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パンデモニウム・リベリオン  作者: 鎌竹のぶみ


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Ver.0 TUTORIAL 4-3 見なかったことに……

 リゼルは、2歳になった。今年もまた盛大な誕生日の祝いが屋敷を賑わせたが、それはもう数日前のことだった。この一年で身体は着実に育っていた。歩みはしっかりとし、目を離した隙に部屋の隅まで移動していることも増えた。表情も豊かになり、機嫌の良し悪しが誰の目にも分かりやすくなった。


 だが、言葉だけは相変わらず追いついていなかった。喉の使い方も、舌の動かし方も、2歳児のそれとして標準的な範囲に収まっている。話せる単語は少しずつ増えてはいるものの、まだ「文章」と呼べるほどの発話には遠い。もどかしさは相変わらずだったが、リゼルはそれをすでに織り込み済みだった。


(喋れないなら喋れないで、やりようはある。前世でも、言葉より態度で語る場面は山ほどあった)


 メアが侍女長カサンドラに呼び出されたのは、そんなある日の昼下がりのことだった。


「カサンドラ様がお呼びです。少々お時間をいただきますが、すぐに戻りますので」


 メアはそう言って、丁寧に一礼した。リゼルは寝台の上に座ったまま、こくりと頷く。表向きは聞き分けのいい子の顔だった。だが、扉が静かに閉まった途端、姿勢を崩し、寝台の上でごろりと横に転がった。


(暇だ……メアめ。私をほっぽっていくなら、せめて父上の書庫から禁書の20〜30冊くらいかっぱらってこい。まったく、放っておかれた側がこうも暇を持て余すとは……いや、暇を潰す手段すらろくに持たないこの身体が悪いのか)


 2歳の身体は、まだ満足に走ることもできない。だが中身は違う。30年分の知識と技術を持て余したまま、この小さな箱に押し込められている。退屈は、リゼルにとって拷問に近かった。


 午後はメアと共に庭を歩く予定だったが、それも今、カサンドラに呼ばれたことで宙に浮いている。積み木も絵本もすぐに飽きる。侍女たちに構ってもらう手もあるが、他人の前で気を抜けば、うっかり中身が漏れる。それも面倒だった。


 結局、リゼルが行き着く先はいつも同じだった。


(誰も見てないなら、ちょっとくらい)


 誰もいない部屋。リゼルはむくりと起き上がると、寝台から滑り降りた。床に降り立った拍子に、ぷにっとした足の裏がひやりとした床の感触を拾う。まだ短い足で数歩よろけながら、部屋の中央まで進んだ。


(ちょっとだけ。ちょっとだけだから)


 言い訳のようにそう胸の内で呟きながら、小さな手のひらを顔の前に掲げる。


 右手に淡い橙色の光が灯る。ゆらゆらと揺れる熱の気配とともに、指先がじんわりと熱を帯びる――炎の魔法だった。


 左手に、透き通るような青白い光が灯る。同時に、ひやりとした冷気が指先を這い上がり、肌がわずかに粟立った。吐く息が白く染まりそうなほどの、氷の魔法だった。


「――イグナス」


 橙の光を灯した右手で、炎の詠唱を紡ぐ。たどたどしい2歳児の発音だったが、魔力の乗り方だけは恐ろしく精緻だった。


「――フロズナ」


 青白い光を灯した左手で、氷の詠唱を紡ぐ。


 本来ならば、どちらか一方でも幼児の魔力制御を超えている代物だった。魔力とは、体内の器の大きさと、その扱いの精緻さで決まる。2歳の器は、まだ小さな杯ほどの容量しかない。そこに大人でも扱いを誤れば大惨事になる炎と氷、二つの相反する属性を、同時に注ぎ込む――本来ならば正気の沙汰ではない。


