第八話 東へ続く道
舞踏会を終えた翌朝、王都で生まれた縁が新たな取引へつながります。一方、領地へ戻ったルーカスを待っていたのは、東部諸侯からの圧力でした。
舞踏会の翌朝、アレクが客室へ入ると、ヴィクトルはすでに外出の支度を整えていた。
暗い赤の礼装ではなく、落ち着いた色の上着を着ている。卓上には、昨夜受け取った面会の申し入れが置かれていた。
「アルトブルク家へ行くのですか」
「ああ。マティアス様には許可をいただいた」
「ヘレーネと、帳簿の続きを?」
「そのつもりだ」
答えてから、ヴィクトルはアレクを見た。
「何か言いたそうだな」
「楽しんできてください」
「帳簿を見るだけだ」
「それでも、話が合う方なのでしょう」
ヴィクトルはすぐには答えなかった。
昨日までなら、余計なことを聞くなと返されていたかもしれない。
「……話は合った」
短く認め、卓上の紙を折り畳む。
「それだけで、何かを決めたわけではない」
「分かっています」
アレクが答えると、ヴィクトルはわずかに頷き、従者とともに部屋を出ていった。
入れ替わるように、ユリウスが戻ってきた。その後ろをエイドリアンが歩いている。
「昨夜の侍従に、話を聞けた」
ユリウスは長机の前で足を止めた。
「エイドリアンが医師と侍女を呼ぶよう頼んだことは、本人も覚えていた。近くにいた給仕も聞いている」
「では、私が庭へ連れ出したという話にはならないのですね」
「そうとは限らん。噂を作る者が、証言を確かめてから話すとは思うな」
エイドリアンの顔が曇る。
「ただし、何をしたかは確かめられた。何か言われた時に、こちらも事実を示せる」
「ありがとうございます」
「途中でいなくなった侍女については、まだ確認している。別の家から手伝いに来た者も多い。名を聞き違えただけかもしれん」
「私も、間違いないとは言えません」
「それでよい。覚えていないことを、後から埋めるな」
エイドリアンは頷いた。
そこへ、マティアスが数枚の紙を持って入ってきた。
「ロベルトはいるか」
「隣の部屋です」
アレクが答える。
「呼んでこい。昨夜の倉の持ち主が来た」
「もうですか」
「こちらが忘れる前に、話を進めたいのだろう」
マティアスは紙を卓上へ広げた。
三つの倉の広さと、船着き場の位置が記されている。
端には、東街道から川へ続く道が描かれていた。
「婚姻の話でしょうか」
「そのつもりで来たのかもしれん」
マティアスは地図の一点を指した。
「だが、こちらが今日決めたいのは、グレンツベルクへ荷を送る方法だ」
◇ ◇ ◇
ヘレーネとの面会に使われたのは、王宮の客室からほど近い、アルトブルク家の滞在先だった。
小さな広間には父親のアルトブルク伯爵も同席している。窓際へ茶と菓子が用意され、ヘレーネの前には折り畳まれた紙が一枚だけ置かれていた。
「帳簿は持ってまいりませんでした」
挨拶を終えると、ヘレーネが言った。
「昨夜、見せるべきではないと仰いましたので」
「覚えていたのか」
「忘れるほど、たくさんの方と倉のお話をしたわけではありません」
ヴィクトルは一度口を閉じた。
ヘレーネは紙を開く。
「父の許しを得て、水害の時にどこへ穀物を運んだかだけ書きました。家の備蓄量は入れておりません」
そこには、三つの村と、一つの寺院の名が記されていた。
「村へ送った分と、寺院へ送った分を、同じ日に倉から出したのか」
「はい。ですが、避難していた者が村へ戻った後、寺院に残った穀物も運び直しています」
「それを、もう一度倉から出した分として数えていないか」
ヘレーネの指が止まった。
「そこまでは、確かめておりません」
「私にも分からない。運んだ者と、受け取った者の記録があれば、比べられる」
「戻ったら調べます」
アルトブルク伯爵は、二人の間に置かれた紙を眺めていた。
「娘も、こうして話を聞いてくださる方がいれば心強いでしょう。いずれ、我が領地へもお越しいただければ」
「機会があれば」
ヴィクトルは答えた。
