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パンデモニウム・リベリオン  作者: 鎌竹のぶみ


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Ver.0 TUTORIAL 3-2 リゼル人生最大のピンチ!

いつも『パンデモニウ・リベリオン』をお読みいただき、ありがとうございます。


選び続け、退け続け、それでもなお見つからない。


そんな中で訪れるのは、これまでとは比べものにならないほど危険な相手でした。


そして、その夜の終わりに待っていたのは――。


一人の少女との、大きな出会いです。

 選抜が始まってから、ひと月近くが過ぎた夜。最悪の事件が起こった。


 屋敷の空気は、ここ数日ですっかり張り詰めていた。危険な候補を次々と炙り出してきたリゼルの妨害工作は、確かに機能していた。だが、それは同時に「この屋敷の次女には何か普通ではない防御が働いている」という事実を、送り込む側にも学習させてしまったということでもあった。単純な密偵、単純な盗人、単純な色仕掛け——そうした粗雑な手駒は、もう通用しない。相手も学ぶ。だからこそ、次の一手は、これまでとは質が違っていた。


 その候補は、これまでのどの候補とも毛色が違った。バロール族——魔界に古くから存在する「魔眼」の一族の血を引く少女だった。


 名門貴族の家では、その一族の者を監視や護衛、魔力探知の役目で召し抱えることが多い。忠誠心と契約で仕えることを美徳とする一族として知られ、推薦状にも「バロール族アルガス家の血を引く者」という一文が誇らしげに記されていた。カサンドラも、この推薦状を受け取った時ばかりは、珍しく表情を緩めたほどだった。


「バロール族の血筋であれば、警戒すべき理由がひとつ減ります。あの一族は、契約した主への裏切りをもっとも恥とする血ですから」


 オルディアスも興味深げに頷いた。


「アルガス家か。バロール族の中でも古参の名家だ。あの血が濁ることは滅多にないと聞く」


 誰もが、これまでの候補とは違う「本命」の予感を覚えていた。リゼル自身も、最初はそう思っていた。


(バロール族。魔眼の一族か。監視役、護衛役として名高い……なるほど、血統だけ見れば文句なしだ。だが)


 少女は伏せがちに一礼した。長い前髪の間から覗くのは、ただひとつの瞳だけだった。バロール族特有の、一つ目。その色は不自然に深く、感情の読めない静けさを湛えている。所作は静かで、言葉遣いも丁寧、粗を探すのが難しいほど整っていた。


「セイラと申します。至らぬ点も多いかと存じますが、精一杯務めさせていただきます」


 だが、リゼルは違和感を覚えていた。


(呼吸が浅い。視線が一定すぎる。怯えているようで、恐怖の揺れが少ない。訓練済みだな。しかも本人の意志が薄い。洗脳か暗示か。……よりにもよって、一番信用されそうな血筋を送り込んでくるとは、敵もなかなか性格が悪い)


 怯えた素振りというのは、本来もっと不規則なものだ。視線は泳ぎ、呼吸は乱れ、指先の震えにも強弱がある。だが、このセイラのそれは、まるで一定の速度で回る歯車のように滑らかすぎた。感情の演技というより、感情を模した「型」を、繰り返し叩き込まれた末の産物のように見えた。


 この世界で、ステータスを細かく覗き見られる者は、少なくともこの屋敷にはリゼルしかいない。視界の裏側に、あの薄い表示が浮かび上がる。

――――――――――――――――――

個体名(真名):不明(バロール族アルガス家、本家より除籍された傍流出身と推定)

偽名:セイラ

種族:バロール族(魔眼の一族)

身分:ヴァルクロア家仮採用侍女候補

年齢:推定17歳

レベル:310

生命力:4200

魔力量:8600

筋力:132

耐久:118

敏捷:286

知力:420

精神:58

器用:298

幸運:19

偽装職業:下級女官見習い

真職業:監視役/呪殺要員(魔眼所有者)

所持スキル:魔眼「ゲイ・ボルグ」(呪視/石化/魔力探知/呪殺)/気配遮断Lv2/毒物調合Lv3/偽装作法Lv3/対象観察Lv3

状態異常:精神暗示:強/命令拘束:暗殺遂行/恐怖抑制/自己判断低下

携行品:遅効性呪毒粉末/睡眠補助用偽装薬包

主要適性:監視・警備/魔力探知/呪術戦闘/隠密行動

危険度評価:極高

敵対意志:あり(命令による強制)

