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『知らない世界で、前世の知識が武器になる』 ~剣と銃で乱世を生き抜く転生領主の成り上がり~  作者: 相田 ソウ
第六篇 乱世を動かす火

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第五話 食卓の上の橋

論功行賞を終えた夜、レオンハルトたちは、壊れかけた橋の石を携えて現れた若き領主ルーカスと対面します。

食卓へ広げられた橋の図面は、王国東部で始まりつつある新たな動きへつながっていました。

 王宮の客室へ戻った時、窓の外では夕日が王都の屋根を赤く染め始めていた。

 論功行賞を終えたばかりだというのに、部屋の長机には十一通の書状が積まれている。その横では、ユリウスが廊下で受け取った新たな書状を一通ずつ確かめていた。

「十二家目です」

 ユリウスは封蝋を見て、卓上の右端へ置いた。

「どのような用件ですか」

 アレクが尋ねる。

「分かりません。急いで面会したいとしか書かれていません」

「今日のうちに会いたいということですか」

「できれば今すぐに、と」

 アレクは思わず窓へ目を向けた。

 論功行賞が終わってから、まだ一刻も経っていない。王宮の廊下を歩いている間にも何人もの諸侯から呼び止められたが、正式な書状までこれほど早く届くとは思わなかった。

「昨日までは、こちらから会談を申し入れても返事をよこさなかった家だ」

 レオンハルトは椅子へ腰を下ろし、一通の書状を開いた。

 黒い上着の襟を緩め、ざっと目を通す。その顔に喜びはなかった。

「今は、今すぐに会いたいらしい」

「国王陛下の前で、殿下のお立場が明確になりましたから」

 ユリウスが答える。

「分かりやすい者たちだ」

「分かりやすい方が扱いやすくはあります」

 マティアスは向かい側の椅子へ座り、別の書状を手に取った。

「これは南に領地を持つ男ですな。ベルグハーフェンから延びる街道へ、自領の市場を結びたいと申しております」

「悪くない話ではありませんか」

「道をつなぐこと自体は悪くありません。しかし、道の修繕費はすべてこちらに負担させ、通行税は自分で取るつもりのようです」

「それは、つなぐとは言わないだろう」

 レオンハルトが呆れた声を出す。

「こちらの荷車を自分の領地へ呼び込みたい、という意味では正確です」

 マティアスは書状を元へ戻した。

 別の一通には、新型火槍を自家の兵へ与えてほしいと書かれていた。ただし、何挺を求めるのかも、それを扱う兵や火薬をどうするのかも記されていない。

 さらに別の書状は、レオンハルトへの忠誠を長々と誓った後、同じ地方に領地を持つ政敵がシュヴァルツ伯へ密かに協力していたはずだと訴えていた。証拠は一つも添えられていない。

「忠誠を誓う書状なのか、隣人を告発する書状なのか分からんな」

 レオンハルトが卓上へ放る。

「両方でしょう」

「どちらも信用できん」

「それでも読まなければなりません」

 ユリウスは容赦なく次の書状を差し出した。

「こちらは婚姻の打診です」

「俺にか」

「殿下だけではありません。アレク子爵と、ヴィクトルたち四人へ向けたものです」

 部屋にいた者の視線がアレクへ集まった。

「私にもですか」

「子爵となったばかりで、まだ婚約していない十七歳の領主です。来ない方がおかしいでしょう」

 ユリウスの答えを聞き、アレクは反射的に自分の胸元を見た。

 そこにエリーゼからの手紙が入っているわけではない。それでも、彼女へ贈った深紅の石の首飾りと、出発前に受け取った言葉が頭に浮かんだ。

「どうする、アレク子爵」

 レオンハルトが面白そうに尋ねる。

「どうすると言われましても」

「会ってみるか」

「会いません」

 アレクがすぐに答えると、レオンハルトが笑った。

「断ってよい相手が分からないと言っていなかったか」

「婚姻の話だと分かっているなら断れます」

「なるほど。相手の家名を聞く必要もないらしい」

「殿下」

「分かった。これ以上は言わん」

 そう言いながら、レオンハルトの笑みは消えていない。

 マティアスは婚姻の書状をユリウスから受け取ったが、中を開かずに別の束へ置いた。

「返答は急がなくてよいでしょう。ヴィクトルたちにも、自分宛てにどのような申し入れが来ているか知らせる必要があります」

「私の分は」

「アレクには私から伝えます」

「今、断ると申し上げました」

「断るにしても、誰が何のために申し入れたかは知っておきなさい。婚姻を断られたことより、書状を読まれなかったことへ怒る家もあります」

「難しいですね」

「子爵位は、剣と火槍だけを扱っていればよい地位ではありません」

 マティアスの言葉に、アレクは返す言葉を失った。

 国王の前で爵位を受けた時、背負う者が増えたことは理解したつもりだった。しかし、爵位によって増えるのは領民や兵だけではない。これまでなら自分へ届かなかった思惑まで、今日からは一つずつ受け止めなければならない。

