第十一話 盟約の代償
帰領したアレクが新たな所領と向き合う一方、東部では諸侯へ兵と穀物の供出が求められていた。
その要求を拒んだ小領主の城に、武装した使者が現れる。
牧草地は、谷の入口から緩やかな斜面へ広がっていた。
朝露に濡れた草の間で、数頭の馬が首を下げている。
アレクが柵へ近づくと、一頭が耳を動かした。
「こちらで育てている馬ですか」
「半分はそうです。残りは、宿駅で使っていたものを引き取っています」
案内してきた村の男が答えた。
節の太い指で柵を握り、馬の脚へ目を向ける。
「あの栗毛は荷を引きます。隣は人も乗せられますが、長く走らせるには向きません」
「見ただけで分かるのですか」
「付き合いが長いので」
男が舌を鳴らすと、栗毛が顔を上げた。
ゆっくり近づいてきた鼻先を、男は慣れた手で撫でる。
アレクも手を出しかけたが、馬に先に匂いを確かめられた。
「馬を増やすことはできますか」
「草だけなら、今より養えます。ただ、冬の飼葉を置く場所と、厩が要ります」
「人もですね」
「はい。生まれれば勝手に荷を引いてくれるわけではありませんから」
男は柵の向こうを指した。
母馬のそばに、小さな馬がいた。
脚が長く、身体の動かし方にも落ち着きがない。
「あれも、すぐには使えない」
「何年も先ですね」
「丈夫に育てば、です」
アレクは頷いた。
子爵になったのなら、騎馬隊を持たなければならない。
マティアスに言われた言葉が、頭へ戻ってきた。
そのための土地は得た。
だが、土地があるだけで、馬と兵が揃うわけではない。
百人の火槍隊から人を抜けば、その分だけ列が薄くなる。新しく兵を雇っても、明日からギルベルトたちと同じように動けるものではなかった。
今は、火槍を任せられる者を育てる方が先だ。
「まず、今いる馬と、冬を越すために必要なものを教えてください」
「買い増しはなさらないので?」
「何も知らないまま増やして、冬に困らせたくありません」
男の顔から、少し緊張が取れた。
「それでしたら、厩も見てください。雨が入り始めている所があります」
「案内してください」
アレクは柵から手を離した。
軍馬が並ぶ光景を思い浮かべるより先に、直さなければならない屋根がある。
今の自分が治める土地は、そういう場所だった。
館へ戻ると、アルヴェインへ向かう使者が待っていた。
商会の連絡を運ぶ者に、途中まで同行する予定になっている。
アレクは、昨夜封をした手紙を渡した。
「こちらもお願いします」
「確かにお預かりします」
使者が革袋へ収めるまで、アレクは見ていた。
いつ会いに行けるかは、書けなかった。
それでも、戻ったことと、伝えたかった喜びは書いた。
「お返事を急いでいただくよう、お伝えしますか」
「いえ。手紙を渡していただくだけで大丈夫です」
使者が一礼して出ていく。
アレクは窓辺へ寄った。
中庭を横切った馬が、門の外へ消える。
その後ろ姿を見送ってから、村長の待つ部屋へ向かった。
◇ ◇ ◇
グレンツベルクへ来た使者は、商人ではなかった。
旅装の上へ小さな紋章を付け、従者も連れていない。
ルーカスは食事を中断し、広間へ通させた。
「道で何かあったのか」
「いいえ。急いで参りましたので」
使者は書状を差し出した。
ルーカスは差出人の名を確かめた。
北東に小さな領地を持つ家だった。領境を直接接してはいないが、橋を通る荷の送り先として知っている。
当主とも、王都で何度か顔を合わせていた。
封を切る。
最初に書かれていたのは、西から塩と鉄を買い付けた商会を紹介してほしいという依頼だった。
その後に、別の話が続いている。
ルーカスは椅子へ座り直した。
「こちらも預かっております」
使者が、もう一通を出した。
フェルゼン伯爵の印があった。
東部の安全を守るため、兵と穀物を指定の城へ集める。
盟約への返答とともに、出せる兵数、穀物の量、到着の日を知らせるよう求めていた。
「まだ、署名はしていないはずだな」
「はい」
「ならば、なぜ兵を求められる」
