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『知らない世界で、前世の知識が武器になる』 ~剣と銃で乱世を生き抜く転生領主の成り上がり~  作者: 相田 ソウ
第六篇 乱世を動かす火

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第六話 王が量る石

壊れかけた橋を救うため、ルーカスは図面と崩れた石を携えて国王へ直接訴えます。

石を止めた東部の有力者も呼び出される中、国王は一つの橋と領主の権利をどのように量るのでしょうか。

 翌朝、アレクがレオンハルトの客室へ入ると、長机の上には昨夜より多くの書状が積まれていた。

 夕食会の後にも三人の諸侯と会談し、その間に届いたものらしい。封を切られた書状と、まだ封蝋の残る書状が分けて置かれ、ユリウスが家名と用件を一枚の紙へ書き出している。

 その卓上で、昨夜ルーカスが置いていった灰色の石だけが、書状とは別の布に包まれていた。

「ルーカスは来ていますか」

 アレクが尋ねると、ユリウスは手を止めずに答えた。

「隣の部屋にいる。橋の図面を、国王陛下へお見せできるよう描き直しているそうだ」

「昨夜のもので十分ではありませんか」

「本人が納得しなかった。赤と青の印が、蝋燭の明かりでは見えにくいと言っていた」

「眠ったのでしょうか」

「一刻ほどは寝たと申していた」

「それは寝たとは言いません」

 アレクが呆れていると、窓際に立っていたレオンハルトが振り返った。

「橋が落ちるかもしれん時に、よく眠れる領主よりはましだ」

「倒れられても困ります」

「その時は、お前が運べ」

「私がですか」

「若くて力があるだろう」

「殿下の方が大きいではありませんか」

「俺は王弟だ。橋の図面を持った領主を担いで、王宮を歩くわけにはいかん」

「私も今日から子爵です」

「昨日からだ」

「なおさら、担ぐ役ではないと思います」

「爵位を得て、最初に覚えたのが仕事を断ることか」

「人へ任せることを覚えたのです」

 レオンハルトが笑い、ユリウスは何も聞こえなかったように書状を整理し続けた。

 マティアスは別の椅子に座り、ルーカスが残した周辺地図を見ている。

 グレンツベルク領を流れる川と、東西を結ぶ街道。その交点に、修理を必要としている石橋がある。橋の東には、目的の採石場を示す小さな印が付けられていた。

「採石場を持つのは、フェルゼン伯爵でしたね」

 アレクが確認する。

「イグナーツ・フォン・フェルゼン」

 マティアスが答えた。

「東部に広い領地を持つ伯爵です。王都へ来ているため、国王陛下が呼べば今日のうちに話を聞けるでしょう」

「素直に石を売るでしょうか」

「素直に売るつもりなら、三倍の値を示された時点で売っています」

「では、話し合っても変わらないのでは」

「何も変わらないことを確かめるのも、話し合いの役目です」

 マティアスは地図の採石場から、グレンツベルクの橋まで指を動かした。

「ただし、国王陛下がフェルゼン伯爵へ石を出せと命じれば、それで問題が解決するとも限りません」

「王命でも従わないということですか」

「形の上では従うでしょう。だが、質の悪い石を送る、石工を出さない、荷車を遅らせる、道が崩れたと言う。邪魔をする方法はいくらでもあります」

「先に理由を聞く必要がある」

「本当に石が足りない可能性もあります。東部の城壁を直しているという話が事実なら、橋へ回す余裕がないのかもしれない」

「ルーカスは、石がないのではなく、自分へ売る石がないのだと言っていました」

「その違いを、国王陛下の前で確かめます」

 扉が開き、丸めた図面を抱えたルーカスが入ってきた。

 昨夜と同じ深緑の外套ではなく、王宮から借りた濃紺の上着を着ている。髪も整えられていたが、目の下には疲れが残っていた。

「お待たせしました」

「一刻しか眠っていないそうだな」

 レオンハルトが言う。

「ユリウス殿ですか」

「俺に隠すようなことではないだろう」

「寝台には入りました」

「眠ったのか」

「図面のことを考えているうちに、鐘が鳴りました」

「それを眠っていないと言うんだ」

「領地へ戻る馬車で眠ります」

「揺れるぞ」

「昨夜、王宮の寝台でも眠れなかったので、同じことです」

 ルーカスは図面を長机へ広げた。

 昨夜のものより大きく、石が剥がれた場所は濃い赤で示されている。川底が削られた範囲には青い線が引かれ、上流で伐採が増えた場所や、流木が溜まりやすい場所も書き加えられていた。

「一晩で調べたのですか」

「昨夜アレクから聞いたことを、覚えている範囲で加えました。正確な範囲は、領地へ戻ってから調べ直します」

「私が言ったことが、すべて正しいとは限りません」

「分かっています。ですから、アレクの意見とは書かず、調査が必要な場所として印を付けました」

 図面の端には、必要な石材、木材、鉄材、石工の人数が書かれている。その横には、橋を閉じた場合に必要となる渡し船と、川の両岸へ用意する荷車の数まで並んでいた。

 昨夜、マティアスと話した内容を、すでに自分の仕事へ変えている。

「これなら兄上にも見せられる」

 レオンハルトが図面を眺めて言った。

「石も持っていくのか」

「はい」

「床へ粉を落とすなよ」

「昨夜、殿下が食卓へ置けと仰ったのですが」

「今日は兄上の部屋だ。汚せば俺まで言われる」

「国王陛下より先に、侍従へ叱られそうです」

「その時は、お前が自分で謝れ」

「殿下は助けてくださらないのですか」

「自分の橋だろう」

 ルーカスはレオンハルトを見た後、石を包む布を二重にした。

 やがて王宮の侍従が迎えに来た。

 国王が待っているのは、昨日の大広間でも、新型火槍を見せた謁見の間でもなかった。

 政務に使われる小さな評議室だった。

 小さいといっても、アイヒェンタールの領主館にある広間より大きい。中央には十人以上が座れる長机があり、壁にはグランヴァルト王国全体を描いた地図が掛けられていた。

 地図の南東には、現在のグランヴァルト領へ組み込まれた旧エーレンベルク公国の土地が広がっている。その北東に東部諸侯の領地が連なり、さらに外側でロスヴァール王国と国境を接していた。

