Ver.0 TUTORIAL 2.3 姉というノイズ
世界は、乱暴だった。
温かな闇から引き出された瞬間、わたしはそう思った。光。音。空気。肌に触れる布。誰かの手。すべてが過剰だった。胎内ではすべてが柔らかく濾過されていたのに、外の世界は直接わたしに触れてくる。身体が寒い。肺が焼ける。胸の奥が勝手に空気を求める。目はまともに開かない。首も動かない。手足はあるが、自由などないに等しい。
だが、泣かなかった。泣く必要がなかった。わたしは状況を把握しようとしていた。
産まれた。まず、その事実を確認する。わたしは、リゼル・ノクス・ヴァルクロアとして、この世界に出た。
視界はぼやけている。だが、色と影の区別はつく。暗い天井。魔晶灯の光。布に覆われた寝台。周囲に並ぶ侍女らしき影――尖った耳の輪郭、小柄な体格、がっしりとした肩幅、それぞれ異なる種族の気配が滲んでいる。薬草と香の匂い。出産後の血の匂いも混じっているが、不快というほどではない。
誰かがわたしの身体を拭いている。小さな身体が布に包まれる。抱き上げられる。周囲がざわついた。
「……泣かない?」
低い男の声。胎内で聞いた声だ。父。
わたしは意識をそちらへ向けた。視界に大きな影が入る。顔はまだぼやけている。だが、輪郭だけでも威厳が分かった。身なりは整い、姿勢は揺るがず、周囲の者たちが自然と道を開ける。権力を持つ者の立ち方だ。
その瞬間、視界の端に何かが浮かんだ。文字。いや、表示。半透明の情報が、わたしの意識に重なるように現れた。
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【ステータスウィンドウ】
名前:オルディアス・ノクス・ヴァルクロア
種族:堕天使系高位魔族
身分:ヴァルクロア大侯爵家当主/黒曜領ヴァルクロア領主
年齢:42歳
レベル:3200
生命力:34800
魔力量:51200
筋力:3280
耐久:3360
敏捷:2840
知力:3490
精神:3420
統率:3780
政治:3720
礼法:3680
忠誠適性:3910
主要適性:大貴族統治/貴族軍指揮/領地経営/儀礼魔術/大規模防衛/大貴族戦闘術/高位結界運用
危険度評価:超高
敵対意志:なし
備考:大魔王ドラコー陛下への忠誠心が極めて高い。ヴァルクロア大侯爵家当主として、政治・軍事・儀礼を高水準で統合する完成された大貴族。
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……何だ、これは。ステータス表示か。
わたしは表示に意識を集中させた。すると、情報がさらに細かく開いた。名前。種族。身分。年齢。レベル。生命力。魔力量。筋力。耐久。敏捷。知力。精神。統率。政治。礼法。忠誠適性。主要適性。危険度評価。敵対意志。
ゲームと似ている。いや、かなり近い。前世の『パンデモニウム・オンライン』にもステータス画面はあった。だが、これはゲーム画面より生々しい。単なる数値の羅列ではなく、その人物の性質や立場、今この瞬間の敵意まで読み取れるようになっている。
誰にでも使えるのか。視界に入った相手に反応しているのか。任意で開けるのか。まだ分からない。だが、使える。これは明らかに使える。リゼルのみの固有スキル。ステータスウィンドウ。そう名付けておくべきかもしれない。
悪神からの転生特典だろう。ゲームの延長のようだ。いや、この世界がゲームと似ているのではなく、わたしにそう認識しやすいよう、あの悪神が仕組んだのかもしれない。契約者が迷わないように。悪の種子が効率よく育つように。数値化し、比較し、優劣を見せ、他者を材料として扱いやすくするために。
……あの悪神には感謝しないとな。
もちろん、口に出すつもりはない。あんな性格の悪い存在を喜ばせ
るのは腹立たしい。だが、有用なものは有用だ。