「領地を守る意思は、署名だけでは示せないと」
ルーカスは書状から顔を上げた。
「誰から守るつもりなのだ」
使者は答えられなかった。
書状にも、敵の名はない。
盗賊への備えなのか、外国の侵入なのか。それとも、王国の中にいる誰かなのか。
何から守るかを書かずに、兵を集めようとしている。
「これだけ出せば、城にはどれほど残る」
ルーカスが人数の書かれた箇所を示す。
「門と見張りを置けば、ほとんど残りません」
「集めた兵を、誰が率いるかは」
「フェルゼン伯爵の定めた者が」
ルーカスは書状を机へ置いた。
一度出した兵を、必要になったから返してほしいと求める。
その時、何を条件にされるか。
自分の城を守る兵を取り戻すために、次の要求を聞かなければならなくなる。
「ご当主は、どうするつもりだ」
「兵は出せないと、お返事をなさいます。穀物も、領内で必要な分を除けば、求められた量には届きません」
「すでに返したのか」
「私が出る時には、まだです」
ルーカスは家宰を呼んだ。
「西の商会へ紹介の書状を出す。こちらと同じ値になるかは、先方に確かめてもらってくれ」
「承知しました」
使者が頭を下げた。
「ありがとうございます。それと、もう一つ」
「何だ」
「レオンハルト殿下に、このことをお伝えいただけないでしょうか」
ルーカスはすぐには答えなかった。
使者の目が、机の書状へ落ちる。
「ご当主は、殿下に従うと?」
「王国の諸侯として、自領を守りたいと仰っております」
「そうか」
ルーカスは頷いた。
自分と同じだった。
塩を買うために、兵の行き先まで決められたくはない。
「マティアス伯爵へ知らせる。殿下にも届くだろう」
「お力添えをいただけますか」
「私が、殿下のお約束を代わりにすることはできない」
使者の肩がわずかに落ちた。
ルーカスは二通の書状を揃えた。
「だが、何を求められ、何に困っているかは、そのまま伝える。ご当主には、返答の写しも残すよう言ってくれ」
「はい」
「誰かに急かされても、分からない条件へ印を押すな」
使者が去った後、ルーカスはしばらく机を見ていた。
自分のところへ届いた荷は、一度だけだ。
次も同じように通せるとは限らない。
それでも、その一度を聞いて、別の領主が頼ってきた。
橋を直し、領内へ塩を入れる。
そのために始めたことが、自分の領地の外へ広がり始めていた。
◇ ◇ ◇
小領主の城へ騎士が来たのは、拒否の返書を出した翌日だった。
見張りの兵が最初に見つけたのは、街道に上がる土埃だった。
荷車ではない。
騎馬の後ろへ、槍を持つ兵が続いている。
城門の上から数えた兵が、慌てて階段を下りた。
「使者にしては多すぎます」
報告を受けた当主は、外套を羽織って門へ向かった。
門前で止まった騎士は、フェルゼン伯爵の書状を掲げた。
「返答を受け取りに参った」
「返書は、昨日出した」
当主が城壁の上から答える。
「行き違いだろう。待っていれば届く」
「直接、確かめたいことがある」
「後ろの兵は何だ」
「穀物の護送だ」
「穀物は出せぬと書いた」
騎士は顔色を変えなかった。
「ならば、その事情を伺おう」
当主は門番へ指示を出した。
騎士と従者二人だけを入れる。
残りは門の外へ待たせた。
広間には、当主の家宰と数人の家臣がいた。
騎士は椅子を勧められる前に、机へ書状を置いた。
「皆が兵を出す時に、一家だけ出さぬというのは困る」
「こちらにも守る場所がある」
「だから、共同で守るのだ」
「誰と戦う」
当主が尋ねた。
騎士は外套を払って座った。
「戦を起こさせぬために集める」
「答えになっていない」
「準備の整わぬ家から狙われる。ご当主も、それはご存じだろう」
家宰が口を開いた。
「求められた人数を出せば、この城の守りが足りなくなります。穀物についても、すでに残る量をお知らせしております」
「兵を出せぬのであれば、こちらから守りを置きましょう」
騎士が言った。
広間が静かになった。
当主は相手を見た。
