第四話 王が引く線
王都の諸侯が見守る中、シュヴァルツ伯討伐の論功行賞が始まります。
四人の若い領主の責任と功績、マティアスとアレクに与えられる新たな地位。その裁定は、王国の地図へ新しい線を引くことになります。
午後の鐘が鳴るより少し前、アレクたちは大広間に続く控えの間へ集められていた。
窓は高く、外の空は見えても中庭を歩く者の姿までは見えない。壁際には王家の紋章を織り込んだ布が垂れ、扉の前には近衛兵が二人、微動だにせず立っている。
朝の謁見とは違い、今度はヴィクトル、カスパル、ロベルト、エイドリアンも一緒だった。
四人は王宮から用意された礼装に着替えている。しかし、新しい服を着たからといって、先の戦まで敵軍にいた事実が消えるわけではない。
特にヴィクトルの表情は硬かった。
彼の父親は、アレクが率いた火槍隊の射撃で命を落としている。
アレクはヴィクトルから少し離れた場所に立ち、声を掛けるべきか迷っていた。
午前中の客室では短く言葉を交わした。それでも、これから大勢の諸侯の前で父親の死について問われるかもしれない若者へ、何を言えばよいのかは分からない。
「アレク殿」
先に口を開いたのはヴィクトルだった。
「はい」
「もし父のことを問われたら、私は自分で答えます」
「分かりました」
「あなたに庇っていただく必要はありません」
拒絶するような言葉だったが、声には怒りより緊張があった。
アレクはすぐに頷いた。
「あなたの代わりに話すつもりはありません」
ヴィクトルの眉がわずかに動く。
「ですが、事実と違うことを言われた時は、私が見たことを話します」
「私を助けるためですか」
「違います。私自身が、見たことを曲げないためです」
ヴィクトルはしばらくアレクを見た。
火槍隊に父親を討たれたこと。
それでも領地を守るためにマティアスへ手紙を送ったこと。
シュヴァルツ伯の軍中で危険を冒し、レオンハルト側へ情報を渡したこと。
どれか一つだけを語れば、ヴィクトルは被害者にも裏切り者にも功労者にも見える。
だが、本当はそのすべてが同時に存在していた。
「分かりました」
ヴィクトルは短く答えた。
「私も、事実だけを話します」
「はい」
「ただし、父を許せない者だったとは言わせません」
「そのようなことは言いません」
「なら、結構です」
会話はそこで終わった。
和解したわけではない。
それでも、同じ場所へ立つための線だけは引けたように思えた。
「顔色が悪いぞ、エイドリアン」
カスパルが小声で言った。
「君が平然としすぎているんだ」
「平然として見せているだけだ」
「それなら先に言ってくれ。私だけが怯えているのかと思った」
「二人とも静かにしてください」
ロベルトが注意したが、その声もわずかに震えていた。
マティアスは四人を順に見た。
「緊張するなとは言わん。だが、聞かれていないことまで慌てて話すな。質問を最後まで聞け」
「はい」
「分からないことは分からないと言え。別の三人が知っていそうだからといって、顔を見るな」
エイドリアンが、カスパルへ向けかけていた顔を正面へ戻す。
「今のうちに失敗できてよかったな」
レオンハルトが言うと、控えの間に小さな笑いが生まれた。
扉の向こうから杖で床を叩く音が三度響いた。
近衛兵が左右へ動く。
「国王陛下がお待ちです」
扉が開いた。
朝に使われた謁見の間より、さらに広い大広間だった。
正面の高座には国王が座り、その左右に王家の旗が垂れている。高座の下には王国の重臣たちが並び、さらに両側の壁に沿って、王都へ集まった諸侯が列を作っていた。
百人を超える視線が、一斉に扉へ向く。
アレクはレオンハルトの少し後ろを歩きながら、視線の種類が一つではないことに気づいた。