父――オルディアス・ノクス・ヴァルクロアは、レベル3200。強い。これは、間違いなく強い。赤子である今のわたしが見上げるには、十分すぎるほどの壁だった。単なる領主ではない。単なる名門貴族でもない。大貴族として領地を治め、家門を維持し、軍を指揮し、必要とあらば自ら戦場へ立つことのできる、魔界大侯爵家の当主。
なるほど。これが、ヴァルクロア大侯爵家の父か。わたしは内心で評価を改める。前世のゲーム知識だけでは測れない。現実の魔界において、大侯爵家当主とはただ椅子に座る者ではない。力を持ち、血統を支え、家門を守り、大魔王ドラコー陛下への忠義を実務として体現する存在なのだ。
レベル3200。生半可な魔族であれば、対峙した時点で膝を折るだろう。戦場に出れば、一個軍団の流れすら変え得る数値。政治や礼法までこの水準でまとまっているとなると、ただ強いだけの化け物ではなく、社会的にも極めて厄介な完成型の大貴族である。
悪くない。いや、かなり良い。生まれた家の父が、わたしより明確に強いというのは大きい。赤子のわたしが異常値であっても、この家の頂点にはまだ越えるべき壁がある。守られる側に回るのは不本意だが、今の肉体ではどうにもならない。ならば、当面は父の庇護を利用する。学び、観察し、追い抜く。父は目標として十分だ。いや、十分すぎるほどだ。もっとも、いつまでも上にいてもらうつもりはない。
「あなた、この子……本当に泣かないわ」
次に聞こえたのは、柔らかな女の声だった。わたしを抱く腕が変わる。温かい。胎内で聞いていた鼓動に近い。母。
わたしはそちらを見ようとした。視界に女性の顔が近づく。まだ輪郭は曖昧だ。だが、疲労の中にある微笑みだけは分かった。出産直後の身体でありながら、その声は穏やかで、わたしを抱く手は驚くほど優しかった。
表示が浮かぶ。
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【ステータスウィンドウ】
名前:セレスティア・ルミナ・ヴァルクロア
種族:堕天使系高位魔族
身分:ヴァルクロア大侯爵夫人
年齢:36歳
レベル:540
生命力:4880
魔力量:8200
筋力:320
耐久:410
敏捷:375
知力:860
精神:925
統率:720
政治:785
礼法:950
家政:970
薬学:740
主要適性:貴族礼法/家政統括/精神防御/儀礼魔術/薬草管理
危険度評価:中
敵対意志:なし
備考:出産直後により生命力・魔力量が1時的に低下中。母性反応が極めて強い。
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セレスティア。母の名を、わたしは記憶に刻んだ。忘れてはならない。この身体を産んだ者。わたしを胎内で守った者。黒瀬真璃亜としてのわたしが失ったものを、この世界で最初に与えた者。
「セレスティア、無理をするな。まだ身体を休めるべきだ」
父の声には、はっきりと気遣いがあった。母は小さく笑う。
「ええ。分かっています。でも、この子を見せてください」
「もう抱いているだろう」
「もっと、ちゃんと見たいのです」
父がわずかに息を吐く。呆れではない。安堵に近い。
「まったく。出産直後だというのに」
「母ですもの」
母はそう言って、わたしの頬に触れた。指先は少し冷えていた。だが、その触れ方には恐れがない。
「リゼル」
名前を呼ばれた。わたしの名。
「あなたの名前よ。リゼル・ノクス・ヴァルクロア」
分かっている。そう言いたかった。だが、わたしの口は言葉を作れない。喉も舌も未熟で、声帯は泣くためにしか機能しない。歯もない。そもそも首すらまともに支えられない。
不便だ。圧倒的に不便だ。わたしは内心でそう結論づける。だが、不便だからといって絶望するほど愚かではない。この身体は成長する。今は未熟でも、時間と訓練で改善できる。問題は、どの程度の速度で成長し、どの段階で魔力運用が可能になるかだ。
そこで、わたしは自分自身に意識を向けた。表示が開く。