「どこへ」
「この城だ。外で待たせている兵を入れればよい」
「私の城へ、フェルゼン伯爵の兵を置くということか」
「ご負担は軽くなる」
「その兵へ命じるのは誰だ」
「もちろん、私が預かる」
当主は椅子へ座らなかった。
「門を開ける時も、倉を開ける時も、そなたへ聞くのか」
「必要な相談はする」
「必要かどうかを決めるのも、そなたではないのか」
騎士の目が細くなった。
「随分と、疑われる」
「自分の兵を出せば守りがなくなると言った。代わりに他家の兵を入れれば、城が自分のものでなくなる」
「そのような言い方をなされば、話が進まぬ」
「進めるつもりはない」
当主は書状を押し返した。
「駐兵は認めない。兵も出さない。穀物が必要なら、買い付けの相談を商人へしてくれ」
騎士はしばらく動かなかった。
やがて立ち上がり、書状を取る。
「この返答で、よいのだな」
「昨日の書状にも、そう書いた」
家臣が門まで送った。
騎士が城外へ出ると、門が閉じられる。
当主は広間の窓から、その姿を見ていた。
兵を連れて帰る。
そう思った。
しかし、騎士が腕を上げると、槍兵の列は二つに分かれた。
一方が、街道沿いの見張り場へ向かう。
もう一方は、城から少し離れた穀物倉へ進んだ。
「何をするつもりだ」
家宰が窓へ駆け寄った。
当主はすでに広間を出ていた。
城門の上へ上がると、倉の前で人が押し合っているのが見えた。
倉番が扉の前に立ち、両手を広げている。
槍の柄で押され、石段へ膝をついた。
「やめろ!」
当主が叫んだ。
声が届いたのか、騎士がこちらを向く。
「共同防衛に必要な物資を、確かめるだけだ!」
「許していない!」
返事はなかった。
倉の鍵を持っていた男が、腕を捻られている。
近くにいた領兵が駆け寄った。
槍を横にして間へ入る。
次の瞬間、相手の兵が突き出した穂先が、その腕を裂いた。
領兵の槍が落ちる。
倉番が男を引こうとしたが、今度は二人まとめて押し倒された。
「弓を」
当主の隣で、兵が言いかけた。
城門の外には、まだ領民がいた。
粉を挽いて戻ってきた荷車。
畑から帰る女と子供。
見張り場の異変に気づかず、街道を歩いている者もいる。
「先に人を入れろ!」
当主は階段へ向かって叫んだ。
「鐘を鳴らせ! 外にいる者を城へ!」
鐘が鳴った。
最初の一打で、城下の人々が顔を上げる。
続く音を聞いて、門へ走り始めた。
騎士が何かを命じた。
街道を押さえた兵が、こちらへ向かう。
開けられた城門へ、荷車が入った。
車輪が敷居に引っ掛かる。
「押せ!」
門番が駆け寄った。
御者が手綱を引き、兵が後ろから押す。
ようやく動いた荷車の横を、子供を抱えた女がすり抜けた。
倉の方から、二人の男が走ってくる。
一人は腕から血を流し、もう一人が肩を貸していた。
その後ろで、槍兵が足を速めた。
「まだ閉めるな!」
当主が叫んだ。
門の内側で、兵が槍を構える。
逃げてきた二人が、門まであと少しのところで崩れた。
負傷した兵の膝が折れたのだ。
門番が外へ飛び出した。
脇へ手を入れ、倉番とともに引きずる。
城壁の上で弓弦が鳴った。
矢が、追ってきた兵の前の地面へ突き立った。
相手が足を止める。
その間に、三人が門をくぐった。
「閉めろ!」
重い扉が動いた。
兵たちが肩を当てて押す。
隙間から見えていた街道が細くなり、消えた。
閂が落とされた時、外から槍の柄で叩く音がした。
門番は扉へ背を預けたまま、息をしていた。
負傷した兵が、床へ座り込む。
腕を押さえた指の間から血が流れた。
「布を持ってこい!」
家宰の声で、ようやく周囲が動き始める。
当主は門の上へ戻った。
穀物倉の前に、他家の兵が立っていた。
見張り場から、自家の旗が下ろされていく。
門前の騎士が、顔を上げた。
「兵を傷つけるつもりはなかった。こちらも、抵抗されれば守らねばならぬ」
「私の倉から離れろ」
「ご当主が話を聞かれるまで、ここで待つ」
騎士はそう言うと、馬の向きを変えた。
城を攻める様子はない。
