Ver.0 TUTORIAL 3-3 Dream Black
メア・ナイトの仕事は、翌朝から始まった。
正式な直属メイドではなく、まずは見習いとしての採用だったが、リゼルが彼女にだけよく笑うという事実は大きかった。セレスティアもオルディアスもカサンドラも、当面はメアを外す理由を見つけられなかった。
メアにとって、それは信じがたい幸運であり、同時に恐ろしいほど重い責任でもあった。
「お嬢様、おはようございます」
朝、メアはリゼルの寝台のそばに膝をつき、深く頭を下げた。赤子相手にそこまでする必要はないとカサンドラには言われたが、やめなかった。自分は低い身分の夜魔族で、しかも娼婦の娘だ。気に入られたからといって勘違いしてはならない——ただお嬢様が笑ってくださった、それだけなのだ。
(おはよう、メア。今日から地獄の育成計画……と言いたいところだが、さすがにまだ無理だな。まずは忠誠値の確保、精神安定、栄養状態改善、基本技能の底上げからだ)
メアはリゼルを抱き上げる前に、必ず手を温めた。冷たい手で触れれば赤子が驚く。抱き上げる角度を間違えれば首に負担がかかる。布の締め方が強すぎれば苦しく、弱すぎれば身体が冷える。カサンドラから叩き込まれた知識を、必死に思い出しながら動いた。
「失礼いたします、お嬢様」
手は震えていたが、丁寧だった。リゼルはその震えを感じ取りながら、あえて機嫌よく笑った。
「きゃっ」
「ありがとうございます……お嬢様」
その日から、メアは朝晩リゼルの世話を続けた。朝は起床、布替え、身体拭き、授乳の補助。昼はセレスティアのそばで見守りながら、カサンドラから礼儀作法と屋敷の規則を学ぶ。夜は寝室の支度をし、魔力灯の明るさを調整し、リゼルが眠るまでそばに控える。
最初の数日は、失敗の連続だった。布の畳み方一つとっても、貴族家の流儀は下町のそれとは違う。角を揃え、家紋の刺繍を必ず上へ向け、重ねる順番まで決まっている。カサンドラに指摘されるたび、メアは何度も頭を下げ、夜になると自室でこっそり布を畳む練習をした。夜魔族の粗末な自室には鏡すらなかったが、暗がりの中でも指先の感覚だけは覚え込ませようとした。
水を運ぶ手順、湯の温度の確かめ方、乳母から乳をもらう時刻の調整、赤子の泣き方から機嫌を読み分ける勘所——どれもメアにとっては初めてのことばかりだった。それでも、彼女は一つも投げ出さなかった。失敗するたびに小さくなり、それでも翌朝にはまた同じ場所に膝をついた。
メアは決して要領の良い方ではなかった。手順を間違えてカサンドラに叱られることもある。貴族家の所作に慣れておらず、廊下の端で他のメイドに冷ややかな目を向けられることもある。夜魔族というだけで距離を置かれ、陰口を叩かれることもあった。すれ違いざまに聞こえるように囁かれる「娼婦の娘のくせに」という声も、一度や二度ではなかった。
だが、リゼルの前では必ず笑った。
「お嬢様、本日はよく眠っておられましたね」
(いや、途中で魔力循環の練習をしていたから、実はあまり眠っていない)
「お嬢様、今日は奥様がとても嬉しそうでございましたよ」
(母上は私を抱きすぎだ。ありがたいが、腕が疲れないか心配になる)
「お嬢様、カサンドラに褒めていただきました。布の畳み方が昨日より良くなったと」
(よし。成長している。小さな成功体験は大事だ。忠誠値だけでなく自己肯定感も育てなければならない)
メアは知らない。自分が世話している赤子が、内心で自分の育成方針を冷静に組み立てていることを。リゼルもまた、まだ知らなかった。メアが夜魔族として、通常のメイドにはない力を持っていることを。
それでも、日々は少しずつ積み重なっていった。メアがリゼルを抱く手つきは日に日に迷いを失い、リゼルがメアの気配だけで安心して眠るようになるまで、そう長くはかからなかった。他の使用人たちの視線は相変わらず冷たかったが、メアはそれに気づかないふりをすることを覚えた。お嬢様が笑ってくださる。それだけで、彼女の日々は満たされていた。
* * *