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【ステータスウィンドウ】
名前:リゼル・ノクス・ヴァルクロア
種族:堕天使系高位魔族
身分:ヴァルクロア大侯爵家次女
年齢:0歳
レベル:1000
生命力:1200
魔力量:18000
筋力:20
耐久:30
敏捷:15
知力:測定不能
精神:測定不能
統率:未発現
政治:未発現
礼法:未発現
魔術理論:封印中
魔力制御:未発達
固有スキル:ステータスウィンドウ
契約状態:悪神ルキフグスとの魂契約あり
主要適性:闇/魅了/支配/政治/呪詛/高位魔術
危険度評価:測定不能
敵対意志:なし
備考:年齢補正により大半の能力が封印・低下中。前世由来の知識領域あり。
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1000。わたしの思考が一瞬止まった。もう一度、数値を見る。変わらない。1000。
前世の『パンデモニウム・オンライン』において、サービス終了直前のリゼルのレベルはカンストの
10000だった。10年。10年だ。黒瀬真璃亜が、灰色の現実から逃げ込むように積み上げた10年。仕事で削られた時間の隙間に、睡眠を犠牲にし、食費を削り、情報を集め、イベントを走り、装備を整え、魔族側の貴族ルートを極め、ようやく到達した10000。
それが、1000。10分の1。わたしの魂が、ほんの一瞬だけ軋んだ。まさか、失われたのか。あの10年の結晶が。前世で唯一、わたしが自分の意思で積み上げたものが。怒りとも焦りともつかない熱が、赤子の身体の奥で跳ねる。しかし、その熱は長くは続かなかった。わたしはすぐに思考を切り替える。
落ち着け。わたしは今、0歳だ。肉体は赤子。魔力回路も未成熟。技能はあっても出力できない可能性が高い。これは喪失ではなく、補正かもしれない。年齢、肉体、環境、あるいは転生時の制限。ゲームのキャラクターを現実の肉体に落とし込む以上、全盛期の能力をそのまま赤子に積む方が不自然だ。むしろ、0歳でレベル1000という数値そのものが異常だ。
だが、父は3200。今のわたしより、明確に上だ。しかも、少し上などという程度ではない。現時点のわたしでは、正面からどうこうできる相手ではない。赤子の肉体を差し引いても、現実の魔界における経験、政治、魔術運用、戦闘技術、家門の権限。そのすべてを含めれば、今のわたしと父の差は単純なレベル差以上に大きい。
それは不快ではなかった。むしろ、奇妙な安心すらあった。赤子のわたしがこの世界に放り出され、周囲すべてを見下ろすような数値だったなら、それはそれで不安定すぎる。今のわたしには、守るべき身体も、鍛えるべき時間も、学ぶべき環境も必要だ。
そして、その環境を支える父が強いのは都合が良い。年齢補正が緩み、魔力回路が開き、知識と鍛錬が身体に追いつけば、いずれ父を超える可能性はある。いや、超えなければならない。大魔王ドラコー陛下の御為に高みへ至るなら、大侯爵家当主の壁で満足するわけにはいかない。だが、今はまだ父が上だ。ならば、学ばせてもらう。利用させてもらう。そして、いずれ追い抜く。前世の10年を無駄にはしない。
「この子、こちらを見ているのか?」
父が言った。
「ええ。目はまだ見えていないはずなのに……不思議ですわね」
母がわたしの顔を覗き込む。周囲の侍女たちも、わたしを見て囁き合っている。
「泣かないどころか、まるで考えているような……」
「大侯爵家の御子ですもの。きっと利発であらせられるのでしょう」
「でも、あまりに静かで……」
侍女の一人が心配そうに言った。わたしはその侍女を見た。
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【ステータスウィンドウ】
名前:イレナ・モル・サーリス
種族:小悪魔系魔族
身分:ヴァルクロア家産室付き侍女
年齢:28歳