ただ、道と倉を押さえたまま動かない。
当主は、城下を見渡した。
畑に残った者がいる。
家へ戻れなくなった者もいる。
門を守っているだけでは、その者たちを守れなかった。
家宰が上がってきた。
「裏手の小門は、まだ見られておりません」
「馬を出せるか」
「一騎ずつなら」
当主は頷いた。
「王都へ使者を出す。もう一人は、グレンツベルクへ」
「何とお伝えします」
当主は、倉の前に立つ兵を見た。
「私の名で、救援を求める」
◇ ◇ ◇
報告が届いた時、レオンハルトは隊長たちから兵の状態を聞いていた。
王都から戻った兵を、そのまま東へ向かわせることはできない。
負傷の治り切らない者がいる。
留守中の家の仕事を片づけなければならない者もいる。
荷馬車と馬具を直し、減った糧食を揃える必要があった。
ユリウスが広間へ入り、書状を差し出した。
レオンハルトは読み始めた。
途中で、椅子へ置いていた肘を下ろす。
「隊長たちは、隣で待て」
声を聞いた者たちが顔を上げた。
「話は終わっていない。帰るな」
隊長たちが退出すると、レオンハルトはもう一度、最初から読んだ。
兵の供出を拒否。
他家の兵による倉と見張り場の占拠。
負傷者。
救援の要請。
ルーカスからの添え書きには、最初に相談を受けた時の書状も写してあった。
「マティアスを呼べ」
「すでに知らせを出しております」
「王都へも、写しを送る」
レオンハルトは紙を机へ置いた。
「倉の前に立つ兵が、どこの兵かを確かめろ。騎士の名もだ」
「フェルゼン伯爵の使者とあります」
「使者として来たことと、伯爵が倉を奪えと命じたことは別だ」
ユリウスが頷いた。
「双方を確かめます」
「だが、確かめ終わるまで、奪われた方へ黙って待てとは言わん」
レオンハルトは隣の部屋へ通じる扉を見た。
「兵を出せるようにしておけ」
◇ ◇ ◇
マティアスが到着した時には、地図の上へ報告が揃えられていた。
救援を求めた領地。
その城と街道。
穀物倉の位置。
ルーカスの領地から、そこへ向かう道。
マティアスは椅子へ座る前に、負傷者について尋ねた。
「命に別状は」
「使者が出た時には、生きていた」
レオンハルトが答えた。
「腕をやられたそうだ」
「城内へ入れたのですね」
「ああ。門を閉めるのが遅ければ、追った兵まで入っていたかもしれん」
マティアスは書状を読んだ。
供出を求めた兵数を見て、眉を寄せる。
「この人数を出させた後なら、駐兵も断れなくなります」
「どちらを選んでも、自分の城を守れなくなる」
「初めから、そういう要求だったのでしょう」
「そこまでは、まだ分からん」
レオンハルトは言った。
マティアスが顔を上げる。
「だが、今やっていることは分かる」
レオンハルトは、穀物倉の印を指した。
「盟約に署名しなかった。それだけで領地を奪われるなら、次からは誰も断れん」
広間にいた者たちは黙っていた。
王宮で、東部諸侯の盟約をどう扱うか話した。
集まって意見を述べることと、兵を動かして他家を従わせることは違う。
その違いを、相手の方から越えてきた。
「陛下には、どのように」
マティアスが尋ねた。
「届いた書状の写しと、救援の準備をすると送った。王都へ向かった使者の話とも、比べられるだろう」
「フェルゼン伯爵の城へは」
「今は行かん」
レオンハルトは即答した。
「求められたのは、奪われた倉と道を取り戻す助けだ。東部の城を片端から落とせとは言われていない」
「では、先方の領主へ、兵を受け入れる場所を確かめます」
「ああ。途中の領主にも知らせろ。救援へ向かう軍だ。勝手に道を踏み越えるな」
マティアスが地図へ目を落とした。
グレンツベルクまでの道が通っても、その先まで同じ条件で進めるとは限らない。
兵が多ければ、食べる量も増える。
狭い橋や宿場で列が詰まれば、進む速さは落ちた。
「先に人を出します。城へ入る道が残っているか、領民がどこへ逃げているかも見させます」
「敵の数もだ」
「承知しました」