 国王は長机の奥に座っていた。

 左右には王国の街道と河川を管理する役人、財務官、書記官が控えている。近衛兵は扉の内側に二人だけだった。

「来たか」

 国王の視線が、ルーカスの抱えた図面へ向く。

「橋を一つ持ってきたような顔をしているな」

「図面と、橋から剥がれた石を持参いたしました」

「本当に石まで持ってきたのか」

「レオンハルト殿下から、持ってくるようにと」

 国王が弟を見る。

「兄上にも見せればよいと思った」

「俺の机まで食卓にするつもりか」

「昨夜は橋を見ながら食事をした」

「お前たちは、王宮へ来てもやることが変わらんな」

 国王は呆れたように言ったが、図面を広げるよう命じた。

 ルーカスが長机の前へ進む。

 アレクとマティアスが手伝い、大きな図面を机の上へ広げた。四隅へ重しを置き、布に包んだ石と錆びた留め金を余白へ置く。

「説明せよ」

 国王がレオンハルトを見た。

 レオンハルトが口を開こうとすると、国王は片手を上げた。

「ルーカスへ命じた」

「私が説明した方が早い」

「橋を守るのはルーカスであろう。ならば、まず本人の言葉を聞く」

 レオンハルトは肩をすくめ、一歩下がった。

 ルーカスは図面の中央に描かれた橋脚を指した。

「この橋は、グレンツベルク領を流れるリーデ川に架かっております。王都から東部へ向かう二本の街道が合流する場所にあり、収穫後には一日七十台を超える荷車が渡ります」

「冬は」

「二十台前後です。ただし、塩と鉄を運ぶ荷車は季節にかかわらず通ります」

「いつ造られた」

「最も古い記録では百十二年前です。五十六年前に中央の橋脚を組み直し、その後は崩れた部分を修繕しながら使っております」

「百年以上か。よく保ったものだ」

「先代たちと石工が守ってきた橋です」

 ルーカスは赤く塗られた場所へ指を移した。

「二年前から、中央に近い橋脚の周囲で石が剥がれ始めました。春の増水後に川へ潜らせたところ、橋脚を支える川底も削られております」

「この青い線か」

「はい。昨夜、アレクから、上流の伐採と流木も調べた方がよいと言われました。まだ確認していないため、こちらは調査が必要な範囲として記しております」

 国王の視線がアレクへ移る。

「お前は橋まで造れるのか」

「造れません」

 アレクはすぐに答えた。

「では、なぜ口を出した」

「火縄――新型火槍を作った時、壊れた場所だけを直しても、原因が別に残っていれば、また同じ不具合が起きました。橋脚の石が剥がれたのであれば、石積みだけではなく、そこへ当たる水や流木も調べる必要があると思いました」

「新型火槍と石橋を同じに考えたのか」

「同じものではありません。ですが、分からないものを、分かったことにして直さない方がよいという点は同じです」

「石工は何と言っている」

 国王がルーカスへ尋ねる。

「見えている亀裂を埋めれば、今年は保つ可能性が高いと申しております。ただし、次の増水に耐えられる保証はできないとも」

「橋脚を組み直せばよいのではないか」

「橋を長く閉じる必要があります。石と石工も足りません」

「それで、俺に石を出させたいのか」

「石を奪っていただきたいのではありません。正当な代金で購入することを認めていただきたいのです」

「認めるも何も、売る者がいれば買えばよい」

「売る者がいないため、ここへ参りました」

 ルーカスは周辺地図を重ねて広げた。

 グレンツベルクの東にある採石場を示す。

「橋に使われた石は、フェルゼン伯爵領の採石場から切り出されたものです。三倍の代金を提示しましたが、売れないと断られました」

「理由は」

「東部の城壁修理に使うため、他領へ売る石はないとのことでした」

「本当に足りないのか」

「分かりません。王都の石工へ確認したところ、昨年より採石量が減ったという話は聞いていないと申しておりました」

「お前は、フェルゼン伯爵が嘘をついていると言いたいのか」

「確かめられていないことを、嘘とは申しません」

 ルーカスは国王から目を逸らさなかった。

「ただ、盟約へ加われば石を売ると伝えられました」

 評議室の空気が変わった。

 役人たちが互いの顔を見る。

 国王だけは表情を変えなかった。

「どの盟約だ」

「東部に領地を持つ複数の諸侯が結ぼうとしている、相互防衛の盟約です」

「お前は加わったのか」

「まだ返答しておりません」

「加わるつもりは」

「ありません」

「石を得られなくてもか」

「石がなければ、別の方法を探します」

「橋が落ちれば、お前の領地は困るのだろう」

「困ります」

「塩と鉄も止めると言われたそうだな」

 ルーカスがわずかに目を見開いた。

 レオンハルトが先に伝えていたらしい。

「はい」

「それでも断るのか」

「盟約には、他家の軍勢を加盟領へ入れないこと、新たに与えられた街道と徴税の権限を認めないこと、国王陛下から派遣される調査役を全家の同意なしに受け入れないことが記されています」

「俺の命令で行く者も、追い返すということか」

「そのように読めます」

「だから加わらない?」

「王都から来る者が、すべて正しいとは思っておりません」

 役人の一人が眉をひそめた。

 ルーカスは構わず続ける。

「無理な徴税や徴発を命じられれば、理由を記録し、王都へ訴えます。それでも聞き入れられなければ、従えないこともあるでしょう。しかし、最初から国王陛下の名で来る者をすべて拒むと約束することとは違います」