レベル:120
生命力:1380
魔力量:920
筋力:105
耐久:120
敏捷:180
知力:240
精神:310
礼法:450
家政:580
医療補助:420
主要適性:侍女業務/乳幼児世話/医療補助
危険度評価:低
敵対意志:なし
備考:新生児の異常な静けさに不安を抱いている。
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なるほど。名前、種族、身分、年齢、レベル、能力、感情の傾向まで見える。便利だ。便利すぎる。使い方を誤れば、周囲から不自然に思われるだろう。今は視線を動かすだけでも制限されるが、成長すればより自在に扱えるはずだ。今は、まだ表示が多すぎる。意識に流れ込む情報量が重い。赤子の脳には負担が大きい。だが、慣れるしかない。
母の腕がわずかに強くなる。
「リゼル。泣いてもいいのよ」
泣く必要はない。わたしはそう思う。だが、その声の優しさに、ほんの少しだけ戸惑った。
泣いてもいい。そんな言葉を、黒瀬真璃亜はいつから聞いていなかっただろうか。泣くな。甘えるな。大人だろう。社会人だろう。皆やっている。それくらい普通だ。前世では、そういう言葉ばかりが積み重なっていた。
だが今、母はわたしに泣いてもいいと言った。不思議なものだ。わたしは泣く気などなかったのに、その一言でかえって喉の奥が少し熱くなる気がした。もちろん、泣かない。わたしは観察を続ける。
産室には、産婆役のインプ族の老侍女、リザードマン族の若い侍女、ゴブリン族の薬師、オーガ族の女騎士らしき護衛役がいる。父は母の側から離れず、しかし周囲への注意も怠っていない。母は疲労しているが、意識ははっきりしている。部屋の香は鎮静と浄化を兼ねているらしい。魔術的な結界も張られている。外敵対策、病魔対策、魔力暴走対策。大貴族の出産としては、かなり厳重だ。
情報は多い。この世界はゲームと同じではない。だが、ゲームの知識は使える。家名、種族、魔術体系、階級、貴族社会、大魔王ドラコー陛下、ヴァルクロア家。断片が現実と重なっていく。
その時、扉の外が慌ただしくなった。軽い足音。子供のものだ。だが、ただの子供ではない。足音に迷いがない。産室に近づく緊張はあるが、怯えはない。
制止しようとする侍女の声が聞こえたが、その足音は止まらなかった。
「エルミナ様、どうかお待ちを――」
「お母様に会うだけよ。邪魔はしないわ」
少女の声。澄んでいる。よく教育された、貴族令嬢の声。扉の外で足音が止まる。すぐには入ってこない。おそらく、礼法を思い出したのだろう。
父が扉の方を見た。
「エルミナか」
母の表情が柔らかくなる。
「入れてあげてください。きっと待ちきれなかったのです」
父が頷く。
「入れ」
扉が開いた。少女が入ってきた。光の加減で、最初は輪郭だけが見えた。整った衣装。よく手入れされた髪。小さな足。抑えきれない期待。産室に入る緊張と、妹に会える喜びが混じった気配。
彼女は一歩踏み出し、父の視線を受けてすぐに姿勢を正した。
「お父様。お母様」
声は少し弾んでいた。それでも礼を欠かない。
父が苦笑する。
「エルミナ、走ってはいけない」
「申し訳ございません。けれど、どうしても早く……」
母が笑った。
「いいのよ、エルミナ。こちらへいらっしゃい」
少女が近づく。表示が浮かんだ。
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【ステータスウィンドウ】
名前:§4◆§0■7◇1
種族:0△1▓▓4◇§
身分:2■0◇4▽§1◆0
年齢:§
レベル:▓§8△4◇1
生命力:▓94◇1§0
魔力量:§1◆820▽
筋力:◇75■
耐久:0▽8◆
敏捷:§9◇5
知力:▓2■90
精神:3◆40▽
統率:§1◇60
政治:▽1■90
礼法:◆320§
観察:0▓350
魔術基礎:210◇
主要適性:§◆▓■※
危険度評価:◇▽
