。

 逃げてきた味方を通す。

 最後の兵が脇へ寄ると、敵の槍が下りてきた。

 盾で受けた。

 下から突き返す。

 敵兵が足を引き、階段の上で止まった。

「広間へ入れさせるな!」

 ルーカスが叫んだ。

 兵が寄った。

 だが、上にいる敵は階段だけへ集まらなかった。

 城壁を門の方へ走っていく。

 ルーカスは顔を上げた。

「門だ!」

 声を飛ばす。

 門の内側で作業していた兵が振り返った。

 頭上から敵が下りてくる。

 斧を持っていた男が、そのまま向かっていった。

 槍で止められた。

 角材を運んでいた者が逃げる。

 門の裏で、剣がぶつかる音が続いた。

 ルーカスは兵を二人、そちらへ向かわせた。

 階段の敵が押してきた。

 盾へ重さが掛かる。

 昨日から痛む腕が、一瞬、下がった。

 敵の刃が肩の近くをかすめる。

 外套が裂けた。

 隣の兵が槍を突き出し、相手を退かせた。

「領主様、下がって!」

「まだだ!」

 ルーカスは盾を上げ直した。

 門の方で、大きな音がした。

 積んでいた石が崩れる。

 角材が倒れた。

 続いて、閂を外す音が聞こえた。

 ルーカスは振り返った。

 重い扉の片方が、内側へ動いていた。

 外から槍が入る。

 盾が続く。

 押し広げられた隙間から、敵兵が中庭へ流れ込んだ。

◇ ◇ ◇

 川へ下りる道は、石壁と斜面の間にあった。

 フェリックスは母の手を握り、足元を見て歩いた。

 前には子供を抱いた女がいる。

 その先を、案内の男と兵が進んでいた。

 家宰は後ろを確かめながら歩いていた。

「急いで。葦の陰へ入れば、上からは見えにくくなります」

 城の方から声が聞こえた。

 フェリックスは振り返ろうとした。

 母の手が、少し強くなった。

「前を見て」

「でも」

「転ばないように」

 少年は足元へ目を戻した。

 道の脇に、濡れた石があった。

 母が先に足を置き、フェリックスを渡らせる。

 川の水が近くなった。

 葦が風で揺れている。

 先に出た領民が、その中へ入っていった。

 後ろで声がした。

「いたぞ!」

 家宰が振り返った。

 通用門の方に、兵が見えた。

 こちらの兵ではなかった。

「走れ!」

 護衛の一人が叫んだ。

 前にいた兵が戻ってくる。

 狭い道へ盾を向けた。

 母がフェリックスの手を引いた。

 少年は走った。

 靴が石へ当たる。

 つまずきかけ、母に支えられた。

 背後で、何かがぶつかった。

 母の手が揺れた。

「母上?」

 母が膝をついた。

 外套の脇から、矢の軸が出ていた。

 フェリックスは立ち止まった。

 家宰が駆け寄り、母の身体を支える。

「立てますか」

 母は立とうとした。

 足を踏ん張る。

 だが、顔が歪み、また膝が落ちた。

 家宰が肩を担ごうとする。

 後ろで護衛が叫んだ。

「長くは持ちません!」

 母は、その方を見た。

 兵が一人、道へ倒れた。

 残った兵の盾が押されている。

「この子を」

 母が言った。

 家宰は首を振った。

「まだ、お運びできます」

「二人とも捕まります」

 母の手が、フェリックスの頬へ触れた。

 指が冷たかった。

「家宰と行きなさい」

「嫌です」

 声が出た。

「母上も」

「フェリックス」

「歩けます。僕が支えます」

 少年は母の腕を取った。

 引こうとした。

 持ち上がらなかった。

 家宰が少年の肩へ手を掛ける。

 フェリックスは振り払おうとした。

「待ってください。まだ」

 母が家宰を見た。

「お願いします」

 家宰の顔が歪んだ。

 次の瞬間、フェリックスの身体が持ち上がった。

「母上!」

