Ver.0 TUTORIAL 3.1 大侯爵家の令嬢はメイドを選ばない
いつも『パンデモニウ・リベリオン』をお読みいただき、ありがとうございます。
生まれたばかりの赤子に、自分の世話役を選ぶ権利などありません。
ましてや、言葉を話すことさえできないのなら尚更です。
それでも、どうしても選ばなければならない相手がいるとしたら――。
今回は、そんな小さな反抗から始まるお話です。
ヴァルクロア家に生まれ落ちた赤子は、ただの赤子ではなかった。
泣くべき時に泣かず、笑うべき時にも笑わない。ただ深紅の瞳で、周囲をじっと観察している。母の腕の温もりも、父の低い声も、侍女たちの慌ただしい足音も、すべてを理解しているかのように——リゼル・ノクス・ヴァルクロアは、静かに世界を見ていた。
産着の白は上質な絹で、光の加減によっては淡い銀にも見える。窓から差し込む午後の光が、天蓋付きの寝台の縁を斜めに切り、埃の粒子までもがゆっくりと舞う様が見えた。屋敷の奥深く、この部屋だけは常に静かだ。壁の向こうでは領地経営という名の戦争が絶え間なく続いているというのに、ここには時間そのものが薄まって漂っているようだった。天蓋の垂れ布は薄紅の絹で、風もないのに時折ふわりと揺れる。
それはこの部屋にだけ張られた微弱な結界の魔力が、空気そのものをわずかに攪拌しているせいだと、リゼルはまだ動かぬ視線の端で気づいていた。
壁紙には金の唐草模様が織り込まれ、蝋燭の灯りが差すたびに、模様の縁がぼんやりと光を返す。何もかもが贅を尽くしているのに、その贅沢さが少しも息苦しくないのは、母の抱き方があまりに自然で、あまりに無防備だったからかもしれない。
もっとも、周囲の者たちはそこまで気づかない。赤子が少し大人しいくらい、貴族の屋敷では不吉とも吉兆とも好きに解釈できる。
大侯爵家の次女ともなれば、乳母も侍女も魔術師も治癒師も、いくらでも理由をつけて納得するものだ。ここは魔界。人間の常識で子育てを語る土地ではない。魔力を帯びて生まれる子は、時に大人よりも早く「気配」を読む。乳母たちはそう言い伝え合い、深紅の瞳が異様に澄んでいることにも、いずれ慣れていくのだろうと高を括っていた。廊下ですれ違う侍女たちは、時折立ち止まってはリゼルの寝顔を覗き込み、「大侯爵家の御子は、やはりどこか違う」などと囁き合っては、また足早に持ち場へ戻っていく。
誰も、その「違い」の正体までは踏み込もうとしなかった。
だが、リゼル本人だけは違った。
(まずい。非常にまずい)
母セレスティアの腕の中で、リゼルはふわふわの産着に包まれたまま、深刻に考え込んでいた。身体は生まれたばかり。
指も満足に動かせず、声帯も未熟。喋ろうとしても、出るのは意味のない赤子の声だけだ。視界すらまだ完全ではなく、遠くの輪郭はぼやけ、色だけが強く滲んで見える。焦点を合わせようとするたびに、世界がゆっくりと引き伸ばされたり縮んだりする感覚があり、それだけで軽い疲労を覚えるほどだった。それでも、思考だけは前世のまま、いや、前世以上に冴え渡っていた。むしろ、余計な情報が視覚から流れ込んでこない分、思考に割ける余力はむしろ増しているとさえ言えた。
だが、頭の中には前世の記憶がある。ブラック企業で削られ、ゲームの中でだけ勝利を得ていた記憶。
終電を逃した夜、コンビニの弁当を掻き込みながら攻略掲示板を読み漁った日々。安いイヤホンから流れる効果音だけが、あの頃の自分を支えてくれていた気がする。
そして何より、パンデモニウム・オンラインで築き上げた戦術と育成理論が、鮮明に残っていた。数字も、条件式も、育成ルートの分岐すらも、昨日プレイしていたかのように思い出せる。
まぶたの裏には、今でも当時のステータス画面が焼き付いていて、目を閉じれば数字の羅列がそのまま浮かび上がってくるような錯覚すら覚える。
あるメイドユニットが、特定の過酷な条件を満たした時、近接戦闘、中距離戦闘、魔法支援、精神干渉耐性、さらには夢世界への干渉能力に至るまで、最強クラスの従者へと成長する——リゼルはそれを知っている。育成掲示板の隅で、誰も本気にしなかった検証データ。当時のリゼル、いや黒瀬真璃亜は、それを信じて何百時間も費やした。周囲のプレイヤーからは「時間の無駄」「その枠に別の駒を入れた方が早い」と散々に笑われた。
