Ver.0 Tutorial Chapter 4-3 メア・ナイト
セイラは地下での尋問により、精神暗示を受けていたこと、複数の偽造身分を持っていたこと、毒物を隠し持っていたこと、そしてバロール族アルガス家の本家から除籍された傍流の生まれであり、家族を人質に取られていたことが明らかになった。オルディアスはしばし黙考した後、処刑ではなく、幽閉と監視付きの保護を命じた。
「本家に見捨てられ、家族を人質に取られた小娘を、これ以上手にかける気にはなれん。人質の家族の行方は追わせる」
その決定に、カサンドラは深く頭を下げた。
その日の夜、カサンドラはオルディアスの前で土下座していた。石床に額をつけたまま、その肩は小さく震えている。
「お館様。すべては、わたくしめの不始末にございます。血筋を信じすぎました。リゼルお嬢様を危険に晒しました。どうか、わたくしめを処刑してくださいませ」
セレスティアはリゼルを抱いたまま、痛ましげにカサンドラを見つめた。
「カサンドラ、顔を上げてください。あなたはリゼルを守ろうとしてくれました。悪いのは、あの子と、あの子の家族を人質に取った者です」
「しかし、奥様……!」
「いいえ。あなたがいなければ、もっとひどいことになっていたかもしれません。私は、あなたを責めません」
その声には、責任を押し付けるのではなく、共に背負おうとする母の意志があった。
オルディアスは深く息を吐き、頭を抱えた。
「まいったな……血筋すら当てにならんとは」
大侯爵として政敵の存在は理解している。だが、生まれたばかりの娘の世話役選びで、ひと月足らずのうちにここまで巧妙な事件が続くとは、さすがに予想以上だった。長年の政務で鍛えられた胆力を持つ彼をもってしても、この一件の重さは肩にのしかかるものがあった。
リゼルは母の腕の中で、ぐったりした赤子の顔をしながら、内心では満足していた。
(やってやったぜ。……でもこれ、実績解除の代償が「不味い毒を吐いた上に呪いの反動まで浴びる」って、割に合わなさすぎるだろ。報酬設計を見直したい)
それでも成果はあった。危険な候補は次々と排除され、カサンドラも父も母も、貴族家からの推薦者に強い警戒を抱いた。これで道は開ける——そう思った、その時だった。
扉が開いた。
「お父様、お母様」
入ってきたのはエルミナだった。背後にはゼノヴィアだけが控えている。こんな夜更けにミラベルの姿がないのは当然だった——アルラウネ族の彼女は、日が落ちればとうに眠りについている時間だ。
「リゼルちゃんのお世話を、私がします」
(は?)
リゼルの内心が凍った。
「もちろん、私一人では足りません。ゼノとミラにも手伝ってもらいます。だから安心してください。リゼルちゃんは、私が守ります」
(安心できるか! 私の世話役枠を奪うな。私の育成計画を破壊するな。来るな。触るな。抱くな。せっかく魔眼持ちの暗殺者相手に一芝居打った直後だぞ、休ませてくれ)
エルミナは優しく微笑み、リゼルへ手を伸ばした。
「リゼルちゃん。お姉ちゃんが守ってあげるからね」
リゼルは決断した。渾身の演技をするしかない。前世で何度も泣きたかった夜——ゲームのサービス終了の日、画面の向こうの世界が閉じていく時、唯一の居場所が消えていくようで、胸が引き裂かれるほど苦しかったあの感情を、今ここで使う。
肺に空気を溜め、屋敷中に響き渡るほど泣いた。
「ふぎゃあああああああああああああああ!」
エルミナの手が止まる。セレスティアが慌ててリゼルを抱き直した。
「リゼル? どうしたの、リゼル」
「おい、泣きすぎだろ」
ゼノヴィアが眉をひそめ、それからすぐに声を落とす。
「……リゼル様、そんなに泣くことないだろ。……いや待て、エルミナ様が近づいた瞬間に、か?」
エルミナは少し寂しそうに目を伏せたが、すぐに微笑みを戻した。
「怖がらせてしまったのかしら。ごめんね、リゼルちゃん」
(その通りだ。怖い。お前に世話される未来が怖い)
リゼルは泣き続けた。喉が痛い。頭もふらふらする。さっき毒を吐いて呪いまで浴びたばかりなのに全力で泣くのは無茶だった。視界が少し揺れる。
(きつい。早くどうにかしてくれ。口の中もまだ不味い。目もまだちかちかする。今日1日でHPもMPも使い切った気分だ)
その時、床に額をつけていたカサンドラが、はっと顔を上げた。
「お館様。実は……最後に1人、候補が残っております」
(来たか?)