「残りは後にしろ」

 レオンハルトが書状の山を押しやった。

「間もなくルーカスが来る」

「夕食会の後にも、面会を三件入れております」

 ユリウスが言う。

「俺に休む時間はないのか」

「今夜会うと決めたのは殿下です」

「ルーカスだけのつもりだった」

「最初の一人だけに会えば、残りの諸侯から不公平だと訴えられます」

「もう不公平だろう。最初に会う相手は俺が選んだ」

「順番を選ぶことと、他の者をすべて追い返すことは別です」

 レオンハルトはしばらくユリウスを睨んだ。

 ユリウスは平然と書状を整えている。

「三件だな」

「はい」

「一件につき半刻だ。それ以上は認めん」

「そのように伝えます」

「長い祝辞を始めたら途中で止めるぞ」

「お止めください。今夜だけで日が変わります」

 ユリウスが一礼し、書状を抱えて部屋を出ていった。

「殿下が一番扱いやすいのは、あの男かもしれませんな」

 マティアスが言う。

「命令を聞かない男のどこが扱いやすい」

「必要な仕事を、自分で見つけて行います」

「それを扱いにくいと言うんだ」

 扉を叩く音がした。

 侍従が入り、客の到着を告げる。

「ルーカス・フォン・グレンツベルク様がお見えです」

「通せ」

 レオンハルトは襟元を直したが、礼装へ着替えようとはしなかった。

 アレクも椅子から立ち上がる。

 間もなく扉が開き、一人の男が部屋へ入ってきた。

 二十五歳と聞いていたとおり、レオンハルトやマティアスより若い。体つきは細身だが、歩き方に弱々しさはない。濃い灰色の髪を短く整え、深緑の外套をまとっている。

 その外套は王宮で諸侯と会うための上等な品には見えなかった。裾には乾いた泥が付き、右の袖口には白い粉のような汚れが残っている。

 腕には丸めた図面を抱えていた。反対の手には、小さな布袋を提げている。

 ルーカスは部屋の中央まで進み、レオンハルトへ深く頭を下げた。

「レオンハルト殿下。このたびのご勝利、ならびにシュヴァルツ伯討伐の大任を成し遂げられたこと、心よりお祝い申し上げます。また、国王陛下のご信任を受け、王国の安寧のために――」

「祝辞は短めにしろ」

 レオンハルトが言った。

 ルーカスが顔を上げる。

「短めに、でございますか」

「書状では二行だっただろう。今さら他人に教えられた長い言葉を聞かされても、どちらを信じればよいか分からん」

 ルーカスは一瞬だけ口を閉じた。

「では、殿下。ご勝利をお祝い申し上げます。東部へ戦火が広がらずに済んだことへ、グレンツベルク領を治める者として感謝いたします」

「ああ。その方が分かりやすい」

「私も助かります」

 ルーカスはわずかに笑った。

 緊張が完全に消えたわけではない。しかし、先ほどまで他人から借りていたような言葉が、自分のものへ戻った。

「マティアス・クレーマーです」

 マティアスが名乗る。

「本日、伯爵に叙されたと伺いました。お祝い申し上げます」

「ありがとうございます。ただし、爵位より橋の話を聞きたいですな」

「やはり、そうなりますか」

「そのために呼ばれたのでしょう」

 ルーカスはアレクへ向き直った。

「アレク・ハルトマン子爵。お名前とご武功は聞いております」

「アレクで構いません。私も今日、子爵になったばかりです」

「では、私もルーカスと。父から家督を継いで三年ですが、いまだに先代当主と呼ばれることがあります」

「それは、さすがに間違えすぎではありませんか」

「領内の老人にとっては、三年程度では人の顔は変わらないようです」

 アレクが笑うと、ルーカスも今度は自然に笑った。

「座れ」

 レオンハルトが食卓を示す。

「図面はそこへ置け。袋の中には何が入っている」

「その前に、床を汚すかもしれません」

「今さら気にするな。その外套で、すでに少し汚れている」

 ルーカスは自分の裾を見下ろした。

「王宮へ入る前に払ったつもりでした」

「どこから来た」

「王都の西にある石工の工房です。グレンツベルクから持ってきた石を見せておりました」

「謁見が終わった後にか」

「帰るまでに、分かることは調べておきたかったので」

 ルーカスは布袋の口を開いた。

 中から出てきたのは、人の拳ほどの灰色の石だった。角の一部が欠け、その周囲には白く濁った古い漆喰が付いている。続いて、赤錆に覆われた鉄の留め金が食卓へ置かれた。

 王宮の食器を並べるはずの白い布の上へ、細かな石の粉が落ちた。

「これが何だ」

「グレンツベルクの石橋から剥がれ落ちた石です」

 ルーカスは石を指で押さえた。

「こちらの留め金も、橋の側面から抜けました」

「持ってきたのか」

「はい。書状だけでは、どれほど壊れているか伝わらないと思いました」

 レオンハルトは石を手に取った。

「この程度の石で、橋が落ちるのか」

「一つなら落ちません」

 ルーカスは丸めた図面を広げた。

「ですが、同じ場所から幾つも剥がれています」

 描かれているのは、緩やかな弧を三つ連ねた石橋だった。両岸と二本の橋脚で橋面を支え、その下を川が流れている。図面の片側には、赤い顔料でいくつもの印が付けられていた。