備考:本来は名門アルガス家の血を引く正規の魔眼持ち。一族の掟である「忠誠」を裏側から利用され、家族を人質に取られた上での強制任務と推測される。魔眼の解放は最終手段として温存されていた。

――――――――――――――――――

(はい、アウト。魔力量8600とか、この段階の侍女候補にしては明らかに規格外だ。真職業に監視役と呪殺要員が並んでる時点でお察し。しかも魔眼持ちって、赤子相手にどれだけ本気なんだ。予算配分を通り越して、もはや戦力の無駄遣いだろ)


 数値を眺めながら、リゼルは内心で舌打ちに似た感情を漏らした。魔力量の桁が、これまで見てきたどの候補とも違う。器用298、知力420という数字も、単純な力業ではなく、繊細な作業と魔眼の制御に極端に振られたステータスであることを物語っていた。精神58という低さは、恐怖や躊躇を感じにくいよう作り替えられた結果だろう。忠誠を美徳とする一族の血でありながら、その忠誠心こそが弱点として利用されている——備考欄のその一文に、リゼルは珍しく苛立ちを覚えた。


(家族を人質、か。趣味が悪い。まあ、私に同情する余裕はないんだが)


 問題は、このステータスがリゼルにしか見えていないことだった。赤子が「そいつ魔眼持ちの暗殺者です」と告げられるはずもない。


(カサンドラは有能だ。だが今回は相手が悪い。血筋も推薦状も本物。精神暗示で恐怖の揺れを抑えられているから、普通の観察では決定打に欠ける。ならば、証拠を作るしかない)


 証拠のない告発は、逆にこちらの信用を損なう。貴族社会では特にそうだ。ましてバロール族という由緒ある血筋を、根拠なく疑ったとあっては、外交問題にすら発展しかねない。だからこそ、現行犯という、誰の目にも疑いようのない形が必要だった。


 セイラは即座に直属候補とはされず、仮採用として夜間の見回りや寝室周辺の補助、布や器具の準備といった雑務を数日だけ任されることになった。リゼルの身体へ直接触れる役目ではない。カサンドラもそこまで甘くはなかった。段階を踏んだ慎重な採用手順は、この屋敷の伝統であり、同時にリゼルにとっては好都合な猶予でもあった。


 だが、暗殺者にとってはそれで十分だった。魔眼の力を使えば一瞬で片がつく。だが、それは同時に

「バロール族の魔眼による凶行」という、あまりに分かりやすい証拠を残すことでもある。命令する側も、それは避けたかったのだろう。だからこそ、まずは毒。刃より静かで、呪いより痕跡が薄く、病より自然に見える手段が選ばれた。まして相手は赤子だ。夜中に少量を飲ませ、数日後に衰弱させれば、原因不明の急変として片づけられる可能性は高い。魔眼は、あくまで最後の保険として温存されていた。


 仮採用から3日目の夜。魔力灯は淡く落とされ、窓の外には魔界の夜が広がっていた。月は雲に隠れ、庭園の輪郭さえもおぼろげにしか見えない。セレスティアは別室で休み、護衛は扉の外にいる。寝台の周囲には誰もいない。天蓋の垂れ布だけが、微かな夜風にもならない空気の揺らぎに、時折ふわりと動いていた。


 扉が、ほとんど音もなく開いた。仮採用のセイラが、小さな器と布を手に持って入ってくる。夜中に赤子の口元を拭うため、あるいは水を含ませるため——そう言い訳できる道具だった。誰何されても、疑われることのない、あまりにも自然な口実だ。長い前髪が、ただひとつの瞳を覆い隠すように垂れている。


 足音を殺し、寝台へ近づく。絨毯を踏む足取りには、重さというものがほとんど感じられなかった。


 リゼルは目を閉じたまま、内心で薄く笑った。


(来たな)