「俺を信じているのか」

「すべてを信じているわけではありません」

 昨日、レオンハルトへ答えた時と同じ言葉だった。

 役人たちの表情がさらに硬くなる。

 国王は怒らなかった。

「では、なぜ俺へ訴えに来た」

「国王陛下が何と判断されるか、確かめるためです」

「俺がフェルゼン伯爵の側に立てば」

「領地へ戻り、別の石を探します」

「それだけか」

「橋が落ちないよう、できることを続けます」

 国王はルーカスをしばらく見つめた。

 やがて、街道を管理する役人へ目を向ける。

「フェルゼン伯爵は王都にいるか」

「はい。昨日の論功行賞にも出席しております」

「呼べ」

「すでに控えの間でお待ちいただいております」

「準備がよいな」

「昨夜、レオンハルト殿下からご連絡がございましたので」

 国王が弟を見る。

「俺が呼ばなければどうするつもりだった」

「兄上が呼ばない理由を聞いた」

「朝から面倒な弟だ」

「面倒な兄に慣れている」

「誰が面倒だ」

「国王陛下」

 評議室にいた役人たちは、揃って視線を下げた。

 マティアスの口元が動いたが、笑い声は出さなかった。

 扉が開き、イグナーツ・フォン・フェルゼン伯爵が入ってきた。

 五十歳に近い、肩幅の広い男だった。濃い茶色の髪には白いものが混ざり、胸元には灰色の岩山をかたどった家紋が付いている。

 イグナーツは国王へ深く頭を下げた後、レオンハルトたちへ短く礼をした。

 ルーカスへ向けた視線だけが、明らかに冷たかった。

「お呼びでしょうか、国王陛下」

「グレンツベルクの橋について聞く」

 国王が図面を示す。

「橋に使う石を、ルーカスへ売ることを拒んだそうだな」

「はい」

「なぜだ」

「我が領内の城壁と砦を修理する必要がございます。東部の守りに使う石を、他領へ売る余裕はありません」

「ルーカスは三倍の値を示した」

「金額の問題ではございません」

「では、どれだけ石が足りない」

「正確な量は、領地の石工と代官に確認しなければお答えできません」

「採石場の持ち主が、採れる石の量を知らないのか」

「すべての領内産業を、領主自身が数えているわけではございません」

「それはそうだな」

 国王は簡単に認めた。

 イグナーツの顔に、わずかな余裕が戻る。

「しかし、足りないと判断したのはお前だろう。何を見て決めた」

「代官から、今年は東部の城塞修理を優先するべきだと報告を受けました」

「どの城塞だ」

「国境近くの三城と、領都の北壁でございます」

「修理に必要な量は」

「それも、記録を確認しなければ」

「採石量も、必要量も分からない。それでも余裕がないことだけは分かるのか」

 イグナーツが一度口を閉じた。

「東部はロスヴァール王国と国境を接しております。いつ何が起きてもよいよう備えるのは、領主として当然の責務かと」

「グレンツベルクの橋が落ちることは、備えに入らないのか」

「あの橋はグレンツベルク領にございます」

「渡るのはグレンツベルクの者だけではない」

「維持する責任は、通行税を得ている領主にあります」

 ルーカスが何かを言おうとしたが、マティアスが僅かに手を動かして止めた。

 国王はマティアスへ視線を移す。

「何か聞きたいことがある顔だな」

「よろしいでしょうか」

「聞け」

 マティアスはイグナーツへ向き直った。

「昨年、フェルゼン伯爵領の採石場から、王都へどれほどの石を送りましたか」

「商人上がりの伯爵へ、我が家の取引を説明する義務があるのか」

「ありません」

 マティアスは穏やかに答えた。

「国王陛下が確かめようとなさっていることを、代わりに尋ねているだけです」

「国王陛下がお尋ねならば、陛下へお答えする」

「では、兄上が聞け」

 レオンハルトが言った。

「俺を使うな」

 国王は弟を一度睨んだ後、イグナーツへ尋ねた。

「昨年、王都へ送った量は」

「今ここでは分かりません」

「今年は」

「分かりません」

「東部の城塞へ送る予定は」

「正確な量は、確認が必要です」

「盟約へ加われば、ルーカスへ石を売ると言ったか」

 イグナーツの表情が止まった。

「誰が、そのようなことを」

「言ったのか、言わなかったのかを聞いている」

「私は直接、そのような条件を示しておりません」

 嘘ではないのだろう。

 アレクはイグナーツの声と顔を見た。

 動揺はある。しかし、自分が言った言葉を暴かれた者の反応とは少し違う。

「では、誰かが勝手に伯爵の名を使ったと?」

 アレクが尋ねる。

 イグナーツが鋭い目を向ける。

「私は国王陛下と話している」

「答えよ」

 国王が命じた。

 イグナーツはアレクから視線を外さずに答えた。

「領内の代官や商人が、どのような言葉を使ったかまでは承知していない」

「石を売らないという判断は、伯爵がなさったのですね」

「そうだ」

「盟約へ加われば売るという条件は、伯爵の命令ではない?」

「命じてはいない」

 アレクはそれ以上尋ねなかった。

 石を止めたのはイグナーツ自身だ。

 だが、盟約と結びつけたのは代官か、商人か、別の諸侯かもしれない。イグナーツが知らなかった可能性もあれば、言葉にせず相手が動くことを期待した可能性もある。

 今の答えだけでは、どちらとも決められなかった。

「マティアス」

 国王が呼ぶ。

「はい」

「お前はどう見る」

「帳簿を見なければ分かりません」

「随分と簡単な答えだな」

「採石量、既に売った量、城塞修理へ必要な量、倉に残る量。その四つを比べれば、本当に余裕がないか分かります」

「帳簿が正しければ、であろう」

「はい。ですから、採石場と倉も見ます」

「俺の領地へ調査役を入れるつもりか」

 イグナーツの声が低くなった。

「私が決めることではありません」

 マティアスは国王を見た。

 国王は机の上に置かれた灰色の石を手に取った。

 指先で欠けた部分へ触れ、付着した古い漆喰を確かめる。

「この石一つで、橋は落ちるか」

 街道を管理する役人へ尋ねた。

「一つであれば、すぐには」

「同じ場所から幾つも落ちている」

「図面のとおりであれば、詳しく調べる必要がございます。橋脚の下が削られている場合、上から石を積むだけでは危険かと」

「修理が必要だと?」

「少なくとも、調査は必要です」

「フェルゼン伯爵」

 国王は石を布の上へ戻した。

「採石場はお前の領地にある。石を誰へ売るかも、本来はお前が決めることだ」

「はい」

「だが、グレンツベルクの橋を通る街道は、王国の東西を結んでいる。橋が落ちれば、ルーカス一人ではなく、王国へ影響が出る」

「だからといって、我が家の石を取り上げると仰るのですか」

「取り上げん」

 国王は即座に否定した。

「王家から調査役を出す。採石場の採石量、倉にある量、既に決まっている売却先、城塞修理へ必要な量を確認させる」

 イグナーツの顔が険しくなる。

「我が家の帳簿まで、お調べになるおつもりですか」

「石に関係する部分だけだ。お前の寝室へ隠した金まで数えるつもりはない」

「領主の権利を侵すことになります」

「余っている石を売れと命じたのではない。本当に余っていないのか確かめる」

「私の言葉を信用なさらないと?」

「採石量も必要量も分からないという言葉を、どう信用すればよい」

 イグナーツは答えられなかった。

「調査には、王家の者だけでなく、フェルゼン家とグレンツベルク家からも一人ずつ立ち会わせる」

 国王は続けた。

「帳簿と現場が一致し、本当に余剰がなければ、ルーカスへ売る必要はない。その場合は別の採石場を探し、王家も輸送に協力する」

「余剰があると判断された場合は」