 手を伸ばした。

 指先が母の外套へ触れ、離れた。

 家宰が走った。

 少年は肩越しに母を見た。

 母は道の脇に座り、こちらを見ていた。

 何か言った。

 聞こえなかった。

「母上!」

 葦が視界を塞いだ。

 フェリックスは叫び続けた。

 家宰の腕は、緩まなかった。

◇ ◇ ◇

 ルーカスは広間の入口で、最後の兵とともに敵を受けていた。

 中庭は、もう敵のものになっていた。

 領民の悲鳴が聞こえる。

 武器を持たない者へも、兵が向かっていた。

「やめろ!」

 ルーカスは叫んだ。

「その者たちは兵ではない!」

 返事はなかった。

 目の前の槍が突き出された。

 盾で払った。

 腕が上がりきらない。

 槍の先が脇を裂いた。

 息が止まった。

 隣の兵が前へ出る。

 ルーカスは壁へ手をついた。

 指の間へ血が流れた。

「領主様」

 兵が振り返った。

「私が受けます。奥へ」

 奥に、逃げられる道はなかった。

 ルーカスは首を振った。

 剣を握り直す。

 敵の盾がぶつかってきた。

 隣の兵が倒れた。

 ルーカスは剣を振った。

 盾の縁へ当たった。

 手から力が抜ける。

 横から腕を打たれ、剣が落ちた。

 膝をついたところへ、槍が向けられた。

「こいつだ」

 敵兵が言った。

「領主だ」

 ルーカスは顔を上げた。

 中庭の向こうから、鎧を着た男が歩いてきた。

 朝の使者ではない。

 兵たちが道を空ける。

「門を開けていれば、こうはならなかった」

 男が言った。

 ルーカスは、その顔を見た。

「領民を……」

 呼吸を整える。

「領民には、手を出すな」

「命令を拒んだのは、お前だ」

「拒んだのは私だ。あの者たちではない」

 男は答えず、兵へ向いた。

「城門の前へ連れていけ」

 両腕を取られた。

 立たされると、脇の傷が開いた。

 ルーカスは歯を食いしばった。

 中庭を歩かされた。

 門の向こうに、町が見える。

 家の戸を壊している兵がいた。

 荷を引きずり出している者もいる。

 男が命じた。

「運べるものを出したら、火を掛けろ」

 ルーカスは足を止めた。

「何を言っている」

「殿下の旗を頼れば、家も町も守れると思わせるわけにはいかん」

 男はルーカスを見た。

「ほかの領主にも、見せておく」

 ルーカスは身体をひねった。

 腕を押さえる兵が力を込める。

 傷が痛んだ。

 膝が折れた。

 城門の外へ引き出された。

 町の先に、街道が伸びていた。

 その向こうは、丘に隠れている。

 ルーカスは目を凝らした。

 旗は見えなかった。

 馬の蹄の音も、聞こえなかった。

 ただ、遠くへ出した使者はいる。

 妻と、あの子も、そちらへ向かっているはずだった。

 ルーカスは、街道を見たまま息を吐いた。

 後ろで剣が抜かれた。

◇ ◇ ◇

 前から戻ってきた斥候は、馬を止める前に叫んだ。

「城が落ちています!」

 レオンハルトが顔を上げた。

 アレクも、声の方へ馬を寄せた。

「確かめたか」

「城門が開き、敵兵が出入りしております。町にも火が」

「ルーカスは」

「分かりません。避難してきた者を見つけましたが、城内のことまでは」

 レオンハルトはマティアスへ向いた。

「騎馬を先へ出す」

「近衛とカスパルの隊から二百騎。残る二百騎は、歩兵と荷車に付けろ」

「承知しました。歩兵と火槍隊は、私が連れていきます」

「逃げてきた者を受け入れる場所を作れ。手当ての者も」

「こちらで」

 マティアスは頷いた。

 レオンハルトが剣帯を直した。

「カスパル、来い」

 カスパルが馬を進める。

 騎馬の隊長たちへ命令が伝わった。

