第二話 王都を揺らす音
シュヴァルツ伯を討ち取った勝利を携え、レオンハルト軍は王都へ向かう。四百挺の火縄銃が放つ一斉射撃は、王都の人々と諸侯に新たな時代の到来を告げる。
ベルグハーフェンを出てから、六日目の朝を迎えた。
王都まで残された距離は、一日で進めるほどになっている。
俺たちが宿営した街道脇の平地では、夜明け前から兵が天幕を畳み、荷車へ積んでいた。
約二千五百人が眠った場所を、ただ立ち去ることはできない。
焚き火の跡へ水を掛け、灰の中に火が残っていないことを確かめる。掘った穴は土で埋め、馬を繋いで荒れた場所もできるだけ平らに戻す。
兵が使った水場には見張りを置き、村人と争いが起きないようにしていた。
「最後の荷車が出る前に、もう一度確認してください」
俺は宿営地を見回っていた兵へ声を掛けた。
「灰の中に赤いものが残っていたら、土を被せるだけではなく水を掛けるように。風で燃え広がるかもしれません」
「承知しました」
「村から借りた桶と鍋は?」
「こちらにまとめています。村長へ返す者も決めています」
「壊したものはありませんか」
「桶の取っ手が一つ外れました」
「修理できなければ、クレーマー商会から代金を払ってください」
「一つだけでもですか」
「一つだから払わなくてよいとはなりません」
戦へ向かっている時なら、多少の損害は後回しにしたかもしれない。
だが、今は王都へ勝利を報告しに行く途中だ。
王家の敵を倒した軍が、通過した村から鍋や薪を奪っていけば、何のために戦ったのか分からない。
クレーマー商会の者たちは、使った井戸の数、買った薪、穀物、豆、干し肉、馬の飼料まで記録していた。
すべての支払いをその場で済ませられるわけではない。大量の銀貨を各村へ運ぶことにも危険がある。
そのため、村長へクレーマー商会の印を押した引換証を渡し、近くの商会支店やベルグハーフェンで銀貨や商品と交換できるようにしていた。
「昨日の村で、引換証を受け取らなかった家があったそうです」
報告を持ってきた商会の書記が言った。
「なぜですか」
「レオンハルト殿下のためなら、干し肉の二つや三つは差し上げると」
「受け取ったのですか」
「いいえ。マティアス様の命令どおり、代金分の塩を置いてきました」
「それならよいです」
好意を受け取ること自体が悪いわけではない。
だが、二千五百人が同じように好意を求めれば、それは徴発と変わらなくなる。
兵一人にとってはパン一つでも、村全体から見れば冬を越すための食料だ。
「アレク様」
ギルベルトが近づいてきた。
「火槍隊の出発準備が整いました」
「覆いの破れは?」
「二枚見つかりました。予備と交換しています」
「油紙まで破れていましたか」
「一挺だけ、銃口の近くが擦れていました。火縄銃に異常はありません」
「王都へ着く前に直せてよかったです」
火槍隊四百人が、宿営地の東側へ並んでいる。
全員が細長い革包みを肩へ担いでいた。
中にあるのが火縄銃だと知らなければ、何の道具なのか分からない。
街道沿いの村でも、革の覆いへ包まれた四百挺を見ようと、人が集まっていた。
子供が近づこうとして兵に止められ、商人が火槍兵へ値段を尋ね、老人が従来型火槍とは長さが違うと首を傾げていた。
詳しいことを答えた兵はいない。
尋ねられた場合は、
「レオンハルト殿下の軍で使う装備です」
とだけ答えるよう命じている。
嘘ではない。
だが、知りたい者にとっては、ほとんど何も教えていない答えでもあった。
「行軍中の火縄は?」
「百人ごとの箱へ収めています。火種とは別の荷車です」
「兵が自分で持っているものはありませんね」
「昨日と今朝の二度、確認しました」
「王都の宿営地へ着いた時にも確認してください」
「はい」
ギルベルトは慣れた様子で答えた。
確認が多すぎると思っているかもしれない。
それでも、四百挺のうち一挺でも行軍中に火を出せば、火縄銃の秘密どころではなくなる。
「出発の号令が出ます」
ギルベルトが軍列へ戻る。
角笛が鳴り、兵たちが歩き始めた。
先頭には騎兵、その後ろへ槍兵と弓兵が続く。