「正当な代金で必要量を売れ」

「三倍の値でございますか」

「ルーカス」

 国王に呼ばれ、ルーカスが答える。

「はい」

「三倍を払えるのか」

「橋を失うよりは安いと考えました」

「三倍は認めん」

 ルーカスが目を瞬く。

「よろしいのですか」

「困っている相手から三倍取ることを、王が認めるわけにはいかん。過去三年の取引価格と、採石や輸送に必要な費用を調べ、その範囲で決めさせる」

「承知しました」

「ただし、橋の修理すべてを王家が負担するわけではない」

「分かっております」

「通行税を取ってきたのは、お前の家だ。その帳簿も調べさせろ」

「十年分を持参できます」

 ルーカスは迷わず答えた。

「随分と残しているな」

「父から、橋の石がなくなっても、使った金の記録はなくすなと教えられました」

「よい父だったようだ」

「はい」

 ルーカスの返事が、少しだけ低くなった。

 国王は図面へ視線を戻す。

「橋そのものにも調査役を出す。石工だけでなく、川を知る船頭と、街道を知る者も連れていけ。橋脚だけを直して、別の場所を壊しては意味がない」

「ありがとうございます」

「礼を言うのは、橋が直ってからにしろ」

 国王はイグナーツへ向き直った。

「異論はあるか」

「国王陛下がお決めになったことであれば、従います」

「不満はあるようだな」

「領地の帳簿と採石場へ王家の者を入れることを、喜ぶ領主はいないでしょう」

「それは理解している。調べる範囲は書面で定める。勝手に広げさせはしない」

「承知しました」

「調査役を妨害するな」

「そのようなことはいたしません」

「ならばよい」

 国王が手を上げ、話の終わりを示した。

 イグナーツは頭を下げた。

 評議室を出るため扉へ向かい、ルーカスの横を通る。

 すれ違う直前、足を止めた。

「石一つのために、東部の友を失われたようですな」

 声は小さかったが、近くにいたアレクには聞こえた。

 ルーカスはイグナーツを見上げた。

「橋を落とす友を持った覚えはありません」

 二人の視線が交わる。

 イグナーツは何も言い返さず、扉を出ていった。

 扉が閉じられても、ルーカスはしばらく同じ場所に立っていた。

「怖くはないのか」

 国王が尋ねた。

「怖くないと申せば、嘘になります」

「フェルゼン伯爵は、東部で力を持つ。お前より兵も領地も多い」

「知っております」

「それでも言い返した」

「黙っていても、石を売っていただけるとは思えませんでした」

 国王は短く笑った。

「レオンハルトが気に入るわけだ」

「私よりマティアスの方が気に入っている」

「昨夜から、そればかり言っています」

 ルーカスが言うと、マティアスが首を横へ振った。

「私は橋と帳簿に興味があるだけです」

「領主本人には興味がないのですか」

「橋と帳簿を任せられない領主であれば、話す意味がありません」

「では、少しは認められたと考えてよいのでしょうか」

「十年分の帳簿を確認してから決めます」

「厳しい方だ」

「三年分ではありません。十年分あると自分で申したでしょう」

 ルーカスが困った顔をし、レオンハルトが笑った。

 張り詰めていた評議室の空気が少しだけ緩んだ。

 国王は書記官へ、採石場と橋を調べる者の選定を命じた。調査の範囲、立会人、帳簿の扱い、結果の報告先を一つずつ決めていく。

 アレクはそのやり取りを聞きながら、机の上の石を見た。

 国王が命じれば、石を出させることはできた。

 しかし、理由を確かめずに一方の領主から物を取り上げれば、別の諸侯も自分の領地へ同じことをされると考える。

 ルーカスを助けるための命令が、東部諸侯をさらに結びつける理由になるかもしれない。

 国王はルーカスだけを信じたのではない。

 イグナーツだけを疑ったのでもない。

 双方の帳簿と現場を調べ、誰が見ても説明できる形を作ろうとしている。

 判断を先へ延ばしたようにも見える。

 だが、何もせず待つのではない。

 王家の調査役を動かし、橋が落ちる前に調査を始める期限まで決めている。

 アレクが知るレオンハルトのやり方とは違っていた。

 レオンハルトなら、必要だと判断した時点で自分の人間を送り、石を運ぶ別の道まで同時に探すだろう。

 国王は王国全体へ命令を残せる形を先に整える。

 似ている部分はある。

 それでも、同じではなかった。

「話は終わったか」

 国王が尋ねる。

 書記官が最後の項目を書き終え、頷いた。

「はい。三日以内に調査役を出せるよう手配いたします」

「二日だ」

「二日でございますか」

「橋が落ちてから、三日必要だったと言い訳するつもりか」

「いいえ。ただちに選定いたします」

「ルーカス」

「はい」

「お前は領地へ戻れ。調査役を迎え、橋と帳簿を見せろ」

「承知しました」

「次だ」

 国王がレオンハルトへ手を出した。

「何のことだ」

「昨夜、お前が預かった書状だ」

 ルーカスが息を呑んだ。

 レオンハルトは外套の内側から、折り畳まれた盟約書を取り出した。

「やはり知っていたのか」

「お前が朝まで黙っている時は、俺に見せるか迷っている時だ」

「俺を見張っているのか」

「弟の考えることを知っているだけだ」

「兄上に分かるような顔をしたつもりはない」

「分からない顔をしようとしている顔だった」

「昔から、その言い方が気に入らん」

「俺も、お前の分かりやすい強がりが気に入らん」

 レオンハルトは不満そうに盟約書を渡した。

 国王は封蝋に並ぶ紋章を一つずつ確かめてから、羊皮紙を開いた。

 評議室の役人たちには見せない。

 最初から最後まで黙って読み、もう一度、最初へ戻る。

「ここに名を連ねた者は、全員この条件に同意したのか」

 ルーカスへ尋ねた。

「分かりません。同じ書状がそれぞれへ送られ、返答を求められているのだと思います」

「お前は署名していない」

「はい」

「フェルゼン伯爵の印はある」

「はい」

「先ほど、この書状を出さなかったのはなぜだ」

 国王がレオンハルトを見る。

「採石場の話と、盟約の話を分けるためだ。最初からこれを出せば、フェルゼン伯爵が石を売らないことまで反逆の準備として扱われる」

「違うと思うのか」

「分からん。分からないから、先に石の話を聞いた」

「お前にしては慎重だな」

「俺がいつも考えずに動いているように言うな」

「考えた後で、考えていないように動くことはある」

「それで勝ってきた」

「だから周囲が苦労する」

 レオンハルトが何か言い返そうとしたが、ユリウスが僅かに咳払いした。

「国王陛下。盟約書について、どのようになさいますか」

「すぐに兵を送れと言いたそうだな、ユリウス」

「そのようなことは申し上げておりません」

「顔にも出していないか」

「はい」

「レオンハルトより優秀だ」

「俺と比べる必要があるのか」

 国王は答えず、盟約書を机へ置いた。

「この書状だけで、反逆とは決められん」

「俺も同じ考えだ」

「珍しく意見が合ったな」

「昨日から何度も合っている」

「数えているのか」

「兄上と意見が合うことは少ないからな」

 国王は署名欄を指で押さえた。

「互いの領地を守る。外敵を防ぐ。そこまではよい。地方の領主が盗賊や他国の兵へ備え、隣り合う家と協力することまで禁じるつもりはない」

「だが、王命で送る調査役を拒み、新たに与えられた領地と徴税の権限を認めないとある」

「ああ。誰の何を指しているか、確かめる必要がある」

 昨日の論功行賞で、マティアスにはベルグハーフェンと四領を結ぶ街道の管理権が与えられた。アレクにも、谷の入口にある二つの村、旧宿駅、古い関所と周辺の土地が加増された。