 馬が街道を駆け始めた。

 アレクは、その後ろ姿を見た。

 自分も行きたかった。

 馬へ踵を入れれば、追える。

 だが、後ろには火槍隊がいる。

 ギルベルトがアレクを見ていた。

「アレク様」

 アレクは手綱を握り直した。

「隊を進めます」

 声が、少し掠れた。

「前の道は空きました。遅れた者がいないか、確かめながら」

「はい」

 マティアスは前を向いたままだった。

 それでも、声ははっきりしていた。

「荷車の場所を空けろ。負傷者を乗せられるようにする」

 ロベルトが動いた。

 兵が荷をまとめ直す。

 火槍隊の列が、再び進み始めた。

◇ ◇ ◇

 丘を越えると、町が見えた。

 レオンハルトは馬上で息を止めた。

 屋根から炎が上がっていた。

 通りの奥へ煙が流れ、見慣れたはずの道が黒く霞んでいる。

 城の上に、ルーカスの旗はなかった。

 街道へ、人が逃げてきていた。

 片方の靴を失った男。

 子供を抱いた女。

 腕を押さえ、何度も後ろを振り返る兵。

 レオンハルトは馬を止めた。

「こちらへ来い!」

 カスパルの兵が道へ広がる。

「味方だ! そのまま進め!」

 女が足を止めた。

 黒い旗を見上げた。

 次の瞬間、地面へ座り込んだ。

「来てくださった……」

 声が泣き声に変わった。

 兵が駆け寄る。

 レオンハルトは、その向こうを見た。

 葦の付いた外套を着た老人が歩いていた。

 片腕で、少年を抱えるように支えている。

 少年は足を動かしていたが、顔を上げていなかった。

 レオンハルトは馬を下りた。

「フェリックス」

 少年の足が止まった。

 ゆっくり、顔が上がる。

 頬に泥が付いていた。

 唇が震えていた。

 レオンハルトは近づいた。

「フェリックス。父はどこだ」

 少年の口が開いた。

 声は出なかった。

 もう一度、何か言おうとする。

「父上は……」

 そこで、息が詰まった。

 家宰が頭を下げた。

「城に、お残りになりました」

 声が震えている。

「奥方様とお坊ちゃまを、私にお預けになり……」

「奥方は」

 家宰は答えなかった。

 少年の肩へ置いた手が、強くなる。

 フェリックスが言った。

「母上が、歩けなくなって」

 レオンハルトは少年を見た。

「僕が、支えようと……でも」

 言葉が続かない。

 家宰が目を閉じた。

「追手が参りました。奥方様は、お坊ちゃまを連れていくようにと」

 レオンハルトの顎が強張った。

 カスパルがそばへ来た。

 少し離れたところで、傷を負った兵が二人、支えられて座っていた。

「通用門から出た護衛です」

 カスパルが言った。

 レオンハルトは兵へ目を向けた。

 一人が頭を下げた。

「奥方様は……敵に」

 それ以上、言えなかった。

 レオンハルトは目を閉じた。

 短く息を吐く。

「手当てを受けろ」

 兵が肩を震わせた。

「申し訳、ございません」

「今は、生きろ」

 レオンハルトはフェリックスへ向き直った。

 少年は城を見ていた。

 父のいる場所を探すように、煙の向こうを見つめていた。

◇ ◇ ◇

 城門の方から逃げてきた男が、騎馬の兵に連れられてきた。

 町で革を扱っていたという。

 家の裏へ隠れ、敵兵が荷を運び出している間に抜けてきた。

 カスパルは男を道の脇へ呼んだ。

 レオンハルトも近づいた。

「領主を見たか」

 男は頷いた。

 顔が真っ白だった。

「門の前へ、連れてこられました」

「生きていたか」

「その時は」

 レオンハルトは動かなかった。

 男は両手を握った。

「兵が、剣を……」

 声が消えた。

 レオンハルトは男の顔を見た。