「ただ、今は領地を長く空けられません」
「もちろんです。まずは書状のやり取りからでも」
父親の言葉に、ヘレーネがヴィクトルを見る。
ヴィクトルは伯爵ではなく、彼女へ答えた。
「調べて分かったことがあれば、聞きたい」
「帳簿のお話だけでしょうか」
ヴィクトルはしばらく考えた。
「昨日と今日で、ほかの話はほとんどしていない」
「では、次はほかのお話も」
「ああ」
ヘレーネが笑った。
伯爵が何かを言いかけたが、娘が先に紙を畳んだ。
ヴィクトルも、それ以上の約束はしなかった。
それでも帰り際、次の書状をどこへ送ればよいかを、自分から伝えた。
◇ ◇ ◇
倉の持ち主は、昨夜と同じく娘を伴って現れた。
だが、レオンハルトとマティアスの前へ案内されるとは思っていなかったらしい。扉を入った時、その足が一瞬止まった。
「ロベルト殿とのお話と伺っておりましたが」
「ロベルトだけでは、運ぶ荷を決められません」
マティアスが席を示した。
「まず、倉と船着き場をお借りする条件を伺いたい」
「娘との縁談についても、前向きにお考えいただけるということでしょうか」
「今日は輸送の話です」
父親の笑みが薄くなる。
「それでは、昨夜お伝えした条件とは変わります」
「承知しております」
ロベルトが答えた。
「婚姻が成立した場合の免除は求めません。荷の量と、使う期間でお話ししたい」
「通常の倉賃になりますぞ」
「空いている倉にも、同じだけの収入がありますか」
父親が眉を動かした。
ロベルトは持参された紙の一か所を指す。
「東街道の二つの倉は、今月、半分ほど空くと伺いました。川沿いの倉も、収穫物が入るまでは余裕があると」
「空いているからといって、安く貸さねばならぬ理由にはなりません」
「はい。ですから、空いている間だけ使わせていただきます。長く借りる必要が生じた時は、改めて条件を決める」
ロベルトは別の紙を並べた。
「荷下ろしは、そちらの者へ任せます。倉賃だけでなく、人足と荷車にも仕事ができます」
「何を運ぶのです」
「最初は塩と鉄。その後、橋の修理に必要な資材です」
「橋?」
「グレンツベルクの石橋だ」
レオンハルトが答えた。
父親はすぐにレオンハルトを見た。
「フェルゼン伯爵と争っているという、あの橋でしょうか」
「誰から聞いた」
「昨日、王宮で石の売買について裁定があったと」
「裁定があったのは、調べる範囲と方法だ。まだ石の量も、売る値も決まっていない」
「では、調査が終わってからでもよいのではありませんか」
「塩まで調査役が運んでくれると思うか」
レオンハルトの問いに、父親は答えなかった。
マティアスが地図を広げる。
「橋の石は、別の採石場から運べるか調べています。しかし、東からの荷が止まれば、修理に携わる者も領民も困る。先に西から運ぶ道を用意します」
「我が家に、東部諸侯との争いへ加われと?」
「倉と船着き場を貸していただきたい、と申し上げています」
「同じことになるかもしれません」
部屋が静かになった。
商いだから政治とは無関係だと言い切れる話ではない。
グレンツベルクへ物資を送れば、フェルゼン伯爵がよい顔をしないことは、ここにいる全員が分かっていた。
「そう考えるなら、断ればよい」
レオンハルトが言った。
「ただし、俺の部下との縁談は望むが、その部下が何をしているかは知らぬままでいたい、という話は通らん」
父親の顔が硬くなる。
隣に座っていた娘が、倉の図面へ目を落とした。
「お父様。東街道の倉だけでは、荷を何度も動かすことになります」
「今、その話をしているのではない」
「貸すかどうかを決める前に、どの倉を使うのか確かめる必要があります」
父親が黙った。
娘は川沿いの倉を指した。
「こちらへ荷を集めれば、船へ積み替えられます。ただし、大きな船は水が少ない時期に入れません。最初から小舟を使っていただきたいのです」
「昨夜は、穀物船も着けられると聞きました」
ロベルトが言う。