「倉を押さえた騎士へ、撤退を求める使者も出す」
ユリウスが言った。
「応じれば、戦わずに済みます」
「応じればな」
レオンハルトは椅子の背へ身体を預けた。
「だが、返事を待ってから兵糧を集め始めるな」
「すでに手配しております」
マティアスが答えた。
レオンハルトは頷いた。
「アレクにも知らせろ。何人を、いつ出せるか。使える火槍の数もだ」
「百人を基準に確認させます。ほかの隊の分は、別に報告させましょう」
「修理を終えていない筒を、数へ入れるな」
「その点は、本人よりロルフが許さないでしょう」
レオンハルトの口元が、わずかに動いた。
すぐに表情を戻す。
「ルーカスには、近いからといって一人で行くなと伝えろ」
「今回は、剣を置けば済む相手ではありませんね」
「ああ」
レオンハルトは地図の上へ手を置いた。
「今度は、こちらが動く」
◇ ◇ ◇
アレクへ招集の書状が届いたのは、新しい村の者たちと宿駅の修繕について話している時だった。
使者の外套に付いた紋章を見て、アレクは立ち上がった。
「少し、お待ちください」
別室へ入り、封を切る。
マティアスの筆跡だった。
東部の小領主から救援要請があったこと。
他家の兵が倉と街道を占拠し、負傷者が出ていること。
火槍隊の準備状況を、実際に出せる人数で報告すること。
アレクは最後まで読み、使者へ尋ねた。
「出発の日は」
「まだ定められておりません。ただし、確認を急ぐようにと」
「分かりました。返書を用意します」
使者を休ませ、村長のいる部屋へ戻った。
「宿駅の修繕は、先ほど決めた範囲で進めてください。追加で木材が必要なら、勝手に切る前に知らせてください」
「子爵様は」
「ベルグハーフェンへ戻ります」
村長は何かを察したようだったが、問い詰めなかった。
アレクは、領内で留守を預かる者へ順に指示を出した。
帰ってきたばかりだった。
それでも、戻るまで仕事を止めておくわけにはいかない。
翌朝、アレクは馬へ乗った。
谷の入口を通る時、牧草地の方を見た。
昨日と同じように、馬が草を食んでいる。
その向こうでは、男たちが厩の屋根へ上がっていた。
こちらが戦の準備を始めても、領地の仕事は続いていた。
ベルグハーフェンでは、ギルベルトが兵の名簿を用意して待っていた。
「全員を並べれば百人ですが、今すぐ同じように動けるとは申しません」
「休ませる必要のある者を、先に教えてください」
アレクが言うと、ギルベルトは二つに分けた紙を出した。
帰還してからも熱が下がり切らない者。
足の傷を診せている者。
それぞれについて、いつ確かめたかが書かれている。
「本人は行くと言っています」
「本人の返事だけでは決めません」
「承知しております」
アレクは名簿を受け取った。
「ヴォルフラムには、残る者の仕事を決めてもらってください。工場へ運ぶ記録や、弾薬の受け取りはあります」
「置いていかれるだけではないと、伝えます」
「お願いします」
工場では、ロルフが修理を終えた火縄銃と、まだ台へ残っているものを分けていた。
アレクが入ると、顔を上げずに言った。
「話は聞いた」
「使える数を確かめに来ました」
「直っていないものは、そちらだ」
壁際の台を顎で示す。
「急げと言っても、数は変わらんぞ」
「直す順番を相談します。出す隊の分を先にしてください」
「それなら、番号を出せ」
アレクはギルベルトから受け取った記録を広げた。
兵の名と、持たせている一挺。
片方だけ揃っても、隊は動かせない。
ロルフが紙へ指を置く。
「これは終わっている。こちらは木台を替える」
「どれほど掛かりますか」
「明日、合わせる。合わなければ、もう一日だ」
「分かりました」
アレクは、そのまま書いた。
百人を出せます。
そう一行で返せれば簡単だった。
だが、出せない者と、使えない筒を隠した数字では、戦場で誰かが困る。
アレクは机を借り、マティアスへの報告を書き始めた。
◇ ◇ ◇
イグナーツは、倉を押さえたという報告を机へ投げた。
