第十四話 帰らぬ兵
リートベルク救援の後、レオンハルトのもとへ新たな訴えが届く。
主君の帰還命令を受けながら、戻ることを許されない兵たちがいた。
翌朝、リートベルク城の中庭には、昨夜から干されていた布が揺れていた。
洗っても落ちなかった血の色が、薄く残っている。
アレクは負傷者の休む部屋へ向かった。
太腿に矢を受けた兵は、壁際の寝台に横たわっていた。
矢は抜かれ、傷には布が巻かれている。
こちらへ気づくと、兵は顔を上げた。
「子爵様」
「そのままで」
アレクは寝台の脇で足を止めた。
「眠れましたか」
「少しは」
声は出ていた。
だが、顔色はよくない。
兵は布団の下の脚を見た。
「歩ければ、戻れます」
「今、歩けるかどうかを試さなくて大丈夫です」
「ですが」
「戻れる時は、こちらから伝えます」
アレクは、隣で水を替えていた者へ顔を向けた。
「後ろへ運べそうですか」
「今日すぐは、揺らしたくありません。熱も見たいので」
「分かりました」
兵が唇を結んだ。
アレクはその顔へ視線を戻した。
「ここで治してください。運ぶ時も、あなた一人で戻すわけではありません」
「……はい」
部屋の外へ出ると、ギルベルトが待っていた。
火槍隊の報告を手にしている。
「すぐに戻れる者は、おりません」
「その人数で、しばらく動くつもりで考えましょう」
「九十五人で、列の組み直しは済ませています」
「ありがとうございます」
アレクは中庭を見た。
エドガーの兵が、壊れた盾を運んでいる。
城門の方では、倒された梯子を片づけていた。
勝った翌朝も、仕事は終わっていなかった。
門の外から馬の足音がした。
使者が二人、城へ入ってくる。
身につけている紋章は違った。
どちらも剣を預け、案内役の兵へ従って広間へ向かった。
「近くの領主からだそうです」
ギルベルトが言った。
「昨夜も、一人来ておりました」
「何の話でしょう」
「そこまでは」
アレクは、使者たちの背中を見送った。
昨日まで閉じられていた門へ、今は外から人が入ってきていた。
◇ ◇ ◇
最初の使者が申し出たのは、街道の通行だった。
自領を通る道のうち、荷車が使える場所と、雨が降れば避けるべき場所を記した紙を持ってきている。
次の使者は、穀物と飼葉を売れると伝えた。
ただし、量には限りがあり、荷を運ぶ者も付けてほしいという。
レオンハルトは、その場で臣従を求めなかった。
道の話はユリウスへ、荷の話はマティアスへ回す。
使者たちは少し意外そうな顔をしたが、用件を伝え終えると頭を下げた。
三人目が広間へ入ってきたのは、その後だった。
男は書状を差し出してからも、すぐには話し始めなかった。
「申してみろ」
レオンハルトが言った。
「殿下に、お力をお借りしたく参りました」
「何に困っている」
「兵が、戻りません」
マティアスが顔を上げた。
使者は膝の上で手を握っていた。
「主は、東部の盟約へ加わっております」
広間の空気が少し変わった。
壁際にいた騎士が、使者を見た。
男は視線を下げず、続けた。
「求めに応じ、兵を出しました。ですが、リートベルクへの攻撃を知り、帰還を命じております」
「その命令に、兵が従わぬのか」
レオンハルトが尋ねた。
「いえ。集められた先から、返していただけないのです」
使者は、もう一通の書状を出した。
共同防衛の編成へ入った以上、一家の都合では兵を戻せない。
帰還については、盟約を取りまとめる者の判断を待つように。
そう記されていた。
「帰還命令を持っていった者は、隊長へ会わせてもらえませんでした」
「どこの城だ」
マティアスが地図を引き寄せた。
使者が示したのは、リートベルクより北東にある城だった。
盟約へ加わった領主たちの兵が集められている。
「何人を出した」
「六十人です」
「ご当主のもとには」
「城と領内の見張りを残せば、動かせる兵はわずかです」
壁際の騎士が口を開いた。
「殿下。その家は、自ら盟約へ加わったのでしょう」
使者の肩が動いた。