レオンハルトへ頭を下げる者。
マティアスの服装や紋章を確かめる者。
四人の若い領主を見て、隣の者へ何か囁く者。
そして、十七歳で子爵へ推挙されたアレクを探す者。
レオンハルトが広間の中央で止まり、片膝をついた。
全員がそれに続く。
「顔を上げよ」
国王の声が広間に響いた。
「これより、シュヴァルツ伯討伐における戦功を明らかにし、功ある者へ爵位と領地を与える。その前に、王都へ届いた報告を読み上げさせる」
書記官が巻かれた羊皮紙を開いた。
「シュヴァルツ伯軍、およそ一万。レオンハルト殿下が率いる討伐軍、およそ六千七百」
数字が読み上げられた瞬間、諸侯の列がわずかにざわめいた。
勝利そのものはすでに知られている。
だが、王の前で兵数が正式に示されると、その意味は変わる。
「討伐軍は左右を小川と林に挟まれた高地を選び、正面に浅い溝、土塁、馬防柵を築いた。中央へ新型火槍三百挺を配置。百人ずつ三隊に分け、交代して射撃した」
書記官は一度息を整えた。
「確認された射撃は、中央戦列に対して合計千二百発。火槍隊が敵中央を崩した後、槍兵、弓兵、騎兵が反撃し、シュヴァルツ伯軍を分断した」
今度のざわめきは、先ほどより大きかった。
昨日の四百挺による祝砲を見た者もいる。
それでも、戦場で千二百発が撃たれたという話は別だった。
何人かの諸侯がアレクを見る。
数を疑う者。
どれほどの火薬を使ったのか考える者。
自分の領地へ同じ軍が来た場合を想像する者。
アレクには、その違いまで顔から読み取ることはできなかった。
「敵軍内部では、ヴィクトル・フォン・ドルンハイム、カスパル・フォン・ファルケナウ、ロベルト・フォン・リンデンフェルス、エイドリアン・フォン・モルゲンフェルトの四名が協力。敵の配置と攻撃時刻を伝え、兵糧および軍資金を積んだ荷車を退路へ移し、護衛騎兵を分散させた」
四人へ向く視線が鋭くなる。
「アレク・ハルトマンは、直属の火槍兵百名を率いて林を通過し、古い街道を封鎖。シュヴァルツ伯を生け捕りにするため降伏を勧告した。伯は一度武器を捨てた後、槍を拾って抵抗。さらに短剣を抜いて襲撃したため、アレク・ハルトマンがこれを討ち取った」
書記官が羊皮紙を閉じる。
広間に沈黙が落ちた。
「以上が、討伐軍と王宮の調査役が確認した報告である」
国王が諸侯を見渡した。
「異論のある者は、この場で申せ」
すぐに動く者はいなかった。
皆が互いの顔を窺っている。
最初に進み出たのは、白髪を後ろへ撫でつけた老貴族だった。胸元には古い家柄を示す大きな紋章がある。
「恐れながら、国王陛下」
「申せ、ハルデンベルク侯」
「討伐軍の勝利と、レオンハルト殿下のご功績に異論はございません。しかし、四名の扱いについては慎重であるべきかと存じます」
老侯爵の視線がヴィクトルたちへ向く。
「彼らはシュヴァルツ伯へ忠誠を誓い、その旗の下で兵を率いておりました。戦況が不利になった途端、主君の情報を敵へ渡し、退路を塞いだ。これを功と認めれば、王国は裏切りを褒めることになります」
広間の空気が張り詰めた。
ヴィクトルの手が握られる。
アレクは隣からそれを見たが、口を挟まなかった。
先ほど約束したとおり、まずヴィクトル自身の言葉を待つ。
「ヴィクトル・フォン・ドルンハイム」
国王が名を呼んだ。
「はい」
「答えよ」
ヴィクトルは一歩前へ出た。
「ハルデンベルク侯のお言葉は、間違いではありません。私はシュヴァルツ伯軍の内情をマティアス様へ伝えました。戦場では、伯の退却を旗で知らせました」
「裏切りを認めるか」
老侯爵が問う。
「責任は認めます」
ヴィクトルは逃げなかった。