ただし、その道はひどく険しい。
(本当にゴミ。初期ステータスだけ見たら、誰が使うんだってレベルのゴミユニット。耐久は低い、筋力も低い、魔力も微妙。精神値だけ少し高いが、序盤ではほぼ役に立たない。しかも育成条件が過酷すぎる。普通のプレイヤーなら絶対に捨てる)
だが、条件を満たせば変わる。特定の主君に仕え、幾度もの危機を越え、夜魔族としての固有能力を覚醒させ、忠誠値と精神干渉耐性を同時に限界まで上げる。そうなった時、そのユニットはただのメイドではなくなる。背中を預けられる相棒となる。攻略サイトの誰もが「産廃」と呼んで見向きもしなかったユニットが、終盤には敵プレイヤーのギルドを丸ごと崩壊させる主力になる——その過程を、リゼルは何十周ものやり込みで実証していた。育成に費やした時間は、他のどのユニットよりも長かった。だからこそ、その分だけ愛着も深かった。
前世の彼女は、まだこの世界では出会えていない7人の頼れるユニットたちと自分だけの、たった8人のチームで、他プレイヤーの軍勢を叩き潰し、ギルドを崩壊させ、要塞すら陥落させてきた。
画面の向こうでしか誇れなかった栄光だが、その強さを、彼女は骨身に染みて知っていた。現実では何一つ誇れるものがなかったからこそ、あの小さな画面の中の勝利だけが、彼女にとって唯一の証明だった。
だからこそ、父オルディアスが何気なく口にした一言は、リゼルの内側に凄まじい衝撃を与えた。
「そろそろ、この子にも直属の世話役を付けねばならんな」
(来た。来た来た来た来た来た! 直属メイド! ここで失敗したら終わる。絶対に、絶対にあいつを引き当てなければならない。貴族家の息がかかったメイドなんか付けられたら、将来の育成計画が崩壊する。いや、それ以前に、私の周囲が敵だらけになる!)
叫びたかった。自分が選ぶ、そいつではない、こいつでもない、私には必要な者がいるのだと。喉の奥から込み上げるものがあったが、出てくるのはやはり意味を持たない赤子の唸り声だけだった。もどかしさに、腹の底が熱くなる。
前世でどれだけ理不尽な会議に耐えてきたか分からないが、あの時ですら「発言権」だけはあった。今は、それすらない。声を発する器官はあるのに、意思を乗せる術がない。この無力さは、前世のどんな理不尽よりも根源的で、身体そのものを縛る鎖のようだった。
だが現実は無慈悲だった。生後間もない赤子は、喋れない。歩けない。書けない。父の袖を掴んで意志を示すことすら満足にできない。せめて視線だけでも訴えようと、リゼルは父の方へ懸命に首を巡らせた。だが、赤子の首はまだ据わりきっておらず、ぐらりと傾いだだけで、傍から見れば単に眠そうにしているようにしか映らなかっただろう。実際、セレスティアはその仕草を見て、あやすように背中を軽く叩いた。トントン、という規則的な振動が、苛立つ思考とは裏腹に妙に心地よく体に響く。
リゼルは内心で歯噛みしながらも、その振動に意識の一部を持っていかれそうになる自分に、余計に苛立ちを募らせた。
母セレスティアは、リゼルを胸に抱いたまま、静かに夫を見上げた。夕暮れ前の柔らかな光が、彼女の横顔に淡い陰影を作っていた。まつ毛の影が頬にかかり、瞳の色は普段よりも深く、静かな湖面のように見えた。
「この子は、私が育てます。リゼルは私の娘ですもの。できる限り、私の手で見てあげたいのです」
その声には、疑う余地のない母の本心があった。前世ではほとんど縁のなかった無条件の慈しみが、たしかにこの腕の中にはある——リゼルもそれを感じ取ってはいた。
柔らかな声、規則正しい鼓動、産着越しにも伝わる体温。理屈ではなく、皮膚が覚えている安心感。それは前世の記憶にはなかった種類の温もりだった。母の香りは、ほのかに焚かれた乳香と、屋敷の庭に咲く白い花に似た匂いが混ざっていて、嗅覚さえまだ曖昧なはずのリゼルの意識にすら、はっきりと刻み込まれていた。
前世では、誰かの体温をこれほど間近に感じたことなど、数えるほどしかなかった気がする。
だが、頭は冷静だった。
