Ver.0 TUTORIAL 4-2 メアの試練
リゼルが一歳になる頃――
メアはようやく茶器を鳴らさずに廊下を歩けるようになった。まだ完璧ではない。カサンドラに言わせれば、足運びは甘く、視線の置き方は未熟で、主人の背後に控える時の気配の消し方も粗い。それでも、最初の頃のように盆を持つだけで泣きそうになることはなくなった。朝はリゼルの身支度。昼はカサンドラの訓練。夕方は礼法と魔族貴族の家系の暗記。夜はリゼルの寝台のそばで、灯りを落とした部屋の中、眠る主の呼吸を確認する。メアの日々は、リゼルを中心に回るようになっていった。
そしてリゼルもまた、成長していた。普通の赤子よりも早く言葉を理解し、普通の幼児よりも長く人の話を聞き、普通の子供なら飽きるはずの大人たちの会話に、静かに耳を傾けていた。母セレスティアは、それを「賢い子ね」と微笑んだ。父オルディアスは、「さすが我が娘だ」と誇らしげに頷いた。カサンドラは、何も言わなかった。メアも、何も言わなかった。
だが、メアだけは知っていた。リゼルの賢さは、そんな言葉で片づけられるものではない。
ある夜、メアはリゼルの部屋で家系図を広げていた。ヴァルクロア家の血脈。分家。婚姻関係。魔界貴族の序列。古い戦功。失脚した家。名誉を回復した家。カサンドラに課された暗記は膨大で、メアの頭は破裂しそうだった。
「うう……アルシオン様の代で分かれた分家が……えっと、こちらが北方領で、こちらが……」
小さく呟いた時、寝台の中から視線を感じた。メアが顔を上げると、リゼルが起きていた。
「お嬢様。起こしてしまいましたか?」
リゼルは答えない。ただ、メアが持つ家系図を見ていた。
「これは、お嬢様にはまだ難しいですよ。……私にも難しいですけれど」
メアは苦笑した。するとリゼルは、小さな手を布の中から出した。メアは首を傾げる。
「ご覧になりますか?」
冗談半分で家系図を近づけた。次の瞬間、リゼルの小さな指が家系図の一点に触れた。メアは瞬きをした。そこは、メアが先ほど間違えていた分家の名だった。
「……え?」
リゼルの指が動く。次に示したのは、その分家が婚姻によって結びついた別家の名。さらにその次は、百年以上前に断絶しかけた血筋の名。点と点が結ばれるように、リゼルの指は古い血筋の流れをなぞっていった。
メアは息を呑んだ。偶然ではない。これは、偶然ではない。
「お嬢様……分かるのですか?」
リゼルはメアを見た。赤子の顔だった。けれど、その目は赤子のものではなかった。メアの背筋が震える。恐怖ではない。畏れだった。
この小さな身体の中に、何かがいる。何か、という言い方は主に失礼かもしれない。けれど、メアにはそうとしか思えなかった。リゼルはただの天才児ではない。覚えが早いとか、勘がいいとか、そういう次元ではない。この方は、すでに知っている。世界を見ている。そして、何かを待っている。
メアは家系図を胸に抱き、深く頭を下げた。
「誰にも言いません」
リゼルは動かなかった。
「お嬢様が普通のお子様ではないこと、私は誰にも言いません。私は、お嬢様のメイドですから」
部屋の中に、静寂が落ちた。魔火の小さな灯りが揺れる。やがて、リゼルの手が伸びた。小さな指が、メアの頬に触れる。赤子の手は温かかった。メアは泣きそうになった。その手は、褒めているのかもしれない。黙っていろという命令かもしれない。あるいは、ただの気まぐれかもしれない。
けれどメアは、その手に誓った。
(私は、この方を裏切らない)
その日から、メアは変わった。ただリゼルの世話をするだけでは足りない。ただメイドの仕事を覚えるだけでは足りない。リゼルが何かを背負っているのなら、自分もそれを支えられる者にならなければならない。リゼルが普通の子供ではないのなら、普通のメイドでは足りない。