火槍隊は軍列の中央に置かれ、前後を別の兵が囲んでいた。
荷車は道幅に合わせて一列になり、間隔を空けて進む。
前の荷車が泥へ嵌まった時、後ろまで一度に止まらないためだ。
王都に近づくにつれて、街道を行き交う人の数は増えていった。
行商人。
農作物を運ぶ荷車。
羊を連れた農民。
王都から地方へ向かう役人。
俺たちの軍列を見つけると、多くの者が道を譲った。
中には、レオンハルトの旗を見て頭を下げる者もいる。
シュヴァルツ伯が敗れたという噂は、すでに王都周辺まで届いていた。
「火槍で一万人を焼き殺したそうだ」
「四百ではない。千本あると聞いた」
「いや、ベルグハーフェンには一万本隠してある」
街道脇から聞こえてくる声は、進むほど大きくなっていた。
火縄銃三百挺で一万人全員を殺したわけではない。
敵中央へ大きな損害を与えたことは事実だが、シュヴァルツ伯軍が崩れた理由はそれだけではなかった。
土塁。
馬防柵。
槍兵と弓兵。
側面へ突入した騎兵。
三つの班による交代射撃。
四人の若い領主が敵軍の内部で動いたこと。
そして、シュヴァルツ伯自身が逃げたこと。
いくつもの条件が重なって生まれた勝利だ。
だが、街道で噂を交わす者に、一人ずつ説明して回ることはできない。
革包みの中身を見ようとする視線を受けながら、俺たちは王都へ進んだ。
◇ ◇ ◇
王都の城壁が見えたのは、日が西へ傾く前だった。
遠くからでも高いと分かる石壁が、平地を横切るように続いている。
壁の向こうには塔と屋根が重なり、そのさらに奥には王宮の尖塔が見えた。
アルベルトの城やレオンハルトの館とも違う。
一人の領主が暮らす城ではなく、王家と多くの貴族、官僚、商人、職人を抱える巨大な街だ。
「止まれ!」
先頭から号令が伝わってくる。
軍列は城壁へ近づきすぎず、王都側から指定された宿営地へ入った。
平地にはあらかじめ木杭が打たれ、レオンハルト軍が使う場所と、王都側の兵が警戒する場所が分けられている。
城壁の上には弓兵が並んでいた。
歓迎されていないわけではない。
だが、何の警戒もされていないわけでもなかった。
約二千五百人の武装した兵を連れて王都へ来たのだ。当然だろう。
天幕の設営が始まって間もなく、王都の大門から騎馬の一団が現れた。
先頭を進んでくる男の姿には見覚えがある。
ライゼン将軍だった。
その後ろには城門守備隊の責任者らしい騎士と、書記、武器の確認を担当する役人が続いている。
レオンハルトが馬を進める。
俺とマティアス、ユリウスも後へ続いた。
両者の距離が縮まると、ライゼン将軍が馬上で軍礼を取った。
「レオンハルト殿下。ご到着をお待ちしておりました」
「出迎え、ご苦労」
「国王陛下より、明日の祝砲と入城の案内を任されております」
「広場の用意は」
「終わっております。民が射線へ入らぬよう、夜明けから城門守備隊を配置します」
「弾を使わないことは伝えたはずだ」
「承知しております。それでも、人を正面へ置くわけにはまいりません」
「正しい判断だ」
レオンハルトは不満を見せなかった。
ライゼン将軍の視線が、その後ろへ並ぶ火槍隊へ向く。
四百人が同じ革包みを担いでいる。
覆われているからこそ、そこに何かを隠していることだけはよく分かった。
「以前の戦で見た時は、十挺だったはずだが」
ライゼン将軍が俺を見る。
グリュン川大橋を巡る戦いの時、戦場へ持ち込んだ火縄銃は十挺だった。
ライゼン将軍も、その一部を遠くから見ている。
質問にそのまま答えれば、十挺がどのように四百挺へ増えたのかを話すことになる。
あるいは、現在何挺持っているのかを聞き出そうとしているのかもしれない。
「はい。今回は四百挺持ってきました」
俺は答えた。
ライゼン将軍の眉がわずかに動いた。
隣を見ると、レオンハルトとマティアスが揃ってニヤリと笑っている。
「数え方を尋ねたつもりはなかったのだがな」
「王都へ持ってきた数でしたら、四百挺で間違いありません」
「残りがあるのか」
「今回は四百挺です」
「なるほど」
ライゼン将軍は、それ以上尋ねなかった。
四百挺しかないとは言っていない。