リゼルの泣き声が、ほんのわずかに揺らいだ。
「ただし、その者は身分がかなり低く……夜魔族の少女でございます」
室内の空気が変わった。夜魔族——夢と快楽を糧に生きる、魔界の下位種族のひとつだ。貴族や豪族、商人の夜の相手をすることで糧を得る者が多く、その血は軽く見られがちだった。
「夜魔族? リゼル様の世話役に?」
ゼノヴィアが露骨に顔をしかめる。だが、それ以上は言わず、エルミナの横顔をちらりと見た。
「……その者は、信頼できるのか」
オルディアスの問いに、カサンドラが答える。
「身元は低く、後ろ盾もございません。ですが、だからこそ他家の紐付きではございません。血筋の良さが必ずしも忠誠を保証しないことは、今宵嫌というほど思い知らされました。試験の記録では、読み書きは未熟ながら観察力と忍耐に優れ、赤子の扱いも丁寧でございました。何より、不審な術式や外部との契約痕は確認されておりません」
「すぐに呼んできてくれ」
「はっ」
カサンドラは即座に立ち上がり、部屋を出て行った。
* * *
(頼む。頼むぞ。間違えるな。最後の1人。夜魔族。身分が低い。後ろ盾なし。ここまで条件が揃っているなら、もうあいつしかいないはずだ。今夜だけで魔眼持ちの暗殺未遂1件、なりすまし志願者1件を捌いた身としては、ここで外れを引く体力はもう残っていない)
ゼノヴィアは苛立たしげに腕を組んだ。
「本気かよ。魔眼持ちよりはマシかもしれないけど、夜魔族だぞ」
「ゼノ」
「でも、エルミナ様が世話すればいいだろ。リゼル様だって、そのうち慣れる」
「泣いている子を無理に抱くのは可哀想よ。身分だけで決めてはいけないわ。リゼルちゃんが安心できる人なら、それが一番でしょう?」
エルミナはそう言って、セレスティアの腕の中で泣き続けるリゼルを穏やかに見つめた。その穏やかさが、リゼルには逆に不気味だった。
(何を考えている。なぜ怒らない。いや、今はいい。今はとにかくあいつだ。早く来い)
しばらくして、扉の外から足音が聞こえた。カサンドラの後ろに、1人の少女がいる。小柄で痩せている。年齢は外見上10歳前後にも見えるが、夜魔族の成長は他種族と単純比較できない。紫がかった暗い髪、伏せがちな瞳、粗末ではないが明らかに質素な服。
(来た! あいつだ!!)