 あらかじめ怪しい候補者たちに、屋敷の魔術師にも感知されない程度の薄い観察の糸を絡めてある。対象の緊張や殺意、行動の歪みを拾うには十分だった。このセイラの気配は、先ほどから明らかに濁っていた。恐怖、命令、殺意、失敗への焦り。それらが幾重にも折り重なって、ひとつの澱んだ塊のようにセイラを包んでいる。


(いいぞ。ここで仕掛けてくれ。由緒正しいバロール族の候補が、赤子の寝室に忍び込み、毒を飲ませた。その事実があれば、血筋だけを信用する貴族社会の常識そのものを叩き壊せる。名付けて「囮作戦、被害者は私」。我ながら嫌な作戦だ)


 セイラは寝台のそばに膝をつき、赤子を起こさぬようそっと顎を支えた。指先の温度はひどく冷たく、その冷たさすら計算された動作の一部であるかのように無機質だった。手つきは悪くない、むしろ訓練されている。赤子の口を開かせる角度、喉を詰まらせぬ注ぎ方、泣き声を上げさせない呼吸の合わせ方——ただのメイド候補が知るものではなかった。


(監視役の訓練と暗殺の訓練、意外と重なる部分が多いんだな。まったく、赤子相手にご苦労なことだ)


 小瓶の蓋が外され、ほんの少量の粉薬が水に溶かされる。色はほとんどなく、匂いも薄い。灯りに透かしても、ただの水にしか見えない出来だった。だが、リゼルには分かった。毒だ。ただし致死量ではない。並の毒ならば、レベル1000超えの耐性を持つ今の自分なら、数分気分が悪くなる程度で済む。


(問題ない。飲める。飲めるが……できれば飲みたくはないな。ダンジョンのトラップですら「見えてるのに踏む」ってなかなかない状況だぞ、これ)


 器が口元に近づく。液面が、微かな灯りを受けて揺れている。赤子らしく、半ば反射のように口を開いたふりをした。液体が舌に触れた瞬間、全身が硬直した。


(まっず)


 あまりにも不味かった。舌の奥に貼りつく金属のような渋み、乾いた草を焦がして泥に混ぜたようなえぐみ、鼻の奥へ抜ける腐った薬草の匂い。赤子の味覚は鋭く、前世の大人としての記憶を持つリゼルには常識外れの刺激だった。毒の効能自体は耐性で軽くいなせても、味覚という原始的な感覚だけは、どんなステータスの高さも助けにならなかった。


(まずいまずいまずいまずい! 毒物調合Lv3のくせに味のチューニングが仕事してない! 由緒正しい一族の余技にしては雑すぎるだろ!)


 さらに少量が流し込まれようとした瞬間、限界が来た。耐性の問題ではない、味が無理だった。喉の奥から、抑えようのない拒絶反応が突き上げてくる。


「ふ、ぎゅ……っ」


 喉が反射的に拒絶し、リゼルは盛大に吐いた。毒液も、胃の中のものも、水も、すべて吐き戻す。小さな身体が震え、寝具が汚れ、セイラの手元にも吐瀉物がかかった。


「なっ……!」


 セイラの顔に、初めて明確な動揺が走った。計算外の反応。想定していたどの展開にも当てはまらない、予測不能な現実だった。


 リゼルはさらに泣いた。演技半分、本気半分だった。喉が痛い、口が不味い、それだけでも十分泣く理由になった。


「ふぎゃああああああああああああああ!」


「リゼルお嬢様?」


 扉の外の護衛が即座に反応する。セイラは逃げようとした。器を放り出し、身を翻しかける。だが、その動きは半瞬遅かった。


(脚部感覚、微弱攪乱。手指緊張、強制緩和。逃がすか、馬鹿め。せっかくの舞台なんだ、最後まで付き合ってもらうぞ)


 足がもつれ、手から器が落ち、小瓶が床を転がる。陶器と金属が石床にぶつかる音が、静寂を切り裂くように響いた。護衛が扉を開けた時には、セイラは寝台のそばで膝をついたような姿勢のまま固まっていた。


 リゼルは泣き続けた。口の中が最悪だった。毒そのものは体内でほとんど無効化されているのが分かるが、味は無効化できない。舌に残った不味さが脳に突き刺さり、赤子の身体は過敏で、吐いた後の喉も痛い。