ベルグハーフェンやアイヒェンタールに何挺残しているのかも答えていない。
実際には、ここへ運んだ四百挺が現時点で使える火縄銃の大部分だ。
だが、それを王都側へ教える理由もなかった。
「随分と答え方を覚えたな」
レオンハルトが楽しそうに言った。
「マティアス様から、聞かれていないことまで話すなと言われましたので」
「俺の教え方がよかったようだ」
マティアスが言う。
「以前から似たような答え方をしていた気もします」
「なら、俺の影響を受ける素質があったのだろう」
ライゼン将軍が小さく息を吐く。
「三人揃って王都へ来られた理由が、少し分かった気がします」
「歓迎しているようには聞こえんな」
レオンハルトが言った。
「歓迎しております。だからこそ、明日の祝砲が本当に空砲であることを確認させていただきます」
「認める」
「武器の覆いも外していただきます」
「銃口だけだ」
「それでは仕組みが確認できません」
「確認するのは、弾が入っていないことだ。作り方ではない」
「火を使う部分を見ずに、安全だと判断しろと?」
「点火する前に、もう一度見せる。だが、近づける者はこちらで決める」
「王都側の兵を信用できませんか」
「信用と秘密は別だ」
二人の視線がぶつかる。
以前の戦場では、王都軍とレオンハルト軍は完全に一つの軍にならなかった。
互いの判断を確かめ、使者と書状を往復させ、決めた時刻に同時に動いた。
ライゼン将軍は王家へ忠誠を誓っているが、レオンハルトの臣下ではない。
レオンハルトも、それを理解したうえで命令するのではなく、条件を突きつけていた。
「承知しました」
先に折れたのはライゼン将軍だった。
「まず、弾が入っていないことを確認します。明朝、装填前に火皿と火縄も確認させてください」
「少数なら認める」
「では、始めましょう」
宿営地の一角には、すでに布で囲われた場所が用意されていた。
中へ入ったのは、ライゼン将軍、城門守備隊の責任者、検査役二人、俺、ギルベルト、ヴォルフラムだった。
火槍兵は十人ずつ入る。
革の覆いを銃口側だけ外し、検査役が細い棒を筒内へ差し込む。
棒が奥まで入る長さを確かめ、弾や詰め物が残っていないことを調べる。
筒の横や下側は、革で覆ったままだ。
「ここまで隠す必要があるのか」
城門守備隊の責任者が呟いた。
「必要があると判断しています」
俺は答えた。
「明日、撃つところは見せるのでしょう」
「見せるのは撃つところです」
「違いがあるのか」
「大きく違います」
弓兵が矢を射るところを見たからといって、良い弓を作れるわけではない。
火縄銃も同じだ。
ただし、火皿や引金、ばねの存在まで近くで見れば、模倣への手掛かりを与えることになる。
検査は日が沈むまで続いた。
四百挺の筒内を一本ずつ確かめ、兵が身につける携帯用弾薬箱も開けさせる。
箱はすべて空だった。
実戦用の一発筒と弾は、別の天幕へ集められている。
その天幕にはレオンハルト側と王都側の双方から見張りを置き、祝砲が終わるまで封をすることになった。
火縄も別の箱へ収めてある。
祝砲用の火薬は、短く作られ、表面に二本の溝を刻んだ容器へ一回分ずつ入っていた。
「四百本」
王都側の書記が数を読み上げる。
「予備は」
「二十本です」
俺は答えた。
「容器に異常が見つかった時の交換用です。余った分は装填前に回収します」
「兵一人が二本持つことは」
「認めません」
「装填後に余った数を、こちらでも確認します」
「構いません」
火薬を隠すことより、弾を入れていないと証明することを優先する。
明日の祝砲で事故を起こせば、火縄銃を秘密にする意味も失われる。
確認が終わると、火縄銃は再び油紙と革で覆われた。
「明日は、随分と大きな音になりそうだ」
ライゼン将軍が言った。
「訓練では、山から音が返ってきました」
「王都では城壁から返る」
「人と馬を離してください」
「すでに命じている。だが、王都の民がどこまで大人しく従うかは分からん」
「正面へ入れなければ、少なくとも撃たれることはありません」
「空砲でも、詰め物は飛ぶのだろう」
「はい。だから銃口は斜め上へ向けます」