 盟約書にある新たな街道と徴税の権限という言葉が、それらを指している可能性は高い。

 だが、名前は書かれていない。

「名を連ねた者を捕らえますか」

 アレクが尋ねた。

「今ここで捕らえれば、どうなると思う」

 国王が問い返す。

「残った東部諸侯が、自分たちも捕らえられると考えます」

「その後は」

「王都へ来なくなる。城を閉ざし、兵を集めるかもしれません」

「そのとおりだ」

 国王は盟約書を畳んだ。

「恐れた者を罰すれば、その恐れを反逆へ変えるだけだ」

「何もしないのですか」

「誰が、何を恐れているのかを調べる」

 国王は書記官ではなく、壁際に立つ一人の役人を呼んだ。

「東部で兵を集めている家を調べろ。表向きの軍役だけでなく、傭兵、武器、馬、兵糧もだ」

「承知しました」

「王国外から入った金と物も調べる。ただし、商人を片端から捕らえるな。荷を止めれば、東部全体が敵になる」

「どこまで報告を上げますか」

「俺とライゼンへ直接だ。名を連ねた諸侯へ、こちらが盟約書を持っていると悟らせるな」

「はい」

 役人が頭を下げた。

「ルーカス」

「はい」

「お前がこの書状をレオンハルトへ渡したことも、今は伏せる」

「ありがとうございます」

「礼を言うな。お前を守るためだけではない」

「分かっております」

「フェルゼン伯爵たちが、お前へもう一度返答を求めるかもしれん」

「断ります」

「同じ言葉で断れ。こちらが書状を読んだと分かる言い方をするな」

「承知しました」

「できるか」

「橋の修理で忙しいと答えます」

 国王が笑った。

「嘘ではないな」

「はい」

「お前は領地へ戻れ。次に王都へ来る時は、橋が直ってからにしろ」

「それでは、何年先になるか分かりません」

「今夜の宴へ残りたいのか」

「いいえ。領地へ戻ります」

「ならば急げ」

 ルーカスは図面を巻き、石と留め金を再び布へ包んだ。

 国王へ深く頭を下げる。

「国王陛下。調査役をお送りいただけること、感謝いたします」

「橋を直すのは、お前だ」

「はい」

「王家の者が仕事を増やした場合は、俺へ報告しろ」

 街道を管理する役人が僅かに顔を上げた。

 ルーカスは真面目な顔で答える。

「橋を直すより書類が増えた場合は、そのようにいたします」

「レオンハルトと話が合うはずだ」

「兄上。そこで俺の名を出す必要はない」

「お前なら同じことを言う」

「役人が聞いている前では言わん」

「聞いていない場所なら言うのか」

「言う」

 国王は呆れたように息を吐いた。

 ルーカスは笑いを堪えながら、アレクたちとともに評議室を出た。

◇ ◇ ◇

 王宮の廊下へ出ると、ルーカスは借りていた上着の襟を緩めた。

「国王陛下の前へ出るより、増水した川へ入る方が楽かもしれません」

「川では流されるぞ」

 レオンハルトが言う。

「流れの向きは見えます」

「兄上の考えは見えなかったか」

「最後まで分かりませんでした」

「それでよい」

「殿下も、昨日同じことを仰っていましたね」

 アレクが言う。

「俺と兄上の意見が合う、数少ないことだ」

「意見が合った回数を数えているそうですね」

「誰から聞いた」

「先ほど殿下ご自身で仰いました」

 レオンハルトは何も答えずに歩き続けた。

 ルーカスは王宮の客室へ戻らず、そのまま帰る準備を始めた。

 マティアスはベルグハーフェンから橋の調査へ出す者を決め、追ってグレンツベルクへ向かわせると約束した。アレクも、領内の道と水路を調べている者の中から、記録を取れる者を二人出すことにした。

