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パンデモニウム・リベリオン  作者: 鎌竹のぶみ


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Ver.0 TUTORIAL 4-1 Baby

いつも『パンデモニウ・リベリオン』をお読みいただき、ありがとうございます。


選ばれることと、相応しい存在になることは同じではありません。


どれほど強い想いがあっても、力も知識も技術もなければ、大切な人のそばには立てない。


今回は、一人の少女が「仕える」ということを学び始めるお話です。

 メア・ナイトがヴァルクロア家の使用人として正式に迎えられた日、彼女はまず、自分が何ひとつ分かっていなかったことを思い知らされた。


 大侯爵家の屋敷は、ただ広いだけの場所ではない。廊下ひとつ、扉ひとつ、燭台ひとつにも意味があり、そこを歩く者の立場と役割が厳密に決められている。誰がどの扉を開けてよいのか。誰がどの廊下を通ってよいのか。誰がどの食器に触れてよいのか。朝の挨拶ひとつにも序列があり、視線の高さひとつにも礼法がある。下級夢魔族の少女だったメアにとって、それは生活の延長ではなく、ほとんど別世界の法だった。


 彼女が知っている日々とは違う。眠る場所があり、食べる物があり、罵られなければ今日は幸運。そんな粗末な日々の延長線上に、ヴァルクロア家の秩序は存在しなかった。ここでは、床に落ちた小さな埃ですら恥になり、主の前で揺れた声ですら失態になる。


 そして彼女は、その家の次女――リゼル・ノクス・ヴァルクロアの専属メイド見習いにされた。いや、選ばれた。


 誰に、と問われれば、屋敷の者たちはそれぞれ違う答えを出すだろう。父オルディアスの命。母セレスティアの慈悲。侍女長カサンドラの判断。あるいは、ヴァルクロア家に不足していた夢魔族の使用人を補うための、実務的な採用。誰もが、それらしい理由を口にできる。


 だが、メアだけは知っていた。あの赤子が、自分を選んだのだと。


 その日の作法訓練は、いつもより長く感じられた。使用人棟の奥にある訓練室で、メアは銀盆を両手に持ち、何度も同じ距離を歩かされていた。盆の上には空の茶器が三つ置かれている。中身はない。だが、訓練用の茶器はわざと重く作られており、少しでも腕の力が抜ければ、縁が擦れて耳障りな音を立てる。


 たったそれだけのことが、今のメアには難しかった。指先が震える。手首が痛い。背筋を伸ばせば呼吸が浅くなり、視線を上げれば足元が不安になる。足元に気を取られれば、今度は盆が傾く。ヴァルクロア家の使用人としては初歩の初歩。だが、下級夢魔族の少女だったメアにとって、それは自分の生まれ育った場所では一度も求められたことのない技術だった。


「メア。盆の角度が浅いです」


 冷たい声が飛んだ。声の主は、ヴァルクロア家侍女長カサンドラだった。黒紫の侍女服を一分の乱れもなく着こなし、髪も表情も姿勢も、まるで刃物のように整っている女である。美しいというより、隙がない。優しいというより、正しい。彼女の前に立つと、メアは自分の呼吸音ですら礼法に反しているのではないかと不安になる。


「申し訳ありません、カサンドラ様」


「謝罪は一度で結構です。二度目は不要。三度目からは耳障りです」


「は、はい……!」


「返事が揺れています。もう一度」


「はい」


「声が小さい」


「はい!」


「今度は大きすぎます。主人の部屋の前でその声を出すつもりですか」


「……はい」


「違います」


「申し訳――」


「謝罪は一度で結構と言いました」


 メアは口を閉じた。泣きそうだった。だが、泣いてはいけないことだけは分かる。ここで泣いたら、きっと自分はこの家にいられない。泣けば誰かが慰めてくれるような場所ではない。泣けば、なぜ泣く暇があるのかと問われる場所だった。


 カサンドラはメアの震える手元を見たあと、静かに言った。


「お前は、リゼル様付きです」


 その名前を聞いた瞬間、メアの背筋がわずかに伸びた。


「はい」


「ならば覚えなさい。お前の失敗は、お前ひとりの失敗ではありません。お前が皿を落とせば、リゼル様付きのメイドは皿も運べぬと笑われる。お前が礼を欠けば、リゼル様の周囲には礼儀知らずがいると侮られる。お前が無知であれば、リゼル様は無知な者に身辺を預けていると見られる」