「水が多い時期ならば、と父が申したはずです」
「覚えています」
「でしたら、今の水量で使えるとはお考えにならないでください」
ロベルトは地図から娘へ顔を上げた。
「現地を見せていただけますか」
「倉番へ知らせます」
「まだ貸すと決めておらん」
父親が口を挟む。
マティアスは落ち着いて答えた。
「見たうえで、使えないと判断することもあります。今日、すべての契約を結ぶ必要はありません」
「では、何を決めるのです」
「現地を見る許可と、最初の荷が来るまで倉を空けておいていただく条件です」
「使わなかった場合は」
「押さえていた日数に応じて払います」
父親は図面を引き寄せた。
今度は家名や婚姻ではなく、倉の広さを見ている。
「それなら、話はできます」
マティアスが頷いた。
そこから先は、倉を空ける日数、荷下ろしに出せる人数、荷車の借り賃を詰める話になった。
ロベルトが値を下げようとすれば、娘が修理に掛かった費用を示す。父親が長く借りるよう求めれば、マティアスがまず短期間で確かめると退ける。
アレクは地図を見ながら、積み替えの回数と、荷を一度に集めすぎないことを確かめた。
話が終わる頃には、最初の荷を受け入れる準備だけは進められることになっていた。
父娘が帰った後、レオンハルトがロベルトへ尋ねた。
「昨夜より安くなったか」
「いいえ」
「では、失敗か」
「婚姻を断った後に、倉まで使えなくなる契約ではありません」
ロベルトは残された紙を揃えた。
「後から何を求められるか分からない免除より、払う額が決まっている方が使えます」
「ようやく、値段以外も数えたな」
マティアスが言った。
「ただし、まだ高いと思っています」
「現地を見てから交渉しろ」
「そのつもりです」
レオンハルトが笑った。
続いて入ってきたユリウスは、橋へ向かう調査役の選定が進んでいると伝えた。
王家の者は、国王が命じた期限内に出立する。
マティアス側では、王都にいる商会の者を先に出し、ベルグハーフェンから送る人員との連絡を取らせることになった。
アレクが出す記録役二人への命令も、すでに使者へ託している。
「国王陛下との会談については、ライゼン将軍から候補地が届いております」
ユリウスがもう一通の書状を差し出した。
「中立地の方だな」
「はい。王都からの距離と、双方の護衛を置く場所を確認しています」
レオンハルトは受け取った。
「その席で、東部の話もする」
「王宮でもお話しになったでしょう」
アレクが尋ねる。
「あれは橋と採石場の裁定だ。次に話すのは、調査役を入れない領主が出た時、誰がどう動くかだ」
レオンハルトは書状を卓上へ置いた。
「何か起きてから俺と兄上が言い争っていては、ルーカスの橋が先に落ちる」
◇ ◇ ◇
数日後、ルーカスはグレンツベルクへ戻った。
領主館の門をくぐると、息子が石段を駆け下りてきた。
「父上!」
「走るな。転ぶぞ」
言い終わる前に、息子は最後の段で足を滑らせた。
ルーカスが腕を伸ばし、倒れかけた身体を受け止める。
「ほら、言っただろう」
「転んでおりません」
「私がいなければ転んでいた」
「父上がいらっしゃいました」
「そういう答え方は、誰に教わった」
玄関に立っていた妻が笑った。
「心当たりはありませんか」
ルーカスは返事をせず、息子を地面へ下ろした。
息子は父の外套を見上げ、腕に抱えた図面へ目を移した。
「国王陛下にお会いしたのですか」
「ああ」
「石もお見せしましたか」
「お見せした」
「叱られませんでしたか」
「床を汚さないようにしたからな」
息子は安心したように息を吐いた。
出発前、橋から落ちた石を袋へ入れるところを見て、王宮へ石を持っていくのかと何度も尋ねていた。
「殿下にも?」
「レオンハルト殿下にも見せた」
「火を吐く武器をお持ちの方ですね」
「私が見せたのは石だ。武器を見に行ったのではない」
「大きな方でしたか」
「大きかった」
「怖い方ですか」
ルーカスは少し考えた。
「人の話を聞いた後で、面倒な仕事を増やす方だ」