敵対意志:△0
備考:ERR0R#F@ULT//DATA_NULL§92%CORRUPT##X1$
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全部、歪んでいる。
わたしは目を疑った。もう一度、意識を集中させる。だが、結果は変わらなかった。名前も、種族も、身分も、年齢も、レベルも、能力値のすべても、記号と半端な数字の羅列に置き換わっている。備考欄だけは違う崩れ方をしていた。英字と数字と記号だけが無秩序に混ざり合い、意味を結ぶ手前で崩壊している。
父のステータスは完璧に読めた。母のステータスも、ゼノヴィアやミラベルのステータスも、侍女のステータスさえ、正確に読めた。なのに、この少女だけ、何一つ読めない。
これは不具合ではない。わたしは確信した。他の全員が正常に表示される中で、この少女だけがこうなるのなら、それは偶然でも、システムの欠陥でもない。何かが、この少女を隠している。あるいは――この少女自身が、何かを隠している。
年齢は読み取れない。レベルも読み取れない。先ほど父母の会話で聞いた「7歳」という数字だけが、わたしの手元に残る唯一の情報だった。目の前の父や母と比べれば、7歳の子供の戦闘能力など知れている。頭ではそう分かっている。だが、それ以外の一切が、わたしには分からない。知力も、精神も、適性も、危険度も、敵意の有無すらも。
これは、初めてのことだった。これまで見てきた誰のステータスも、ここまで欠落してはいなかった。父も、母も、侍女の一人に至るまで、細部まで正確に読み取れた。この少女だけが、一文字たりとも渡さない。
判断材料がない。それこそが、判断すべき材料だった。そう気づいた瞬間、わたしの内側で何かが反転した。
気持ち悪い。理由のない嫌悪が、赤子の身体を貫いた。違う。理由がないのではない。わたしの理性が理由を見つけられないだけだ。
エルミナは笑っている。妹の誕生を喜ぶ姉として、何一つおかしくない顔をしている。悪意はない。敵意もない。殺意もない。少なくとも、表情の上では。だが、ステータスは何も語らない。だから、魂が代わりに警戒している。見るな。近づけるな。油断するな。目を離すな。声にならない警報が、意識の奥で鳴り響く。なんだ。この少女はなんだ。
エルミナは母の寝台に近づき、わたしを覗き込んだ。
「この子が……私の妹?」
母は頷く。
「ええ。あなたの妹よ。リゼル」
「リゼルちゃん……」
エルミナは、わたしの名を口にした。その響きは甘かった。花蜜のように甘く、絹のように柔らかく、子供の無邪気さに包まれている。なのに、わたしは寒気を覚えた。
彼女は微笑む。
「リゼルちゃん。私はエルミナ。あなたのお姉ちゃんよ」
その瞬間、わたしの身体が勝手に泣いた。意識は泣いていない。泣く必要はない。わたしは状況を分析しようとしている。目の前の少女のステータスを読み、ゲーム知識と照合し、危険性を測ろうとしている。脅威の根拠を探している。泣くなど、処理としては無意味だ。だが、身体が言うことを聞かなかった。肺が震える。喉が開く。空気が押し出される。
赤子の泣き声が、産室に響いた。
「まあ」
母が驚いたようにわたしを見る。父は、少しだけ安堵した。
「ようやく泣いたか」
違う。これは健康確認の泣き声ではない。これは警報だ。この身体が、理性より先に危険を叫んでいる。
エルミナは足を止めた。ほんの一瞬、彼女の顔に影が差した。妹が自分を見て泣いた。その事実は、7歳の少女の胸に小さな針として刺さった。だが、彼女はすぐに微笑んだ。自分を整えた。優しい姉として、泣く赤子を驚かせないように、少し距離を取った。
「驚かせてしまったのかしら」
声は穏やかだった。母が首を振る。
「生まれたばかりだもの。色々なものに驚いているのよ」
「そう……」
エルミナは、わたしを見た。じっと。とても優しい目で。それが、かえって気持ち悪い。