 メアは息を呑んだ。自分が笑われるのは耐えられる。下級夢魔族だと蔑まれることにも、慣れているとは言わないが、初めてではない。だが、自分の未熟さでリゼルが笑われる。それだけは嫌だった。


「……私、頑張ります」


「頑張る、という言葉は便利です。ですが、結果が伴わなければ何の価値もありません」


 カサンドラは盆の縁を指先で軽く叩いた。茶器が、かすかに鳴る。その音ひとつで、メアの肩はまた震えた。


「足を運びなさい。視線は落とさない。肩を上げない。指に力を入れすぎない。主人の前に立つ者が不安を見せれば、主人に余計な気遣いをさせます」


「はい」


「もう一度。部屋の端まで」


 メアは歩き出した。一歩、また一歩。盆が重い。手首が痛い。足が震える。背筋を伸ばすと呼吸が苦しい。茶器を鳴らさないように意識すると、足元がおろそかになる。足元を意識すると、視線が落ちる。視線を上げると、今度は盆が傾く。


 その時、訓練室の扉の近くで、くすりと笑う声がした。


「へえ。まだ辞めてなかったんだ」


 メアの足が止まりかけた。壁際に立っていたのは、ゼノヴィアだった。エルミナ付きの少女であり、エルミナに忠誠を捧げているくせに、誰に対しても敬語を使わない奇妙な従者である。


 黒斑獣人族――ザグレム種という、魔界固有の獣人の血を引く一族の出だ。十歳にして、彼女はすでに鋭かった。目つきも、姿勢も、纏う空気も、メアとは違う。鍛えられた獣のような気配があり、細い身体の奥には暴力が詰まっている。爪は生まれつき鋭く、常に研がれたように尖っている。魔力で急拵えした武器ではない。それは彼女の一族が元から持つ、牙であり爪だった。


 その隣には、ミラベルもいた。ゼノヴィアより一歳下の少女で、彼女もまたエルミナの周囲に仕える者のひとりだった。


 アルラウネ族。花と眠り、香りと毒を司る一族の生まれで、感情が高ぶると髪に編み込まれた花飾りがわずかに開き、微かな香りを周囲へ滲ませる。ゼノヴィアほど声は荒くない。笑みも柔らかい。だが、その柔らかさは人を安心させるためのものではなく、棘を絹で包むためのものだった。


 怖さの種類が違うだけだった。ゼノヴィアは真正面から牙を剥く。言葉も態度も荒く、相手が弱いと見るや、ためらいなく踏みつけてくる。そこには遠慮も礼儀もない。あるのは、自分より弱いものを見下す獣じみた本能だけだった。


 対してミラベルは、声を荒らげない。むしろ柔らかく微笑む。だが、その微笑みの奥には、相手がどこを刺されれば一番痛いかを正確に見抜く冷たさがある。彼女は怒鳴らない。罵らない。だが、褒め言葉の中に毒を混ぜ、逃げ道を塞ぎながら、相手が自分で傷ついたように見える場所へ追い込んでいく。