「では、怖い方ですね」
「そうかもしれん」
妻が玄関の内側へ身体を向けた。
「お食事を用意しています。橋へ行く前に、お召し上がりください」
「先に戻ったと知らせるだけでも」
「家宰には知らせてあります。石工にも」
「では、図面だけ」
「図面は食べ終わるまで預かります」
ルーカスは息子を見た。
「王宮より厳しい」
「母上は、お戻りになる前からそう仰っていました」
「何と」
「父上は、帰ってきても橋へ行くと」
ルーカスは諦め、妻へ図面を渡した。
食卓には温めた煮込みとパンが用意されていた。
息子は隣へ座り、王都の城壁と、王宮の廊下の長さを尋ねた。ルーカスは食べながら答え、国王の前で何を話したかについては、橋を調べる者が来るとだけ伝えた。
息子が嬉しそうに妻を見る。
「では、橋は直るのですね」
「直すために、これから調べる」
「石が来るのではないのですか」
「石を積めば済むのかも、確かめなければならない」
息子は少し考え込んだ。
「父上のお仕事は、まだ終わらないのですね」
「ああ」
「お手伝いできることはありますか」
「まず、食事を終えさせてくれ」
息子が慌てて口を閉じた。
ルーカスは笑い、パンをちぎった。
妻はその手元を見た後、食卓の端に置かれていた一枚の紙を裏返した。
ルーカスは気づいていたが、その場では尋ねなかった。
息子が席を離れた後で、妻が紙を差し出す。
「東からの荷が、二度続けて来ていません」
塩を扱う商人と、鍛冶屋からの申し出だった。
到着予定の日付が書かれ、その横へ荷車が止められた場所が記されている。
「いつからだ」
「あなたが王都へ出た後です。最初は、検めに時間が掛かっていると言われました」
「二度目は」
「通行の許しが必要だと」
ルーカスは紙を読み終え、折り畳んだ。
「家宰を呼んでくれ」
「玄関の隣で待っています」
「最初からか」
「食事の間くらい、待つように伝えました」
妻は図面を返した。
「王都では、話を聞いていただけたのですね」
「ああ」
「では、こちらの話も聞いてください。留守の間に、商人も家臣も不安になっています」
「分かっている」
「橋だけではありません」
ルーカスは妻を見た。
彼女は静かに続けた。
「皆、あなたがどうすると言うのかを待っています」
◇ ◇ ◇
領主館の広間には、家宰と倉の管理人、鍛冶屋、塩を扱う商人が集められた。
机へ広げられたのは、橋の図面ではなかった。
入るはずだった荷の記録と、領内に残っている品の一覧だった。
「塩は、すぐになくなる量ではありません」
商人が言った。
「ですが、次の荷が来ないと知られれば、買い込む者が出ます。今朝も、普段の倍を求める家がございました」
「値は上がったか」
「まだ上げておりません」
「西から買えば、どれほど高くなる」
「運ぶ道によります。北へ回れば、荷車と馬を余計に借りなければなりません」
「鉄は」
鍛冶屋が腕を組んだ。
「古いものを打ち直せば、しばらくは凌げます。ただ、新しい車軸の金具や橋の留め金をまとめて作れと言われれば足りません」
「武具に使う分を止めたら」
「修理なら止められます。ですが、折れた農具と荷車まで待たせるわけにはいきません」
ルーカスは頷いた。
「農具と荷車を先にしろ。橋の補修で急ぐものは、石工から直接聞いてくれ」
「承知しました」
「鉄屑を集める。領主館にある使っていない金具も出す。ただし、使える農具を取り上げて溶かすな」
書記が命令を書き留める。
塩については、商人ごとの在庫を確かめることになった。領主の倉にある分も、家族や家臣だけのために残すのではなく、必要になれば市場へ回す。
ただし、領主館だけが安く売り、商人の塩を売れなくすることは避けた。
売った量と残る量を毎日記録し、不自然な大量購入があれば知らせる。
「これで、いつまで保ちますか」
家宰が尋ねた。
「今、それを確かめている」
「盟約へ加われば、荷は通ると申しております」
「誰が」