メアが屋敷に来て10日ほどが過ぎたある夜、彼女は妙な胸騒ぎで目を覚ました。理由は分からない。風の音でも、扉の軋みでも、誰かの足音でもない。ただ胸の奥がざわついた。夢魔族に近しい夜魔族には、時折こうした感覚がある。誰かの夢が乱れている時、強い恐怖や悲しみが近くにある時、それが匂いのように分かるのだ。
メアは自室の粗末な寝台から飛び起きた。心臓が早鐘を打っている。理由も分からないまま、素足のまま廊下へ出た。夜の屋敷は静まり返り、魔力灯の淡い光だけが石の廊下を照らしている。護衛の詰所の前を通り過ぎ、足音を殺してリゼルの寝室へ向かう。誰に見咎められても構わなかった。今は、それどころではなかった。
「……お嬢様?」
リゼルの寝室は静かだった。魔力灯は淡く落とされ、セレスティアは別室で休み、扉の外には護衛がいる。異常はないはずだった。
だが、リゼルは寝台の中で小さく眉を寄せていた。赤子らしい寝顔ではない。苦しんでいる。
「お嬢様……!」
毒か、呪いか——メアは血の気が引いた。香炉、寝具、魔力灯、窓、扉、床、慌てて確認するが、毒の匂いも呪具の気配もない。外部からの魔力干渉も、少なくともメアに分かる範囲では感じられなかった。それでも、リゼルは苦しそうだった。
「お嬢様、どうか……どうか、苦しまないでくださいませ」
震える手で額に触れる。熱はない。だが、夢が乱れている。夜魔族には相手の夢を覗く力がある。誰もが自在に使えるわけではないし、貴族家では嫌われる力でもある。夢を見るという行為は、相手の心へ踏み込むことに等しいからだ。
メアは迷った。勝手にお嬢様の夢を見るなど、許されることではない。侍女がその力を主人へ使ったと知れれば、それだけで解雇される。最悪、処罰の対象にすらなり得る。分かっている。分かっているのに、このまま苦しませておくこともできなかった。
「申し訳ございません、お嬢様。1度だけ……1度だけ、お許しください」
身をかがめ、自分の額をリゼルの額にそっと当てる。夢へ沈む感覚があった。落ちる、というより、水底へ引きずり込まれるような感覚だった。
次の瞬間、視界は砕けた。
見たことのない建物があった。石でも木でもない、妙に平らで冷たい壁。空まで届きそうな箱のような塔。夜なのに消えない光。無数の窓に、同じような光が等間隔で灯っている。馬も魔獣もいないのに凄まじい速さで走る鉄の箱。光る板を見つめる人々。誰も角を持たず翼も尾もないのに、世界は異様な速度で動いている。人間界とも思えぬ、けれど魔界とも違う、見知らぬ場所だった。
その中に、疲れた顔をした眼鏡の女がいた。何度も頭を下げている。
「申し訳ございません。すぐに修正いたします。……私の確認不足です。申し訳ございません」
誰かが怒鳴り、誰かが笑い、誰かが責任を押し付けている。女はただ謝り続け、周囲の者たちは彼女自身を見ていなかった。まるで、そこに人間が立っているのではなく、便利な道具が一つ置かれているだけであるかのように。メアの胸が締めつけられた。理由の分からない痛みだった。
場面が変わる。狭い部屋。冷たい光がいくつも並ぶ、生活のためだけの部屋。光る板の中に、魔界のような景色が映っている。美しく恐ろしい者たち、玉座、軍勢、戦い、勝利。女はその画面を見つめ、泣きそうな顔で笑っていた。その笑顔だけが、それまでの疲れきった顔とはまるで違う、生きている人間の顔だった。
また場面が変わる。雨、夜、眩しい光。馬のいない巨大な馬車が、女へ向かって迫ってくる。鈍い衝撃。血。冷たい地面。誰かの悲鳴。女の指先が、何かに向かって力なく伸ばされる。その先には、何もない。
メアは悲鳴を上げそうになったが、夢は止まらない。次に現れたのは、魔界でも見たことがない紫黒の底なしの闇だった。そこに、陽気で軽くて、ふざけた声が響く。
『いやぁ、実にいい死に方でしたねぇ。救いがない。報われない。けれど、だからこそ実に美しい』
全身が凍った。
あれは邪悪な何かだ。名乗らずとも分かる。神に近いが、清らかさなど欠片もない。悪意を娯楽として弄び、魂を盤上の駒のように扱う存在。声を聞いただけで、メアの魂の芯が竦み上がった。