(死にはしない。死にはしないが、これはきつい。何だこの味。殺意より味の方が凶悪だぞ。今度生まれ変わる機会があったら、まず味覚耐性から取る)


「何をしている!」


 護衛が飛びかかろうとした、その瞬間だった。


 セイラの前髪が、震える指先に払われるようにして割れた。隠されていた一つ目が、初めて露わになる。


 前髪の隙間から覗いた瞳孔が、通常の赤から、警戒を示す金色へと急激に色を変える。命令拘束——家族を人質に取られた者が持つ、最後の一線。「捕らえられるくらいなら、任務を完遂せよ」という強制が、彼女の意志を押しのけて発動したのだと、リゼルは直感で理解した。


(噓だろ、まだ続きがあるのかよ)


「――申し訳、ございません」


 消え入りそうな呟きだった。詫びているのか、誰に対してかも分からない声だった。セイラの瞳が、金色からさらに深い紅へ、獣のような瞳孔の縦裂と共に染まっていく。瞳の奥で紋様が焼けるように光り、部屋の空気が一瞬で重くなった。


「――ッ! 護衛、下がりなさい! その目を見てはなりません!」


 カサンドラが叫びながら駆け込んでくる。ちょうどその時、セイラの視線がまっすぐにリゼルへ向いた。


「呪殺――」


 喉の奥から絞り出すような、命令に押し出された声。魔眼が放つ紅い光が、寝台の上のリゼルを一瞬で包んだ。


(来る)


 リゼルは、内心で妙に冷静だった。恐怖よりも先に、育成データの一節が脳裏をよぎる。


(呪殺系スキル、対象の耐性値と精神値の差分で成否が決まる。私の精神値は今この身体でもレベル換算で相当高い。加えて堕天使の血、ヴァルクロア家の血統補正。……悪いが、赤子はそんなに柔じゃない)


 紅い光がリゼルの身体を覆った瞬間、何も起こらなかった。正確には、何かが「弾かれた」感覚があった。石化の呪いも、命を断つはずの呪殺の一撃も、レベル1000を超える存在の防御を、ほんの表面すら削れずに滑り落ちていった。


 そして、行き場を失った魔力は、放った者自身へと逆流する。


「――あ、が……ッ!」


 セイラが短く悲鳴を上げ、崩れ落ちた。一つ目から一筋、血の涙のようなものが伝う。魔眼を無理やり全開にした反動が、そのまま術者の身体を焼いたのだ。紅く光っていた瞳がちりちりと燻り、やがて完全に光を失う。乱れた前髪が、力なくその瞳を再び覆い隠した。


「呪詛の反動です! 誰も彼女の目に触れないように! 拘束具は目を完全に覆うものを!」


 カサンドラの指示は的確だった。護衛が慎重な手つきでセイラを取り押さえ、厚い布で目元を覆う。抵抗する力は、もうほとんど残っていなかった。


「な、ぜ……効かない……」


 セイラは掠れた声で呟いた。誰に問うでもなく、ただ自分自身への疑問のようだった。答える者は誰もいなかった。


 セイラは引きずられていった。リゼルはセレスティアの腕の中で泣きながら、薄く目を開けた。


(勝った。……というか、勝ったというより、向こうが勝手に自滅した感じだな。まあいい。これで証拠は十分すぎるほど十分。血筋だけで安心する時代は終わりだ)


 もちろん毒も呪いもほとんど効いていない。だが不味さは本当に不快だったし、あの紅い光を至近距離で浴びた恐怖も、演技ではなく本物だった。喉の奥もまだ気持ち悪い。舌の上に、あの粉薬じみた最悪の味が残っている気がする。勝利の代償としては、かなり不愉快だった。


 その後、解毒師と治癒師が駆けつけたが、リゼルの身体に致命的な毒反応も呪詛の痕跡もほとんど出なかった。首を傾げる解毒師と治癒師をよそに、ヴァルクロア家の血の強さ、あるいは早期に吐き出したことによる幸運として処理された。実際には毒耐性と血統補正が大半を無効化していたのだが、味の不快感と嘔吐の苦しさ、そして紅い光を浴びた時の悪寒だけは、しっかり残った。誰にも真実を明かせないまま、リゼルはただぐったりと母の腕に身を預けるしかなかった。