「こちらと戦う側へ兵を出しておきながら、都合が悪くなれば助けを求めるのですか」
「当家の兵が、リートベルクを攻めたとは聞いておりません」
「聞いていないだけかもしれぬ」
使者が答えかけた。
レオンハルトが手を上げた。
「そこは調べる」
騎士へ向けて言う。
「誰の兵が、どこで何をしたかは確かめる。署名をしただけで、昨日ここを攻めたことにはならん」
「ですが、軽々しく認めれば」
「抜けようとする者まで押し戻せば、残って戦うしかなくなる」
騎士が口を閉じた。
レオンハルトは使者へ向き直った。
「ご当主は、なぜ兵を出した」
使者は少し迷った。
「周囲の家が加わり始め、当家だけでは、領地を守れぬとお考えになりました」
「出した兵が、他領を攻めるとは思っていなかったか」
「はい」
「今は、どう考えている」
「主の許しなく、他家の城を攻めるために使わせることはできぬと」
レオンハルトは書状を机へ置いた。
「その言葉を、ご当主の名で書け。誰を帰すのか、隊長の名と人数もだ」
「すでに、帰還命令の写しを持参しております」
「では、預かる」
マティアスが受け取った。
国王の退去命令に従って兵を引くことを妨げないよう、こちらからも要求する。
出された兵の行動については、別に確かめる。
使者はその説明を聞き、深く頭を下げた。
「何か、主よりお約束を差し出すべきでしょうか」
「今は、兵を戻せと本当に命じたことを示せ」
レオンハルトが答えた。
「俺へ何を差し出すか考える前に、自分の兵の行き先を決めろ」
使者は、もう一度頭を下げた。
広間を出る時には、入ってきた時よりも足取りが速かった。
◇ ◇ ◇
城外の宿営地へ、荷車が一台入ってきた。
荷台には、靴と飼葉が積まれている。
六十人を送り出した領主のもとから来た補給だった。
入口の兵が、荷を棒で押した。
「穀物は」
「今回は、こちらだけです」
御者が答えた。
「次に出せる分は、まだ決まっていないと」
兵は不満そうに鼻を鳴らした。
だが、通行を止める理由にはしなかった。
領主たちは兵を出しても、その兵を養う荷の一部は自領から送っていた。
何も届かなければ、宿営地の食料が先に減る。
「受け取りを済ませたら、すぐ出ろ」
「承知しました」
荷車が天幕の間を進む。
兵の一人が駆け寄り、見慣れた御者へ声を掛けた。
「靴は来たか」
「来た。先に隊長を呼んでくれ」
「また数が合わないのか」
「いいから」
御者の顔を見て、兵は口を閉じた。
隊長は、靴の受け取りを確かめるために荷車へ来た。
御者は荷の記録を差し出した。
その下に、別の封があった。
隊長の指が止まる。
「ご領主様からです」
御者が小声で言った。
「今度は、必ずお渡しするようにと」
隊長は書状を受け取った。
自分の天幕へ戻り、封を切る。
読み終えるまで、誰も入れなかった。
外では兵が、新しい靴を合わせている。
笑い声が一度上がり、すぐに途切れた。
隊長は書状を畳み、懐へ収めた。
それから、宿営地を預かる騎士のもとへ向かった。
「帰還命令を受けました」
騎士は顔を上げた。
「誰から」
「我が主からです」
「こちらには、そのような話は来ていない」
「使者をお出しになったとあります」
「兵を戻すことは、今、認められていない」
隊長は立ったまま、騎士を見た。
「主の命令です」
「ここへ来た以上、共同防衛の指揮に従え」
「他領を攻めるために出された兵ではありません」
騎士の目が細くなった。
「誰が、そんなことを言った」
「リートベルクで戦があったと、皆が聞いております」
「噂で動くな」
「噂ではなく、主の書状で動いております」
しばらく沈黙があった。
騎士は机の上へ手を置いた。
「書状を出せ」
隊長は懐から取り出した。
机へ置く。
騎士が読む間、その場を動かなかった。
「上へ確かめる」
「いつまで待てばよろしいでしょうか」
「それを決めるのは、そなたではない」
騎士は書状を置いた。
「兵には、武器を集めさせろ」
隊長の視線が上がった。
「なぜです」