「ですが、私が守るべきものは、シュヴァルツ伯お一人ではありません」
「主君への忠義より大切なものがあると?」
「領地と、そこで暮らす者たちです」
ヴィクトルの声は最初より強くなっていた。
「父はシュヴァルツ伯の命令で兵を率い、戦死しました。その後、伯は我が家へさらに兵と食料を求めました。従い続ければ、次は私が死ぬだけではありません。畑を耕す者まで兵に取られ、冬を越すための穀物も失われます」
「だから父の仇へ味方したのか」
広間の視線が、ヴィクトルからアレクへ移った。
アレクの胸に重いものが沈む。
ヴィクトルは振り返らなかった。
「父を討った火槍隊を率いていたのが、アレク殿だと知っています」
「それでも同じ側へ立った」
「許したからではありません」
ヴィクトルははっきりと言った。
「父の死を利用して、また我が領民を戦へ出す者に従うことと、父を討った者がいる軍へ加わること。その二つから選ばなければなりませんでした。私は、領地を生かす方を選びました」
誰も声を出さなかった。
アレクは、ヴィクトルの言葉を自分の都合のよい赦しに変えてはいけないと思った。
父親を討った事実は消えない。
ヴィクトルはその痛みを抱えたまま、領主として別の選択をしたのだ。
「証拠はあるか」
国王が尋ねた。
「カスパル・フォン・ファルケナウ」
「はい」
カスパルが進み出て、従者から革袋を受け取った。
「こちらは、シュヴァルツ伯から四家へ送られた命令書です。兵数、供出する穀物、馬、荷車の数が記されています。原本と、受け取った日付を記した家臣の記録を持参しました」
近衛兵が革袋を受け取り、王の前の机へ運ぶ。
「偽造ではないと証明できるのか」
老侯爵が言う。
「伯の印章は、王宮へ提出されたものと照合できます。紙と封蝋も、伯の政庁で使われていたものです」
ユリウスが答えた。
「続けよ」
国王が命じる。
ロベルトが一歩前へ出た。
「我が領地では、二度の徴発によって大きな倉が三つ空になりました。こちらが倉番の記録です。最初の徴発量、二度目の徴発量、残された種籾の数まで記しております」
「戦のためなら、領地が兵糧を差し出すのは当然であろう」
「はい。ですが、三度目に求められた量を渡せば、春に蒔く種がなくなりました」
ロベルトは老侯爵を見た。
「私は兵糧を惜しんだのではありません。次の年に領民が食べる物までなくなることを恐れました」
「エイドリアン・フォン・モルゲンフェルト」
国王が呼ぶ。
「はい」
四人の中で最も若いエイドリアンが前へ出た。
顔には緊張が残っていたが、声は途切れなかった。
「我が家はシュヴァルツ伯家と婚姻関係にあります。母の妹が伯の一族へ嫁いでおります。従わなければ、親族を裏切ることになりました」
「ならば、なおさら伯へ従うべきだったのではないか」
老侯爵が問う。
「伯は、その関係を使って我々を戦へ出しました。断れば、領地に残る母と妹を王国への反逆者の家族として捕らえると告げられました」
エイドリアンは一度唇を結んだ。
「私は家族を守りたかった。領民も守りたかった。そのために、伯の軍へ加わったふりをしながら、離れる機会を探しました」
「結局、自分の身内のためではないか」
「はい」
エイドリアンは否定しなかった。
「家族も守れない者が、領民を守れるとは思いません」
若さの残る顔で言い切ると、諸侯の列から小さく息を呑む音がした。
ハルデンベルク侯は国王へ向き直った。
「事情があったことは認めましょう。しかし、事情のない裏切りなどございません。主君への忠誠を、都合によって変えてよい先例を作るべきではありません」
「そのとおりだ」
国王が言った。
ヴィクトルたちの顔が強張る。