「東から来た使者です。昨日から、お帰りを待っております」
ルーカスは手元の紙を置いた。
「ここへ通せ」
家宰がためらった。
「商人たちを下がらせますか」
「荷を止められて困っている者たちだ。聞いてもらう」
しばらくして、一人の男が広間へ入ってきた。
上等な外套をまとい、腰には短い剣を下げている。領境で荷を止められた商人の一人が、その顔を見て身を硬くした。
ルーカスは男へ座るよう勧めなかった。
「返答を聞きに来たそうだな」
「はい。東部の諸家は、グレンツベルクとの協力を望んでおります」
「荷車を止めることが、協力を求める方法か」
「街道の安全を確かめているだけです」
「誰から守っている」
「不審な者が入り込むこともございます」
「塩俵の中へか」
使者は笑わなかった。
「盟約に加わる家の荷であれば、身元を確かめる手間も省けます」
「その塩を買ったのは、ここにいる商人だ」
ルーカスは机の横を示した。
「何年も同じ道を使っている。その身元が、今になって分からなくなったのか」
「私が街道を管理しているわけではございません」
「では、誰が通すと決める」
「盟約へのお返事をいただければ、私からお伝えできます」
ルーカスは男を見つめた。
広間にいる者は、誰も口を挟まなかった。
「加わらない」
使者の表情が動いた。
「よくお考えになったうえでのご返答でしょうか」
「ああ」
「王都から戻られたばかりと伺いました。どなたかの言葉を、そのままお返しになってはおられませんか」
「私の領地について、私が答えている」
「周囲の諸家と歩調を合わせなければ、領民が困ります」
「今、困らせているのは誰だ」
使者は唇を結んだ。
ルーカスは椅子から立ち上がった。
「橋を直す。荷を通す。そのために、買うものは代金を払って買う。だが、国王の名で来る者を他家の許しがなければ入れないとは約束しない」
「盟約は、各家の権利を守るためのものです」
「ならば、私が加わらない権利も守れ」
使者の視線が、集まった商人たちへ移る。
「この方々にも、同じ覚悟を求めるのですか」
「求めていない」
ルーカスはすぐに答えた。
「荷を止められた責任を、商人へ負わせるつもりはない」
「西の商人が、いつまでも助けてくれるとは限りません」
その言葉に、家宰が顔を上げた。
ルーカスは動かなかった。
「まだ届いてもいない荷を、ずいぶん気にするのだな」
「一般の話を申し上げただけです」
「返答はした。伝えろ」
使者はしばらく立っていたが、やがて浅く頭を下げた。
「後悔なさらぬことを願っております」
「私も、お前を送り出した者へ同じことを願っている」
使者が出ていった。
扉が閉じると、家宰が低い声で言った。
「本当に、西から荷は来るのでしょうか」
「来るようにする」
「王都で約束を?」
「輸送を調べる者を送ると、マティアス伯爵から言われた。ただし、何台の荷車がいつ来るかまでは決まっていない」
商人の顔に不安が残る。
ルーカスはそれを見て、続けた。
「だから、待っているだけにはしない。こちらからも西へ買い付けに出す。必要な荷をまとめ、空いた荷車を使う」
「護衛は」
「私の兵を付ける」
「橋の警備を減らせば」
「城門の交代を組み直す。領内を知る者を、むやみに領外へ出すつもりはない」
ルーカスは家宰へ向き直った。
「川沿いの古い船着き場も調べろ。舟を着けられる場所と、荷車を置ける場所を分けて確かめる」
「橋の修理より先にですか」
「橋を直している間も、人は食う」
家宰は一礼した。
人々がそれぞれの仕事へ向かうと、広間には書記だけが残った。
ルーカスは机へ両手をついた。
王都では、できると思った。
地図の上へ道を引き、川船と荷車を組み合わせれば、東からの荷を止められても別の方法があると分かった。
しかし、その道を使うには人と金がいる。
動かす間にも、領内の蓄えは減っていく。
「領主様」
書記が呼んだ。
「命令書の印を」
ルーカスは顔を上げた。
差し出された紙を、最初から読み直す。