 だがリゼルにとっては、危険というより「手慣らし」に近い感覚だった。前世で培った制御の技術は、身体の性能とは無関係に、脳の中にそっくりそのまま残っている。器が小さいなら、注ぎ方を工夫すればいい。それだけの話だった。


 二つの光を、ぽん、ぽんと両手の上で弾ませる。橙の光が弧を描いて左手に落ち、青白い光が同じ弧を描いて右手に収まる。危なげなく、まるで手慣れた曲芸師のようだった。うまくいった。もう一往復と続けるうちに、リゼルの頭の隅に、以前から気になっていたことがよぎった。


(そういえば――こっちの世界でも、合成魔法って通じるのかな)


 前世でやり込んだVRMMO「パンデモニウム・オンライン」には、異なる属性の魔力を混ぜ合わせ、単体では出せない効果を生み出す合成スキルがあった。理論としては知っている。だが、この身体で、この世界の魔力で、実際に試したことは一度もなかった。所詮はゲームの知識だ。理論と現実の間には、常に埋めきれない溝がある。だからこそ――


(できるかなぁ、これ)


 好奇心が疑念を上回るまで、そう時間はかからなかった。思いついた瞬間には、もう手が動いていた。


「イグナス」と「フロズナ」を、両手ごと打ち合わせる。


「――イグナズナ」


 ぶわりと空気が鳴った。橙と青白の光が、渦を巻いて絡み合う。


(お、これは――)


 感触は悪くなかった。理論通り、二つの属性が拮抗せずに噛み合っている。橙の熱が青白い冷気を包み込み、冷気がまた熱の輪郭を締め付ける。互いを喰らい合うのではなく、支え合うような感覚があった。


(いける。理論、合ってる――)


 小さな達成感が胸を満たしかけた、その時だった。渦の中心が、急速に膨らみ始めた。


(あ、まって。理論と出力が合ってない)


 制御式そのものは正しい。だが、この身体の器の小ささが、想定より早く限界を迎えていた。理屈の上では扱えるはずの魔力量が、実際の器には収まりきらない。


(これ本気でやばいやつだ)


 小さな手のひらの中で、制御しきれない熱と冷気がせめぎ合う。爆発するか、凍りつくか、あるいはその両方か。リゼルは慌てて魔力の流入を絞り込もうとした。だが、一度膨れ上がった渦は、簡単には収まってくれない。


「お嬢様、オヤツの果実を――」


 扉が開いた。


 リゼルは反射的に両手を握り込み、光を握りつぶすようにして無理やり収束させた。パンッ、と小さな破裂音がして、部屋の空気がわずかに揺れる。焦げた匂いと、うっすらとした霜の名残が、寝台の周りに漂っていた。


 トレイを持ったメアが、戸口で固まっていた。


(――終わった)


 リゼルの脳裏に、真っ先に浮かんだのは「記憶を消す」という選択肢だった。危険な魔法の心得もある。やろうと思えば、目の前の光景をなかったことにすることもできる。相手の記憶から、この数秒間だけを切り取ることは、理論上、決して不可能ではない。


 だが、指先が伸びかけたところで、リゼルはふと止まった。


(……メアか)


 相手の顔を見て、それ以上手が動かなかった。理由をうまく言葉にはできない。ただ、この侍女に対してだけは、その手段を使いたくないと、2歳の身体の奥で何かが強く拒んでいた。


 結果、リゼルにできたのは、寝台の上で借りてきた猫のように大人しく座り直すことだけだった。


「……」


「……」


 沈黙が落ちる。メアはトレイを持ったまま、戸口に立ち尽くしていた。視線は、焦げた寝具と、うっすら霜の張った床と、何食わぬ顔で座るリゼルの間を、何度も往復している。


 やがて、トレイの上の茶器がかたかたと小さく鳴った。メアの手が震えているのだ。


「……お、お嬢様」


 リゼルは、答える代わりに首を小さく傾げた。喉の奥まで出かかった言葉は、動揺のあまり形にならず、結局「あー」という短い声にしかならなかった。


「今の光は……いえ、その、匂いは……あの、床の……」


 言葉が最後まで続かない。何を聞いていいのか、そもそも聞いていいことなのか、メア自身にも分かっていないようだった。


 リゼルは黙ってメアを見返した。責めるでもなく、言い訳をするでもなく、ただじっと。2歳児のその無言の凝視が、かえってメアを追い詰めた。


(考えるな)