老侯爵は勝ちを確信したように顎を上げた。
しかし、国王は続けた。
「ゆえに、何への忠誠であったかを明らかにせねばならん」
「何への、と申されますと」
「シュヴァルツ伯個人への忠誠か。自らの領民への責任か。それとも、グランヴァルト王国と王冠への忠誠か」
老侯爵の表情が止まった。
「シュヴァルツ伯は、王都からの停止命令に従わず、王国の諸侯を集めて私戦を続けた。レオンハルトが王命を受けて討伐へ向かった後も、兵を退かなかった」
国王の声は穏やかだった。
怒鳴ってはいない。
それでも、広間の隅まで一言ずつ届いた。
「四人が最後までシュヴァルツ伯へ従っていれば、個人への忠義は守ったであろう。だが、王命へ背き、領民を飢えさせる戦へ加わり続けることになる。それを王国への忠誠と呼ぶつもりか」
「いえ、しかし……」
「四人は汚れのない功臣ではない。敵軍に加わり、我が王国の兵へ武器を向けた責任がある」
国王がヴィクトルたちを見る。
「同時に、王命を受けた討伐軍へ協力し、戦を短く終わらせた功もある。責任を消さず、功も消さぬ。記録にはその双方を残す」
ヴィクトルが深く頭を下げた。
「御意にございます」
カスパル、ロベルト、エイドリアンも続く。
「四名が現在治める領地は、各家の所領として認める。継承権も奪わぬ。ただし今後はマティアス・クレーマーを上位の主君とし、兵数、税、倉の備蓄、街道の状態を毎年報告せよ。王命に背く者へ再び従った時は、今日の温情が二度あると思うな」
「はっ!」
四人の声が重なった。
国王はハルデンベルク侯へ視線を戻す。
「これが、王国の裏切りへの褒美に見えるか」
老侯爵はすぐには答えなかった。
「……国王陛下のご裁定に従います」
「よろしい。では、次へ進む」
書記官が新しい羊皮紙を開いた。
「マティアス・クレーマー、前へ」
マティアスが広間の中央へ進み、片膝をつく。
「ベルグハーフェンを治め、討伐軍の兵糧、武具、馬、荷車を整え、シュヴァルツ伯軍内の四名を帰順へ導いた。また、戦後の四領を結ぶ道と統治の策を示した。その功により、マティアス・クレーマーを伯爵に叙する」
広間が大きくざわめいた。
予想されていたことだ。
それでも、商人から身を起こした男へ伯爵位が与えられる瞬間を、平然と見ていられない者は多かった。
「所領としてベルグハーフェンを改めて認める。加えて、四領へ続く主要街道、橋、渡し場、宿駅、倉の管理権を与える。街道を守るために必要な隣接地は、測量後に境界を定める」
「ありがたくお受けいたします」
マティアスが頭を下げた。
「異議がございます」
今度は、諸侯の列の中ほどから男が進み出た。
四十歳ほどで、鮮やかな青い外套をまとっている。
「申せ」
「ベルグハーフェンの統治に功があったことは認めます。しかし、商人を伯爵とし、四家をその下へ置き、さらに複数の領地をつなぐ街道まで与えるのは、あまりに大きな権限です」
「商人であったことが問題か」
国王が尋ねた。
「伯爵は、王国の伝統と武威を支える地位にございます」
「マティアス」
「はい」
「お前から答えよ」
マティアスは片膝をついたまま、男を見た。
「私は商人でした。今も、商人だった頃に覚えたやり方を捨てておりません」
「ならば伯爵ではなく、商人として働けばよいのではないか」
「商人の荷車は、爵位の境で止まりません」
広間が静かになった。
「道が壊れていれば、隣の領地へ品は届かない。橋が落ちていれば、兵糧も兵も渡れない。川のこちら側だけを豊かにしても、向こう側で飢饉が起きれば、やがて人が流れ込み、盗賊が増えます」
マティアスは広間の諸侯を見渡した。