「ゼノ、そんな言い方をしたら可哀想よ」


 ミラベルは微笑みながら言った。


「見なさい。手が震えているわ。きっと一生懸命なのよ。ねえ、メア?」


 メアは返事をしようとしたが、喉が詰まった。ミラベルの声は優しい。だが、その優しさは救いではない。逃げ場を作るためのものではなく、逃げ場を奪うためのものだった。


 ゼノヴィアは鼻で笑った。


「一生懸命ねえ。盆持って震えるだけで褒めてもらえるなら、夢魔族ってのは楽な種族だな」


「ゼノヴィア」


 カサンドラの声は静かだった。だが、そこには警告があった。


 ゼノヴィアは肩をすくめる。


「何だよ。見てるだけだろ。夢魔族の小娘が大侯爵家でどれくらい保つのか、興味があるだけだ」


「ならば黙って見ていなさい。お前の声は訓練の邪魔です」


「邪魔になるほど繊細なのかよ」


「繊細なのではありません。未熟なのです。未熟な者を鍛える場で、横から無意味に吠える者はもっと未熟です」


 ゼノヴィアの眉がぴくりと動いた。ミラベルが小さく笑う。


「怒られたわね、ゼノ」


「うるさい、ミラ」


「でもカサンドラ様の仰る通りよ。あなたは声が大きいもの。怖がらせてしまうわ」

 ミラベルはそう言ってから、メアへ視線を戻した。


「でも、メアも偉いわ。普通なら、とっくに泣いて辞めているもの。下級の夜魔族なのに、大侯爵家で頑張ろうとするなんて、本当に立派」


 言葉だけ聞けば褒めていた。だが、その中に混ぜられた「下級の夜魔族なのに」という一言が、メアの胸を静かに刺した。その瞬間、ミラベルの髪を飾る小さな花が、ほんのわずかに開いた。誰も気づかない程度の変化だった。ただ、ふわりと甘い香りが一瞬だけ強くなり、すぐに消えた。


「ミラベル」


 カサンドラが名を呼んだ。その声は、ゼノヴィアを咎めた時とは違っていた。荒い獣を押さえる声ではなく、薄い毒を見抜いた時の声だった。


 ミラベルはすぐに頭を下げる。


「失礼いたしました、カサンドラ様。褒めたつもりでした」


「褒め言葉に毒を混ぜる癖は、早めに直しなさい」


「毒だなんて。ひどい言い方ですわ」


「自覚しているなら悪質です。自覚していないなら未熟です。どちらにせよ、エルミナ様の側に立つ者として褒められたものではありません」


 ミラベルの笑みが、ほんの少しだけ薄くなった。


 その時、訓練室の扉が軽く叩かれた。


「失礼いたします、カサンドラ様」


 入ってきたのは、年長のメイドだった。名をリュシエンヌという。セレスティアの周辺業務も任される中堅の使用人で、若いメイドたちからは厳しいが面倒見のよい先輩として知られている。リュシエンヌはカサンドラに一礼すると、余計な説明を挟まず、まっすぐメアを見た。


「メア。リゼル様が泣いておられます。あなたを呼ぶように、とのことです」


 その一言で、メアの顔色が変わった。


「お嬢様が……!」


 メアはすぐに銀盆を訓練台へ置いた。茶器は鳴らなかった。震えていた手で、それでも音を立てずに置いた。


「カサンドラ様、私……」


 言いかけて、メアは言葉を詰まらせた。リゼルのもとへ行きたい。今すぐ駆け出したい。けれど、これは訓練中であり、目の前には侍女長カサンドラがいる。命じられた課題を途中で投げ出してよいのか。主人が呼んでいるのだから当然行くべきなのか。その判断すら、今のメアにはまだ怖かった。


 銀盆から離した指先が、わずかに震える。カサンドラはその迷いを見た。叱ることも、急かすこともしなかった。ただ、短く告げた。


「行きなさい。廊下は走らない。急ぐ時ほど、足音を乱さない」


「はい」


 メアは深く一礼し、リュシエンヌの後を追って訓練室を出た。扉が閉まる。メアは、もう訓練室にはいない。残されたのは、カサンドラと、ゼノヴィアと、ミラベルだけだった。


「……大げさだな。赤ん坊が泣いたくらいで」


 ゼノヴィアが鼻で笑った。カサンドラの視線が、静かに彼女へ向く。


「ゼノヴィア」


「あ?」


「お前はエルミナ様の側に立つ者です。ならば、自分の言葉がエルミナ様の品位に繋がることを忘れないように」


「説教かよ」


「説教される振る舞いを減らしなさい」


 ゼノヴィアは舌打ちした。ミラベルは、その横で涼しげに微笑んでいた。


「カサンドラ様は、あの子を随分と気にかけていらっしゃるのですね」


「ミラベル」


「はい」


「毒を飴で包む癖は、早めに直しなさい。見る者が見れば、すぐに分かります」


 ミラベルの笑みが、ほんの少しだけ薄くなった。


「……肝に銘じますわ」


「口先だけの返事も同じです」


 それ以上、カサンドラは言わなかった。二人を長々と諭す必要はない。だが、釘は刺した。ゼノヴィアの粗暴さも、ミラベルの姑息さも、放置すればいずれエルミナの名に傷をつける。