 メアは自分にそう言い聞かせた。目の前の異常を問い詰めることは、あるいは正しいのかもしれない。だが同時に、メアの中の何かが、強く警告していた。この扉の先に踏み込めば、もう後戻りはできない。


(私は、お嬢様の傍にいたい。それだけでいい)


 答えが出るまで、そう長くはかからなかった。メアは大きく息を吸い込み、それを吐き出すのと同時に、表情を作り替えた。


「――お嬢様。オヤツの果実をお持ちしました♪」


 先ほどと同じ台詞を、今度こそ完成させて、メアは言い切った。声だけは、いつも通り朗らかだった。だが目は明らかに笑っていない。焦げた匂いにも、床にうっすら張った霜にも、もう一切触れようとしなかった。


 リゼルは、恐る恐る指をひとつ、焦げた寝具へ向けた。それから、じっとメアの顔を見上げる。言葉にはならなかったが、その視線だけで何を問いたいかは明らかだった。メアの肩が、びくりと跳ねる。


「い、いいえ、お嬢様! 何も見ておりません!」


 誰にも聞かれていないのに、慌てて先回りして答える。食い気味とすら言える速さだった。


「メアは、お嬢様がいつも通り可憐で、お可愛らしいお顔をなさっているのを見ただけでございます。え

え、それだけでございます」


 リゼルは疑わしげにメアを見上げた。首を小さく傾げ、じっと目で問う。「本当にか?」とでも言いたげな視線だった。


 その無言の眼差しだけで、メアはさらに追い詰められたようだった。


「は、はい! それはもう、輝かんばかりのお可愛らしさでございました! 嘘は申しておりません!」


 リゼルは、くん、と鼻を鳴らしてみせた。それから、片方の手で自分の鼻を指し、次いでメアの持つトレイの方を指す。


「におい」


「こ、これは果実の甘い匂いでございます! 焦げ……いえ、なんでもございません!」


 自分で自分の言葉に慌てたように、メアは一段と早口になった。リゼルは今度は床を指差した。まだ乾ききっていない霜の名残に、じっと目を向ける。


「ゆか」


 メアはその視線から逃げるように、わざとらしく顔を逸らしながらティーポットを掴んだ。そして、故意にその中身を床へこぼす。とぷん、と間の抜けた音を立てて、お茶が床に広がっていく。


 この魔界の貴族家のしきたりは厳しい。失敗=即処刑という、実に非生産的な掟を今なお課しているカビの生えた家も少なくない。それを知らないメアではないはずだった。だというのに、この侍女は、そんなリスクを自ら背負ってまで、リゼルを庇おうとしている。


「あ……お茶をこぼしましてございます。わたくしの不注意にございます。申し訳ございません。いかなる処罰も、頂戴する所存にございます」


 誰も咎めていないのに、勝手に懺悔まで始める始末だった。声は微かに震え、トレイを持つ手も心なしか強張っている。それでも一歩も引かない構えだけは、妙に堂に入っていた。


(おぉ、メアの私への忠誠心がインフレだ。なんかあったのか?)