「その銃口が、城壁の弓兵からどう見えるかも考えておけ」
「分かっています」
ライゼン将軍は布囲いを出る前に、もう一度革に覆われた火縄銃を見た。
「十挺だったものが、四百挺か」
独り言のような声だった。
「以前の戦から、それほど長い年月は過ぎていないはずなのだがな」
俺は何も答えなかった。
ライゼン将軍も、今度は答えを求めなかった。
◇ ◇ ◇
翌朝、空には薄い雲が広がっていた。
雨は降っていない。
風も弱く、煙は王都の城壁と平行に流れている。
祝砲を中止する理由はなかった。
俺たちは日の出前に宿営地を出た。
騎兵と荷車は、城門前の広場から離れた場所で止める。
火槍隊四百人だけが、王都側の兵に囲まれながら広場へ進んだ。
すでに、多くの見物人が集まっている。
城門守備隊が張った縄の後ろには、市民が何重にも並んでいた。
城壁の上も人で埋まり、周辺の建物の窓や屋根にまで姿が見える。
王都の役人らしい服を着た者。
貴族の家紋を胸へ付けた家臣。
上等な外套を着た商人。
兵士。
職人。
母親に抱かれた子供。
何をするのか分からないまま、周囲に釣られて集まった者もいるだろう。
広場の正面だけは大きく空けられていた。
銃口の向く先には人も馬もいない。
乾いた草も取り除かれ、土がむき出しになっている。
俺は風向きを確かめた。
城壁上の旗は、緩やかに横へ流れている。
「予定どおり行います」
俺が言うと、ギルベルトとヴォルフラムが頷いた。
「配置につけ!」
号令が広場へ響く。
四百人が百人ずつ四つの隊列へ分かれる。
無理に一列へ並べず、二列ずつ左右へ広がった。
前列と後列の間には、兵が一歩下がっても銃口へ触れないだけの距離を取る。
革に覆われた火縄銃が、同じ角度で肩から下ろされた。
「覆いを外せ!」
四百人の手が動く。
外側の革が外される。
次に油紙が解かれる。
長い鉄筒と木台が、朝の光の下へ現れた。
群衆から大きなどよめきが上がる。
「あれが火槍か」
「槍ではないぞ」
「柄がない」
「鉄の筒を持っている」
声が重なる。
従来型火槍を見たことのある者ほど、形の違いに気づいたはずだ。
だが、城門守備隊が近づくことを許さない。
遠くから見えるのは、木台の上へ長い鉄筒を載せた武器だということだけだ。
火皿や火蓋、引金の細かな形までは分からない。
ライゼン将軍と昨日の検査役が、再び火縄銃を確認する。
今回は覆いをすべて外しているため、発射機構も見える。
ただし、四百人の前へ立ち止まり、詳しく調べる時間は与えない。
兵の弾薬箱が空であること。
筒内に弾がないこと。
火縄がまだ取り付けられていないこと。
それだけを確かめる。
「異常ありません」
検査役が報告した。
「火薬を運べ」
ギルベルトの命令で、二台の荷車が前へ出た。
祝砲用の容器が、百人隊ごとに配られる。
一人へ一本。
四百人へ配り終えると、予備の二十本が王都側の書記の前へ戻された。
「四百人へ一本ずつ渡しました」
俺はライゼン将軍へ告げた。
「確認した」
ライゼン将軍の表情は硬い。
許可された祝砲だと理解していても、四百挺の見慣れない武器が王都へ銃口を向ける光景は、気分のよいものではないだろう。
「装填!」
ギルベルトの号令が響く。
火槍兵たちは容器の木栓を外し、筒内へ火薬を入れる。
羊毛の詰め物を置き、装填棒で軽く奥へ押し込む。
火皿へ細かな火薬を置き、火蓋を閉じる。
四百人が同じ動きを繰り返す。
見物人たちの声が、次第に小さくなっていった。
何をしているのか、正確に理解できる者は少ない。
それでも、発砲の準備をしていることだけは伝わっている。
「装填確認!」
百人隊を任された者たちが、兵の間を歩く。
装填棒の戻し忘れはない。
火蓋も閉じられている。
火縄を落とす金具は手で引き上げられたままだ。
「点火用意!」
別に保管されていた火縄と火種が運ばれる。
一本ずつ火を移し、兵へ渡す。
火縄を火縄ばさみに挟み、掛け金へ留める。
四百か所から細い煙が立ち上った。
風に流された煙が、長い一本の帯のようになる。
群衆のざわめきが消えた。
子供の泣き声だけが、遠くから聞こえる。