「戻りなさい。エルミナ様の前に立つ前に、その顔を整えておくこと」


「行くぞ、ミラ」


「はいはい。ゼノ、扉を乱暴に閉めないでね」


「うるさい」


 二人が訓練室を出ていく。カサンドラは、メアが置いていった銀盆へ視線を落とした。茶器は静かにそこにあった。最後の最後で音を立てなかった。それだけは、今日の小さな成果だった。


「……まずは、それでよいでしょう」


 誰に聞かせるでもなく、侍女長はそう呟いた。


 ――一方その頃。

 メアは、リュシエンヌに導かれ、南翼へ向かっていた。胸の中だけは今にも駆け出したかった。だが、カサンドラに言われた通り、廊下は走らない。足音を乱さない。急ぎながらも、使用人としての形を崩さない。手は震えていたが、歩幅だけは必死に整えた。


 リゼルの部屋に着くと、扉の前にはもう一人のメイドが控えていた。彼女はメアを見るなり、安堵したように息を吐いた。


「メア、早く。リゼル様があなたを待っているみたいなの」


「私を……ですか?」


「分からないけれど、あなたの名を出した途端、少しだけ泣き方が変わったわ」


 メアは胸を強く打たれたような気がした。まだ赤子のリゼルが、メアの名を理解している。そう考えるだけで、奇妙な熱が喉の奥まで込み上げる。


 扉の前で息を整え、そっと入室する。リゼルは寝台の中にいた。黒い髪。小さな頬。赤子らしい柔らかな手足。母セレスティア付きのメイドがあやしていたが、リゼルの泣き声は細く続いていた。


 けれど、メアが近づいた瞬間、泣き声はぴたりと止んだ。部屋にいたメイドたちが、揃って目を瞬かせる。リゼルは、まるで最初からメアが来ることを知っていたかのように、じっとこちらを見ていた。


「あう」


 そして、赤子らしく小さな声を漏らした。頬は柔らかく、瞳は潤み、指先は頼りなく揺れている。見る者が見れば、母を求めて泣いていた赤子が、たまたま見慣れたメイドの顔に安心しただけに見えただろう。


 だが、リゼルの内側ではまるで違う言葉が渦巻いていた。


(来るのが遅いぞ、馬鹿もの!)


 赤子の喉から出たのは、きゃっきゃ、という幼い声だけだった。


(このメイドたちの抱き方は、私を頸椎損傷にさせる気満々だったぞ! 首だ! 赤子の首を支えろ! 頭を揺らすな! 何度言えば分かる! いや、言えないのだが!)


「あう、あー」


(私を抱くのはお前だ、馬鹿もの。早く来い。早く抱け。私の側にいろ。……別に寂しかったわけではない。断じて違う。これは安全管理上の必要措置だ)


「リゼルお嬢様……?」


 メアは寝台に近づく。リゼルは小さな手を伸ばした。メアが指を差し出すと、リゼルはそれを握った。弱い力だった。赤子の力だ。けれど、メアにはそれがただの仕草には思えなかった。まるで、命じられているようだった。来い。泣くな。私の側にいろ。そう言われた気がした。


 その時、リゼルの視界の端に、半透明の黒紫の板が浮かんだ。それは、この世界の誰にも見えない。リゼルだけが覗ける人物情報の窓だった。文字は淡く光り、赤子の視界の中に、冷たいほど整然と並んでいく。


 対象名:メア・ナイト

 種族:夢魔族

 年齢区分:幼体

 推定レベル:8

 生命力:42

 魔力量:38

 筋力:16

 耐久:18

 敏捷:24

 器用:29

 知力:34

 精神耐性:21

 魔力制御:17

 礼法習熟:3

 危機察知:9

 観察力:11

 忠誠傾向:47

 主従適性:64

 成長余地:88

 保有スキル

 夢魔族基礎感応:レベル1

 微弱魅了:レベル1

 気配察知:レベル1

 奉仕作法:レベル0

 礼法基礎:レベル0

 精神安定:レベル0

 状態

 緊張:68

 疲労:22

 自己評価低下:74

 主への依存傾向:12


(……弱い)