 メアはそのままトレイをテーブルに置くと、努めて平静な足取りで寝台へと近づいた。果実の皿をリゼルの前に差し出しながら、ふと口を開く。


「お嬢様、お怪我や、火傷などは――」


 言いかけて、メアの顔から一瞬で血の気が引いた。


「――ございませんね! もちろん! 聞くまでもないことでした! わたくしとしたことが、何を口走って……」


 自分の失言に自分で気づき、慌てて上書きしようとするが、遅かった。リゼルは片眉を上げ、じっとメアを見上げたまま、自分の手の甲を指でとんとんと叩いてみせた。


「やけど?」


「い、言っておりません。何も。断じて」


 メアは自分の口を両手で覆った。もう遅い仕草だった。


「……お嬢様は、いつでもどこかしら火傷をなさっていそうな、そういう包括的な、日頃からの心配でございまして……いえ、我ながら、何を申し上げているのか分かりません」


 言い訳を重ねれば重ねるほど、自分でも収拾がつかなくなっているようだった。リゼルは、その説明の意味をうまく飲み込めなかった。ただ、なんだかおかしいということだけは分かった。


「わかんない」


 小さく首を横に振り、それ以上は追及しなかった。


 その沈黙にすら、メアは勝手に打ちのめされたらしい。がっくりと肩を落とし、それでも視線だけは頑なに床の霜へ向けようとしなかった。


(……もういいか)


 これ以上追及しても、メアが墓穴を掘り続けるだけだとリゼルは悟った。焦げた匂いの理由も、床の霜の理由も、結局どちらも言葉にはならないまま、二人の間に転がされた。


 メアはほっとしたように肩の力を抜き、それから思い出したように、寝具の焦げ跡へちらりと目を向けた。すぐにまた視線を逸らす。見てはいけないと分かっていながら、つい確認してしまう――そんな仕草だった。


「……お嬢様、シーツと床は、後ほどお取替えいたしますね。何があったかは、聞きません」


 リゼルは、こくりと頷いた。


「うん」


 あまりにも素直な頷きに、メアは一瞬、毒気を抜かれたような顔をした。それから、果実の皿をそっとリゼルの膝の上へ寄せる。


「お嬢様。果実、みずみずしいうちにどうぞ」


 リゼルは小さな手で柔らかく切り分けられた果実をひとつ摘まみ、口に運んだ。甘さが口の中に広がる。数分前まで、この部屋には爆発寸前の魔力が渦巻いていたとは思えないほど、静かな午後だった。


(……こいつ)


 本気で見なかったことにする気らしい。問い詰めれば、この誤魔化しなど一瞬で崩れるだろう。だが、あえてそれをしなかった。メアは、リゼルが何か途方もないものを抱えていることに、もう気づいている。それでも「見なかった」と言い張ることを選んだ。


(変な奴)


 リゼルはそう思いながら、もうひとつ果実に手を伸ばした。今度はメアの分も一緒に、皿ごと差し出す。


「……よろしいのですか?」


「うん」


 メアは少し驚いた顔をしたあと、遠慮がちに果実をひとつ受け取った。二人並んで寝台の端に腰掛け、しばらく無言で果実を頬張る。焦げた匂いは、いつの間にか果実の甘い匂いに紛れて、ほとんど分からなくなっていた。


「お嬢様。……今度、何かなさる時は、わたくしがいる時になさってください。見なかったことにするのは、今日だけで十分でございます」


 その言葉には、咎める響きはなかった。ただ、少しだけ疲れたような、それでいて確かな願いが滲んでいた。


 リゼルは果実を頬張ったまま、曖昧に首を傾げてみせた。返事とも言えない返事だった。


「お約束、していただけますか?」


 リゼルはもう一度、同じように首を傾げた。都合の悪い質問には答えない。そういうところは、2歳児らしくもあり、同時にひどく大人びてもいた。メアはそれ以上追及せず、ただ小さく苦笑した。


 窓の外では、午後の陽が傾き始めていた。カサンドラの用件がまだ続いているのか、部屋を覗きにくる者は他に誰もいない。二人だけの静かな部屋に、果実を咀嚼する小さな音だけが、しばらく響いていた。


 二人の間に、触れてはいけない小さな秘密が、また一つ増えた。



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