その何かが、突然こちらを見た。
『……おや? 私のことを見ていますね? 夜魔族にこんなスキルがあるとは驚きです。公式の設定には無いはずなんですがねぇ。貴女特有のスキルなのでしょうか。いやぁ、面白い。実に面白い』
メアは逃げようとしたが、夢の中で身体が動かない。全身が金縛りにあったように固まり、逃げ出したいという意志だけが空回りする。
『ですが、見られたからには仕方ありません。残念ですが、ゲームオーバーです。1年持たずにゲームオーバーって、マジ使えねぇですねぇ。では、魂をいただきましょうか。こんなに早い収穫、悪神びっくりです』
メアは声にならない声で叫んだ。次の瞬間、リゼルの額から弾かれるように離れ、現実の寝室に戻っていた。リゼルはまだ眠っている。だが部屋の空気が違う。誰もいないはずの空間に、何かがいる。見えない、姿もない。けれど確実にいる。肌が粟立つほどの重さが、部屋全体に満ちていた。
メアは寝台のそばから転がるように降り、その場に額を擦り付けた。
「申し訳ございません! 覗き見るつもりではございませんでした! お嬢様が苦しんでおられて、わたくし、どうしても……!」
返事はない。だが、空気が笑っていた。
「どうか、お嬢様を助けてください! わたくしの魂でよろしければ差し上げます! 罰なら受けます! ですが、お嬢様だけは……リゼルお嬢様だけは、どうか!」
誰もいない室内に声が響いた。
『いやぁ、いいですねぇ。実に献身的だ。そういうの、嫌いじゃありませんよぉ?』
禍々しいほど陽気な声音だった。だが、今のメアは怒りよりも小さな主人の助命嘆願がすべてにおいて優先された。
『本来なら、今ここで貴女の魂を摘み取ってもよかったのですが——1度だけ見逃しましょう』
メアの息が止まる。
『ただし、次はありません。次に覗いたら、貴女ではなく、貴女のお嬢様をいただきます。私もこの娘の収穫は楽しみなのでねぇ。まだ熟してもいない果実を摘む趣味は、まあ、ないこともありませんが、今回は育つのを待ちたい気分です。ですから、しっかり育てて、守りなさい。泣かせて、怒らせて、憎ませて、愛させて、壊して、磨いて、実らせるのです。分かりましたか、夜魔族の娘』
「はい……! はい! 必ず、必ずお守りいたします! ありがとうございます、ありがとうございます……!」
『いい返事です。ああ、それと——一つだけ、忠告して差し上げましょう』
声の温度が、わずかに変わった。面白がるような響きは変わらないが、その奥に、何か底の見えない重みが混じった。
『この娘の周りには、まだ何もかもが揃っておりません。あなたのような者が、あと何人か必要になります。仲間も、敵も、裏切り者も、殉じる者も。すべてがこの娘の糧になる。あなたも、いずれその一部です。恐ろしいでしょう? でも、それが収穫というものですよ』
「……お嬢様のために、なるのでしょうか」
『さあ、どうでしょうねぇ。それを決めるのは私ではなく、この娘自身です。私はただ、見ているだけですから』
「……肝に、銘じます」
メアの声は震えていたが、その言葉には確かな覚悟が滲んでいた。
『いい返事です。では、今回のところはこれで。いやぁ、思わぬ覗き見客がいて、私も退屈せずに済みましたよぉ』
気配が消え、寝室に静けさが戻る。メアはしばらく動けなかった。全身が震え、涙が床に落ちていた。魂の奥を握り潰されるような恐怖が、まだ残っている。指先の感覚すら曖昧で、自分がまだ生きているのかどうかすら、一瞬分からなくなった。
それでも、ゆっくり顔を上げた。寝台の中で、リゼルが眠っている。小さな身体、柔らかな頬、何も知らない赤子のような寝顔。先ほどまで眉を寄せていたことが嘘のように、今は穏やかな寝息を立てている。
メアには、今見たものの正体が分からなかった。言葉も話せぬはずの赤子に、あれほど生々しい、大人びた記憶が宿っているはずがない。おそらくは、自分のまだ未熟な力が、お嬢様の中に眠るまだ目覚めぬ何かと偶然結びつき、断片的な幻を見せただけなのだろう——メアは、そう思おうとした。夜魔族の力は不完全なもので、時に見せる夢が真実そのものとは限らないと、母からも聞かされたことがある。だから今見たものも、きっと、何かの拍子に混ざり合った歪んだ幻影に過ぎないのだと。