 セイラは地下での尋問により、精神暗示を受けていたこと、複数の偽造身分を持っていたこと、毒物を隠し持っていたこと、そしてバロール族アルガス家の本家から除籍された傍流の生まれであり、家族を人質に取られていたことが明らかになった。オルディアスはしばし黙考した後、処刑ではなく、幽閉と監視付きの保護を命じた。


「本家に見捨てられ、家族を人質に取られた小娘を、これ以上手にかける気にはなれん。人質の家族の行方は追わせる」


 その決定に、カサンドラは深く頭を下げた。


 その日の夜、カサンドラはオルディアスの前で土下座していた。石床に額をつけたまま、その肩は小さく震えている。


「お館様。すべては、わたくしめの不始末にございます。血筋を信じすぎました。リゼルお嬢様を危険に晒しました。どうか、わたくしめを処刑してくださいませ」


 セレスティアはリゼルを抱いたまま、痛ましげにカサンドラを見つめた。


「カサンドラ、顔を上げてください。あなたはリゼルを守ろうとしてくれました。悪いのは、あの子と、あの子の家族を人質に取った者です」


「しかし、奥様……!」


「いいえ。あなたがいなければ、もっとひどいことになっていたかもしれません。私は、あなたを責めません」


 その声には、責任を押し付けるのではなく、共に背負おうとする母の意志があった。


 オルディアスは深く息を吐き、頭を抱えた。


「まいったな……血筋すら当てにならんとは」


 大侯爵として政敵の存在は理解している。だが、生まれたばかりの娘の世話役選びで、ひと月足らずのうちにここまで巧妙な事件が続くとは、さすがに予想以上だった。長年の政務で鍛えられた胆力を持つ彼をもってしても、この一件の重さは肩にのしかかるものがあった。


 リゼルは母の腕の中で、ぐったりした赤子の顔をしながら、内心では満足していた。


(やってやったぜ。……でもこれ、実績解除の代償が「不味い毒を吐いた上に呪いの反動まで浴びる」って、割に合わなさすぎるだろ。報酬設計を見直したい)


 それでも成果はあった。危険な候補は次々と排除され、カサンドラも父も母も、貴族家からの推薦者に強い警戒を抱いた。これで道は開ける——そう思った、その時だった。


 扉が開いた。


「お父様、お母様」


 入ってきたのはエルミナだった。背後にはゼノヴィアだけが控えている。こんな夜更けにミラベルの姿がないのは当然だった——アルラウネ族の彼女は、日が落ちればとうに眠りについている時間だ。


「リゼルちゃんのお世話を、私がします」


(は?)


 リゼルの内心が凍った。


「もちろん、私一人では足りません。ゼノとミラにも手伝ってもらいます。だから安心してください。リゼルちゃんは、私が守ります」


(安心できるか! 私の世話役枠を奪うな。私の育成計画を破壊するな。来るな。触るな。抱くな。せっかく魔眼持ちの暗殺者相手に一芝居打った直後だぞ、休ませてくれ)


 エルミナは優しく微笑み、リゼルへ手を伸ばした。


「リゼルちゃん。お姉ちゃんが守ってあげるからね」


 リゼルは決断した。渾身の演技をするしかない。前世で何度も泣きたかった夜——ゲームのサービス終了の日、画面の向こうの世界が閉じていく時、唯一の居場所が消えていくようで、胸が引き裂かれるほど苦しかったあの感情を、今ここで使う。


 肺に空気を溜め、屋敷中に響き渡るほど泣いた。


「ふぎゃあああああああああああああああああ!」


 エルミナの手が止まる。セレスティアが慌ててリゼルを抱き直した。


「リゼル? どうしたの、リゼル」


「おい、泣きすぎだろ」


 ゼノヴィアが眉をひそめ、それからすぐに声を落とす。


「……リゼル様、そんなに泣くことないだろ。……いや待て、エルミナ様が近づいた瞬間に、か?」


 エルミナは少し寂しそうに目を伏せたが、すぐに微笑みを戻した。


「怖がらせてしまったのかしら。ごめんね、リゼルちゃん」


(その通りだ。怖い。お前に世話される未来が怖い)


 リゼルは泣き続けた。喉が痛い。頭もふらふらする。さっき毒を吐いて呪いまで浴びたばかりなのに全力で泣くのは無茶だった。視界が少し揺れる。


(きつい。早くどうにかしてくれ。口の中もまだ不味い。目もまだちかちかする。今日1日でHPもMPも使い切った気分だ)


 その時、床に額をつけていたカサンドラが、はっと顔を上げた。


「お館様。実は……最後に1人、候補が残っております」


(来たか?)