「この辺りです」

 ルーカスが中央に近い橋脚を示す。

「春の増水で、橋脚の周囲にあった石と土が流されました。水が引いた後、石工に潜らせて調べています。見えている亀裂だけを埋めれば、今年は保つかもしれません」

「来年は」

「分かりません。次の増水が早ければ、殿下の軍が橋を渡り切る前に落ちるでしょう」

「俺の軍が来るとは限らん」

「商人の荷車も、領民の馬車も落ちます。それでは困るため、殿下に見ていただきたいと書きました」

 料理が運ばれてきた。

 焼いた肉、豆と根菜の煮込み、黒パン、塩漬けの魚。王宮の夕食としては簡素だったが、十一通の書状を読む間にも食べられるものを用意させたのだろう。

 給仕が、石と図面の置かれた食卓を見て困った顔をする。

「空いている場所へ置け」

 レオンハルトが命じた。

「今夜は橋も客だ」

 給仕たちは顔を見合わせたが、何も言わず、図面を避けて皿を並べた。

「橋を閉じることはできないのですか」

 アレクが尋ねた。

「閉じれば安全にはなります」

 ルーカスは黒パンを手に取った。

「しかし、東から王都へ向かう商人は、北の橋まで二日遠回りしなければなりません。南の浅瀬は荷車では渡れず、雨が続けば馬でも危険です」

「仮の木橋は」

「石橋の上流へ架ける案は出ました。ただ、春の増水を考えると、流された木が石橋へぶつかります。下流へ架ければ、今度は川幅が広くなる」

「渡し船は使えるか」

 マティアスが尋ねる。

「人と馬ならば。荷を積んだ荷車は一度荷物を下ろし、船で分けて運ばなければなりません」

「一日に何台通る橋です」

「季節で変わります。収穫後は一日に七十台を超えることがあります。冬は二十台ほどです」

「通行税は」

 ルーカスは迷わず金額を答えた。

 空の荷車、荷を積んだ荷車、徒歩の旅人、家畜の群れ。それぞれから取る額が違う。さらに、領内の者と領外の者でも差があった。

「橋の維持費は、その通行税で賄ってきたのですか」

「先代の頃までは」

「今は足りない」

「通常の修繕なら足ります。しかし、橋脚を組み直すには、三年分をすべて集めても足りません」

「税を上げればよい」

 レオンハルトが肉を切りながら言う。

「商人が北へ逃げます」

 ルーカスは即答した。

「では、領民から取る」

「冬を越せなくなる者が出ます」

「俺に金を出せと言うのか」

「金だけをいただいても、橋は直りません」

 レオンハルトの手が止まった。

 マティアスは面白そうにルーカスを見る。

「必要な石が手に入らないのですな」

「はい」

 ルーカスは図面の脇へ、別の紙を広げた。

 グレンツベルク周辺の簡単な地図だった。川と街道、周囲の丘陵、町や村の位置が描かれている。東側の山裾に、採石場を示す印が付けられていた。

「橋に使われた石は、この採石場から切り出したものです。硬さがあり、川の水にも比較的強い。同じ石を使いたいのですが、採石場を持つ領主が売ろうとしません」

「値を上げてもか」

「三倍まで提示しました」

「随分と積んだな」

「それでも断られました。西へ渡す石はないそうです」

「本当にないのか」

 レオンハルトが尋ねる。

「王都の石工に聞いたところ、同じ石が東部の城壁修理へ使われているそうです。石がないのではなく、我が領地へ売る石がないのでしょう」

 レオンハルトが手にしていたナイフを皿へ置いた。

「誰の命令だ」

「採石場を持つ領主は、自分の判断だとしか答えません」

「お前に敵がいるのか」

「領地を三年も治めれば、少しはできます」

「少しでは済まない顔をしているぞ」

 ルーカスは答えず、葡萄酒を一口飲んだ。

 マティアスは地図を自分の方へ引き寄せた。

「同じ石でなければ直せないと、石工は言いましたか」

「いいえ。ただし、近くで必要な量を得られる石は、今のところそこだけです」

「川を下った先には」

「二つ先の領地に、別の採石場があります」

「川船で運べる」

「途中に浅い場所があります。大きな船は通れません」

「小さな船へ分ければよい」

「積み替えの人手と場所が必要です」

「その場所を作ればよいでしょう」

 マティアスは地図を指で辿る。

「ここに川沿いの村がありますな」

「古い船着き場があります。今は漁師しか使っていません」

「直せますか」

「橋よりは少ない金で」

「石を小舟で運び、古い船着き場で荷車へ積み替える。そこから橋まで、この道を使う」

「道幅が狭い。重い石を積んだ荷車が続けば、すぐに轍が深くなります」

「ならば、石を運ぶ前に道を直します」

「そのための石はどうするのです」

「道へ敷く石なら、橋と同じ硬さである必要はありません」

 マティアスは当然のように答えた。

 ルーカスが目を瞬く。

「領内の丘から出る石を砕いて使えます。水が溜まる場所には、先に溝を掘る。橋を直す石と、石を運ぶ道へ使う石を同じに考えないことです」

「言われてみれば、そのとおりですが」

「橋が壊れかけている時は、橋だけを見てしまうものです」

 マティアスは自分の杯へ葡萄酒を注いだ。

「荷車を何台出せます」

「領内から集めれば四十台ほど。しかし、農作業へ影響が出ます」

「商人の荷車を使います。王都から東へ荷を運び、帰りが空になる荷車を選べばよい。帰路に石を積ませます」

「引き受けるでしょうか」

「橋が落ちれば二日遠回りする者たちです。修理のための荷を運ばせる代わりに、一定期間、通行税を減らす。こちらからも荷を回しましょう」

「クレーマー商会の荷をですか」

「必要な道であれば」

 ルーカスは地図とマティアスを交互に見た。

「まだ、私が殿下のお味方になるとも申しておりません」

「味方でなければ、荷車を使ってはいけませんか」

「いえ」

「商人は、橋を渡る者が誰へ忠誠を誓っているかまで、いちいち尋ねません。税を払い、安全に渡れるなら使います」

 マティアスの声には、商人だった頃から変わらない確信があった。

「ただし、無償ではありません」

「やはり、そうなりますか」

「当然です。クレーマー商会が資材の購入と輸送費の一部を負担する代わりに、修理後の通行税から決めた割合を受け取ります。期間と割合は、実際の費用を調べてから決める。橋も領地も、あなたのものです」