 問い直さなかった。

 男が泣き始めた。

「止められませんでした。隠れて、見ているだけで」

 カスパルが男の肩を支えた。

 レオンハルトは城門の方を見た。

 煙が流れていた。

 ここから、門の前は見えなかった。

 それでも、もう尋ねることはなかった。

 後ろで、足音がした。

 フェリックスが立っていた。

 家宰が隣にいる。

 止めようとしたのだろう。

 伸ばした手が、少年の背に触れたままになっていた。

「父上は」

 フェリックスが言った。

 レオンハルトは振り返った。

 少年の目が、こちらを見ている。

「父上は、亡くなったのですか」

 レオンハルトの唇が動いた。

 言葉にするまで、少し時間が掛かった。

「……ああ」

 フェリックスは瞬きをした。

 一度。

 もう一度。

 それから、顔が歪んだ。

「来てくださると」

 声が震えた。

「知らせが届けば、殿下は、必ず動いてくださると」

 レオンハルトは何も言わなかった。

 フェリックスが一歩近づいた。

「ずっと、城を守って……」

 息を吸おうとして、喉が鳴った。

 涙が頬を伝った。

「父上は……ずっと、レオンハルト殿下をお待ちしておりました」

 レオンハルトは、少年の前へ膝をついた。

 鎧が地面へ触れた。

 フェリックスの顔が、すぐ前にあった。

 以前、父の隣で名乗った少年だった。

 背を伸ばし、自分が跡継ぎだと伝えようとしていた。

 その父が、もういない。

「……間に合わなかった」

 レオンハルトは言った。

 目に涙が浮かんでいた。

 瞬きをしても、消えなかった。

「すまない」

 フェリックスが首を振った。

 何を否定しているのか、本人にも分からないようだった。

「父上……」

 少年の手が、レオンハルトの外套を掴んだ。

「母上も……」

 レオンハルトは、その身体を受け止めた。

 小さな肩が震えていた。

 鎧へ額を押しつけ、声を上げて泣いていた。

 レオンハルトは少年の背へ手を回した。

 大丈夫だとは言わなかった。

 もう、父も母も戻らない。

 抱きしめたまま、ただ、その泣き声を聞いていた。

◇ ◇ ◇

 マティアスたちが到着した時、街道の脇では負傷者の手当てが始まっていた。

 荷車が寄せられる。

 水を運ぶ兵が走っていた。

 アレクは馬を下りた。

 煙の臭いがした。

 木だけではない。

 布や、食べ物や、さまざまなものが焼ける臭いだった。

 町の方で、屋根が崩れた。

 大きな音がして、火の粉が舞った。

 アレクは城を見た。

 ルーカスと話した場所が、煙の中にあった。

 フェリックスが名乗った時の声を思い出した。

 まだ、何日も経っていない。

 マティアスはレオンハルトのもとへ歩いていた。

 その途中で、家宰に呼び止められた。

 二人が短く話す。

 マティアスの足が止まった。

 家宰が頭を下げる。

 マティアスは、しばらく顔を上げなかった。

 やがて、家宰の肩へ手を置いた。

 何か言った。

 アレクには聞こえなかった。

 レオンハルトのそばには、フェリックスがいた。

 泣き疲れたのか、声は小さくなっていた。

 それでも、外套を掴む手は離れない。

 マティアスが膝をついた。

「フェリックス」

 少年が顔を向けた。

「マティアス、様」

「ああ」

 マティアスは少年の泥の付いた手へ、自分の手を添えた。

「こちらで、少し休もう。家宰も一緒だ」

 フェリックスは城を見た。

「父上が」

 マティアスの指が止まった。

「……うん」

 それだけ答えた。

 少し間を置き、続ける。

「父上のことは、私たちに任せてくれ」

 少年は目を伏せた。

「一人にはしない」