 リゼルの泣き声が、ほんのわずかに揺らいだ。


「ただし、その者は身分がかなり低く……夜魔族の少女でございます」


 室内の空気が変わった。夜魔族——夢と快楽を糧に生きる、魔界の下位種族のひとつだ。貴族や豪族、商人の夜の相手をすることで糧を得る者が多く、その血は軽く見られがちだった。


「夜魔族? リゼル様の世話役に?」


 ゼノヴィアが露骨に顔をしかめる。だが、それ以上は言わず、エルミナの横顔をちらりと見た。


「……その者は、信頼できるのか」


 オルディアスの問いに、カサンドラが答える。


「身元は低く、後ろ盾もございません。ですが、だからこそ他家の紐付きではございません。血筋の良さが必ずしも忠誠を保証しないことは、今宵嫌というほど思い知らされました。試験の記録では、読み書きは未熟ながら観察力と忍耐に優れ、赤子の扱いも丁寧でございました。何より、不審な術式や外部との契約痕は確認されておりません」


「すぐに呼んできてくれ」


「はっ」


 カサンドラは即座に立ち上がり、部屋を出て行った。


   *   *   *


(頼む。頼むぞ。間違えるな。最後の1人。夜魔族。身分が低い。後ろ盾なし。ここまで条件が揃っているなら、もうあいつしかいないはずだ。今夜だけで魔眼持ちの暗殺未遂1件、なりすまし志願者1件を捌いた身としては、ここで外れを引く体力はもう残っていない)


 ゼノヴィアは苛立たしげに腕を組んだ。


「本気かよ。魔眼持ちよりはマシかもしれないけど、夜魔族だぞ」


「ゼノ」


「でも、エルミナ様が世話すればいいだろ。リゼル様だって、そのうち慣れる」


「泣いている子を無理に抱くのは可哀想よ。身分だけで決めてはいけないわ。リゼルちゃんが安心できる人なら、それが一番でしょう?」


 エルミナはそう言って、セレスティアの腕の中で泣き続けるリゼルを穏やかに見つめた。その穏やかさが、リゼルには逆に不気味だった。


(何を考えている。なぜ怒らない。いや、今はいい。今はとにかくあいつだ。早く来い)


 しばらくして、扉の外から足音が聞こえた。カサンドラの後ろに、1人の少女がいる。小柄で痩せている。年齢は外見上10歳前後にも見えるが、夜魔族の成長は他種族と単純比較できない。紫がかった暗い髪、伏せがちな瞳、粗末ではないが明らかに質素な服。


(来た! あいつだ!!)


 少女は部屋の中央で膝をつき、深く頭を下げた。


「お初にお目にかかります。オルディアス様、セレスティア様。わたくしは……メア・ナイトと申します。娼婦の娘で、下賤な身ではございますが……お許しいただけるのでしたら、精一杯、リゼルお嬢様のお世話をさせていただきます」