城壁の上では、弓兵たちが俺たちを見下ろしていた。
何人かが弓へ手を伸ばしている。
ライゼン将軍が振り返り、片手を上げた。
「動くな!」
城壁上へ向けた命令だった。
「許可された祝砲だ! 合図があるまで矢をつがえるな!」
弓兵の手が止まる。
俺は四百人の隊列を見る。
ギルベルトが赤い布を結んだ長い棒を持っている。
ヴォルフラムの横では、兵が角笛を構えていた。
「火蓋を開けろ!」
四百人が火蓋を開く。
「構え!」
火縄銃が持ち上がった。
四百挺の銃口が、一斉に斜め上へ向く。
群衆の中から短い悲鳴が上がった。
城壁の弓兵も、思わず身を固くしている。
俺は風を見る。
赤い布を見る。
四つの隊列を見る。
火縄の煙を見る。
出発までに何度も繰り返した訓練どおり、乱れている者はいない。
俺は右手を上げた。
「祝砲、用意!」
城門前の広場が静まり返る。
俺は右手を振り下ろした。
角笛が鳴る。
赤い布が振り下ろされる。
四百人の指が、一斉に引金を引いた。
鉄筒の横から四百の火が散る。
次の瞬間、四百挺の火縄銃が完全に重なった一つの轟音を放った。
腹の底を殴られたような衝撃が来た。
試験場で聞いた時より大きい。
開けた平地へ逃げるはずの音が、王都の石壁へぶつかり、城門と塔の間を跳ね返る。
一つの音が二つになり、二つがさらに重なって、王都全体が鳴っているように聞こえた。
城門の木材が震えた。
城壁上から鳥が一斉に飛び立つ。
周囲の建物の窓が細かく鳴り、屋根の上にいた見物人が身を伏せた。
遠くへ離していた馬がいななき、手綱を持つ兵が必死に宥める。
群衆から悲鳴が上がった。
耳を塞ぐ者。
しゃがみ込む者。
子供を抱き寄せる者。
何が起きたのか分からず、城門へ背を向けて逃げようとする者もいた。
城門守備隊が縄の前へ立ち、押し合いにならないよう声を張り上げる。
白煙が四百人の前へ広がった。
火槍兵の上半身が煙に隠れ、斜め上へ向けた銃口だけが黒い影となって見える。
一挺の遅れもない。
四百挺の祝砲は、巨大な一発となって王都を揺らした。
「火縄を上げろ!」
ギルベルトの声が煙を突き抜ける。
「再装填するな!」
ヴォルフラムが続ける。
「銃口を下げるな! その場を動くな!」
火槍兵たちが一斉に火縄を手で引き上げる。
誰も勝手に動かない。
発砲できなかった者もいない。
再装填しようとする者もいなかった。
「全員、火縄を外せ!」
四百人が定められた手順を続ける。
火縄を外す。
火皿を空にする。
点火孔を確かめる。
筒内へ燃え残りがないか調べる。
発砲の興奮に任せて、銃口を群衆へ向ける者もいない。
白煙が風に流されていく。
城壁と広場が再び見え始めた。
見物人は、まだ耳を押さえながら火槍隊を見ている。
四百人の火槍兵は誰一人として隊列を崩さず、命令どおり安全確認を続けていた。
ライゼン将軍は、静かにその様子を見ていた。
「将軍」
俺が近づくと、ライゼン将軍は四百人から目を離さずに言った。
「恐ろしいのは、あの音だけではないな」
「何でしょうか」
「四百挺が、一つの音になった」
ライゼン将軍は煙の薄れた隊列を見渡した。
「そして撃ち終わった四百人が、誰一人として勝手に動かない」
「訓練しましたから」
「それを言っている」
火縄銃を四百挺作れば、四百人の火槍隊ができるわけではない。
命令を聞き、装填し、撃ち、止まる。
武器と同じだけ、人を育てる時間が必要だった。
「十挺を見た時は、珍しい武器だと思った」
ライゼン将軍が言う。
「四百挺を見た今は、軍の形を変えるものだと思っている」
「火縄銃だけで勝てるわけではありません」
「分かっている。だからこそ恐ろしい」
ライゼン将軍の視線が、レオンハルトへ向く。
「槍兵も弓兵も騎兵も、あの男は持っている。その中へ、さらに四百挺を加えた」
銃身が冷えるまで待つ間、城門前ではざわめきが戻っていた。
「一万人を倒した音だ」
「違う。今のは弾が入っていない」
「弾がなくても城壁が揺れたぞ」
「レオンハルト殿下は、あれを千挺持っているらしい」
「王都へ持ってきたのが四百だ。残りは隠している」