「城へ入れなかったのか」
「門を閉じられました」
代官が答えた。
「見張り場と倉は押さえております。街道も、こちらで確かめられます」
「領主は」
「城内です」
「使者は止めたか」
代官が口を閉じた。
イグナーツは顔を上げた。
「止めていないのだな」
「裏手の道まで、兵が回っておりませんでした」
椅子の肘掛けを握った指が、白くなった。
兵を見せれば、態度を変えると思っていた。
倉を押さえれば、門を開けると考えていた。
だが、領主は城へ籠もり、外へ助けを求めた。
要求を重ねるたびに、従うはずの者が別の相手を見る。
「殿下へ知らせたかもしれません」
「分かっている」
イグナーツは短く答えた。
広間の扉へ目を向ける。
「待たせている者を通せ」
代官が退出した。
しばらくして入ってきた男は、紋章を付けていなかった。
旅の埃も払われ、上着の仕立てだけが商人にしてはよすぎた。
男は机の向こうで一礼した。
「お忙しいところを」
「挨拶はよい。次の援助は、いつ届く」
「東の倉までは、予定どおりです」
「そこから先を早めろ」
男は椅子を見た。
イグナーツが手で示すと、静かに座った。
「何か、予定が変わりましたか」
「西へ心を移す者がいる」
「グレンツベルクのことでしたら、聞いております」
「そこだけではない」
イグナーツは、投げた書状を取り直した。
男へは渡さず、手元へ伏せる。
「諸侯をまとめるには、金が要る。兵を集めれば、穀物も要る」
「そのために、お渡ししております」
「足りんと言っている」
男はイグナーツを見た。
「ロスヴァールも、余った金をお渡ししているわけではありません」
広間の空気が変わった。
扉の外へ聞こえるほど大きな声ではなかった。
それでも、国の名ははっきりと響いた。
「カルディアとの戦が続いております。兵も物資も、必要としている者は多い」
「だから、こちらを固めたいのだろう」
「ええ。グランヴァルトの東部に、我が国へ兵を向けさせない諸侯が必要です」
「ならば、援助を惜しむな」
「援助を受けた兵が、あちこちの倉の前に散ってしまえば、役に立ちません」
イグナーツの目が細くなった。
「随分と早く聞いている」
「道を使う者は、ほかにもおります」
男は懐から紙を出した。
地図だった。
東部の城と街道が、簡潔な線で記されている。
「約束していただいたのは、こちらの道と、兵を置ける城です」
「諸侯が加われば、使える」
「まだ、加わっていない」
男の指が、一つの城で止まった。
「城を押さえる前に兵を散らせば、援助は続けられません」
イグナーツは答えなかった。
金を受け取った時には、東部をまとめるために使えると思った。
兵を増やせば、王都へも西部へも、強い言葉で要求できる。
そう考えた。
だが、目の前の男は、その兵をどこへ置くかまで見ている。
「私へ命じるつもりか」
「約束を確かめております」
男は地図から手を離した。
「我が国が必要としているのは、援助を受けなければ動けない家を増やすことではありません。こちらの国境が安全になることです」
「分かっている」
「でしたら、次の報告では、使える城と道をお示しください」
男が立ち上がった。
イグナーツは引き止めなかった。
扉が閉じるまで待ち、伏せていた書状を開く。
倉は押さえた。
道にも兵を置いた。
だが、城は手に入っていない。
その城から出た使者が、今どこを走っているかも分からなかった。
イグナーツは代官を呼んだ。
「倉を押さえた兵へ、使者を出せ」
「引かせますか」
イグナーツは、机に残された地図を見た。
男が指を置いた城を、今度は自分の指で押さえた。
「まだだ」
代官が返事を待つ。
「門を開けさせろ。ただし、勝手に城を焼くな。使えるまま、こちらへ渡させる」
代官が一礼した。
イグナーツは指を離さなかった。
紙の上では、その城は小さな印にすぎなかった。
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