「道は領境を知りません。だから、四つの領地を一人の所有物にするのではなく、四人の領主を残したまま、道、橋、渡し場、倉の基準だけを一つにします。誰か一人の家を富ませるためではありません。品と報告と兵が、必要な時に動けるようにするためです」
「その道を使い、兵を集めることもできる」
「はい」
マティアスはまた否定しなかった。
「敵が来た時に集められない兵なら、領民から税を取って養う意味がありません」
諸侯の一部から、抑えきれない笑いが漏れた。
異議を唱えた男の顔が赤くなる。
「国王陛下。この男は、伯爵位を受ける前から諸侯を侮っております」
「俺には、道を使う理由を説明したように聞こえた」
国王は淡々と答えた。
「古い血筋が橋を直すのであれば、古い血筋へ任せる。商人だった者が荷車と倉を動かせるのであれば、その者へ任せる。王国に必要なのは、家柄を飾るためだけの爵位ではない」
国王はマティアスを見る。
「伯爵位は褒美であると同時に、責任だ。道が途切れ、四領が再び敵へ傾けば、お前の失敗として問う」
「承知しております」
「ならば、立て。マティアス伯爵」
マティアスが立ち上がる。
その瞬間、アレクには広間の空気が少し変わったように感じられた。
服も顔も、数呼吸前と何も変わっていない。
だが、王が名の後ろへ伯爵という言葉を置いたことで、マティアスは王国の地図に新しい形で刻まれた。
「アレク・ハルトマン、前へ」
呼ばれた瞬間、心臓が強く鳴った。
戦場で百挺へ射撃を命じた時とは違う緊張だった。
アレクは広間の中央へ進み、国王の前で片膝をつく。
「アレク・ハルトマン。アイヒェンタールを治め、火槍の改良、量産、兵の訓練に携わった。シュヴァルツ伯討伐では三百挺の運用を指揮し、敵中央を崩した後、百名を率いて敵将の退路を封じた。その功により、子爵に叙する」
十七歳の若者へ向けられる視線が、一段と強くなる。
「所領として、現在のアイヒェンタールを改めて認める。加えて、谷の入口にある二村、旧宿駅、旧関所、その周辺の森林と牧草地を与える」
アレクの頭に、王都へ来る前に見た地図が浮かんだ。
アイヒェンタールは谷の奥にある。
入口の二村と旧関所を任されれば、領地へ入る道そのものを守れる。
森林からは木材と木炭を得られる。牧草地があれば馬を増やせる。旧宿駅を直せば、ベルグハーフェンとの荷の往来も楽になる。
一つずつは大きな町ではない。
だが、組み合わせれば、アイヒェンタールを孤立した谷ではなく、外へつながる領地へ変えられる。
「さらに、新型火槍を扱う兵の訓練、号令、補給、修理、事故防止の基準を作る役目を与える」
アレクは顔を上げた。
「すべての火槍兵を、私が直接率いるのでしょうか」
「違う」
国王が答えた。
「各軍の指揮権までお前へ集めはせぬ。兵は、それぞれの主君と指揮官に従う。お前が定めるのは、同じ武器を安全に使い、異なる軍でも同じ号令で動けるための基準だ」
「承知しました」
教官を育てる。
号令を揃える。
火薬と弾の保管方法を決める。
故障の記録を残す。
別々の領主が持つ部隊でも、必要な時には同じ動きができるようにする。
これまでベルグハーフェンで始めたことを、さらに大きな形へ広げる役目だった。
「お待ちください」
諸侯の列から、別の声が上がった。
「十七歳と聞きました。生まれも定かではなく、二年前までは領地すら持たなかった若者に、子爵位とこれほどの役目を与えるのですか」
アレクは声の主を見た。
老侯爵ではない。先ほどの青い外套の男でもない。
名を知らない伯爵だった。
「火槍の働きが大きかったことは認めます。しかし、新しい武器を一度うまく使っただけで、王国の軍の基準を任せるのは早すぎます」
「アレク。答えよ」