聞こえてくる噂は、発砲前より大きくなっている。
「訂正しますか」
俺は近くへ来たマティアスへ尋ねた。
「何をだ」
「千挺持っているという話です」
「お前は、四百挺しかないと言ったか」
「言っていません」
「なら、聞いた者が勝手に考えただけだ」
「一万人を一度に倒したという話もあります」
「それは戦場を見た者に聞かせればよい。賢い者なら調べる」
「賢くない者は?」
「火槍を過大評価して動けなくなる」
マティアスは城壁上や建物の窓を見た。
「知らない者が勝手に多く考えるなら、今は止める必要はない」
「味方の兵まで信じたら困ります」
「帰ってから、お前が現実を教えろ」
「また私の仕事ですか」
「火縄銃を作った者の仕事だ」
「作ったのは職人たちです」
「では、使い方を考えた者の仕事だ」
逃げ道はなかった。
「覆いを掛けろ!」
ギルベルトの号令で、油紙と革が配られる。
四百人は筒が冷えていることを確かめてから、火縄銃を包んでいく。
鉄筒。
火皿。
火蓋。
火縄ばさみ。
引金。
先ほどまで火と煙を放っていた武器の形が、一つずつ隠される。
最後には、同じ細長い革包みが四百本並んだ。
「何をしている」
「なぜ隠す」
「もっと近くで見せろ」
群衆から声が上がる。
しかし、火槍兵は誰も覆いを外さない。
見せるべきものは、もう見せた。
正確には、音と煙だけを見せた。
その火をどうやって生み出したのかは、革の下へ戻されていた。
◇ ◇ ◇
安全確認が終わると、王都の大門がゆっくりと開いた。
門の向こうには、石を敷いた広い通りが真っ直ぐ伸びている。
通りの両側には建物が並び、その窓という窓から人が顔を出していた。
祝砲を見られなかった者も、王都中へ響いた音を聞いている。
何が入ってくるのか確かめようと、沿道は人で埋まっていた。
凱旋軍の先頭へレオンハルトが進む。
磨かれた鎧を身につけ、馬上から開いた大門を見上げる。
その後ろでは、レオンハルトの旗が風を受けていた。
続く旗手が持つのは、シュヴァルツ伯から奪った濃紫の本陣旗だ。
旗を地面へ引きずることも、逆さに掲げることもしない。
王家に逆らった諸侯の旗が、今はレオンハルトの後ろを進んでいる。それだけで、勝敗は十分に伝わる。
騎兵。
槍兵。
弓兵。
ヴィクトル、カスパル、ロベルト、エイドリアンと、その少数の供回り。
マティアス。
俺。
革包みを担いだ火槍隊四百人。
兵站隊と、戦功を認められた兵たち。
捕虜を鎖で繋いで歩かせることはしない。
シュヴァルツ伯の最期を証言する者たちは、軍列の後方で護衛されている。
角笛が鳴った。
レオンハルトが馬を進める。
凱旋軍が王都へ入った。
最初、沿道は静かだった。
祝砲の衝撃が残っているのかもしれない。
市民は先頭のレオンハルトと、濃紫の本陣旗を交互に見ていた。
やがて、一人の男がレオンハルトの名を呼んだ。
別の場所からも声が上がる。
王家の敵を討った第一王弟。
王都軍の助けを借りず、一万人を破った男。
声は少しずつ増え、通りの両側から重なっていく。
「レオンハルト殿下!」
「シュヴァルツ伯を討った王弟殿下だ!」
「ご勝利、おめでとうございます!」
レオンハルトは大きく手を振らなかった。
馬上でわずかに手を上げ、歓声へ応える。
それだけで、さらに声が増した。
俺は少し後ろから、レオンハルトの背中を見ていた。
濃紫の旗。
揃った軍列。
革の下へ隠された四百挺。
レオンハルトは勝った事実だけを持ってきたのではない。
誰が勝ったのか。
何を使って勝ったのか。
次にどれだけのことができるのか。
王都の人間が、自分たちで想像するように並べている。
やがて、軍列は貴族の屋敷が並ぶ通りへ入った。
市民の歓声とは違う静けさがあった。
上等な石造りの屋敷。
家紋を掲げた門。
揃いの服を着た使用人。
その前に、貴族たちが立っていた。
王家に近い者だけではない。
これまでレオンハルトとは別の派閥へ属していた諸侯もいるらしい。
俺には顔と家紋が一致しない者も多かったが、レオンハルトは違った。
屋敷の前に立つ者を、一人ずつ確かめるように見ている。