「アレク自身は来ないのですか」

 ルーカスが尋ねる。

「王都での仕事が終われば、一度は見に行きます。ただ、私が到着するまで待つ必要はありません」

「分かっています。橋は待ってくれません」

「私が行っても、石工の代わりはできません」

「川へ潜っていただくことはできます」

「昨日会ったばかりの子爵へ頼む仕事ではありません」

「若くて身体も強いと、殿下から伺いました」

「殿下」

 アレクが睨むと、レオンハルトは楽しそうに笑った。

「人へ任せることを覚えたのだろう」

「川へ潜る者を探すところから任せます」

「正しい判断だ」

 マティアスが頷く。

「ただし、誰へ任せたかは確認しなさい。泳げない者を選べば、橋より先に人が沈みます」

「分かっています」

 ルーカスは再び深緑の外套を身につけた。

 昨夜の泥と石の粉が残っている。王宮から借りた上着より、その姿の方がルーカスらしく見えた。

「今夜の歓迎晩餐会には、本当に出ないのか」

 レオンハルトが尋ねる。

「はい」

「東部の諸侯も多く来る。お前が直接話せる相手もいるぞ」

「今会えば、盟約へ加わるかどうかを聞かれます」

「橋が忙しいと答えればよい」

「その答えを、国王陛下の前以外でも使ってよろしいのでしょうか」

「好きに使え」

「では、橋が忙しいので帰ります」

「一杯くらい飲んでいけ」

「昨夜も同じことを仰いました」

「昨夜は飲んだだろう」

「今日は橋が待っております」

「橋は逃げん」

「落ちることはあります」

 昨夜と同じ言葉だった。

 レオンハルトは諦めたように手を振った。

「もう行け」

「はい」

「本当に行くのか」

「帰れと仰ったのは殿下です」

「面倒な男だな」

「殿下にだけは言われたくありません」

 ルーカスは最後に一礼した。

「次は、直った橋の上でお会いできることを願っております」

「ああ。俺が最初に軍を率いて渡る」

「軍勢を率いずにお願いいたします」

 ルーカスは返事を待たず、従者とともに廊下の向こうへ歩いていった。

 その背中が見えなくなるまで、レオンハルトは同じ場所に立っていた。

「本当に気に入ったのですね」

 アレクが言う。

「だから面倒だと言っている」

「素直に認めればよいではありませんか」

「お前まで、あいつに似てきたな」

「昨日会ったばかりです」

「十分だ。面倒な者は、すぐに増える」

 レオンハルトはそう言うと、客室へ向かって歩き始めた。

 途中、国王付きの侍従が前から来た。

 手には金糸で縁取られた黒い封筒がある。

「レオンハルト殿下。国王陛下から、今夜の歓迎晩餐会について正式なご案内でございます」

「正式な招待がなくとも、出ろと言われている」

「諸侯へお示しするための招待状でございます」

「兄上らしいな」

 レオンハルトは封筒を受け取った。

 その場で封を切り、内容へ目を通す。

「食後に舞踏を行うとある」

「はい。昨日の論功行賞へ出席した諸侯には、ご家族と後継者を伴うことが認められております」

「誰が決めた」

「国王陛下でございます」

「兄上は踊らんだろう」

「国王陛下がお踊りになるかは、私には分かりません」

「俺も踊らんぞ」

「国王陛下の右隣へ席が用意されております」

「聞いていない」

「先ほど国王陛下から、お伝えするよう命じられました」

 レオンハルトの眉間に皺が寄った。

「兄上は、まだ俺を使うつもりか」

「何のことでしょうか」

「分からないならよい」

 侍従はアレクたちへも招待状を渡した。

 マティアス、アレク、ヴィクトル、カスパル、ロベルト、エイドリアン。全員の名が記されている。

「ユリウスは」

「殿下の側近として、すでに席をご用意しております」

「逃げられないようにしたか」

 ユリウスが小さく息を吐く。

「最初から逃げるつもりはありません」

「俺の代わりに出ろ」

「国王陛下の右隣へ、私が座るのですか」

「遠目なら分からん」

「分かります」

 侍従は何も聞かなかったことにして、一礼して去っていった。

 レオンハルトは招待状を畳みながら、先ほどまでいた評議室の方角を見た。

「今夜、兄上は俺を隣へ座らせるつもりらしい」

「兄弟の仲が良いことを、諸侯へ見せるためでしょう」

 マティアスが言う。

「仲が良いと思うか」

「悪ければ、あのような言い合いはできません」

「お前まで、ルーカスのようなことを言うな」

「外からは、そのように見えるということです」

 レオンハルトと国王が争えば、王国は再び割れる。

 シュヴァルツ伯が多くの諸侯を集められた理由の一つも、王都とレオンハルトの間にある溝を利用できると考えたからだった。

 国王の隣にレオンハルトが座り、二人が同じ勝利を祝う。

 その姿を見れば、国王とレオンハルトを争わせ、その隙に自分の勢力を広げようとする者は動きにくくなる。

 東部諸侯だけへ向けたものではない。

 王国内のすべての諸侯へ、シュヴァルツ伯と同じ道を選んでも、今度は兄弟のどちらかを味方にできるとは限らないと示すための宴だった。

「兄上に利用されるのは気に入らん」

 レオンハルトが言う。

「殿下も、国王陛下の宴を利用なさればよいでしょう」

 マティアスが答える。

「そのつもりだ」

「でしたら、問題はありません」

「簡単に言うな。今夜は、戦場より面倒になるぞ」

 その言葉の意味を、アレクはまだ理解していなかった。

◇ ◇ ◇

 昼を過ぎた頃、ヴィクトル、カスパル、ロベルト、エイドリアンが客室へ呼ばれた。

 四人にも招待状が届いている。

 ヴィクトルは招待状を持つ手に力が入り、カスパルは同封されていた参加者への案内を読んでいた。ロベルトは席順についてユリウスへ尋ね、エイドリアンは舞踏に必要な礼儀を思い出そうとしているのか、落ち着かない様子で指を動かしている。

「私は踊れません」

 アレクが言うと、四人の視線が集まった。

「本当に?」

 カスパルが尋ねる。

「踊る機会がありませんでした」

「アルヴェイン大公の小姓だったのでしょう」

「小姓は舞踏の練習をするものなのですか」

「貴族の子弟なら、普通は幼い頃に習います」

「私は貴族の子弟ではありません」

 アレクが答えると、カスパルが口を閉じた。

 アレクがどこから来たのか、四人は知らない。身元の分からない少年としてラーデン村へ現れ、徴集兵からアルベルトの小姓となったことは聞いていても、それ以前の暮らしは誰も知らなかった。

「私も得意ではありません」

 エイドリアンが言った。

「習ったのでは?」

「習いました。習ったことと、得意なことは別です」

「足を踏んだことがあるのか」

 ヴィクトルが尋ねる。

「三度ほど」

「同じ相手の?」

「二人です」

「一人は二度踏んだのか」

 ロベルトが確認すると、エイドリアンは顔を背けた。

「二度目は、向こうが私の足へ出してきたのです」

「それは、お前が進む方向を間違えたからだ」

「見ていたのですか」

「同じ舞踏会にいた」

「ならば、先に教えてください」

「踊っている最中に、外から声を掛けられるわけがないだろう」

「今なら言えますね」

「次は気をつけろ」

「役に立ちません」

 四人のやり取りを聞いていたアレクは、少しだけ安心した。

 少なくとも、自分以外にも舞踏を不安に思っている者はいる。

「笑っている場合ではないぞ」

 レオンハルトが言った。

 全員が声を止めた。

 長机の上には、今夜の参加者名簿が広げられている。

 昨日の論功行賞に出席した諸侯、その妻、後継者、娘、近親者。国王派、レオンハルトへ近づこうとする者、どちらにも属さない者が混ざっている。

 名簿の横には、すでにユリウスが印を付けていた。

「お前たち五人は、今夜、俺とマティアスの近くに座る」

 レオンハルトがアレクたちを順に見る。

「五人?」

 アレクが数える。

「私と、ヴィクトル、カスパル、ロベルト、エイドリアンですか」

「他に誰がいる」

「いませんが、どうして私たち五人を一緒にするのです」

「王都の連中が、勝手にそう見ているからだ」

 ユリウスが別の紙を差し出した。

「今朝から、皆様をまとめて面会へ招きたいという書状が届いております」

 紙の上には、アレクたち五人を指す呼び方が幾つか記されていた。

 その中で最も多いのが、「マティアス伯爵の五旗衆」だった。

「五旗衆?」

 ヴィクトルが眉を寄せる。

「誰がそのような名を付けたのですか」

「分かりません」

 ユリウスが答えた。

「論功行賞で五人がマティアス伯爵の近くへ並んでいたこと。それぞれが領地と兵を持つこと。四人が自家の旗を持ち、アレクも新たに領地を加増されたことから、そう呼ぶ者が現れたようです」