(母上のお気持ちはありがたい。ありがたいが、無理だ。母上は大侯爵夫人だぞ。屋敷内の管理、社交、親族対応、領内の有力者との付き合い、父上の補佐、慈善事業、儀礼行事、全部ある。父上の公務は前世基準で言えばブラック企業並みの激務。いや、魔界基準でも普通に過労死案件だ)
家格が高いということは、楽をできるという意味ではない。むしろ、管理するもの、守るもの、奪いに来る者が増えるという意味だ。この世界の誰も「ブラック企業」という言葉を知らないが、リゼルにはそれが痛いほど分かる。母の腕は柔らかいが、その責任という名の鎖にはいつも拘束されていて、夜遅くまで灯りが消えないことをリゼルはすでに知っていた。
廊下を運ばれるたびに見かける母の執務室の灯りは、いつも他のどの部屋よりも遅くまで点っている。それがどういう意味を持つか、この世界の常識をまだ知らないリゼルにも、痛いほど理解できた。
オルディアスは苦笑した。窓辺の椅子に腰かけたまま、指先で肘掛けを軽く叩く。長年、政務の場で見せてきたのと同じ、結論を先に決めてから議論を進める癖だった。彫りの深い顔立ちに、疲労の色が薄く滲んでいる。
堕天使の血を引く証である漆黒の翼は、椅子の背もたれの向こうに折りたたまれ、時折わずかに震えていた。その羽先には、長年の激務のせいか、艶を失った箇所がいくつも見えた。魔界の頂点に近い一族の当主でありながら、彼の日々は決して優雅なものではない。
「セレスティア、お前の気持ちは分かる。だが、お前一人に任せるわけにはいかん。リゼルはヴァルクロア家の次女だ。世話役は慎重に選ぶ必要がある」
「……それは、分かっています」
セレスティアは目を伏せた。分かっていて、それでも言わずにはいられなかった、という顔だった。指先が、リゼルを包む産着の縁をそっとなぞる。その仕草には、理屈で割り切れない未練が滲んでいた。
控えていたメイド長が、そこで一歩前へ出た。年齢は40代半ばほど。背筋はまっすぐで、目元には厳格さと知性が宿っている。派手さはないが、屋敷の空気を支える者特有の重みがあった。
黒を基調とした上級メイド服の裾は、彼女が動くたびに硬質な衣擦れの音を立てる。長年磨き上げてきた所作には、無駄な動きが一切なかった。
「お館様、奥様。恐れながら、わたくしめにお任せいただけますでしょうか」
「カサンドラ」
「はい。リゼルお嬢様の直属となる者は、ただ勤勉であればよいというものではございません。血筋、忠誠、沈黙、観察力、魔力耐性、そして何より、お嬢様のそばに置いても害にならぬ心根が必要でございます。わたくしめが募集、選抜、採用の試験を行います」
カサンドラは深く頭を下げた。頼もしい姿だった。屋敷の内外に目を配り、貴族家からの圧力も理解している。普通なら、任せて問題ない人物だろう。長年この屋敷を取り仕切ってきた者だけが持つ、静かな自負が言葉の端々に滲んでいた。
頭を下げたまま数秒動かないその姿には、単なる礼儀を超えた覚悟のようなものすら感じられた。
オルディアスは小さく頷いた。
「頼めるか、カサンドラ」
「もとより、そのために置いていただいている身にございます」
「……分かりました」
セレスティアは、ようやくといった様子で息を吐いた。腕の中のリゼルを見下ろし、その頬にそっと指を這わせる。指先は冷たかったが、そこに込められた感情は温かかった。窓の外では、いつの間にか陽が沈みかけ、部屋の隅々にまで橙色の光が這い始めていた。
「リゼル、いい人が見つかるといいわね」
だが、リゼルにとってはそれでも足りなかった。
(違う。能力や家柄で選ぶな。初期値で選ぶな。今は弱くてもいい。いや、弱くなければ困る。あいつでなければならない。あいつだけが、将来の私の背中を守れる)
リゼルは小さな拳を握った。もちろん赤子の握力などたかが知れている。ふにゃりと産着の布を掴んだだけだった。それでも、その内心だけは燃えていた。網膜の奥で、まだ見ぬ育成ルートの分岐図が音を立てて回転しているような感覚があった。
前世で何百時間もかけて頭に叩き込んだ数値と条件式が、今この瞬間も脳裏で明滅している。
(必ず引き寄せる。邪魔者は全部排除する。私は赤子だが、ただの赤子ではない。レベル1000超えの赤子だ。やれることはある)