 リゼルは、赤子らしくメアの指を握ったまま、内心で冷静に評価した。


(生命力42。魔力量38。礼法習熟3。精神耐性21。数字で見てもひどい。泣き虫で、臆病で、すぐ震える。今のままなら、大侯爵家のメイドとしては失格だ)


 リゼルは、メアの指をぎゅっと握った。もちろん、赤子の握力などたかが知れている。だが、メアはそれだけで胸が熱くなったような気がした。


(だが、逃げなかった。私を抱く時に首を支える程度の知能はある。私の泣き方の違いにも気づきかけている。忠誠傾向47。主従適性64。成長余地88。完成品ではないが、拾う価値はある)


 きゃっきゃ、とリゼルは笑った。


(よし。お前を育てる。せいぜい強くなれ、メア・ナイト。私が安心して背中を預けられる程度にはな)


 周囲のメイドたちは、その笑みを赤子の機嫌が直った証だと思った。メアだけは、なぜか胸の奥を掴まれたような気がした。年長のメイドたちは顔を見合わせた。偶然かもしれない。赤子が、たまたま泣き止んだだけかもしれない。だが、メアだけは違うと思った。この方は、自分を呼んだのだ。


「お嬢様……私、また心を乱しました」


 メアは寝台のそばに膝をついた。


「申し訳ありません。ゼノヴィアさんに何を言われても、ミラベルさんに何を言われても、反応してはいけないのに」


 リゼルは何も言わない。当然だ。赤子なのだから。けれど、リゼルの瞳はメアの言葉を理解しているように見えた。慰めるわけでもない。叱るわけでもない。ただ、メアという存在を観察し、見極めている。メアはその目を見るたび、胸が苦しくなった。


(この方は、分かっておられる)


 初めてではない。リゼルには不思議なところがある。人の足音を聞き分けているように見えることがある。母セレスティアが来る時と、父オルディアスが来る時と、エルミナが来る時と、メアが来る時で、表情が違う。


 泣く時もそうだ。本当に空腹で泣く時もある。眠くて不機嫌な時もある。だが、時々、明らかに誰かを動かすために泣くことがある。カサンドラがメアを追い詰めすぎた時。ゼノヴィアが嫌味を言った時。ミラベルが柔らかい声でメアの逃げ道を塞いだ時。泣き声が届かない場所なら、誰かを呼びに行かせる。言葉はないのに、結果だけがそうなる。偶然だと言うには、あまりにも多すぎた。


 夜魔族には、眠る者の気配に敏感な血がある。メア自身、まだそれを技として使いこなせてはいなかった。だが、リゼルが眠りに落ちる瞬間の呼吸の変化や、浅い夢と深い夢の境目にいる時の微かな身じろぎを、メアは誰よりも早く感じ取れるようになっていた。それがいつか、リゼルの眠りそのものを見守る力になるとは、まだこの時のメアは知らない。


「お嬢様は……私が泣きそうになると、いつも呼んでくださいますね」


 メアは小さく笑った。


「まるで、泣いている暇があるなら来い、と仰っているみたいです」


 リゼルは、わずかに目を細めた。


(その通りだ、馬鹿もの。泣いている暇があるなら来い。私の側にいろ。お前は私が拾った。ならば、私の役に立て)


 赤子の偶然。そう言い聞かせることはできた。けれどメアは、もうそうは思えなかった。この方は普通ではない。そしてそれは、恐ろしいことではなく、誇らしいことなのだと、メアはまだ幼い心で感じ始めていた。



最後までお読みいただき、ありがとうございました。


正式にヴァルクロア家へ迎えられたメアですが、現時点ではまだ何もかもが未熟です。


礼法も、力も、精神面も、大侯爵家の専属メイドとしては到底完成には程遠い存在。


それでもリゼルは、今の強さではなく、その先にある可能性を見ています。


一方のメアもまた、少しずつリゼルが「ただの赤子ではない」ことに気づき始めました。


主が従者を育て、従者もまた主を理解していく。


二人の主従関係は、ここから少しずつ形になっていきます。

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