途中の一行を指した。
「ここは変えてくれ。商人の荷車を集めるのではなく、借りる。借り賃を残せ」
「この状況でも、払うのですか」
「私が苦しい時だけ無償で出せと言えば、あの使者と何が違う」
書記が頷き、書き直した。
◇ ◇ ◇
マティアスが王都から先に出した者たちがグレンツベルクへ着いたのは、それから二日後だった。
塩俵を満載した荷車の列ではない。
商会の差配役と書記、荷車を扱う者、数人の護衛。連れてきた荷車も、道具と旅の荷を積んだものが一台だけだった。
それでもルーカスは、自ら領主館の外へ出て迎えた。
「橋へ向かう王家の調査役も、途中まで同じ道を来ております」
差配役が報告した。
「宿場で馬を替えてから、こちらへ入るとのことです」
「採石場へ行く者は」
「分かりません。我々へ命じられているのは、川と道を確かめることです」
「そうだったな」
ルーカスは彼らを広間へ通した。
差配役が、マティアスからの書状を差し出す。
前半には、倉と船着き場を使うために交渉を進めていることが書かれていた。
後半は質問だった。
小舟を何艘出せるか。
荷を積み替える場所へ、どれだけ人を集められるか。
西へ買い付けに出す荷車は、何台あるか。
戻る荷車へ何を積めるか。
「着いたばかりで悪いが、先にこれを見てくれ」
ルーカスは、自分たちが調べた紙を出した。
「荷車は借りる手配を始めている。舟は今のところ四艘。ただし、一艘は底板を直す必要がある」
「修理に必要な木材は」
「ある。船大工も呼んだ」
「それなら、その一艘は最初の数に入れません」
差配役は三艘と書き留めた。
ルーカスは思わず笑った。
「マティアス伯爵と同じことを言う」
「直る前の舟を数えるなとは、何度も言われております」
「届く前の荷もか」
「はい」
「厳しい」
「ですから、最初の塩についても、着く日を約束する書状ではありません」
差配役は地図を広げた。
「今、こちら側から荷車を出せば、西の倉で最初の荷を受け取れます。船着き場が使えるかどうかにかかわらず、陸路で少量を先に運ぶ手配です」
「少量とは」
示された量を見て、ルーカスは息を吐いた。
領内すべてを長く賄える量ではない。
だが、次の輸送を組むまでの時間は作れる。
「代金は」
「一部を先に。残りは、荷を受け取った後です。運べなかった分まで払っていただくことはありません」
「東の道が使えないと知って、値を上げなかったのか」
「運ぶ距離が延びた分は上がります」
差配役は真顔で答えた。
「困っているから安くなるわけでもありません」
「それならよい」
ルーカスは書状の下へ目を移した。
マティアスの署名の後に、短い一文が加えられている。
『十年分の帳簿を忘れるな。橋が直る前でも、払った分は確かめる』
ルーカスは声を出して笑った。
差配役が不思議そうに見る。
「何かございましたか」
「いや。伯爵は、私が逃げるとでも思っているらしい」
「逃げられるのですか」
「橋を持っては逃げられん」
「では、助かります」
差配役もわずかに笑った。
ルーカスは書記を呼び、買い付けへ出す荷車の予定を書き直させた。
商会の者たちは、その日のうちに古い船着き場へ向かった。ルーカスも同行した。
水際には草が伸び、使われなくなった杭が斜めに沈んでいる。荷を置くには地面が柔らかく、雨が降れば荷車の車輪が埋まりそうだった。
差配役が足で土を確かめる。
「まず、ここへ荷を集めるのはやめましょう」
「船着き場を使うために来たのだろう」
「舟を着ける場所と、荷を置く場所は同じでなくても構いません」
ルーカスは、少し高くなった地面を見た。
かつて網を干していた場所だった。
「あちらなら、増水しても水は来ないと聞いている」
「漁師に確かめます。道は、その後です」
差配役が書記へ指示を出す。
荷車を扱う男は、岸から街道へ出る道を歩き始めた。
誰も、ルーカスへ忠誠を誓わなかった。
レオンハルトの名を叫ぶ者もいない。