ミラベルとゼノヴィアも産室の入口近くに控えていた。ミラベルは静かに状況を見ている。ゼノヴィアはエルミナが泣かせたと思われることが気に入らないのか、わずかに眉を寄せていた。
わたしの視界が、二人を捉える。
⸻
【ステータスウィンドウ】
名前:ゼノヴィア
種族:黒斑獣人族ザグレム種
身分:エルミナ付き侍女補佐/元奴隷
年齢:10歳
レベル:140
生命力:1650
魔力量:360
筋力:210
耐久:190
敏捷:320
知力:145
精神:480
忠誠:測定不能
礼法:80
索敵:320
近接戦闘:290
主要適性:護衛/索敵/近接格闘/追跡
危険度評価:中
敵対意志:なし
備考:エルミナへの忠誠が極端に高い。エルミナを害する存在への反応速度が異常。
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【ステータスウィンドウ】
名前:ミラベル
種族:アルラウネ族〈花人族〉
身分:エルミナ付き侍女見習い
年齢:9歳
レベル:90
生命力:920
魔力量:1380
筋力:50
耐久:85
敏捷:70
知力:260
精神:370
礼法:280
薬学:340
毒物知識:390
香術:420
主要適性:香術/薬学/毒物管理/精神鎮静/侍女業務
危険度評価:低
敵対意志:なし
備考:希少種。エルミナへの忠誠は静かだが深い。
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なるほど。ゼノヴィアは肉体型。年齢10歳でレベル140は高い。元奴隷という身分が備考に出ている。忠誠が測定不能。これは異常値か。エルミナに対する執着に近い忠誠だろう。
ミラベルはアルラウネ族、花人系の希少種だ。9歳で毒物知識と香術がかなり高い。戦闘能力は低いが、補助と毒の方向で伸びる型か。この二人は、エルミナの近くにいる。警戒対象はエルミナだけではない。周囲の配置も記録する。
「エルミナ様のせいじゃない」
ゼノヴィアが低く言った。父がちらりと彼女を見る。ミラベルがすぐに一礼した。
「申し訳ございません、大侯爵閣下。ゼノはエルミナ様を案じるあまり」
「よい。今日のエルミナは、妹に会うのを楽しみにしていたのだろう」
エルミナは父を見上げた。
「はい。私、本当に楽しみにしていました。弟でも妹でも、きっと大切にしようと」
母が微笑む。
「優しい子ね、エルミナ」
エルミナは母の側に膝をついた。
「お母様、お身体は苦しくありませんか」
「ええ。大丈夫よ」
「本当に?」
「本当です。あなたも心配してくれてありがとう」
エルミナは少し安心したように息を吐いた。父が言う。
「今日はお前の誕生日でもある。屋敷中が慌ただしくなってしまったが、忘れているわけではない」
「分かっています、お父様」
エルミナは完璧に微笑んだ。その微笑みに、先ほど窓辺で見せた寂しさはない。
「私は嬉しいのです。私の誕生日に妹が生まれるなんて、こんな素敵な贈り物はありませんもの」
産室の空気が柔らかくなる。侍女たちは感動したように目を伏せ、母は幸せそうに微笑み、父も満足げに頷いた。美しい場面だった。7歳の姉が、自分の誕生日を奪われたなどとは言わず、妹の誕生を最高の贈り物だと言う。大侯爵家の長女としても、姉としても、申し分ない言葉だった。
だが、わたしは泣き続けていた。
エルミナ・ノクス・ヴァルクロア。7歳。それ以外は、何一つ読めない。この少女は、7歳という年齢だけで見れば、何もおかしくない。父よりも母よりも遥かに未熟な子供のはずだ。ゼノヴィアより戦闘能力は低いだろう。ミラベルより毒や香の技能も低いだろう。そう考えるのが自然だ。だが、それすらも推測でしかない。数値の裏付けが、何一つない。
なのに、わたしはこの少女が気持ち悪い。なぜだ。ステータスウィンドウが見落としているのか。それとも、今はまだ数値化できない何かがあるのか。
エルミナはわたしへ手を伸ばしかけ、途中で止めた。