「通行税を永遠に渡せとは言わないのですね」

「永遠という言葉を契約へ書く商人は信用してはいけません」

 ルーカスが笑った。

「その教えは覚えておきます」

「その代わり、帳簿は見せていただきます。一日に何台が渡り、どれだけ税を取り、修理へいくら使ったか。数字が違えば、こちらも条件を変えます」

「私が帳簿をごまかすとは思わないのですか」

「思わない相手とは、商いをしません」

「最初から疑うのですか」

「はい。あなたも私を疑っている。だから、互いに数字を残すのです」

 ルーカスは声を上げて笑った。

「なるほど。伯爵になったばかりとは思えないお言葉です」

「伯爵になる前から商人でしたので」

「気に入ったか」

 レオンハルトが尋ねる。

「まだ決めておりません」

 ルーカスは笑みを残したまま答えた。

「ですが、少なくとも話は通じます」

「俺よりもか」

「殿下は、まだ税を上げればよいとしか仰っていません」

「それは、こいつが何と答えるか聞いただけだ」

「後からなら、どのようにも申せます」

「本当に遠慮のない男だな」

「短めに話せとのご命令でしたので」

 レオンハルトはルーカスを睨んだ。

 やがて堪えきれなくなったように笑い、杯を持ち上げる。

「確かに、俺の命令だ」

 三人が杯を合わせた。

 アレクは図面の中央を見つめていた。

 石橋の三つの弧。その中央に近い橋脚の周りへ、赤い印が集中している。

「この赤い部分は、石が剥がれた場所だけですか」

「そうです」

「川底が削られた範囲は」

「青い線で示しています」

 ルーカスが図面の端を押さえた。

 薄い青の顔料で描かれた線は、橋脚の上流側から片側へ回り込むように延びていた。

「水の流れが、こちら側へ寄っているのですか」

「以前より強くなったと、漁師が言っていました」

「上流で何か変わったことはありませんか。川岸が崩れたとか、木を多く伐ったとか」

「二年前から、上流の林で伐採が増えました。畑を広げるためです」

「切った木は、どのように運んでいます」

「冬は橇で、雪がない時期は川へ流します」

「流れ切らなかった木が、橋脚へ引っかかることは」

「あります。増水の後は、領民を出して取り除かせています」

 アレクは指で図面を辿った。

「橋脚だけを太くすれば、流木が今より引っかかるかもしれません。水を塞げば、その横へ流れが集中します」

「それが、この青い線の側なら」

「今は無事な石組みまで、下を削られる可能性があります」

「橋脚を補強するほど、別の場所が壊れると?」

「そうなるとは断定できません。川底の深さや流れを、現地で見なければ分かりません」

「では、なぜその話を」

「分からないまま石を積み、後から間違いだったと気づくよりはよいからです」

 ルーカスの表情が少し変わった。

「火槍を作った方は、橋のことまで分かるのですか」

「分かりません」

 アレクはすぐに答えた。

「私が火縄銃を作る時も、最初から正しい形が分かっていたわけではありません。壊れる場所を探し、記録して、次を直しました」

「火縄銃」

 ルーカスが聞き慣れない言葉を繰り返す。

 アレクは一瞬言葉に詰まった。

 ここにいるのはレオンハルトとマティアスの前へ通された人物だが、まだ味方と決まったわけではない。新型火槍の内部で使う呼び名を、安易に口にするべきではなかった。

「我々が新型火槍を呼ぶ時の名前です」

 レオンハルトが代わりに答えた。

「その名も秘密にすべきでしょうか」

 ルーカスが尋ねる。

「今夜聞いたことを、酒場で話すつもりか」

「いいえ」

「ならば構わん。だが、形や作り方を教えるつもりはない」

「私は橋を直すだけで手いっぱいです。火槍まで作りたいとは思いません」

「今日届いた書状の中では、お前が初めてそう言った」

 レオンハルトが苦笑する。

 アレクは図面へ視線を戻した。

「現地の石工だけでなく、川を知っている漁師や船頭からも話を聞いた方がよいと思います。どこに流木が溜まり、増水した時に水がどちらへ流れるのか。橋の上から見るだけでは分からないことがあります」