ただ、どこへ杭を打ち、何を運び、いくら掛かるかを調べている。
ルーカスはその姿を、しばらく眺めていた。
王都の食卓で交わした話が、目の前で仕事になっていた。
領主館へ戻ると、息子が中庭で待っていた。
「父上。橋を直す方々ですか」
「その前に、荷を運ぶ道を調べている」
「レオンハルト殿下が、お送りくださったのですか」
「マティアス伯爵だ。殿下と一緒に、話を聞いてくださった」
「お礼を申し上げなければなりませんね」
「ああ」
ルーカスは息子の肩へ手を置いた。
「次にお会いする時は、お前も紹介しよう」
「私も、石を持っていきますか」
「もう石はよい」
「では、何を」
ルーカスは少し考えた。
「自分の名を、はっきり言えるようにしておけ」
「言えます」
「私の後を継ぐ者だと紹介する。俯くなよ」
息子の背筋が伸びた。
ルーカスは笑って肩から手を離し、領主館へ入った。
マティアスへの返書には、調べた舟と荷車の数を書いた。
レオンハルトへは、東から来た使者とのやり取りを別に記した。
最後に、一文を加える。
『橋は、まだ落ちておりません。西から来た者たちが、橋の手前で仕事を始めました』
筆を置く。
それから、もう一度手に取った。
『お約束が言葉だけではなかったこと、領民にも伝えます』
◇ ◇ ◇
グレンツベルクから戻った使者は、イグナーツ・フォン・フェルゼン伯爵の前で頭を下げていた。
「加わらぬと申したか」
「はい。領主自身の返答だと」
「王都で余計な後ろ盾を得たつもりらしい」
イグナーツは窓の外を見た。
領都の北壁では、石工が足場を組んでいる。
修理が必要なのは事実だった。
だからこそ、採石場へ王家の者を入れることも、命令に従った形にできる。
代官が机へ帳簿を置いた。
「採石場の調査に備え、記録を集めております」
「余計なことはするな。帳簿を書き直せば、それを探される」
「承知しております」
「城壁へ使う石は、実際に運べ。決まっている仕事を止める必要はない」
代官が頷く。
使者はまだ顔を上げていなかった。
「ほかに何かあるのか」
「西から、商会の者が入ったと報告がございます。古い船着き場を調べているそうです」
イグナーツの指が止まった。
「石を運ぶのか」
「塩と鉄も、別の道から入れる支度をしているようです」
「クレーマーか」
「おそらく」
イグナーツは机の地図を引き寄せた。
グレンツベルクの橋を指で押さえる。
東からの道を止めれば、ルーカスは困る。
だが、西から荷が届けば、困るだけでは終わらなくなる。
同じように盟約への返答をためらっている家が、それを見ている。
一家が断り、それでも領地を保てると分かれば、次の家も断るかもしれない。
「グレンツベルクへ、兵を出しますか」
使者が尋ねた。
「王家の調査役が向かっている場所へか」
「では、荷車だけでも」
「奪えば、王都へ訴える理由を与える」
イグナーツは地図の西側へ視線を移した。
船着き場へ至る道は、グレンツベルクの領内だけを通るわけではない。
川を下った先にも、荷車が越える領境にも、それぞれ別の領主がいる。
「誰の倉を使う」
「まだ分かりません」
「調べろ。舟を出す者も、荷車を貸す者もだ」
「はい」
「それから、その道を守る諸家へ使者を出す」
代官が筆を取った。
「何と伝えます」
「武装した護衛を伴う荷が増える。街道の警備を厚くするように、と」
イグナーツの指が、橋から西へ延びる細い道を辿った。
「塩を止めただけでは足りんらしい」
窓の外で、石を積んだ荷車が動き始めた。
その音に重なって、イグナーツが命じる。
「こちらも、人を出せ」
第八話を読んでいただき、ありがとうございました。
王都で交わした約束が、グレンツベルクで動き始めました。ルーカスが領地を守る道を探る一方、東部諸侯も次の手を打とうとしています。
引き続き、お楽しみいただければ幸いです。
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