その日から、ヴァルクロア家のメイド選抜——そして同時に、リゼルの静かな妨害工作が始まった。ただし、それは数日で終わるような話ではなかった。
選抜の噂は数日のうちに広まり、カサンドラの自室には山のような推薦状と身上書が積み上げられていった。上質な羊皮紙に金の封蝋、貴族家の紋章、大商家からの紹介状、地方領主の親戚筋、名門家で奉公経験のある侍女、魔術学院で基礎教育を受けた若い女官。屋敷の玄関には、連日のように使者が訪れ、これ見よがしに家紋入りの箱を届けていく。その箱を運ぶ従僕の足取りにも、送り出す家の期待の重さが表れているようだった。
カサンドラの私室は、屋敷の使用人棟にしては広く、しかし装飾は驚くほど質素だった。壁際の書棚には帳簿と規則書が隙間なく並び、机の上だけが唯一の混沌と化している。
窓の外はすでに日が傾き、橙色の光が書類の山に長い影を落としていた。壁に掛けられた古い時計の針が、単調な音を刻み続けている。この部屋にあるのは、飾り気のない椅子が2脚、机が1つ、そして仕事の痕跡だけだった。
机の上に積まれた書類の山は、すでにカサンドラの肘の高さを超えている。彼女はその一枚一枚に目を通しながら、時折、羽根ペンの先で紙面を叩いた。
蝋燭の灯りが揺れるたび、紙面の金の封蝋がちらちらと光を反射する。目の下にはうっすらと隈が浮かび、何日もこの作業に没頭していることがうかがえた。
「……この家は、先月も別のご令嬢に侍女を送り込もうとして断られていますね」
独り言のようにつぶやき、その書類を脇へ避ける。捨てるわけではない。だが、優先順位は明らかに下がった。
羊皮紙の束は、彼女の手の中でまるで意思を持つ生き物のように次々と姿を変え、「有望」の山、「保留」の山、「却下」の山へと分けられていく。それぞれの山の高さが、この半月の彼女の苦労をそのまま物語っていた。
書面だけ見れば、どれも悪くない。むしろ、ヴァルクロア家の次女に仕えるという名誉を得るため、各家がそれなりの駒を差し出してきたことが分かる。麗しい経歴、丁寧な文字、家格に見合った紹介元。表面をなぞるだけなら、どれもが理想的な候補者に見えた。だが長年この仕事に携わってきたカサンドラには、行間に潜む思惑まで見透かす癖が染みついていた。
だが、カサンドラはそれを素直な好意とは受け取らなかった。
「……どの家も、考えることは同じでございますね」
格上貴族の屋敷にメイドとして入り込む。それは若い使用人にとって学びの機会であると同時に、送り出す家にとっては情報収集の機会でもある。主人の好み、夫婦仲、子供の性質、執務室に出入りする者、使用される香、隠された病、弱み、噂、内情。耳と目の良いメイド1人で、家の中の空気は外へ漏れる。壁に耳あり、と言うが、この屋敷では耳そのものが歩いて出入りするのだ。
時には、それ以上の役目を負う者もいる。毒を盛る。鍵を開ける。手紙を盗む。眠っている主人の枕元で、細い刃を抜く。
魔界の貴族社会において、メイドとは家事をする者であると同時に、もっとも自然に寝室へ近づける者でもあるのだ。
カサンドラ自身、若い頃にそうした密命を帯びた同僚を何人も見送ってきた。中には二度と屋敷に戻らなかった者もいる。誰にも語られぬまま、名簿から静かに名前が消えていった者たちの顔を、彼女は今でもいくつか覚えていた。
カサンドラは羊皮紙の束を1枚ずつめくりながら、脳裏に浮かんだ噂話に思考を逸らした。
(そういえば、メドゥーサ族——蛇の髪と石化の瞳を持つ、魔界でも古い家系の一族だが、そのノクタール侯爵家も暗殺が続いてしまい、4女のお嬢様は結局、誰も補佐がいないままだとか……不憫な)
噂では、ノクタール家の4女は極めて優秀でありながら身辺が安定しないという。侍女を付けても消え、教育係を付けても事故が起こり、護衛を置いても死者が出る。
幼いながら、ほとんど一人で立たされているらしい。社交界の片隅で囁かれるその話は、いつも憐憫と好奇の入り混じった調子で語られる。
カサンドラ自身、社交の場で幾度かその噂話を耳にしたことがあった。誰もが同情の言葉を口にしながら、誰一人として手を差し伸べようとはしなかった。