 夜魔族という種族、低い身分、後ろ盾のなさ。大侯爵家の次女の直属としてはあまりに異例で、オルディアスの表情は険しかった。


 だが、セレスティアは違った。泣き続けるリゼルを抱いたまま、メアへ優しく声をかける。


「メアさん。顔を上げてください」


 紫の瞳が、不安に揺れながら上がった。


「この子がリゼルよ」


 メアはリゼルを見て息を呑んだ。その目に欲も打算もなく、あったのは恐れと憧れと、どう扱えばよいか分からないほどの慎重さだった。


「リゼル、お嬢様……」


 メアが近づく。ゼノヴィアの目が鋭くなる。エルミナは微笑んだまま、何も言わなかった。


 リゼルは、ぴたりと泣きやんだ。屋敷中に響くほど泣いていた赤子が、嘘のように静かになる。そしてメアを見て、笑った。


「きゃっ、きゃっ」


 小さな手を伸ばす。メアは固まった。


「え……」


 さらに手を伸ばす。赤子らしく、無邪気に、必死に、目の前の少女を求めるように。


「おい。エルミナ様の時は泣いたのに、なんでそいつには笑うんだよ」


 言ってから、ゼノヴィアは少し顔をしかめた。


「……なんで、リゼル様はそいつには笑うんだよ」


「ゼノ」


 エルミナが静かに名を呼んだ。それだけで、ゼノヴィアは我に返ったように口をつぐんだ。


「……悪ぃ」


 舌打ちしそうな顔をしたが、それ以上は言わなかった。


 メアは震える手で、リゼルの小さな指に触れた。リゼルはその指を握った。ほんの少しの力だったが、メアの目から涙がこぼれた。


「あ……申し訳、ございません。わたくし、泣くつもりでは……」


 慌てて手を離そうとしたが、リゼルは離さなかった。赤子の力で引き止められるはずがないのに、メアはその手を振りほどけなかった。


 セレスティアは優しく微笑んだ。


「メアさん。この子を、お願いできますか?」


 メアの表情が変わった。怯えと卑屈さが消え、何かを決めた者の眼差しになる。


「命をかけて、お嬢様をお守りさせていただきます」


「きゃっきゃっ、きゃっ」


(言ったな。ならばお前は私のものだ! 初期値最弱、将来性最強。今日から私のパーティメンバー1号だ。契約書はないが、この指切りで十分だ)


 この瞬間、リゼルは確信した。育成ルートは開いた。最弱の初期値を持つメイドユニットが、未来の最強従者へ至るための第1歩が、今ここに刻まれたのだ。


   *   *   *


 エルミナは、その場では最後まで微笑んでいた。リゼルがメアに笑いかけたことにも、メアが採用される流れになったことにも、不満は見せなかった。セレスティアに礼を言い、父に頭を下げ、カサンドラへも労いの言葉をかける。


 だが、部屋を出て廊下に出ると、ゼノヴィアが我慢しきれず口を開いた。


「気に入らない」


 燭台の火が壁に揺れ、2人の影を長く伸ばしている。エルミナは足を止めず、ゆっくり歩いていた。


「何が?」


「全部だ。あの夜魔族も、リゼル様の態度も、屋敷の空気も。エルミナ様が世話をすると言ったのに、リゼル様は泣いた。なのに、あのメアとかいう女には笑った」


 その怒りは、単にメアを見下しているからではない。エルミナが拒まれたことが、ゼノヴィアには自分への侮辱のように思えたのだ。


「赤ちゃんですもの、理由なんて分からないわ。相性が良かったのよ、きっと」


「都合よく相性が合ったってか?」


「そういうこともあるものよ。理屈じゃ測れない相性って」


「屁理屈だな、それ」


 エルミナはそこで足を止めた。


「ゼノ。怒ってくれてありがとう」


「別に……」


「でも、私は嬉しいの。リゼルちゃんが泣き止んだでしょう? お母様も安心していたわ。なら、それでいいの。あの子が安心できる人が見つかったなら、祝福しなくちゃ」


「本当にそれでいいのかよ、エルミナ様」


「ええ。リゼルちゃんは、私の妹だもの。妹が笑ったのなら、それは良いことよ」


 その声に嘘はなかった。少なくとも、聞く者にはそう思えた。ゼノヴィアはまだ納得していなかったが、それ以上は言わなかった。


 エルミナは再び歩き出す。その背中は幼い少女のものだった。けれど廊下に揺れる影だけは、なぜか実際よりも少し大きく見えた。



最後までお読みいただき、ありがとうございました。


ひと月近く続いた世話役選びも、ようやく一つの答えへ辿り着きました。


家柄でも、血筋でも、肩書でもない。


周囲から見れば取るに足らない一人の少女を、リゼルだけは知っています。


今はまだ弱く、何者でもないメア・ナイト。


けれど、この出会いから彼女の運命もまた、大きく動き始めます。


リゼルにとって最初の仲間となる少女との出会いを、楽しんでいただけたなら幸いです。

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