「勝手に動かれては困る。返答が来るまで、こちらで預かる」
「我が主の兵装です」
「命令だ」
天幕の入口で、護衛の兵が姿勢を変えた。
隊長はその動きを見た。
ここで言い争えば、自分だけを残される。
兵へ何も伝えられなくなる。
隊長は机から書状を取った。
「承知しました。兵へ伝えます」
騎士は取り上げようとはしなかった。
印のある書状より、武器を集めることの方へ意識が向いていた。
隊長は天幕を出た。
自分の隊がいる場所まで、歩く速さを変えなかった。
◇ ◇ ◇
兵たちは、帰還命令が届いたと聞いて顔を上げた。
「帰れるのですか」
一人が尋ねた。
隊長は周囲を見た。
荷車のそばで、御者が待っている。
天幕の外にも、人がいる。
「声を落とせ」
兵たちが寄った。
隊長は書状を開いた。
主の印を見せる。
「我々は帰る。ご領主様の命令だ」
「許しが出たのですか」
「出ていない」
兵の顔から笑みが消えた。
「武器を預けて待てと言われた」
「預ければ、帰れません」
「ああ」
隊長は書状を畳んだ。
「天幕と荷の大半は置いていく。持つのは武器と、水と、食える分だけだ」
御者が口を開いた。
「荷車は」
「ここに残す。馬を一頭借りる」
「私は」
「一緒に来い。残せば、書状を運んだことを聞かれる」
御者は頷いた。
兵の一人が、まだ新しい靴を手にしていた。
「履き替えてよろしいですか」
「今、替えろ。歩けなくなってからでは遅い」
隊長は兵を見渡した。
顔を知っている。
同じ城で門を守り、同じ村から来た者たちだった。
誰の命令でここへ来たかも、分かっている。
「道を塞がれても、先に斬るな。帰還命令を受けたと伝える」
隊長は槍を取った。
「それでも止められたら、こちらへ任せろ。ばらばらに逃げるな」
兵たちが頷いた。
靴を履き替える者。
水袋を満たす者。
黙って天幕の中へ入り、荷を選ぶ者。
準備は長く掛けられなかった。
武器を集めに来る兵より先に、動かなければならない。
隊長は最後に、主の書状が懐にあることを確かめた。
◇ ◇ ◇
宿営地の出口で、見張りが槍を横へ向けた。
「どこへ行く」
「主の命令で帰還する」
隊長が答えた。
「道を開けてくれ」
「聞いていない」
「今、伝えた」
兵たちは止まっていた。
槍を構えてはいない。
だが、手放してもいなかった。
見張りが後ろを見た。
数人の兵が近づいてくる。
「武器を置いて待て。確かめる」
「それは、できない」
「命令に背くのか」
「我が主の命令に従う」
隊長は答えた。
近づいてきた兵が、列の端の男へ手を伸ばした。
槍を掴もうとする。
男が引いた。
「離せ!」
声が上がった。
見張りの槍が動く。
隊長は盾を前へ出した。
穂先が盾の縁を擦った。
「道を開けろ!」
隊長が押した。
後ろの兵も続く。
出口は狭い。
すぐに立ちはだかった見張りは八人だった。宿営地の兵が集まる前なら、列を組んだ六十人を止めるには足りない。
一度に何人も並べない。
だが、こちらの方が、すでに列を作っていた。
盾で押し、槍の柄で相手の武器を逸らす。
出口の兵がよろけた。
「進め!」
御者が馬を引いて抜けた。
兵が続く。
後ろから鐘が鳴った。
天幕の間で人が走り始める。
「止まるな!」
隊長は列の後ろへ回った。
最後の兵が抜ける時、叫び声がした。
腕を押さえ、身体を傾けている。
隊長はその襟を掴み、引いた。
別の兵が脇を支えた。
全員が出口を抜けた。
それでも、終わりではなかった。
城の方から、騎馬が動き出していた。
◇ ◇ ◇
追手は、最初の丘を越える前に見えた。
先に追いついたのは二十四騎。その後ろにも、八十人ほどの歩兵が続いていた。
馬を持つ者は速い。
こちらには、傷を負った兵もいる。
隊長は道の先を見た。
畑を分ける浅い溝があり、その横へ低い藪が続いていた。
「右へ寄れ!」
兵を街道から外す。
馬でまっすぐ突っ込めない場所へ入れる。
槍兵を後ろへ向けた。
追ってきた騎馬が速度を落とす。
「戻れ!」
先頭の騎士が叫んだ。