(あの家のようにだけはしてはならない)
カサンドラは長く息を吐いた。ペン先のインクが乾き始めているのに気づき、小瓶に浸し直す。その単調な動作の合間にも、思考は止まらなかった。窓の外では、夕暮れの鳥たちが塒へ帰る声が、遠く近く響いている。
「リゼルお嬢様には、必ずや適任者をお見つけしなければいけませんね」
誰に聞かせるものでもない独白だった。しかし、次の瞬間。
「そうね。リゼルちゃんのお世話をする人は、しっかり選ばないとね」
背後から柔らかな声がした。カサンドラは反射的に振り返り、即座に膝を折った。扉が開いた気配にすら気づかなかった自分に、内心で舌打ちをする。長年の経験で培った警戒心をもってしても、この2人の気配の消し方には毎回してやられる。
「エルミナ様……! いつの間に」
そこに立っていたのは、ヴァルクロア家の長女エルミナだった。まだ7歳でありながら、年齢に似合わぬ落ち着きと、人の心を撫でるような微笑を浮かべている。淡い金の髪が、廊下から差し込む光にふんわりと透けていた。その立ち姿は、幼い体格に不釣り合いなほど堂々として見えた。
背後には鋭い目つきのゼノヴィアが控えていた。腕を組み、退屈そうに部屋を見回している。年齢は10歳。エルミナより年上でありながら彼女に従っているが、敬語は使わない。誰に対しても、ほとんど使わない。黒斑の混じった獣耳が、扉の外の物音にすら小さく反応していた。彼女の視線は、部屋の中の何気ない物の配置すらも一瞬で把握しているようだった。
「カサンドラ、そんなに驚くなよ。書類に夢中で気づかなかっただけだろ」
「ゼノ」
「分かってる。邪魔するつもりはない」
カサンドラは頭を下げたまま尋ねた。
「エルミナ様、ミラベルはご一緒ではございませんか?」
「あの子はアルラウネ族——植物と魂を分け合う種族だから、決まった時間に眠らせてあげないと可哀想だもの。今日はもう休ませているわ。無理に連れ回したら、明日の花弁の色が悪くなってしまうかもしれないでしょう?」
7歳の少女が、付き従う者の種族特性にまで気を配り、それを当然のことのように言う。屋敷の大人たちでさえ、そこまで考えない者はいる。エルミナの声には、幼さの中にも確かな慈しみが滲んでいた。その口ぶりは、まるで何年も年上の誰かが語っているかのように落ち着いていた。
「エルミナ様は、なんとお優しいのでしょうか」
「そんなことないわ。大切な子を大切にしているだけよ」
その微笑みは、幼いながらに美しかった。窓辺の光を受けて、彼女の輪郭がわずかに柔らかく滲んで見える。ゼノヴィアは机の書類を覗き込み、鼻を鳴らした。書類の山を無造作にかき分ける仕草には、貴族社会の作法などまるで頓着しない気配があった。
「で、これがリゼル様の世話役候補か。どいつもこいつも、綺麗な推薦状ばかりだな。中身がどれだけ綺麗かは知らないけど」
ゼノヴィアは書類を一枚つまみ上げ、封蝋の紋章を親指で弾いた。乾いた蝋の破片がぱらりと机に落ちる。
「見ろよ、この紋章。オルフェン伯爵家だ。あそこは去年、隣の領地に間諜を送り込んで大騒ぎになった家だろ。よくもまあ、しれっと推薦状を出してくるもんだ」
「ゼノ、詳しいのね」
「暇な時に噂を集めるのが趣味なんだよ。おかげでエルミナ様の護衛が楽になる」
「頼りにしてるわ」
「ああ、任せておけ」
軽口を叩き合う2人を横目に、カサンドラは静かに書類を整えた。散らかりかけていた「保留」の山を、もう一度端に寄せる。この2人のやり取りを見るたび、彼女はどこか安堵にも似た感情を覚える。屋敷の緊張が続く中、彼女たちの軽妙な空気だけが、いつも一服の清涼剤のようだった。
「ですが、選ばぬわけにはまいりません。奥様がすべてをなさるには限界がございます」
エルミナは机の上の書類を見つめ、静かに言った。指先が、1枚の羊皮紙の端をそっと持ち上げ、また戻す。その所作には、幼い少女らしからぬ重みがあった。
「リゼルちゃんが安心できる人がいいわ」
「はい」
「お母様の手を離れても、泣かない人」
「はい」
「そして、もしリゼルちゃんを傷つけようとする人がいたら、すぐに気づいてくれる人」