「石工は、石積みのことなら自分たちが一番よく知っていると言っています」

「それは正しいと思います。ただ、川のすべてを知っているとは限りません」

「職人の誇りを傷つけずに、漁師の話も聞かせる必要があるわけですか」

「そうなります」

「橋より難しそうだ」

 ルーカスが真顔で言ったため、アレクは笑ってよいのか迷った。

 しかし、マティアスが先に笑った。

「領主の仕事は、そのようなものです」

「伯爵閣下は、よくご存じのようだ」

「私も毎日のように苦労しています」

「お前は苦労させる側だろう」

 レオンハルトが言った。

「殿下にだけは言われたくありませんな」

 二人のやり取りを見て、ルーカスの顔から残っていた緊張が消えた。

 それでも、食事が半ばまで進んだ頃、彼はまだ何かを言い残しているように見えた。

 話が途切れるたび、外套の内側へ手を伸ばしかけて止める。

 レオンハルトも気づいていたらしい。

「橋の他にも、持ってきたものがあるだろう」

 ルーカスの手が止まる。

「なぜ、そう思われるのです」

「橋の話だけなら、最初からもう少し楽しそうに食う」

「殿下は、私が普段どのように食事をするかご存じありません」

「今夜の顔なら見ている。出せ」

 ルーカスはしばらくレオンハルトを見つめた。

 やがて外套の内側から、折り畳まれた一通の書状を取り出す。

 封はすでに切られている。

「橋の石が買えない理由と、関係があると思います」

 食卓の上へ置かれた封蝋には、複数の紋章が並んでいた。

 一つの家から届いた書状ではない。

「読んだのは誰だ」

「私と、家宰だけです」

「差出人は」

「王国東部に領地を持つ複数の諸侯です。名は書状の末尾にあります」

 レオンハルトが手を伸ばしたが、すぐには開かなかった。

「俺に見せれば、もう知らなかったことにはできんぞ」

「承知しています」

「差出人からは、見せるなと言われたのではないか」

「はっきりとは書かれておりません。ですが、他言しないことを望んでいるとは思います」

「それでも見せるのか」

「そのために王都まで持ってきました」

 レオンハルトが書状を開く。

 最初は黙って読んでいたが、途中で眉間に皺が寄った。読み終えるとマティアスへ渡す。

 マティアスの表情からも、先ほどまでの笑みが消えた。

「相互防衛の盟約、と書かれていますな」

「はい」

「何から、互いを守るのです」

「盗賊、国外から侵入する軍勢、領地を不当に奪おうとする者。書状では、そのように」

「随分と曖昧です」

「後ろの条項をご覧ください」

 マティアスは羊皮紙をめくった。

「他家の軍勢を、盟約に加わった領地へ入れない。新たに与えられた街道と徴税の権限を認めない。王都から派遣される調査役を、全家の同意なしに受け入れない」

 マティアスは書状を卓上へ置いた。

「盗賊を防ぐための盟約には見えませんな」

「私も、そう思いました」

「国王の調査役まで拒むなら、王命に従わぬということだ」

 レオンハルトの声が低くなる。

「差出人たちは、国王陛下へ背くつもりはないと申しております」

「背くつもりのある者も、最初はそう言う」

「はい」

「お前は何と答えた」

「まだ返事をしておりません」

「いつまでだ」

「王都から戻るまでに答えると伝えています」

 レオンハルトは椅子の背へ体を預けた。

「それで、石を止められたか」

「採石場を持つ家は、この盟約へ名を連ねています」

「分かりやすいな」

「参加すれば、橋の石は売ると言われました。塩と鉄も、これまでどおりの値で通すと」

「参加しなければ」

「西と北の道を使えと言われました」

「橋は東へ通じるのではなかったか」

「だから困っております」

 ルーカスの指が、地図の上にあるグレンツベルク領へ触れた。

「我が領地は大きくありません。兵も多くない。東から来る塩と鉄を止められれば、領民の暮らしに影響が出ます。石がなければ橋も直せない」

「ならば、なぜ加わらない」

 レオンハルトが尋ねた。

 責める声ではなかった。

 ルーカスがどのような答えを出す人間なのか、確かめる声だった。

「盟約に加われば、東部の軍を我が橋から西へ通すことになります」

「西へ向かうとは限らん」

「西へ向かわない軍が、なぜグレンツベルクの橋を必要とするのです」

 レオンハルトの口元がわずかに上がる。

「確かに」

「それに、国王陛下から派遣される者を、私の判断で追い返すことはできません」

「王都の役人が、お前の領地で無理を言ってもか」

「その時は王都へ訴えます。訴えが聞かれなければ、受け入れられない理由を記録に残して拒みます。最初から、国王陛下の名で来る者をすべて敵と決めることとは違います」

「お前は王都を信じているのか」

「すべてを信じているわけではありません」

 ルーカスは率直に答えた。

「父の代から、何度も書状を送りました。橋の修理についても、二年前から助力を求めています。返事が届かなかったものもあります」

「なら、俺を信じる理由もないな」

「はい」

 短い返答だった。

 部屋の空気が張り詰める。

 侍従たちは壁際で顔を伏せ、声を出さない。相手が第一王弟でなければ、若い領主の無礼を咎める者がいたかもしれない。

 レオンハルトは怒らなかった。

「それでよい」

「よいのですか」

「一度会っただけで俺を信じると言う者よりは、信用できる」

 ルーカスは何かを言いかけたが、レオンハルトが先に続けた。

「それでも、お前はここへ来た。俺から何を聞きたい」

 ルーカスは食卓に置かれた石へ目を落とした。

「殿下も、我が橋が欲しいだけではありませんか」

 レオンハルトの目が細くなる。

「王国東部へ兵を送るなら、グレンツベルクを通る。橋を押さえれば、東部へ向かう兵糧も軍勢も止められます。東の諸侯が盟約を求めるのと同じように、殿下も私の橋が欲しいのではありませんか」