レオンハルトが近づくと、諸侯が頭を下げた。
軽く首を動かすだけではない。
馬上のレオンハルトへ、自らの顔が見えなくなるほど深く頭を下げている。
レオンハルトは、その一人を見た後、次の屋敷へ視線を移した。
そこでも別の諸侯が頭を下げた。
しばらく進んだところで、レオンハルトが小さく笑った。
「王都も変わったな」
独り言のような声だった。
俺はマティアスを見る。
マティアスも、何のことか分からないようにレオンハルトを見ていた。
「何が変わったのでしょうか」
小声で尋ねる。
「俺にも分からん」
「マティアス様でも?」
「俺は王都の貴族が、以前どの程度まで頭を下げていたか知らん」
レオンハルトは振り返らず、先頭を進み続けている。
説明するつもりはないらしい。
だが、あの言葉が祝砲や建物の話ではないことは分かった。
頭を下げた諸侯の中に、以前なら屋敷の外へも出なかった者がいたのだろう。
シュヴァルツ伯を破ったから。
四人の若い領主を従えたから。
ベルグハーフェンと周辺の道を押さえたから。
四百挺の火縄銃を見せたから。
どれか一つではない。
すべてが重なり、これまで別の派閥にいた者まで、レオンハルトへ頭を下げさせている。
俺は、再びその背中を見た。
新しい武器を使う。
勝った戦を、次の政治へ利用する。
古い力関係を、戦場の外からも壊していく。
市民の歓声を受けながら、その歓声に酔っているようには見えない。
誰が頭を下げたのか。
誰が屋敷から出てこなかったのか。
誰が窓の陰から見ているのか。
レオンハルトは王都のすべてを見ていた。
その瞬間、頭の中で一つの名がはっきりと浮かんだ。
信長だ。
俺は初めて、そう確信した。
レオンハルトが、前世の織田信長と同じ人物だという意味ではない。
生まれた国も、歩んできた人生も、性格も違う。
この世界の歴史が、日本の戦国時代と同じように進む保証もない。
それでも、誰も価値を認めなかった武器へ目を向け、使える形を与え、勝利を人々の目へ焼き付ける。
戦場で敵を破るだけでなく、その勝利によって次の敵を動けなくする。
レオンハルトがこの乱世で担おうとしている役割は、俺が知っている織田信長に限りなく近い。
そう考えると、胸の奥へ別の不安が生まれた。
織田信長に近いのなら、その先に待つものも知っている。
だが、レオンハルトが同じ最期を迎えるとは限らない。
この世界には本能寺も、明智光秀もいない。
歴史に似た流れがあったとしても、人も場所も選択も違う。
未来を知っているようなつもりになるのが、一番危険だ。
今、俺の目の前にいるのは、前世の歴史書に書かれた人物ではない。
レオンハルト・フォン・グランヴァルトだ。
俺は、俺の知っている歴史ではなく、この世界で起きることを見なければならない。
「どうした」
マティアスが俺を見る。
「いえ」
「随分と難しい顔をしていたぞ」
「レオンハルト殿下のことを考えていました」
「本人に聞こえる声で言うな。面倒な仕事を増やされる」
「もう十分増やされています」
「なら、一つや二つ増えても同じだ」
「違います」
小声で言い合っている間にも、凱旋軍は王都を進んでいく。
沿道の貴族たちは、レオンハルトだけを見ているわけではなかった。
マティアスへ向く視線。
俺へ向く視線。
四人の若い領主へ向く視線。
革包みを担ぐ四百人へ向く視線。
市民が見ているのは勝って帰った軍だ。
だが、貴族や官僚、商人が見ているものは違う。
二千五百人を乱さず王都まで動かせる指揮。
その兵を六日間食べさせたクレーマー商会。
敵軍の中から四人の領主を引き入れたマティアス。
新しい火槍を作り、三百人の交代射撃を考え、シュヴァルツ伯を討った俺。
そして、王都へ持ってきた四百挺以外に、何挺あるか分からない火縄銃。
門前で放ったのは空砲だった。
それでも、その音は王都にある力の釣り合いを揺らしていた。
◇ ◇ ◇
凱旋行進が終わると、二千五百人すべてが王宮へ向かうわけではなかった。
騎兵、槍兵、弓兵の多くは、王都側が指定した兵舎と城外の宿営地へ分かれる。
火槍隊四百人は、市街の兵舎へ入れなかった。