「触れてもいいですか?」
母は一瞬、父を見た。父は頷く。
「優しくな」
「はい」
エルミナの手が近づく。小さな、よく手入れされた手。7歳の少女の手。それがわたしの頬に触れようとした瞬間、泣き声がさらに強くなった。身体が拒絶している。
エルミナの手が止まった。指先が空中でわずかに震える。その震えを、誰も深くは見なかった。赤子に泣かれて戸惑った姉。それだけの光景に見えたからだ。
エルミナは手を引いた。
「ごめんなさい、リゼルちゃん。怖かったのね」
違う。怖いのではない。警戒している。だが、言えない。赤子の喉から出るのは泣き声だけだ。
母がわたしを軽く揺らす。
「大丈夫よ、リゼル。あなたのお姉様よ」
その言葉が、奇妙に重く響いた。
エルミナは母の腕の中にいるわたしを見つめ続けている。そして、今度は先ほどよりも静かな声で言った。
「怖がらせないようにするわ。だから、少しずつでいいから、私を覚えてね」
部屋の者たちは、その言葉を微笑ましく聞いた。姉が妹に優しく語りかけている。ただそれだけの場面だった。
しかし、ミラベルだけは、わずかに目を細めた。彼女は何かを見たわけではない。明確な異常を感じたわけでもない。ただ、エルミナの声があまりに静かだったことに気づいた。喜びの声にしては、ほんの少しだけ深かった。7歳の子供が、生まれたばかりの妹に向けるには、ほんの少しだけ、重かった。
だが、ミラベルは何も言わない。ゼノヴィアも気づかない。彼女はむしろ、エルミナが泣く赤子に拒まれたことに腹を立てていた。
「エルミナ様が怖いわけないだろ」
ゼノヴィアが小さく呟く。聞こえたのはミラベルだけだった。
「ゼノ」
「分かってる。黙る」
エルミナは振り返らなかった。彼女はまだ、わたしを見ていた。
父が場を和らげるように言う。
「リゼルは生まれたばかりだ。エルミナ、これから少しずつ慣れていけばよい」
「はい、お父様」
「お前は良い姉になるだろう」
エルミナの顔が明るくなる。
「本当ですか?」
「ああ」
「私、頑張ります。リゼルちゃんに色々なことを教えます。礼法も、お茶の飲み方も、庭園の花の名前も、お父様のお仕事も」
母が笑う。
「最後のものは、もう少し後でいいわね」
「そうでしょうか」
「赤ちゃんですもの」
エルミナは少し考え、それから真剣に頷いた。
「では、まずは私の顔を覚えてもらいます」
父が低く笑った。
「それは大事だな」
「毎日会いに来てもいいですか?」
母は即答しなかった。産後の疲れもある。赤子の体調もある。大侯爵家の規律もある。だが、エルミナの顔があまりに期待に満ちていたため、母は柔らかく答えた。
「リゼルが疲れていない時ならね」
「約束ですか?」
「ええ。約束です」
エルミナは嬉しそうに微笑んだ。
「リゼルちゃん。聞こえた? 私は毎日会いに来るわ」
聞こえている。聞こえてしまっている。わたしは泣きながら、内心で冷や汗に似たものを感じていた。毎日。この得体の知れない少女が。冗談ではない。だが、拒否する手段がない。赤子には発言権がない。泣くことはできるが、それだけだ。泣き続ければ体調不良として距離を置かれる可能性はあるが、根本的な解決にはならない。むしろ、姉の庇護欲を刺激する恐れもある。厄介だ。非常に厄介だ。
わたしは、初日にして理解した。この世界には、大魔王ドラコー陛下がいる。魔界貴族社会がある。人間界がある。ゲーム知識で知る多くの登場人物がいる。警戒すべき相手はいくらでもいるはずだった。だが、最初に現れた不確定要素は、身内だった。
エルミナ・ノクス・ヴァルクロア。姉。7歳。現時点では敵意なし。だが、レベルさえ分からない。魂が拒絶。記録しておく必要がある。
母がわたしを抱き直した。
「リゼル、泣かないで。エルミナが悲しんでしまうわ」
泣かせているのはエルミナだ。そう言いたい。言えない。不便だ。赤子とは、なんと戦略的に不利な存在なのだろう。
エルミナが少し身を引いた。