国王が言った。
アレクは一度息を吸った。
自分を大きく見せるな。
何もしていないとも言うな。
午前中にマティアスから言われた言葉を思い出す。
「私は若く、知らないことが多くあります」
広間の何人かが、当然だという顔をした。
「領地を治めた時間も短く、王都の慣習も、諸侯の皆様の関係も十分には知りません」
「ならば、辞退するか」
伯爵が問い返す。
「いいえ」
アレクははっきり答えた。
「子爵位も役目も、私が立派だから与えられるものではないと考えています」
「何だと」
「知らないことがあるまま、人と火薬を動かした責任を負うために受けます」
アレクは続けた。
「新型火槍は、敵だけを危険にする武器ではありません。筒が破裂すれば使う兵が死にます。火種を火薬へ近づければ、味方の陣地が燃えます。号令を聞き違えれば、前へ出た味方を撃ちます」
昨日の祝砲。
その前の千二百発。
不発を起こした銃。
肩を矢で傷つけられながら装填を続けた兵。
アレクの頭には、武器ではなく、それを扱った人間の顔が浮かんでいた。
「私は一人で火槍を作ったわけでも、一人で戦に勝ったわけでもありません。職人、商人、教官、支援兵、槍兵、弓兵、騎兵が必要でした。だからこそ、誰か一人の勘に頼らず、同じ失敗を繰り返さないための決まりを残します」
「若さへの答えにはなっておらん」
「若さを消すことはできません」
アレクは伯爵をまっすぐ見た。
「ですから、足りないものを学びます。間違えた時は記録し、直します。爵位を、間違いを隠すための盾にはしません」
広間が静まり返った。
国王の口元に、ごく薄い笑みが浮かぶ。
「爵位は褒美ではなく責任だと、マティアスへ告げたばかりだ」
国王が言った。
「臣下も同じ答えへ辿り着いたようだな」
「マティアス様から教わったことが多いためです」
「そこは自分で考えたと言っておけばよいものを」
「事実ではありませんので」
諸侯の列の一部から、笑いが漏れた。
先ほど問いを投げた伯爵は、まだ納得していない顔だった。
それでも、国王の裁定へ重ねて異議を唱えることはなかった。
「アレク・ハルトマン」
「はい」
「子爵位と領地、役目を受けるか」
アレクは深く頭を下げた。
「謹んでお受けいたします」
「ならば立て。アレク子爵」
立ち上がると、諸侯の顔がよく見えた。
レオンハルトが言っていたとおりだった。
素直に頷く者。
値踏みする者。
若造だと笑う者。
火槍という言葉にだけ反応する者。
視線を逸らし、隣の者と囁く者。
爵位を得れば、エリーゼとの身分の隔たりが少しは縮まる。
その思いがないわけではなかった。
いつか彼女の隣へ立つために、何も持たない小姓のままではいられないと思ってきた。
だが、今は胸が躍るより先に、谷の入口にある二つの村が浮かんだ。
そこには、今日からアレクの裁定で税を納め、道を直し、兵を出す者たちがいる。
エリーゼまでの距離が少し縮まった代わりに、背負う者の数は大きく増えた。
論功行賞は、その後も続いた。
ユリウスには戦場での指揮と報告を整えた功が認められた。
ギルベルトとヴォルフラムをはじめ、火槍隊の教官、敵騎兵を止めた槍兵の指揮官、側面へ突入した騎兵隊長にも金と装備が与えられることになった。
名のある者だけではない。
戦死者の家族へ支払う金、負傷して兵を続けられない者へ与える土地、徴発した馬や穀物への補償も読み上げられた。
戦に勝った者の前で、戦場から帰れなかった者の名が呼ばれる。
華やかな爵位の授与より、その時間の方が長かった。
アレクは、それでよいと思った。
千二百発という数の向こうには、敵だけでなく味方の死傷者もいる。
勝利を地図へ残すなら、失われたものも記録へ残さなければならない。