「今なら、罰は問わぬ!」
「主のもとへ帰る!」
隊長が返した。
「命令の書状がある!」
「ここでは、こちらの命令が先だ!」
騎士が馬を寄せた。
槍の穂先が上がる。
馬が首を振った。
騎士は舌打ちし、横へ回ろうとした。
隊長は兵へ向きを変えさせた。
追手は、すぐには踏み込めない。
その間に、負傷者を先へ運ぶ。
だが、後ろから歩兵も来る。
ここへ留まり続けることはできなかった。
「前から下がれ。後ろは私と残る」
隊長は近くの兵へ言った。
少しずつ退く。
槍を向けたまま歩くのは、前へ進むより遅い。
足が溝へ落ちる。
立て直したところへ、追手の歩兵が迫った。
槍がぶつかった。
兵の一人が倒れた。
隣の男が引き上げようとする。
「手を貸せ!」
隊長が叫んだ。
追手を盾で押し返す。
立ち上がった兵の額から、血が流れていた。
それでも歩けた。
動けなくなった者は、別にいた。
脚を傷つけた兵が、道の脇に座り込んでいる。
「私を置いて」
「馬へ乗せろ!」
隊長が遮った。
御者が馬を戻した。
二人で兵を持ち上げ、鞍のない背へ乗せる。
御者が手綱を持ち、歩き出した。
日が高くなる頃には、水袋が軽くなっていた。
兵たちの口数も減った。
城から離れるにつれ、追手は一度、距離を取った。
だが、姿は消えない。
丘の上で、騎馬がこちらを見ていた。
「このままでは、先へ回られます」
兵が言った。
隊長は道を見た。
自領へ戻る近道は、敵の集結地へ近い。
道を知る者が先回りすれば、次の渡し場で止められる。
御者が顔を上げた。
「南西へ行けば、グレンツベルクへ出ます」
「橋のある所か」
「はい。西から荷を入れた領主様です。リートベルクへも、殿下の兵を通したと聞いています」
隊長は迷った。
許しなく他領へ入れば、そこで止められるかもしれない。
だが、追手へ槍を向け続けたまま、自領まで歩けるとも思えなかった。
「領境まで行く」
隊長は決めた。
「そこで、事情を話す」
◇ ◇ ◇
イグナーツへ報告が届いたのは、翌日だった。
兵が宿営地を出た。
武器を預けるよう命じたが、従わなかった。
出口で衝突し、そのまま逃れた。
代官が読み上げる間、イグナーツは何も言わなかった。
「追っております」
「何人を戻した」
「まだ、報告は」
「では、一人も戻したと分からぬのだな」
代官が口を閉じた。
机には、別の書状もあった。
兵を帰してほしいという要求だった。
一家だけではない。
リートベルクの敗戦を知った家から、同じような言葉が届き始めている。
自領の守りが足りない。
農作業へ戻す者がいる。
病人が出たので、人を入れ替えたい。
理由は違う。
しかし、兵を減らそうとしていることは同じだった。
その下には、国王からの命令がある。
占拠した場所からの退去。
他家の城を攻めた経緯の説明。
イグナーツは、その二つを見比べた。
今、兵を返せば、別の家も求める。
応じれば、集めた兵が消えていく。
ロスヴァールへ示した城と街道も、守れなくなる。
「王都へ返書を出す」
イグナーツが言った。
書記が筆を取った。
「東部の混乱は、レオンハルト殿下の軍が進出したことで広がっている。諸侯の間で解決すべき争いへ大軍を入れられては、落ち着いた話し合いができぬ」
書記の筆が走る。
「まず、殿下の軍を引かせていただきたい。その上で、事情を説明する」
代官が顔を上げた。
「陛下は、先に退去を命じておられます」
「読んだ」
イグナーツは答えた。
「こちらだけ兵を引けば、空いた道を黒獅子が進む」
「ですが」
「国王陛下への忠誠に変わりはないと書け。東部の秩序を守るためだ」
書記が一度、筆を止めた。
それから続きを書いた。
イグナーツは代官へ向いた。
「兵の帰還は認めるな。命令を持ってくる者は、まず城で話を聞け。勝手に隊へ会わせるな」
「補給の者もですか」
「荷だけを受け取れ」
「街道は」
「集結地へ通じる道を固める。兵を連れて抜ける者は止めろ」
代官が頭を下げた。
「追手には、どこまで」