少女は部屋の中央で膝をつき、深く頭を下げた。
「お初にお目にかかります。オルディアス様、セレスティア様。わたくしは……メア・ナイトと申します。娼婦の娘で、下賤な身ではございますが……お許しいただけるのでしたら、精一杯、リゼルお嬢様のお世話をさせていただきます」
夜魔族という種族、低い身分、後ろ盾のなさ。大侯爵家の次女の直属としてはあまりに異例で、オルディアスの表情は険しかった。
だが、セレスティアは違った。泣き続けるリゼルを抱いたまま、メアへ優しく声をかける。
「メアさん。顔を上げてください」
紫の瞳が、不安に揺れながら上がった。
「この子がリゼルよ」
メアはリゼルを見て息を呑んだ。その目に欲も打算もなく、あったのは恐れと憧れと、どう扱えばよいか分からないほどの慎重さだった。
「リゼル、お嬢様……」
メアが近づく。ゼノヴィアの目が鋭くなる。エルミナは微笑んだまま、何も言わなかった。
リゼルは、ぴたりと泣きやんだ。屋敷中に響くほど泣いていた赤子が、嘘のように静かになる。そしてメアを見て、笑った。
「きゃっ、きゃっ」
小さな手を伸ばす。メアは固まった。
「え……」
さらに手を伸ばす。赤子らしく、無邪気に、必死に、目の前の少女を求めるように。
「おい。エルミナ様の時は泣いたのに、なんでそいつには笑うんだよ」
言ってから、ゼノヴィアは少し顔をしかめた。
「……なんで、リゼル様はそいつには笑うんだよ」
「ゼノ」
エルミナが静かに名を呼んだ。それだけで、ゼノヴィアは我に返ったように口をつぐんだ。
「……悪ぃ」
舌打ちしそうな顔をしたが、それ以上は言わなかった。
メアは震える手で、リゼルの小さな指に触れた。リゼルはその指を握った。ほんの少しの力だったが、メアの目から涙がこぼれた。
「あ……申し訳、ございません。わたくし、泣くつもりでは……」
慌てて手を離そうとしたが、リゼルは離さなかった。赤子の力で引き止められるはずがないのに、メアはその手を振りほどけなかった。
セレスティアは優しく微笑んだ。
「メアさん。この子を、お願いできますか?」
メアの表情が変わった。怯えと卑屈さが消え、何かを決めた者の眼差しになる。
「命をかけて、お嬢様をお守りさせていただきます」
「きゃっきゃっ、きゃっ」
(言ったな。ならばお前は私のものだ! 初期値最弱、将来性最強。今日から私のパーティメンバー1号だ。契約書はないが、この指切りで十分だ)
この瞬間、リゼルは確信した。育成ルートは開いた。最弱の初期値を持つメイドユニットが、未来の最強従者へ至るための第1歩が、今ここに刻まれたのだ。
* * *
エルミナは、その場では最後まで微笑んでいた。リゼルがメアに笑いかけたことにも、メアが採用される流れになったことにも、不満は見せなかった。セレスティアに礼を言い、父に頭を下げ、カサンドラへも労いの言葉をかける。
だが、部屋を出て廊下に出ると、ゼノヴィアが我慢しきれず口を開いた。
「気に入らない」
燭台の火が壁に揺れ、2人の影を長く伸ばしている。エルミナは足を止めず、ゆっくり歩いていた。
「何が?」
「全部だ。あの夜魔族も、リゼル様の態度も、屋敷の空気も。エルミナ様が世話をすると言ったのに、リゼル様は泣いた。なのに、あのメアとかいう女には笑った」
その怒りは、単にメアを見下しているからではない。エルミナが拒まれたことが、ゼノヴィアには自分への侮辱のように思えたのだ。
「赤ちゃんですもの、理由なんて分からないわ。相性が良かったのよ、きっと」
「都合よく相性が合ったってか?」
「そういうこともあるものよ。理屈じゃ測れない相性って」
「屁理屈だな、それ」
エルミナはそこで足を止めた。
「ゼノ。怒ってくれてありがとう」
「別に……」
「でも、私は嬉しいの。リゼルちゃんが泣き止んだでしょう? お母様も安心していたわ。なら、それでいいの。あの子が安心できる人が見つかったなら、祝福しなくちゃ」
「本当にそれでいいのかよ、エルミナ様」
「ええ。リゼルちゃんは、私の妹だもの。妹が笑ったのなら、それは良いことよ」
その声に嘘はなかった。少なくとも、聞く者にはそう思えた。ゼノヴィアはまだ納得していなかったが、それ以上は言わなかった。
エルミナは再び歩き出す。その背中は幼い少女のものだった。けれど廊下に揺れる影だけは、なぜか実際よりも少し大きく見えた。