最後の書状が閉じられる。
「以上を、王国の正式な裁定とする」
国王が立ち上がった。
「今日与えた爵位と領地は、戦が終わった証ではない。次の戦を遠ざけるために使え。己の家だけを富ませ、再び民を争いへ巻き込む者があれば、王命によって取り上げる」
国王の視線が、マティアス、アレク、四人の若い領主、そして左右の諸侯へ順に向いた。
「王国の地図に引かれた線は、古いから残るのではない。そこに住む者を守る役に立つ限り、残るのだ」
その言葉で論功行賞は終わった。
◇ ◇ ◇
大広間を出た途端、廊下の空気は別の戦場へ変わった。
「レオンハルト殿下、後ほど少しお時間をいただけませんか」
「マティアス伯爵、南街道の通行税についてお話が」
「アレク子爵、火槍の訓練について我が家からも人を」
先ほどまで列へ並んでいた諸侯と使者が、一斉に近づいてくる。
近衛兵が道を空けるよう求めても、誰も簡単には引かなかった。
昨日の凱旋を見ても態度を決めなかった者たちが、国王の裁定を聞いて動き始めている。
マティアスが伯爵となった。
四つの領地と街道が、その下でつながった。
アレクが子爵となり、新型火槍の基準を定める役目を得た。
何より、国王はそれらを王都の諸侯の前で認めた。
レオンハルトへ近づくことを迷っていた者にとって、今日の裁定は大きな合図だった。
「一度に話せるわけがないだろう」
レオンハルトが言う。
「面会を望む者は、家名、領地、用件を書いてユリウスへ渡せ。順番はこちらで決める」
言われた諸侯の従者たちが、一斉に紙と筆を求め始めた。
「私のところにも来ています」
アレクが困って言う。
「子爵になったのだから、自分で断れ」
「断ってよい相手が分かりません」
「ならば、全部マティアスへ渡せ」
「殿下」
マティアスが低い声で咎める。
「冗談だ」
「半分ほど本気に聞こえました」
「半分は本気だ」
マティアスが何か言い返す前に、ユリウスが書状の束を抱えて戻ってきた。
「すでに十一家から正式な会談の申し入れがあります。廊下で口頭の約束を求めている者は数に入れていません」
「朝までは何家だった」
レオンハルトが尋ねる。
「三家です」
「随分増えたな」
「国王陛下が、殿下のお味方を王国の秩序へ組み込むと公に示されましたから」
ユリウスは書状を差し出した。
「ただし、火槍だけを求めている家もあります。マティアス伯爵が管理する街道へ自領をつなぎたい家。五人と婚姻を結びたい家。目的は様々です」
「全部読む」
レオンハルトは束を受け取った。
歩きながら一通ずつ封印を見る。
家名を見ただけで脇へ分けるものもあれば、その場で開くものもある。
やがて、一通の書状で足を止めた。
封蝋には、山の上に立つ一羽の鷹が刻まれている。
「これは誰からですか」
アレクが尋ねた。
「ルーカス・フォン・グレンツベルク。グレンツベルク領の当主だ」
ユリウスが答える。
「二十五歳。三年前に父親を亡くし、家督を継いでいます。領地は王国東部へ向かう二本の道が合流する場所にあります」
「大きな領地ですか」
「大きくはありません。しかし、丘陵の間を抜ける道と、川を渡る石橋を押さえています。東部で軍を動かすなら、無視できない場所です」
レオンハルトが書状を開く。
長い挨拶はなかった。
アレクの位置から本文までは読めないが、レオンハルトの口元がわずかに上がった。
「何と書かれているのですか」
マティアスが尋ねる。
「祝勝の言葉が二行。残りは、自分の領地の橋が壊れかけている話だ」
「会談の申し入れではないのですか」
「会ってほしいとは書いてある。だが、こちらへ忠誠を誓うとも、火槍を売ってほしいとも書いていない」