だが、あの声だけは、幻では片づけられなかった。実際に言葉を交わし、実際に警告され、実際に見逃された。あれは夢が見せた幻影ではなく、確かにそこにいた「何か」だ。伝承にはある。並外れた魔力の芽を持つ者には、時に高位の悪神や邪神がふと目を留め、興味半分に絡んでくることがあるのだと。お嬢様の中に眠る何かに、あの悪神はただ惹き寄せられただけなのかもしれない。それが何なのかは、メアには分からない。分からないが、そう考える方が、まだ辻褄が合う気がした。
自分に見えた光景の意味も、あの声の正体も、メアには結局分からないままだった。だが、理屈でどう納得しようとしても、消えない実感がひとつだけ残った。この幼い身体の奥に、途方もなく大きく、そして途方もなく哀しい何かが眠っている。そして、あの底知れぬ存在に、狙われている。それだけは、疑いようもなく感じ取れた。
「お嬢様……」
声がかすれた。
「わたくしが、お守りします」
誰に聞かせるものでもない。リゼルは眠っている。悪神ももういない。カサンドラも、セレスティアも、誰も聞いていない。それでも、メアは寝台のそばに跪き、続けた。
「この身も、この命も、この魂も、すべてお嬢様に捧げます。わたくしは、下賤な夜魔族の娘です。何も持っておりません。ですが、持っていないのなら、これから全部、お嬢様のために得ます。強くなります。賢くなります。誰よりも近くで、お嬢様を守ります。たとえ悪神が相手でも、次は逃げません」
弱い少女の言葉だった。だが、確かに誓いだった。
メアはそのまま、朝の光が差し込むまで寝台のそばを離れなかった。腕も足も冷え切っていたが、寒さすら感じなかった。ただ、リゼルの寝息を数えるように聞きながら、自分に何度も同じ言葉を言い聞かせた。守る。強くなる。次は逃げない。夜が明けるまで、その言葉だけが、震える心を支えていた。
* * *
翌朝、リゼルが目を覚ますと、メアはいつもより少しだけ目を赤くしていた。
「おはようございます、お嬢様」
声は穏やかだったが、何かが違う。昨日までのメアには怯えがあった。失敗を恐れ、身分を恥じ、いつ追い出されるか分からない不安を抱えていた——それが完全に消えたわけではない。それでも、瞳の奥に1本の芯が通っていた。
(……何かあったな)
メアはリゼルの小さな手を取り、額にそっと触れさせた。
「お嬢様。わたくしは、まだ弱く、至らぬ者です。ですが、必ずお嬢様のお役に立てるようになります。命をかけると申し上げました。あの言葉に、嘘はございません」
泣きそうで、それでも強い笑みだった。
「どうか、わたくしをおそばに置いてくださいませ。リゼルお嬢様」
「きゃっきゃっ」
その笑いは赤子のものだった。だが内心では、リゼル・ノクス・ヴァルクロアが満足げに笑っていた。
(当然だ。お前は私のものだ、メア・ナイト。育ててやる。鍛えてやる。泣き虫で、弱くて、初期値がゴミみたいなお前を、誰よりも頼れる私のメイドにしてやる)
小さな手でメアの指を握る。メアはその手を、大切そうに包み込んだ。
その日から、メアの奉仕にはどこか鬼気迫るものが混じるようになった。誰に命じられたわけでもないのに、寝室の警戒を一段厳しくし、香や食事の匂いに以前より神経質になり、夜の当番を率先して引き受けるようになった。カサンドラはその変化を、若い娘が仕事に慣れ始めた証と受け取った。オルディアスもセレスティアも、メアの働きぶりを静かに評価していった。
誰も知らない。あの夜、粗末な身分の夜魔族の少女が、悪神の声を聞き、震えながらも一つの誓いを立てたことを。
まだ誰も知らない。この日、ヴァルクロア家の赤子に仕えることになった低い身分の夜魔族の少女が、やがてリゼルの夢と狂気と忠義を誰よりも近くで支える存在になることを。
そしてリゼル自身は、すでに知っている。このメアが、いつかは自分の背中を預けるに足る存在へと育つことを。