「帰還を許した家があると思わせるな。連れ戻せ」
イグナーツは国王の書状を脇へ寄せた。
空いた場所へ、兵の配置図を広げた。
◇ ◇ ◇
グレンツベルクの見張り場へ最初に来たのは、御者だった。
馬は連れていない。
両手を見せながら、道を歩いてきた。
「止まれ」
見張りが槍を構えた。
「何者だ」
御者は名と、仕えている家を告げた。
「兵が、後ろにおります。領内へ入る許しをいただきたいのです」
「何人だ」
「六十人です。怪我をした者もいます」
見張りの顔が険しくなった。
「武装しているのか」
「しています。ですが、こちらと戦うつもりはありません」
「そこで待て」
見張りの一人が走った。
ほどなく、指揮官が来た。
御者は、隊長が預けた書状を差し出した。
帰還命令だった。
指揮官は印を見た。
すぐには通さなかった。
「隊長を呼べ。ほかの兵は、境の向こうで待たせろ」
「負傷者だけでも」
「様子を見る者を出す」
指揮官は部下へ命じた。
武器を持つ兵と、布と水を持つ者が一緒に向かう。
隊長が来た時には、後方の丘に追手の騎馬が見えていた。
指揮官もそれを見た。
「追われているのか」
「帰還を認められず、宿営地を出ました」
「脱走ではないのだな」
「主の命令です」
隊長は書状を示した。
「ご領主様へ、確かめていただきたい」
指揮官は部下へ顔を向けた。
「領主様へ知らせろ。急げ」
◇ ◇ ◇
ルーカスは、報告を受けると席を立った。
フェリックスは、机の向かいで荷の記録を写していた。
父が外套を取るのを見て、筆を置く。
「兵が来たのですか」
「ああ」
「殿下の兵ですか」
「違う。自分の領主のもとへ帰ろうとしている兵だ」
ルーカスは家宰へ指示を出した。
兵を休ませるなら、領境近くの空き地を使う。
城や倉へ直接入れず、水と食料を運ぶ。
負傷者を診られる者も呼ぶ。
「お入れになるのですか」
「話を聞いてから決める。だが、傷を見せるまで水も飲ませぬということはない」
家宰が頷いた。
ルーカスはフェリックスを見た。
「今日は、ここまでにしよう」
「私も、行ってはいけませんか」
ルーカスの手が止まった。
少年は父を見ていた。
「邪魔はしません」
「後ろで待つことになるぞ」
「はい」
ルーカスは少し考え、家宰へ向いた。
「追手が近づいている間は、見張り場より前へ出すな」
「承知しました」
「私が呼ぶまで、こちらで待て」
フェリックスは頷いた。
ルーカスは先に出た。
◇ ◇ ◇
隊長の顔は、土と汗で汚れていた。
唇が乾き、声も掠れている。
それでも、ルーカスが来ると姿勢を正した。
「お騒がせしております」
「座ってよい」
「ですが」
「倒れてから話を聞く方が困る」
隊長は、道の脇の石へ腰を下ろした。
ルーカスは書状を読んだ。
印だけで決めず、隊長の名と、率いている兵の数を確かめる。
六十人のうち八人が傷を負い、二人は自分の足だけでは歩けなかった。それでも、失った兵はいないと隊長は答えた。
使者として来た御者へも話を聞いた。
以前この道を使ったことがあり、見張りの一人が顔を覚えていた。
「ご当主へ、こちらから人を出す」
ルーカスが言った。
「帰還命令が本物か、確かめる」
「お願いいたします」
「その間、兵は私の者が立ち会う場所で休ませる。武器は勝手に持ち歩くな。動かす時は隊長へ預け、こちらにも知らせろ」
「承知しました」
「城へ入れるのではない。領内を自由に歩かせることもできん」
「休ませていただけるだけで、助かります」
隊長が頭を下げた。
ルーカスは後方を見た。
追手の騎馬が、まだ丘の上にいる。
こちらの兵が増えたのを見て、近づかずに待っていた。
「負傷者から通せ」
ルーカスが命じた。
馬に乗せられていた兵が、両側から支えられる。
脚を下ろす時、顔が歪んだ。
ルーカスの兵が手を貸した。
次に、肩を借りて歩く者が来る。
額へ巻いた布が赤くなっている。
兵たちは境を越えても、すぐには気を抜かなかった。
休む場所を示され、ようやく槍を下ろした。