「欲しい」

 レオンハルトは迷わなかった。

 ルーカスの顔に、かすかな驚きが浮かぶ。

「お前の橋が落ちれば、俺は困る。東で戦が起きた時、兵を送るのが遅れる。敵が橋を渡り、西へ来ることもある。だから欲しい」

「では、東の諸侯と何が違うのです」

「奴らは、橋を使うためにお前を従わせようとしている」

「殿下は違うと?」

「俺は橋を残すために、お前を領主のまま使う」

 レオンハルトは図面の上へ手を置いた。

「兵を通す一度のためだけではない。兵を通さぬ年にも、商人と農民が渡れる橋として残す。その方が、戦になった時にも使える」

「結局は戦のためではありませんか」

「平時に使えない道が、戦の時だけ都合よく使えると思うか」

 ルーカスは黙った。

「橋を守る領主を脅し、領民を貧しくして、いざ戦になった時だけ兵と食料を出せと命じる。シュヴァルツ伯が失敗したやり方だ。俺は同じことをするつもりはない」

 先の戦で、シュヴァルツ伯は領地から兵と食料を取り立て続けた。その結果、ヴィクトルたち四人の若い領主は、自領を守るためにマティアスへ手を伸ばした。

 力で従わせたように見えても、その下から領地と人が崩れていけば、最後には戦う力まで失う。

「お前の橋は欲しい。だが、橋だけを奪っても意味がない。修理する石工、流れを知る漁師、荷車を動かす商人、通行税を集める役人が残らなければ、また壊れる」

 レオンハルトは、ルーカスをまっすぐ見た。

「お前が領地を治め、橋を守れ。そのために必要なものを言え。俺にできることなら動かす」

「見返りは」

「王命を受けた軍が東へ向かう時、橋を開け」

「王命を受けていれば、殿下以外の軍でもですか」

「ああ」

「殿下のお味方になることを求めているのではないのですか」

「俺へ従うために、兄上へ背く者などいらん」

 その言葉は短かった。

 しかし、アレクには大きな意味を持って聞こえた。

 レオンハルトは力を増している。

 シュヴァルツ伯を破り、王都へ二千五百人を率いて入り、四百挺の新型火槍を見せた。国王はその戦功を認め、レオンハルトが推挙したマティアスとアレクへ爵位を与えた。

 今なら、自分個人へ忠誠を誓う者を集めることもできる。

 それでもレオンハルトは、兄である国王の命令を超えて従えとは言わなかった。

「採石場の件は、国王陛下へ願い出る」

 レオンハルトが続ける。

「王国内の街道と橋を維持するために必要な石だ。正当な代金を払っても売らぬというなら、その理由を王の前で説明させる」

「殿下の命令で、石を出させるのではないのですか」

「採石場は俺の領地ではない。勝手に命じれば、書状に名を連ねた者と同じになる」

「明日の朝、国王陛下へお話を?」

「ああ。お前も来い」

 ルーカスが目を見開いた。

「私もですか」

「自分の橋だろう。俺がすべて説明するのか」

「王弟殿下からお話しいただいた方が、聞き入れていただけるのでは」

「それでは、お前が俺の後ろで頷いただけになる。兄上は、そういう領主を嫌う」

「殿下もお嫌いなのではありませんか」

「よく分かってきたな」

 レオンハルトが笑った。

「今夜は王宮に泊まれ。明日の朝、図面とその石を持ってこい」

「石まで、国王陛下の御前へ持ち込むのですか」

「俺へ見せたのだ。兄上にも見せればよい」

「食卓へ置くわけにはいきません」

「それは兄上に聞け」

 ルーカスは困った顔をしたが、やがて諦めたように頷いた。

「承知しました」

「その前に、橋の調査です」

 マティアスが話を戻した。

「私のところから、道と荷車を調べられる者を出しましょう。アレクのところからも、何人か出せますか」

「はい。ただし、私は橋を専門にしているわけではありません」

「先ほど申したとおり、壊れる条件を探す者が必要です。石工の判断を邪魔せず、川底、流木、道、荷車の記録を取らせなさい」

「アイヒェンタールの旧宿駅と関所を調べる者も必要です。同じ者を長くグレンツベルクへ出すのは難しいかもしれません」

「最初から一人にすべてを任せる必要はありません。役目を分けなさい」

「分かりました」

 アレクは頭の中で必要な人間を考えた。

 領内の道を見てきた者。荷車を扱う者。木材の量を確かめる者。数字を書き残せる者。

 自分がグレンツベルクへ行き、すべてを調べる必要はない。何を確かめ、何を記録するかを決め、現地の人間とともに動ける者を送ればよい。

「調査の結果、橋を組み直す必要があると分かった場合、通行を止める期間が生じます」

 ルーカスが言う。

「その間は渡し船を増やすしかないでしょう」

「船頭は足りるか」

「領内だけでは足りません」

「ベルグハーフェンから出せる者を探します」

 マティアスが答える。

「川が違います。流れを知らない船頭では危険です」

「では、グレンツベルクの船頭が舟を動かし、こちらの者には荷の積み降ろしをさせる。荷物を種類ごとに分け、濡らしてはいけないものから運ぶ。荷車が渡れないなら、向こう岸にも空の荷車を用意する必要があります」