「私は旗を作った覚えがありません」

 アレクが言う。

「これから作らなければなりません」

 マティアスが答えた。

「子爵として領地と兵を持つ以上、いつまでも借りた旗だけを使うわけにはいかないでしょう」

「何を描けばよいのですか」

「それは後で決めなさい」

「火槍にすればよい」

 レオンハルトが言う。

「秘密にしている武器を旗へ描くのですか」

「では、剣だ」

「どの家にもありそうです」

「面倒だな。お前の顔でも描け」

「敵より先に、味方が逃げます」

 カスパルが笑い、ヴィクトルの口元も僅かに緩んだ。

「呼び名の話は後だ」

 レオンハルトが名簿を指先で叩いた。

「今夜、お前たちへ近づくのは、戦功を祝いたい者だけではない」

「承知しています」

 ヴィクトルが答える。

「私たちの領地と、マティアス様との関係を知りたい者もいるでしょう」

「それだけならよい」

「他にもあるのですか」

「爵位を得たばかりの若い領主が五人いる。全員、正式な婚約相手はいない」

 ヴィクトルたちの表情が変わった。

 カスパルだけは、先ほど読んでいた参加者名簿へ視線を落とす。

「娘を連れてくる家が多いとは思っていました」

「気づいていたのか」

 ロベルトが尋ねる。

「後継者の紹介だけが目的なら、嫡男だけでよい。婚約していない十五歳から十七歳の娘が、これほど並ぶ理由は一つでしょう」

 名簿には、諸侯本人の名より、その後ろに続く家族の名の方が多く書かれている。

 レオンハルトは五人を見渡した。

「政治が絡む。女には気をつけろ」

 エイドリアンが僅かに背筋を伸ばした。

「何を気をつければよいのでしょう」

「今夜、お前たちへ笑顔で近づく娘の後ろには、父親と領地と兵がいる。娘本人に悪意がなくとも、その手を取ったところを見た者は、好きな物語を作る」

「舞踏会で手を取るのは当然ではありませんか」

「踊るために取るのと、二人で回廊へ消えるのは違う」

「消えなければよいのですね」

「庭、回廊、空いた客室へ一人でついていくな。手紙や飾りを受け取った場合は隠すな。酒を飲みすぎるな。何を約束したか分からなくなるような返事をするな」

「戦場へ出る時より注意が多いですね」

 アレクが言った。

「戦場では、敵が武器を持って正面から来る」

「殿下こそ気をつけてください」

 アレクが言うと、レオンハルトは不思議そうに見返した。

「俺がか」

「今夜、最も多くの方が近づくのは殿下でしょう」

「俺には妻がいる」

「……妻?」

 アレクは思わず聞き返した。

「結婚なさっていたのですか」

「している」

「初めて伺いました」

「話す必要がなかった」

「お子様もいらっしゃるのですか」

「息子が一人いる。十歳だ」

 アレクはレオンハルトとユリウスを交互に見た。

 ユリウスは当然知っていたらしく、表情を変えていない。マティアスも驄いた様子はなかった。

「マティアス様は、ご存じだったのですか」

「王家の系譜を調べれば分かります」

「私は知りませんでした」

「お前が調べなかっただけだ」

 レオンハルトが言う。

「殿下がご家族の話をされたこともありません」

「軍議で妻と息子の話をして、何の役に立つ」

「何の役にも立たないかもしれませんが」

「ならば話す必要はない」

 レオンハルトはそう答えたが、妻子の存在を隠そうとしているようには見えなかった。

 ただ、軍や政治の場へ家族のことを持ち込む必要がないと、本当に考えているのだろう。

「殿下ご自身への婚姻話はないのですね」

 エイドリアンが尋ねる。

「俺にはない。その代わり、息子との婚約を求める話が来る」

「十歳ではありませんか」

「相手も同じくらいの娘を連れてくる。今夜は俺へ娘を紹介する者より、息子の名を出す者の方が面倒だ」

「奥方様がお決めになるのですか」

 アレクが尋ねると、レオンハルトは一瞬だけ黙った。

「俺一人では決めん」

 それだけ答え、すぐに話を戻した。

「俺の家族の話は終わりだ。今は、お前たちが何も失わずに舞踏会から戻る方法を考えろ」

「何も失わずに、ですか」

「領地、秘密、婚姻を選ぶ権利、相手の家からの信用。それから、靴だ」

「靴?」

 エイドリアンが自分の足元を見る。

「踏まれて壊すな」

 ヴィクトルとロベルトが声を上げて笑った。

「笑わないでください」

 エイドリアンが抗議する。

「私は三度しか踏んでいません」

「二人を、だろう」

「今夜は踏まないようにします」

「相手の足ばかり見て、質問を聞き逃すなよ」

 カスパルが言った。

「分かっています」

「本当に分かっているか」

「カスパルこそ、話しすぎて余計なことを答えないでください」

「私は話す相手を選ぶ」

「選んだつもりで、選ばれているかもしれませんよ」

 カスパルの笑みが少し止まった。

「エイドリアンの言うとおりです」

 マティアスが言う。

「今夜、皆が皆さんを品定めします。同時に、皆さんも相手を見ることができる。警戒するだけでは何も得られません」

「婚姻相手を探せということですか」

 ヴィクトルが尋ねた。

「今夜決める必要はありません。ただし、最初から全員を敵と考えるなということです」

「娘を使って近づく家を、信用できるのですか」

「貴族の婚姻に、家の都合が入らないことの方が珍しいでしょう」

 マティアスは名簿へ目を落とした。

「家の利益から始まった話でも、双方にとって良い縁になることはあります。反対に、本人同士が気に入っても、領地と家臣を争いへ巻き込む縁もある」

「マティアス様には、婚姻の申し入れはないのですか」

 ロベルトが尋ねる。

 部屋が静かになった。

 マティアスの前には、ほかの書状から分けられた束が置かれている。

 レオンハルトが、その束を指した。

「朝から届いている。俺のところへ来たものまで合わせれば、十三家だ」

「十三家」

 アレクが驚く。

「随分と人気ですね」

「昨日までは、伯爵ではありませんでしたから」

 マティアスは平然と答えた。

「商人へ娘を嫁がせたい貴族は少ない。伯爵へ娘を嫁がせたい家は多い。それだけの違いです」

「誰かとお会いになるのですか」

「今夜、全員と顔を合わせることになるでしょう」

「その中から選ぶのですか」

「アレク」

「はい」

「自分の心配をしなさい」

「私よりマティアス様の方が狙われるのではありませんか」

「私へ近づく者の目的は、金、商会、街道、四人の領地との関係です。分かりやすい」

「私へ近づく者も、新型火槍か領地が目的でしょう」

「若くて扱いやすいと思っている者もいます」

「扱いやすくはありません」

「自分で言うことではない」

 レオンハルトが笑った。

 扉が叩かれ、王宮の侍従と仕立屋が入ってきた。

 五人分の礼装が運び込まれる。

 アレクのものは深い青を基調とした上着だった。新たな子爵として急いで用意されたため、紋章はまだ付いていない。代わりに、胸元には王家から与えられた身分を示す銀の留め具が用意されていた。