最後の一言だけ、声が少し低くなった。カサンドラが顔を上げると、幼い長女は相変わらず穏やかに微笑んでいた。だが、その瞳の奥には年齢不相応の冷静さがあった。窓の外で鳥が一羽、鋭く鳴いて飛び去った。その一瞬の静寂の中で、部屋の空気だけがわずかに張り詰めたような気がした。
ゼノヴィアが横から付け加える。
「ついでに言えば、多少のことじゃ動じない図太さも要るな」
「ゼノ、それはどういう意味かしら」
「勘だよ、勘。獣人の勘は馬鹿にできないぜ」
エルミナは小さく笑い、それ以上は追及しなかった。だが、その笑みの奥に何かを察したような色が一瞬よぎったのを、カサンドラは見逃さなかった。
「必ず、見つけてみせます」
カサンドラは深く頭を下げた。この時、彼女はまだ知らない。この選抜が、これから半月あまりをかけて、屋敷始まって以来の混乱を招くことを。
選抜が始まって3日目。最初の面接がセレスティアの私室で行われた。
部屋には陽光が差し込み、机の上には書類とペン、そして候補者を落ち着かせるためだけに用意された茶器が並んでいた。磨き上げられた銀盆に、湯気の立つ茶器の音が微かに響く。
セレスティアはリゼルを膝に乗せ、カサンドラは扉のそばに控えている。空気には、この屋敷特有の緊張と静けさが同居していた。壁際に控える侍女たちの視線も、どこか固い。誰もがこの選抜の重要性を理解しているからこそ、いつも以上に室内の空気は張り詰めていた。
1人目の候補は、伯爵家から推薦された若いメイドだった。オーク族の血を引く、年齢は17歳ほど。身なりは整い、礼儀作法も悪くない。扉が開き、彼女が一礼して部屋に入ってくる。歩く速度、視線の運び方、どれもが練り上げられたものだった。足音一つ立てずに絨毯の上を進む所作には、幼い頃からの厳しい訓練の跡がうかがえた。
「はじめまして。ミレイユと申します。本日は、このような機会をいただき、光栄でございます」
声は落ち着き、動作も洗練されている。膝を折る角度、視線の落とし方、どれも訓練された美しさがあった。
「赤子の扱いには慣れておりますか」
カサンドラの問いに、ミレイユは柔らかく微笑んだ。
「はい。伯爵家では、末の坊ちゃまのお世話を1年ほど務めさせていただきました。夜泣きの対応にも、湯あみのお世話にも慣れております」
笑顔も柔らかい。カサンドラの目にも、表面上は合格点だった。話し方の抑揚も自然で、緊張の色すらほとんど見えない。セレスティアも、その受け答えのそつなさに小さく頷いていた。
だが、リゼルは母の腕の中で一目見て結論を出した。
(却下。目が駄目だ。口元は笑っているが、瞳が部屋を数えている。窓の位置、扉の距離、護衛の立ち位置、母の癖、父の視線。明らかに情報収集の訓練を受けている——私の世話役ではなく、家の内情を盗むための耳だな)
わずか数秒の視線の動きだけで、ミレイユの本質を見抜いていた。前世で何百人もの詐欺プレイヤーやチート業者を相手にしてきた観察眼は、種族や身体年齢を超えて健在だった。むしろ、言葉を持たない今だからこそ、視線と挙動だけに集中できる分、判断は前世よりも早く鋭くなっているとさえ感じる。
こっそり魔力を動かす。生後間もない身体には負担が大きいが、レベル1000を超える彼女にとっては十分可能だった。産着の下で、体の奥がわずかに熱を持つ感覚があった。それは前世で言うところの、久しく忘れていた「戦闘準備」の感覚に似ていた。
(隠匿スキル起動。微弱魔力偽装。運勢干渉、対象限定。転倒確率上昇)
候補が一歩踏み出した瞬間、何もない床で足を滑らせた。
「きゃっ――!」
銀盆が宙を舞い、茶器が砕ける。熱い茶が本人の袖にかかり、悲鳴とともに床に転がった。破片が飛び散り、セレスティアが咄嗟にリゼルを庇うように抱き直す。陶器の割れる甲高い音が、静かだった部屋に不釣り合いなほど大きく響いた。壁際の侍女たちも、思わず息を呑んで固まっている。
「も、申し訳ございません……! わたくし、こんな失態は……!」
ミレイユは真っ青な顔で床に手をつき、震える声で言い訳を続けた。だが、その目には先ほどまでの落ち着きはなく、ただ動揺だけがあった。指先が細かく震え、割れた茶器の破片を拾おうとして、逆に手のひらを浅く切る。滲んだ血の色に、彼女はますます青ざめた。先ほどまでの完璧な所作は見る影もなく、今はただ怯えた小動物のような姿だけがそこにあった。