「橋を直す話なのに、荷車が増えるのですか」

「橋が使えない時にも荷を止めないためです」

「それにも金がかかる」

「ですから、通行税の帳簿を先に見せてください」

 ルーカスはしばらく黙った後、深く息を吐いた。

「橋を直していただく代わりに、仕事が倍になりそうです」

「直した後は、通る荷車も増えます」

「さらに仕事が増えるのでは」

「領地が豊かになるとは、そういうことです」

「伯爵閣下は、恐ろしいことを笑顔で仰いますな」

「嫌ならば、壊れた橋をそのままにしておきますか」

「それはもっと困ります」

「ならば決まりです」

「まだ契約の割合を聞いておりません」

「忘れていませんでしたか」

「父から、商人の前では最後まで数字を忘れるなと教えられました」

 マティアスの目が楽しそうに細くなる。

「先代とは話が合いそうです」

「残念ながら、三年前に亡くなりました」

「それは惜しい」

「ですが、帳簿は残っています。過去十年分の通行税と修繕費をお見せできます」

「素晴らしい」

 マティアスが身を乗り出した。

「十年分あれば、荷車の増減と修理の周期が分かります。戦があった年、凶作の年、増水した年も分けて見たい」

「記録があります」

「石工へ支払った額も」

「あります」

「木材と鉄の購入先は」

「それも」

 二人の間で、次々と話が進んでいく。

 先ほどまで王弟と若い領主の会談だったはずが、いつの間にか帳簿と荷車の相談へ変わっていた。

「お前たちだけで話を終わらせるつもりか」

 レオンハルトが呆れたように言う。

「殿下も、税を上げる以外の案があればどうぞ」

 ルーカスが返す。

「あるぞ」

「伺います」

「橋が直ったら、俺が最初に軍を率いて渡る」

「重さを確かめるためですか」

「ああ。落ちなければ直ったと分かる」

「落ちた場合、王国の大事になりますのでお断りします」

 ルーカスが即座に退けた。

 マティアスが笑い、アレクも堪えきれずに笑った。

 レオンハルトだけが不満そうに杯を傾ける。

「三人とも、俺への敬意が足りんな」

「橋へ敬意を払っております」

「お前は本当に気に入らん言い方をする」

「申し訳ございません」

「顔が謝っていないぞ」

「殿下も、怒っておられる顔には見えません」

 レオンハルトはとうとう声を上げて笑った。

 アレクは、その光景を不思議な気持ちで眺めていた。

 レオンハルトは王家に生まれ、軍勢を率いてきた。

 マティアスは商人から身を起こし、今日、伯爵となった。

 ルーカスは地方の領主の家に生まれ、二十二歳で父を失い、三年間領地を守っている。

 立場も歩いてきた道も違う。

 それでも、三人の話は奇妙なほど噛み合っていた。

 レオンハルトは、橋を王国と軍勢を動かす道として見る。

 マティアスは、荷と金と人を絶やさず動かす場所として見る。

 ルーカスは、領民が暮らし続けるために守らなければならないものとして見る。

 見ているものは違っても、橋を奪い、使い潰せばよいとは誰も考えていない。

 食事が終わる頃、最初に張り詰めていた空気は消えていた。

 皿が下げられ、卓上には橋の図面、地図、崩れた石、東部諸侯から届いた盟約書だけが残る。

 ルーカスが盟約書を手に取った。

「これは、殿下へお預けします」

「よいのか」

「明日、国王陛下へお話しするのであれば、隠してはおけません」

「兄上へ見せるかどうかは、俺が決める」

「お見せにならないのですか」

「この書状だけでは、差出人たちが王へ背くつもりだったという証拠にはならん。お前を自分たちの側へ引き込むため、言葉を強くしただけだと言い逃れるだろう」

「では、持っていても意味がないのでは」

「誰が名を連ね、何を望んだかは分かる」

 ルーカスはしばらく書状を見つめた。

 壁際の燭台では、何本もの蝋燭が燃えている。

 彼は立ち上がり、そのうちの一本へ書状の端を近づけた。

「おい」

 レオンハルトが鋭く言った。

 ルーカスの手が止まる。

「燃やすな」

「残せば、私が密告したことも残ります」

「燃やせば、同じものは二度と手に入らん」

「ですが」

「自分に都合の悪い記録まで残せ。今日、国王陛下が大広間で何と言ったか聞いていただろう」

 責任を消さず、功も消さない。

 勝った者の名だけでなく、戦死者や負傷者、徴発された馬や穀物まで記録へ残す。

 国王が引いた線は、都合の悪い過去を消すためのものではなかった。

「お前がこれを俺へ渡した事実も残る」

 レオンハルトは手を差し出した。

「いつか差出人たちと争うことになれば、お前は最初から俺の味方だったと言う者も出るだろう。逆に、返答を迷っていた裏切り者だと言う者もいる。その時、この書状を燃やしていれば、誰も確かめられん」