火縄銃を見ようとする者が近づく可能性が高いため、城外の宿営地へ戻し、レオンハルト側の兵で周囲を固める。
王都へ入る前に封じた実戦用の弾薬も、確認を終えた後で火槍隊の管理へ戻す。
「今夜は、覆いを外すな」
俺はギルベルトとヴォルフラムへ命じた。
「雨が降った場合だけ、布で囲った場所へ運んで油紙を確認してください」
「警備は二重にします」
ギルベルトが答える。
「王都側の兵も外におります」
「内側は我々の兵だけで守ってください。ただし、王都側と争わないように」
「承知しました」
「祝砲で使った四百挺は、ベルグハーフェンへ戻った後、すべてロルフたちへ見せます」
「記録も残します」
「残った祝砲用の火薬は」
「二十本です」
「王都へ持ち込まないでください」
「宿営地の火薬庫へ入れます」
必要な指示を終え、俺は王宮へ向かう服装を整えた。
同行するのは、レオンハルト、マティアス、ユリウス、俺、ヴィクトル、カスパル、ロベルト、エイドリアンだった。
護衛も必要最小限しか連れない。
王宮へ火縄銃を持ち込むための木箱は、荷車から下ろされていた。
革紐は切られていない。
封蝋にも異常はない。
火薬、弾、火縄が入っていないことを、俺たちの前で改めて確認する。
その後、王宮側の検査を受けるため、箱は再び閉じられた。
「今度は、あの箱の中身を王へ見せるのですね」
ヴィクトルが言った。
「国王陛下から求められれば」
「我々も同席するのでしょうか」
「分かりません」
レオンハルトが国王へ人払いを求める予定だということは、必要な者にしか伝えていない。
四人の若い領主まで残すかどうかも、まだ決まっていなかった。
王宮の門前へ着くと、俺たちは剣を預けた。
レオンハルトも例外ではない。
木箱は王宮の検査役が確認し、筒内が空であることと、火薬や弾が入っていないことを調べる。
検査役は火縄銃の形を見て目を見開いたが、触れる場所は最小限に留められた。
レオンハルトの側近とユリウスが、検査の間も目を離さない。
やがて、王宮から一人の使者が現れた。
「レオンハルト殿下。国王陛下よりお言葉を預かっております」
「申せ」
「本日は長旅と凱旋の後ゆえ、皆様には王宮内の客室でお休みいただきたいとのことです。正式な謁見は明朝行われます」
「分かった」
「また、陛下は門前での祝砲を王宮からお聞きになりました」
使者が一瞬だけ、俺たちの後ろにある木箱を見る。
「何と?」
レオンハルトが尋ねた。
「随分と大きな勝利の報告だ、と笑っておられました」
レオンハルトも小さく笑った。
「音だけで済めばよいがな」
使者は、その言葉へどう答えるべきか迷ったようだった。
結局、何も言わず頭を下げる。
案内の者に従い、俺たちは王宮の中へ入った。
高い石壁。
広い中庭。
鎧を揃えた近衛兵。
廊下に並ぶ彫像と絵。
どれも、アルベルトの城やレオンハルトの館とは違う重さがあった。
ここは国の中心だ。
王家、王兄、レオンハルト、地方諸侯、王都軍。
互いに同じ国へ属しながら、異なる利益と力を持つ者たちが集まっている。
門前の四百挺は、王都の民と諸侯を驚かせた。
しかし、明日は火縄銃を撃つことができない。
剣を抜くこともできない。
国王の問いへ、言葉だけで答えなければならない。
シュヴァルツ伯との戦い。
四人の帰順。
マティアスの働き。
火縄銃の秘密。
そして、俺たちへ与えられようとしている爵位と領地。
木箱を運ぶ兵の足音が、石の廊下へ響いている。
俺はその音を聞きながら、王宮の奥へ進んだ。
王都を揺らした四百挺の咆哮より、明日の静かな謁見の方が、俺には恐ろしく思えた。
第二話を読んでいただき、ありがとうございました。
四百挺の火縄銃による轟音とともに、レオンハルトは王都へ凱旋しました。その行列を見たアレクは、ついにレオンハルトが歴史を大きく動かす存在だと確信します。
次回、アレクたちは国王との謁見に臨みます。密かに運び込まれた新型火槍を前に、戦場とは異なる政治の駆け引きが始まります。
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