カサンドラは短く息を吐き、静かに告げた。
「……下がりなさい」
「も、申し訳ございません! 今のは、床が……!」
「下がりなさい」
有無を言わさぬ声だった。ミレイユは肩を震わせながら一礼し、逃げるように退室していった。扉が閉まる音が、いやに大きく響いた。廊下に消えていく足音は、入ってきた時とはまるで別人のように乱れていた。
部屋に静けさが戻ると、カサンドラは床に散らばった茶器の破片を見下ろし、小さくため息をついた。侍女を呼び、破片を片付けさせる。乾いた布が床を拭う音だけが、しばらく部屋を満たしていた。窓の外では、何も知らぬ様子で庭木の葉が風に揺れている。
「……不注意な娘でしたね」
その呟きに他意はなかった。だが、腕の中のリゼルだけは、内心で満足げに頷いていた。
(まず1人)
それから4日ほど、面接は落ち着いた。カサンドラが書類を選び直し、身元の裏取りを進める合間には、屋敷にも普段の空気が戻った。庭師が刈り込みを終えた生垣の緑が、窓の外を淡く彩っていた。使用人たちの日課も普段通りに戻り、洗濯物を干す声や、厨房から漂う香辛料の匂いが、屋敷全体を包んでいた。
1週間が過ぎた頃、2人目の候補がやってきた。ハーピー族の血を引く21歳の女官で、魔術学院出身。魔力感知に優れ、赤子の体調管理に役立つと推薦状にあった。翼を丁寧に折りたたみ、所作の1つ1つに学院仕込みの型がある。
羽根の色は艶やかな灰褐色で、動くたびに微かな風切り音を立てた。歩みには、魔術師特有の一定のリズムがあり、無駄のなさがかえって不自然にすら思えるほどだった。
「シアラと申します。魔術学院にて、生命魔法と感知魔法を専攻いたしました。お嬢様の魔力の乱れがあれば、すぐに察知できるかと存じます」
セレスティアは興味深そうに頷いた。
「頼もしいこと。リゼル、この方は貴女の魔術の先生にもなってくれるそうよ」
シアラはリゼルの前にしゃがみ込み、丁寧に一礼してから顔を覗き込もうとした。距離が近づくにつれ、彼女の纏う魔力の質感が肌に伝わってくる。
学院仕込みの整った波形の中に、規則正しいはずの波形の底に、異物のような微かな歪みが混じっていた。それは意図的に仕込まれたものというより、まるで寄生虫のように、本人の魔力そのものに根を張っているようだった。
(この揺れ方……誰かに術式を仕込まれているな。本人は気づいていないっぽいが、一定条件で外部へ情報を送る仕組みだ。厄介な忍ばせ方をする。却下だ。恐怖付与、対象の深層不安を増幅。ついでに幻視を少々)
女官はリゼルの顔を覗き込んだ瞬間、硬直した。赤子の瞳の奥に何を見たのかは分からない。その顔から、みるみる血の気が引いていく。瞳孔が開き、呼吸が浅く速くなっていった。
彼女の中に仕込まれていた歪んだ魔力が、まるで呼応するように震え出すのが、リゼルにははっきりと感じ取れた。
「あ……あ……」
次の瞬間、床に崩れ落ちた。
「ゆ、許してください……私は何も……何も知りません……!」
両手で頭を抱え、うわ言のように繰り返す。セレスティアが驚いて腰を浮かせるほどの豹変ぶりだった。翼が痙攣するように震え、羽根が数枚、はらはらと床に落ちる。彼女の口からこぼれる言葉は、もはや誰に向けたものかも定かではなかった。
「シアラさん……? どうなさったの」
声をかけても反応はない。ただ震えながら、見えない何かに怯えるように床に伏せている。カサンドラは無言で護衛を呼んだ。駆けつけた護衛の足音が、廊下から急いで近づいてくる。せわしない足音と、シアラの荒い呼吸だけが部屋に満ちていた。
運び出されていくシアラの背中を見送りながら、セレスティアは戸惑いを隠せない様子だった。
「……あの方、何かに怯えているようだったわね。魔術学院出身なら、精神耐性も相応にあるはずでしょうに」
「調べさせます」
カサンドラの声は平静だったが、内心では警戒を強めていた。2人続けて、これほど分かりやすい形で崩れる候補が出るとは思っていなかったからだ。指先で額を軽く押さえ、まだ積まれたままの書類の山を見やる。この分では、選抜が長引くことは避けられそうにない。窓の外に落ちる夕陽の色が、彼女の疲労をいっそう濃く際立たせていた。