「殿下は、私を守るために残すと仰るのですか」

「違う。俺が判断を誤った時にも確かめるためだ」

 ルーカスは蝋燭から書状を離した。

 レオンハルトへ渡す。

「本当に、後からならどのようにも言える方です」

「今のは最初から考えていた」

「信じておきます」

「俺を信じる理由はないのではなかったか」

「少しはできました」

 レオンハルトは盟約書を受け取り、口元を緩めた。

「それで十分だ」

 ルーカスは卓上の橋の図面へ目を向けた。

「王命を受け、王国を守るために東へ向かう軍であれば、我が橋を最初に開きます」

 笑みが消え、領主の顔へ戻る。

「そして、王命に背いて西へ進もうとする軍であれば、たとえ何家が集まろうと、私が橋を閉ざします」

「落とすのか」

「閉ざすだけです。あれを造り直す金が、どれほど必要だと思っているのです」

 一瞬の沈黙の後、レオンハルトが笑った。

「やはり、お前とは話が合いそうだ」

「殿下より、マティアス伯爵との方が合うと思います」

「私もそう思います」

 マティアスが頷いた。

「二人とも、誰のおかげで同じ食卓へ座れたと思っている」

「国王陛下でしょうか」

 ルーカスが答える。

「もう帰れ」

「承知しました」

「本当に帰ろうとするな」

 レオンハルトが止めた。

「もう一杯くらい飲んでいけ」

「明日は国王陛下の御前へ出なければなりません。その後、すぐに領地へ戻ります」

「急ぐのか」

「橋が待っております」

「橋は逃げんぞ」

「落ちることはあります」

 ルーカスは石と図面をまとめ始めた。

「橋が落ちた後でよろしければ、川へ沈んだ荷車を眺めながら何杯でもお付き合いいたします」

「それは酒がまずくなるだろう」

「ですから、今夜は失礼いたします」

 マティアスがルーカスを見て、楽しそうに息を吐いた。

「面倒な男ですな」

「伯爵閣下には言われたくありません」

「褒めたのです」

「では、ありがたく受け取っておきます」

 ルーカスは図面を抱え、三人へ順に頭を下げた。

「今夜のお話がすべて実現するとは、まだ思っておりません」

「ああ」

 レオンハルトが答える。

「国王陛下が採石の件を認めるとも限らん。川を調べれば、橋脚を直すだけでは済まないかもしれない。マティアスが出す条件を見て、お前が断ることもある」

「伯爵閣下が、私の領地を通行税ごと買おうとするかもしれません」

「値によりますな」

 マティアスが真顔で言う。

「冗談ですよね」

「半分ほどは」

「殿下と同じことを仰る」

「それは不名誉だ」

「俺の前で言うな」

 再び笑いが起きた。

 ルーカスが扉へ向かう。

 その背中へ、レオンハルトが声を掛けた。

「ルーカス」

「はい」

「次に会う時も、余計な祝辞はいらん」

 ルーカスは振り返った。

「では、次も壊れた物を持ってまいります」

「壊れていない物を持ってこい」

「橋が直りましたら」

「ああ。その時は、俺が渡りに行く」

「軍勢を率いずにお願いいたします」

 ルーカスは最後に一礼し、部屋を出ていった。

 扉が閉じても、しばらく誰も口を開かなかった。

「本当に面倒な男だったな」

 レオンハルトが言う。

「お気に召したのでしょう」

 マティアスが尋ねる。

「だから面倒なのだ。ああいう者は、一度決めたら簡単には曲がらん」

「簡単に曲がる領主を味方にしても、敵が強くなれば、そちらへ曲がります」

「分かっている」

 レオンハルトは椅子へ戻った。

「だから気に入った」

 アレクは、食卓の上へ残された二枚の紙を見た。

 一枚は、ルーカスが持ち帰らなかった周辺の地図。

 川と街道が描かれ、その中央に石橋がある。

 もう一枚は、東部諸侯の盟約書だった。

 こちらには領地の名と紋章が並び、互いの境を閉ざすための言葉が記されている。

 一方は、人と物を通すための線だった。

 もう一方は、人を分け、軍を集めるための線だった。

 どちらもまだ、血に濡れてはいない。

 東部の諸侯も兵を集めてはおらず、ルーカスも剣を抜いていない。橋の上を行き交っているのは商人の荷車と、畑や市場へ向かう領民だけだ。

 だが、石を売らないという小さな圧力は、すでに始まっている。

 塩と鉄を止めるという言葉も届いている。

 このまま対立が深まれば、橋を渡るものは荷車ではなく、槍を持った兵になるかもしれない。

「殿下」

 アレクが尋ねた。

「東部の方々は、本当に戦を始めるつもりなのでしょうか」

「今は、そこまでの覚悟はないだろう」

 レオンハルトは盟約書を指先で押さえた。

「俺が勝ち、マティアスが伯爵になり、お前まで子爵になった。それを見て、自分たちの持つものを奪われると恐れているだけだ」

「ならば、話し合うことはできますか」

「できる者もいる。できん者もいる」

「その違いは、どう見分けるのでしょう」

「これから会う」

 レオンハルトが、長机に積まれた書状へ目を向けた。

 ルーカスと話している間にも、新たな書状が二通増えていた。

「俺が何を言っても、自分の爵位と領地の話しかしない者。火槍の数だけを知ろうとする者。隣の家を罰しろと求める者。その中から、壊れた橋を先に見ろと言える者を探す」

「何人いるでしょうか」

「多くはないだろうな」

「ルーカス一人かもしれません」

 マティアスが言う。

「一人いれば、最初は十分だ」

 レオンハルトは盟約書を折り畳んだ。

「一つの橋が直れば、その橋を使う領地が増える。商人が通り、荷が動けば、橋を閉ざしたい者より、開いておきたい者が増える」

「それでも、反対する者は残ります」

「残ればよい。全員に好かれようとすれば、何も決められん」

 レオンハルトが立ち上がる。

 次の会談相手を迎えるため、侍従たちが新しい杯と料理を運び始めた。

 食卓から崩れた石はなくなった。それでも白い卓布の上には、わずかな石の粉が残っている。

 アレクは指先でその粉へ触れた。

 王都を揺らした四百挺の轟音とは比べようもないほど、小さな欠片だった。

 だが、橋は一つの石から崩れ始める。

 反対に、一つの橋を直すことから、人と領地が結ばれることもある。

 レオンハルトが国王になる未来があるとしても、それはある日突然、王冠を奪うことで始まるのではないのかもしれない。

 壊れかけた橋の話を聞く。

 守るべき土地を持つ者と出会う。

 互いに疑いながらも、残すべきものを決める。

 その積み重ねの先で、人々がどの旗の下なら生きていけるのかを選ぶ。

 扉の向こうには、次の諸侯が待っている。

 王国の東では、まだ剣は抜かれていない。

 それでも食卓の上にはすでに、これから人を結ぶ橋と、人を分ける境が並べられていた。

第五話を読んでいただき、ありがとうございました。

ルーカスはレオンハルトへ安易な忠誠を誓わず、領地と橋を守るために真正面から問いを投げかけました。その率直さは、レオンハルトやマティアスとの新たな関係を築く一歩となります。

一方、東部諸侯による盟約も明らかになりました。まだ剣は抜かれていませんが、王国を分ける新たな境界が生まれ始めています。


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