 ヴィクトルには暗い赤、カスパルには灰青、ロベルトには深緑、エイドリアンには黒に近い紫の上着が渡される。

「濃紫ではないのですね」

 エイドリアンが自分の上着を確かめた。

「シュヴァルツ伯の旗と同じ色を、今夜のお前へ着せる者はいない」

 ユリウスが答えた。

「こちらの方が黒に近い。明かりの下では青も見える」

「安心しました」

「服の色より、話す内容を気にしろ」

「はい」

 仕立屋が五人の寸法を確認し、袖や肩を直していく。

 アレクが腕を上げると、仕立屋から動かないよう注意された。

「鎧より窮屈ですね」

「舞踏会へ鎧で出るつもりだったのか」

 レオンハルトが尋ねる。

「少しだけ考えました」

「娘たちより先に、近衛兵が警戒する」

「剣も預けるのでしょう」

「当然だ」

「何も持たずに行く方が不安です」

「言葉を持っていけ」

「それが一番危険だと、殿下が仰ったのではありませんか」

「使い方を間違えるなということだ」

 仕立屋の作業が終わる頃、別の侍従が銀の盆を持って入ってきた。

 盆の上には、小さく折られた紙と、色の違うリボン、花、刺繍入りの布が積まれている。

「こちらを、皆様へ」

「何ですか」

 アレクが尋ねる。

「今夜ご出席になる令嬢方からのお言葉でございます」

 部屋にいた五人が、同時に盆を見た。

「もう届いているのか」

 レオンハルトが一枚を取ろうとすると、侍従が慌てて盆を引いた。

「宛名がございますので」

「俺が読むと困ることでも書いてあるのか」

「私には分かりかねます」

「ならば見せろ」

「殿下」

 ユリウスが止める。

「他人宛ての書状です」

「こいつらが隠した場合、後で俺が困る」

「でしたら、本人が開いた後に報告させればよろしいでしょう」

「それもそうだな」

 盆の上で、五人への紙が分けられた。

 アレクには六通。

 ヴィクトルには四通。

 カスパルには三通。

 ロベルトには五通。

 エイドリアンには二通あった。

「私が一番多いのですか」

 アレクが困って言う。

「十七歳の新任子爵で、シュヴァルツ伯を討ち、新型火槍を率いる」

 カスパルが指を折りながら数えた。

「そのうえ、身元を保証する親族も、口を出す父親もいない。婚姻を求める家から見れば、好都合でしょう」

「好都合と言わないでください」

「事実だ」

「カスパルにも三通あります」

「私は三人と話せばよい。アレクは六人だ」

「全員と踊る必要はありません」

 マティアスが言った。

「ですが、受け取ったものには目を通しなさい。断る場合も、相手が何を求めているかを知ってからにするのです」

 アレクは最初の紙を開いた。

 丁寧な挨拶と、今夜一曲踊る機会を得たいという短い言葉が書かれている。

 二通目も似た内容だった。

 三通目には、父親がアイヒェンタール産の木炭と蜂蜜に関心を持っていると添えられている。

 四通目には、新型火槍を率いたアレクの話を直接聞きたいとあった。

 五通目は、ほとんどがシュヴァルツ伯を討った武功への称賛だった。

 最後の紙には、差出人の名と一文だけが記されていた。

『戦場のお話ではなく、アレク子爵ご自身のお話を伺いたく存じます』

 クラウディア・フォン・ヴァルデック。

 十六歳。

 国王を支持するヴァルデック伯爵の娘だった。

「何と書かれていましたか」

 エイドリアンが覗こうとする。

 アレクは紙を閉じた。

「私自身の話を聞きたいそうです」

「それは最も危険なものでは?」

 カスパルが言った。

「どうしてですか」

「領地や火槍の話なら、答えてよい範囲を決められる。アレク自身の話は、どこまで答えるつもりです」

「答えられることだけです」

「故郷は」

「遠い場所です」

「家族は」

「ここにはいません」

「子供の頃は」

「……覚えていません」

「不自然ですね」

「分かっています」

 アレクは紙を見つめた。

 自分の過去を聞かれても、この世界で語れることは少ない。

 ラーデン村へ来る以前のことを話せば、佐藤恒一と別の世界について触れなければならなくなる。

 相手が純粋に知りたがっているだけでも、アレクにとっては答えにくい質問だった。

「だからこそ、気をつけろと言った」

 レオンハルトが言う。

「敵意を持つ者ばかり警戒するな。お前が答えたいと思う相手の方が、深いところまで入ってくる」

「殿下も、そのような経験があるのですか」

「ある」

「奥方様ですか」

 アレクが尋ねると、レオンハルトの表情が僅かに止まった。

 マティアスが口元を押さえ、ユリウスは視線を名簿へ落とした。

「アレク」

「はい」

「今夜、六人全員と踊ってこい」

「話を変えないでください」

「命令だ」

「先ほど、全員と踊る必要はないと」

「気が変わった」

「横暴です」

「嫌なら、自分で断れ」

 レオンハルトは笑いながら部屋を出ていった。

 アレクが追いかけようとすると、仕立屋から上着を脱がないよう止められた。

 残された四人が笑っている。

「人のことを笑っている場合ではありません」

 アレクが言う。

「皆にも届いているでしょう」

 ヴィクトルは自分宛ての四通を、まだ開いていなかった。

「読まないのですか」

「後で読む」

「相手が何を求めているか知れと、マティアス様が」

「分かっている」

 ヴィクトルはそう答え、一番上の紙を取った。

 封を開き、短い文章へ目を通す。

 途中で、その手が止まった。

「どうしました」

「何でもない」

「誰からですか」

「ヘレーネ・フォン・アルトブルク」

 カスパルが参加者名簿を確かめる。

「アルトブルク伯爵の娘。十七歳。領地は王都と東部の中間です」

「何と書かれているのです」

 ロベルトが尋ねる。

「お前たちに話す必要はない」

「アレクの手紙は見ようとしたではありませんか」

「見ようとしたのはエイドリアンだ」

「私はまだ見ていません」

「まだ、と言いましたね」

 ヴィクトルは紙を折り、自分の上着へしまった。

 その耳が僅かに赤くなっている。

 レオンハルトが戻る前に、五人の間で最初の探り合いが始まっていた。

 今夜の宴では、国王の隣にレオンハルトが座る。

 兄弟が同じ勝利を祝う姿を、王国中の諸侯が見る。

 その足元では、嫡男と娘が紹介され、舞踏の相手が選ばれ、婚姻と領地の話が交わされる。

 笑顔の後ろに何があるのか。

 差し出された手を取れば、誰と誰が結ばれるのか。

 その場では何も約束しなかったとしても、見た者がどのような噂を作るのか。

 アレクは手元にある六通の紙を重ねた。

 戦場へ向かう時には、敵の数と配置を調べた。

 今夜は、誰が敵なのかさえ決まっていない。

 味方になろうとする者もいる。

 利用しようとする者もいる。

 父親から命じられただけの娘もいれば、自分で相手を選ぼうとする娘もいるだろう。

 そしてアレクたちも、相手の家と領地と力を見ようとしている。

 利用されるだけではない。

 こちらもまた、誰と手を結べば何を得られるのかを考えている。

 剣も火縄銃も持ち込めない場所で、互いの言葉と視線を使う戦いが始まろうとしていた。

第六話を読んでいただき、ありがとうございました。

国王は一方の言葉だけで石を動かさず、採石場と橋の双方を調べることで、王国の街道を守るための裁定を下しました。一方、東部諸侯の盟約も王の知るところとなり、ルーカスは橋を守るために東部の有力者と対立することになります。

次回は国王主催の歓迎晩餐会と舞踏会が始まります。「マティアス伯爵の五旗衆」と呼ばれ始めたアレクたちへ、王都の諸侯と令嬢たちがそれぞれの思惑を抱えて近づきます。


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