3人目が現れたのは、さらに10日ほど後のことだった。商家から紹介された娘で、ゴブリン族の混血、19歳。計算に強く、帳簿も読めるという。
面接の場では受け答えもそつなく、家計管理の話になると生き生きと語った。指先には帳簿仕事で培われたたこがあり、話しぶりには商家育ちらしい機転の良さが滲んでいた。着ている服の生地は決して上質ではなかったが、それを補って余りある実務的な聡明さが、その物腰には表れていた。
「わたくし、帳簿づけには自信がございます。商家の娘ですので、数字を見れば不正の芽もすぐに分かりますわ」
カサンドラも思わず感心したほどだった。だが、目の奥に小さな欲があった。長く見つめれば見つめるほど、その瞳の奥で揺らめく小さな炎のような衝動が見て取れた。それは悪意というより、貧しさの中で育まれた飢餓感に近いものだった。
(裏切り誘発。罪悪感鈍化。短期的利益への衝動増加)
数日後、その娘は備品庫から宝飾小物を持ち出そうとして捕まった。まだ本採用前で被害は軽かったが、盗みを働こうとした事実は重かった。連行される際、彼女は「出来心だった」と繰り返し弁明したが、カサンドラはそれを取り合わなかった。彼女の目には、もはや先日の生き生きとした輝きはなく、ただ焦燥だけが浮かんでいた。
「出来心で済むものと済まぬものがございます」
その声には、これまでの候補者たちに向けたのと同じ、静かだが冷たい失望が滲んでいた。
その後の半月ほどで、4人目、5人目、6人目と候補は続いた。屋敷の廊下には、面接に呼ばれては去っていく候補者たちの足音が絶えなかった。使用人たちの間でも、次々と交代していく候補者の噂が、日を追うごとに賑やかさを増していった。
4人目はリザードマン族の若い侍女で、面接の途中で急に泣き出し取り乱した。「怖い、何か見られている気がする」とだけ言い残し、係の者に支えられながら退室していった。震える背中が扉の向こうに消えるまで、誰もその理由を口にしなかった。彼女の落とした水滴が、絨毯の上に小さな染みをいくつも残していた。
5人目はサキュバス族の女で、面接に同席していた護衛に艶やかな流し目を送り、世間話に紛れて屋敷の警備配置を聞き出そうとした。護衛が困惑顔でカサンドラに視線を送った時には、すでに彼女の意図は見抜かれていた。退室の際、彼女は最後まで悪びれる様子もなく、優雅に一礼して去っていった。
6人目はオーガ族の職人上がりの女で、試験の最中、袖口に隠し持っていた暗器を落とした。金属が石床に当たる甲高い音が響いた瞬間、部屋の空気が凍りついた。誰も声を発せなかった。落ちた刃が窓からの光を弾き、鈍く光ったことだけが、やけに長く記憶に残った。彼女は無言のまま連れ出され、以後その名を屋敷で耳にする者はいなかった。
どの候補にも、リゼルは容赦なく小さな不運を仕込み、化けの皮を剥がしていった。カサンドラは日に日に顔色を悪くし、机の上の書類はいっこうに減らず、むしろ「却下」の山だけが着実に高さを増していった。
積み上がったその山は、もはや彼女の苦労の証というより、屋敷全体を覆う不穏な空気の象徴のようにすら見えた。
オルディアスは報告を受けるたびに眉間を押さえ、セレスティアはリゼルを抱く腕に、無意識のうちに力を込めるようになっていた。
屋敷の者たちの間では、いつしか「ヴァルクロア家の次女は世話役泣かせだ」という噂まで囁かれ始めていた。中には、まことしやかに「呪われているのではないか」とまで言い出す者もいたが、その声はカサンドラの一睨みで、すぐに静まり返るのが常だった。
最後までお読みいただき、ありがとうございました。
まだ喋ることも、歩くこともできない赤子。
ですが、前世の知識と力まで失ったわけではありません。
自分の未来に必要な相手を迎えるためなら、候補者を一人ずつ振るい落としてでも道を作る。
すでにこの頃から、リゼルらしいやり方が始まっています。
果たして、彼女がそこまでして求める「ただ一人の世話役」とは誰なのか。
引き続きお楽しみいただければ幸いです。