 マティアスが言った。

 フェリックスの手が、ようやく外套から離れた。

 家宰が身体を支える。

 マティアスも立ち、少年を手当ての場所へ連れていった。

 アレクは道を空けた。

 フェリックスが、こちらを見た。

 何か言おうとした。

 声にはならなかった。

 アレクは頭を下げた。

「ここにいます」

 それしか言えなかった。

 少年が通り過ぎた。

 アレクは自分の馬を見た。

 まだ、立っている。

 乗れば走れる。

 行軍中も、自分だけなら先へ行けた。

 だが、兵は歩いていた。

 火槍隊が同じ速さで進めていたら。

 あの切り通しへ、もっと早く着いていたら。

 考えが、そこへ戻ってしまう。

 騎馬だけで来れば救えたのか。

 それは分からない。

 分からなくても、燃える町を前にすると、考えることをやめられなかった。

「アレク様」

 ギルベルトが呼んだ。

 アレクは顔を上げた。

「隊長たちが、指示を待っております」

 後ろに、火槍隊が並んでいた。

 兵も町を見ていた。

 誰も、声を出していなかった。

 アレクは息を吸った。

 煙で喉が痛んだ。

「弾薬を確かめてください」

 ギルベルトが頷く。

「いつでも動けるように」

◇ ◇ ◇

 レオンハルトは立ち上がった。

 外套の胸元が、涙で濡れていた。

 その跡を見た。

 手で拭おうとはしなかった。

 カスパルが近づいた。

「敵は、まだ町の北側におります」

「城は」

「兵が残っています。荷を積んだ車を、北の道へ出そうとしているようです」

 レオンハルトは町を見た。

 家から奪ったものを運び出す。

 残りへ火を掛ける。

 そのために、まだ留まっている。

 剣の柄へ手を置いた。

「逃げてくる者の道を空けろ」

 まず、そう命じた。

「こちらの兵を見て、町へ戻る者が出ぬようにしろ。家族を探す者の名は控えろ」

 エイドリアンが頷いた。

「西側で受け入れます」

「ロベルト。水を運べる者と、道具を持つ者を集めろ。兵が道を押さえてから町へ入れ。まだ敵のいる通りへ、消火の者だけを出すな」

「承知しました」

 ロベルトが走った。

 ヴィクトルが盾兵を連れてきた。

「進めます」

 レオンハルトは、その列を見た。

「町へ入る。領民と敵を見分けろ。武器を捨てた者まで、斬るな」

「はい」

 マティアスが戻ってきた。

 目の縁が赤かった。

 だが、声は静かだった。

「火槍隊も動かせます」

 レオンハルトは頷いた。

 カスパルへ向く。

「北の道を押さえろ。荷車だけではない。敵兵を抜けさせるな」

「承知しました」

「深く入りすぎるな。こちらが押すまで、退路を塞げ」

 カスパルが馬へ向かった。

 マティアスが尋ねた。

「捕らえた指揮官は」

「誰が命じたか、話させる」

 レオンハルトの目が城へ向いた。

「ルーカスを殺した者も、火を掛けさせた者も」

 アレクは、その横顔を見た。

 怒鳴ってはいなかった。

 剣を振り回してもいない。

 それなのに、近くにいるだけで背筋が冷えた。

 レオンハルトが馬へ乗った。

 兵が旗を上げる。

 金の獅子を描いた黒旗が、煙を含んだ風を受けた。

 ルーカスが待っていた旗だった。

 レオンハルトは燃える町へ馬を向けた。

「この町を焼いた連中を、逃がすな」

第十八話を読んでいただき、ありがとうございました。

ルーカスが待ち続けた旗は、ようやくグレンツベルクへ届きました。

残されたフェリックスと、彼を受け止めたレオンハルトたちの歩みを、引き続き見届けていただけましたら幸いです。

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