「私、少し離れています。リゼルちゃんが落ち着くかもしれないから」
「よい判断だ」
父が頷く。エルミナは嬉しそうにした。褒められたからだ。だが、その嬉しさの奥に、ほんの少しだけ別のものが沈んだ。妹に近づいたら泣かれた。離れたら褒められた。なら、自分は離れているべきなのか。生まれたばかりの妹のために。自分が楽しみにしていた妹のために。
その小さな理解は、まだ闇ではなかった。ただの遠慮であり、優しさであり、姉としての最初の学習だった。だが、種はそこに落ちた。誰も気づかなかった。エルミナ自身でさえ、それを寂しさと呼ぶことはなかった。
少しずつ、わたしの泣き声が収まっていく。母の腕の温もりと、規則的に揺らされる感覚に、赤子の身体が根負けしたのだろう。産室の空気も、それにつれて落ち着きを取り戻していった。
母がひと息ついたのを見計らって、父が言った。
「エルミナ、こちらへ。母に祝いの言葉を」
「はい」
エルミナは母の側に寄り、丁寧に頭を下げた。
「お母様、ご出産おめでとうございます。そして、ありがとうございます。私に妹をくださって」
母の目が潤んだ。
「エルミナ……」
「私、リゼルちゃんを大切にします。お母様とお父様が大切に思う子なら、私にとっても大切です」
その言葉は完璧だった。あまりに完璧だった。7歳の子供としては、出来すぎているほどに。
父は誇らしげに頷いた。
「エルミナ、お前は本当に良い子だ」
エルミナは微笑む。
「ありがとうございます、お父様」
ゼノヴィアは、入口近くで少しだけ胸を張った。自分の主人が褒められたことが嬉しいのだろう。ミラベルも静かに目を伏せた。
母はエルミナに手を伸ばす。エルミナはその手を取った。母の腕には、わたし。母の手を握る、エルミナ。その横に父。扉の近くにミラベルとゼノヴィア。角のある者も、鱗を持つ者も、獣耳を持つ者も入り混じった、産室にいた様々な種族の侍女たちが、温かな沈黙でその光景を見守っている。
家族団欒。まさにそう呼ぶに相応しい場面だった。リゼル・ノクス・ヴァルクロアの誕生。エルミナ・ノクス・ヴァルクロアの7歳の誕生日。二つの祝福が重なった、幸福な日。誰もがそう思った。
わたしだけが、泣きながらエルミナを見ていた。エルミナもまた、微笑みながらわたしを見ていた。その瞳は優しい。優しく、嬉しそうで、愛に満ちているように見えた。だが、その奥にあるものは、まだ誰にも見えない。
それは憎しみではない。嫉妬と呼ぶにも早い。独占欲と呼ぶには、あまりに幼い。ただ、エルミナの中で一つの事実が静かに結びついた。誕生日。妹。自分より優先された存在。けれど、自分に与えられた、最高の贈り物。泣かれた。離れたら褒められた。それでも、可愛い。もっと近づきたい。もっと見ていたい。もっと自分を覚えてほしい。
その感情のすべてが、まだ透明な器の中で混ざり合っていた。濁ってはいない。腐ってもいない。けれど、混ざったものは、もう元には戻らない。
「リゼルちゃん」
エルミナが、もう一度名前を呼んだ。母の腕の中で泣くわたしに向けて、彼女は祈るように言った。
「私の、大切な妹」
わたしは泣き続けた。泣きながら、記録した。エルミナ・ノクス・ヴァルクロア。7歳。それ以外、判読不能。要警戒。根拠、不明。危険性、不明。今後、継続観察。
そして、まだ言葉を持たない赤子の身体で、わたしはこの世界で最初の結論を出した。
この姉から目を離してはならない。
産室の外では、遠雷が鳴っていた。窓の向こうの空に、稲光が走る。それが何の予兆なのか、この時はまだ誰にも分からなかった。だが、この時点でそれに気づく者はいない。父も、母も、ミラベルも、ゼノヴィアも、エルミナ自身も、そして、わたしでさえも。
ただ一つだけ確かなことがあった。この日、リゼル・ノクス・ヴァルクロアは生まれた。この日、エルミナ・ノクス・ヴァルクロアは7歳の誕生日を迎え、そして姉になった。
幸福な家族の祝福の中で、二人の少女は、初めて出会った。