レオンハルトは書状の一部を読み上げた。
「『殿下が戦に勝たれたことは喜ばしく存じます。しかし、勝利した軍が我が領地へ来ても、今の橋では半数が渡る前に落ちます。王国を守るおつもりなら、まず橋を見ていただきたい』」
マティアスが声を上げて笑った。
「随分と正直な男ですな」
「気に入った」
レオンハルトは即座に言った。
「殿下。正直であることと、味方になることは別です」
「分かっている。だから会う」
「他の十家はどうしますか」
ユリウスが尋ねる。
レオンハルトは手元の書状をもう一度見た。
「順番を組め。ただし、最初はこいつだ」
「ルーカス・フォン・グレンツベルクですか」
「ああ。勝利を祝いに来る者より、壊れた橋を見ろと言う者の方が話は早い」
マティアスも書状を受け取り、内容へ目を通した。
「確かに、私とは話が合いそうです」
「お前は橋と倉の話ができれば、誰とでも話が合うだろう」
「殿下よりは相手を選びます」
「なら、三人で会うぞ」
「アレクもですか」
「お前は旧関所と宿駅を任されたばかりだ。壊れた橋の話を聞いておけ」
「承知しました」
アレクは、レオンハルトの手にある書状を見た。
ルーカス・フォン・グレンツベルク。
二十五歳で、家督を継いで三年。
王国東部へ向かう道と石橋を守る、若い領主。
まだ顔も知らない。
味方になると決まったわけでもない。
それでも、論功行賞を終えた直後、レオンハルトが最初に会う相手として選んだ。
王は大広間で、爵位と領地を与えた。
マティアスには四領をつなぐ道を。
アレクには谷の入口と関所を。
四人には、自らの土地を守り続ける権利を。
それは褒美を配っただけではない。
誰が誰に従い、どの道を守り、どこまで兵と物資を動かすのか。国王は人々の前で、王国の地図へ新しい線を引いたのだ。
そして今、レオンハルトの手には、その線のさらに先にある橋から届いた書状がある。
「面会はいつにしますか」
ユリウスが尋ねる。
「今夜だ」
「今夜ですか」
「明日になれば、余計な挨拶を教える者が出る。橋が落ちるという話を、そのまま聞けるうちに会う」
レオンハルトは書状をユリウスへ返した。
「ルーカスへ伝えろ。夕食を一緒に取る。礼装はいらん。橋の図面と、直すのに必要な石と木の数を持ってこいとな」
「承知しました」
ユリウスが歩き出す。
その背中を見送りながら、アレクは自分が知っている物語の国盗りを思い出していた。
大きな戦に勝ち、敵の城を奪い、王を倒す。
歴史の本では、それが国を得る道として書かれている。
だが、目の前で始まっているものは違った。
一人の領主の土地を残す。
一つの街道をつなぐ。
壊れかけた橋の話を聞く。
そうして引かれた線の内側に、人と兵と食料が集まっていく。
国王が引いた線を、レオンハルトが次の線へつなごうとしている。
その先に何があるのか、今のアレクにはまだ分からない。
ただ、昨日までレオンハルトとの会談をためらっていた諸侯が、今日になって廊下へ溢れている。
王都を揺らしたのは四百挺の轟音だった。
しかし、王国を動かし始めたのは、その後に交わされた言葉と、地図の上へ引かれた線だった。
第四話を読んでいただき、ありがとうございました。
マティアスは伯爵に、アレクは子爵に叙され、それぞれ新たな領地と責任を与えられました。論功行賞を機にレオンハルトとの会談を望む諸侯も急増し、その中から、壊れかけた橋の話を持ち込んだ若き領主ルーカスが選ばれます。
次回、レオンハルト、マティアス、アレクはルーカスとの夕食会に臨みます。
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