水を渡された一人が、両手で器を持った。
飲む前に、隣の負傷者へ差し出す。
ルーカスは、その様子を見ていた。
兵が通り終えると、家宰へ頷いた。
フェリックスは、後方の見張り場から連れてこられた。
父のそばへ来て、座り込んでいる兵たちを見た。
何かを言いかけたが、言わなかった。
隊長は、返された書状を両手で畳んでいた。
端が擦れ、紙に泥が付いている。
それでも、印の部分は内側へ折られ、汚れないよう守られていた。
「父上」
フェリックスが小声で呼んだ。
「何だ」
「あの方は、ずっと持っていたのですか」
「そうだろうな」
「荷は、置いてきたのに」
ルーカスは隊長を見た。
「何のために歩いているか、確かめてもらうためのものだ」
フェリックスは書状を見た。
橋の近くの館で挨拶をした時、レオンハルトの前にも書状が置かれていた。
荷の数を書く紙も、毎日見ている。
だが、目の前の隊長は、濡れた手で触れないよう、先に指を服で拭いていた。
「水を運ぶのを、手伝ってもよいですか」
少年が尋ねた。
ルーカスは家宰を見た。
「一緒に付いていてくれ」
「はい」
フェリックスは器を受け取り、兵のもとへ向かった。
途中で水がこぼれ、足を止める。
両手で持ち直してから、ゆっくり歩いた。
◇ ◇ ◇
追手の使者が領境へ来たのは、その後だった。
騎馬から下りず、こちらの見張りへ声を掛けた。
「逃げた兵を返していただきたい」
ルーカスは前へ出た。
自分の領内側から、相手を見る。
「誰の兵だ」
「共同防衛の軍へ加わった者たちです」
「仕えている家は聞いた。主の帰還命令も持っている」
「勝手な帰還は認められていません」
「誰が認めぬのだ」
「フェルゼン伯爵のもとで、編成を預かる方々が」
ルーカスは首を横へ振った。
「主君のもとへ帰る兵を、私が捕らえる理由はない」
使者の顔が硬くなった。
「脱走を助けるおつもりですか」
「書状を確かめている。ご当主へも、こちらから使者を出す」
「その前に、お引き渡しを」
「しない」
ルーカスは答えた。
「負傷した者もいる。今は休ませる」
「盟約へ加わった兵です」
「ならば、その主と話せ」
風が吹いた。
領境の脇に立つ旗が動く。
使者は、その向こうを見た。
休む兵の周囲には、グレンツベルクの兵が立っている。
無防備に匿っているわけでも、勝手に逃がしているわけでもなかった。
「このことは、報告します」
「私もする」
ルーカスが言った。
「どの家の兵が、どの命令を受けて帰ろうとしたか。誰に止められ、どのような傷を負ったか。すべて伝える」
使者は口を結んだ。
馬の向きを変え、丘へ戻っていく。
ルーカスは、その姿が遠ざかるまで動かなかった。
後ろで、器の触れ合う音がした。
振り返ると、フェリックスが空になった器を受け取っていた。
兵が何度も頭を下げている。
ルーカスは家宰を呼んだ。
「レオンハルト殿下と、マティアス伯爵へ知らせる」
「兵を受け入れたことですね」
「ああ。追手が来たこともだ」
家宰が頷いた。
「それから、ご当主への使者は、帰り道の安全も確かめさせろ。ここを出した先で、また捕まっては意味がない」
「承知しました」
ルーカスは、隊長のもとへ戻った。
「迎えの返事が来るまで、こちらで待て」
隊長は立ち上がりかけた。
ルーカスが手で止める。
「今は休め」
「ありがとうございます」
隊長は座ったまま、深く頭を下げた。
その手は、まだ懐の書状へ触れていた。
ルーカスは領境の向こうを見た。
追手の旗が、丘の上に残っている。
こちらには、家へ帰ろうとする兵がいた。
道のどちらへ立つかは、もう決めていた。
第十四話を読んでいただき、ありがとうございました。
兵を取り戻したい領主と、帰還を許さない反対派。その対立は、グレンツベルクの領境にも届きました。
帰る場所を求める兵たちを前に、ルーカスは自らの立場を示します。
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